宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

死後の存続

2011年04月26日 | 精神世界を語る
 
「自分は、永遠に存続する魂なのだ」というような信念は、精神世界関係者なら大なり小なり、必ず持ってます。「無我」の代表選手である、お釈迦さまやクリシュナムルティだって、必ずしも、それを否定してるわけじゃありません。
 
「人間は、この世での生がすべてなのではありません。永遠に生まれ変わり、死に変わり、永遠に続く魂なのです」と、世間の一般人に説教する指導者は少なくない。いわく、この世での生がすべてだと思っている人は、世塵にまみれた人生をアクセクと送るうちに、元いた世界のことを忘れてしまったのだ。実のところ、それが人間界にアリガチな落とし穴なのだ。でも、ご安心ください。永遠の輪廻転生を知った皆さんは、今こそ目を覚まし、永遠の意識進化の道を歩み始めたのです・・・。
 
なんだか、すごく良いことを言っているように思える。でも、そこに別の落とし穴があったりするから要注意だ。まったく世の中、どこに危険が潜んでいるか分からないのである。そよ風の吹く広々とした草原に悠々と寝そべり、「ああ、至るところ罠だらけのセチがらい人間界と違って、大自然はホントに気持ちいいね~」とかなんとか言ってたら、草むらに潜んでいた毒蛇にかまれるようなものだ。
  
なぜ、それが落とし穴なのか。それは、それが形を変えた「自我の執着」になってしまっているケースが多いから。
 
「自我の執着」などと言ったら、大げさかもしれない。でも、決して甘くみるわけにいかない。
 
世間の一般人が、身体を自分だと思い、この世で少しでも長生きしたいと執着するのを見て、精神世界の探求者は違和感を覚える。神社にお参りして、「長生きさせてください」と神サマにお祈りする。それを見て、「ああ、世俗の人はなんと、現世の生に執着し、長生きしたがっていることよ」と、精神世界ファンはあきれて笑うかもしれない。 
 
でも、当の本人が、「ボクは、死んだ後でも永遠に長生きするんだぞ」と思っているとしたら、どうか。それに比べたら、「この世で長生きしたい」という願いなど、人間として自然な感情であり、カワイイものではないか。実のところ、前者の方がより深刻な「自我への執着」であり、もっと重症だと考える人もいる。釈尊やクリシュナムルティが、その代表格だろう。これは、精神世界の極北をゆく、最も硬派な考え方と言えるかもしれない。
  
物質世界では、形あるものは必ず壊れる。人間の身体ももちろん、その例外ではない。身体は、やがて死んで朽ち果てていくもの。そんなものに執着して、どうする。でも、心配ない。身体が死んでも、霊魂が生き伸びるから。
 
・・・そこまでは分かった。「じゃあ、霊魂は永遠に存続するのでしょうか?」というのが、われわれにとって本当に考えるべきテーマの始まり。
   
これは、「霊魂は永遠だ」と信じて疑わない人にとっては、意表を突かれる質問かもしれない。でも、霊魂だって、いつまでも、生まれ変わり、死に変わりを続けていられるのか。どっかで終わりが来たりしないのでしょうか?・・・つまり、身体と同様、霊魂にもいつか「死ぬ」ってことはないんでしょうか。ただ、続く長さが違うだけで。 
 
実のところ、これは、古代ギリシャの獄中で毒杯をあおいで死んでゆくソクラテスに、弟子が「最後に、これだけは聞いておきたい」として言い出した質問だ。以前から気になって仕方がなかった問題を、ソクラテス大先生に聞けるうちに聞いておこうというわけ。こう見えても2000年以上の歴史を持つ、由緒ある問いなのだ。
 
もちろん、そのときソクラテスが答えたように、霊魂が「死ぬ」ことなどあり得ない。霊魂こそは「生」の原動力、というより「生」そのものであって、本質的に「死」とは相容れないものだからだ。
 
でも、霊魂が「死ぬ」ということはなくても、集合意識の中に吸収され、いつのまにか消失してしまうということなら、あり得るのではなかろうか?

