宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

宇宙人が出てくるドラマは放送禁止 ~ 韓流 in 中国

2014年03月26日 | 東アジアの夜明け

 
中国で、またまた興味深いことが起きている。なんと、「宇宙人が出てくるドラマは、放送禁止」だというのだ。これだけだと何のことだか分からないのだが、ことの背景は意外と深い。

中国で、韓国ドラマが久しぶりにヒットしている。「星から来たあなた」というドラマで、宇宙のどこかの星(・・・コンサル星か?)からやってきたステキな男性と、どちらかといえば凡庸なヒロインが恋に落ちるという、まさに夢みたいなファンタジー恋愛ドラマ。

日本では、韓国ドラマブームは終了したと言われている。最後まで韓流の灯を守っていたTBSの「韓流セレクト」も打ち切られ、あとはNHKが放送している時代劇があるだけ。これが終了するとともに、日本の地上波テレビ放送から、韓国ドラマが完全に姿を消すことになる。

韓国が、政府と国民、さらには海外移民までそろって、ハチャメチャな反日ネガティブキャンペーンを繰り広げてきたおかげで、日本における韓国のイメージは極端に悪化した。いまや、「韓国」といえば、「反日キチガイ国家」というイメージがすっかり定着している。これでは、韓国のドラマや音楽に人気が出るはずもない。テレビに韓国の芸能人がホンの何秒か出演しただけで、たちまちテレビ局に苦情が殺到し、デモ隊に取り囲まれかねないほど嫌われている。もう、日本のテレビで韓国ドラマを放送するのは無理。

もちろん、今でも衛星放送やネット動画、レンタルDVDなどでは、韓国ドラマを視聴することができる。筆者も、たまには見るだろう。でも、日本で韓国ドラマがブームになることは、もうないだろう。

これは、韓国にとって、計算外の打撃だった。というのも、観光業と映画産業が盛んな国、言ってみれば「香港」みたいになりたいな・・・というのが、長いこと外貨不足に苦しんできた韓国の、国家的な目標であり、夢だったからだ。

そんな「観光・エンターテインメント立国」を支える最優良顧客は、なんたって、隣国の日本人だった。アジア全域に広がったとされる韓流だけど、ドラマでも、音楽でも、日本で動くカネはケタ違い。現実には、「日本が、海外売上の70~80%を占めている」と言われてきた。

日本は、音楽のマーケットとしては、アメリカと並び世界で1、2位を争う巨大市場で、韓国とは何十倍も市場規模が異なる。つまり、韓国の音楽マーケットは、日本と比べたら「県ひとつ分」くらいでしかない。これは、AKBや嵐の熱狂的ファンによる、信者のお布施みたいなCDマトメ買いによるものもあるけど、場末のカラオケボックスで歌っても確実に印税が支払われるという、抜群の裾野の広さと信頼性があるからできることだ。
   
せっかく、「観光エンタメ立国」を目指しているというのに、しょっぱなから、これほどアテになる巨大マーケットを敵に回すとは・・・。韓国の国家戦略は、すっかり計算が狂ってしまった。
   
でも、これでメゲるような韓国人ではない。捨てる神あれば、拾う神あり。なんと、「中国でドラマが久々にヒットした」という。しかも、日本人の観光客が来なくなって閑古鳥が鳴くソウルに、中国人の買い物客がドッと押し寄せ、街をワガモノ顔に占拠し始めたではないか。「これからは、中国だ!」と、韓国の観光・エンタメ業界は色めきたった。

日本でも、10年ほど前から、「中国人の金持ちが大勢、銀座にやってきて、高級ブランド品を買い漁っている。彼らの財力は、たいしたものだ」と評判になっていた。

この、中国人の海外ショッピングブームが、1~2年ほど前から、ちょうど日本での韓流ブーム終焉と入れ替わるようにして、韓国にも押し寄せてきた。

中国では、ちょうど日本のバブル末期のような内外価格差が発生しており、ブランド品は外国で買ったほうが安いし、北京や上海に行くより、ソウルに行くほうが旅費が安かったりするらしい。それに、いくら急速に経済発展したとはいえ、ショッピングの楽しみは、まだまだ外国のほうがずっと上なのだという。

とはいうものの、この中国人の韓国ショッピングブームに、バブリーな印象はない。中国人の多くは、格安航空券で韓国に来て、民宿とか、サウナのザコ寝部屋のようなところに泊まって宿泊費を倹約し、パーッと買い物するだけで、そのまま大荷物を抱えながら中国に帰ってしまう。「これでは、観光客とは言えない。単なる、買い物客だ」と言われるゆえん。

中国人は、韓国に、いったい何を買いにくるのか。いろいろあるけど、一番の売れ筋商品は、韓流ドラマに出てくる化粧品だという。

韓国が「観光の切り札」とするキラー・コンテンツは、なんといっても「韓流ドラマとK-POP」。ドラマで女優が身に着けていた、化粧や衣装、アクセサリーを見て、「あれが欲しい!」と思った人たちが、韓国までショッピングにやって来る。これがなければ、観光立国は成り立たない。

つまり韓国では、「観光」と「ドラマ」が、切っても切れない関係にある。

韓国が、「観光客のマーケット」としてアテにしているのは、なんといっても、かつては日本、いまは中国という、両隣の2大国だ。でも、歴史や文化にしても、都市の景観にしても、気候風土にしても、韓国には、これといった見どころがない。そんな韓国が観光立国として栄えていくためには、是非とも、宣伝媒体としての「韓流」を流行らせることが必要だ。

