宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

観察する瞑想で、知覚を拡大する

2014年04月21日 | ヴィパッサナー瞑想
スザンヌ・リー

スザンヌ・リーさんという人が、観察の瞑想の意義について、シンプルに解説している。RIEKOさんの翻訳もアチコチでコピペされてネット上に流布している(元ネタのリンク不明)。


>多次元マインドを三次元脳に合わせて調整を行うと、私達の意識、つまり知覚は大きく拡大します。

>私達の拡大知覚が目覚めると、身体の五感の限界によってとどめられていた大量の情報が表面化して私達の気づきに現れ、現実が透明化します。

>日常でこの「全てを知っている」状態にいると、制限や分離といった残存している幻想が解体してゆきます。

>日常で私達が特別な才能を発揮するように、拡大した知覚は強化され、日常意識にオンライン化します。

>こういった拡大知覚は、私達の真なる多次元的本質が元々持っているものです。

>それが理解できず、恐怖心から判断を下す人々が出てきます。

>このように他人から判断を下されることがなければ、多くの人々が拡大知覚を隠すこともなくオープンに使うことができることでしょう。

>幸い、どんどん人々は目覚めていますので、そういった判断が下されることが少なくなってきました。

>ですから私達の中からこの新たに活性化された、この長らく隠されていた知覚能力を使う人が増えてきています。


これによると、スピリチュアルな目覚めとは、「知覚の拡大」なんだそうな。日常生活で使っている五感とは異なる、拡大された知覚。いままで、超能力とも、観自在力とも言われてきた能力だ。

それによると、この新たな知覚は、自分の身体の中の微細な感覚を、念入りに観察することで得られるらしい。

「新たな知覚を得る」というより、むしろ逆で、「もともと持っていた、古い知覚を思い出す」という感じ。


>この生来持っているサイキックな知覚を取り戻す一番の秘訣は、私達のマインドやハート、身体の内で囁きかけてくる静かで小さな声に耳を傾けること。

>私達は聞き、見、感じ、匂い、触れるものについての情報を得るために肉体の五感を使います。

>そして高次意識の拡大した振動に共鳴する情報についても、肉体が教えてくれます。

>覚えておいてください、私達は単に意識を上昇させるのではありません。意識を拡大させるのです。

>意識、思考、期待、知覚を拡大させると情報がやってきます。
 
  
  
・・・これは、実にシンプルに要点がまとまっている。
  
「念入りに観察する」ったって、なにが目的でそうするのかは、なかなか分かりにくい。

ここでいう、「私達のマインドやハート、身体の内で囁きかけてくる静かで小さな声に耳を傾ける」というのは、まさに、そのものズバリという感じだ。

「静かで小さな声に耳を傾ける」ためには、まず、まわりでワイワイガヤガヤ言っている、周囲の雑音を封じなければいけない。思考を停止するのは、そのため。意識の中では、「思考」こそが、おしゃべりの雑音なのだ。だから、まずは、それを止める。
 
そうすると、「静かで小さな声」が、かすかに聴こえてくるようになる・・・。それによって、眠っているサイキックな聴覚を呼び起こす。
 
サイキックな感覚というのは、肉体の五感のように粗雑ではなく、とても微細なもの。だから、真昼のまぶしい太陽の光に隠れて、いつもは夜空の星が見えないように、ふだんは眠って使えなくなっている・・・というのが、ルドルフ・シュタイナーもしきりに強調するところだった。
 
ここは、ギラギラする太陽を、いったん地平線の向こうに沈めなければいけない。つまり、日常の強力な思考とか感情とか、その他もろもろを、いったんは消し去ってしまう。夜空にまたたく美しい星を探すのは、それからだ・・・。
 
「観察する瞑想」というのは、ひらたく言えば、そういうことでした。
 

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マインドフルネス瞑想 その3

2014年04月21日 | ヴィパッサナー瞑想
    
アメリカで広がっている「マインドフルネス瞑想」は、日本で「ヴィパッサナー瞑想」として数年前から流行しているものと、内容がだいたい一緒。創始者はアメリカ人だけど、日本の禅、とくに鈴木大拙の影響を受けたという。
  
ただし、アメリカでは、どちらかといえば「心理療法」として注目されているようだ。つまり、ウツ病とか、パニック障害とか、そういう人がアメリカには多いので(・・・まあ、それはアメリカに限ったことじゃないが)、それを瞑想によって治療する。
  
クスリに頼った精神医学には、限界と副作用がある。これは、たしかに注目すべき動きだろう。
  
もっとも、それだけではない。大学や企業で導入されているのは、集中力や注意力を強化して、ビジネスマンとしての能力を高めることを重視している。つまり、単なる「ストレス解消」というようなものに限定されるわけではない。こうした人々は、もっとポジティブに、プラス効果を目指している。
    
スポーツが、身体の鍛錬に役立つことは広く知られている。勉強が、知性の鍛錬に役立つことも、同じようによく知られている。
  
それに比べて、瞑想が意識の鍛錬に役立つことは、あまり認識されていない。どうも、「世捨て人が洞窟の中でやること」というような、浮世離れしたイメージが強いようだ。
    
瞑想の意義が広く知れ渡ってくれば、世の中は大きく変わるだろう。精神世界関係者が活躍する場も、ずっと広がるに違いない。「瞑想療法士」なんて認定資格を作ったところもあるみたいだけど、それが国家資格になるのは、いつの日か・・・(笑)。  
    
  
具体的にどうするのかについては、いろんなやり方があって、ひとつではない。あるサイトに載っていたやり方では、

>(1)手を前で合わせて合掌のポーズをとります。

>(2)鼻からゆっくり4秒程、息を吸い込みながら、合掌したまま手を上に押し上げていきます。

>(3)下腹部に力を込めて、両手は、上げたままで7秒程息を止めます。吸い込んだ息を全身に放散させる感じをイメージしましょう。

>(4)肺に残っている息を全部吐き切るようなイメージで、両手を広げ、8秒程かけてゆっくり下ろしながら、息を吐きます。

>(5)(1)~(4)を2~4分程、毎日繰り返します。


・・・だそうな。なんだか、ヨガの呼吸法(プラーナーヤーマ)の教科書の、最初の1ページ目に載っているような内容だ。ほかにも、いろんなところがやっているけど、だいたい似ている。それだけ、基本が大事ということだろう(笑)。