たとえてみれば、コップですくった海水を、元の大海に戻すようなものだ。コップの中の海水は、なくなったわけではない。広い海の中の、どこかに残っている。でも、大海に吸収されて一部になってしまい、元の形を取り戻すことは二度とない。

霊魂が「死ぬ」わけではないが、集合意識の中に「吸収されてしまう」というのは、そういうことを意味する。いずれにしても、個人としての自我は、そこで終了。「自分」は、消えてなくなる。 
 
結論から言えば、これはまあ、いずれはそうならざるを得ないんじゃなかろうか。宇宙とは、分離と統合を繰り返す壮大なプロセスそのものだ。「全体」から「個我」として分離したわれわれは、やがて「全体」に溶けて、消えていく運命・・・。
 
そう言うと、「なんだか、さびしい話だな」と思う人がいるかもしれない。でも、別にさびしくはないのである。なぜ、さびしくないのかといえば、それには理由がいろいろある。
 
ひとつには、「統合」のプロセスが完成するのが、まだ当分、先の話だからだ。現在、地球は「第三密度」の進化段階にある。ここでは、ひとりひとりの個人がバラバラに分かれている。生き残るための対立とか闘争とか、何を考えているのか分からない相手との話し合いとか・・・を果てしなく続けて、皆が疲れきっている大変な世界だ。でも、そんな世界は、いつまでも続かない。地球はもうすぐ、「第四密度」へと移行すると言われている。第四密度は、シンクロニシティの世界。われわれは、依然として個人個人に別れてはいるけれど、お互いが「共鳴」によって結び付いていくという。つまり、今までほどバラバラな個体ではなくなる。人々の存在は「集合意識」へとかなり近づいていく。
 
でも、第四密度においても、人々は完全な集合意識になるわけではない。まだまだ、個人としての意識は濃厚に残ると言われている。例えていえば、戸建住宅から、共有部分のある区分所有マンションになるようなものか。人々は、完全にバラバラな意識ではなく、共有する部分ができてくる。しかも、共有部分がだんだん大きくなってくるという。
 
さらに、その先がある。第四密度の次は、「第五密度」の世界が待っている。第五密度では、人類がさらに集合意識へと近づいている。今度は、むしろ意識を共有している部分が中心となり、個人としての意識はかなり薄れている。ただ、それでもまだ、完全な集合意識として一体化しているわけではない。個人としての意識は、それでも残っている。さらにその次の第六密度に至って、やっと集合意識としての統合が完成を迎えるらしい。人類の意識は、ついに一体化して、巨大な一つの意識となる。
 
となると、「第六密度になって完全に統合された集合意識になったら、各個人はどうなっちゃうんでしょうか?」というのが素朴な疑問というものだろう。それについては、「なってみなければ分からない」としか言いようがない。どうせ分かるわけがないのだから、今から考えてみても仕方がないのである。統合のプロセスとは、それほどまでに壮大で、遠大な目標なのだ・・・。
 
でも、「個人としての自我が消えてなくなる」というのが別にさびしくないのには、それ以上の理由がある。
 
最大の理由は、そもそも、精神世界の探求者なら、そんなことを気にしないからだ。「なあんだ」と思えるような理由かもしれない。でも、それが最大の理由。不思議なことに、精神世界の探求が進むにつれて、「死後の存続」という問題がだんだん小さくなり、いつのまにか、問題そのものが消失してしまうのである。それが、この問題に対する最終的な解決。
 
そのことを我々に教えてくれたのは、やっぱり、古代インドのお釈迦さまだった。
 
ある人が、「悟った人は、死んだ後はドコへ行くのでしょうか?」と釈尊に質問した。これに対する釈尊の答は、質問者の意表を突くものだった。なんと、「燃えていた薪(たきぎ)の火が、消えたとする。火はどこに行ったのか?」と、逆に質問されたのだ。質問者は答えた。「どこへも行きません、師よ。それは、ただ消えたのです」。それを聞いた釈尊は、我が意を得たとばかりに、「その通りだ。やっと分かってきたみたいだな」と言ったという。
 
これを見ると、釈尊は「死後の存続」を否定していたように思える。実際に、「釈尊は、あの世とか生まれ変わりを否定していた」と見る人は、決して少なくない。でも、それはやはり、単純すぎるモノの見方というものだ。
 
