宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

布瑠部 由良由良止 布瑠部・・・ ~ 鎮魂帰神法 その2

2013年05月23日 | 神社
「神道には、教えがない」とよく言われる。でも、儀式や行法はいろいろある。

鎮魂は「ちんこん」と読むけど、本当は「おおみたまふり」というらしい。神社で行われてきた、本来の鎮魂法は、神懸かりや霊降ろしをやるものではなく、心を静めるための行法。神道ならではの、澄み切った心境を実現する。

もっとも、帰神(きしん)、つまり神懸かりの方も、昔は神道の大事な要素だった。昔、アマテラス大神が天の岩戸にこもったとき、アメノウズメのミコトが、天の岩戸の前に桶を伏せ、その上に乗って足を踏み鳴らし、神懸かりした。それが、帰神の起源とされている。

 

鎮魂法にはいろいろ種類があるけど、座って両手を組み、指をくっつける。いろんな写真を見ても、ポーズは流派によって異なるようだ。正座してたり、アグラだったり、両足の裏をつけるアグラだったり。両手の親指をピッタリ合わせてる人もいれば、人指し指の先をくっつけてる人もいる。

要は、座って呼吸を安らかにし、心を鎮めるのだ。ここまでは、道教の静坐によく似ている。 

この姿勢で、合わせた手を上下に振ったり、何度も円運動させたりする。これは、神宝を揺するポーズ。

「古事記」によると、あるとき、イザナギの大神は、首飾りの珠をゆらゆらと振りながら、アマテラス大神に授けた。このとき、アマテラス大神が高天原の主宰神、つまり、日本の神々のトップとなることが決まったという。

このように、神宝の玉や布などは、振ったり揺らしたりすることで、呪力を発揮する。鎮魂法で、「布瑠部 由良由良止 布瑠部」(ふるえ ゆらゆらと ふるえ)と唱えるのは、このためだ。

ニギハヤヒのミコトが天降ったとき、タカミムスビの神とカムムスビの神から十種(とくさ)の神宝を授かって以来、この伝統は確立された。

 

あとは、神社の参拝でおなじみの「二礼二拍一礼」とか、祓詞(はらえことば)とかを組み合わせる。

これで、琴を弾く人か、笛を吹く人がいれば、帰神法になる。音楽で、神を招き寄せるのだ。

もっとも、本来の帰神法には、審神者(さにわ)が欠かせない。鎮魂を十分にやってない人がウカツに帰神をやると、功を経たキツネや白蛇の霊が出てくることがよくある。そんなとき、「我は天照大御神なるぞ」とかなんとか言い出したときは、「こら、キツネ。早く稲荷寿司でも食べて成仏しなさい」と、叱りつける人が必要なのだ。残念ながら、その点をスルーしてる人が、世の中には少なくない・・・。


鎮魂帰神法 ~ 復古神道の招魂儀式

2013年05月22日 | 神社

今の神社神道では考えられないことだけど、昔の巫女は、神がかりになって、お告げをもたらすのが仕事だった。

明治政府は、近代国家にそぐわないとして、この行為を禁止した。でも、神社からは消えただけで、教派神道および、新宗教の諸宗派には脈々と受け継がれている。

単なる交霊術なら世界の各地にもあるけど、日本の神道系の諸宗派だけに、神道としての特徴を存分に持っている。 というのも、日本の神道は、心を清めることを非常に重視する。ケガレに対して、とても敏感なのが特徴だ。このため、どの宗派でも、心のケガレを落とすことがカギを握っている。そうしないと、霊を呼べない。

なんといっても、大本教の出口なお、出口王仁三郎が取り入れて有名になった。現代日本のスピリチュアリズムや新宗教に及ぼした影響は、ホントに大きい。 

この大本教の鎮魂帰神法は、新宗教のいろんな宗派に、形を変えて受け継がれている。

スピリチュアルの世界に多くの人の関心を引き付けたという点では、大きな成果が上がった。これがなかったら、日本にスピリチュアリズムが普及するのは、もっとずっと後の話になっただろう。

ただし、批判も多い。特に多いのは、「鎮魂帰神法は、アナタの精神的な健康に有害となる恐れがあります」という批判。「生長の家」の開祖も、若い頃は大本教にいた人だけど、それを理由に、鎮魂帰神法をやらなかったという。

これらの元になっているのは、幕末に、本田親徳(ほんだちかあつ)という人物が編み出した「鎮魂帰神法」。(・・・このように、近世から近代にかけて起きた神道の新しい動きを、「復古神道」と言います)。

世の中は広いもので、なんと、「本田式鎮魂帰神法」のやり方を書いてあるサイトがあった。勝手ながらコピペさせていただきます (追記・・・以下の記述には、本田式鎮魂帰神法の関係者からのコメントにより、内容に疑問符がつけられています)。