どちらにしても、なんたってメインとなるのは、「呼吸」。
 
呼吸に意識を集中することにより、雑念を排除し、過去も未来も忘れて、「いま」という一瞬に意識を集中する。 

ここで重要なのは、「継続は力なり」ということ。

瞑想しているときは、「いま」という一瞬に意識を集中することができても、日常生活に戻れば、また元に戻ってくる。地球で暮らす者の日常生活は、過去のことを忘れたり、未来の計画を立てなくても生きていけるようには出来ていない。

そこをどうするか・・・というところで、マジメな人ほど悩むわけだけど、それは「当たり前」と割り切るべきだろう。

トレーニング・ジムで筋肉トレーニングをしたり、肉体労働で汗をかいたりすれば、身体は確実に強化される。重いモノを持ち上げられるようになるし、フットワークが軽くなって、身体がよく動くようになる。

でも、日常生活に戻れば、すぐ運動不足になる。職業でやってれば別だけど、そうでない場合、普通は運動不足になる。そうすると、だんだん身体がなまってくる。とことん鍛えたスポーツマンほど、いったん運動不足に陥れば、かえって劣化するのが早いということも知られている。
 
さて、どうするか・・・というわけなのだが、「また、運動する」という以外の答が、そこにあるだろうか? 

せっかく鍛えた身体が、運動不足でなまってきたら、また運動して鍛えるしかない。それでもまた、なまってきたら・・・。またまた、運動する。それ以外に、どうすることもできないのである。
 
それと同じで、せっかく瞑想で向上した意識が、日常生活でまた元に戻ってきたとしても、それに対する対策は、「また、瞑想する」という以外にない。

「それじゃ、いつまで経っても同じことじゃないの?」と思うところだけど、そうとも限らない。

トレーニングや肉体労働も、ずっと続けていれば、だんだん身体そのものが変化してくる。何ヶ月もたてば、やってない人とは、歴然と違ってくる。何年かたった頃には、「たくましいね!」といって感心されるようになるのは請け合いだ。 

それと同じように、瞑想による意識のトレーニングも、1回や2回やったくらいじゃ、すぐ元に戻るのだが、継続していれば、歴然とした違いが生じる。やがて意識そのものに大きな変化が起きてくる・・・。
 

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マインドフルネス瞑想 その2 ~ 観察する瞑想

2014年04月13日 | ヴィパッサナー瞑想
   
「集中する瞑想」の次は、「観察する瞑想」、または、「気づきの瞑想」ということになる。
 
集中する瞑想は、「サマタ瞑想」。それに対して、観察する瞑想は、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれる。
 
日本の仏教で、「止観」といわれているのも同じ。この場合は、「止」が集中する瞑想で、「観」が観察する瞑想。この2つを合わせたのが、「止観」。

この「止観」を見て、遠いスリランカから訪れたスマナサーラ長老も、「日本には、インドの仏教の本来の形が、意外なほど残っている」と、ビックリして感心することしきり。守り続けてきた千年の法灯は、ダテじゃなかった。ありがたや・・・合掌。
 
もっとも、この「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つがどう違うのかは、あまり深く考えなくてもいいみたい。たいていの場合、「まずは、意識を集中しましょう」と言って、そのまま、「次に、気づきの瞑想に入りましょう」というような調子で、切れ目なく連続している。その上、「ヴィパッサナー瞑想」という名前のほうが遥かにポピュラーなので、最近は、この2つを引っくるめて、全部をそう呼ぶことが多い。
 
前回の「なぜ、集中力を強化する必要があるのか?」に続いて、「なぜ、注意力を強化する必要があるのか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。
 
それに対する答は、「しっかり観察するため」ということになる。
 
仏教には、弟子が守るべき基準として「八正道」(はっしょうどう)というものがある。この八つの項目のうちの七番目が、「正念」(しょうねん)。
 
この正念について、かつて某宗教の教祖は、「正しい方向に向けて、念力をかけること」と解説して、仏教関係者をあきれさせたものだった。これでいくと、ユリ・ゲラーのスプーン曲げは、「正しい念力」だったのかな?
 
残念ながら、「正念」というのは、「念力」の念ではない。どちらかといえば、「念入りに準備しました」とか、「大事な書類なので、念には念を入れてチェックしましょう」というようなときの、「念」に近い。つまり、しっかりと、細部にいたるまで観察しましょう・・・ということ。

  
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

その延長上に、意識の覚醒がありますよ・・・ということになる。

まあ、確かに、眠っているときと、目覚めているときの意識の違いを考えてみれば、普通は、眠っているときのほうがボンヤリしていて、目覚めているときのほうが、ハッキリ・クッキリしているものだろう。中には「睡眠学習」が得意な人もいて、「ボクは、眠っているときのほうがアタマが冴えてるんだ」ということもあるかもしれないが、普通は、そうではない。

注意力を強化し、ひいては、観察力を研ぎ澄ませていくこと。それが、覚醒した意識へとつながっていく。


ところで、「観察」の反対語は何か?・・・という質問を受けたら、どう答えるべきだろう。
  
というのも、小学校の国語のテストには、「反対の言葉はなんですか?」というような問題がよくある。「利益」の反対は、「損失」。「勝利」の反対は、「敗北」・・・といった、よくあるタイプの問題。このあたりまでは分かりやすいんだけど、「戦争」の反対が「平和」とか、「感情」の反対が「理性」とか、「ホントにそれが反対なのかよ?」とツッコミたくなるものもある。

瞑想の世界だと、「観察」には反対の言葉がある。それは、「判断」。

たとえば、建物を見ていて、「なんだ、このボロい建築は。さっさと建て替えないと、震度3でも倒壊するぞ」・・・というようなのは、判断。そういうものを交えず、ただひたすら、あるがままに見るのが、「観察」。

犬がワンワン吠えていたり、赤ちゃんがウエーンと泣いている声を聞いて、「うるさいな」とか、「かわいいな」と思うのが、判断。ただひたすら、あるがままに聞くのが、観察。

