宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

UFO情報で注目されるロシア

2013年05月31日 | UFO
 
最近、UFOのジャンルでは、「中国でのUFO目撃事件が多い」というのが、よく話題になる。「空軍力の強化を急ぐ中国政府が、奇妙な飛行物体を飛ばしているからなのでは?」という声も少なくない。

でも、さらに注目されるのはロシアだ。もともと、国土が一番広い国。だから、地球に何かが墜落するにしても、陸地ならロシアに落ちる確率が高いとも言える。

先日は、巨大隕石の墜落で、大きな騒ぎになった。隕石が落下したあと、「空に巨大な光の玉を見た」という、住民の目撃情報が相次いだ。それは、明け方まで輝いていたというから、「UFOだったのではないか」と取り沙汰されている。

昔のロシアだったら、こういう情報が海外にまで出てくることはなかっただろう。
 
 
89年には、かの有名な「ボロネジ事件」が起きた。これは、「UFO目撃事件」というより、むしろ、「政府によって情報が公開されたUFO事件」として、史上に名高い。

ボロネジは、ロシア南部の都市だ。黒土平原の広大な穀倉地帯にある。豊かな地域で、文化・経済・交通の中心だ。筆者にとっては、画家クラムスコイの出身地ということに感慨深いものがある。

そんなボロネジに、巨大な球体型UFOが着陸したのは、1989年。ベルリンの壁が崩壊し、ロシア・東欧に大変革が起きていた頃だった。ちょうど、ゴルバチョフの改革で、情報公開が進められていた時期だったからこそ、あえて公表されたと言われる歴史的な事件だ。

ボロネジの公園には、数回にわたってUFOが着陸し、中から身長3mあまりの巨体の宇宙人が、小型ロボットを伴って出現したという。多くの住民がこれを目撃して大騒ぎになった。

「公園に着陸したUFO。中から、巨人と小型ロボットが出現した」という、ちょっとコミカルな事件。でも、報道したのが国営タス通信で、国が事実と認めたことで国際的に注目され、ニューヨーク・タイムズでも報道された。

発表したのがロシア(当時はソ連)の国営機関でなかったら、これほど注目されることはなかったに違いない。 
 
このように、ロシアは、そのときどきの国家の状況によっては貴重な情報が流出することもある、期待大な国なのだ(笑)。

昨年の12月には、メドベージェフ首相(当時は大統領)が、記者会見で冗談めかして語った「情報公開」が話題を呼んだ。

「大統領になると、宇宙人に関する情報を網羅した機密ファイルを渡される。パニックになるから、詳しくは言えない」と発言し、「くわしくは、映画メン・イン・ブラックを見てくれ」とジョークで締めくくり、記者団は笑いの渦になった・・・という事件。

後で判明したことだが、メドベージェフは、これを大っぴらに言うつもりだったわけではなく、「マイクがオフになっている」と勘違いしてたんだそうな。
 
最高権力者のプーチン大統領だって、実は宇宙情報を公開したがっているとも言われる。まあ、確かに、一枚岩ではないとはいうものの、メドベージェフ首相も勝手にこんなこと言えないだろうしな・・・。
  

「従軍慰安婦」 ~ ますますおかしくなってきた韓国

2013年05月30日 | こっくり亭日記

最近の韓国は、ますますおかしくなってきている。「広島・長崎の原爆投下は、神の懲罰だ」と、大新聞の論説委員が堂々と書くという異常さ。ネットの掲示板ならともかく、新聞までがヘイトスピーチを垂れ流し、社会全体が暴走状態だ。

いま話題の「従軍慰安婦」だって、あれはいったい何!?

筆者の知る限り、80年代には、「戦時中は、兵士の相手をする慰安婦がいました。中には、韓国から来た慰安婦もいました」という、ごく普通の話だった。まさしく、「戦争と、女性の人権」を問うのにふさわしいテーマだった。

ところが、90年代、特に後半くらいになって、話が妙な方向にそれてきた。「慰安婦は、大半が韓国人だった」、「日本軍は、韓国のあちこちの村で人間狩りをして、慰安婦を強制連行していた」と、どんどんエスカレート。いったい、ドコまで話が膨らむのかと、目を疑うことの連続になってきた。


現代の日本にも、慰安婦は大勢いる。昨夜も、普通に街を歩いただけで、いったい何人の慰安婦の呼び込みに声をかけられたことか(笑)。昔の日本に、慰安婦がいたかどうかと言えば、それは、いたに決まっている。いなかったわけがない。でも、だからと言って、話を膨らませて反日宣伝の攻撃材料に使うのは反則だ。

韓国人は、世界のあちこちに出かけては、反日宣伝に燃えている。アメリカでは、「従軍慰安婦の像」を建てようとして、地元住民から総スカンを食った。アメリカを訪問した韓国大統領は、「日本の歴史認識」を話し合おうと粘った。以前にも、韓国の大統領が欧州諸国を訪問したところ、先方は経済問題を話し合いたいのに、韓国側は「日本の歴史認識」を訴えるばかりで、話がカミ合わなかったことがある。