>本田式鎮魂帰神法のあらまし

【鎮魂法】

  1. 霊を降ろされる役の人物はあらかじめ禊ぎ祓いの儀を受けて心身を清浄にしておく。
  2. 審神者(さにわ)の役を負った者が霊を降ろされる人物の前に立つ。降ろされる側は瞑目正座して両手で鎮魂印を組む。
  3. 審神者の指示に従い意念を集中するうちに、憑霊を受ける人物は次第に手脚の感覚が麻痺していき、最後には宙に浮かんでいるような心持ちになっていく。
  4. 3の状態への変化を数回繰り返すうちに次第に霊魂が鎮まり、丹田に力が蓄えられる。

 

【帰神法】

  1. 憑霊を受ける側は手印を組んだまま瞑目正座を続ける。
  2. 審神者は「ヒト、フタ、ミー、ヨ、イツ、ムユ、ナナ、ココノ、タリ、モモ、ヨロズ」という神文を数回唱えた後、厳かに「ウーン」と唸りながら、人差し指で霊力を注ぎ込む。
  3. 憑霊を受ける側は霊力を注がれることにより、身体全体が霊動し始める。この霊動は憑依した霊(神)の動きとされる。この段階で憑依した霊(神)が憑依された人の口を通して様々な言葉を話し始めたり、ときには苦しげに呻いたり、暴れ出したりする。
  4. 審神者は降りてきた霊(神)に必要な質問を浴びせ、もしそれが邪霊・邪神の類であると判断された場合には、戒告、なだめすかし、叱咤、捕縛などを適宜に行って、霊(神)の改心を促す。もし、どうしても改心しない場合にはそのまま神界へ引き渡す。


審神者(さにわ)が重視されるのは、「日本書記」に出てくる、神功皇后のご神託のエピソードを見習うため。このように、「復古」神道というだけあって、日本の古い神話に根拠を求めることが多い。

「ときには苦しげに呻いたり、暴れたりする」とあるのもその通りで、キツネ憑きが「ウー」とウナリ声を上げて暴れ出すというのが、新宗教の信者向けセミナーでは、ほとんどお約束。これを厳しく叱りつけたり、優しくなだめすかしたりして、無事に神界へと誘導するのがポイントだ。


日本神霊学研究会という宗派を脱会した人のブログによると、

>大本教では鎮魂帰神法が広まりますが、困ったことも起こります。

>あちらの世界からもどってこなくなった精神障害者が出たり、教祖になる者まで出ます。それで原則禁止状態になります。

>この「鎮魂帰神法」はサニワが大事になります。この行法は、サニワと神主が一対で行います。

>本来はサニワが脱魂して、神の世界から神霊を降ろし、転霊して神主に神懸らせ、口を切るといい、言葉を話させて降りてきた神の正邪を確かめます。 

>筆者は鎮魂帰神法は危険だなどと一方的に断じたりはしません。

>サニワという機能を怠ればカルトの温床になりますが、きちんと道を究めている方にとっては必要不可欠な技法だと感じています。

>復古神道では「鎮魂」「帰神」「太占」を三大皇学といいますが、本来大事な行法なんです。


いや~、勉強になりますな。あんまり書くと、またまた、信奉者とアンチの人の両サイドから批判されるサンドイッチ状態(・・・あるいは、サンドバッグ状態)になりかねないけど、復古神道を語る上では外せないテーマと思われる・・・。


神社といえば、巫女 ~ 神道の儀式に、外人も感動

2013年05月22日 | 神社

youtubeで、巫女舞の動画に人気が出ている。外国人によるコメントも多数ついている。舞の美しさを賞賛する声が多い。

http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-808.html


■ どこの神社に行けば見れるのか知りたいんだが。素晴らしい! +6 アメリカ

  
■ 美しい巫女さんを見れるのはアニメやマンガだけの世界かと思ってた。
  だけど本当にこの世界に存在したんだな。 +6 アメリカ

■ 美しい舞ですね~ ^^ +7 インドネシア

■ この動画見てたらシントウの儀式に興味が湧いてきた。
  こりゃあ色々調べてみる必要がありそうだぜ :D アメリカ

■ 素敵な伝統だなぁ。今でも続いてるって凄いことだよね。 アメリカ

■ 本当に綺麗。物凄いエネルギーを感じる……。
  素敵な動画をありがとう :) アルゼンチン  

■ 究極的な素晴らしさがここにはある。本当に。 タイ

■ とても強くて、丁重な神への祈りだ……。 
  間違いなくミコは、神託を人々に伝える存在だよ。 ポルトガル

■ 本当に興味深い……。ミコさんも、この宗教儀式も……。 メキシコ

 

実際のところ、巫女さんは、マンガやアニメの世界では、本当に人気がある。日本のアニメに人気のある地域からは、「神社で巫女さんが見たい」という観光客もやってくる。秋葉原の街では、おなじみのコスチュームのひとつとして完全に定着した。