精神世界ブログを読んでいて、「なんだ、このブロガーは。アタマ大丈夫なのか?」というのも、判断だ。「これは、良いコメントだ!」というのも、判断。
 
そうした一切の判断を交えず、ただひたすら、あるがままに受け入れるのが、「観察」ということになる。ただし、それを実行するのは難しい(笑)。
 
ルドルフ・シュタイナーの「いかにして超感覚的認識を獲得するか?」という本にも、「一切の判断をまじえない読書」というのが、有効なトレーニングとして強く推奨されていた。つまり、本とか新聞を読んで、その内容を、「正しい」とか、「まちがっている」とか、そういう判断を一切しないという訓練を、意識的に行うというのだ。
 
ここを押さえておかないと、正しい観察はできない。主観を放棄して、一切の判断を交えない・・・というのが、観察する瞑想者の目標。
 
 
(つづく)
 

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マインドフルネス瞑想 その1 ~ 集中する瞑想

2014年04月11日 | ヴィパッサナー瞑想
  
アメリカの企業や大学で取り入れられている瞑想は、「マインドフルネス瞑想」と呼ばれる。これは、「集中力と注意力を強化する瞑想」 。

「マインドフルネス」という英語には、ピッタリする日本語の訳がない。普通は「気づき」と訳される。でも、「自覚、集中、覚醒・・・」とか、そういう意味を含んでいる。これじゃ意味がわかりにくいかもしれない。

マインドフルネスの反対は、「注意力と集中力が欠如している、ぼんやりした状態」のこと。マインドフルネスとは、要するに、それとは反対の状態。
 
古代インドの昔から「サマタ瞑想」と呼ばれてきた瞑想と、とてもよく似ている。・・・ていうか、元ネタが「サマタ瞑想」のは明らか。キリスト教文明のアメリカでは、こういう仏教的なモノが、妙に歓迎されたり、逆に反発されたりする。その点、日本とは文化的な土壌が異なる。
 
とはいうものの、専門家によると、「瞑想は、マインドフルネスを実践するための手段のひとつにすぎない。瞑想のほかにも、いろんな手段がある」ということなので、マインドフルネスといっても、必ずしも瞑想とは限らないみたい。要するに、マインドフルネスとは、集中力と注意力を強化すること。

これは、うつ病の治療にも使われる。瞑想は、心の安らぎにつながる。うつ病に効果があるのは、確かだろう。でも、もっと直接に効果があるのは、注意欠陥・他動性障害(ADHD)の治療だろう。
 
ADHDは、病気ではない。単に、注意力と集中力が欠如しているだけだ。だけど、人間が日常生活を送る上では、大きなハンデになる。たとえば、山手線や大阪JR環状線の電車に乗るとき、しょっちゅう逆方向の電車に乗ってしまったり、しかも乗り過ごして引き返したり。あげくのハテは、電車の中で切符をなくして、ゴソゴソと探してみたり・・・。筆者も、かつては、これに悩まされたものだ。

何かひとつのことに向かって意識を集中することにより、極度の精神統一を図る。これは、古来から「サマタ瞑想」と呼ばれ、インドでは「ヴィパッサナー瞑想」と並ぶ、2大瞑想のひとつとされている。ADHDの人は、言ってみれば、スタートラインより50mくらい後にある地点から走り始めるようなもの。大リーグボール養成ギプスをつけて投球練習する星飛雄馬(・・・ちと古いか)みたいなもので、それだけに収穫も大きい。
  
 
・・・と、まあ、理屈をひととおり並べてみたわけだけど、なぜ、「集中力を強化することが必要なのか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。

世の中、意識を変える「気づき」の話は、いくらでもある。たとえば、精神世界の指導者の話を聴きに行き、「過去も未来もありません。いま、ここが全てなのです」と言われて、「なるほど!」と、目からウロコが落ちる。それで、悟ったような気になるのはカンタンなんだけど、多くの場合、それは「意識の覚醒」ではなく、「気分の変化」でしかない。

精神世界の話を聞いて、悟ったような気分になったところで、時間がたてば、いずれ元に戻る。スポーツと同じで、精神世界も、他人の話を聞いたくらいじゃ足りない。それを自分のモノにするためには、「訓練」が欠かせないのだ。
 
太陽光線も、そのままでは、「ポカポカと暖かいなあ」という程度でしかない(・・・まあ、真夏とか熱帯なら、かなり熱いけど)。白い紙を、外に置いておくと、変色して茶色になる。その太陽光線を、虫メガネで一点に集中すると、その中心は白銀に、まばゆく光り輝く。やがて、紙はメラメラと、炎を上げて燃え始める。

それと同じように、人間の意識が持つパワーも、マインドフルネスによって、強烈に増幅される。世間の一般人の平均的な意識とは、そのへんの蛍光灯と、レーザー光線ほどにも違ってくる。
 
重要なのは、「いま、ここ」という一瞬に、全力を集中すること。過去の反省とか、未来への希望とか、そういう余計なモノを付け加えることなく、自分の全存在を賭けて、いまという一瞬に完全集中する。まるで、剣豪・宮本武蔵の真剣勝負みたい。
 
意識を覚醒するためには、こうやって、レーザー光線のように、意識パワーを増幅することが欠かせない。

言うのはカンタンだけど、すぐには出来ない。訓練だから、時間がかかる。

たとえば、他人の話に、一心不乱に耳を傾ける。たとえ、いつも同じ話をするグチっぽい人であろうとも、幼児やオウムの片言であろうとも、じっと集中して聴く。

いつもと同じ、駅と自宅との往復であろうとも、意識を集中して歩く。そうすると、予想外に多くの気づきがある。「人間というのは、日頃は、周囲の景色や音声といった、情報の1割くらいしか取り入れていない。残りの9割については、無意識にシャットアウトしているんだな」ということが、よく分かる。

古代インドの昔から、しばしば推奨されてきた手法は、「自分の呼吸に意識を集中する」ということ。

鼻から出たり入ったりする息に、意識を集中する。「1、2、3、4・・・」と、ゆっくり息を数えてみたり。なんの意味もないものだから、雑念が起きない。スマナサーラ長老たちがやっている「ヴィパッサナー瞑想」のセミナーでは、「息を吸ってます。いま、吐きました」という風に、実況中継したりする。

