宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

ピラミッドの効果?

2012年01月29日 | 精神世界を語る
  
坂本政道氏のブログ「MAS日記」を見たところ、こう書かれていた。

>5年ほど前から某研究機関とピラミッドの効果についての共同研究を行ってきています。
生体に及ぼす効果と、電磁気的な効果のふたつを主に研究しています。

>2週間ごとに打ち合わせを行いますが、今日はその日で、朝から、研究所へ行ってました。

>実は、生体への効果について、統計的に相当有意な結果が得られてきています。

>かなり説得力のある結果なので、偏見の少ない学会誌なら、うまく行くかもしれません。


「ピラミッドの実験をしている」という話は聞いていたけど、「生体への効果」について有意な結果が出てきているというのは、興味深い。どのような効果なのかまでは、書かれてないから分からないのだが。
 
ということは、逆に「電磁気的な効果」については、まだ見えてこないのかな?・・・とも思う。まあ、それは「これから」ということか(笑)。

もちろん、「プラシーボ効果」(これは健康に良い、というような先入観による心理的な効果)ということも考えられる。でも、理学部出身の坂本政道氏なら、恐らく、それを計算に入れた実験をしていることだろう。だから、期待できる。

「いま、それを論文にする作業を進めています」というから、発表される日は近いみたい。追実験をして効果がハッキリと認められれば、「宇宙からの生命エネルギー」の存在が、初めて科学的に実証されることになるのだろうか?

もしそうなら、すごいことだけど・・・。
 

「おカネが要らない世界」をまた考える

2012年01月29日 | お金が要らない世界

酒井英禎さんという人のブログを見て、「おカネが要らない世界」について、また考えた。

いくつか疑問点はある。

>ベーシックインカムは、政府が国民全員に最低限の生活に必要なお金を毎月配る制度である。今の日本だったら、一人10万円くらいだろうか。その代わり、生活保護・年金などの他の公的社会保障は全て廃止する。・・・ダン・コガイは BI の財源として、税率を100% にした相続税を充てることを提唱する。つまり三途の川の向こう側には誰もカネを持って行けないのだから、税金は死んだ後に取られる方が痛みが少なかろう、というわけである。・・・私も、そういう社会が実現したらすばらしいだろうな、と思う。ただし、残念ながら永遠に実現しないだろう。特にダン・コガイが大真面目に主張する BI の財源 = 税率 100% の相続税収、は政治的に無理がありすぎる。
  
「相続税の税率を100%にして、ベーシックインカムの財源にあてる」という話なのだが、ベーシックインカムには莫大なカネがかかる。ざっくりと、1億人に毎月10万円を政府が配るとして、月間10兆円の財政支出が増える。年間では120兆円だ。それだけで、現在の国家予算を上回ってしまう。一方、相続税の税収など、タカが知れている。土地や株の値下がりのおかげで、今じゃ年間1兆円くらいしか税収がない。「税率を引き上げるのは政治的に無理がある」もなにも、ベーシックインカムの財源にするには、もともと力不足もいいとこ。
 
今は一部の資産家だけにかかっている相続税を、世の中の死んだ人全員に課するということなんだけど、それは意外に大変なことだ。相続税をちゃんと課税するのには、相当な手間ヒマがかかる。死んだ人の銀行預金口座を調べて、預金の出し入れまでチェックしなければいけない。「アナタは亡くなる3年前、銀行から現金いくらを引き出しましたね。その後、お子さんの口座に預金がナゼか増えましたね?」というような話を、一部の資産家だけならともかく、無数の小金持ちにまでやっていたら、税務署の職員をどれだけ増やしても足りないだろう。
 
>本書で残念な点があるとすれば、ダン・コガイが経済=カネと考えていることだ。実際には、経済とカネはイコールではない。・・・経済全体が貨幣を媒介とする商取引に絡めとられるようになったのはここ数百年のことにすぎない。・・・経済=貨幣経済(A)+非貨幣経済(B)である。古代は貨幣経済(A)は事実上無視できるほど小さかった。数百年まえから貨幣経済(A)が急速に伸長し、非貨幣経済(B)の息の根を完全に止めるかのように見えた。
  
