宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

もうすぐ、未来世界そのものになる

2022年10月02日 | 精神世界を語る
並木良和氏は、「2038年説」を唱えている。何の説かっていったら、「アセンションが起きる年」だ。

まあ、「1999年7の月」にも、「2012年の冬至」にも、とくに変わったことは起きなかったじゃないか・・・という向きはあるだろう。確かに、その通り。反論はしない(笑)

でも、そこは解釈の問題だろう。2012年の冬至は、地球人類が急速な変化を始めた年。そして、いよいよ大きな変化を実感するのが2038年、というわけだ。

個人的には、「2039年説」を唱えたい(とくに根拠はないのだが)。というのも、1939年の第二次世界大戦勃発、1989年のベルリンの壁崩壊と、世界の歴史は50年に1度、大きな節目を迎えてきた。どちらの事件も、それをキッカケに世界は急速な変化へと突入した。その50年後に当たる2039年には、昔から何かがありそうな気がするから、というのが理由。

それはともかく、本題に入ると、「21世紀になったら、SF映画そのもののような未来世界になると思ってた。でも、変わったのはパソコン・スマートフォン・インターネットなど、情報通信関連くらいだ。あとは、20世紀とたいした違いがない」という声をよく聞く。

確かに、そういう面もある。でも、それを判断するのは、まだ早い。人工知能、ロボット、超高速鉄道、無人運転車、空飛ぶクルマ・・・そういったものが、これから5年か10年くらいでドッと世に出てくる。急速に世の中は変わるのは、これからだからだ。
 
ハッキリ言って、2020年代から2030年代にかけては、SF映画でイメージされてたような「未来世界」が実現する時代となるだろう。江戸時代の常識が現在の世界ではまったく通用しないように、2039年の世界にも現在の常識は通じない。世界は、途方もなく変わろうとしている。

スピリチュアルな人には、こうした変化を好まない人もいる。科学技術の進歩は、意識の進化を意味しない。むしろ、意識の退化につながる恐れすらある。逆に科学技術を棄てて、自然に還るべきだ・・・という主張。

これについては、もちろん否定しない。それもひとつの考え方だと思う。だが、個人的には賛成できない。

「地球がこれほど暮らしにくいイビツな世界なのは、科学技術が未発達なのが大きな原因だ。ここはあまりに不便すぎる。テクノロジーがもっと大幅に進歩した世界が普通なのであり、おかしいのは地球だ」と、筆者は幼少の頃から思っていたし、ずっとそう主張してきている。

地球人類が古代や原始時代に戻るべきだという意見には、まったく賛成できない。気持ちは分かるし尊重するけど、賛成する気にはとてもなれない。「日本は江戸時代の幕藩体制に戻るべきだ」という人が知り合いにいるけど、それにも賛成できない。

よくある、「人工知能で仕事がなくなり、格差が拡大して不幸になる人々が増える」という意見にも、筆者は大反対だ。地球のコンピュータ技術は、まだ遅れている。昔とは比べものにならないほど進歩したけど、まだまだこんなものではない。もっと大幅に進歩すべきと考えている。みんながこの意見に賛成するとは、もちろん思わないけど(笑)

率直な意見として、地球環境の不便さには本当にウンザリだ。これからは大きく変わって、もっと便利になる。もっと便利なのが、あるべき通常の状態だ。地球はこれから、いよいよ普通の惑星になる・・・(笑)
  

地球に設置した情報端末

2021年11月12日 | 精神世界を語る
数年ぶりにブログを再開したばかりなので、自己紹介を兼ねて、自分のこともいろいろと書いている。それというのも、久しぶりに昔の記事を読み返してみると、自分の強みと弱みをヒシヒシと感じるからだ。

良くも悪くも、筆者はとにかく知識が多い。文系ジャンルは特に得意で、哲学の話をしているときは普通に哲学マニアだし、歴史の話をしているときは歴史マニアにしか見えない。法律・経済・会計・金融・不動産といった実務的な分野だけでも、「ずいぶん、何にでも詳しいんですね」と感心される。それでいて、理系ジャンルにもそこそこ強い。学習塾で数学や理科の先生をやってた時期もあるし、技術者のタマゴの人たちに講義したことすらある。

先日は、車で移動してたところ、同乗者が車内でクラシック音楽を聞き始めたが、筆者が「これはブルックナーの交響曲第6番の第2楽章」とか、「これはプロコフィエフのバイオリン協奏曲第1番」とか、たいていの曲を知ってるので相手はビックリしてしまった。美術館や博物館にもずっと通い続けているので、西洋美術でも東洋美術でも、たいていのことは知っている。

これだけ知識を収集するには、いくら地球で何十年も生きてきたといっても、かなり寸暇を惜しんで忙しく取り組む必要があった。真っ当に生きてたんじゃ、日々の生活に忙しくて、とても無理だろう。明らかに、人生の重点がそっちに行ってしまっている(笑)

こんなに知識を集めてきたのは、自分の強みでもあるけれど、同時に弱点にもなっている。あまりにも、ムダな回り道が多すぎた。もしも精神世界に専念して、それだけをずっとやってきたとしたら、もっと優秀なスピリチュアリストになったことだろう。それを思うと「これで良かったのか?」と思わずにはいられない。

