宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

房中に悟りあり

2013年06月08日 | 東洋思想

「陰と陽」の世界観の根本にあるのは、「男と女が結合して、新たな生命が生まれる」という、古代人にとってはあまりに神秘的だった事実にある。他にも、太陽と月とか、昼と夜とか、植物の生長と枯死とか、いろいろあるんだけど、一番の根本なのは、やっぱり、それだ。男が陽で、女が陰。そこに発想の元があって、他はその発展形。

だから、古代人は、男女の結合に神秘を見出し、一生懸命マジメに研究していた。

このため、道教では、房中術が発達している。イマ風にいえば、「セックス・スピリチュアル」ということになるだろう。男の師匠から、女の弟子へ。女の弟子から、男の孫弟子へ・・・と交互に伝えられる秘伝。通常、洞窟の中で行うのが最も良いとされていた。中国の内陸部には、切り立った崖や、深い洞窟が多い。まさに打ってつけだったと思われる。

これは道教だけでなく、密教にもそういうところがある。平安時代、中国から秘伝の経典を持ち帰った弘法大師・空海に、比叡山の伝教大師・最澄が「経典を貸してほしい」と申し入れたところ、空海がそれを断ったため、この日本仏教史の大物2人の仲が悪くなった・・・というエピソードは有名だけど、一説には、この経典には「男女の交合」の奥義が記されていたため、誤解を恐れた空海が、見せるのを躊躇したのだという。

オウム真理教では、これを修行に取り入れていた。でも、「これは修行の一環だから」というのは、オウム真理教に限らず、宗教団体で女性信者を口説くのによく使われる口実だ。仏教系の某巨大教団でも、幹部がこれをやってたのがバレて、激怒した名誉会長に追放されたという事件があったけど、名誉会長自身、そういう風評が絶えない人。あくまでも風評であって、証拠はないらしいのだが・・・(笑)。


いずれにしても、これは筆者にとって、昔から、どうもナジミにくいテーマだ。

房中術という以前に、「男女の性」の問題は、相当な違和感を覚えてきたテーマのひとつ。といっても、筆者の場合は、「恋愛問題で悩む」なんてことの、ずっと手前にあるレベルで、「そもそも、地球的な男女関係そのものにナジメない」という面が確かにあった。

もっとも、かつての筆者は、「ボーッとしてるけど、顔で持っている」という定評があり、女の子にはかわいがられていた。でも、なぜか、いつまでたっても「女性とお付き合いしたことないの?」と言われるほど、ずっと恋愛初心者のレベルにとどまってた。「宇宙人みたいだけど、楽しいからいい」と、そこが逆に好評だった面もあるから、まあいいか・・・(笑)。

余談だけど、ある自閉症の専門家の話によると、発達障害ぎみな人には、「子供の頃は、人形みたいに顔立ちが整ってる人が少なくない」ということだ。筆者も、それに該当するのかもしれない。

少年の頃の美輪明宏やクリシュナムルティは、おそらく、その極致と言えるだろう。美輪明宏少年は、三島由紀夫に「悪魔的な美しさ」とまで評された。クリシュナムルティをインドから連れ帰ったリードビーター師は、「美少年趣味」と陰口をたたかれた。おそらく、釈迦もそうだったんじゃないかと思われる。その「人形みたいに整った顔立ち」は、長くは続かないのだが、「年を取ると、今度は、味のある賢者みたいな風貌になる人がよくいる」と、発達障害の専門家は書いていた。


それにしても、スピリチュアル界には、恋愛相談のプロが大勢いるのだから、教えを乞いたいところではある。

とはいうものの、学生の頃、試しにタロットカードで恋愛問題の占いをやってみたら、ズバズバ的中して、怖いくらいだったことがある。

人間、「自分には向いていない」と思い込んでたことが、実は隠れた才能だったりすることも、よくあるわけで、実は「恋愛タロット占い」に向いてたのかもしれない・・・(笑)。

胡蝶の夢

2013年06月08日 | 東洋思想

ブログを読んだ方から、メールをいただいた。

「老子に、『夢の中の蝶』の話があったはずだけど、探しても見つかりません」というお話。

例によって、技術的な問題で返信できなかったけど(笑)、それは多分、老子じゃなくて、かの有名な荘子の「胡蝶の夢」じゃないかと思います。

筆者も、これが大好きで、昔から暗誦してる一節。


>昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。

自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。

俄然として覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。

知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。

周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。



>あるとき、荘周(・・・荘子自身のこと)は、夢の中でチョウになった。チョウになって、ヒラヒラと飛んでいた。

われながら、楽しくて、満足感でイッパイだった。ホントは荘周だってことなんか、まるきり念頭になかった。

ハッとして目が覚めると、自分はなんと、荘周ではないか!!
 