 

「巫女になりたい」というアニメファンもいるそうだけど、本職の巫女になるのは難しいみたい。ウィキペディアによると、男女雇用均等法の適用対象外になっているらしいのだが(・・・当たり前か)、本職の巫女を置けるのは大規模な神社に限られ、縁故者の採用が多いので求人はあまりないらしい。

もっとも、巫女に限らず、仏教のお寺で働く人と比べて、神道の神職者はとても少ない。ただし、正月などの繁忙期には、「助勤」「助務」と呼ばれる、臨時のアルバイト巫女が登場する。

 

もともと、邪馬台国のヒミコを初めとして、大昔の神道では女性による祭祀が中心だったと言われている。古代の雰囲気を色濃く残す、沖縄・琉球王朝の聖地・斎場御嶽(せーふぁうたき)では、男子禁制だった。

昔の巫女は、シャーマンだった。神がかりになって招魂し、神託を告げていた・・・。明治の初めごろ、文明開化のために、そういう行為は禁止されたのだが。

その代わり、中山みきがお筆先で降ろした天理の教えが登場し、そういうシャーマン的なものは教派神道に受け継がれた。とくに、大本教の出口なおは、「鎮魂帰神」と呼ばれる交霊法を多用した。

いまの神社神道で、巫女さんが神がかりになるというのは、ちょっと考えにくい。それ以来、舞とか神楽といった芸術的な方向が、巫女さんの中心フィールドになった。

いまや、巫女の存在そのものが芸術だ。

 

日本の神社は、清められた神聖な空間。宗教につきもののコテコテな装飾や彫刻その他が、ほとんど見られない。

巫女の白装束姿も、清浄そのものだ。

しきつめた玉砂利を踏みしめ、境内を歩く。

それだけで、心が洗われる・・・。


 

犬夜叉の巫女

 


神道には、なぜ教えがないのか

2013年05月15日 | 神社

「大神社展」を機に、宗教学者の島田裕巳氏が書いた、「神道はなぜ、教えがないのか」(ベスト新書)という本を読んだ(・・・前に書いたブログ記事も、この本を参考にしてます)。

この島田裕巳という宗教学者は、90年代には、「オウム真理教のシンパ学者」と言われて中沢新一らとともに槍玉に上がったこともあるし、なぜか、幸福の科学からは極端に敵視され、機関誌その他で激しく糾弾されていた。そんなこんなで、かつての「第三次宗教ブーム」の頃には、いろいろと渦中の人物だった人。「日本の10大新宗教」という本も出している。

でも、宗教学者としては優秀だ。こういう人も、いまや神道に目を向けているということに、時代の潮流を感じる。

 

「神道はなぜ、教えがないのか」というだけあって、「神道には教義らしい教義がない」というのが、最大のテーマ。確かに、ブログを書いていても思うことだけど、仏教の話なら、「お釈迦さまの教えはこうだった」というのが、いろいろあって書きやすい。でも、神道については、そういうものがない。それこそ、神社のことくらいしか、書くことがない(笑)。

江戸時代の本居宣長や、平田篤胤だって、そう思ってた。「神道には教義がない」と言われるのが、彼らは悔しかった。仏教や儒教みたいな、異国の教えに負けてなるものか。そう思って、本居宣長は古事記・日本書紀を初めとする日本の古典を研究し、教義のネタを拾い集めた。

平田篤胤(ひらたあつたね)に至っては、「私は体外離脱して死後世界を見てきました」(・・・もちろん、江戸時代なのでそんな言い方はしてないが、要するにそういうこと)という人の話を聞きに行って、取材活動までやっていた。

そうやって、神道の教義は充実してきたのだ。先人の苦労がしのばれる…。

 

広い意味では、天理教や金光教、そして大本教や生長の家、白光真宏会だって、神道の一種だ。

幕末の天理教から、神道ルネッサンスの第二段階が始まった。大本教の出口王仁三郎や、「日月神示」の岡本天明は、神懸りになって、たくさんの預言書を出した。それは新宗教の域を超えて、精神世界ジャンル全体で認知度が高く、人気を集めている。

そのおかげで、今では、かなり教えが充実してきた。

 

でも、神道には、教えがないだけではない。神職者の数も少ない。神社はたくさんあるのに、仏教のお坊さんと比べて、とても少ない。文化庁の統計によると、その人数は5倍も違う。

しかも、お寺は昔から修行したり、お経を勉強したりするところだけど、神社はそうではない。だから、お寺には多勢の人が住んでるのに、神社やその周りで暮らす人は少ない。

つまり、神社は徹底して、神様のための場所。もともと、人のための場所じゃないのだ。神域だけに、常に清浄にしておくのが肝腎だ。伊勢神宮が20年に一度、建て替えられるのも、そのせい。

 