「人は、死ねば無になる。だから生きてる間は精一杯、生きよう」というのは、現代人に特有な、特に20世紀の実存主義者が持っていた考え方だ。お釈迦さまが、そう言っていたわけではない。「人間は、死ねばオシマイなのさ」なんてことを言ってたら、それはそれで、やっぱりお釈迦さまに叱られる。それは、虚無主義につながる危険思想だ。物質世界での生をすべてだと思う人たちの発想は、あらゆる価値観の喪失につながりかねない。だから、こんな考え方をすることは、規則で禁止されている。
   
「じゃあ、どっちなの?」と言いたくなるところなのだが、実のところ、「どっちでもないのさ。そんなことは気にするな」というのが最終回答なのだ。一見、答に見えないのだが、それが最終回答。
 
というのも、精神世界の探求が進むにつれて、人は現在の一瞬のみに生きるようになっていく。「いま、ここ」だけに全生命を燃やし尽くす生き方をするようになる。そんな人が、「死後の存続」のことなど気にするはずがない。気にしないというより、そもそも、「死後の存続」という信念そのものが、「時間」という物質世界に特有の観念にしばられた錯覚だったのだ・・・ということに気づく。
  
多くの人は、「自分は、死んだ後でどうなるのだろうか?」という興味から、精神世界の探求に入っていく。通常、そのことに興味を持たないような人は、精神世界とは無縁の一生を送る人だ。でも、探求が進むにつれて、それは気にならなくなってくる。逆説的なのだが、それが真実だ・・・・・。
 

ネガティブな意識進化とは

2011年04月20日 | 精神世界を語る
 
ポジティブな意識進化の道とは、「大いなるすべて」もしくは、「一なるもの」に向かって統合されていくプロセス。

これに対して、ネガティブな意識進化の道とは、「永遠に存続する自分の魂」にこだわり、「魂修行」を通じて自力を無限に強化していこうとする方向を意味する。

「分離主義者」と言ったほうが分かりやすいのに、なぜ、あえて「ネガティブ」と呼ぶのか。そこにはやはり、「一なるものへの統合を拒否する人々」という、否定的なニュアンスがある。

現在の地球のような第三密度の世界では、この両者が混ざり合っていて区別がつきにくい。でも、これから第四密度へと地球が進化するにつれて、ポジティブ側では「一なるもの」に向かっての統合がだんだん進んでくる。そうなると、統合を拒否して「永遠の輪廻転生」を続けようとする人々の存在が、イヤでも浮き上がってくることになる。

「一なるもの」への統合の引力は強烈だ。バラバラだった個々の自我を、渦潮のように回転しながら巻き込んでいく。今は自力で立っていられても、次第に強さを増してくる「統合」の渦に巻き込まれずにいるのは難しい。そんな中で、「かけがえのない、自分の魂」を守り続けるためには、必死で踏ん張って抵抗しなければならなくなる。

かくして、ネガティブな分離主義者たちは、統合を拒否して戦う、レジスタンス闘争をせざるを得なくなる・・・ということらしい。今は自覚が乏しくても、ネガティブな意識進化の道に入った人々は、いずれそういう対応を迫られることになる。

もっとも、「チャネリング界の聖典」こと「ラー文書」によれば、ネガティブな道を通って第四密度に進化するのは、非常に難しい。それこそ、ジンギスカンやラスプーチンのような、常人とはかけ離れた超人的なネガティブパワーの持ち主でなければ無理みたいだ。ますます強さを増してくる「統合」の渦に背を向けて抵抗し続けるためには、そのくらいのパワーがいるということだろう。

単に「自己愛が強い」という程度じゃ無理みたい。そういう人は、ネガティブな第四密度(4D-negative)に入ることはできない。じゃあ、どこに行くのか。「第三密度でやり直し」というのが、その答になる。今の地球と同じような、第三密度で輪廻転生を続ける。慣れ親しんできた環境で「魂修行」をずっと続けられるのだから、本人の希望に最もかなっていると言えるだろう。

とはいうものの、4Dネガティブの勢力は、自陣営への取り込みを図るべく、地球人に積極的なアプローチを続けている。「アナタは永遠に存続する不死の存在だ。もうすぐ、神の声が聞こえるようになる。アナタ自身が生成途上の神なのだ」・・・といった、甘美なささやき。自己愛をくすぐる、心地よい誘惑だ。信者がどんどん集まってくる。