でも、荘周が夢の中でチョウになってたのか? それとも、ホントはチョウなのに、夢の中で荘周になってるのか?

どっちが本当なのか、分かんないぞ。
 
荘周とチョウは、たしかに、形の上では区別があるはずだ。こういうのを、「物化」(物の変化)という。


・・・筆者もよく夢の中で空を飛ぶ。蝶や鳥になれたら、荘子みたいでカッコいいのだが、さすがにそこまではいかない(笑)。

そんなときは、空中に浮かぶのが当たり前に思えて、なぜ他人は空中浮揚できないのか、不思議で仕方ない。

毎回、目を覚ますと、空に浮かばない自分に気づいて、ガク然とする。「うわ、体が重い。浮かび上がれない。なんだ、コレは!?」とショックを受け、しばらくして、これが自分の通常の状態だったことを思い出す・・・。

この「胡蝶の夢」は、哲学の論理みたいに扱われることが多いけど、精神世界関係者が見れば、「スピリチュアル体験記」そのものだ。胡蝶の夢は、よほどリアルな霊夢だったのだろう。
 

陰と陽 ~ 易経ワールド

2013年06月05日 | 東洋思想

中国の思想の原点は、陰と陽だろう。YIN&YANGといえば、欧米でも普通に知られている。これは、古典の中の古典、「易経」の思想。気の遠くなるほど大昔の叡智が記されたとされる本だ。

易経は、占いの本。タロットカードに押されて、いまは流行らないとは言うものの、筮竹(ぜいちく)をガシャガシャと振るって、「乾(けん)です」、「離(り)です」というのが、易占だ。

タロットカードみたいに絵がかいてあるわけでもなく、陰と陽の二種類があるだけ。それを3つ、あるいは6つ並べて、組み合わせで吉凶を判断する。「陽陽陽」なら、こうなります。「陽陰陰」なら、そうなります。「陰陽陰」なら、ああなります・・・という風に、それぞれの卦(か、または、け)の意味するところが、易経にくわしく書かれている。

易経は、中国の古典の中でも、読む人が少ない。なぜかと言うと、読んでも意味不明だからだ。決して難しいワケじゃないんだけど、一言で言えば、神社で引く「おみくじ」の集大成って感じ。「失せ物、しばらくして出る」とか、「旅行、急がぬが吉」とか、ああいうのに似ている。それを、ちょっと高度にして、たくさん集めたような、摩訶不思議な本。だから、読む人は少ないけど、ハマる人は思いっきりハマる。


そんな占いの本なのに、なぜか、中国では古今で第一の哲学書と位置づけられている。それというのも、陰と陽の世界観のおかげ。

インドから入ってきた仏教を見て、その救済の教えの充実ぶりに、中国人はビックリ。世界に冠たるインドの哲学・宗教の、想像を絶する魅力にたちまち圧倒された。こりゃ、とてもかなわんワイとは思ったものの、日本の復古神道の人たちと同じで、「このままじゃ、インドの思想に圧倒されて、中国古来の心が失われてしまう。なんとか、仏教に負けない教えの体系を作りたい」と、儒教の先生方は負けじ魂でガンバった。

そんな儒教の先生方が目をつけたのは、易経の陰陽理論だった。中国思想の中から、哲学的な世界観を探したら、これしか見当たらなかったのだ。でも、儒学者だけに、プライドがある。「オレは、易経の哲学に興味があるだけだ。占いはやらないぜ。君子ともあろう者が、占いなんかできるか」という、妙なコダワリの世界になった・・・。このようにして、易経は、単なる占いの本を超えて、中国を代表する哲学書とされるようになった。


なんといっても、男は陽、女は陰というのが、陰陽の原点。というより、もともと、陽は男性の性器、陰は女性の性器の象徴だったと言われている。だから、男女の交合により、陰陽が調和する。道教には、この話が多い。学者が書いた研究書でも、そうなっている。

大学生のとき、女の先輩(イマ風に言えばスピリチュアル女子)が、「これを読んで勉強しなさい」と言って貸してくれた道教の本にも、男女の交合のことばかり書いてあった。でも、当時の筆者は、スポーツに限らず、何でも不器用だった。お姉さま方からは、「人形みたいにカワイイ」と言って可愛がられてはいたものの、そうカンタンに、その世界にナジメるはずもなかった・・・(笑)。