やり方はいろいろあるだろうけど、意識を集中することに変わりはない。

「いまという一瞬に集中する」というと、マジメな人ほど、「いま現在、取り組んでいる仕事や勉強に一生懸命、取り組むことだ」というような意味に取りやすい。でも、むしろ逆に、そういう社会的に有意義なことよりも、「鼻から出たり入ったりする息」というような、意味のないことに集中したほうが、より効果が高いのである。

「いまという一瞬に集中する」というのと、「いま、やっていることに集中する」というのとは、似てるけど、ちょっと違う。何かに取り組んでいる必要は、特にない。むしろ、一番いいのは、何もせず、ジッとしているときだろう。

(つづく)


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アメリカの企業で、瞑想が導入されている

2014年04月10日 | ヴィパッサナー瞑想
  
アメリカは、やっぱり世界最先端の地だ。いまさらアメリカを称賛したところで、どうなるってものでもないけど、いまの地球で文明が最も進んでいるのは確実で、そこは認めるしかない。

海外ドラマ・ファンの筆者にとっては、ドラマを見るたびに、それをシミジミ実感する。韓国ドラマや台湾ドラマを見たあとで、アメリカのドラマを見ると、現代モノでも、まるでSFみたいに感じられる。学校も、職場も、病院も・・・。いろんな面で、ほとんど未来社会のような印象を受けるのだ。もちろん、どこの国でもドラマと現実は違うから、そこは均等に割り引くしかないんだが(笑)。でも、おおむね、当たらずとも遠からず。
 
そんなアメリカでは、企業に、瞑想を導入する動きが広がっている。

特に、西海岸のIT企業では顕著なようだ。もともと、かの高名なる故・スティーブ・ジョブズを初めとして、この手の企業を創業する人たちは、いわゆる「ヒッピー文化」みたいなものに染まっている。これは、ニューエイジャーの領域。インド人の導師の下で瞑想したりとか、もともと、そういうことが大好きな人たちだ。

いま、最も注目されるIT企業といえば、やっぱり、グーグルだろう。グーグルのアンドロイドは、世界の多くのスマホやタブレットに搭載されている。急速に普及するタブレットは、ノートPCに並ぶ勢いで、長らく君臨してきたマイクロソフト・ウィンドウズの天下を脅かしている。ビル・ゲイツの片腕として有名なマイクロソフトのバルマー元社長も、「10年前に戻れるのなら、やり直したい」と、妙に弱気なことを言ってるらしい。これから、ウィンドウズは、マウス中心の入力方法から、タッチパネル中心の操作へと切り替えていくんだとか。

そんな、動きが激しいシリコンバレーのIT業界。いつもスピード違反で暴走しているような、なんともキツい世界だ。強烈なプレッシャーとストレスがある。だから、心の安らぎが必要。
 
そこで、瞑想というわけだろう。
  
グーグルでは、「マインドフルネス瞑想」の社内セミナーが、定期的に実施されているらしい。マインドフルネス瞑想ってのは、注意力と集中力を強化する、「気づき」の瞑想。本ブログでもたびたび取り上げてきた「ヴィパッサナー瞑想」と、呼び名は違うけど、まあ、内容はだいたい同じようなものと言ってよい。

マインドフルネス瞑想については、また改めて取り上げるとして、注目されるのは、グーグルを初めとする多くの企業で導入されていること。

ハフィントン・ポストの記事によると、

>Google社やデパートチェーンのTarget社、そして大手食品メーカーGeneral Mills社に共通するものは何か、ご存知だろうか。

>それは瞑想だ。

>東洋を起源とする瞑想の技術、「マインドフルネス」(気づき)のトレーニングを導入する大企業が増えている。
 

グーグルでは、「自分の心をなかを検索する(Search Inside Yourself)」と名付けられたマインドフルネスのコースを実施し、これまでに1000人以上の従業員が受講しているという。

D.I.Y (ドゥー・イット・ユアセルフ)ならぬ、S.I.Y (サーチ・インサイド・ユアセルフ)だ。

ワールド・ワイド・ウェブの中を検索する代わりに、自分の心の中を検索するというわけ。

ニューヨーク・タイムズの記事(英文)によると、この瞑想コースを始めたのは、Chade-Meng Tan という名前の、シンガポール人だそうな。

シンガポールで生まれ育ち、アメリカ西海岸の大学を卒業したTan氏は、創業まもないグーグルに入社し、厳しい荒波の中を生き延びてきた。そんな中で始めた、マインドフルネス瞑想のトレーニング・コース。受講者の口コミで広がり、すでに1000人以上の社員が受講した。いまも、ウェイティング・リストはいっぱいだという。

さらに、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事(英文)によれば、欧米のいくつかの著名な大学の、MBA(経営学修士)コースで、マインドフルネス瞑想が取り入れられている。

瞑想には、意識を覚醒させる効果があるのは、もちろんなんだけど、それだけでなく、現実世界を生きる上でも、まちがいなく高い効用がある。

世間の一般人は、スポーツで体を訓練することや、勉強で頭を訓練することの重要性については広く認識している。でも、瞑想によって心を訓練することの重要性までは、まだ十分に認知されていない。

「瞑想」ってものに対して、あまりにも浮世離れしたイメージを持っている人が多い。

でも、マインドフルネス瞑想をやれば、集中力や注意力を初めとする、日常生活を送る上でも重要な能力が、確実に強化されるのは請け合い。見落とされがちだけど、そこは重要なポイントだ。
  
筆者も、もっと前からやっていれば・・・と後悔することしきり。というのも、人間が日常生活を送る上で大切な、集中力や注意力その他が、かつては、とても不足していたからだ。そのせいで、この人生における苦労がどれだけ増えたかは見当もつかない。もっと早く、瞑想トレーニングの重要性に気づいていれば、人生がまったく違うものになったことだろう。いまさら言っても仕方がないことだけど・・・(笑)。
 
(つづく)
  