これも、「おカネがない世界」を唱える人たちによく見られる考え方のひとつで、以前から気になっている。というのも、「貨幣経済が広がったのは、ここ数百年のできごとにすぎない」、つまり、「貨幣経済とは、近代の資本主義社会の産物なのだ」と思っている人が多い。

実際のところ、そんなことはない。それは、貨幣経済の歴史が、近代の資本主義社会よりもずっと長いからだ。2千年前の漢やローマ帝国だって、貨幣経済の存在感は、「無視できるほど小さく」はなかった。
 
本格的な「貨幣経済社会」が到来したと言えるのは、千年以上も昔、8世紀のイスラム帝国(イラクの首都バグダッドを中心とする巨大帝国)だろう。ここでは、軍人や官僚の俸給が、すでに現金で支払われていた。国際的な商取引が発達して、アラビア人の貿易商社が世界の海で活躍し、中国とインドの貿易の仲介までやっていた。おカネがあれば、中国からアフリカまでドコに行っても生活できたので、海外旅行をする人も出てきた。それは、やがて世界に広がった。スタートが遅かった日本でさえ、「室町時代には、貨幣経済が浸透しました。農民は、商品作物を育てて定期市で売るようになりました」とかなんとか、中学校の歴史の教科書にも書いてある。
 
でも、疑問(・・・というより、異和感)を覚えるのは、そこまで。このブログ記事を書いた人にとっても、そこまでは前置きで、本題はそこから始まる。
 
>これから先、生活必需品はほとんど人手を介さずほぼ自動的に生産されるようになっていく。一方で人手が要らないがゆえに失業した社会の大多数の人たちには、カネがない。カネのない人にモノを売ろうとすれば、売り手はモノの値段を安くするしかないのではないか。この傾向が強まるほど、モノの価格は下がっていってほぼゼロに漸近していくだろう(いまだって100円ショップをみれば同様のことが起きていることがわかる)。
  
確かに、そのうち、ロボットがなんでも生産する世の中になっていくだろう。今は、多くの製品を、どこかの国で、賃金の安い人たちがタダみたいな人件費で生産している。これも、機械化が進んで、どこでも同じようなモノを作れるようになったおかげ。ますます機械化が進めば、そのうち、人が作る必要もなくなるだろう。

そうすると、どうなるか。買う人にとっては、モノはタダみたいに安くなっていく。一方、モノを作ったり売ったりする人にとっては、失業者が増えて苦しくなっていく。今は、その2つの変化が同時進行しているのだという。
 
さらには、インターネットの普及で、知識や情報の値段が、文字通りタダになってきた。
 
>その一方で、情報技術(IT) が大量の無料(フリー)なものを生み出している。インターネット上では、あらゆる情報(文章・音楽・映像等)を完全に無料か、ほぼ無料に近い安価で手にいれることができる。たとえば iPad は、わずか5万円ほどの機械だが、かつてのテレビ・パソコン・ラジオ・新聞・CD・DVD・書籍・百科事典・ステレオコンポ・携帯音楽プレーヤー・有線放送等、諸々のものの代替物になっている。
  
というのは、その通りだと思う。今は、新聞を取っていない家庭が多い。インターネットで、必要な情報が無料で入手できるからだ。その意味では、確かに無料なものや、タダみたいに安いものが増えている。
   
もっとも、「無料か、タダみたいに安くなる」というのは、どれも、「必要最低限なもので満足できるなら」という条件付きになる。よりハイレベルな生活を求める人は、引き続き高額な商品の購入を続けることだろう。

美食をするグルメや、着飾ったオシャレな男女がいなくなったら、やはり寂しいものがあると思う。音楽にしても、youtubeで聴くのもいいけど、「有名なコンサートホールで、名門オーケストラの実演を聴きたい」という人だっているだろうし。文化が栄えるためには、そういう人たちも必要だ。筆者はyoutubeで十分なのだが、そんな人ばかりだと文化がヤセ細っていくことになる(笑)。
 
いずれにしても、それ以上を求めない人にとっては、「おカネがなくても生活できる世界」になっていく。よりハイレベルな生活を求める人は、その道を追求する自由選択があっていい。でも、とりあえず「おカネがなくても生活できる世界」にならないと、同じような苦労がいつまでも続くことになる。
 
