宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

静寂は語る ~ エックハルト・トール

2010年05月06日 | エックハルト・トール
     
現代人の意識の中では、常に思考が渦を巻いている。人と一緒にいるときはもちろん、自分ひとりでいるときでさえ、沈黙していることは珍しい。ひとりごとをブツブツ言うのは論外としても(笑)、表面上は黙りこんでいる人だって、心の中は騒がしい。意識の内部では、いろんな思考が、止まることなく流れ続けている。
 
思考を、完全にストップするのは難しい。思考は、自然に湧き出してくるもの。止めても止めても、どんどん出てくる。インドの山奥で瞑想修行でもしているのならともかく、普通に生活している以上、止めるのは無理がある。
 
「思考を止めよう」などと思ったら、あまりにも難しくなってしまう。でも、思考を静めることなら、その気になれば出来るはず。ワーワーキャーキャーと騒がしかった子供たちが、幼稚園の先生に「静かにしなさい」と言われて、急におとなしくなるような感じ。「水を打ったような静寂」とまではいかずとも、とりあえず、それなりに静かにはなる。
 
しばらくすると、心の中が静まり返ってくる。人間は、慣性の生き物。その気になれば、慣れてくるものだ。慣れれば、だんだん居心地がよくなってくる。思考は、見た目よりもエネルギーを浪費している。無駄なエネルギーを使わなくてすむので、かえって楽になる。

静かに考えごとをしたいときに、周囲がザワザワしていると、「うるさいな」と思うものだ。でも、「心の中の静寂」に慣れてくると、自分自身が考えごとを始めただけでも、「うるさいな」と思うようになる。人は、変われば変わるものだ・・・。
  
エックハルト・トールによれば、まずは、そんな「心の中の静寂」を実現するのが第一歩。そこからが、本当のスタートとなる。

次に、そんな「心の中の静寂」に意識を向ける。「静寂に耳を傾ける」というのだ。そうすると、今までとは違った意識の次元が、目を覚ましてくるという。いわく、

静寂に耳を傾けると、あなた自身の内なる静止の次元が、目を覚まします。
 
>・・・すると、どうでしょう。真の叡智が、静かに活動を始めます。「静止の空間」。これこそが、創造性が誕生し、問題の解決策が見つかる場所なのです。
 
ここでいう「静止の次元」とか、「静止の空間」というのが何なのかは、心の中を静かにしてみて、初めて分かること。やってみれば誰でも分かる。「思考を止める瞑想」などとは違って、ちっとも難しくない。

なにかと騒がしかった表面意識が静かになることにより、別次元の意識が、ゆっくりと目を覚まし始める。それは、深遠なる叡智。心の中を静かにしただけで、叡智が目を覚ます。
 
今までの自分の意識の中では、「思考」というドシャ降りの雨が、絶え間なく降っていた。意識の中の世界は、濃い霧が立ち込めて、何も見えなくなっていた。「思考」を静めることによって、雨はやみ、霧が晴れてくる。澄み切った青空が、少しずつ見えてくる。今までとは、まるで別世界のようだ・・・。
 
スピリチュアルな覚醒とは、「思考の夢」から目覚めることです。 
 

 
 
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スティルネス ~ エックハルト・トール

2010年04月29日 | エックハルト・トール


 
世界が静寂に感じられるなら、そっと耳を澄ませてください。ただ静寂に気づくだけでいいのです。静寂に意識を向けるのです。静寂に耳を傾けると、あなた自身の内なる静止の次元が、目を覚まします。あなた自身が静止していないかぎり、静寂の次元に気づくことはありません。 (エックハルト・トール)
 
 
静かに止まっていること。それが、スティルネス。“STILLNESS SPEAKS” という原題でも分かるとおり、「静止」はエックハルト・トールにとって、最大のテーマのひとつ。

過去も未来もないなら、「いま、この瞬間」にいるしかない。ポール・デルヴォーの絵のように、「この瞬間」で、時計の針が永遠に止まる。無限の沈黙の中に、時が凍りついている。

重要なのは、心の中で沈黙することだ。「沈黙に耐えられなくて、思わず喋りだす」というのは、日常生活ではアリガチなことなのだが、それは対人的な場面だけでいい(笑)。せめて、自分の心の中では、それをやらないようにする。

沈黙に耐えるというのは、自分一人でも意外と大変なことだ。気がついたら、心の中で喋りだしている。しまいには、いつのまにか、声に出して喋っていたりする。エックハルト・トール自身、かつてはそうだった。他人から変な目で見られて、トイレで延々と独り言を言ってる自分に、はじめて気がついた・・・。