こんな具合に、神道は、ないことだらけ。

あるのは、神社という、神が宿る場所。つまり、パワースポットだけだ。そこは、純粋に神様の場所。

どうして神道がないない尽くしなのかといったら、結局のところ、重要なのはそれに尽きるからだろう。

(続く)


偶像は要らない ~ 日本の神道

2013年05月15日 | 神社

神道と直接の関係があるわけじゃないけど、イスラム教は、「紀元622年から始まった」とされ、キリスト教よりは600年ほど後にできた宗教。だから、キリスト教のいろんな欠点が修正されている。

というのも、イスラム教が、「アラーの他に神なし」と信者に毎日欠かさず唱えさせるほど厳格な一神教で、しかも偶像崇拝を徹底して禁止し、バーミヤンの石仏を「これは偶像だ!」といって爆破したことなどは、よく知られている。

でも、キリスト教だって、もとはといえば旧約聖書に起源を持つ一神教で、偶像崇拝が禁止されているはずなのだ。それなのに、マリア様の彫刻とか、聖像を拝んでいる。しかも、一神教のわりには、「父と子と聖霊は三位一体」といって、神様のほかにも祀られるお方が多い。これらは皆、キリスト教が古代のヨーロッパに広まるにつれて、原住民の信仰がズルズルと混ざりこんできたのが原因。

このため、イスラム教徒から見れば、「キリスト教は、偶像崇拝で多神教だ」ということになる。キリスト教の世界では、古くから、この矛盾を説明するために、ものすごい神学論争や派閥争いが起きてきた。その結果、キリスト教の教義体系は、なんともフクザツで分かりにくいものになってしまった。

その点、イスラム教は、厳格な一神教だし、偶像崇拝を厳しく禁止している。おかげで、上のような矛盾が起きない。神は、アラーしかいない。預言者マホメットは人間だ。預言者を含めて、神以外のものが拝まれることはない。実にスッキリしているので、余計なことにアタマを悩ませなくてもすむ。このように、前の人たちの矛盾点を研究し、最初から改善してスタートできるというのが、後発組の強みだろう。

なんで、偶像崇拝がいけないのか。そりゃ、古代の野蛮な人類は、部族ごとに信仰がバラバラに分かれていて、怪しげな人形を拝んだり、変なケモノの像を神殿に祀ったり、霊感商法の壷(?)をありがたがったり、さまざまな迷信にとらわれていた。高等な世界宗教たるもの、そんなものを放っておけないのである。変な偶像どもは叩き壊して、「目には見えないけど、偉大なる神様を信じましょう」という、抽象的な信仰に、バシッと統一しなきゃいけない。

現代でこそ、貴重な仏教遺跡の石仏を、「偶像は壊してしまえ」といってイスラム教徒が破壊しているのを見ると、「なんと野蛮な」と思うけど、大昔においては、偶像崇拝禁止令はとても先進的な教えだったのだ。

 

でも、東のハテの国には、ナチュラルに偶像崇拝しない信仰があった。それが、日本の神道。

仏像は、日本にもたくさんある。仏教の掛け軸には、大日如来や釈迦如来、薬師如来をはじめとする、ありがたい仏様たちのお姿が描かれている。そんな如来や菩薩たちを並べた絵(マンダラ)が、この宇宙を表している。偶像崇拝とはいうものの、実にありがたいものだ。

だが、神道にそんなものはない。お寺には仏像があるけど、神社には、神像は置かれていないのが普通だ。掛け軸も、神様の絵が描かれているわけではなく、神社の境内の風景画が中心。神道では、曼荼羅(マンダラ)というのは、神社の境内のことなのだ。つまり、神社こそが小宇宙?

東京国立博物館の「大神社展」では、そんな神社の境内の絵の掛け軸も、たくさん見ることができた。

 

重要文化財  日吉山王曼荼羅図

 

それから、仏教と違って神道では、神様の像、つまり神像も、滅多に作られることがない。というより、以前は、盛んに神像が作られた時期はあった。平安時代の前期だ。でも、なぜか、その後の時代には廃れてしまった。

「大神社展」では、そんな平安時代の神像もたくさん展示されていた。これは、一番の見どころだろう。仏像とは異なり、目がつりあがって、キツイ目つきの像が多くて、ちょっと怖い。この迫力こそが、神威というものなのか・・・。

 

 

国宝 熊野速玉神社の家津美御子大神坐像。まだ、顔つきが穏やかなタイプ。

 

それにしても興味深いのは、「一時は、仏教の影響で神像彫刻が始まったにもかかわらず、やっぱり、すぐに廃れてしまった」というところ。

イスラム教では、預言者マホメットの生前から、アラビア人の部族の神殿を占領して、偶像を片っ端から叩き壊して大ゲンカになったり、偶像崇拝を廃止するために凄まじいトラブルと苦労があった。それに比べて、日本の神道では、何のトラブルもないばかりか、廃止運動すら起きたことがないというのに、静かに偶像崇拝が消えていった・・・。