欧米諸国も、韓国が異常なのは分かっているだろう。でも、「戦争犯罪を反省せよ」というのは、とりあえず正論なので、反対しにくい。


まったく、東アジアには、真の平和がまだ遠い。

ていうか、上にも書いたけど、昔の韓国人の言論は、ここまでおかしくなかった。

80年代までは、韓国人の反日宣伝と言ったって、せいぜい、剣道も柔道も空手道も華道も茶道も韓国人が教えたものだとか、万葉集は韓国語の暗号で書かれているのだとか、その程度の話だったんだが(笑)。

いまほど、シャレにならない発言を言いたい放題に並べていたわけではなかった。今は、「なんで、そーなるの?」ということの連続。

それにしても、中国・韓国・北朝鮮は、そろいもそろって末期状態。いよいよ、最後のアガキで暴走している。いくら政治と精神世界は別問題と言ったって、これらの国々がこのままじゃ、地球に夜明けは来ない。まあ、「夜明け前の闇が一番暗い」っていうしなあ・・・。


ベーシックインカムが実現したら、どうなるか

2013年05月30日 | お金が要らない世界

「政府が、国民全員に、一人アタマいくらで一律に現金を支給する」という、ベーシックインカム。

一見すると、夢の制度みたいだけど、今でも日本の社会保障費は巨大なので、それをこの制度に入れ替えることを考えれば、それほどムチャな話ではない。

でも、専門家がベーシックインカムの話をすると、「財源をどうするの?」という話より、「そんなことをすれば、人は働かなくなるんじゃないか?」という反応の方が多いらしい。さすがは、世界に冠たる勤勉の国、日本だ。

実際には、ベーシックインカムだけでは満足できず、働いて、もっと稼ぎたい人が多数派になるだろう。たとえ高額所得者になっても、給付を打ち切られないのが、生活保護や失業保険と違うところ。

それでも、「ベーシックインカムによる最低限の生活でいいや」という人も出てくるだろう。それはそれで、人それぞれの生き方だという割り切りが必要だ。

「働くことは働くけど、今までほどには働かない」という人だって、出てくるはずだ。それは余暇の増大につながる。

日本はまだ、そこまでヒドくないけど、スペインでは若年層の半分くらいが失業している。失業をなくすためには、一人一人が、仕事量を今までの半分に減らす必要になる計算だ。もちろん、一人で二人分も働くような人は、その分だけ失業を増やすことになる。

「勤勉は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」と言われるのは、そのためだ。


おカネにならない仕事に打ち込む人は、確実に出てくるだろう。何も、いわゆる「ボランティア活動」だけではない。もっと重要なのは、家事とか育児、家庭内の教育だ。

おカネに換算した生産性は、さすがに下がるだろう。その分、経済はマイナス成長することになるけど、それがすべてではない。日曜大工とか、工芸品を作る人だっているだろうし。アマチュア・アーティストのレベルは、格段に上がるだろう。それだって、一種の生産活動だ。


よく言われるのは、「低賃金で、キツイ、汚い、危険」な仕事を引き受ける人がいなくなるんじゃないか、ということ。でも、世の中は需要と供給の関係だ。働き手が確保できなければ、賃金が引き上げられることになる。

ただし、現実には恐らく、低賃金労働はますます外国人労働者が中心になると思われる。支給対象を「日本国籍がある人」とすれば、外国籍の人には不利だ。社会的な緊張感は、確実に高まることだろう。世の中、いいことばかりではない。「究極的には、人類全員にベーシックインカムを」というような、理想論に走りやすいところだけど、なかなかそうもいくまい。

アメリカでは、「イラクで戦うアメリカ兵には外国籍の人が多くて、ここを耐え抜けばアメリカ国籍を取得できる」というような制度になってるそうだけど、もし日本でベーシックインカムが実現したら、日本もそういう風になる?


ベーシックインカムの財源は、今の制度を改編しただけでも、手が届く範囲にある。でも、この制度をさらに拡大し、安定的に継続していくためには、さらなる財源が欲しいところ。

そのためによく言われるのは、「期間限定通貨」だ。

つまり、政府がおカネを発行して、みんなに配るわけだけど、じゃんじゃん刷ってたんじゃ、いつかはインフレになる。それを防ぐために、一定期間を経過したらノックアウトされるようにする。

「急いでおカネを使うから、消費の振興にもなって一石二鳥」と言われる策だけど、受け取り拒否されるのが心配だ。それ以前に、金券ショップで交換されるようになるのは確実だろう。使用期限の終わりが近づくにつれて、交換レートは下がることになる。


いずれにしても、「生きてるだけで、最低限の収入は保障される」という、この制度。これが定着して当たり前になれば、追い込まれて生きるのが当たり前だった地球人類の、人生観に革命を起こすのは確実だ。

世界における人間の役割は、生産することから、消費することに重点が移る。

経済問題をなんとかしない限り、このサバイバル世界は変わらない。これは、意識進化とはまた別の問題だ。根本解決が、もっと考えられてもいいところだろう。


ベーシックインカムの財源 ~ 意外と、手が届く範囲

2013年05月29日 | お金が要らない世界
 
それにしても、財源をどうするかは別にして、「政府が国民全員におカネを配る」というアイデアは、なんとも魅力的だ。

最近は風向きが変わりつつあるけど、世の中は、ずっと景気が悪かった。モノが売れなくて、みんな困ってた。一方、おカネがなくて困っている人は、もっとずっと多い。

数年前、筆者が都心のオフィスでサラリーマンをやってた頃、同僚がやってきて、「悪い。千円ほど貸してくれないか」と言われたことがあった。聞けば、離婚してからというもの、月々の支払いが大変で、給料日前には非常に苦しくなるらしい。電車賃がなくて、このままじゃ埼玉の自宅まで歩いて帰らなきゃいけないというので、聞くほうも焦った。