でも、日本と違って、中国では、「韓流ブーム」がなかなか起きそうで起きなかった。理由はいろいろ考えられるけど、なんといっても最大の理由は、社会主義国である中国に、「表現の自由」がないこと。

2006年に、宮廷時代劇の「チャングム」が大ヒットしたときには、中国でも本格的な韓流ブームが起きそうだった。でも、中国政府が、それにストップをかけてしまった。なにやかやと規制をかけたおかげで、韓国ドラマを中国でテレビ放送するのは難しくなった。
   
日本と同じく、中国でも、テレビで見れないようでは、なかなか人気も出ない。それから、7~8年。日本では、韓流ブームが起きていた。筆者も、「バリでの出来事」とか、「ごめん、愛してる」とか、そういうのを結構よく見てた。それとは裏腹に、中国では韓流コンテンツが雌伏のときを過ごしていた。

韓国人の、市場開拓にかける情熱はすさまじい。韓国ドラマ業界は、ネットの動画や、衛星放送に活路を見出した。そして、最近(2013年末~2014年)になってついに、久々のヒット作が生まれたのだ。その名も、「星から来たあなた」。ステキな宇宙人の男性が、大活躍するストーリー。

もちろん、中国でも、テレビ放送よりもネット動画のほうがマイナーだ。しかも、中国のインターネット回線は遅く、画質は日本より遥かに劣るという。それでも、韓国ドラマを見たい人は多い。多くの中国人が韓国ドラマをネット視聴し、予想外のヒットにつながった。ドラマに出てきた韓国系フライドチキンの店に、長い行列ができたほどだという。

静まり返っていた韓国ドラマ業界は、久々の明るい話題に沸くこととなった。でも、どんなに視聴者が多くても、ネット動画じゃ、たいした売上にはならない。かつては、1作のドラマを、ウン億円という巨額で日本のテレビ局が買ってくれていた。「あの頃の夢を、中国でもう一度!」というためには、まず、韓国ドラマを中国のテレビで放送できなくてはいけない。だが、今度も、中国の当局が壁になった。当局がテレビ放送を許可する可能性は、ほとんどないと言われている。

その理由が、振るっているというか、実に中国らしい。

なんと、「宇宙人・異世界人・超能力者が出てくるようなドラマは、民衆に迷信をはびこらせる恐れがあるので、放送禁止」なのだという。

う~む、確かに、それは分からないでもない。古来から、中国で王朝が滅びるときは、必ずと言っていいほど、民衆の間に奇妙な新興宗教が広がり、教祖が信者を扇動して大反乱を起こしてきたものだ。中国の権力者が、迷信を忌み嫌うのは今に始まったことではない。

この、「宇宙人が出てくるドラマは、迷信的だから禁止」というのが、当局の本心なのか、それとも、「中国で韓流ブームが起きるのを未然に防止する」というのが真の目的で、「宇宙人」はその口実にすぎないのか。それは、分からない。

朝鮮日報・中央日報などの韓国メディアを見たところでは、どうも、韓国では後者と解釈されているようだ。つまり、「中国も、ドラマ産業を次代の産業として育成しようとしている。そのための最大のライバルである韓国ドラマを、彼らは排除しようとしているのだ」と、韓国人は考えているようだ。

確かに、そういう面もあるだろう。でも、それだけとは限らない。上に書いたような理由で、中国の当局が「民衆に迷信がはびこること」を嫌っているのもまた、事実と思われるからだ。

「チャングム」のヒット以来、中国でも、同じような宮廷時代劇が次々と作られた。可憐なウイグル族の女優・劉詩詩(リュウシーシー)が主演した「歩歩驚心」(邦題・宮廷女官ジャクギ)は、アジアに広がるヒット作となった。

さすがに、中国もマネるのは早い。中国と韓国は、文化的にも同根だし、同じようなモノを作るのは、そう難しいことではないからだ。韓国も、「中国にドラマをマネされるのではないか」という疑心暗鬼におちいっており、上記の韓国メディアにも、そういう論調が登場した。

まあ確かに、韓国のドラマは、パターンが決まっている。まず、主役は、ゴウ慢で金持ちのキザな男、ヒロインは、どちらかといえば凡庸だけど、シンが強くて健気な女・・・と相場が決まっている。ここに、準主役の男女が絡む。たいていの場合、準主役の男女は、2人とも家柄・学歴・外見とも、非の打ち所のない完璧オトコに、完璧オンナ。言うまでもなく、さんざん横恋慕したあげくフラれて、ヒロインの引き立て役になる運命だ。韓国のドラマは、まず例外なく、この男女4人による四角関係が中心になり、例外は滅多に見かけない。

こんなにパターンが決まっているのだから、マネるのも、その気になれば簡単だろう。とはいうものの、韓国のドラマ制作スタッフや、俳優陣の力量は高く、制作費もケタ違いだ。これに、他のアジア諸国が追いつくのは容易でないと思われる。それに比べて中国ドラマは、全体的に作りがアバウトで見劣りする。
 
もっとも、例外は時代劇で、やっぱり中国の歴史ネタは、韓国のそれとはスケール感があまりにも異なる上に、香港のカンフー映画の伝統もあって、題材には事欠かない。
 
だんだん話が脱線してきたけど、上記の「歩歩驚心」は、「現代人の女性が、タイムスリップして18世紀の清朝の女官となり、皇子たちと数々の恋愛を繰り広げる」というストーリー。前半は明るく楽しく、後半は皇子たちの後継争いが熾烈になって、実にシリアス。
 