それはともかく、どんなことでも、マジメな理論にしてしまう人はいるもので、宋の大儒者の周敦頤、別名・「濂渓先生」が、そんな陰陽の世界観を、「太極図説」という深遠な哲学にまとめた。

この太極図は、韓国の国旗の元ネタにもなっている。



陽が上、陰が下になり、渦をまくように混ざり合っている。

それぞれに、小さな黒丸、白抜きの丸があるのは、陽のものにも陰があり、陰のものにも陽があることの象徴。

早い話が、男も、100パーセントの男らしさで出来ているわけではなく、一部には、女の要素も含まれている。

新宿二丁目のゲイバーには、女性の要素が多いタイプの男性が集まっていた。最近は、新橋あたりにゲイバーが移ってるって話もあるけど・・・。

気功の自然体 ~ 老子

2013年06月04日 | 東洋思想

中国の思想について語っていると、いつも政治の話になってしまう。

「赤ちゃんは柔弱だけど、皆から愛されて、害されることがない。だから、本当は赤ちゃんほど強い者はいないのだ」という話をして、「うんうん、赤ちゃんって、ホントにカワイイよね~」ですめばいいものを、最後は結局、「それに比べて、中国の政治体制は・・・」ということになる。老子自身がそういう人なんだから、仕方ない。

中国人は昔から、「私たちは、あの世で永遠の生命を得て、神の国で幸福になりましょうね」というような人々ではなかった。常に、現世での人生をなんとかすることに関心を向けていた。少なくとも、インドから仏教が入ってくるまでは・・・。

でも、仏教が盛んになってからは、中国人も大きく変わった。インド人の影響を受けて、極楽往生を強く願うようになった。極楽往生を願って「阿弥陀仏」(アーミーターフォー)と唱える人々が、世の中に満ちあふれた。

今度は逆に、仏教が流行しすぎて、大きな社会問題になった。出家して坊さんや尼さんになる人が増えすぎて、「この地域では、3人に1人が出家しています」というような世界になり、世の中が崩壊寸前になったため、皇帝が仏教弾圧令を出して、強制的に出家者を還俗させたほど。

でも、それだって、いつまでも続かなかった。やがて、儒教と道教が盛り返し、仏教は衰えた。中国人は、また元の現世志向に戻っていった・・・。

要するに、中国人は、一時期の例外はあったけど、伝統的に、「あの世」にあまり興味を持たないお国柄。常に、「この世」をなんとかすることに関心があるんで、何もかもが、政治の話題に行き着く。


それはともかく、老子がオススメするのは、まず全身の力を抜いて、リラックスすること。そして、頭をボーッとさせる。恍惚(こうこつ)とした中から、精気がこんこんと湧き出してくる。

これは、高校の漢文の授業だと、「老子といえば、無為自然です」の一言で片付けられ、生徒が「ハア?」となるところ。これでは、ツカミどころがない。高校生の頃、筆者は漢文の試験でいつも全国最高点レベルだったけど、それは漢文というより、東洋思想のマニアだから。「漢文の文法」の分厚い参考書を、いつも読もうとしては10ページ目くらいで挫折していたが、思想の「ツボ」さえつかんでいれば、自然にピンとくるから心配いらない。

気功もしくは、なんらかの東洋瞑想の素養のある人にとって、これは「無為自然の哲学」というより、気功の自然体そのもの。リラックスして思考を止めれば、気のエネルギーがこんこんと湧き出してくる。恍たり惚たり(こうたり、こつたり)、その中に精あり・・・。

とはいうものの、気功の自然体では、単にリラックスするだけでなく、「重心を、下に落とす」というのが重視されている。

立っても、イスに座ってもいいけど、とにかく、身体の力を抜く。上体を前後左右にゆらゆらと揺らして、特に肩の力を抜く。ガックリきて「肩を落とす」ってのがあるけど、ちょうどそういう感じで、ガックリと肩を落とす。

そして、体重を、座ってるなら尾てい骨、立ってるなら、足元に落とす。要するに、自分の重みを、真下にドーンと落とす。

背筋は伸ばす。頭の重みが、背骨の上にだらんと乗っかってる感じ。

顔も、脱力してニッコリ(^_^)

