宇宙のこっくり亭

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ブッダの苦行

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

瞑想修行で、信じがたい才能を存分に見せつけたゴータマ・ブッダ。たちまち、「一切の思考や感情をストップする瞑想」をマスターし、至高なる無の境地に到達した。だが、それで満足するゴータマではなかった。高名なる師匠たちからの、「ボクと一緒に弟子たちを率いていこうよ」という申し出を断り、さらなる求道へと旅立ってしまった。

いったい、ゴータマは何が不満だったのか。

実のところ、「思考を止める瞑想」に対する不満とは、「効果が長続きしない」というところにあった。たしかに、瞑想している間は、無念無想となる。その間は、欲望が起きてこない。したがって、業(ごう、カルマ)も生じることがない。

でも、瞑想が終わって日常生活に戻ったら、無念無想の状態を続けるわけにいかない。それでは、生活に支障を来たすことになる。そうすると、どうしても欲望は起きてくる。これでは、根本原因を断ち切ったことにならないじゃないか・・・と、ゴータマ・ブッダは考えたらしい。

もちろん、だからといって「思考を止める瞑想」に意義がないわけではない。少なくとも瞑想している間は、たしかに過去の記憶や、未来の不安から解放され、現在の一瞬に集中できる。至高の境地に至るためには、これが欠かせない。あくまでも、「それだけでは、(解脱するには)足りない」というだけ。

「思考を止める」というのは、古代の流行にとどまらず、現代に至るまでインドの精神世界の伝統となってきた。インド人の導師の話では、必ずといっていいほど言及される。ブッダもそうだし、クリシュナムルティもそうだ。
 
さて、ゴータマが瞑想修行の次に目をつけたのは、苦行(くぎょう)である。なんといっても、瞑想と苦行が、当時の二大流行だ。2つとも、「欲望の克服」を目的としているという点では同じなのだが、その手段がおおいに異なる。

「苦行」の道を選んだ人々は、徹底した禁欲がポリシー。食欲・性欲・睡眠欲・・・。自らの肉体をイジメぬき、極端な禁欲で心を鍛え、じっとガマンの日々を送る。これによって、欲望をシャットアウトしようというのだ。いわば、力ずくで欲望を押さえ込む道である。

彼らの辞書に、「ほどほどに」という言葉はなかった。彼らは、徹底的に苦行した。「ここまでやるか」とばかりに苦行した。何年間も立ちっ放しですごしたり、針の寝床に寝たり、ゴロゴロ転がって移動したり・・・。
 
五人の修行仲間(五比丘)とともに、ゴータマ・ブッダは苦行に打ち込んだ。とくに熱心に行ったのは、断食行と止息行だという。
 
モーレツな断食で、肉は落ち、骨と皮ばかりにやせ細ったゴータマ。顔は、すさまじい形相だ。
 
あるとき、ずっと息を止めていたゴータマは、仮死状態に陥った。神々からは、「ゴータマは死んだ」と言われた・・・(泣)。

六年間、徹底的に取り組んだ苦行。これによって、ゴータマ・ブッダの心身はこの上なく清澄になり、大半の欲望を抑え込めるようになった。もはや、どこから見ても、堂々たる聖者。うっすらと後光が差している。
 
だが、ゴータマ・ブッダは気づいてしまった。たしかに、苦行によって、欲望を押さえ込めるようになった。だが、欲望がなくなったわけではない。次々に起きてくる欲望を、次々に抑え込む。これじゃ、モグラ叩きと一緒。欲望を、元から断ち切るにはホド遠い・・・。

そんなある日、村娘スジャータが布施した乳粥を、受け取ったゴータマ。これを飲み干すのは、苦行の道から降りることを意味する。修行仲間からは、「ゴータマは堕落した」と言われるだろう。

ゴータマ・ブッダは、乳粥をググッと飲み干した。長い苦行の日々は終わった。これからは、「苦楽中道」でいくことにしたのである。
  
結論 : 苦行して欲望を抑え込んだだけでは、解脱できない。

 
(参考文献 : 宮元啓一著『ブッダが考えたこと』) 

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