しまいには、「もうすぐ天変地異が起きて、地球人類は激減する。生き残ったわれわれは、それを機に飛躍的な霊的進化を遂げるのだ」というような危険思想を唱えだすこともあるから要注意。これは大げさでもなんでもなく、実際にそういうケースが少なくない。

かくして、第三密度ではポジティブとネガティブの両サイドが入り混じって雑居している。水面下では、激しい綱引きが行われている。それが、第四密度に至ってクッキリと分かれる。今こそ、分かれ目。いざ、さらば・・・といったところだろう。


意識進化の路線選択

2011年04月15日 | 精神世界を語る
   
最近は、まさしく激動の世の中だ。時間がたつのが、本当に早い。人類の意識の変容は、ますます近づいている。目には見えなくとも、われわれ地球に生きる者たちは、重大な岐路に立たされている。
  
いまや、第三密度の地球を卒業するときが来た。これから我々を待っているのは、第四密度の地球だ。同じ地球でも、ちょっと違う。どんな世界になるかは、なってみなければ分からない。分かっているのは、「どうやら、違うらしい」ということだけ。
 
というのも、これは学校を卒業するのと同じなのだ。卒業生にとって、これからスタートする社会人生活は、まさしく未体験ゾーン。先に第四密度の世界に入った人々から、少しずつウワサは耳に入ってくる。でも、やっぱり、百聞は一見に如かず。自分がその世界に入ってみなければ、分からないことばかりだ。
 
今の我々にできるのは、進路を選択することだけ。現時点でやるべきことは、「これから、どの方向に向かって進むのか」を決めることに尽きる。あとは、各自が決めた方向に向かって進むだけだろう。
 
第三密度を卒業した人が、これから進むべき第四密度の意識進化には、大きく分けて2つの方向があると言われている。ご存知、「ポジティブとネガティブ」だ。とはいっても、ポジティブ・ネガティブっていったい何?・・・ということになるだろう。精神世界は、百人いれば百通りの意見が錯綜する世界。決まった答があるわけじゃないのだが、だいたいの「共通見解」みたいなものはできてきている。
 
精神世界でいう「ポジティブな意識進化」とは、おのれを無にして、「大いなるすべて」に統合されていく意識進化の道を意味する。

たとえてみれば、大海の水を、コップ1杯すくったとする。もとの大海も、コップの中も、中身は同じ海水だ。でも、時間がたつにつれて、コップの中の海水が、自己意識を持ち始める。もとは大海の一部だったことを忘れ、コップを自分だと思い込み、「俺だよ」という自己主張を開始する。いってみれば、それが1人1人の個人なのだ。だが、コップは永遠に続かない。問題は、コップが割れたときだ。中の海水は、もとの大海に戻っていく。

これは人間に限らず、動物・植物・鉱物、すべてに言えること。「全体」から分かれた「個別」の存在は、永遠に続くわけではない。いつかは、再び全体に統合され、吸収されるときがくる。それが、ポジティブな意識進化の道。
 
ポジティブな意識進化の道は、平和で安寧で、すばらしい。でも、没個性的なのが、やや残念。ボクは、この「自分」というユニークな存在に、ことのほか愛着があるのだ。もっともっと、自分の個性を伸ばして、ダイヤモンドのように輝かせていきたい。そういう要望がある人も、安心していい。そういう人には、ちゃんと別のメニューが用意されている。宇宙は広いのだ。それこそが、ネガティブな意識進化の道。
 
ネガティブな意識進化の道を選択した人は、この「自分」という個別の存在に、とことんこだわって生きる。永遠に生まれ変わり、死に変わり、無限の魂修行を続けて、ダイヤモンドのように光り輝く自分になる。いつかは、神さまの領域にまで、進化していけるだろう。「人間は、生成途上の神である」というのは、そういうことを意味する。
 
精神世界には、大きく分けて、このような2つの路線がある。誰もが、このどちらかを選択している。

おもしろいのは、精神世界関係者には、「私はネガティブな意識進化の道を選択しました」と自己申告する人が、誰もいないということ。ほぼ全員が例外なく、「自分はポジティブ・サイドに属している」と考えているのが、精神世界関係者の特徴だろう(笑)。でも、やっぱり、そんなことはない。自覚がないだけで、知らず知らずのうちにネガティブな意識進化の道を踏み出している人々は決して少なくない。
 