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アメリカの刑務所で、瞑想が導入されている

2014年04月08日 | ヴィパッサナー瞑想


産経ニュース

 
世界に冠たる犯罪大国・アメリカ。あまりにも犯罪者が多すぎるおかげで、刑務所がパンクして、ものすごく困っている。最近は、刑務所の管理運営を民間に委託するという、民間活力の導入(?)まで実施されている。
 
そんなアメリカで、注目すべき動きが起きている。なんと、刑務所に「瞑想」が導入されているというのだ。記事にいわく、
 
>高圧電流が流れる鉄条網、周囲を威圧する高い白壁-。ニューハンプシャー州ベルリンにある州立刑務所に足を踏み入れると、刑務官の先導で食堂に移動中だった20人ほどの受刑者から、一斉に鋭い視線を浴びせられた。

>刑務所奥に向かうと、冷たいコンクリートで覆われた静謐な空間にたどり着いた。瞑想の場で、刑務官1人とセラピストら女性2人のほか、緑色の囚人服を着た9人の姿があった。

>「呼吸に集中して。そして、長く、短く、深く、浅く、息をして」-

>殺人犯やレイプ犯、腕に入れ墨を持つ者、スキンヘッドの者など8人に静かな声で指示していたのは、殺人罪で終身刑となったシェーン・ピット受刑者(41)。いずれも静かに目を閉じ、石のように動かない。座禅を組む者もいた。


刑務所の中で、一心不乱に瞑想する人々。いかにもテレビドラマの悪役として出てきそうな、入れ墨やスキンヘッドをした、凶悪なご面相の人たちだ。彼らは、殺人犯やレイプ犯といった、ホンモノの凶悪犯罪者。とても荒々しい、闘争的な人生を送ってきた。かなり、心がすさんでいる。そういう人たちが、瞑想して変わってきた。
 
>効果は徐々に表れている。ある受刑者(41)は「幼少時から心に巣くっていた『邪悪』と向かい会えるようになった。刑務所が人生を変えた」と話す。

瞑想して心を鎮めたおかげで、精神安定剤のお世話にならなくてすむ人が続出。ただでさえ、受刑者が多すぎて予算がパンクしている刑務所にとっては、クスリ代を節約できて大喜びだ。

中には、「瞑想教育を受けた者の再犯率が50%減少する」という結果も出た刑務所もあるというから、瞑想の効果は、まさにオドロキ。

瞑想して、雑念を排除し、意識を集中する。クリアな心境の中で、闘争心は薄れ、エゴが消えていく。小さなコップの中の水のようだった自我意識が、宇宙意識という大いなる海の中に溶けていき、見えなくなっていく。

受刑者たちは、並はずれて過酷な人生を送ってきた。希望のない日々をすごしてきたおかげで、一種の諦観に達している。それだけに、心境の変化も早い。
  
でも、ブーブー文句を言い出す人が、どこの世界にもいるものだ。アメリカの中でも、南部はとくに、キリスト教の精神的な影響が強い。

怒り出したのは、キリスト教の牧師だった。イエス・キリストの教えを信じて悔い改めるべき受刑者たちを、「仏教に改宗させるつもりか?」という反発が起きてきたという。
  
だが、それは問題ないと思われる。瞑想して、しかもキリスト教を信じればいいだけ・・・としか思えないのだが(笑)。
 

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「観察の瞑想」の威力

2013年06月01日 | ヴィパッサナー瞑想

ヴィパッサナー瞑想は、インド式の瞑想法。それは、集中力と注意力の瞑想だ。すべての知覚力を動員して、自分自身を観察する。

日本では、瞑想といえば「洗心」、つまり、「心のケガレを落として、洗い清める」というのを連想する人が多い。それは、日本の神道の発想だ。


インド式は、発想がちょっと違う。もちろん、お釈迦さまもその一人。

インド式の瞑想は、「観察」の瞑想。ヴィパッサナー瞑想では、特に念入りに観察する。

ヴィパッサナー瞑想では、自分自身の呼吸を観察することが多い。これは、意識を集中しやすいからってのもあるけど、それ以上に、「精神が乱れると、呼吸が乱れるから」というところにポイントがある。

怒ると、呼吸が乱れるだけではない。心拍とか、脈拍も乱れる。それを観察して、敏感にキャッチしましょう・・・というところに、もともと、この瞑想の主眼があった。

これは、考えたものだ。怒ってるときは、自分自身が冷静さを失っているんだから、自分の心を観察しようったって難しい。

その点、呼吸や心拍、脈拍その他(・・・上級者なら、脳波も?)を観察するのは、客観的な自己評価につながる。

徹底して、これに取り組んでいると、だんだん、自分を客観的に観察するのがクセになり、自我意識に変化が生じてくる・・・。


昔のインドの瞑想者たちは、このようにして自分自身の身体を観察することにより、チャクラを次々に発見した。

チャクラというのは、ちゃんと医学的な根拠がある。頭部のチャクラなら、脳下垂体や松果体。おなかのマニピュラ・チャクラなら、太陽神経叢や副腎。そういう、内分泌系や自律神経系の、コアとなる小器官があるところに、チャクラはある。

でも、それは現代人だからそう言えるんであって、古代インド人に、そんな医学・生物学の知識があったはずはない。脳下垂体とか松果体とかは、グリーンピースくらいに小さくて、これがそんなに重要な役割を果たしているとは、解剖したって分からない。

それぞれのチャクラは、瞑想によって発見されたものだ。

それが、妙に当たっている。たとえば、おなかの奥のほうにある「副腎」(ふくじん)からは「アドレナリン」が出てるけど、このアドレナリンは、緊張したときに体がこわばったり、鳥肌が立ったり、冷や汗が出たりする原因の物質。

なぜかインドでは、おなかのマニピュラ・チャクラが、「恐怖」や「自信」と結びつけられてきた。マニピュラ・チャクラが発達した人は、自信を身につけ、自我が確立される。アドレナリンの化学的な作用なんて、大昔の人に分かるワケないんだけど、ここが恐怖と不安の源泉であることは、なぜか見抜かれた。

ノドにある「甲状腺」も、高齢化社会を迎えて、病院の検査で「アナタは、甲状腺ホルモンが不足しています」と言われる人が増えたおかげで、知名度が上がっている。では、甲状腺ホルモンが足りなくなると、どうなるのか。それは、「皮膚の細胞の新陳代謝が起きなくなり、声もしわがれて、急速に老け込んでくる」という、とても要注意な状況なのだ。

これまた、インドでは、ノドのチャクラが「若さを維持するために重要だ」と言われてきたのと一致する。こんなところにある甲状腺が、全身の細胞の新陳代謝をコントロールしているとは奇想天外な事実で、大昔の人に分かるワケないんだけど、なぜか、ここに若さの源泉があるのは見抜かれた。


観察の瞑想を極めれば、どれだけの切れ味を発揮するのかは、これを見ただけでも分かる。

もっとも、現代人は、とてもそんなに瞑想三昧の人生を送るわけにもいかない。まずは、人体の図版を見てチャクラの位置をしっかり把握することからスタート。先人の知恵を利用して、最短距離でクンダリニー瞑想だ!?