というのも、精神世界を探求する上では、むしろ余計な知識や雑念を捨てて、霊的な感性を研ぎ澄ますだけに専念した方が良い。スポーツマンが、余計な筋肉をつけない方が良いのと同じだ。スピリチュアリストに、余計な知識は必要ない。それを思うと、自分で自分の限界を作ってしまったかもしれない。最近しみじみ、そう思うようになった。もっと早く、そこに気づくべきだった(ていうか、そうなるのは分かってたけど)。でも、こうなった以上は、まあ仕方ないか。

これは今に始まったことではないのかもしれない。以前、「霊感が強い」と評判の人物に会ったとき、「過去世で会ったことがある」といきなり言われたことがある。「あれは、古代ギリシャだった。アナタはものすごく博学で、妙になんでも知っていた」と初対面でいきなり言われた。

その「古代ギリシャの過去世」については真偽不明だからさておくとして、それくらい、筆者は妙に必死で地球の情報を収集してきた。「自分は、宇宙のどこかにある本体意識から、地球に送り込まれた情報端末なのだ」というゆえんが、そこにある。この地球史上最大の変容の時期に、ここで何十年もかけて、ひたすら情報をカキ集めているのだ。「興味深い時期なので、ここは地球に情報端末を1個、設置しておこう」という感じ。

今は地球人類にとって、最大の変容の時期だ。地球にいる目的は人それぞれにあるだろうが、結局のところ、重要なのはそこに尽きる。正直なところ、自分の人生のことより、「地球の変容」の方がよほど気になっている(笑)。これに比べると、自分のことなど、とても小さなことに思えるからだ。というのも、地球人類が変容すれば、自分もつられて変わるに決まっている。「大は小を兼ねる」という言葉の通り。

地球の歴史を振り返ってみると、それがよく分かる。地球の歴史はだんだん加速してきており、いまは途方もなくスピードが速い。スピードが速いとは、それだけエネルギーが大きいということ。地球の人口は70億人を突破し、信じがたいほど巨大な集団と化した。

いってみれば、超大型トラックが、レーシングカーなみの猛スピードで疾走している状況。それが、いまの地球人類。

この興味深い変容を見届けるため、宇宙の各地から観察者が集まっていることは、よく知られている。それは、「宇宙船を地球に派遣する」というやり方だけではない。意識の一部を地球に送り込み、そこで地球人として生活させながら定点観測するという、よりダイレクトな方法もある。

「自分は何のために生きてるのか分からない」と悩んでいる人もときどきいるけど、そういう目的で地球に滞在していることも考えられるだろう。筆者の場合は、情報を収集するのに忙しくて、そんな風に悩んだことがない(笑)

(続く)


発達障害人の特徴 その4 ~ 地球環境になじめていない

2021年10月01日 | 精神世界を語る
この世の仕組みというのは、「オンラインゲーム」に似ている。

宇宙の中心には、巨大コンピュータがある。ここが、ゲームに関するあらゆるデータを提供している。大勢のプレイヤーがいて、それぞれが端末コンピュータを持っている。端末は、ホストコンピュータからゲームデータをダウンロードする。そうすると、端末の画面上に映像が現れ、音声が聞こえてくる。早い話が、この映像と音声こそが、われわれが「世界」と思っているものの正体というわけだ。

自分だけではなく、他のプレイヤーたちも参加している。世界はそれぞれの端末で展開しているんだけど、全員の端末が同じところからゲームデータをダウンロードしてるから、誰の端末でも同じゲームが同時進行している。やってるうちに、なんだか皆でひとつの世界にいて、一緒に世界を冒険しているような気になってくる・・・という仕掛け。

重要なのは、この地球生命系というフィールドにおいて、長いことプレーしてきたベテラン・プレイヤーたちもいるということだ。つまり、ずっと地球生命系で輪廻転生を繰り返してきて、ここの主みたいになっている意識たち。筆者は、彼らを「土着の地球人」、「地元民」などと呼んでいる。土着の地球人の多くは、まだ地球に人類がいなかった時代から、動物や植物の意識から輪廻転生を続けてきて、地球生命の進化と歩調を合わせるように、人間の意識にまで進化してきた。個人的には、そのように見ている。

逆に、他の生命系で進化してきて、この地球にたまたま転生してきた魂もいる。「宇宙からの転生者」、宇宙人の魂を持つ人々だ。ある意味では地球人類より意識が進化しているが、それとこの地球という環境でうまく生きていけるかは、また別問題。人によってはスンナリと適応してうまくやっていけるのだが、全員がそうとは限らない。地球で生きるのが上手いか下手かは、それぞれに個人差がある。でも総じて、この弱肉強食のサバイバルワールド、地球生命系には違和感を持っている。

この「弱肉強食のサバイバルワールド」という話も、なんだか誤解されることが多い。地球に対する筆者の見方があまりにネガティブなので、「そんなに生きづらさを感じているのか?」と受け取る向きもあるようだ。確かにそういう面もあるのだが、それだけではない。これは自分の個人的な人生観というより、「地球の歴史」に対する率直な感想なのだ。