そんな話は、いまどき珍しくもない。世の中、おカネに困っている人は、見た目以上に多いのだ。この問題をなんとかしないことには、ユートピアの実現はあり得ない。

「いっそのこと、政府がおカネをじゃんじゃん刷って、みんなに配ったらどうなのよ?」という考えは、誰のアタマにも浮かぶんじゃなかろうか。実際、おカネが足りない人が多いんだから、政府からもらったおカネは、あっという間に使ってしまうことだろう。消費は、確実に伸びることになる。

でも、いくら日本が構造的なデフレ社会とはいえ、あまりにムチャをすれば、さすがにインフレになるだろうし。その辺りの配分をどうするかが、問題だ。


気になるのは、財源だろう。たとえば、1億3千万人に平均で月々10万円を支給するとすれば、合計で月13兆円になる。年間で、156兆円という途方もない支出になる。

でも、ウィキペディアの「ベーシックインカム」によれば、いまだって、増税しなくても、月5万円程度の給付は可能になるらしい。


>山崎元の試算によれば年金・生活保護・雇用保険・児童手当や各種控除をベーシックインカムに置き換えることで、1円も増税することなく日本国民全員に毎月に4万6000円のベーシックインカムを支給することが可能であるとする。

>小沢修司も月額5万円程度のベーシックインカム支給ならば増税せずに現行の税制のままで可能と試算している。



「今までの社会保障費をベーシックインカムに置き換える」というのがポイントだ。それは、国の年金とか、生活保護や失業保険の給付がなくなり、その代わりにベーシックインカムを導入するということ。つまり、今までの社会保障で、もっと多くもらっている人にとっては、収入が減ることになる。それをどうするかは、また別の問題。

それにしたって、いまでも、その気になれば国民全員に一律5万円を配ることが可能だとは、日本の社会保障費の巨大さに、いまさらながら驚いてしまう。


日本の社会保障は、一年に、医療で30兆円、介護・生活保護・年金・雇用の合計で70兆円、合計100兆円くらいの支給をしている。年間100兆円ということは、経済成長しなくなって久しい日本のGDP500兆円と比べて、約5分の1に達する。

社会保障予算の大きさは、日本の経済規模の5分の1。なんだか覚えやすくて、話のタネに良さそうだ。

この100兆円は、税金でまかなわれているわけではない。

このうちの60兆円くらいが、個人や企業からの社会保険料でまかなわれている。サラリーマンなら、給与天引でいつも引き落とされているものだ。

残りが、税金から補填されている部分。これは、国の一般会計から30兆円、地方税から10兆円くらい出ている。



上にも書いたように、計算をカンタンにするため、「大人も子供も区別せず、全員一律に月10万円ずつ支給する」とすれば、年間で156兆円になる。今の社会保障費が、医療を除いて70兆円だということを考えると、2倍ちょっとということか。

でも、「全員一律に月10万」というのは、人によっては、意外にも大きな収入になる。というのも、ここが肝心なトコなんだけど、「世帯ではなく、個人に支給される」というのが、ベーシックインカムの特徴だ。

つまり、結婚して(・・・ていうか、結婚する必要もない。同居人で十分)、2人暮らしなら、合計で月収20万円になる。両親に子供3人の5人家族なら、なにもしなくても月収50万円だ。これはさすがに、払いすぎかもしれない。

これを半分の月5万円に減らせば、5人家族の月収が25万円。独身者も、無理やり結婚して夫婦で月10万円もらってれば、ギリギリの貧乏ライフならできそうだ(笑)。

ここで、「ボクは、月5万円なんかじゃ暮らせないよ」というのは、早計だ。ここが肝心なトコだけど、「対象者を選ばず全員一律」というのが、ベーシックインカムの、もうひとつの特徴。つまり、生活保護とか失業保険とは異なり、収入ができたからといって、支給が打ち切られるワケではない。

これは、バイトで月10万も稼げば、ベーシックインカムの5万円と合わせて、月収15万円になるということ。家賃次第だけど、独身者なら、ゼイタクしなきゃ十分に生活できるだろう。


以前から、本ブログでも、ベーシックインカムについてのコメントがときどきあった。筆者は、「そんな、年間50兆だの100兆だの、逆さにして振っても出てこないでしょうが」という感じで、実現はあり得ないと考えてた。

でも、日本の社会保障費は、今でも十分に大きい。こうして見ると、意外と手の届く範囲にあるということが分かる。その気になれば、今でも、月5万円程度のベーシックインカムは十分に可能。ここから、話をスタートする必要がある。


追記・・・ただし、「今のままでも」という前提が、すでに苦しい。というのも、今でも、日本の社会保障特別会計はトテツもない大赤字で、税金から合計40兆円を補填している状況だからだ。これは、財政赤字のかなりの部分を占めている。

それから、今までみたいな、「毎月の給料から社会保険料が天引きされる」という制度はなくなるので(医療を除く)、その代わりに税金を徴収することになる。どういう形で税金を取るかは、また別の問題・・・。
 