カラーパの発見

2013年03月13日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想によって、集中力と注意力を徹底的に強化する(・・・厳密に言えば、集中力を強化するのはヴィパッサナー瞑想というより、サマタ瞑想なのだが)。

「それによって、何が得られるの?」という疑問を持たれる向きもあるだろう。

ここで言えるのは、少なくとも、「注意欠陥・多動性障害」(ADHD)には確実に効果があるということだ。特に「ラベリング」などは、「ADHDの治療をするための訓練法なんじゃないか?」と思えるほど。

逆に言えば、根気がなく、常に思考が四方八方に飛びまくる注意欠陥が、いかに意識覚醒のさまたげになるかということだろう。覚醒するためにも、まずは注意力強化の訓練が必要だ・・・。

でも、もちろん、この瞑想にはそれ以上の意味がある。

「真理」とは、本来、他人から教えられるものではない。観察力を研ぎ澄ますことによって、自分で見抜くものなのである。

とは言っても、最初から最後まで自力で行こうとするのは、あまりに極端な飛躍というもの。まずは、お釈迦さまの教えをせっせと学んで記憶するという、学習のプロセスが不可欠だ。瞑想と学習は車の両輪で、どちらが欠けても良くない。

それはともかく、極限まで研ぎ澄まされた観察力によって、人間(・・・特に自分自身)を観察する。そこに、真理がおのずから姿を現してくる。その先には、いわゆる「観自在力」が待っている・・・。

そうは言っても、もちろん、観察力にはレベルの違いがある。究極の真理を見抜くためには、究極の観察力が必要になるけど、そこまで行かなくても、中くらいの観察力をもってすれば、中くらいの真理なら見抜くことができる(笑)。

ウィリアム・ハート著「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」から、この辺りのことを引用してみる。


>物質は一瞬一瞬、たえず変化しています。このことをブッダは自分のからだを観察して悟りました。するどく精神を集中させて自分の本質を見すえ、すべての物質が極小の微粒子からできていて、その微粒子がたえまなく生まれては消える、という事実を発見したのです。指をパチンと鳴らした瞬間、目をまばたいた瞬間、一個の微粒子が何兆回も生まれては消えている、とブッダは言います。

>感覚は四六時中からだに生じている。心であれ、からだであれ、なにかが接触すれば感覚が生まれる。からだのなかで起こる生化学反応はすべて感覚を引き起こす。日常生活では意識の焦点がぼんやりしていて、全部の感覚を気づくことはできない。強い感覚しか気づかない。しかし、アーナーパーナ・サティ(註・・・呼吸に意識を集中すること)の修行をして心をとぎすまし、気づきの力を鋭敏にすれば、自分の内なるすべての感覚をあざやかに意識できるようになるだろう。

>根気よく瞑想を続けていると、やがてある基本的な事実に気づく。感覚がたえず変化する、ということである。一瞬一瞬、からだじゅうになんらかの感覚が生じ、変化する。すべての感覚が変化のあかしなのである。電磁気的、生化学的な反応など、からだのあらゆる部分で、一瞬一瞬、変化が起こっている。さらに、それ以上のスピードで心のプロセスが変化し、それがからだの変化となってあらわれる。

>これが心と物の究極の現実である。精神と物質はたえず変化している。無常、アニッチャである。一瞬一瞬、からだを構成している微粒子が生まれては消える。


長~い文章を、飛び飛びに抜粋して引用したけど、要するに、お釈迦さまの悟りの内容として有名な「諸行無常」・「諸法無我」・「苦集滅道」・・・その他は、誰か高次元の存在が現れて、啓示してくれたというわけではない。ヴィパッサナー瞑想により、釈迦自身の観察力を強化した結果、おのずから見えてきたのである。

上記のような、からだを構成している微粒子のことを、「カラーパ」と呼ぶ。

・・・というと、「釈迦はギリシャのデモクリトスみたいな原子論者だったのか」と思えるけど、カラーパは、原子よりもっと小さい。

カラーパは、一瞬一瞬、とてつもないスピードで生まれては消える。それがこの世界のすべてを形成しているのだから、世界全体が明滅しており、不連続だということになる。当然、人間も連続しておらず、コマ送りのような存在。

仏教思想やインド哲学に慣れ親しんできた人にとって、これらはオナジミの考え方ばかりだ。

でも、ここで言われているのは、釈迦がそれを発見したプロセス。それが、ヴィパッサナー瞑想。

それを追体験しましょうよ・・・というわけなんだけど、瞑想にすべての時間とエネルギーを集中するというのは、現代人にはまず無理なこと。ここは、できる範囲で取り組むしかないだろう・・・。

サティ

2013年03月10日 | ヴィパッサナー瞑想
  
日本では、座禅の伝統が長い。かくいう筆者も、小学生の頃から禅寺で座禅を組み、お経を暗誦していた。このため、日本人にとって「瞑想」と言えば、「座ってジッとしていること」というイメージを持っている人が多い。
  
でも、インド式の瞑想では、立ったり、歩いたりする瞑想も重要だ。
 
筆者がDVD教材で集中学習した「グリーンヒル瞑想研究所」のサイトによると、
 
>ヴィパッサナー瞑想は、まず体の動きに気づくことから始めます。心の現象よりも体の動きの方が簡単に気づけるからです。

>目的は、妄想を離れることです。妄想は止めようと思っても止められません。何を見ても聞いても必ず連想や妄想が浮かんでしまうので、一瞬々々の体の動作に注意を釘づけにしてしまうのです。