「人間は、生まれ変わり、死に変わり、永遠に生き通しの霊魂だ。無限の魂修行を続けて、はてしなく進歩向上し、神の域に向かって霊的に進化していくのである」というような人間観を強調している新興宗教が、日本にはしばしば見られる。なかなか見分けにくいのだが、こういうのは基本的に「ネガティブな意識進化」の路線と言っていい。
 
というのも、「自分は、永遠に生き通しの魂だ」という時点で、すでに個別存在としての「自分」を、普遍存在としての「大いなるすべて」から、永遠に切り離されたものと見なしている。将来的に、吸収統合されるとは思っていない。分離の永続だ。さらに「魂修行」によって、おのれの個性を磨き、自力をひたすら強化していくことにより、偉大なる個別存在になろうとしている。最終的には、巨大な神霊にまで進化することが可能だという。それは、永遠なる自我の強化。
 
そう言うと、新興宗教の信者には、「俺の信仰をネガティブ呼ばわりするのか」といって、すぐ怒り出す人がいる。さすがに、「永遠の魂修行」をしようというだけあって、マジメな努力家なのかもしれない。だから、すぐ本気で怒る。でも、こちらは別に、そういうのが悪いと言ってるわけではないのだ。「それは、ネガティブな意識進化の道ですよ」と言ってるだけ。
  
「おのれの魂を永遠に強化していく」という路線を鮮明に掲げている人々だって、「私は、調和された愛と慈悲の世界を目指している。だから、ポジティブ・サイドに属しているのだ」と考えている。誰も、ネガティブだと思ってその道に入ったわけじゃないらしい。でも、それはやっぱり、微妙に違う。「愛と調和と利他」を唱えていれば、ポジティブ・サイドだというわけではない。そうではなくて、分離の永続と、自我の強化を目指して意識進化してゆく人々が、「ネガティブ・サイド」に分類されるのである。ここがカンジンなところなので、くれぐれも肝に銘じておかれたほうがよいのではなかろうか。
 
これは別に、「光と闇の二元対立」とかなんとか、そういうものではない。単に、目指す意識進化の方向が違うだけ。ネガティブな道をしばらく進んだ後、「やっぱ、や~めた」と思って、ポジティブに路線変更することもできる。逆に、ポジティブからネガティブに路線変更することだって、その気になれば十分に可能だ。意識進化の道は、単純ではない。ご要望に応じて、いろんなメニューが用意されている。宇宙は広いのだ・・・。
 

中国、大異変の前兆か ~ 政府が報告求める事態に

2011年04月10日 | こっくり亭日記
  
[北京 6日 ロイター]
 
>中国東部の江蘇省でカエルやヘビの大群が目撃され、大災害の前兆ではないかとのうわさから市民がパニックになるのを危惧した同省当局が、こうした異常現象に対する合理的な説明を提供するために、事例を報告するよう呼び掛けている。新華社が6日伝えた。
 
>中国では共産党が市民らに迷信を信じないよう長らく訴えてきたが、特にあまり近代化が進んでいない地方部では、いまだに迷信が根強く残っている。2004年には、胡錦濤国家主席の出生地で数千羽の小鳥が空から落下して怪死する出来事があり、胡体制への悪い前兆だと見る市民もいた。
 
    
中国でも、大騒ぎが起きている。東シナ海を隔てて九州の向こう側にある江蘇省で、なんと、カエルやヘビの大群が目撃されたというのだ。政府が「超常現象の報告」を求める事態に発展しているというから、現地ではよほどの騒ぎになっているのだろう。
 
もちろん、「動物が奇妙な行動を取るのは、大地震の前触れだ」というような科学的な理由もあるのだろうが、それだけではない。中国では古来から、このような異常現象は、「政治体制が激変する前触れ」であるともされている。天子たる皇帝が不徳な政治を行い、天命を失ったとき、「そろそろ、お前は交替せよ」という天意が、そのような形で表れるというのだ。
 