そんな中国ドラマの傑作に、当局からケチがついた。なんと、「タイムスリップものの歴史ドラマは、歴史を歪め、民衆に迷信をはびこらせる恐れがあるから今後は禁止する」と言い出したのだ。台湾人の主演男優が、「これじゃ、何も作れなくなる」と怒っていたが、どうにもならない。
  
これを見る限りでは、おそらく、「宇宙人が出てくるドラマは禁止」というのは、当局の本心なのではないかと思われる。もちろん、中国政府が韓流ブームを嫌っており、排除したがっているのも、まず間違いないのだが、それとこれとは話が別だ。

やっぱり、宇宙人には居場所がないのか・・・。もっとも、幽霊が出てくるドラマも「迷信だ」という理由で禁止されているから、疎外されているのは宇宙人だけではないのだが(笑)。
  
(後日追記・・・これを書いた2週間ほど後に、中国政府は、ネットの動画を含むドラマ放送の規制強化を発表しました)。
 


アセンションの症状 ~ 再チェック

2014年03月25日 | アセンション ~ 地球の次元上昇

ネットでアセンション巡回していたところ、自分の実感にピタッと合うものが出てきた。いつ頃に出たものかは知らないが、今の自分には、よくハマる。

というのも、最近は、本当によく眠れる。不眠症のカケラもなく、むしろ逆に、「ねむり病か?」と思うほど。それでいて、深夜や早朝に、パッと目が覚める。そういうときは、少しも眠くない。意識がハッキリ、スッキリしている。それでも、また眠れる(笑)。

・・・と言うと、「春眠、暁を覚えず」という季節のせいだと言われそうだけど、真冬の寒い頃からの傾向だ。

その上、この頃ますます一種の「瞑想体質」というか、まったく何もせずにジッとしていても、少しも退屈しない。しかも、アタマの中で何も考えてなくても平気。以前から、そういう傾向をよく指摘されていたが、さらにカンタンに意識が飛んでしまうようになってきている。

かといって、活力が落ちたわけではない。むしろ、起きてる間はますます元気だ。エネルギーが、電気的なビリビリ感を伴いつつ、自動的に充填されてくる感じ。久しぶりに会った知人からは、「元気だねえ」とビックリされた。

かつての筆者は、「何か、悩みがあるのですか?」と人から言われやすいタイプだった。実際には悩んでいなかったが、よく言われた。アチコチの新興宗教から勧誘されたのも、多分そのせいなんだろうが(笑)、もはや、その影はない。

やはり、本格的な波動調整の時期に入ったという実感がある・・・。


>アセンションの症状 (長いので、短縮版)


1. 突然、人や周りの環境に極度に敏感になる。社交的で行動的だった人が、人混みの中にいることが耐えがたくなる。

2. サイキック能力が高まり知ってしまう。これは、人が考えていることや人の気持ちを “聞いてしまう、聞くことが出来る” という形で表れます。ネガティブなエネルギーに対して極めて敏感になり、それまで親しかった人に対しても感じてしまいます。

3. そのように敏感になると、パニック発作や不安に襲われることがあります。それは夜中でも起こることがあり、なぜなのかと理由を探してしまいます。

4. ただ座って何もせずに、長い間そういう状態でいることもあります。それまで活動的だった人には、その状態は苛つかせることにもなります。それは、意識が高次元に行って調整している時なのです。休んでいる時間、睡眠時間がそれまでに比べてかなり長くなって、全体的にスローになることがあります。

5. 環境汚染や資源の枯渇、技術などで人類が破滅するのではないかという不安に取り憑かれる。これは、人類の集合意識にアクセスしてしまうから。

6. なぜ過剰に反応してしまうのか、なぜ平静でいられないのか、あるいは、なぜこんなに燃え尽きているのだろうか、その理由を知らなければならないという考えに取り憑かれる。また、気が狂うのではないか、これからの毎日、やっていけないのではないかという不安感を持つ。

7. 理由もなく落ち込む。あるいは危機的状況に関わってうつ的になる。これは、解放が必要な古いエネルギーのレイヤーを浄化しているケースであることがよくあります。

8. 睡眠が途切れる。夜中に3回も起きてしまう。あるいは、ちょうど3時に目が覚める。これは意識が新しいサイクルに入っていることを表します。高い意識は低い次元が夜静かになるので夜中に活発化することがよくあります。

9. 電気的なエネルギーが身体を駆け巡る、変な感じがする。クリスタルボディは、太陽や月、宇宙のエネルギー、ギャラクティックセンターのエネルギーに非常に敏感になります。それらのエネルギーは身体の再配線を促進し高いエネルギーを保有できるようにします。

10. 体全体から毒素が抜けていく感覚がある。それは激しい疲労感や、臀部や膝などの筋肉や関節の痛み、頭の付け根の痛み、肩や首の痛みなどの症状になって、身体の中から放出が起こります。

11. めまいやふらつき。意識が高い状態になるとそのような状態になります。その状態に慣れると同時に、グランディングすることが必要です。太陽フレアや満月の時にもそういう感覚が強くなります。

12. 食欲が増して体重が増える。それは身体がこのプロセスを進めるために大量のエネルギーを求めているからです。

13. ベールの向こうを見ることが出来る。その意味は、スピリットや精霊、ET、天使が実際にいることが分かり、コミュニケーションをするようになることです。

http://www.starchildren.info/transitions.html

精神世界と勉強 その4

2014年03月15日 | 精神世界を語る

かつて、筆者が「宗教書や哲学書や、精神世界の本を読むのが趣味」と公言していたところ、年配のビジネスマンから、「何か、悩みでもあるのかね?」ときかれたことがある。

どうも、宗教や哲学にひかれる人というのは、「悩んでいる」というような、世間の通念があるようだ。そう言えば、「身内に不幸があったとき、どこで聞きつけたか、某巨大教団の人がすかさず勧誘にやってきた」・・・というような話を、誰でも一度や二度は耳にしたことがあるだろう。