>体が動く。センセーション(身体的実感)が生じる。それを感じる。気づきを入れる。この「気づき」を修行用語として「サティ:Sati」と言います。現在の瞬間を捉える心です。ヴィパッサナー瞑想のキーワードなので、覚えましょう。

>このSati(気づき)を徹底的に連続させていくのが、妄想に巻き込まれない技術なのです。体が動いている実感は過去や未来のことではなく、今のことです。一瞬々々感じた体感に気づいていけば、妄想しないですむのです。体の動作を中心に随観していくので『身随観』とも言います。
 

連続してサティを入れること。ヴィパッサナー瞑想には、やり方がいろいろあるけど、これについては共通している。

サティは、日本語で言えば、「気づき」ということになる。もっとも、昔は、漢字で「念」と訳されていた。八正道の七番目・「正念」(しょうねん)というのが、それに当たる。

サティの訳語として「念」があまり使われなくなったのは、この漢字が、しばしば誤解を招くからだろう。たとえば、前にも書いたけど、ある教祖は「正念」を、「念とは、思いのパワーです。正念とは、正しい思いのパワーを集中することなのです」という風に説明していた。要するに、「正しく念力をかけること」というワケだ。でも、残念ながら、そういう意味ではない。

カン違いや忘れ物をしても気づかないことを、サラリーマン用語で「うっかり、失念しておりました」と言うけど、ここでの「念」は、どちらかと言えばそういう意味に近い。「念力」の念ではありませんので、念のため。
 
またまた脱線したけど、早い話が、「サティ」というのは、「気づき」ということ。それでは、「サティを入れる」とは、どういうことなのか。


>まず普通に道を歩く速度で脚全体の動きを感じながら、「右」「左」「右」「左」と言葉を付けて確認しましょう。今経験している出来事を一瞬々々気づいて確認するのがヴィパッサナー瞑想です。

>気づきがあればSatiがあるのですが、気づきを内語で言語化して認識確定をする仕事を≪ラベリング≫と言います。ラベルをペタペタ貼っていく要領で、現在の瞬間の出来事を≪言葉確認≫していくのです。

>右足の動きを感じたならば「右」とラベリングします。今この瞬間に自分に起きた出来事は、歩行していること、右足が動いたこと、その感覚を感じたこと、でした。それが現在の瞬間に知覚し、経験した事柄だったのです。
 
>これは妄想ではなく、現実の出来事でした。だから「右」、とラベルを貼るように、言葉を貼って確認するのです。もちろん黙って心のなかの内語でやります。…「左」「右」「左」「右」…と、足の動きを感じるたびごとにラベルを貼っていけば、これでヴィパッサナー瞑想が始まっています。
 
 
この「ラベリング」は、流派によっては、やらないところもある。でも、少なくとも初心者にとっては、ありがたい手法だろう。慣れないうちは、意識がどこかに飛んでいきやすく、なかなか続けられるものではない。筆者の場合は、動物が好きなので、すぐに、道端を歩いている猫とか、電線にとまった小鳥とかが気になりだして、歩行瞑想どころではなくなってしまう。

この瞑想の良いところは、なんといっても、「現在」に意識を集中し続けられることだろう。サティを入れるのに忙しくて、過去や未来のことなど考えているヒマがない。

「いま、ここ」に生きる(ビー・ヒア・ナウ)というのが、単なるスローガンではなく、現実の行動となるのは、このためだ。

これによって、一切の「苦」が滅尽される。話が急に飛躍するようだけど、お釈迦さまによれば、そういうことになる。ありがたや。合掌・・・・・。
 

観察の瞑想

2013年03月06日 | ヴィパッサナー瞑想

お釈迦さまが言ってた「八正道」の最後の2つ、「正念・正定」(しょうねん・しょうじょう)とは、要するに、「ヴィパッサナー瞑想すること」を意味する。

もっとも、「ヴィパッサナー」というのは、「あるがままに見る」というのが元の意味で、すでに観察の瞑想を極めた人の境地を指している。現代において「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれているものは、本当は、「ヴィパッサナーに到達することを目指すための瞑想」とでも呼んだ方が当たってるかもしれない。

日本ヴィパッサナー協会のサイトに出ている、ゴエンカ氏の講演(・・・一部を抜粋して引用します)を見ると、よく分かる。
 

>苦しみから脱するためには、 それを生み出している原因を知らねばなりません。苦悩の原因は何なのでしょうか。問題の答えを探るにつれ、やがてはっきりとしてきます-心に否定的な感情、反意を生むとき、苦しみが生まれるのです。反意、つまり心の汚れは、安らぎや調和と共存することはできません。

>他の国々と同様にインドでも、賢者や聖人たちがこの問題に取り組んできました。人間の苦悩ということにです。そして、ひとつ答えを見つけました。何かいやなことが起こり、怒りや恐れや反発が生れると、すみやかに何か他のことに心をそらすのです。例えば、立ち上がってコップに水を入れて飲みます。気が紛れて、怒りはそれ以上大きくならないでしょう。あるいは、 一、二、三、四・・・と 数を数えます。 何かの言葉や呪文、信仰する神や聖者の名を唱えます。注意がそらされて、反発や怒りからある程度離れることができるでしょう。

>こうした方法は、なかなか役に立ちます。心がイライラしなくなるような気がしてきます。けれども、実は、それは心のほんのうわべでのことに過ぎません。本当は、注意をそらすことによって、反発心を潜在意識の底へと押しやったにすぎないのです。表面的には調和のとれた安らかさを保ちつづけるでしょう。しかし、心の奥底では押し込められた反発心が休火山のごとく、くすぶり続けます。それはやがていつかは大爆発を起こすでしょう。


「苦しみには原因がある」、「原因を滅することによって、苦しみを滅することができる」・・・これまた、仏教の代表的な教理として有名な、「四諦」(したい)の中の2つだ。