心の中での口数が少なくなると、内面的に静まり返ってくる。夜中に、家の中でテレビをつけっ放しにしていた人が、急にスイッチOFFしたようなものだ。今までは、ワイワイガヤガヤと音がしていたのに、急にシーンとなってしまう。慣れないうちは、静かすぎて不気味この上ない。

でも、なんとか、そこで踏み止まる。慣れれば、それが心地よくなってくる。心の中で沈黙していると、なんだか、外界までが静かになったような気がしてくるから、不思議なものだ・・・。


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いま、起きている出来事 ~ エックハルト・トール

2010年04月26日 | エックハルト・トール
 
ほとんどの人は、「いま、この瞬間」を、「いま、起こっている出来事」と錯覚しています。でも、このふたつは別のものです。「いま、この瞬間」は、そこで起こる出来事よりも、ずっと奥深いのです。  

(エックハルト・トール著 あさりみちこ訳 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より)
 

エックハルト・トールによれば、「いま、この瞬間」には、何も問題がない。

問題があったのは、過去のこと。未来には、また別の問題が生じるだろう。でも、「いま、この瞬間」には、何も問題がない。

「ちょっと待てよ」と言いたくなる人もいるだろう。「問題がない」なんて、トンデモない。現在の俺は、どちらかといえば問題だらけだ。というより、問題の山に押しつぶされて、ぺちゃんこの窒息状態に近い。まずは、現在の俺をなんとかしてくれ。

・・・と言いたい気持ちは、よく分かる。でも、それは誤解だというのだ。エックハルト・トールによれば、それは「いま、この瞬間」と、「いま、起こっている出来事」とを混同することから生じる錯覚だという。
 
それはつまり、「いま、起こっている出来事」というのは、「いま、この瞬間」を通り過ぎていく、日々の泡のようなものにすぎない。むしろ、「この瞬間」というのは、そんな「出来事」が起きる場だということ。
 
問題は、人々が、「起きている出来事」という形でしか、「いま」を認識できなくなっていることにある。例えば、「いま、ラーメンを食べている」というのは、「いま」そのものではない。ラーメンを食べていても、カレーライスを食べていても、車に乗っていても、「いま」に変わりはない。でも、人々は「ラーメンを食べている」という形でしか、「いま」をとらえられなくなっている。
 
人々にとって、「現在」とは、「現在の状況」という意味でしかない。それはやはり、過去から未来へとつながる流れの中の、通過点としての現在。あまりにも、そういう見方に慣れきっているため、それ意外の意味を考えてみようともしない。
  
とはいえ、まずは、そういう「現在の状況」を、まるごと受け入れることから始めるしかないだろう。「なんとかしよう」と燃えるわけでもなく、逆に「仕方がないさ」とあきらめるわけでもなく。とりあえず、現在の状況を、あるがままに受け入れる。 
 
現在の状況がどうであろうと、「いま」が「いま」であることに変わりはない。「いま、この瞬間」というのは、それよりも、もっと、ずっと深いところにある。現状をあるがままに受け入れたとき、初めて、その深淵が姿を見せてくる・・・。
 
ですから、「いま、この瞬間」を、その内容と混同してはなりません。「いま、この瞬間」は、その中で起こるどんな出来事よりも、深遠なのです。

(同上)
 
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意識を、「いま、この瞬間」にフォーカス ~ エックハルト・トール

2010年04月26日 | エックハルト・トール
 
意識を、「いま、この瞬間」にフォーカスするときにはいつでも、感覚が研ぎ澄まされます。それは、あたかも「夢」から覚めたときのようです。ただ、ここでいう夢とは、「思考」という夢、「過去と未来」という夢です。夢から覚めれば、なにもかもが見違えるほどクリアーに、シンプルに変わります。問題が生じる余地などありません。存在するのは、ただ、ありのままの、「いま、この瞬間」だけ・・・。
 
(エックハルト・トール著 あさりみちこ訳 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より)


「地球のアセンション」といえども、結局は、ひとりひとりの個人が覚醒するしかない。個人の覚醒を積み上げることにより、人類全体の意識進化が、結果としてついてくる。どうやら、それが見えてきた。

覚醒を目指すなら、やっぱり、まずは「現代のスピリチュアル・リーダー」こと、エックハルト・トールに学ぶべきだろう。

エックハルト・トールによれば、意識を「いま、この瞬間」にフォーカスすることにより、感覚が研ぎ澄まされる。なんと、それは、「夢から覚めたときのようだ」という。まさしく、「覚醒」そのものではないか・・・!?