というのも、筆者は精神世界マニアであるのと同じくらい、「歴史マニア」でもある。世界史も日本史も、得意中の得意科目。大学受験の頃は、「西ローマ帝国が滅亡するまでの経緯を600字以内で論述せよ」とか、そういうのが極めて得意だった。ついでに国語も得意で、「この意味不明な長い文章を読んで、作者の言いたいことが何なのかを100字以内でまとめよ」とか、そういう問題には抜群に強かった。東大にトップクラスの成績で合格するようなトップ秀才連中でさえ、これに関しては脱帽だと言っていた(もちろん、英語や数学では彼らにかなわなかったが)。

学校では、小学校6年生から日本史の勉強が始まるけど、筆者は小学生のときから世界史にハマっていて、「古代エジプト文明と古代メソポタミア文明には、それぞれどういう特徴があったか?」とか「アフリカのどの国が、ヨーロッパのどの国から独立したか?」とか、そういうのを全部、すでに知っていた。

でも、頭の中は高校生レベルなのに、ふだんの言動は幼稚園レベルという定評があった。いつも時間を間違えて学校に遅刻するし、ほぼ毎日どれかの授業の教科書を忘れてくるし、気分が乗らないときはまったく授業を聞いてられなくて、ボーッとしていた。「さあ、では次の問題を解いてみましょう」とか言われても、ボーッとしていた。家で宿題をやってくることは、まずなかった。たまに宿題をやっても、学校に持ってくるのを忘れた。

どうやら、ADHD(注意欠如・多動性障害)だったようだ。だから、いつも怒られていたし、よく廊下に立たされていた。というと、学校をナメてる不良少年みたいだけど、まったくそうではなかった。むしろ逆で、いつもマジメで一生懸命だった。でも残念ながら、それ以上にボケた子だった。内心では「なんとかしなければ」と焦っていたが、どうにもならなかった。「言語性IQが人並みより高くて、動作性IQが人並みより低い。脳の発達が不均衡なせいでメンタル面のバランスが壊れている」という根本原因には、まだ気づいていなかった。

もっとも、正直なところ教科書の内容なんかほとんど覚えていたから、持ってくる必要がなかったのも事実。当時は、読んだ本の内容を延々と語り続ける、マンガに出てくる人みたいな記憶力があった。これまた、発達障害人にはアリガチな傾向だ(全員がそうではない。そういう人もいるっていうだけ)。話は脱線するけど、「SUITS」っていうアメリカの弁護士ドラマに出てくる、異常な記憶力を持った若手の天才弁護士。あれはリアリティーがなかった。というのも、あれほどまでに異常な記憶力の持ち主なら、まずアスペルガー症候群だろう。でも、彼はアスペルガーの人にしては、明るく爽やかで社交的すぎた。

それはともかく、話を戻すと、「地球はサバイバルゲームの戦場だ」、「ここは厳しい生存競争の場だ」、「弱肉強食。それが地球生命系の根本原理」うんぬんと、ずっと繰り返しているのは、個人的に人生が生きづらいからではない。いや、もちろん、そういう面もあるんだけど、それ以上に地球人類の歴史を知れば知るほど、そう思わずにいられないのだ。現代でこそ、基本的人権が保障され、かなり変わってきてはいるけど、昔の人類の生存競争は凄まじいの一言。地球人類の歴史だけではない。人類が登場する以前の地球生物の進化史が、もっと露骨に弱肉強食なのは言うまでもない。

地球は、ゾッとするほど怖いところだ。それが、率直な偽らざる感想。なんのキレイゴトも通用しない、食うか食われるかの殺し合いの世界。個人的には、そうとしか思えないんだよあ。ネガティブな意見で申し訳ないけど・・・。

だが、それはいつまでも続かない。地球環境は、これから大きく変容する。地球の歴史をじっくり観察してきた上での結論だ。やはり、何事にも「流れ」ってものがある。地球の歴史の流れを見るにつけ、いよいよ大きな変容を迎えるクライマックスの局面だ。「宇宙からの転生者」は、それを見物するために、ここに来ているのである。

宗教の次のステージへ

2021年09月22日 | 精神世界を語る
地球人類は宗教から卒業しつつある。もう宗教は必要ない時代になった。いまは現実主義者が全盛の時代。「この世は、何者かが創造したのではない。偶然にできたのだ」と、「あの世は無い。この世がすべてであり、人は死ねば終わりなのだ」というのを2大信条とする、多くの現代人が共有する信念体系が主流になっている。

アラブの国々では、ほとんどの人がイスラム教徒で、一部の例外の人たちもキリスト教とか、何か他の宗教を信仰している。世の中のほぼ全員が、「あの世はある。人は、死ねば天国か地獄に行く」と信じている社会。古代から中世を経て近世に至るまで、地球ではそれが普通だった。それに比べて、現代人は普通じゃなくなった。

どっちがいいかって言ったら、一長一短がある。「この世は偶然の積み重ねで出来たのだ」というような、いくらなんでも無理のある教えを信じているという点では、現代人は昔の人より愚かになったとも言える。でも、やっぱり、現代人の意識のほうが先に進んでいるのは事実。大昔の人は、ごく一部の覚醒者を除けば、何もわからなくて迷信深かった。知性も感性も、現代人の方がずっと鋭敏で明晰なのは間違いない。地球人類の意識は着実に進化している。