もはや、勤勉は美徳ではない

2013年05月28日 | お金が要らない世界
政府が、国民全員に、一定額の生活費を支給する。それが、ベーシック・インカム。

「それだと、人は働かなくなるんじゃないか?」という考え方もあるだろうけど、実際には、配給されるベーシック・インカムだけじゃ足りなくて、もっと稼ぎたい人がほとんどになるだろう。

というのも、「全員、一律に配られる」というのが、ベーシック・インカムの特徴。だから、たとえ高額所得者になったとしても、打ち切られることはない。

それ以前の問題として、ここが発想の転換のしどころだ。

この先ますます、生産するのは、ロボットやコンピュータの役目になるだろう。一方、消費するのが人間の役割。

ガンバりすぎて、1人で3人分も働いたりすれば、その分だけ他の人たちが失業しやすくなる。人間の仕事が減ったら、ワークシェアリングが重要だ。人が今までほど働かなくなったら、生産性が下がるけど、それはなんとか機械に補ってもらう。それでも生産性が低下する分は、経済がマイナス成長しても仕方がないと割り切る。

古代のギリシャでは、芸術や哲学が栄えた。これは、労働を奴隷にやらせて、自分たちはヒマにあかせて美の追求をやってた市民階級のおかげ。こういう人たちにとって、勤勉は美徳ではなかった。むしろ、怠惰が美徳だったのだ。

かつては、「おカネを使えば使うほど景気が良くなる」という意味で、「消費は美徳」と言われた時代もあるんだから、「怠惰は美徳」になってもおかしくないだろう。

まあ、「消費は美徳」というのは極端な言い方だけど、「倹約は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」とは、よく言われたものだ。それをもじって、「勤勉は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」と言ったのは、先見性で知られる経済学者、ガルブレイス。

「怠惰は美徳」といえば、それを極限まで推し進めたのが、朝鮮王朝の貴族、両班(ヤンバン)だろう。両班は、顔を洗うことすら、自分ではやらずに、下僕にやらせてた。両班の場合は、労働以前に、身体を動かさないのがステイタス。近代に入り、日本の皇族がテニスをしているのを見て、ある両班が、「どうして、あのようなことを下僕にやらせないのか?」と言ったという話は有名だ。

こういう例を見ても、「よく働く」ということは、決して古今東西の人類の、普遍的な価値ではないということがよく分かる。

現代人の多くは、一日の中で、仕事の占める比重が大きすぎだ。こんなんじゃ、日常に埋没してその日その日を生きるしか、なくなってしまうだろう。

その点、高齢化社会で、すでに働かなくなった年金生活者が増えているが、美術館もコンサートホールも、こうした人たちで一杯だ。精神世界に関する講演でも、聴衆には高齢者が多い。人間、忙しさから解放されれば、どれほど精神生活が充実するかが、よく分かる。

そもそも、おカネになることばかりが仕事なのではない。

昔からよく言われるのは、家事と育児だろう。家庭で主婦がこれをやれば、GDPは少しも増えない。でも、家政婦を雇ったり、保育園に預けたりすれば、払ったおカネの分だけ、GDPは増える。これは、「社会的な意義や豊かさと、GDPが比例しないことの例」として、昔からよく引き合いに出されている。

ベーシック・インカム

2013年05月28日 | お金が要らない世界

大阪で、母子の遺体が発見された。アパートの一室は、電気とガスが止められ、冷蔵庫には食べ物がなかった。3歳の子供の遺体のそばには、ガス料金の請求書の封筒に、「最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」という内容のメモが残されていた。大阪府警が調べたところ、預金口座には十数円しか残っていなかったという。

かつての日本は、「一億総中流」と言われ、「貧困を根絶した社会」とうたわれた。でも、それはとっくに過去の話。最近の日本では、餓死者が出ている。貧困は、まったくシャレにならない問題になってしまった。

勤勉の道徳がすみずみまで根づいている日本社会では、生活保護を受けるのが難しい。たいていの場合、役所からは「身内を頼りなさい」、「働きなさい」と言われて、なかなか認められない。しかも、ますます受けにくくなる方向に制度改正が進んでいる。

最近は、ネット右翼が生活保護を「生保」(ナマポ)と呼んで、攻撃するのがネット上で流行している。でも、それはいずれ、自分たちの首を締めることになるだろう。


日本共産党は、こうした問題を、いつも国会で追及している。左翼の知人がよく言うことだけど、今の日本は、共産党が大きく勢力を伸ばしても、まったく不思議はない状況だ。言われてみれば、確かにそういう気がしてくる。なんだかんだ言っても、こういうテーマで、本気でガンバッてくれてるのは日本共産党くらいのものだろう。

でも、世の中は一筋縄ではいかない。数年前、筆者が失業してバイト生活してた頃、バイト仲間たちと駅前で集合したのだが、そのとき、たまたま駅前で共産党が街頭演説をやっていた。「非正規雇用をなくせ!」という話だった。それを聞いたバイト仲間たちは、「非正規雇用がなくなったら、俺たちはどうすりゃいいんだよ?」と、口々に怒っていたものだ。