この、「肩の力を抜いて重心を落とす」というのは、「上虚下実」と言われて、気功では基本の自然体とされている。


こんな、肩の力を抜いた自然体で生きていれば、健康で長生きするし、物事がうまくいく。

ついでに、天下国家も、こんな気功の自然体のようになれば、争いもなく、うまく治まる。世の中の、上の方(つまり、王様や政治家)は余計なことをせず、下の方の庶民は、生き生きとしている。そうすれば、無理に国を治めようとしなくても、自然に世の中は丸く治まる。

それに比べて、中国の政治体制ときたら、暴動がそこらじゅうで起きてるってのに、無理やり力で押さえつけている。まったく、空母や潜水艦なんか、作ってる場合か。こういう、自然の原理に反する体制は、長続きしませんな・・・。

・・・とまあ、そんな具合に、最後はいつも体制批判になるのが、老子流(笑)。


「赤ちゃん」がお手本 ~ 老子

2013年06月04日 | 東洋思想

老子が、「水」と並んで、すばらしいものの見本に挙げているのは、「赤ちゃん」だ。

老子によると、赤ちゃんはカワイイので、虫も刺さないし、鳥や獣に襲われることもないという。確かに、「狼が人間の赤ちゃんを育てた」というような話は、古今東西によくある。

赤ちゃんは、一日中「ウエ~ン」と大声で泣いていても、声が枯れることはない。しかも、性欲がないのに勃起する(・・・男児の場合)。

これは、全身に尽きせぬ精気がみなぎっているからだ。

このため、気功の修行には、赤ちゃんを見習って、マネをする行法がある。といっても、「赤ちゃんプレイ」みたいに、幼児退行するわけではない。「握固」と言って、コブシをぎゅっと握りしめるポーズだ。

大人と違って、親指を内側に入れるのが特徴。つまり、他の四本の指で、親指を包むような握り方。そして、親指の先を、薬指の付け根につける。

この握り方で、赤ちゃんのように、みなぎる精気を逃がさず、たくわえるのだ。


水にしても、赤ちゃんにしても、老子は「柔らかさ」を重視していることがわかる。

柔は剛に勝つ。弱は強に勝つ・・・これが老子。

これは、古来より、「南の人の考え方」と言われている。

というのも、中国といっても広くて、北と南はもともと、まったくの異文化だ。

老子の考え方は、南の文化を代表している。同じ中国でも、北の人々は、もっと力まかせにゴリゴリと攻めてくるところがある。

大昔の中国人が書いた儒教の聖典のひとつ「中庸」でも、「柔よく剛を制すというのは、南方の強さだ」、「力まかせに攻めるのが、北方の強さだ」と評しているから、昔からそうだったのは間違いない。

東アジアの中でも、北方に属するのは、北京と韓国・北朝鮮。どれも、ゴリ押しの姿勢が目立つ、強引な力攻めの国ばかりだ。「中庸」が書かれた頃と、本質的に変わっていない。

それに対して、同じ中国でも上海あたりから南の地域と、日本や沖縄・台湾・東南アジア諸国は、南の文化圏に属する。

老子の思想は、そういう南方の文化の考え方なのだ。

古来から中国では、剛強な騎馬民族や狩猟民族が、北から力まかせに攻めてきた。柔弱な南の人間は、それに押されて、だんだん日本や東南アジアに広がっていった。

今の中国人や韓国・朝鮮人は、老子の時代の「中国人」の子孫ではなく、そういう北から入ってきた民族の子孫なんで、見た目よりずっと歴史が浅いし、剛強がポリシーなので危なっかしい。

老子を読んで、「やっぱり、中国人の思想ってのは、根っからの平和主義なんだな。日中友好万歳!」と思ったとしたら、そこを見誤ることになる(笑)。

中国の仙人 ~ 道教ワールド

2013年06月03日 | 東洋思想
老子には、「柔弱は剛強に勝つ」、「上善は水の如し」と書かれている。


中国の武侠モノの時代劇には、超絶的な気功の達人が当たり前のように登場する。気功パワーで建物を吹っ飛ばす武芸者とか、なんでも治す仙人じみた漢方医だ。

あるとき武芸の師匠が、弟子にたずねた。「見よ。岩の間を、水が流れている。岩と水は、どちらが強い?」。弟子は、「それはやっぱり、岩でしょう」と答えた。師匠は答えた。「いや、水だ。水は、長い間には岩をも削ってしまう」。