ここで言う「苦しみの原因」というのは、「無明」(むみょう)。無明とは、何も分からない、知らない、一寸先は闇の真っ暗な状態。どうして、そういうことになるのか。それは、お釈迦さまの教えを学ばないから。

ヴィパッサナー瞑想することは、確かに大事なんだけど、それだけでは片手落ちになる。やっぱり、仏教の教理を学んで理解し、しっかりと記憶にとどめるという、勉強のプロセスが欠かせない。

ちなみに、八正道の最後の2つ「正念・正定」の前には、「正精進」(しょうしょうじん)というのがある。これは、「正しく、一心不乱に修行に打ち込むこと」というような意味に取るのが自然だけど、専門家の解説によると、もともと、「お釈迦さまの教えを学んで、記憶する。忘れても、忘れても、何度でも学び直す」ということに主眼があったのだという。

瞑想と教義理解は、車の両輪みたいなもの。両方とも欠かせない。どちらか一方だけでは、お釈迦さまの教えを体得するのはムリ。
 
それはともかく、苦しみを滅するために、世間の一般人がやっていることといったら、いろんな娯楽とか、仕事とか、日常生活に埋没するとか・・・によって、気を紛らわすことだ。

彼らは、しばしば、「精神世界マニアは、ファンタジーの世界に遊ぶことによって現実逃避している」と言って笑うけど、彼らだって、テレビを見たり、酒を飲んで談笑したり、モーレツに仕事に打ち込んだりすることによって、現実逃避していることに変わりはない。
 
日ごろのストレスから気分転換するのは結構なのだが、問題は、「生老病死」(しょうろうびょうし)に代表される、人生の暗い現実から目を背けていることだろう。こうしている間にも、死は、刻一刻と近づいている。まるで、砂時計をサラサラと落ちてゆく砂粒みたいな、われわれの生命。とりあえず、それを忘れたい。「20世紀最大の哲学者」こと、ハイデッガーの言葉を借りれば、「人はいつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」と思っているだけ。
 
それに比べれば、精神世界マニアは、少なくとも「生老病死」という現実から目を背けていない分だけ、大幅にマシだと言える。というより、世間の一般人と違って、現実が見えすぎるおかげで、普通の娯楽なんかじゃ気を紛らわそうにも限界があるから、精神世界を探求せざるを得ないのである(笑)。

精神世界の探求。それは、苦しみを根元から断ち切る道なのだ・・・。
 
苦しみを根元から断ち切るために必要なもの。それは、ヴィパッサナー瞑想。ゴエンカ氏いわく、

 
>より深く内面を探求した人々は、自分自身の心と体の真実を体験することによって、気をそらすことは問題から逃げることにすぎないと悟りました。逃避は解決にはならない、 問題と向き合わなければなければならない、と悟ったのです。心に否定的な感情が起こる時、それをじっと見つめ、向き合ってみるのです。観察を始めるやいなや、心の濁りは力を失い、消えていきます。

>これは良い解決法に聞こえますが、実践できるでしょうか。自分自身の心の汚濁と向き合うことは、簡単なことではありません。怒りが生まれたとき、その感情は一瞬のうちに私たちを圧倒します。そして感情に押し流されるままに行動し、あるいは言葉にして、他の人や自分を傷つけてしまいます。そうしておいて、怒りが過ぎ去ってから嘆き後悔し、神や仏に許しを乞うのです。「ああ、私の過ちをお許しください。」 ところが、次にまた同じような状況になると、また同じことの繰り返しです。後悔を何度繰り返しても、何も良くはなりません。


もはや、現実から逃避することによって、気を紛らわすのはムリ。古代インドで王子様として、なに不自由ない暮らしをしていたお釈迦さまでさえ、人々が死んだり、病気や貧困で苦しんでいる姿を見て、人生のあまりの暗さに、ウツウツとふさぎこんでしまった。仕方がないので、ゼイタクな暮らしを捨てて、インドの山奥でヴィパッサナー瞑想することにした・・・。

でも、「自分自身の心の汚濁と向き合う」と言ったって、怒りや恐怖といったネガティブな感情が生まれたとき、それを冷静かつ客観的に観察するのは至難のワザだろう。そもそも、感情というのは、冷静かつ客観的になれないから感情なのである。「私が悪うございました~!」とかなんとか、反省してみたところで仕方がない。

そこで開発されたのが、ヴィパッサナー瞑想だ。


>けれども、完全なる悟りに至った人が、素晴らしい方法を見つけました。心に汚濁が生じると、体に二つの変化が同時に現れることを発見したのです。そのひとつは、呼吸が乱れることです。心に否定的な感情が生じると、呼吸は強くなります。これはわかりやすい真実です。より微妙なレベルでは、体で生化学的反応が起こり、何らかの感覚が生まれます。心の汚濁は、体のどこかに何らかの感覚を生み出すのです。

>これは、実践的な解決法です。普通の人間には、抽象的な恐怖や怒り、情欲といった心の汚れを観察することはできません。しかし、訓練を重ねれば、心の汚れと直接結びついている呼吸や感覚を観察することは難しいことではありません。

>呼吸と感覚は、次のふたつの方法で私たちを助けてくれます。ひとつ目は、私たちの専属秘書になってくれることです。心に否定的な感情がわきあがるやいなや、呼吸は正常さを失います。そして、こう叫び始めるのです。「気をつけてください!問題が起こっていますよ。」私たちは呼吸を責めるわけにはいかないため、忠告を受け入れるしかありません。同じように、体の感覚も問題が起こっていることを教えてくれます。こうした忠告を受けることで、私たちは呼吸と感覚を観察し始めます。観察をはじめると、 心の汚濁が消えていくのにそれほど時間はかかりません。


これは、まさしく、「コロンブスの卵」。

心の中で「怒り」や「恐怖」が起きたとき、人体にはアドレナリンが分泌され、呼吸が乱れたり、心臓の動悸や血流が乱れたりする。体温が上がったり、胃酸過多になって胃袋が締め付けられるような感じになったりする。そこを観察するというところに、この瞑想の意義がある。

これなら、自分という人間を、解剖学者が人体の標本を見るような調子で観察できる。自分自身の感情や反応を、冷静かつ客観的に観察できるのは、そのためだ。
 
(つづく)