もっとも、人類の意識が進化するにつれて、物質的な欲望は薄れていく方向にあるので、ハイレベルな生活を目指す人はだんだんいなくなっていくかもしれないのだが・・・。
 


地球ライフを楽しむ

2012年01月25日 | 精神世界を語る
  
「万物は流転する」というのは、ギリシャでも最も古い哲学者の一人、ヘラクレイトスの有名な言葉。世の中がノロノロと動いていた大昔の人が見ても、やっぱり、この世界はすべてが流転していた。ましてや、スピード違反スレスレの暴走を続ける現代社会では、変わらないものを探すほうが難しい。
  
世の中のスピードは、ますます速くなっている。地球の物質世界は、もともと諸行無常、生々流転の世界。人類の歴史を見ても、作っては壊し、作っては壊し・・・の繰り返し。ここは、見た目ほど堅固な世界ではなく、実はイイカゲンな世界で、なにもかもが常に流動している。

やっぱり、古来から多くの聖賢が「この世界は虚構だ」、「現世は幻影だ」、「ここは仮想世界なのだ」・・・etc、と言ってきたのには、それなりのワケがあるってことだろう。
  
そこで思うのだが、こんな世界だからこそ、あえて「地球での生活を楽しむ」ってのも、ひとつの道なんじゃなかろうか。バーチャルリアリティの世界で、ゲームに夢中になるのと一緒。やらなくなって久しいけど、筆者もかつてはゲームにハマッた時期があった。ゲームの中で武器や防具を集めていると、どんどんキャラが強くなり、以前は歯が立たなかった強敵もアッサリと倒せるようになるので、途方もない充実感が得られる(笑)。だから、必死になるマニアは、なにがなんでも強力なアイテムを集めようとする。最近の携帯ソーシャルゲームでは、何十万円も注ぎ込んでアイテム集めする人が続出している。

それと同じように、リアルの人生についても、「これは一種のバーチャル・リアリティなのだ」と割り切ることができれば、かえって、生きるのが前向きになるってこともあるだろう。ゲームも、仮想世界だからこそ、心置きなく夢中になれるのと一緒。
  
この地球での人生は、まったく厄介なものだ。厄介なだけでなく、無意味でもある。そう、それは厄介なだけで、意味がない。
 
もちろん、「私たちは、この地球での困難な人生を通じて、魂の修行をしているのです」と唱える人が多いのは承知している。でも、そうは思えない。われわれは皆、地球環境に生まれる以前のほうが、遥かに調和され、波動が高かったのだ。そんな「魂の修行」など、する必要がないどころか、しない方がかえって良いくらいだ。ここに、過剰な「意味」を求めるのは逆効果だろう。
 
地球での人生は、物見遊山の旅行と一緒で、なるべく楽しいに越したことはない。とはいっても、「こんな厄介な地球生活を、どう楽しめと言うのか。勘弁してくれよ」という意見もあるだろう。でも、結論を出すのは、まだ早い。
 
幸いにして、今後は地球環境の流動化が、さらに進むことが予想されている。変化が途方もなく速くなり、だんだん「思考スピード」に近づいてくる。それはつまり、「思ったことが実現しやすくなる」ということ。これは大きな変化であり、今までの地球環境のイメージから、大きな修正を迫られる可能性が高くなってきた。
    
筆者も、「現世に対する関心が、いまひとつ乏しい」と、以前から多くの人々に指摘されてきた。でも、いまや、バーチャルな世界だからこそ、これからは地球ライフをそれなりに楽しめるのではないかと思い始めている。あくまでも、それなりに、という話だけど・・・。

これは、自分自身の心境の変化というより、地球環境が変わりつつあるのを、皮膚感覚で感じるからだ。
 
(つづく)
 

人生の意味

2012年01月24日 | 精神世界を語る

2011年の終わり頃から、「統合意識」の出現が感じられるようになってきた。もちろん、年末からの忙しさもあって、日中は心がスサんでいることが多い。でも、ふと気づくと、それがどうでも良くなっている。そんなときは、アクセクとした第三密度の地球での日々が、何か遠い世界の出来事のように感じられる。自分自身が出演している早回しの映画を、どこかから眺めているという感じだ。
  