さすがは、武芸の師匠だ。気功パワーを駆使する達人だけあって、道教の極意をしっかり会得していた(笑)。この、「天下の至柔」である水が、「天下の至堅」である岩をうがつ・・・という話は、繰り返し語られる、老子の思想のエッセンス。


老子といえば、釈迦と並ぶ、東洋思想の二大巨頭だ。これは、欧米の精神世界関係者も一様に認めている。

老子は、道教の祖と仰がれている。ホントは直接の関係はないんだけど、道教では老子を太祖と位置づけている。

道教のキーワードは、不老長生。

とある新宗教の教祖の代表作とされる「老子」の本では、「老子が目指す不老長生というのは、この世で長生きすることではなく、あの世で永遠の生命を得ることなのです」と書かれていたが、それは例によって、老子の思想ではない。まったく、日本の新宗教にかかると、釈迦も老子も、すべて復古神道の教えを説いていたことにされてしまう(笑)。

道教の不老長生は、あの世で永遠の生命を得ることではない。この世で仙人になり、仙境で悠々自適に生きること。イマ風にいえば、この世でアセンションして、ユートピア人生を送ることを目指している。

中国の仙人がどういうものかは、上に書いたような華流時代劇を見ると、よく分かる。たいてい白髪で、髪もヒゲも長くてボサボサ、白い着物を着ている(笑)。気功の達人で、気功パワーで空も飛ぶ。遠い田舎が本拠地だけど、平気で都会にも出てくる。ただし、都会生活には関心がない。

気のパワーが強いことと、人格が円満であることとは、関係がない。仙人は、必ずしも人柄が良いとは限らず、世俗の凡人をイジメることもよくある。そして、奇人変人が多くて、自分の奇妙なコダワリのためなら、人が死んでも平気なことが多い。

封神演義の姜子牙(きょうしが)は、あるとき、殷(いん・・・三千年前に滅んだ古代王朝)の都の朝歌に出てきた。それまでは崑崙山で仙人修行してたお爺さんなのに、都でヤリ手のおばさんと結婚するハメになった。

最初は、姜子牙を「怠け者で、商売しておカネを稼ごうともしない」と不満タラタラだった妻も、姜子牙の占いが「百発百中だ」という評判になり、行列のできる占い師になったので、「これで一儲けできる」と目の色を変えた。でも、やっぱりカネ儲けに無関心な姜子牙。中国では、講談その他で昔から有名なエピソードだ。


それはともかく、不老長生の基本は、気功の養生法。

よく言われる「無為自然」というのも、単に「何もしない」という意味ではなく、「自然治癒力」を重視する、東洋医学の基本思想なのだ。

よく、医者に行かず、クスリも飲まず、「オレは、自然治癒力で病気を治すのだ」とガンバってる人がいるけど、そういうのが「無為自然」のお手本だろう。



先祖供養 ~ 儒教の原点

2013年06月03日 | 東洋思想

日本の神道は、もともと、琴師が奏でる調べに乗って、巫女が神懸かりになり、神託を告げる・・・という、シャーマニズムの世界だった。

同じように、中国の儒教も、元はといえばシャーマニズムだった。といっても、儒教の場合、「先祖供養」に大きな重点がある。古代の儒教は、儒者が屋根に上って、身ぶり手ぶりで死者の霊を招き寄せる・・・という、シャーマンの世界だった。

中国人は、インドから仏教が入ってくるまでは、基本的に「あの世」のことなど考えていなかった。

あの世を考えないのなら、何が宗教的な目標なのかというと、それは「自分が死んだ後も、末長く子孫に祀ってもらう」ということにある。このため、子孫には、先祖の霊を定期的に招き寄せる義務が生じる。そのおかげで、ご先祖さまは、いつもじゃないけど、定期的につかの間の生を楽しむことができるというワケだ。

先祖供養の延長として、親孝行も大事。儒教の宗教国家だった古代王朝の漢では、「アイツは親孝行だ」という評判な人を地域から推薦させて、役人にしていたほどだ。

このように、「親孝行で、先祖供養をマジメにやっている」というのが、中国における、感心な人の第一条件。


日本の新宗教の原点が復古神道なのと同じで、韓国人の教祖が開いた統一教会には、儒教の色が濃い。

学生時代、原理研(統一教会の学生部)のビデオセンターってとこで教義を教わったとき、「まずは、自分自身の修養により、個人を完成する。そして、家庭を完成する。さらに、それが天下国家の完成につながるのだ」と言われた。