確かに、なんらかの悩みをキッカケに、この道に入る人は少なくない。新興宗教はともかく、精神世界の探求に入るのは、まちがいなく良いことだ。

もっとも、「何か、悩みがあるのかね?」と言われても・・・。悩んでいると言えば、その通り。なんといっても、「地球で人生を送っている」ということ自体が、最大の悩みだ。

かつて、ある宗教の信者が、「神様を信じていない人たちが、何を支えにして生きているのかが不思議だ。彼らは、不安にならないのだろうか?」と筆者に聞いてきたことがある。

まあ、そりゃ誰だって不安くらいはあるだろう。この地球という有為転変の世界では、何が起きるか分からない。どんなに強い人でも、「自分の先行きに、絶対の自信がある」という人など、なかなかいないだろう。

あらゆる不安の中でも、人間にとって最大の不安は、死ぬことに対する不安だとされている。世間の一般人は、この不安をどう乗り切っているのだろうか。

それに対する筆者の答は、「意識するしないは別にして、おそらく、実存主義の人生観によって支えられているのだろう」というものだった。

ここでいう「実存主義の人生観」ってのは、ひらたく言えば、「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精いっぱい生きよう」といったところ。

「20世紀最大の哲学者」こと、ハイデッガーに言わせれば、「人は、いつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」。・・・これこそが、もはや神様を信じることができなくなった、現代人の生を支えている信念だという。

よく使われる例えだけど、「いつかは自分が呼ばれる番が来ると知りつつも、長い刑務所暮らしに慣れて、日常のお務めに埋没している死刑囚」といったところか。

だとすれば、現代人の生は、なんとも危うい土台の上に成り立っているものだ。じゃあ、一体どうしろと言うのか。この問題を、大哲学者がどう解決したかというと、実のところ、解決していない。問題を提起するだけしておいて、解決しないのが、ハイデッガーの特徴(笑)。

それはともかく、むしろ、こんな地球で生きていることに、疑問を感じなくても済むほど適応できている人がうらやましい。

「こんな地球での人生も、いつかは終わるときが来る。それまでのガマンだ」というのを心の支えにして生きてます・・・というような人は、少数派なんだろうか。これは、ネガティブなようでいて、実は明るい希望そのもの。こういう考え方をしていれば、人生は暗くなるどころか、むしろ明るくなる。

世の中には自殺する人も多いけど、そういう人は、そのことを忘れてるんじゃないかと思う。地球的な人生に対して、マジメで前向きすぎる考え方をしているから、その反動で、深刻になってしまうのだ。

どちらにしても、精神世界を勉強すると、だんだん、それはどうでも良くなってくる。たとえ、「人は、死んだらどうなるんだろう?」という不安や疑問をキッカケにして勉強を始めた人でも、進むにつれて、それが小さな問題に見えてくるものだ。

精神世界の探求は、宗教を信じることとは、まったく異なっている。

世間には、精神世界の探求とは、「死後の世界とか、輪廻転生とかを、信じることだ」と思っている人がよくいる。確かに、そういう面もあるとはいうものの、最大のテーマは、そこにはない。もちろん、信じるのもいいんだけど、別に信じなくてもいい。

死後の世界だろうと、輪廻転生だろうと、「何かを信じる」ということに、それほどの重要性はない。

もちろん、筆者自身が、その両方とも「ある」と考えているのは言うまでもない。ついでに、いくらアセンション信者とバカにされようが(笑)、アセンションもあると考えている。でも、人がそれを信じる必要があるとは思わない。

この分野には、「これを信じなさい」と言ってくる人が、あまりに多い。そういう人は、上記の信者のように、「人は、何かを信じていなければ、生きていけない」という思い込みを、まずは捨ててかかる必要がある。生きていく上で、なんらかの信念など、特に必要ない。ましてや、自分の信念を、他人にまで広めようとアガいたところで、まったく意味がない。

もちろん、「何も信じるな」なんていうような、ムチャなことを言いたいワケではなくて、信じることも大いに結構。

それより、「信じなくても、平気な人になる」というのが、精神世界の探求者にとって、とりあえずの目標。その言葉を信者氏に贈ったところ、目を白黒させていた・・・。

(続く)


精神世界と勉強 その3

2014年03月12日 | 精神世界を語る
 
精神世界の勉強は、とにかく「基本」が大事。

仏典でも、コーランでも、古代の教えには、驚くほど「繰り返し」が多い。教えのエッセンスとなる、本当に重要なことなら、何回でも、何十回でも、何百回でも繰り返す。耳にタコができるほど、徹底的に刷り込む。それが、古代の教えに共通する特徴。

古代インドのお釈迦さまの弟子たちも、最終的には瞑想して解脱を目指すんだけど、それ以前の段階として、まずは教えを勉強しなきゃいけなかった。

仏弟子たちが守るべき指針として、ブッダ教団には「八正道」(はっしょうどう)というものがあった。

その八つの項目の最初は、「正見」(しょうけん)。これは文字通り、「正しく見る」ということ。ブッダ教団に入信した者にとっては、これが第一の務めとなる。

これは、多くの仏教の解説書では、「正しく物事を見ること」と書いてある。新興宗教の教祖も、「皆さん。偏りのない目で、正しく物事を見るようにしましょう」と講演し、信者は「はは~っ」と恐れ入る。そんな具合に、八正道は、現代日本の宗教界でも有効活用されている(笑)。