また、日本共産党が主張している「法定最低賃金の引き上げ」というのも、確かに悪い話じゃないんだけど、いきなりそれをやれば、失業率が上がるのは確実だ。


いっそのこと、「国民全員に最低生活を保障しよう」という制度が、ベーシック・インカムだ。たとえば、大人1人に月10万円、子供1人に月7万円を、政府が配給する。これなら、生活保護を申請して、認められるまでもない。途方もない財政支出になるけど、まさに夢の制度。

その逆なら、過去にもあった。つまり、「一人アタマいくらで、全員一律に税金を取ります」という制度ならあった(・・・こういうのを、人頭税といいます)。これは、なんともつらい制度だった。

千年以上も昔に、世界を制覇したサラセン帝国が、異教徒には人頭税をかけて、イスラム教徒には免除したのは有名だ。イスラム教に改宗した人は、人頭税を免除します。イスラム教を信じないで、偶像崇拝を続ける人は、人頭税を払いなさい。この制度は効果テキメンで、異教の民がわれもわれもとイスラムに改宗した。

よく、「イスラム教は、武力で信仰を押し付けた」と言われるけど、それは誤解だ。それよりも、「異教徒からは人頭税を取ります」という、おカネの話のほうがずっと効果的だぅた。

最近だと、イギリスの大改革者、サッチャー首相が人頭税を導入しようとして政治的につまずいたのは、記憶に新しい。

ベーシック・インカムは、人頭税の反対。国民全員に、「一人アタマ、いくら」で一律でおカネを配るという制度だ。人頭税が地獄なのに比べて、これは天国だ。


もともと、これは、経済学で、市場原理ではどうしても解決できない問題に対する、ひとつの答えとして出てきた考え方。

というのも、経済学には、「自然失業率」ってものがある。たとえば、「今月の失業率は、4パーセントでした」という話を聞いて、「う~ん、悪い数字じゃないんだけど、それでも100人に4人が失業してるのか。いっそのこと、ゼロパーセントにはならないもんなのかね?」と思ったとしても、そうはいかない。

誰も失業してない世の中は、完全雇用といって、とても困った状態とされている。なぜかというと、完全雇用の状態になると、就職は超・売り手市場になり、人を雇う側は、どんどん給料を上げないと、人手不足になってしまう。そうなると、人件費が高くなり、それが物価にハネ返る。

早い話が、失業率がゼロになると、物価が急カーブを描いて高くなり、インフレになってしまう。世の中、いいことばかりではない。物価が急上昇して、生活は大混乱だ。

これを防ぐために考え出されたのが、「自然失業率」。最近は、「失業して困ってる人がいるのに、自然とは何事だ!」という批判にこたえて、「インフレにならない失業率」とかなんとか、言いかえられている。

つまり、安定した経済を維持するためには、必ず一定以上の失業者がいなければいけないというのが、この世界の真実だというわけだ。

でも、それじゃ困る人が出てくるわけで、そのスキマを埋めるためには、失業保険とかも考えられるわけだけど、いっそのこと、「全員に生活保障しちゃったら?」という考えが出てきた。それが、ベーシック・インカム制度。

(続く)


イタリアも大幅な憲法改正へ

2013年05月28日 | こっくり亭日記
  
イタリアが、大幅な憲法改正に向けて動き出した。これから、国会での審議が本格的に始まる。

イタリアの憲法は、1948年に制定されて以来、15回も改正されている。今回のような大幅な改憲だって、国民投票まで行ったこともあるし、そんなに特別な話というわけでもない。

日本の場合、あまりにも憲法を改正できないので、「憲法改正をしやすいように、改正手続を変えよう」という話が盛んになってきた。

それに対して、「アメリカやドイツでも、憲法改正の国民投票をやるためには、国会議員の3分の2以上による発議をしなきゃいけない。それが世界の常識なのだ」というのが、声高に叫ばれている。でも、「世界の常識」というのはウソだ。現に、イタリアでは「国会議員の過半数」となっているし、同じような国は他にも多い。
 
 
なんで、イタリアで「憲法を変えよう」という話が盛り上がっているのか。それは、内閣が一年も持たずにコロコロ変わる、短命政権がずっと続くことに悩まされてきたから。

政権運営がやりにくい原因は、日本と同様、ネジレ国会にある。

日本でも、衆議院では自民党の議員が圧倒的多数だけど、参議院の勢力図は、まだ民主党に追い風が吹いてた頃の選挙結果だから、ネジレ国会になっている。今はまだマシな方ではあるものの、ネジレがひどくなると、衆議院で決まったことでも、参議院でひっくり返されてしまうから、何事も決められなくなる。内閣にとっては、政権を運営するのが、トテツもなく難しくなる。「首相になってはみたものの、何もできないから、もうヤメた」という人が相次ぐことになる、大きな原因だ。

これを、「政治家の器が、昔に比べて小さくなったせいなのだ」と批評するのはカンタンだけど、本当にそうだったのか。

イタリアでは、ずっと前から短命政権がコロコロ変わって、「今日は誰が首相なんだっけ?」という世界。上院と下院がバラバラなせいで、連立政権ができては壊れ、できては壊れ・・・を繰り返してきた。これを、憲法を大幅改正することにより、いよいよ見直そうとしている。