「それって、儒教でいう『修身・斉家・治国・平天下』そのまんまじゃないの。やっぱり、日本が神道の国なのと同じで、韓国は儒教の国なんだなあ」と、しみじみ実感したものだ。

さらに、統一教会には、有名な「先祖解恩」ってものがある。これは、「迷っている先祖の霊を救済する」というもので、まさに儒教シャーマニズムの原点とも言える発想だ。最初は三代前の、ひいお爺さん世代くらいまでのご先祖さまを解恩してたのだが、信者によると、だんだんエスカレートして、「210代前までのすべての先祖を解恩する」という話になったらしい。

父母は二人。祖父母は四人。曾祖父母は八人・・・と、世代をひとつさかのぼるたびに、人数は倍になってゆく。210代前ともなると、2の210乗で、地球の人口を遥かに超える天文学的な数字になる。もちろん、ご先祖さまが増えれば増えるほど、解恩するのにおカネがかかる・・・。

日本にも、霊友会の系統を始めとして先祖供養を重視する宗派は多いけど、ここまで極端なのは、儒教の国・韓国の宗教ならではの発想だろう。極端な例ではあるものの、儒教シャーマニズムの発想を理解する上で、これほど参考になるものは他にない(笑)。


とはいうものの、「ご先祖さまの霊が迷っています。それが、アナタが不幸になっている原因ですよ」というのは、日本の霊能者の話にも、よく出てくる。これは、中国の影響が、日本にも深く根づいていることを示している。

その点、インド人は、「ご先祖さまの霊が迷っているおかげで、自分が不幸になる」とは考えない。インドは、輪廻転生の国なのだ。

「アナタが不幸なのは、前世での悪業の報い」というのが、インド式の考え方。

もっとも、これまた、「前世で積んだ悪業が、アナタが不幸な原因なんですよ」というのも、日本の霊能者からはよく聞く話だ。日本には、インドの影響も深く根づいている。

まさしく、日本こそは、あらゆる東洋思想が流れ込む終着駅と言えるだろう。


これが、アメリカ人だと、どうなるか。

アメリカ人の場合は、「アナタが不幸なのは、考え方がネガティブだから」、もしくは、「ポジティブな考え方ができていないから」ということになる。アメリカは、先祖供養でも、輪廻転生でもない。アメリカは、ポジティブ・シンキングの国なのだ。


これに対して、本ブログでは、「アナタが不幸なのは、地球という環境にナジメないのが原因」という説を提唱している。

これは、ドコの国の人の発想か?

地球のドコかではない。それは、宇宙人の発想だ(笑)。




老子の養生法

2011年12月09日 | 東洋思想
 
「行間を読め」という言葉があるが、老子の場合、その行間には「気功」が流れている。たとえば、
 
>ここをもって聖人の治むるや、その心を虚しくして、その腹を満たし、その志を弱くして、その骨を強くし、常に民をして無知無欲ならしめ、かの智者をして敢えて為さざらしむ。
 
・・・という、古来から有名な一節がある。寥赤陽氏という気功の専門家によると、ここは従来、このように解釈されてきた。
 
>だから、聖人の政治は、民衆の頭脳を無知にさせ、同時に、腹いっぱい食わせなければならない。民衆の志をなくして、ただ働かせるだけで筋骨ばかり発達させる。常に民衆を無知無欲にさせておく。こうすれば、頭の良い人がいても反乱を起こせない。
 
ここは、老子の「愚民政策」と呼ばれ、どうも評判の悪いところ。たしかに、民衆はバカで志が低くて、腹いっぱい食べて筋骨モリモリで、ひたすら黙々と働いていればいい・・・というのだから、まるでどこかの独裁国家みたいだ。文化大革命の頃の中国では、「老子」は奴隷を支配する古い支配階級の代弁者とされ、階級闘争のシンボルとして槍玉に上がっていたという。
 
ところが、気功の養生家たちにとっては、上記の一文がカナリ違う意味に見えてくる。
 
深呼吸して、リラックスして座る。これは、「静坐」と呼ばれる気功の基本ポーズだ。静坐をすれば、頭からさまざまな雑念がなくなって心が静かになり、お腹に「気」のエネルギーが充実してくる。「その心を虚しくして、その腹を満たし」というのは、そういうことを意味している。
 
次に、欲望をなくして、やたらに精気を浪費しなくなれば、下腹の丹田(たんでん)と呼ばれるところに「気」がたくわえられてくる。そうすると、歯が抜けたり、骨がモロくなったりしない。そういう老化が早く進むのは、精気をむやみに使いきってしまうのが原因だからだ。「その志を弱くして、その骨を強くし」というのは、そういうことを意味している。
 