古い信仰にしがみついていたんじゃ、新しい地球文明には適応できない。やっぱり、大昔の宗教などそろそろ棄てたほうが、失うモノはあっても得られるモノがそれ以上に大きい。現代人は、サナギのようなものなのかもしれない。サナギのようにカラをかぶって、霊的世界から自分自身を切り離し、次の飛躍に備えて地力をたくわえている。もうすぐ、人類はスピリチュアルに再び目覚める。現代人の明晰さと、古代人の叡知を兼ね備えたスーパー新人類が、蝶のように羽を広げて大空に飛び立つ・・・はずだ。

例によって話は飛ぶけど、未来の人類は、平井和正の小説も読まないだろう。いや、逆に預言者あつかいで見直されるかもしれない。筆者は中学生の頃、平井和正のSF小説をよく読んだ。ハルマゲドン、光の天使、光のネットワーク・・・この作家が世に広めたスピリチュアル用語は数多い。もともと普通のSF作家だったのに、ある時期を境として突然、宗教がかった小説を書くようになった。天使や悪魔が出てきて地上の人間への影響力を競い合う、壮大なハルマゲドン小説を書き始めて読者をビックリさせた。

平井和正が入信したのは、「GLA総合本部」という宗教団体だった。昭和の新宗教界を代表するカリスマ教祖の1人、高橋信次が病に倒れて早世し、娘の佳子先生が跡を継いだ。平井和正は、佳子先生から「旧約聖書に出てくる預言者ハバククの生まれ変わり」と認定され、張り切ってハルマゲドン小説を書くようになった。カリスマ教祖が突然いなくなったGLA教団は大混乱。幹部たちが続々と分派を立ち上げて、GLA系諸宗派が乱立するようになった。「GLA総合本部」もそのうちのひとつ。平井和正の代表作「幻魔大戦」では、主人公の超能力者・東丈が突如として失踪し、残された救世の団体「GENKEN」では路線対立から分派が林立して大混乱になる。あれは、この事件がモデルだった。

平成初期に世間を騒がせた千乃裕子の「パナウェーブ研究所」も、そんな分派の1つだった。「人体に有害なスカラー電磁波を防ぐ」と称して全身に白装束をまとったり、多摩川に出現したアザラシのタマちゃんにエサを与えてたことが判明したり、とにかく奇行が多くて世間を騒がせた。そのうち、メンバーの殺人事件が起きたりしてヤバくなった。これもまた、日本の新宗教史で忘れがたい思い出のひとつだろう。幸福の科学も、初期はGLAの分派としてスタートした。初期の信者の多くはGLAの元信者で、当初は「あの世からの高橋信次先生の霊言」がキラーコンテンツだった。

こういう宗教団体の系譜ってのは、どこの宗派系統にもある。オウム真理教も、当初は阿含宗の分派だった。初期の信者の多くは阿含宗の元信者だったし、教義体系も阿含宗をベースに創られた。90年代のテレビニュースをにぎわせたオウム真理教事件。「あんな高学歴のインテリ信者たちが、なぜ凶悪犯罪者になったか?」と、テレビではいつも騒いでた。正確にいえは、上佑史浩や青山吉伸といった高学歴信者はみんな、後から入ってきた人たち。それに対して、早川紀代秀・新実智充・井上嘉洋といった凶悪犯たちの多くは初期からいた人たちで、たいてい阿含宗の元信者だった。

阿含宗といえば、昔のテレビCMでやっていた、大柴燈護摩供(だいさいとうごまぐ)の護摩木が燃え上がる赤い炎と、モクモク上がる煙を思い出す。教祖の桐山靖雄(きりやませいゆう)管長の著書も、高校生のときには読んでいた。おかげで、阿含宗の教義もたいていのことは知っている。阿含宗もGLAも、すべての新宗教に元ネタを提供した大本教も、みんな教義を信者なみによく知っている。こんなことに詳しくても、何の自慢にもならないのが残念だけど・・・(笑)

それはともかく、「どこかに究極の教えはないか?」と探し求めて、いくつもの宗教団体を遍歴する人たちがいる。なんとも、ご苦労なことだ。そんなもの、どこにもあるわけがない。どの宗教も、言ってることはバラバラだったり、似ていたりするけど、どれも参考意見にすぎない。精神世界の探求は、結局のところ、自分1人でやるもの。情報は集められるだけ集める。でも、最後は自分自身にかかっている。教祖も自分で、信者も自分。「劇団ひとり」ならぬ、「教団ひとり」だ!(それはちょっと言いすぎか)



宗教から卒業する時代

2021年09月22日 | 精神世界を語る
いまの地球上の状況を見渡してみると、日本や欧米では、すっかり脱宗教化が進んでいる。もちろん、欧米はキリスト教社会だし、日本にも日蓮正宗系の仏教団体を初めとして、たくさんの宗教がある。「よく、あんなに信じられるもんだなあ」と思わず感心してしまうくらい、熱心な人は本当に熱心だ。でも、地球人類の意識としては、総じて脱宗教化が進んだ。今日では、神を信じていない人が多い。