昭和40年代の終わりごろ、朝日新聞のコラム・天声人語に、「イタリアでは、連立政権ができては壊れ、また別な連立政権ができては壊れ、短命政権がコロコロ入れ替わっている。政情不安で、イタリア人は空を仰いで嘆くばかりだ」というようなことが書かれたことがあった。

その数日後、同じ天声人語に、「イタリア人の方から、『政情不安とは何事だ。日本人とは考え方が違うのだ。余計な口出しするな』という、苦情のメッセージが来ました」というお詫びの言葉が出た。

筆者は、小学生になってから、天声人語をまとめた本でそれを読んだ。それから20年ほどたって、意外にも、日本が当時のイタリアとそっくりな状況になってきたのを見て、それを思い出した。

(余談だけど、小学生のときにチラッと目にした、こんな話を、20年以上たってから思い出すというのがADHD的な記憶力というものだろう。実際、テレビのニュースを見ていたら、本のページが目の前に浮かんできた・・・)。


思うに、同じ第二次大戦の敗戦国だけに、イタリアも、日本とほとんど同じような事情を抱えている。つまり、憲法を制定した当時、「また独裁者が出て、戦争を起こすのを防ぐ」ということに、強いコダワリがあったので、わざと首相や大統領が何も決められないような制度にしてあるのだ。だから、連立政権がコロコロ変わって、何も決められない状態が続いても、「独裁者が出るよりはマシだ」と考え、ガマンしていたのだろう。

問題は、どこまでガマンし続けられるか・・・というところにある。その後、何十年もそういう状態を続けて、イタリア人の堪忍袋の緒も切れたのだろう。
 
「日本の首相は、連立政権を作っては壊し、また別の連立政権を作っては壊し、バカなことばかりやっている。昔の政治家は偉かったのに、今の政治家のなんと無力なことよ」と世間の人々が嘲笑するのを聞くにつけ、違和感を覚えたのは、これが頭に残っていたからだ。


朝日新聞の記事によると、

>こうした状況下、大連立を背景に4月に就任したレッタ首相は、施政方針演説で、「現在の二院制は限界だ」、「一年半以内に、改憲によって国の仕組みを変える」と表明した。


代案として考えられているのは、上院を弱くして、下院を強くし、「どちらが決めるのか、ハッキリさせよう」という、ドイツ型。現政権は、これを目指している。

もう一つは、「みんなで選んだ大統領に、もっと決定権限を持たせよう」という、フランス型。こちらは、ベルルスコーニ元首相が目指している。

本当は、日本だって、国会とか内閣とかの制度をどうするのか、もっと見直すべき状態のはずだ。そこに立ちはだかるのは、「憲法を変えられない」という、日本ならではの現実。といっても、イタリアだって、何十年も前からこんな状態を続けて、やっと制度を見直すことになったのだ。混乱する政局が、あと20年も続いたら、日本人もさすがに制度を変えるしかないことに気づくだろう。


話は変わるけど、先日も、護憲論者の知人と酒を飲んでたら、いつもの通り、「憲法を改正しようとしてる連中は、ケシカラン」という話になった。筆者とは、当然ながら意見が割れた。やっぱり、政治と宗教の話をなるべくしないのが、人間関係を大切にする優良サラリーマンのオキテなのだ。

こちらは、「憲法を守れ」という話が、ものごころついた頃から大嫌い。小学生のときから朝日新聞を読んでるが、「護憲」の話が出てくるたび、いつもイライラさせられた。それなのに、なぜ朝日を読んでるのかといったら、一種の自虐趣味みたいなものだろう(笑)。

とはいっても、子供なだけに、法律の知識とか、そういうのはなかった。

小学生の頃の筆者は、古事記の日本神話を愛読し、「神武・綏靖・安寧・懿徳・・・」と、歴代天皇の名を初代の神武天皇から、今上の昭和天皇(当時)まで、全部暗誦していた。「日本は、神の国なのだ」というのがポリシー。夷狄(アメリカの占領軍)が制定した日本国憲法など、神の国のケガレであり、内容を度外視してでも、一刻も早く全面改正すべきであると考えていた。

理屈はどうあれ、「日本国憲法を書いたのは、日本人ではない」ということが、直感的に明らかだった。「これを日本人が書き直すのは、当たり前のこと」としか思えなかった。

でも、家族は全員、それとは正反対の思想の持ち主。このため、家庭内では、「右翼だ、国家神道の信者だ」という批判がいつも集中していた(笑)。
 
 
キリスト教の精神に根ざす欧米諸国の憲法とは違って、日本の場合は、憲法そのものが宗教の代わりになっている。

護憲論者の人たちが日本国憲法に寄せる思いは、イスラム教徒がコーランに寄せる思いに通じるものがある。「改正しやすくするなど、憲法に対する反逆であり、言語道断なのだ」という言い方は、もはや法律に対する姿勢ではなく、聖典を改ざんする者への信者の怒りそのもの。

まあ、なんだかんだ言ったって、これから先も憲法を変えるのは難しいだろう。どちらにしても、これから世の中がますます激変するのは確実だ。いい悪いは別にして、そこまで憲法にこだわることもないか・・・(笑)。
 

クンダリニー覚醒のプロセス

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
クンダリニー・ヨーガの章についている数々の図版は、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」という本の中でも、かなりの比重を占めている。「クンダリニー覚醒のプロセス」については、とても言葉では説明できないらしく、図版が中心の説明となっている。なんだか、重要なことが図版の但し書きでさりげなく書いてあるので、ついつい読み落としそうになる。