こうなると、上記の文の前半は、聖人が自分自身の身を修めるための養生の秘訣。そして、後半の「常に民衆を無知無欲にしておき、知者に勝手な行動を起こさせない」というのは、「自分の身を修めるのと同じように、世の中を治めるのだ」という主旨になる。

つまり、「自分自身の頭をカラッポにして欲望をなくす。それと同じように、民衆も無知無欲にするのだ」ということ。

そうすると、どうなるのか。自然治癒力が回復するのである。上記の一節は、次のように続く。

>無為を為せば、すなわち治まらざる無し。
 
>「何もしない」ということをすれば、何事も治まらないことがない。

つまり、老子の「無為自然」というのは、気功の養生法を実践することによる「自然治癒力」を意味している。薬を飲んだり、ましてや切開手術などはせず、自然治癒力によって健康になる。それを、自分の身体だけでなく、世の中にも同じように適用しようと言うのだ。そうすれば、何事も治まらないことがない。自分も、世の中も・・・。

老子は、古来から「力強いお言葉が並んでる割に、何が言いたいのか、イマイチよく分からない古典」という定評がある。でも、気功に通じた人々は、このように理解してきた。たしかに、言われてみれば、その通り。
  
この「静坐」というのは、単に心身をリラックスさせて、自然体になるのが目的。インド伝来の座禅と異なり、「思考を止めて精神統一する」というようなことは目指していない。一見、似てるけど、目的がまるきり異なる。
  
気功では、この心身リラックス状態が基本。ここから体内に「気」を巡らせていく。

>これを身に修むれば、その徳はすなわち真。これを家に修むれば、その徳はすなわち余りあり。これを郷に修むれば、その徳はすなわち長し。これを国に修むれば、その徳はすなわち豊かなり。これを天下に修むれば、その徳はすなわち普し(あまねし)。・・・われ、何をもって天下の然るを知るや。これをもってなり。

ここでいう「これ」というのは、「道」(タオ)を指しているのだが、基本はそれを「身に修める」こと、つまり、気功の養生法をマスターして自分の身体を健康にすることにある。老子によれば、天下を治めるのも、同じ要領で行けばいい。気功によって心身をリラックスさせ、体内に良い気をめぐらせて健康に長生きする。それと同じように世の中を治めれば、自然にうまくいく。
 
無為を為せば、すなわち治まらざる無し・・・。
 

気功パワー

2011年12月08日 | 東洋思想
  
道教の関係者は、たいてい老子を創始者として位置づけている。老子は、道教では「太上老君」と呼ばれ、完全に神様あつかいだ。

もっとも、専門家に言わせれば、道教は民間の信仰から発達したものであって、老荘思想との直接の関係はないらしい。確かに、事実はその通りなのだろう。でも、基本的な精神がとてもよく似ているから、老荘思想を道教の祖とすることに、感覚的な違和感がない。
 
その道教と、気功には切っても切れない関係がある。

気功と言えば、筆者の脳裏に浮かぶのは、中国の武侠ドラマだ。武侠ドラマというのは、中国によくある時代劇の一種。修行鍛錬で超人的な武術を身に付けた武芸者が、内功(※)を駆使して、超絶の武芸を披露する。

「キエ~ッ!」と瓦を叩き割ったりするのは序の口もいいところで、武侠ドラマの凄腕は、内功で空を飛んだり、橋を吹っ飛ばして渡れなくしたり、大波を起こして船をひっくり返したり・・・、とにかくハチャメチャな絶技を繰り出す。「一騎当千」なんて生易しいものではない。場合によっては、一人で軍隊を丸ごと叩き潰せる。
  
それも、笑う場面ではまったくない。ストーリーは極めてシリアスそのものなのに、トンデモない絶技の連続なのだ。武侠ドラマにハマると、寝食を忘れて熱中する恐れがあるから、それなりの覚悟をしておかなきゃいけない。
 
でも、気功の専門家に言わせれば、武芸者の絶技は、本来の気功ではない。本当は、体内のエネルギーをうまく巡らし、体が本来的に持っている蘇生の力を活用する養生法なのだという。

もっとも、これまた、敵に毒物を飲まされてグッタリした武侠ドラマの武芸者が、内功を体内に巡らせながら、時間をかけて蘇生していくシーンですっかりオナジミなのだが・・・。
 