人は皆、過去をひきずり、未来に向かって生きている。「いま、この瞬間」にフォーカスするとは、過去をひきずるのを止めること。そして、未来に向かって生きるのを止めること。

多くの人々は、「いま、この瞬間」を、未来への通過点と捉えている。今の自分は、残念・無念な状況だ。でも、こればっかりは仕方がない。人は、未来に向かって生きるしかないのだ。現在は、輝かしい(・・・というより、今と比べればマシな?)未来に向かって上る、長い階段のワンステップにすぎない・・・。
 
それは前向きなようでいて、実は、「時間」という信念に、丸ごと飲み込まれてしまった考え方と言えるだろう。それより、未来のことなど忘れて、「いま、この瞬間」に意識を集中する。意識のすべてをかけて、たったいま踏んでいる、階段のワンステップに集中する。すると、目の前に見えていた、「未来」へと続く果てしない階段が、たちまち真っ白な煙になって消えてしまう。振り向けば、「過去」からダラダラと続いていた階段も、いつのまにか消えてなくなっていた。もう進めないし、戻れない。階段がなくなったからには、ここにいるしかない。いまや、「現在」が、すべてとなった。
  
エックハルト・トールと言えば、「いま、ここに在る」(BE HERE NOW)というのが、定番だ。それは分かっちゃいるのだが、都会の雑踏の中をアクセクと生きるうち、ともすれば忘れそうになる。しだいに雑多な日常生活に飲み込まれて、埋没し、忘れていってしまう。

忘れるのは、仕方がない。忘れたら、思い出せばいいだけだ。「あ、そういえば、“いまに在る”だったな・・・!」という感じ。

問題があったのは、過去のこと。未来には、また別の問題が生じるだろう。でも、「いま、この瞬間」には、何も問題がない。
 
過去や未来のことは忘れて、「いま、この瞬間」に集中する。いろんな思考でごちゃまぜになっていた意識の内部が、だんだん、霧が晴れるようにクリアーになってくる。ひっきりなしに垂れ流されていた「思考」が、スローダウンしてきたのだ。自分の意識の内部で、莫大なエネルギーを浪費していた「思考」が、どうやら静まってきた。その分、外界に対する感受性が、みるみる鋭くなってくる。

外界への意識が鋭くなるにつれて、電線に止まっているスズメや、空を流れている雲など、今までは気に留まらなかったモノが見えてくる。死んでいた日常の風景が、たちまち生気を取り戻す。しなびて茶色くなっていた古い野菜が、急にシャキシャキした新鮮野菜になるような感じ。その思いがけない新鮮さに、すっかり驚いてしまう。
  
「過去と未来」は、思考が見ている夢。それは、物質界に特有の、破壊的な混沌でしかなかった。過去から離れ、未来からも離れるとき、意識は目を覚ます。それはまるで、夢から覚めるようだ。「覚醒」というのは、こんなにシンプルなものだったのか・・・。
 
意識的に「いま、この瞬間」へと足を踏み入れたとたん、人生が神聖であることに気づきます。いまに在るとき、目に映るすべてのものに、神聖さを見ます。

(同上)

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「いまに在る」という悟り ~ エックハルト・トール

2009年08月29日 | エックハルト・トール
  
エックハルト・トールによれば、「いまに在る」ことによって、すべての悩みは解消される。
 
すべての問題は、過去と未来にある。たった今、この瞬間には、何の問題もない・・・と、トールは断言する。
 
「ホントかよ・・・?」と思うところなのだが、ここは、試しにやってみるに限る。
 
過去と未来に関する、一切の思考を断ち切り、ひたすら「現在」に意識を集中。

ここは、集中力が肝心だ。集中力がないと、どうしても雑念がわいてくる。あらゆる雑念は、「あのとき、ああしておけば・・・」とか、「今夜は、何を食べようか・・・」といった、過去と未来に関するものばかり。「たった今、この瞬間」には、何の雑念もおきる要素がない。
 
別に、座禅を組んだり、瞑想しなくてもよい。道を歩いているときで十分。

ひたすら「今」だけに意識を集中していると、だんだん、意識が変化してくる。「頭の中の声」の口数が少なくなり、ついには完全に沈黙する。感受が鋭くなり、景色や音がやけに鮮明になってくることに驚く。体中の細胞に、生命力がみなぎってくるのを感じる。体が軽くなって、宙に浮かびそうな錯覚が起きるほどだ。