日本の神社は、「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」 (by西行)という世界に、すぐ戻ってしまった。

というのも、日本の神様には、姿かたちがない。現代でも、神社におまいりするとき、「神様は、どんなお姿をしておられるのかな?」と考えることさえ、まずない。だから、絵にも描けないし、彫刻にもできない。

その代わり、分けるのも、つなげるのも、場所を移すのも自由自在。宇佐神宮の八幡様は、京都で石清水八幡宮になり、鎌倉で鶴岡八幡宮になったけど、だからといって、増えても減ってもいない。全国に八幡神社が山ほどあるのは、そのせい。

日本の神様は、もともと、これほど高度に抽象的な神様なのだった。近代ヨーロッパの哲学者、スピノザが展開した近代的な汎神論も、日本だったら、「だから何?」で終わってしまいかねない・・・。

 


神殿は要らない ~ 古代の神道

2013年05月13日 | 神社

東京国立博物館の「大神社展」、「第2章 祀りのはじまり」というコーナーは、ジックリ見れば、神道の歴史がわかるようになっている。

なんといっても、沖ノ島の出土品が見れたのが収穫だった。沖ノ島は、九州・福岡から60km離れた玄界灘の真っ只中にある、ほぼ無人島に近い島で、宗像大社(むなかたたいしゃ)が、ここに宮を置いている。一般人は、祭りの日にしか立ち入りできない。祭りのときでさえ、入れる人は少なくて、しかも女人禁制。だから、「絶海の孤島にある、古い祠」(ドラゴンクエストにはアリガチだった…)というイメージが強い。

 

そんな沖ノ島には、日本の神道の原型があるとされている。というのも、そのくらい古い。「おそらく、日本で一番古い神社」として、神道学者も認めている。中国の王朝・魏からもらった「三角縁神獣鏡」もある。「邪馬台国は九州にあった」という人は、これを重視している。日本としては、記録もなにも残っていない、文明の黎明期。

古い時代の銅鏡とか、ちょっと新しい時代の精巧な工芸品とか、いろいろ見て楽しめた。

沖ノ島では、4世紀の後半から10世紀ころまで、神道の聖地として大規模な祭祀が行われていた。祭祀の規模からすれば、とても「地元の人たちがホソボソと」という雰囲気ではなく、中央の大和朝廷が主宰していたと考えられている。

やがて、宗像神社の「沖津宮」(おきつみや)っていう、神社の出張所みたいなところが作られたけど、当初はそれさえもなかったらしい。島全体が、御神体とされていた。島の中には、磐座(いわくら)があった。それは、神がやどるとされた大きな岩石。

 

それから、奈良の三輪山にある、山ノ神神社の出土品もあった。三輪山も、沖ノ島と並んで「日本で一番古い神社」のひとつとされている。「邪馬台国は畿内にあった」という人は、これをとても重視している。

三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)にも、本殿がない。山全体が、御神体とされている。これまた、「島全体が御神体」という、沖ノ島と通じるものがある。しかも、山の中には磐座(いわくら)がある。これも、古代の信仰ではオナジミの、神がやどるとされた大きな岩石。

 

この、沖ノ島と三輪山のケースから見て、「古代の神道には、もともと、神殿がなかった」と言われている。日本の神々は、島とか山とか、特に大きな岩とか、自然のものに宿るのだ。だから、人間が建物を作るまでもない。同じ古代の信仰でも、古代のエジプト・ギリシャ・ペルシャ・・・と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは、巨大で壮麗な神殿だ。それとは、大きく発想が異なる。

 

でも、沖ノ島や三輪山と並ぶ、日本の信仰の原点が他にもあった。

それは沖縄に残る、斎場御嶽(せーふぁうたき)。いまや、注目のパワースポットだ。ここでは、琉球王朝の女性神官の就任式が営まれた。沖縄の神職は女性ばかりで、沖ノ島とは逆に、男子禁制になっている。

中世の琉球王朝だけに、「古代の遺跡」ってわけじゃないんだけど、本土の古い神社と共通するところが多い。斎場御嶽の中心になっているのは、「三庫理」(さんぐーい)と呼ばれる、岩にできた三角形のスキマ。神を祀る儀式は、この岩陰で行われていた。

 

「大神社展」では、沖ノ島や三輪山だけでなく、この沖縄の斎場御嶽の祭祀遺跡から出た出土品も、たくさん展示されていた。予備知識がない人には、これと「日本の神道の始まり」になんの関係があるのか、横の説明書きを見たくらいじゃ分からないかもしれない。