それによると、いよいよクンダリニーが覚醒するというときには、神霊が1~3人ほどやってきて、そのうちの1人が本人の頭の上に手を置くという。その神霊というのは、導師がアストラル体やメンタル体でやってきた姿だ。そして、弟子の頭に手を置いて、封印を切る。

これを見ると、やはり、クンダリニーが飛び出すためには、最終的に封印を切るヘルパーが必要なようだ。実際にクンダリニー・ヨーガを習っている師匠の場合もあれば、スピリチュアルな存在に来てもらう場合もあるだろう。もっとも、救急車と違って、呼べば来てくれるというワケにはいかないのだが・・・。


仮死状態になると、肉体は機能を停止する。呼吸停止、心拍停止、脳波停止の状態だ。それにつれて、頭頂部のサハスラーラ・チャクラが盛り上がってくる。「お釈迦様は、サハスラーラ・チャクラが発達するあまり、頭が盛り上がっていた」という伝説もあるのは、この状態の象徴か。

ヨニ・ムドラーも、肉体でポーズを取っているうちは、まだ甘いようで、この状態からは意識だけでヨニ・ムドラーをするようになる。これは、視覚や聴覚をはじめとする、肉体的な五感が消えていくということだろう。

それから、頭頂部のサハスラーラ・チャクラと、尾てい骨のムーラダーラ・チャクラが、ぞれぞれ球状になっており、その2つをつなぐ白色コードの図がある。この状態では、サハスラーラとクンダリニーだけが光っており、下から無感覚になっていく。

つまり、五感がだんだん消えていくわけなのだが、視覚・聴覚その他が消えた後で、最後に残るのは、触覚。なぜか、触覚だけが、一時的に鋭敏になるという。


いよいよ、クンダリニーの覚醒だ。人は死ぬとき、人生のあらゆる出来事が走馬灯のように駆け巡る・・・というけど、この仮死状態においても、それが起きる。自己意識は、頭頂より突出して、透明な知覚を顕す。


ムーラダーラ・チャクラから活性化が始まり、上のチャクラへとクンダリニーが上昇していく。そして、頭頂部から、丸ごとスッポリと抜け出す。

ここから先の境地は、絵で説明することしか、できなさそうなところ。ていうか、絵で説明されたところで、本当のところは知るよしもない。やはり、実際にクンダリニーが上がってみるしかないのか・・・(笑)。
 

チャクラ全開呼吸

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
マハー・ムドラーからクンダリニー瞑想までが、クンダリニー・ヨーガの基本的テクニック。なんといっても、クンダリニー瞑想で、注意力をどれだけ持続できるかがカギになる。

「注意力を維持するための補助行」と位置づけられているのが、チャクラ全開呼吸。


「チャクラ全開」っていうだけあって、息をすっかり吐ききる。そして、意識を地の底の底と思われるところまで下ろす。なんだか、ニューエイジ系でいう「グラウンディング瞑想」と似てるけど、グラウンディング瞑想の場合は、ルート・チャクラと地球のコアを、意識のコードでつなげるのが目的。でも、チャクラ全開呼吸の場合は、意識を上下動するだけだ。

そこから入息とともに、意識をセキ髄の中心を通して引き上げてゆき、頭頂部も抜けて無限の高みまで打ち上げる。息を思い切り吸って、吸いきる。意識は、遥かな天上まで打ち上げられる。

そして、意識を吸いきった状態のまま、今度は意識を、尾てい骨まで下ろして来る。なぜか、この下がるときだけは、セキ髄の中心(スシュムナー)を通さない。普通に、身体を通って降りてくる。

その降ろした意識を、尾てい骨から世界全体に広げる。ものすごい深呼吸なだけに、呼吸が静かになるまで、しばらくかかる。その間、意識は尾てい骨にとどまっている。無理に呼吸を静めようとはせず、自然に放っておく。

それから、もういっぺん、息を思い切って吐ききりながら、意識を地の底まで降ろす。


ここまでの意識の流れは、尾てい骨 → 無限の高み → 尾てい骨 → 地の底の底。

ここから先は、マハー・ムドラーやヨニ・ムドラーと同じく、 地の底の底 → 無限の高み →スワジスターナ・チャクラ → 地の底の底 → 無限の高み → おなかのマニピュラ・チャクラ・・・という調子で、上がったり下がったりしながら、だんだん上のチャクラに移動していく。その間、意識は地の底まで降りたり、空の上まで上がったりする。

つまり、マハー・ムドラーやヨニ・ムドラーでやってた「意識の上下動」を、チャクラ全開呼吸では、地の底から天の上まで、もっと大きなスケールでやる・・・という感じ。


これは、「補助行」っていうだけあって、クンダリニー瞑想のやりすぎで注意力がにぶってきたとき、意識を鮮明にするためにやるという位置づけ。早い話が、気分転換(?)。

ただし、クンダリニー・ヨーガになじめない人でも、チャクラ全開呼吸だけを独立にやることにだって、意味はありそう。本格的な行者から見れば、まったくの気休めみたいなものかもしれないが・・・。
 