惜しむらくは、この状態がなかなか長続きしないということか・・・。もっとも、エックハルト・トールによれば、やってるうちに、だんだん長続きするようになるという。
 
ここで言う「今」というのは、漠然としたものではない。それは、カミソリの刃の上に立つように、先鋭な「この一瞬」。そこに、自分の全存在を賭ける。
 
悟りとは、完全に「いまに在る」ということ。悟りの世界には、時間など存在しない。そこには、「この一瞬」があるだけ。永遠に・・・。
 
 
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いま、ここに在る ~ エックハルト・トール

2009年08月29日 | エックハルト・トール
  
「いま、ここに在る」(BE HERE NOW) ~ これこそ、エックハルト・トール畢生のテーマ。
 
古来から、禅僧が語る「即今・此処・自己」(いま、ここ、われ)だ。欧米人であるエックハルト・トールは、当然のことながら、禅僧ではない。でも、古今東西の精神世界探求を通して、この結論へとたどりついた。
 
あらゆる悩みや苦しみの原因は、「時間」にある。

「時間」は、物質界に特有の観念。本来、意識の世界には、時間などない。だが、時間という観念が入り込んできた途端、意識の世界にも、物質界の破壊的な混沌がもたらされる。

過去の辛い記憶、感情。未来への苦い不安、恐れ。これが、人間の苦悩の元凶だ。

過去と未来を断ち切り、完全に「いまに在る」ことによってのみ、そこから離れられる。

まずは、過去や未来について考えないこと。もちろん、まったく考えなかったら日常生活に支障を来たすので、少しは考えるのだが、なるべく考えない。

クリシュナムルティは、「毎日、死になさい」と説いた。これはつまり、「毎日、生まれ変わりなさい」ということ。それどころか、「毎分ごとに死になさい」と説いた。「死にながら、生きていけ」というところか・・・。
 
仏教においても、禅僧の精神は一刹那(1秒の70分の1の長さ・・・だそうな)ごとに消滅して、そのたびに再生するという。「死んで生きるが禅の道」と、禅僧は説く。
 
徹底して、この瞬間のみに生きる。寸分のスキもなく、一瞬に全存在を賭ける。真の求道者とは、そういうものだ・・・。
  
 
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エゴの解体に向かう人類 ~ エックハルト・トール

2009年08月23日 | エックハルト・トール
 
エゴのアイデンティティにも、いろいろある。最も分かりやすいのは、自分の身体という「形」だろう。でも、エックハルト・トールによれば、最も重要なエゴの構成要素は、「思考や感情のパターン」だという。

いわく、「すべての心の活動の核心は、繰り返ししつこく反復される思考、感情、反応パターンでできていて、人はそこにもっとも強く自分を同一化している。それがエゴそのものである」。
  
「繰り返ししつこく反復される思考と感情のパターン」は、しばしば、「頭の中の声」となって表れる。人によっては、驚くほど長い期間にわたって延々と頭の中で垂れ流されている、「古いレコード」の声だ。

かつて、エックハルト・トールも、頭の中の声が鳴り続けていた。しまいには、口に出してブツブツ言うようになった。トイレの鏡の前で、隣の人が奇人変人を見る目で自分を見ていたため、ようやくそれに気づいたという。
 
「頭の中の声」の代表的なものは、現状に対する不平不満だろう。口には出さないまでも、心の中で愚痴っぽくなっているのだ。これは、誰にでもあるだろう。よほど満ち足りた人生を送っていれば、違うかもしれないが・・・。
 
心を静めるためには、現在の状況をあるがままに受け入れる必要がある。とはいっても、それは心的な抵抗を伴う。世の中、「気の持ちようでなんとかなる」というような問題ばかりではない。逆に、「なんとかならないか」と思うような問題が多い。受け入れがたい状況を、あえて受け入れる。それは、口で言うほど簡単なことではない。

多くの場合、「気づき」が絶望的な状況でもたらされてきたのは、そのためだ。エックハルト・トール自身がそうだった。「もうダメだ。何もかも終わった・・・」という、救いようのない絶望感。それまでは現在の状況を受け入れることに抵抗していたエゴが、そこで初めて、観念して屈服する。それは、まさに無条件降伏。