それ以上に衝撃的なのは、このニュースにある、「数千羽の小鳥が空から落下して怪死した」という数年前の事件。これは、怖い。その場に居合わせたら気絶するんじゃないかと思えるほどの怖さだ。ヒッチコックの映画にも、ここまでの不気味さはない。モノ言わぬ無数の小鳥たちは、わざわざ、最高権力者である胡錦濤国家主席の出生地を選んで空から降ってきた。徳を失った現代の皇帝に、天に代わって無言の意志を示したのかもしれない。
   
ユーラシア大陸の西側にある中東・北アフリカ諸国では、民衆の暴動が激化して、独裁者の政権が次々と倒れている。原因は、穀物価格の値上がりだとされている。心配なのは、中東産油国、特にサウジアラビアへの影響だ。おかげで、原油の価格までが上がっている。原油価格の高騰を前にして、欧米諸国はインフレ対策の手を打ち始めた。
  
穀物や原油の値上がりは、当然のことながら中国経済をも直撃する。というより、中国経済を最も直撃する。成熟しきって久しい日本や欧州諸国と違って、労働者の賃金がどんどん上がり、商品の需要もウナギ昇りの中国は、もともとインフレ型の社会なのだから仕方がない。
 
でも、穀物や原油の値上がりをなんとかしなければ、民衆の不満を抑えることはできない。そのために有効なのは、政府が金融引き締め策 (政策金利を引き上げるとか、金融機関の余裕資金を吸い上げるとか・・・) を実施することだ。いわば、世の中のカネ回りをワザと悪くすることによって、物価が上がるのを防ごうとする常套手段。でも、それは不動産マーケットに致命的なダメージをもたらしかねない。
  
中国の不動産価格が高騰したのは、人口が多くて将来性が高いからではない。金融機関がジャンジャンお金を貸して、そのお金でみんながガンガン不動産に投資すれば、どこの国だって不動産マーケットは右肩上がりになる。人口が十億だろうが一億だろうが、関係ない。不動産で儲かった分、みんなで過剰消費をすれば、いやでも景気は良くなる。これまた、どこの国でも同じこと。
   
問題は、「永久に不動産が上がり続けることはない」ということだ。上がったものは、いつか下がるときが来る。反動が怖いから、日米欧の先進各国は、なんらかの歯止めをかけようと対策を立てる。それでも、つい2~3年前には英米を中心とする世界的な不動産バブルが崩壊して、世界経済が大混乱になったばかりだ。そんな中で、怖いもの知らずなのは中国のような新興国だけだろう。
    
20年前の日本では、絶大な権力を握っていた当時の大蔵省が、「総量規制」を発して不動産バブルをつぶした。大蔵省が「これ以上、不動産業者にお金を貸すな」と銀行に命令して、銀行はそのとおり忠実に実行した。その結果、不動産業界は致命的なダメージをこうむり、不動産価格が暴落してしまった。その結果が、「失われた10年」と呼ばれる深刻な大不況だ。この、隣国が残してくれた貴重な失敗事例があるだけに、中国政府も、無理な金融の引き締めが不動産マーケットに深刻なダメージをもたらすことを十分に承知している。この深刻なジレンマを、どう解決するのか。
  
同様の指摘をする声が、世界的にどんどん増えている。先日も、世界銀行の専門家が「中国で、いよいよ不動産バブルの崩壊が近い」という主旨の警告をしたばかり。
 
とはいっても、このままインフレを放置しておくわけにはいかない。十億の民衆の不満が爆発する日は、すぐそこまで来ている。その猛威たるや、エジプトやシリアの比ではない。民衆の暴動で政権が倒れるのは、古来から広大な大陸国家の宿命だ。広いだけに、いったん国家が瓦解してバラバラになってくれば、地方をコントロールすることが誰にもできなくなってしまう。
 
いよいよ変わろうとしている世界。でも、「改革の本丸」と言えるのはやっぱり、ケタ違いの人口を抱える中国だろう。なんといっても世界の人口の何割かを占める国だけに、地球人類の集合意識に及ぼす影響は計り知れない。もう10年以上も前から、「変わる、変わる」と期待を込めて語られ続けてきた中国。2011年は、そんな中国がいよいよ本当に変わる年になりそう。危険な予兆を察知したか、カエルやヘビまで逃げ出した。「沈む船からは、ネズミが逃げていく」というのを連想させる話だ・・・。
   