まあ、しょせん、すべては地球での出来事。たいした意味はない。人生で、何かが起きるたびに、「これは自分にとって、何を意味しているんだろう?」と考える人は多い。確かに、そこに何らかの意味が込められていることもあるだろう。でも、たいていの場合、たいした意味はない。

土着の地球人の価値観の中で、最も異和感を覚えるのは、地球での人生に対する真剣さだ。「そこまでムキになることないでしょ?」と言いたくなるような、妙に必死な人が多い。
  
ワンダラーにとって、地球での人生は、しょせん旅先での出来事。なにが起きても、「旅の恥はかき捨て」なのだ。もちろん、「ボクは、波動の悪い地球を救うのだ!!」というような一大決意のもとに、地球への決死行をしてきたワンダラーもいるだろう。でも、そういう人ばかりではない。実は、気ままに惑星間の転生旅行をしているワンダラーも多いと言われている。

中には、どこかの天体で瞑想して精神統一し、魂だけ抜け出して地球での人生を体験しているというような、バーチャルなノリの人もいるみたい。そういう人にとって、地球での人生は、実はたいした意味を持っていない。それこそ、眠っているときに見る、夢みたいなものだ。文字通り、「パッと目を覚ましてみたら、すべては雲散霧消した。ああ、あれは夢だったのか・・・」という世界。もともと、深刻になる必要がないのである。
  
地球の物質世界でうまく生きていくためには、目前の対象に、どれだけ意識をフォーカスできるかが重要だ。余計なことに意識を向けず、物質世界で必要なことだけに集中する方が、人生はうまくいくことが多い。

もっとも、地球での人生を送っていると、誰でも地球の文化に巻き込まれてくる。いつのまにか、「妙に必死な人」の一人になっていることが少なくない。でも、それは長く続かない。しばらくすると、やっぱり違う方向に関心が向かってしまう。趣味として楽しんでいる程度ならともかく、意識の軸足がそちらにあると、地球での人生はとても難しくなる。

とはいえ、物質世界と精神世界の間で、なんとかバランスをとりながら、うまく生きていきたいものだ・・・。無理だと分かってはいるのだが(笑)。
 

マーラー

2012年01月23日 | こっくり亭日記
 
今日は、最近では珍しく、昼にのんびり過ごしている。マーラーの交響曲第9番を聞きながら、コーヒーを飲んだ。
 
マーラーは、19世紀末から20世紀初め頃に活躍した、ウィーンの大作曲家。「死を恐れていた」ということで知られている。ベートーヴェンは、交響曲第9番、かの有名な「合唱付き」を作曲して死んだ。ブルックナーは、交響曲第9番の最終楽章を作曲できず、未完のまま世を去った。もっとも、「もしも最終楽章があったならば、長すぎて聴くのが大変だっただろう」と言われている。
 
これらの先輩作曲家たちの前例を見て、「交響曲第9番は不吉だ」とマーラーは恐れた。交響曲第8番の次の曲は、「大地の歌」という名前になり、交響曲というタイトルを避けた。それでも結局、交響曲第9番を残して、マーラーは世を去った・・・。クラシック音楽のファンには有名なエピソード。
 
それにしても、マーラーは、なぜこれほど「死」を恐れたのか。ひとつには、ユダヤ人だったせいもあるだろう。旧約聖書には、「死後の世界」がほとんど出てこない。もちろん、「輪廻転生」も出てこない。旧約の神ヤハウェが大暴れして、あれだけ大勢の大預言者・中預言者・小預言者が出たにもかかわらず、死後世界の話は、誰もあまりしなかった。基本的に、現世の話しかしない・・・それが、ユダヤ思想の特徴。と言っても、旧約聖書に限らず、大昔の人たちの素朴な神話は、たいていそうだけど・・・。
 
それはともかく、そこまでして作曲した「第9番」だけに、さすがに死を覚悟した諦観に満ちている。「マーラーが書いた最も美しい音楽」と言われる第1楽章。上質の絹糸を執拗に練り合わせたような、滑らかでシットリした美しさだ。
 
筆者が好きなのは、第三楽章。ここは「マーラーは、死ぬ直前で時間がなくて、いつもの推敲が十分にできなかったのだろう」とされ、古来からあまり評判が良くないのだが、個人的には現代音楽の先駆みたいな斬新さを感じる。特に中間部は、まさしく天界の音楽。演奏する指揮者やオーケストラにとっては、さぞかし難しい曲だろう。
 