今までは、エゴを解体するために、このようなプロセスが必要とされてきた。「艱難辛苦、汝を玉にす」という、中国の格言を思い出す・・・。かつては、確かにそれが必要だった。でも、エックハルト・トールによれば、今は「気づき」を得るために、必ずしもそこまでの絶望や苦悩が必要とされてはいない。  
 
いわく、「しかし、いま地球では、かつてなかったほど大きな意識の流れが生じているので、もう激しい苦しみを通過しなくてもペインボディから自分を引き離すことができるようになった」。

つまり、いまは地球人類の意識が、急速に「気づき」とエゴの解体に向かっている。この流れに乗りさえすれば、わざわざ大変な目にあうまでもなく、「いまに在る」という目覚めへとスムーズに移行できるという。
 
この世界という幻想の中で、目覚めること。それが、われわれの今の目的。われわれが夢の中で目覚めたら、エゴが創りだした地球上のドラマは終焉し、もっと穏やかな、すばらしい夢が立ち現れる。それこそが、新しい地(ニューアース)なのだ・・・。
 

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「ほんとうの自分」とは何か ~ エックハルト・トール

2009年08月23日 | エックハルト・トール
 
エックハルト・トールの本には、「エゴの自分」と並んで、その奥にある「ほんとうの自分」というのが、よく出てくる。

でも、「ほんとうの自分」とは、いったい何なのか。実のところ、それを語るのは難しい。
  
エゴは、見せかけのアイデンティティを維持しようとしている。所有するモノ、自分の身体、さらには思考や感情・・・。社会的な立場や評価、所属する集団、家族や親戚なども、これに加わってくる。
 
「自分とは、○○なのである」、「自分とは、△△なのである」、「自分とは、××なのである」・・・というような思い込みがなければ、エゴという幻想は維持できない。エゴのアイデンティティは、そういう数々の定義づけから成り立っている。
  
これに対して、「ほんとうの自分」は、定義するのが難しい。というより、それは、すべての定義を取り除いたところにある。
 
モノや身体は、自分ではない。思考は、自分ではない。感情は、自分ではない・・・。こうした、「自分とは何か」という無意識の定義づけをひとつずつ取り除いていく中から、「ほんとうの自分」が浮かび上がってくる。
 
エックハルト・トールいわく、「自分が何者でないかを見きわめる中から、おのずと自分は何者かという現実が立ち現れる」。
 
このため、古代インドの昔から、「ほんとうの自分」は、いつも「○○は、自分ではない」、「△△は、自分ではない」、「××は、自分ではない」・・・といった、否定形で語られてきた。

「エゴ」を釈尊流に言えば、「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)。五蘊とは、色・受・想・行・識。ざっくりと言えば、色は物質的な身体、他の4つはいろいろな精神のはたらきを意味する。これらは、人間を構成する5つの要素。いつも壊れては再生している。人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ている。

これらを、「色(身体)は自分ではない」、「受(感受作用)は自分ではない」、「識(認識作用)は自分ではない」・・・と、ひとつひとつ否定していく。残るものは何もなく、カラッポ。
 
われわれが「自分」だと思い込んでいるもの。実は、それは自分ではなかった。これこそ、釈尊が繰り返し説いていた、「非我」。
 
エゴのアイデンティティを、ひとつひとつ取り除いていったら、後に残るものは何もない。このとき、エゴは消滅する。それが、ほんとうの自分。「ほんとうの自分」とは、「エゴの消滅」そのものだった・・・。
  
 
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エゴのアイデンティティ ~ エックハルト・トール

2009年08月18日 | エックハルト・トール
 
エックハルト・トールによれば、「自分」が、実は2人いる。ひとつは、「エゴ」の自分。もうひとつは、「大いなる存在」とつながっている、ほんとうの自分。
 
日頃、われわれは「エゴ」の方を自分だと思い込んでいる。「エゴ」が圧倒的に幅をきかせている影で、「大いなる存在とつながっている、ほんとうの自分」は、気づかれることもなく、ひっそりと埋もれている。
 
「ほんとうの自分」に言わせれば、「私という者がありながら、なんで、『エゴ』なんかに振り回されてるの?」というところだろう。
  
まずは、それに気づくのが第一歩。そして、まどろんでいる「ほんとうの自分」の意識を活性化すること。「目覚め」とは、そういうことを意味する。
 
いわく、「目覚めに不可欠なのは、目覚めていない自分を自覚すること。エゴイスティックに考え、話し、行動する自分と、そういう目覚めていない状態を持続させている、人類に刷り込まれた思考プロセスを認識することである」。
 