それは確かに、その通りなんだけど、問題は、「正しい見方」とは何なのでしょうか・・・ということにある。そこを語らずして、「正しく見ましょう」なんて言われたところで、信者としては煙に巻かれるだけだろう。

「正見とは、正しく見ることである」、「正定とは、正しく定に入ることである」・・・。

これじゃ、「落馬とは、馬から落ちることである」とか、「腹痛とは、腹が痛くなることである」というのと一緒。
 
某教団の信者は、「正見とは、常に偏りのない尺度で物事を見て、正しく生活すること」・・・(以下略)・・・の8項目を見て思い悩み、「こんなに難しい八正道を、どうすれば実践できるのでしょうか?」と幹部に質問した。幹部は、「あれは、全部できたら神さんですわ(笑)」と答えたという。
 
でも、元はといえば、そんな抽象的で難しい話ではなかった。むしろ、とてもシンプルで具体的な話だった。現代人が、それを難しくしてしまう。
 
仏典にいわく、


>友よ、正見とは何であろうか。

>友よ、それは、苦に関する知、苦集に関する知、苦滅に関する知、苦滅道に関する知。

>これが、友よ、正見と言われる。

(中部経典 『識分別経』)
 
 
「正見とは、苦集滅道(くしゅうめつどう)に関する知である」というのが、ホンモノの釈迦による定義。
 
あまりにも単純明快なので、「お釈迦さまは、本当は何を言いたかったのでしょうね?」とかなんとか、解釈したり、議論したりする余地がほとんどない。

ここでいう「苦集滅道に関する知」というのは、どういうことなのか。

ひらたく言えば、こういうことを知ることだった。



人生は苦しい。生まれ変わり、死に変わる輪廻転生はもっと苦しい。たとえ、一時的には楽しいように見えても、人は老いて病んで死ぬ。最終的には必ず苦しい。

どうして、こんな目にあわなきゃいけないのか。

実のところ、それには原因がある。
 
目を覚ませば、それは終了する。


・・・これこそ、仏教のエッセンス。お釈迦さまの教えの、まさに中核の中の核心教義。それを知るのが、「正見」。

つまり、「正見」というのは、仏教の基本教義をせっせとお勉強して、仏教的な人生観とか、モノの見方をしっかりと身につけること。それに尽きると言っていい。
 
要するに、お釈迦さまは、ここで「お釈迦さまの教えを、しっかりと勉強して身につけなさい」と、弟子に指示しているだけ。
 
本当に重要なことなら、何回でも、何十回でも、何百回でも繰り返す。耳にタコができるほど、徹底的に刷り込む。それが、仏弟子たるものの務め。

ここで言いたいのは、「教えを勉強する」というのが、それだけ大事だってこと。

「ボクには並外れた直観力があるから、勉強する必要はないのだ」なんてことは、普通はありえない。

やっぱり、精神世界には勉強がつきものなのだ・・・。
 
(続く)
 

精神世界と勉強 その2

2014年03月11日 | 精神世界を語る
 
精神世界の探求者としては、是非とも精神世界の勉強をすべきだ。もちろん、勉強などせず、「ボクは、生まれつき、並外れた直観力の持ち主なのだ。だから、真実がおのずから見えてくるのである」というスタンスでいくのも、ひとつの道だろう。でも、率直に言って、それはオススメできない。いくら直観が発達していても、お釈迦さまやクリシュナムルティを初めとする古今東西の聖賢の言葉を学ばずに、自己流を貫くというのは、あまりにも遠回りで時間のムダというものだ。

それも、むやみに多くの知識を身につける必要はない。そんなのは、一部のマニアがやってればいいこと(笑)。それよりも、本当に重要で基本的なことだけを、繰り返し繰り返し、自分自身に刷り込んでいくのが良いと思われる。

というのも、この精神世界というジャンルは、多くの知識を身につけることを目指すものではない。「意識の覚醒」を目指して探求するもの。

そこで、「意識の覚醒」とは何か?・・・というシンプルな疑問が出てくる。もっとも、これについて話しだすと長くなるので、とりあえず後回し(笑)。ここでは、とりあえず、「この地球生命系で生きる人間は、眠って夢を見ているような意識状態にある。意識覚醒とは、そこから目を覚まして脱け出すこと」としておきたい。

夢の中で怪しい人に追いかけられて、必死で逃げていたり、夢の中では大学で何年も留年していて、「今年こそは卒業したいのに、明日が試験だ」とアセっていたり・・・。そういう経験は、誰にでもあるだろう。でも、夢を見ている間は必死でも、目が覚めて現実に戻ってしまえば、「あ、あれは夢だったのか・・・」と、しばし呆然。あのときの必死さは、いったい何だったのか。ここでいう「意識覚醒」とは、そういうのに似ている。つまり、この「世界」や「自分」という夢から覚めること。
 

それはともかく、多くの聖賢の言葉、とくにインド系の思想にしばしば見られるのは、「意識覚醒のために、ジャマになるものを取り除け」という教え。

ここでいう、「意識覚醒のジャマになるもの」とは何かといえば、これは、だいたい相場が決まっている。「思考」とか、「過去の記憶」とか・・・。まず、そういったところ。

長い地球生活で、濁りに染まった意識をクリアにしていくためには、意識の中をお掃除して、キュッキュと磨いて、ピカピカにしなければいけない。
 
意識の中にたまっている老廃物とは、なんといっても「過去の記憶」。多くの人は日頃、なんの役にも立たない「過去の記憶」に向かって、ああでもない、こうでもない・・・とハテしない堂々巡りの対話を続けている。「思考停止」とは、それを放棄することを意味する。