養生法というのは、まさにその通りで、道教が理想とするのは「不老長生」。かつて、これを「あの世で永遠の生命を得るというのが、老子の真意だったのです」と解説している新興宗教の本を見たことがあるのだが、そういう意味ではない。ここでいう「不老長生」ってのは、気功を巡らせて養生することにより、この世で長く生きることを意味する。あくまでも、「この世」で不老不死になるのが目標なのであって、「あの世」への関心はゼロだ。世俗を離れて、いつまでも飄々と生きている、仙人になるのが道教の理想。

まさしく、気功こそは、東洋の神秘そのものだ。気功の関係者に言わせれば、この気功による養生法を知らずして、老子を真に理解することはできないという。これは、実に納得できる話だ。なんとなくピンとこない初期仏教の思想が、ヴィパッサナー瞑想をやってみて、初めてピンとくるのと同じ。

「体内に気を巡らして養生し、不老長生の仙人を目指す」というのが、老子の全編をつらぬく隠れたテーマだと言われれば、ハタと思い当たるものがある。

老子は、古来から「簡潔明瞭だけど、何が言いたいのか分からない古典」として知られてきた。「英語訳を読んで、始めて理解できた」と言われるゆえん。老子がよく分からなかったのは、気功による養生法を知らなかったせいだ・・・というのには、説得力がある。




※内功・・・体内の気功パワーのこと。これに対して、剣術や掌法などの通常の武術が外功と呼ばれる。

老子

2011年12月08日 | 東洋思想

トランスパーソナル心理学は、スピリチュアリズムや東洋思想を取り入れた、「意識進化」の心理学。その代表格の1人であるケン・ウィルバーは、学生の頃、とても優秀な理系学生で、いつも飲んで騒ぐ明るい好青年だったらしい。そんなウィルバーがある日、一冊の本を読んで、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。その後、ウィルバーは精神的な葛藤に入ってウツ状態となり、いつも半日くらい思想書を読みふける日々を送ったという。その一冊の本とは、「老子」だったそうな・・・。

東洋思想という、次元の異なる世界との出会いは、ウィルバーの住む世界をひっくり返してしまった。それにしても、老子は、これほどの影響を欧米の知識人に及ぼしている。あの「現代のスピリチュアル・リーダー」ことエックハルト・トールも、愛読書のひとつに「老子」を挙げていた。

「日本は、選ばれた特別な地なのです」と唱える人は少なくない。その理由に挙げられることが多いのが、「東洋思想と西洋思想が流れ込み、融合する地だから」というもの。二千年に及ぶ、神道・仏教・儒教・道教・・・の歴史と伝統の厚み。それに加えて、すべてを翻訳しつくす勢いで浸透した、西洋哲学。たしかに、日本にはあらゆる思想が流れ込んでいる。もちろん欧米でも、知識人なら東洋思想をよく知っているから侮れない。もっとも、こちらが西洋哲学を知ってる度合いに比べてどうか・・・と思うと、やはり相当な地の利があるのは確実だ。本ブログも、そんな日本にいるから書ける内容には違いない。
 
老子の英語訳は、欧米で広く普及している。英語は、良くも悪くも“YES,NO”の世界で、明快なのが特徴だ。だから、老子も、英訳すると妙に歯切れよく、分かりやすいものになる。タオイストの加賀祥造氏も、「英語訳を読んだおかげで、老子が理解できた」と語っていた。でも、漢文に長いこと慣れ親しんできている者にとっては、なんだか違和感がある。「アラビア語でないコーランは、コーランではない」というのと同じで、漢文でない老子は、なんだか老子という気がしない。

>柔弱は剛強に勝つ。魚は淵より脱すべからず。国の利器は、もって人に示すべからず。

やっぱり、これでこそ老子だ。まったく、「剛強」そのものと化して空母やミサイルなどの「国の利器」をひけらかしている、今の中国政府にこそ聞かせたい言葉。
 
老子は、非戦論者だ。でも、絶対に戦争はダメだというわけではない。「戦争は、できる限り避けるべきだが、どうしても仕方がないときは、なるべく早く終わらせるべきだ」というような考え方をしている。「孫子」も、同じ考え方をしている。それが、現実主義というものだろう。戦後日本の空想的な反戦平和論とは、似て非なるものだ。
 
もっとも、中東の独裁国家もバタバタ倒れている今、本当に戦争が起きない世界は、すぐそこまで近づいてきているのだが・・・。