「日本の古代文化」となると、なんでも「ウリナラが発祥の地ニダ」と主張する勢力があるのは、ご存知のとおり。でも、それは日本に限ったことではない。あの中国でさえ、世論調査で「某国が嫌いな理由」として、「中国の文化を、なんでもウリナラが発祥地ニダと主張するから」というのがトップになっていたくらいなのだから、気にしたところで始まらないのも事実だ(笑)。

でも、日本の古代文化を語る上で、本当に注目すべきなのは、ウリナラよりも沖縄だろう。空手も三味線も、沖縄が発祥の地なのだ。稲作も、「南方から伝わってきた」という説が主流になってきている。東アジアの中でも、北京や韓国といった北方の地域は、どうも日本との相性が良くない。それに比べて、台湾やベトナムと、日本の親和性はずっと高い。やはり、日本の文化はもともと南方の文化なんだということが、これを見ても分かるというものだ。

 

それはともかく、重要なのは、沖縄にも、日本の神道の原型のようなものがあった。そこには、神殿がなかった。「神は岩のスキマに降臨する」とされ、野外で儀式が行われていた・・・ということ。

しかも、それは、「日本で最も古い神道の姿を残す」とされる、沖ノ島や三輪山と、不思議なほど符合する。

日本の神々は、自然の中に宿る。だから、儀式は野外で行う。神殿は必要ない。それが、神道の大きな特色。


大神社展

2013年05月13日 | 神社

上野の東京国立博物館(東博)で開催中の、「大神社展」に行ってきた。東博にしては、かなりの混雑で、神社への関心の高さを実感した。いつもの東洋美術ファンのマイナーぶりを見慣れた目には、新鮮だ(笑)。

全国の神社から集めた、国宝・重文めじろ押しの、充実した特別展だった。全体を通してジックリ見れば、神道の歴史までがわかるようになっている。

入り口に入ると、熱田神宮が所蔵する、室町時代から伝わる神職の装束が、人々の目を奪っていた。大きめで、ダブダブな服だけど、すごく良くできている。どれも、国宝または重要文化財ばかりだ。かつて名古屋に住んでいたころ、熱田神宮にはちょくちょく参拝してたけど、こういうものがあるとは知らなかった。どこかに展示されてるんだろうな、きっと・・・。

仏教の寺院と違って、神社には、仏像とか掛け軸とか、そういう見所があまりないので、「所蔵品の展示室」があっても、なかなか足を運ばないものだ。この特別展を見て、そこに改めて気づいた。

古神宝コーナーは、まだまだ続く。広島の厳島神社に、奈良の春日大社、和歌山の熊野速玉神社・・・と、全国に名が轟くビッグネームばかり。特に、春日大社のは平安時代のものが中心で、さすがに歴史が深い。厳島神社のは、神様というより、平家の栄華を思い出させる遺品という感じだ。

個人的には、2番目の「第2章 祀りのはじまり」というコーナーに、最もひきつけられた。なんといっても、玄界灘に屹立する沖ノ島の展示物を見れたのは収穫。それから、三輪山も。さらには、沖縄の斎場御嶽(せーふぁうたき)の出土品まで並んでいた。

3番目のコーナーには、「曼荼羅」という掛け軸も並んでいた。でも、仏教と違って、仏様の絵を描くわけじゃないので、風景画しかない。「神社の境内の見取り図」というのが、神道美術でいう曼荼羅だ。

4番目には、「祭りのにぎわい」というコーナー。何日か前に見に行った知人は、「でっかい神輿があって感動した」ということだったのだが、残念ながら、筆者が見に行ったときは展示されていなかった。

5番目は、「伝世の名品」コーナーで、ここは展示の超目玉、奈良の石上神宮に伝わる、4世紀の「七支刀」があった。4世紀とは、あまりにも古い。これが作られた中国は、東晋の時代。三国志の呉が滅んだ後で、江南に栄えた王朝だ。日本は、まだ記録もなにもない時代。これまた、「5月12日が最終日」ということだったので、今ではもう展示されてないみたい・・・。

 

でも一番の見どころは、やっぱり、展示物の最終コーナーに並んでいる神像だろう。

仏教の寺院と違って、神社には仏像がない。仏像がないのは当たり前としても、だったら、神像があるかっていったら、これまたないのが普通。

とはいえ、おそらく仏教の影響だろうけど、神道でも、盛んに神像が彫られた時期はあった。それは、平安時代の初期。この時代だけは、なぜか神像がそれなりに作られていた。

神像は、男神像もあれば、ふっくらした女神像もある。童形の神様もいる。仏像とは違って、目が怖い。鋭い目つきでニラミつける、迫力ある顔立ちの神様が多いのが特徴だ。やっぱり、神様は、普通の人間とは違って、威厳がある。当たり前といえば、当たり前・・・。

 

そんなこんなで、見ごたえのある神社展だった。もともと、キリスト教や仏教にすばらしい絵画や彫刻が山ほどあるのと違って、神道には、美術ファンの関心をひく要素に乏しい。それは事実なんだけど、これだけ全国から集めれば、さすがに十分な見ごたえがある。