つまり、精神世界のことを、せっせと勉強した探求者は、「よし、ボクは過去の記憶を捨てて、思考を止めることにしたぞ」と決意することになる。

では、過去の記憶を捨てて、思考を止めたら、どういう人間になるのか。まず考えられるのは、「アタマの中がカラッポで、何も考えていない人」ということになるだろう。

つまり、精神世界というのは、「アタマの中がカラッポな人になることを目指して、せっせと勉強する」という、なんとも逆説的な世界なのだ。

「じゃあ、勉強して知識をつけなければいいじゃないの」ということになるかもしれないが、やっぱり、そういうワケではない。

  
「思考停止」の理想的なお手本といえば、昔も今も、決まっている。小さな子供とか、犬とか猫とか、イルカとか・・・。そういう、余計なことを何も考えず、「今」という瞬間を楽しむことだけに専念している、なんとも楽しげな存在たちだ。いつも本当に楽しそうにしている。彼らこそ、「あんな風になりたいな」というお手本。そうすれば、悩みはなくなる。


 
イエス・キリストは、おさなごの頭の上に手を置いて、「この者のようにならなければ、天国の門は開かれない」と言った・・・と、聖書にも書いてある。

そうすると、「だったら、いつまでも、小さな子供のままで、大人にならなければいいじゃないの」ということになるかもしれない。それこそ、ピーターパンだ。あるいは、「人間よりも、イルカのほうが進化している」ということになるかもしれない(・・・まあ、実際にそう思えるフシもあるのは否定できないけど)。これまた、人類にとって、ひとつの理想像だろう。でも、やっぱり、そんなことはない。

「おさなご」というのは、思考停止のお手本ではあるけど、最高の理想像ではないのである。

というのも、大人には、知識も知恵もある。精神世界の探求者たるもの、単に思考を止めれば良いというものでもない。というのも、「愛と知」こそが、精神世界の二大価値。「知」を磨き、賢い人間になっていくこともまた、大切な探求テーマであることに変わりはないからだ。

天使たちが住む領域には、「愛の天使」と「知の天使」がいて、それぞれに「愛の天界」と、「知の天界」を作っている。かの高名なる「霊界日記」の祖・スウェデンボルグ以来、伝統的な天界観は、そのようになっている。この「愛と知」こそが、精神世界の二大価値なのだ。

もっとも、この2つは並んでいると言っても、おのずから上下関係がある。というのも、「愛の天界」のほうが、「知の天界」よりも、格上として位置づけられている。

それは、「愛は知に勝る」という、もうひとつの原則があるから・・・だそうな。だから、結局のところ、いくら「知」を磨いたところで、「愛」には勝てない・・・ということになっている。

それだけ、「知」には限界があるということだろう。それだけじゃ、まだ足りないみたいだ。それでも、「知」が「愛」に次ぐ、精神世界の二大価値のひとつであることに変わりはない。

つまり、単に、「子供のように何も考えていない」というのは、悪いことじゃないんだけど、ベストの理想像とまでは言えない。それは、最善ではなく、次善であるにすぎないのである。

「大人としての知を十分に身につけているにもかかわらず、しかも、子供のように何も考えていない」というのが、それを上回る理想像だ。それこそが、ホンモノの賢人だ。

ホンモノの剣の達人は、モーレツに剣術の修練を積んだあげく、最後には、剣を捨てて徒手になる。弓矢の達人も、最後には弓を捨てるという。「酒は、飲もうと思えば飲めるけど、あえて飲まない」というのに、ちょっと似ている(笑)。

それこそが、「アタマがカラッポな人になることを目指して、せっせと勉強する」という矛盾の、極意ということになるだろう。

(その3に続く)
 

精神世界と勉強 その1

2014年03月09日 | 精神世界を語る
 
何事にも、「勉強」はつきものだ。もちろん、学校でやる勉強というのもある。仕事をしても、業務知識や関連知識をつけるために、勉強する人は多い。

勉強というのは、学校や仕事のためにするだけではない。趣味のためにする勉強ってものもある。

コンピュータが趣味の人は、たいてい、驚くほどITに詳しい。韓流おばさんも、韓国ドラマのことには詳しい。サッカー・ファンも、サッカーには詳しい。

これは、学校でやらされるか、自発的にやるかの違いがあるだけで、「知識を増やし、理解を深める作業」であることに変わりはない。

「勉強」に対しては、極端にポジティブなイメージを持っている人から、極端にネガティブなイメージを持っている人まで、幅は広いけど、「いかなる分野にも、まったく知識がない」という人は滅多にいないのだから、誰でも、何かの分野で勉強したことはあるはずだ。
 
学校での勉強というのを、「子供たちに、詰め込み学習を強制している」と言って嫌う人も多いのだが、そうとばかりは限らない。世の中には、いろんな人がいるのである。

たとえば、たいていの人にとって、「数学」は、学校で仕方なくやらされていた難行・苦行のようなものだろう。高校生のときの筆者にとっても、正直なところ、それ以外の科目をすべて合わせたよりも、数学1科目だけのほうが遥かに難しく感じられた。でも、「全員にとって、そうなのではない」ということを、決して忘れるべきではない。そこはやっぱり、人それぞれなのだ。