激動つづく、2011年の世界情勢

2011年04月10日 | こっくり亭日記
    
大地震と原発事故で、世の中はひっくり返るような大騒ぎだ。まだまだ、余震は続いている。その影に隠れて目立たないものの、世界情勢もまた、いよいよ激変しつつある。
 
戦争が国際化したリビアだけでなく、シリアでも大規模デモが起こり、4月9日には政府の鎮圧によって37名が死亡した。アラビア半島南端の国・イエメンでも混乱が泥沼化し、周囲のアラブ諸国が現職大統領の辞任を柱とする調停案を打ち出した。やはり北アフリカにとどまらず、アラビア半島にまで広がってきた中東の連鎖革命。
  
今の世界は、地球の裏側まですべてが連動している。「東洋経済」によると、最近の中東における民主化革命は、パンの値上がりがキッカケで起きた。なぜ、パンが急激に値上がりしたのか。それは、去年の夏に起きた、史上空前ともいえるロシアの猛暑だという。極北の地であるロシアが、去年の夏はなぜか熱帯なみに暑かった。あまりの暑さと乾燥で、トンデモない大火災が起きたのは、もう大昔のことみたい。でも、つい最近のことだ。それが原因で、小麦の価格が急騰し、巡り巡って中東でのパン価格の暴騰 → 民衆の暴動 → 政権の転覆・・・という結果につながった。
 
すさまじい異常気象と、政治情勢や経済情勢の激動は、こんな形でリンクしている。
  
それにしても恐ろしいのは、食べ物の恨み。主食となる食料品の価格高騰は、社会を一気に不安定なものにする。18世紀末のフランス大革命も、キッカケはパンの価格が暴騰したことだったという。
  
食料品の値上がりは、もちろん中東だけの問題ではない。ヨーロッパでも、インフレ懸念が強くなってきている。20世紀の前半に第一次大戦後の超インフレで大パニックになって以来、伝統的にインフレ恐怖症のドイツが、今の欧州では圧倒的な経済的リーダーシップを握っている。それだけに、日米に先駆けて、欧州はインフレ対策を打ち出した。「物価安定」を至上命題とするECB・欧州中央銀行が、0.25%の金利引き上げを断行したのだ。
  
そんな中で、ポルトガルが財政破綻し、欧州諸国に支援を要請した。南欧諸国を中心とする欧州の一部の国々が財政危機に陥っているのは、昨年来、もはや周知の事実。頭文字をとって“PIGS”と呼ばれるポルトガル・アイルランド・ギリシャ・スペインの4カ国が特に問題国家とされてきたが、実際に、去年の夏にはギリシャが破綻し、秋にアイルランドが破綻し、今度はポルトガル。予想通り、危ない国々が続々と緊急支援を要請する事態になっている。ということは、次はやっぱり、スペインなのか?・・・というのは、誰もが思っていることだろう。
   
インフレ懸念は、アメリカでも強まってきている。需要不足に悩む日本はいつまでもデフレ一色なのだが、ところ変われば品変わるということか。4月8日、米原油先物は111ドル台まで上昇し、2008年9月以来の高値を付けた。金は1オンス=1465ドルを超え、過去最高値を更新。車で遠距離通勤している人が多いアメリカ人にとって、ガソリンの高騰が死活問題なのだという事情は、ここ数年で外国にも知れ渡ってきた。そんな石油が値上がりしているのは、支持率が低迷するオバマ大統領にとっても大変な難問だ。
 
オバマといえば、気になるのはアフガニスタンでの戦争が泥沼化していることだろう。古代から難攻不落の自然要塞だった山岳国家は、多くの米兵の生命を飲み込み、いよいよ「第二のベトナム」と言われ始めている。前の大統領のブッシュは、戦争屋と呼ばれて評判が悪かったが、ブッシュが断行した大規模な米軍増派により、独裁者が排除されてイラク戦争が一気に終結したのは歴史的事実だ。ハト派のオバマ大統領に、それが期待できるのか?
 
昔も今も、軍需産業に依存するアメリカ経済にとって、景気の特効薬といえば「軍事予算」と相場が決まっている。それだけに、人気回復の決定打としてオバマ大統領がなんらかの行動を起こす可能性は小さくないという声が多い。
 
いずれにしても、さらに激変しそうな2011年の世界情勢。世界は、いよいよ変わろうとしている。