その点、イスラム教の社会は、まだまだ宗教色が濃い。もちろん、イスラム教圏にだって、いろんな人がいる。マジメな信者もいれば、コーランを見て「こんなの、とても信じられませんわ」と思うような疑り深い人だっているだろう。とはいえ、日本や欧米、とくに日本と比べたら、確実に社会全体として宗教色が濃い。先進国の人から見れば、「イスラム教の連中は、いまだにあんなものを信じているとは、遅れてるなあ」と思う。

確かに、彼らは遅れている。先進国の人間の方が、意識が進んでいる。地球人類にとって、宗教が必要だった時期もあった。でも今は、宗教から卒業して、次のステージに入る時代。いつまでも、古い信仰にしがみついている場合ではない。

といっても、宗教の効果はもちろんある。意識覚醒への道は、1つではないのだ。神への信仰を限りなく強めて、神と一体化する境地を目指すという道もある。阿弥陀如来をとことん信じて、一心不乱に念仏を唱える。一心不乱に極楽往生を念じ、ひたすら唱え続ける。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」とひたすら繰り返す。そうすると、だんだんトランス状態になってくる。もうテンションが上がりすぎて、極楽に往生できるかどうかすら、どうでもよくなってしまう。念仏に限らず、「南無妙法蓮華経・・・」の題目を上げても同じ。仏教に限らずイスラム教でも、「ラーイラーハ・イッラッラー、ラーイラーハ・イッラッラー・・・」(アッラーの他に神はいない)とハテしなく唱え続けるズィクルの行により、同様な効果が得られる。

今まで、多くの宗教を体験してきた(どれも、本ブログを始める前、かなり昔の話ばかりだけど)。やっぱり、何事もやってみないとわからないからだ。念仏を唱えるとはどういうことなのか。それは、唱えてみないとわからない。もちろん、ちょっとカジったくらいでは、わからないことも当然ある。でも、まったくやらないのと比べたら、確実に理解は深まる。宗教の道も極めればすごいんだってことが、よくわかる。

というわけで、宗教についても決して否定するわけではないんだけど、それでもやっぱり、地球人類が脱宗教化へと進むのは正しい方向だと思う。世の中にはいろんな人がいるのに、皆が同じ宗教を信じているのは不自然だ。信仰は、強制されてやるものではない。やりたい人がやればいい。「信じる」というのも1種のパワーであり、人によって向き不向きがある。信仰の道が合っている人は、その道を進んだ方が早いだろう。でも、全員がそうだというわけではない。

現代人の多くは、「この世には、神も仏もいやしない」と考えている。「人生は1度きりだ。人は死ねば無になる」と信じている人は多い。これはこれで、また別の種類の信仰だ。といっても、本人たちは、それを信仰だとは思っていない。「昔の人たちのような信仰から脱却して、現実に目覚めたのだ」と考えている。でも、そんなのはお互いさまだ。「天国や地獄はある」と信じるのも、「天国も地獄もない」と信じるのも、信仰の対象が異なるだけで、何かを信じていることに変わりはない。「人は生まれ変わる」と信じるのも、「人生は1度きり」と信じるのも、以下同文。現代人は、昔の信仰から、別の信仰へと移ったにすぎない。

仏教には、「不常不断の中道」というものがある。「人は、死んでも魂が永遠に続く」というような考え方を「常見」という。一方、「人は死ねば終わりになる」というような考え方を「断見」という。イスラム教徒は常見で、先進国の現代人は断見だ。お釈迦さまは、この両方とも極論であるとし、2つの両極端から離れよと説いた。

「人は死んでも、魂が永遠に続く」という常見のどこが良くないのかというと、人が通常、「これが自分だ」と思っているものは、本当の自分ではない。仏教ではそれを「偽我」と考える。偽我が永遠に続いてしまったら困る。「ボクは健康に留意して、この世で長生きしたいなあ」というくらいならまだしも、「ボクは、死んでからも永遠に生き続けたいなあ」というのは、偽我への執着をますます強める。だから良くない。

一方、「人は死ねば終わりだ」という断見、これがいいのかっていったら、そういうわけでもない。常見も断見も、どちらも離れるべき両極端なのだ。

でも、「どちらも離れるべき」といったって、両方とも同じくらい悪いわけではない。どちらがより悪いのかは、ハッキリしている。常見より、断見の方がもっとタチが悪い。「この世がすべてだ。人は死んだら終わりだ」というのは、修行者がとるべき見方ではない。それに比べたら、常見の方がずっとマシなのは明らかだ。

というわけだけど、それでもやはり、誰もが宗教を信じていた昔の人々より、脱宗教化が進んだ現代人の方が、意識の進化段階としては次のステージに進んでいる。地球人類の意識は、ボンヤリした状態から離れて、よりクリアになってきた。それが意識の進化というものだ。ただ、それは通過点にすぎず、進化の最終形態ではないというだけ。次のステージは、さらにその先にある。

(続く)