世の中には、数学が好きでたまらないマニアというのも、決して少なくない。実際、問題が解けさえすれば、パズルみたいで面白いのも確かだろう。ただし、それを「おもしろい」と思えるようになるためには、それなりの修練を必要とする。

人によって、どれほど好みが違うかは、少年期の自分自身の経験からも実感させられた。

というのも、筆者は幼少の頃から精神世界ファンだったこともあり、広く深い読書によって、自然にコテコテの文系少年へと成長していった。そのおかげで、学校でやってる文系科目(英語・国語・社会)などは、とても簡単で、本当に楽勝だった。自分が日ごろから趣味で読んでる哲学書とかの方が、学校の教材よりも遥かに難解なのだから、当たり前。
 
その代わり、数学はいつも限りなく0点に近かった。100点満点で、3点とか5点くらいしか取れなかった。
 
これに対する、筆者の父親の評価はきわめて低かった。父の感想としては、「オマエは、数学ができないな」の一言に尽きた。数学を除けば全科目が得意で、理科の化学や生物にまで強かったのだが、それでもダメだった。というのも、父は理学部・数学科出身だったため、数学にしか興味がなかったのだ。

昔も今も、数学マニアにとって、人間の「アタマの良し悪し」とは、ほぼ、数学のデキだけで決定されると言っていい。彼らにとって、数学以外の科目とは、すべて、「ひたすら暗記するもの」と相場が決まっているのである。そういう価値観の下では、数学がデキれば、「アタマが良い」。数学がデキなければ、「アタマが悪い」の一言で片付けられてしまう(笑)。

筆者が読んでいた精神世界の本とか、宇宙について書いてある本とか、そんなの、家族にとっては意味不明の奇妙な文字の羅列にすぎなかった。そんなところで、いくら探求を深めたとしても、まったく意味はない。

もっとも近い血縁者でさえ、これほど価値尺度が異なっているのだから、まして、アカの他人においてをや。こればっかりは、どうにもならないということを、しみじみ実感したものだ。

またまた話が脱線してきたけど、要するに、「勉強」というのは、人それぞれだということ。他人の価値観に惑わされず、自分のやりたいことをやるのが一番。

精神世界という分野にも、当然のことながら、「勉強」はある。情報があれば、知識もあり、理解が必要な事柄もある。

そのあたりは、やっぱり、勉強する・・・ということになるだろう。「私は、精神世界に関しては、日本で一番くわしい」と豪語した人もいるほどだ。

ただし、精神世界という分野には、特殊な要素がある。それは、単に「知識が多い」というだけでは、それほど意味がないということ。

精神世界というのは、最終的には「知識」よりもむしろ、「直観」で決まるものだ。

というのも、この分野では、「すべての答は、もともと自分の潜在意識の中にある」と考えられているから。「本当の真実は、自分の外側からではなく、内側からやってくる」と言われるゆえん。

でも、いくら「潜在意識の中に、すべての答がある」と言われても、その答が、なかなか出てこないのも事実だ。そのために、結局のところ、外部から知識を取り入れることになる。

ちょうど、卵からヒヨコがかえるときのようなものだろう。ヒヨコが、内側からクチバシでつついただけでは、卵のカラを破ることは、なかなかできない。どうしても、外側から、親鳥が温めたり、いろいろ刺激する必要がある。できれば、外からも一緒にカラをつついてやるのが一番だ。

それと同じように、知識をつけただけでは意識覚醒などできないが、かといって、外部からの知的刺激がなかったならば、やっぱり意識覚醒するのは難しい。
 
かつて、バブル経済はなやかなりし頃、某・新興宗教団体では、「統一神理学検定試験」というのをやって、話題になったものだ。ちょうど、大学入試の共通一次やセンター試験みたいに、信者を集めて、「どれだけ教祖の著書を勉強して、教義知識をつけたか」ということがテストされていた。
 
「教祖の前世は、ムー大陸の王様でした」とか、「最初の地球人類の祖先は、UFOに乗ってエジプトに移住してきました」・・・(?)とかナントカいうような選択肢に、○か×をつける。その点数によって、信者としての評価はかなり左右される。講師や職員を目指すならば、もちろん重要な評価対象になる。
 
これは、さすがにちょっと極端なケースだったと言えるだろう。ここまでやる必要はないし、かえって本末転倒になりかねないんだけど、かといって、「教義を勉強する必要がないか」といえば、決してそんなこともない。

イスラム教徒は、子供の頃にコーランを丸暗記する。中国の儒教徒も、子供の頃に四書五経を丸暗記して、科挙の試験を受けたものだ。

4千年前の古代シュメールでも、子供たちにとって、「神様の名前を暗唱する」というのが最重要な科目とされていた。これはちょっと変わっていて、「アヌ、エンリル、エンキ、マルドゥク、ティアマト・・・」と、シュメール神話に出てくるアヌンナキ神様たちの名前を、ひたすら暗唱するのがメインだったと言われている。シュメール人にとって、これらの名前は、よほど重要な意味を持っていたのだろう。

お釈迦さまも、「教えを学んで、しっかり覚える。忘れても、また覚え直す」ということを非常に重視していた。

一方では、「まったく勉強に向いてない人でも、ちっとも知識がないにもかかわらず解脱できた」という例が、仏典ではしきりに強調される。

要するに「人それぞれ」ということなんだけど、やっぱり、ここでも「詰め込み学習」の効果は否定されていない。

(その2に続く)
 