クンダリニー瞑想

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
 
マハー・ムドラーの次は、ヨニ・ムドラーだ。これは、クンダリニー瞑想に入るまでの、準備段階という感じ。

ヨニ・ムドラーは、まず座禅みたいな蓮華座を組むことから始まる。両足を組むのが原則だけど、最もキツい座り方なので、無理は禁物。そもそも、ハタ・ヨーガでおなじみの柔軟体操みたいなポーズの多くは、正しく歪みのない蓮華座を組むための、予行練習みたいなものなのだ。急にやろうとすると、ヘタすりゃ関節を痛めるから、要注意。



座禅と同じように、小さな座布に尻を乗せ、右足を下に、左足を上にして結跏趺坐する。「右足が下で、左足が上」というのが、ヨーガの正式な作法。もっとも、どの足を上にするかという順番は、たいして重要ではないらしく、ここに貼った画像のように逆になってるのもよく見かけるし、ヨーガの先生の中には、ときどき組み替えることをオススメする人までいる。

言われて気づいたことだけど、そもそもダンテス・ダイジ自身、図版の絵では足の順番を逆に描いている。「座禅とヨーガでは、足の順番が反対になる」と、わざわざ2度も繰り返してるにもかかわらず・・・(笑)。


ここまでは座禅とほぼ同じだけど、座禅と違って、無理に背筋をピンと立てなくてもいいみたい。

そして、ヨニ・ムドラーのポーズでは、両手で顔を覆うのが特徴だ。

といっても、泣いてる人みたいにガバッと顔を覆うわけではなく、一本一本の指が離れている。両ヒジをほぼ水平に針、両手の親指で耳の穴をふさぎ、人指し指は額に当て、中指で目をふさぐ。

なんのために、こんなことをするのかというと、「見ざる、言わざる、聞かざる」みたいな感じ。実際には、この程度で耳が聞こえなくなるわけじゃないんだけど、気持ちの上では、耳を押さえている。視覚と聴覚が減退していくことの象徴だ。

クンダリニー瞑想では、仮死状態になることを目標にしている。死んだ人と同じ状態っていうくらいだから、視覚や聴覚は消えていくのである。



↑ 見ざる、聞かざる、言わざる


次は、薬指で鼻をふさぎ、小指で口をふさぐ・・・と言いたいところだけど、実際には鼻で深呼吸することが大事なので、鼻をふさいでは元も子もない。だから、薬指は小鼻の脇に置き、小指は口の両端に置いておく。軽く添える感じだ。


このポーズをとった状態で、マハー・ムドラーのときと同じように、呼吸に合わせて、意識の上下作業を行う。

はじめに、息を吐ききった状態で意識を尾てい骨に置き、息を吸いながら、意識を頭頂部まで持ってくる。

意識を頭頂部に留めたまま、息を吸いきった状態で、しばらく息を止める(クンバク)。ただし、息を止めるといっても、ここでいきなり仮死状態になるわけじゃないので(笑)、無理はしない。

そして、息を吐きながら、吐く息に合わせて、意識を再び尾てい骨まで下ろす。

さらに、息を吸いながら、また意識を頭頂部へ。そこでしばらく、クンバク。また、息を吐きながら意識を下ろす番だけど、今度は尾てい骨までは下ろさない。下腹部の、スワジスターナ・チャクラまで意識を下ろしたら、そこで止める。

それから、意識をスワジスターナ・チャクラ → 頭頂部 → おなかのマニピュラ・チャクラ → 頭頂部 → 胸のハートチャクラ → 頭頂部・・・と、上がったり下がったりしながら、だんだん上のチャクラへと移っていく。

最後に、眉間のアジナー・チャクラから頭頂部に達したとき、そこでしばらくクンバクしながら、一度、両手を顔を覆う。そして、両手を顔から離して、両手を下ろしながら息を吐き、同時に意識を尾てい骨まで下ろす。

「それぞれのチャクラを、明瞭に意識する」というのが、なんといってもヨニ・ムドラーの目的。
 
 
ヨニ・ムドラーが終わったら、そのままクンダリニー瞑想に突入する。

クンダリニー瞑想は、そのままの蓮華座のポーズで、手のひらを上に向け、ひざのあたりに軽く乗せて瞑想に入る。ちょうど、上に貼った画像みたいな感じ。

意識は、尾てい骨に置く。クンダリニーといえば、やっぱり、尾てい骨のルート・チャクラを刺激するのが、まずはポイントになる。


そこから先は、いかにもインド式。集中力と注意力の瞑想だ。何一つ落とすことなく、注意深く「聞き守る」ことを続ける。聞き守る対象は、聞こえるものすべて。小鳥がピーピー鳴く声でもいいし、自動車がブーという音でもいい。いわく、

>それら全部は、決して止まることなく変化しているのであるから、全部を同時に、しかも持続的に最大限の注意力を働かせていなければならない。

>通常いわれている、いわゆる「音を聞く」ということでは全然ない。「見守る」という表現も本質的には同じなのであるが、要点そのものはといわれれば、全知覚力の発動であると言うべきでああろう。


クンダリニー瞑想は、マハー・ムドラーと、ヨニ・ムドラーの呼吸法が重要なポイントになる。でも、ここから先は、瞑想中の意識の問題。やっぱり、詳しくは、ダンテス・ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」をご参照・・・。