宗教が必要だった時代もあった

2021年09月21日 | 精神世界を語る
現代では、宗教の評判が良くない。創価学会が折伏(しゃくぶく)をやりすぎたせいかもしれない。身内に不幸があったり、悩みがある人には宗教の勧誘がすぐ来る。まあ、創価に限らず新興宗教はたいていそんなものだが。昔の筆者は、悩んでもいないのに宗教の勧誘がよく来た。まあ、それは宗教好きなマニアだから、引き寄せの法則で引き寄せていたのだろう。創価学会の折伏を受けて、何回か集会に顔を出したこともある。信者諸氏と一緒に方便品や自我偈を唱え、南無妙法蓮華経のお題目を上げていた。家に御本尊を持ち込まれたり、聖教新聞が配達されてきたときは、周囲の人々はビックリした(御本尊は丁重にお返ししたが)。まさか、筆者が創価学会と関わりがあるとは思わなかったのだろう。筆者が「じつはオウム真理教の信者でした」とでもいうのなら、周囲の人々にも「う~ん、危ないとは思ってたけど、やっぱり・・・」と納得されてしまうかもしれないが(笑)

手かざし教団にも、熱心な信者に何度も集会に連れていかれたことがある。手かざし教団といえば、「世界真光文明教団」から「崇教真光(すうきょうまひかり)」が分離独立し、その後も多数の分派が乱立したことで有名だ。「ここはどこの系統なんですか?」と質問したところ、信者は「ウチはどこの系統にも属していない。教祖が気功バワーを極めて創始したのだ」と言っていた。「ヒーリングパワーは分かるけど、どうして大勢でやる必要があるのか?」と聞いたところ、「大勢でやることで、パワーが増幅されるのだ」と言っていた。う~ん、確かに。そういう面はあるかもしれない、

そんなこんなで、宗教界のことはたいてい知っている。もちろん、全部ではない。金光教と大本教は知ってるけど天理教は知らないとか、メジャーな宗派でもカバーできてないところは当然ある。でも、もう十分に情報収集したので満腹だ。地球での人生はたった数十年か、長くても百年くらいしかないんだし、すべてを知り尽くすことなど不可能なのは当たり前。もともと、地球はそういう具合にできている。

それはともかく、信者諸氏の一途な信仰をリスペクトする思いはもちろんある。でも、「他にも宗教はたくさんあるのに、なぜ、この人たちはこの宗派を選んだのだろう?」という素朴な疑問が抜けない。信じるというのも、1つのパワーであり才能だ。「信じる力」にかけては、信者にとてもかなわない。脱帽だ。でも、1人1人の個人がどうのというより、地球人類の意識の進化段階として、もうそういう時代じゃないんじゃないかなあ?

昔の人には、宗教が必要だった。古代人や中世人の野蛮さは、現代の日本人の想像を越えている。昔の地球は、今よりももっとストレートに、血で血を洗うサバイバルゲームの戦場だった。地球で長生きするのは本当に難しかった。人生は、まさに生存競争そのものだったのだ。そんな中で、人々に世界観や倫理観をもたらしてきたのが宗教だった。

世界の文明が多くの宗教に分かれるなか、ほぼ宗教統一に成功したのは、千数百年前のイスラム教だった。無学文盲のムハンマドが預言者になり、アッラーの言葉を人々に述べ伝え始めた。文字が読めない預言者の口から、なぜか至高の詩情をたたえた宗教的な詩句が流れてくる。コーランは宗教というだけでなく、文学であり音楽でもあった。その教えは、「アッラーを信じる者は天国に往き、信じない者は地獄に堕ちる」というシンプルなものだった。

当時の世界では、シリアやエジプトはキリスト教の国で、粗衣をまとった修道士たちが修行していた。中央アジアには仏教が広がっていて、僧侶たちが修行していた。そこに登場したイスラム教は、驚くべき速さで広がり、宗教界をほぼ統一した。ヨーロッパはキリスト教だったけど、当時のヨーロッパは今とは違って、遅れた地域だった。中国とインドを別にすれば、宗教界はイスラム教によってほぼ統一された。

現代でいえば、どこかに新興宗教の教祖が現れて、その教えがたちまちヨーロッパ・アメリカ・日本に広がり、圧倒的な多数派になったようなものだ。地球人類の歴史上、これほどの奇跡は他に見当たらない。それほどの魅力がイスラム教にはあった。

美しいコーランの朗誦
https://youtu.be/eaJq5yyYlB4

コーランの響きには不思議な魅力があり、何度でも聞きたくなってしまう。これが宗教の魅力だ。この世での生き残り闘争に明け暮れていた中世の人々も、天国に憧れ、この世ならざるものに目を向けるようになった。

地球人類の意識進化のなかで、宗教は必要だった。昔の人々は、宗教を必要としていた。

(続く)

もう、宗教は要らない時代になった

2021年09月20日 | 精神世界を語る
今さらながら、やっぱり、もう宗教に入るような時代ではない。精神世界の探求は、自分でやるのが一番だ。古今東西の良書は山ほどあるし、スピリチュアルYouTuberだっている。スピリチュアルYouTuberに関しては、「新手の教祖」と見る向きもあるだろうし、「芸能人みたい」と思う向きもあるだろうけど、悪いとは思えない。十分に見て楽しめる。

