自己を実現するために必要なことのすべては、静かに在ることである。それ以上簡単なことがあるだろうか。アートマ・ヴィディヤ(自己探究)はだから、最も簡単な道である。 ~ラマナ・マハルシ
精神世界の探求とは、自分のポケットの中のダイヤモンドを探して、この世界を旅して求め続ける壮大なプロセス。
長くて苦しい、ものすごい旅だけど、実は、探し求めるダイヤモンドは自分のポケットに入っている。というより、はっきり言って、自分自身がそれなのだ。でも、それが簡単に分かるなら苦労はない。なかなか分からないから、人生はおもしろい・・・(?)
それはともかく、マハルシの話の中では、「身体を自分と同一視する」というのが、誤った見方として、たびたび登場する。でも、この「同一視」って、どういうこと?
世間の一般人は、当然に身体が自分だと思っている。ここは普通に生きてる分には、何も疑問を感じないところだ。スピリチュアルに関心がある人なら、身体とは別に「霊魂」があると考える。身体という、この世での乗り舟に、霊魂が転生して人間になっているとする。
ただ、ここが正統派の、というより、上級者向けのインド思想では微妙なところ。「霊魂」を、どのように取り扱うか。仏教でも、アドヴァイタ哲学でも、クリシュナムルティでもそうなんだけど、「人は死ねばどうなるんでしょうか?」という素朴な質問に対して、彼らの回答はいつも明確でない。いや、言葉は明快なんだけど、実際のところ死後は具体的にどうなるのかが、俗人にはイマイチはっきりしないような答え方をするのが共通する特徴だ。
明快な答えを聞きたければ、霊能者とか、新興宗教の教祖のところに行くのが一番てっとりばやい。「人は死ねば、あの世に行くのです」とか、「生まれ変わり、死に変わり、永遠の輪廻転生を続けていくのです」とかなんとか、キッパリと保証してくれることは請け合いだ。もちろん、それが悪いというわけじゃないし、それはそれで良いんだけど。それでも、多少の安心感は得られる。人によっては、絶対的な安心感が得られることもある。だから、いちがいに否定はできない。
でも、このインド思想の伝統の中では、それは好まれない。というのも、「ボクは、なるべく長生きしたいなあ」というのでさえ、自我への執着であり、好ましくないのである。ましてや、「ボクは、死んでからも永遠に生きていたいなあ」というのは、人間の分を超えた自我への執着であり、さらに好ましくない。だから、「人は、死ねば天国で永遠の生命を得るのです」というような話は、まず出てこない。
だからといって、じゃあ、「人は死ねば無になる。だから、生きてる間は精一杯に生きよう」というのがいいかというと、そういうわけでもない。
この身体の死をもってして、自分の終わりと見なす。それこそ、「自分を身体と同一視している」ということになる。この身体が生まれたことを、自分の始まりと思い、この身体が老化したことをもって、自分が衰えたと思う。そして、この身体の死をもって、自分の終わりとする。まあ、人間としては自然ではあるんだけど、これは好まれない。一見、自我への執着を捨ててサッパリと未練がない考え方に見えるけど、やっぱり、これも好まれない。
上記の2つの考え方、つまり、「人は死後も生き続ける」とか、「人は死後は無になる」というのは、両方とも良くない。でも、どちらも同じくらい良くないのかといったら、そういうわけでもない。そこには、おのずから優先順位というものがある。
端的にいって、後者の「人は死後は無になる」という考え方、これのほうが絶対にダメなのだ。「自分を身体と同一視する」ということこそ、修行者がまず最初に捨てるべき誤った考え方だというのに、身体の死をもって自分の終わりと見なすことなど許されるはずもない。これに比べたら、前者の「ボクは死んでも生きていたいなあ」は、未練がましくて見苦しいとはいうものの、まだしも害が少ない。
「人は死後にどうなるのか?」という問いは、単純なようでいて、このような重大な問題を含んでいる。この問いに、俗人が満足するような明快な回答を得られないのも仕方がない。
「じゃあ、どうすりゃいいの?」ということになるのだが、結局のところ、この問題に答えはない。この2つのどちらでもない、一段上のステージに上がる必要がある。高次の自我、すなわち「真我」に目覚めるしかない・・・。
それにしても、話はまたまた脱線するけど、現代の精神医学には、「離人症」というものがある。なんと、「自分が他人のように思える」という、精神障害の一種だというのだ。離人症にかかった人は、強度のストレスにさらされて自我が崩壊する危機に瀕したとき、急にボンヤリしてしまうという。そして、自分が自分じゃないように感じ、その場から心が離れる。これは、「自分を身体と同一視しない」ということへの、強力なステップになるかもしれない。
筆者が「離人症」で検索してヒットした、とある心理学のブログによると、
>さて、前置きが長くなりましたが、今回のテーマである、disidentification (脱同一視化)という概念はここから一段上のものです。
>自分が大切だから、自己愛が強すぎるから、人間は極度に怒ったり悲しくなったり傷ついたり、あらゆる負の感情を経験するわけですが、そういう時、 人は、自分自身の感情や自らの置かれた状況を客観視できなくなっています。心の余裕がなくなってしまっています。
>この生きづらい状況からうまく脱出する方法は、「自分自身をその状況から少し引き剥がしてみる」ことです。これが、「自分との距離」、つまり 「脱同一視」だけれど、言ってみれば、自分と自分の取り巻く人々や状況を、もう一人の自分が上から静かに観察することでもあります(このためのテクニックとして、少し前に紹介した12個の『認知のゆがみ』について自覚することも効果的です)。
>まるであたかも、物語でも見ているかのように、自分自身を「観察」してみます。
>この「脱同一視」とよく似た現象で、精神病理の症状に、「離人症」(Depersonalization)というものがあります。これは、「自分が自分でない様に感じる」 、「自分の経験していることがまるであたかも他人のしていることのように感じる」という自我の脆弱性に起因するもので、「解離性障害」と呼ばれる精神障害のひとつです。ここで、精神病理である 「離人症」と、健全な「脱同一視」の大きな違いは、そこに「Awareness:自覚と気付き」 が存在するかどうかです。
(引用ここまで)
う~ん、なんとも恐るべし、「離人症」。
精神疾患を軽く見るわけにもいかないが、おそらく、本来の「脱同一視」に目覚めつつある人が、周囲の人々に理解されず、このような病名をつけられてしまったケースもあるんじゃなかろうか。いや、そんなことないか・・・。「離人症」をよく知らないのに、勝手な憶測を述べてすいませんでした。
それはともかく、真我を覆い隠して見えなくしている、この世での仮りの人格、すなわち偽我。なんとも、困った存在だ。これを乗り越えるのは、物質世界に生きる人間にとって難しい。
(つづく)