もっとも、神道の場合は、絵画や彫刻より、神職の衣装とか祭祀の道具とか、そういう工芸品が中心になる。それが、改めてよくわかった。

 


60年に1度 ~ 出雲大社の御遷宮

2013年05月11日 | 神社

 

2013年は、まれに見る「神社イヤー」だ。

伊勢神宮が20年に1度の遷宮をするのは有名だけど、出雲大社はもっとスゴくて、「60年に一度の大遷宮」。それも、「建て替えるだけで5年をかける」という、大掛かりなものだ。そういえば、5年前にも、「今年から、出雲大社の御建替が始まるらしい」と書いた覚えがある。あれから5年たったのか・・・。

この「平成の大遷宮」については、出雲大社の公式ホームページで詳しく紹介されている。

5月9日には、60年ぶりの改修を終えた本殿を清める、「清祓式(きよはらいしき)」が行われた。そして10日、いよいよ「平成の大遷宮」のクライマックスとなる、本殿遷座祭を迎えた。

これは、改修工事のあいだ、仮殿(かりでん)に移されていた大国主命(おおくにぬしのみこと)が、完成した本殿に戻された。

どういう儀式かというと、まず、「絹垣」と呼ばれる白い布で境内の周りを囲い、真っ暗にする。そんな中を、神職や氏子などおよそ260人の行列が、「大国主命を乗せたみこしを運ぶ」というもの。遷座祭には、全国から1万2000人の参列者が集まったという。

 

「定期的に、神社の建物を、わざわざ新しく建て直す」というのが、世界にも例を見ない、日本の神道の伝統。いくら木造とはいえ、その気になれば、長く保存しようと思えば、できる。「世界最古の木造建築、法隆寺」がいい例だ。

なのに、なぜ、伊勢神宮も出雲大社も、定期的に建て直すのか。それは何より、20年にしても、60年にしても、神道の感覚では、「もう古い」ということなんだろう。他の宗教ならともかく、神道としては、清い神域を維持する上で、それが限界なのかもしれない。

「宮大工の先輩たちが亡くなる前に、建築技術を後輩に受け継ぐのが目的なのだ」という説もあって、それなりに説得力もあるけど、それは20年に1度の伊勢神宮ならともかく、出雲大社では成り立たないように思う。60年も経てば、とっくに世代交代してしまっているからだ。

ただし、伊勢神宮は主要な建物をほとんど壊して建て替えるけど、出雲大社では、本殿があまりにデカいせいか、そこまではやらない。『大規模な修繕工事』という感じ)。

 

専門家の研究 (岡田荘司 『日本神道史』) によると、そもそも、「古代の日本では、もともと、神社に本殿はなかった」ということだった。古代といっても、弥生時代とか古墳時代とか、そういう記録もほとんどない大昔の話。そのころの遺跡を見ると、神社には、どういうわけか本殿がない。もちろん、神職が住む場所とかはあるけど、本殿はなかったみたい。

今でも、日本の各地の神社には、その名残がある。もともと、日本の神様は自然の中にいるのだ。このため、「大昔、日本の国がまだ始まったばかりの頃、神道の儀式は、基本的に野外で行われていた」と考えられている。

わざわざ定期的に建物を壊して、わざと「仮の宿り」みたいな形にするというのも、、「もともと、建物がなかった」という古代の伝統と、どこかでつながっている気がする。大昔の日本人は、「いつまでも、野外でやってるわけにもいかない。時代の流れってものもあるし、本殿の建物だけは建てようか。ただし、定期的に建物を壊すのが条件だ」と考えたのかもしれない。

 

それはともかく、古事記や日本書紀にある「国譲り」の神話が、出雲大社の原点。

あるとき、高天原から天孫降臨した皇室の祖先が、出雲に使者を送ってきた。日本古来からの「国つ神」の代表だった大国主命は、仕方なく(・・・かどうかは知らないが)、国譲りした。国を譲る条件として、大国主命は、「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と望んだため、出雲大社が建てられたのだという。

いまさら言うまでもなく、出雲大社は、日本を代表する神社のひとつ。旧暦の10月には、日本全国の神々が出雲に集まるので、全国各地では神様がお留守のため、「神無月」(かんなづき、かみなしづき)と呼ばれるのは有名な話だ。その時期は、出雲では逆に、「神有月」(かみありづき)ということになる。

筆者の知人のスピリチュアル・カウンセラーは、「なるべく毎年、神有月には出雲に行くようにしている」と語っていた。神有月の出雲大社で買った開運グッズを、みんなにお裾分けしていた。そう聞くと、なんだか、普通の御札や御守りとは、格が違うような気がしてくるから不思議なものだ。

 