筆者は長年の精神世界マニアで、スピリチュアル・ニューエイジだけでなく、宗教や哲学にもさんざん関わってきた。子どもの頃は禅寺に通って座禅を組み、お坊さんからお経を習ってた。般若心経や観音経を暗誦していた。小学生のときはお経の意味がよく分からなかったが、中学生くらいになると段々わかってきて、高校生くらいになると「般若心経にはどういうことが書いてあるか」をヒトに解説できるほどになった。こういう、子どものときに意味もわからず身につけたものは、大人になってからも潜在意識に深く浸透して思想的な背骨みたいなものになる。フロイト先生の精神分析学によると、そうらしい。大学生のときは教会に通ってカトリック要理を学び、キリスト教に入信する一歩手前まで行ったこともある。本音をいえばカトリックに限らず、どこの宗教にも入る気はなかったのだが、女性に釣られて入りかけていた。アリガチなパターンだ。教会というのは四谷の上智大学のとこにある聖イグナチオ教会で、カトリックの総本山みたいなところだ。神父さんはドイツ人でバリバリの神学者だった。筆者は聖トマス・アクィナスの「神学大全」や聖アウグスティヌスの「神の国」その他を愛読していた。神父さんにも、「うーん、聖トマス。いいですね」と言われた。

でも、それ以上に印象に残っているのは、昭和の終わりから平成にかけての「第3次宗教ブーム」だ。オウム真理教・幸福の科学・法の華三法行その他の強力な新宗教団体が一斉に乱立した、あの時代。思想マニアなので、もちろん関心を持っていた。「最高ですか?」の法の華には教義らしい教義がほとんど無かったが、オウム真理教と幸福の科学については、信者なみに教義をよく知っていた。というより、信者よりよく知っていた。 どちらも、出てきた当初はマジで本物っぽく見えた。「なんだか、凄いのが出てきたな?」と思ったものだ。でも、なぜか悪い予感がした。今は良さそうに見えるけど、これからだんだん悪くなりそうな予感がしたのだ。予感は的中したというか何というか、どちらも想像を遥かに超えて最悪の団体になってしまったが(笑)
(追記・・・いや、さすがにオウム真理教みたいな凶悪犯罪者と並べるのは幸福の科学さんに失礼でした)

統一教会(原理研)やエホバの証人、創価学会の勧誘も本当にしつこかった。人には、大きく分けて2つのタイプがある。新興宗教の勧誘を受けやすいタイプと、勧誘されにくいタイプだ。筆者は言うまでもなく前者、つまり勧誘されやすいタイプだった。大学のキャンパスを歩いていると、いつも原理研から声をかけられるので、「またか。いつも声をかけられるので勘弁してもらいたい」と文句を言ったところ、「それはご先祖さまの功徳が呼び寄せているんですよ」と勧誘員の人に言われた。もっとも、勧誘を受けて話を聞きに行って見ると、当方は信者諸氏を質問攻めにするので、ウンザリして信者はたいてい離れていったが。ちなみに、統一教会の教義については、信者は「仏教とキリスト教を統一したのだ」というけど、当方には「儒教」にしか見えなかった。日ごろ愛読していた「論語・大学・中庸」といった儒学の経典からの影響が強くて、日本の新宗教とは明らかにテイストが違ってた。「さすがは韓国。骨の髄まで儒教の国なんだな」と感心したものだ・・・。

それはともかく、もう宗教に入るような時代ではないと、つくづく思う。大昔の伝統宗教にも、20世紀の新宗教にも、それが必要とされる時代背景はあった。でも、宗教団体は大変だ。信者さんたちには、大変な努力と苦労をしている人が多い。それが修行だった時期もあった。でも、もうその必要はなくなっている。

今は、スピリチュアルYouTuberの動画があるから、宗教は必要ない(笑)。個人的にはやっぱり、女性のスピリチュアリストがいいと思う。並木良和氏や吉濱ツトム氏は男性だけど、なんだか女性的というか、中性っぽい感じのする人たちだ。なんといっても、霊的な感性がモノをいう。スピリチュアルというのは、もともとそういう世界なんだし。

地球にとっては新しい人々

2021年08月26日 | 精神世界を語る
人には、それぞれの人生観や死生観ってものがある。「人は、死ねば無になる」とか、「人生は1度きり」と信じて生きている人もいる。
個人的には非常に無理のある考え、というより、率直にいってバカげた考えに思えるのだが、それもまた人それぞれの信念であり、他人が口出しすることではないのだろう。

実際のところ、人は生まれ変わっている。ずっと地球生命系で、あの世とこの世を行ったり来たりしている人もいるけど、宇宙の他の惑星から転生してきた人もいる。
「前世が宇宙人」というだけであり、それを除けば地球人だ。つまり、地球人の身体という器に、宇宙人の魂が入っている。だから、かなり無理がある。
筆者もそうだが、こういう人は発達障害人になりやすい。

故・ドロレス・キャノンによると、もっと上の世代の「宇宙からの転生者」は、地球でものすごい苦労をしてきた。なにごとも、先陣を切る開拓者は大変なのだ。
宇宙の猛者たちが、先頭を切ってアウェーの地、この地球へと飛び込んできた。彼らは、本当に大変だった。