戦争は、もうすぐ無くなる

2014年03月04日 | こっくり亭日記
                 
2014年も、時間の流れがますます速い。気がつけば、また1ヶ月ほどブログを留守にしていた。

もっとも、精神世界というのは、政治や経済みたいに日々の新しい情報を追いかけるような分野ではなく、いつも古くて新しいテーマに取り組み続けているものなんだから、しばらくストップしたところで、特に問題は生じないのだが(笑)。いったん書き始めると、勢いがついて、もっと書き続けられることが多い・・・。
   
この間にも、いろんなことがあった。東京では見たこともないほどの大雪が降った。外は、屋根にも道路にも雪が降り積もり、一面の白銀世界。濡れタオルを窓に干したら、パリパリに凍って、板みたいに固まってしまった。たたもうとしたら、パキッと折れた。まるで、北海道みたい。とても、東京とは思えない風景だった。

「夏はメチャクチャに暑く、冬はハチャメチャに寒い」というのが、ここ数年の世界的な傾向だけど、それはさらに一段と目立ってきたようだ。

タイでは、「一種の内戦状態」と言われるほど、政府派と反政府派の対立が激化し、死者が出ている。その背景には、急速に発展した首都バンコクと、発展に乗り遅れた地方との対立があると言われている。安泰なように見えた「微笑みの国」・タイでさえそうなのだから、新興国の社会とはつくづく不安定なものだ。

ロシアでは、冬季オリンピックがあったと思ったら、ウクライナのクリミア半島で戦争(?)が始まった。オリンピック開催地のすぐそばだ。

ここは19世紀の中頃、黒海の覇権をかけてロシアとトルコが争っていたところに、イギリス・フランスが介入して「クリミア戦争」が起きた場所。当時としては前代未聞の大戦争で、戦いは大きく広がり、幕末の日本のすぐそばにも、イギリス・フランスの艦隊が極東ロシアを攻撃しようとやって来た。ナイチンゲールが戦場の看護を始めたことでも有名。

こうしてみると、争いが起きる場所というのは、昔も今も変わらないものだと改めて実感する。クリミア半島に限らず、半島には、周囲の大国による争いが起きやすい。でも、イギリス・フランスに、昔の面影はない。大国ロシアを相手に軍事介入するなど、さすがに相手が悪すぎて、アメリカでも無理だ。下手をすると、第三次世界大戦になりかねない。

世に争いのタネは尽きないが、ひとつひとつ乗り越えていけば、だんだん減っていく。昔は、日本でも、ロシアがいつ北海道に攻め込んでくるかとハラハラドキドキしていたが、今では日露関係がカナリ良くなってきている。

問題を解決するために重要なのは、真正面から取り組むことだろう。どこかの国の左翼みたいに、「中韓を批判したら平和が壊れる」などと、反日キチガイ国家に対して言いたいことも言わないようでは、かえって根深い対立がズルズルと長引くことになる。

この地球は、もともと、争いが絶えない世界なのだ。特に、東アジアなど、中東イスラム圏と並ぶ世界の巨大火薬庫で、対立の最前線もいいとこ。平和主義も結構だけど、現実として、ここは「平和」などとはホド遠い世界。うわべだけ取りつくろったところで、仕方がない。

まあ、いずれ東アジアも変わるだろう。どの国も、高齢化してるし。それも、そんなに遠い未来ではなく、「数年後」といったところか・・・。
 

この地球は、争いのタネが尽きないようにデキている。一見、ノンビリしているように見える野生動物たちも、すさまじい生存競争の殺し合いをやっている。植物だって、突っ立ってるだけで何もしていないようにみえるけど、実は、地上でも地下でも、激しい陣取り合戦をやっている。

人類も、そういう野生の延長の世界を生きてきた。人類にとって、地球という環境は、食糧が確実に不足するようになっている。順調なときはいいんだけど、ひとたび気候が激変したり、人口が急増したりすれば、たちまち奪い合わなければ生きていけなくなる。

牛が草を食み、農夫が黙々とタネまきする、のどかな農村風景も、一瞬にして軍馬の奔流に巻き込まれ、血風の吹きすさぶ戦場と化す。食糧は奪われ、ジャマな民家は焼き払われて陣地となる。誰にも、どうすることもできない。

そんな歴史を長いこと続けてきた人類だけど、それでも、だんだん、戦争の脅威から離れてきているのは確かだ。たとえば、この日本で、いまさら内戦が起きることなど、誰に想像できようか。

戦国時代には、「甲斐の武田信玄」と「越後の上杉謙信」が、いつも戦争していたが、今の山梨県と新潟県を見れば、ちょっと想像しがたいものがある。もっとも、幕末維新のときの戦争が原因で、福島県と山口県には、多少の遺恨が残っているようだが・・・。
 
日本で最後に内戦が起きたのは、その幕末維新の頃だった。ちょうど同じ頃に、ドイツやイタリアでも統一戦争が起きていた。アメリカでは南北戦争が起きて、南軍が敗れ、南北が再統一された。この時期(1860年代)を最後に、日・米・英・仏・独・伊といった先進国は、どの国も統一され、内戦が起きなくなった。

第二次世界大戦を最後に、先進国同士の戦争も、まず考えられなくなった。

先進国では、とっくにそうなっているけど、最近は地球全体の大きなトレンドとして、そういう傾向にある。中国・朝鮮も、アラブ・イランも、もう戦争などデキなくなる。ていうか、言葉が勇ましいだけで、本当は、とっくに戦争などデキなくなっている。

まあ、近い将来、アフリカなどごく一部の地域での局地戦を除き、世界の大半の地域では、まず戦争は起きなくなるだろう。それも、遠い未来ではなく、「数年後」といったところか・・・。