それにしても、今年は日本にとって、大建て替えの年なのだ。それは間違いない。伊勢神宮でも、8月と10月に、遷宮の儀式が予定されている。この国難のご時世に、日本の神々も手をこまねいてはいないだろう・・・。

 


神田明神の花見

2009年04月05日 | 神社

            
長かった冬が終わり、桜が咲く季節となった。まだ夜は寒いのだが、日中は暑いくらいだ。
 
毎年恒例の神田明神・貸し切り花見パーティーが挙行された。十数年前に有志が集って始まった宴会は、年を追うごとに大きくなり、今回は200名を超える参加者があった。大安吉日と重なったため、今日一日で10組もの結婚式をこなした神田明神。予定を大幅に超過してのスタートとなった。
   
神田明神は、江戸の総鎮守。神々の世界では、「東京ヘッドクオーター」といったところか。東京十社にも名を連ねる。平安の昔、京都の朝廷に敢然と抵抗した関東の英雄、平将門が祀られている。

今から千年以上も昔、まだ原野と森林が広がる辺境の地だった関東。平将門は、優雅な文化と高い教養を誇る京都の平安貴族に対抗すべく、「新皇」を称して新国家を樹立しようとした。ただちに討伐軍が派遣され、奮戦もむなしく、額に命中した矢により、あえなく絶命。
 
この平将門の乱の鎮圧を祈願するため、京都朝廷は僧を東国に派遣して不動明王を祀らせた。それが、かの有名な初詣の名所・成田山新勝寺。深川不動もその流れをくんでいるので、神田明神とは対立勢力ということになる。実際、昔の江戸では「神田明神を参拝するものは、成田山には行ってはならない」という言い伝えがあったそうな。両方とも行ったのは、まずかったか・・・。
 
ライトアップされた朱塗りの門や社に照らされて、夜桜が闇夜に浮かび上がる。江戸の昔には、夜桜は提灯の光に照らされて、かすかに見える程度だっただろう。21世紀の今は、国際化も進んでいる。今回はモンゴル人の留学生が大勢参加しており、馬頭琴の演奏も聴かれた。江戸は遠くなりにけり・・・ 。
    


深川不動の護摩焚き

2009年04月05日 | 神社

    
門前仲町(もんぜんなかちょう)の深川不動に行った。
  
ここは、関東屈指の初詣の名所・成田山新勝寺の流れを汲む。

平安の昔、東国に創建された成田不動。江戸時代には成田山への信仰熱が高まり、続々と参拝客が訪れた。歌舞伎役者の市川団十郎も成田山の信者だった。今でも、歌舞伎座では大向こうから「いよっ、成田屋!!」と声がかかるのは、ここに由来するという。今で言えば、「大物俳優が○○教に入信」といったところか。いわば、教団の広告塔。

とはいっても、成田は遠い。成田空港ができて久しい今でさえ、成田があまりに遠いので、ブーブーと不平が絶えないのが実情だ。まして、交通機関も発達していなかった江戸時代の庶民には、「成田に行きたしと思えど、成田はあまりに遠し」という状況だったのは、想像に難くない。そのため、江戸の下町につくられた出先機関が、深川不動である。
  
深川不動では、先祖供養のお札をもらおうと受付に行ったところ、徳の高そうな坊さんが供養してくれた。
 
護摩焚きまではしばらく時間があるので、「八十八箇所めぐり」のコーナーに行ってみた。ここは、四国八十八箇所のミニチュア版。手軽にお遍路さんが出来る、ありがたい存在だ。筆者は、例によってイメージトレーニング。四国をトボトボと歩くお遍路さんと化した自分が、イメージの世界に姿を現した(笑)。
 
そうこうしている内に、いよいよ護摩焚きの時間。善男善女がお堂に集ってくる。幸運にも最前列のVIP席に座れた。静寂の中、「ブォ~・・・」というホラ貝の音が廊下から鳴り響き、僧侶たちが登場。見ると、さっきの先祖供養の坊さんが中央の護摩台の前に座っている。

凄まじい鐘や太鼓の音が轟くなか、「ノウマク サンマンダー バーザラダン・・・」という真言や、読経の唱和が鳴り響く。特に、巨大な和太鼓の連打は、耳をつんざく轟音だ。「音響」なんてものではない。衝撃波で戸棚のガラスがビリビリと鳴り、振動がズシンズシンと腹にこたえる。この勢いで、悪霊も退散するという。 
 
坊さんが焚く護摩の炎は、天井近くまで吹き上がりつつ、火花を散らしながら崩れ落ちる。次々にくべられる護摩により、新たな炎がまた吹き上がる。火蝶が舞い飛び、屋根を焦がさんばかりの勢いだ。
 
終わってからも、しばらく余韻が冷めやらない。現代人にとっても十分に刺激的な、護摩焚き。ましてや、江戸の庶民が熱狂したのは、無理からぬことと思われた・・・。