エゴと闘っても勝ち目はない。そもそも、闘えるような相手ではないのだ。それは、自分自身の影を相手にケンカするようなもの。エゴに対しては、それがエゴであるということに「気づく」しかない・・・。
 
エックハルト・トールによれば、エゴが生まれる根本原因のひとつに、「アイデンティティ」がある。
 
アイデンティティとは、「同一化」。平たく言えば、「私は○○である」といったような定義づけ、意味づけ、ラベル貼りを意味する。
 
もっとも、何にアイデンティティを感じるかは、人によって大きく異なる。最も分かりやすいのは、「所有するモノ」だという。
 
車、家、服、時計・アクセサリー・・・。「モノ」に自己イメージを投影している人は多い。「ニューアース」には、「祖母からもらった思い出の指輪を紛失してパニックに陥った、余命数ヶ月の末期ガン患者」の例が出ている。
 
「私には、あの指輪がないとダメなんです・・・」と悩む、末期ガンの女性。ついには、世話をしにきている人に盗られたのではないかと疑った。結局、指輪は生前には見つからず、死後にバスルームの棚で発見された・・・。もしも、亡くなる前にエックハルト・トールと面談してアドバイスを受けていなければ、安らぎを得られずに終わったことだろう。
 
モノ以外で、自分を同一化させる対象といえば、なんといっても自分の「身体」。
 
「男性であるか、女性であるか」という、性別がその最たるものだ。多くのひとびとの自尊心は、肉体的な力や器量、容姿、外見などと強く結びついている。身体に、コンプレックスを抱えて生きている人も多い。
 
身体は、本来は形のない意識体である自分に、輪郭をもった「形」を与える。これが、強固なセルフイメージになるのは仕方がない。ただし、身体には老衰と死がつきもの。「身体」を「自分」だと思い込んでいれば、遅かれ早かれ、きっと苦しむことになる・・・。
 
それに加えて、さらに重要なアイデンティティの源がある。それは、「思考や感情のパターン」だという。
 
われわれの頭や心の中で流れ続けている思考や感情は、身体と同じように、強固なセルフイメージになっている。あたかも、川を流れ続ける水が、川のアイデンティティになるようなものだ。
  
長い間、頭の中でなり続けている声、「古いレコード」。これが、「エゴ」の自分そのものになってしまっているようだ・・・。
   
 
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新しい地 ~ エックハルト・トール

2009年08月16日 | エックハルト・トール
    
エックハルト・トールによれば、いまや、人類は「生存を脅かす根源的な危機」に対処しなければならない。人類はいま、「進化するか死滅するかという重大な選択」を迫られているという。

でも、希望はある。それは、「古いエゴの思考パターンの崩壊と、新たな次元の意識の芽生えを体験している人々」が、まだ少ないとはいえ、その数が急激に増加しつつあるということ。つまり、多くの人々が、今まさに目覚めつつある。それは、地球人類の新しい種だ。
 
かつては、人々の意識が低すぎたため、せっかく現れた「人類の教師」たちの教えも誤解され、歪められ、スピリチュアルな目覚めにまでは至らなかった。それは、既存の宗教やイデオロギー、信念体系という形で残された。でも、いまや、それは終わろうとしている。変化は、人々の心や思考よりも深いところで起きている。
 
目覚めとは、新たな知識や信念から生まれるものではない。それは、ひとえに「意識の状態」によって決まる。それは、文字通り、眠っていた意識が目を覚ますことを意味する。
  
エックハルト・トールにとって、この世界は、われわれの意識が創造した世界。意識が変わらない限り、われわれはいつまでも、同じ世界を繰り返し創造し続けることになる。

だが、意識が変われば、世界も変わる。それは、人間だけでなく、地球上のすべて(そして、おそらく銀河宇宙のほかのところでも・・・)を変容させる。

「ニューアース」(新しい地)というタイトルは、聖書の予言からとった言葉だという。それは、人類の集合意識が変容することによって出現する、新たなる地球。
 
いわく、「古い意識が解体すれば、それと呼応して地球の多くの場所で、地理的にも気候的にも、自然に大きな変化が起きる」。
 
ただし、「いまに在る」という気づきを何よりも重視する人だけに、それを「未来の出来事」だとは決して言わない。われわれを解放するのは、現在のこの瞬間だけ。そこに気づくこと、それが目覚めなのだ。

新しい天と新しい地は、いまこの瞬間にわれわれの中に生じている・・・。
  
 
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