でも、最近はそうでもないようだ。平成生まれのインディゴ・チルドレン(今では令和生まれも出てきた)は、もっと無邪気で軽やかに生き、地球に高い波動をもたらしている。
地球にとっては、新しい人々だ。彼らにとって、地球生命系はもはやアウェーの地ではなくなった。
もちろん、波動の違いは今でもある。「地球人のモノの考え方は、なんだか奇妙だな?」とか、「地球はキチガイじみたところだ!」とかは彼らもよく思うことだろう。
でも、地球での人生は、概して以前ほど困難ではない。

筆者はその中間くらいの世代、ドロレス・キャノンの分類によれば「第2波」の世代に相当する。
この世代にとっての地球への転生は、その前の世代ほど大変なことではない。もう、かつてのような討ち死に覚悟の無謀な挑戦というほどではなくなっていた。
でも、そこそこ大変だ。そんな風に、「宇宙からの転生者」も変化してきている。世間では知られていないのだが、これは深く静かな変化だ。

こういう人々の目には見えない地道な取り組みにより、地球生命系の波動は着々と上昇を続けている・・・。

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地球も、変わるときは変わる

2021年08月24日 | 精神世界を語る
地球生活に、生老病死はつきものだ。筆者も、本ブログを始めた15年前には30歳代で、今にして思えば若かったが、今では50代に入っている。
でも後で振り返ってみれば、やはり、「今にして思えば、あの頃は若かった」と思うことだろう(もちろん、生きていればの話だが)。

お釈迦さまに指摘されるまでもなく、地球は四苦八苦が連鎖する世界。
今は「コロナウイルス」で世間は大騒ぎだ。原因不明の疫病で、バタバタと人が倒れている。こんな世界じゃ、ポジティブになろうったって限界がある。

だが、それがいつまでも続くかといったら、そういうわけでもない。地球はいま、急速に変わろうとしている。
「ホントかよ?」と言う人もいるけど、変わるときは変わるものだ。

もともと地球というより、この物質的な宇宙そのものが、見た目ほど堅固にはできていない。じつは意外と柔軟にできている。
成り立ちや仕組みは、インターネットのオンラインゲームに似ている。要するに、何者かが運営している仮想空間だ。
中央のホストコンピュータが、末端の我々にリアルな仮想体験を提供してくれている。好むと好まざるとにかかわらず、それがこの世界の真実の姿。

もちろん、地球での人生はゲームではない。ゲームよりも、ずっと重くて深刻だ。地球をナメてたら、痛い目にあう。
気持ちの持ちようにもよるけど、それだけでどうにかなるような甘い世界ではない。そういう意味では、恐ろしい世界なのも事実。

でも、違うのはそこだけだ。違うのは、重さと深刻さだけ。本質的にはゲームと変わらない。いつかは誰でもゲームオーバーになり、この仮想空間から消える。
プレイヤーとして参加している間は大変だけど、終わってしまえば、ウソみたいにどうでもよくなる。しょせん仮想現実なのだから当然だ。

物質は、世界内の住人には存在しているように見えるけど、それらは全て演出によるもの。
本当は存在していない。演出だから、変わるときは変わる。

この地球という世界も、変わるときは変わるものなのだ。
世間では、「A.I.で食いっぱぐれる職業ランキング」とかなんとか、相変わらず悲観的な未來予想が多い。
地球の人々は、自分たちの未來にあまり期待していないようだ。長年の地球生活で、そのように刷り込まれてしまったのだろう。
でも、彼らか「現実」だと思っているものは、じつは「仮想現実」でしかない。仮想なのだから、変わるときには意外と簡単に変わる。

(続く)

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地球での人生は無理ゲー

2021年08月23日 | 精神世界を語る
それにしても、久しぶりにブログを更新しておいて、また後ろ向きな話で申し訳ないのだが。

やはり、地球での人生は、何十年やっても大変だ。地球はサバイバルゲームの戦場であり、我々は皆、ゲームのプレイヤー。
地球のサバイバルゲームは本当に難易度の高い無理ゲーだ。それでいて、ゲームに参加したら最後、簡単には降りられないようになっている。
「こんな人生、リセットして途中からやり直したいんですけど」といっても、運営がなかなか認めてくれない。

本ブログを始めた十数年前に比べて、スターシード、スターピープルといった言葉はすっかり定着し、「私は宇宙人の魂です」と堂々という人も増えてきた。
昔は、そんなことを言おうものなら、大変な奇異の目で見られたものだ。今は違う。今なら、少し奇異の目で見られるだけで済む。

殺伐とした地球生命系に高波動をもたらし、もっと普通の惑星に変えて、この無理ゲーの難易度を下げるべく転生してきたのが、宇宙人の魂だ。
普通の地球人と同じように、地球人類の身体に生まれてはいるのだが、前世が宇宙人なので、カルチャーはかなり異なる。
ところが、この地球生命系という環境は、慣れない者には難しい。かえって、自分のほうがドツボにはまってしまって、泥沼のような苦難に直面することになる。

それに比べて、地球で輪廻転生を繰り返してきた土着の魂は、この環境に慣れている。彼らにとっては、これが普通だから特に変だとも思っていない。
まあ基本が無理ゲーなだけに、彼らベテランプレイヤーにとっても決して楽ではないのだが、たいていの場合、そこそこ円滑に人生を送っている。

そんなバカな! 我々が地球人類をサポートするはずじゃなかったのか・・・というのが、本ブログにおける永遠のテーマ。

(続く)

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