第四楽章は、静かな部分が延々と続いたあと、消え入るように終わる。盛り上がりには欠けるけど、この長い曲をずっと聴いてきた人にとっては、至高の感動が得られる。ルネサンス時代の教会音楽にも似た、宗教的な感動。
 
ところが、先日、ニューヨークの大ホールで、ニューヨーク・フィルの演奏中、この最後の部分で突如として携帯の音が鳴り響いたという。それも、マリンバのにぎやかな着メロで、3~4分にわたって続いたというから、超・大迷惑だ。さすがに、世界は広い。どこかで起きるだろうとは思っていたが、よりによってマーラー第9番の最終楽章とは、あらゆるタイミングの中でも最悪の部類だろう。携帯の所有者は、高齢のため、なかなか反応できなかったようだ。まったく、悲劇的な事件になってしまった。指揮者も、ショックを受けているという。
 
学生時代から深く慣れ親しんできたマーラーを、久しぶりに聞きたくなったのは、この話のせいかもしれない。地球では、何が起こるか分からないのだ。一寸先は、闇。
 
消え入るような最終楽章の響きとともに、筆者の意識も、闇の中に溶けていくようだった・・・。
  

北京の至宝

2012年01月16日 | こっくり亭日記
 

典雅な北宋皇帝・徽宗の書画

 
東京国立博物館(東博)で、「北京の故宮博物院」展をやっていた。わざわざ北京や台北まで、中国美術を見に行くのは大変だ。なるべく動きたくないので、東京まで持ってきてくれるのはアリガタイ(笑)。

行ってみて、人気ぶりに驚いた。中国美術史上でも屈指の至宝・「清明上河図」を見るために、3時間~4時間待ちの行列ができていた。この作品は、まあ、文学で言えば紫式部の「源氏物語」みたいなものだろう。千年近くも昔の、東洋が生んだ大作。長さが5mもある、超大作の絵巻物。西洋の芸術に比べて、少なくとも「古さ」と「大きさ」では負けていない(笑)。上海で公開されたときも大評判を呼び、数時間待ちの行列ができたという。かつては、東洋美術の展覧会といえば、一部の骨董品マニアしか見に来ないマイナーな分野だったのに。世の中、変われば変わるものだ・・・。
 
北宋の芸術皇帝・徽宗(きそう)の書画には、思わず見とれた。徽宗は、皇帝でありながら、書と画の双方で中国文化の頂点を極めた芸術家でもあるという、世界の歴史にも稀な人。中国四千年の歴史の中でも、この時代(日本でいえば、平安時代)が文化的な最盛期だったという声は多い。でも、芸術におカネがかかりすぎて、民衆に重税を課し、かの有名な「水滸伝」の梁山泊を始めとする、各地の反乱を招いてしまった。結局、北から攻めてきた満州人に首都を攻め落とされ、徽宗は満州の北の果て、シベリアの近くまで連れ去られ、寒いところで悲劇的な晩年を過ごした。まさしく、悲劇の皇帝。
 
ショーペンハウエルの「意志と表象の世界」では、「この世は幻影であり、苦しみの発生源なのである」という話のあと、「芸術によって、その苦しみを紛らわすことができる」と続く。でも、芸術によって現世の苦しみを忘れたとしても、それは一時的な効果でしかない・・・だそうな。
  
徽宗の人生を見ると、芸術の効果は一時的なものにすぎず、問題の解決になるどころか、かえって問題の悪化すら招くということがよく分かる。この地球環境では、「美」を追求するのは難しいのだ。やろうと思えば、できないこともないんだけど、それと現実生活を両立させるのが難しい。史上最高の芸術皇帝は、世の中をメチャクチャにブチ壊してしまった。それでも、徽宗の書画は、端正で美しい・・・。
 
それと並んで歴史的な興味をひいたのは、元代の文人・趙孟頫(ちょうもうふ)の書だった。この人も、宋の皇帝の家柄に生まれた人だけど、モンゴル人に中国が征服された後、モンゴル帝国に仕える家臣になってしまった。このため、「祖国の裏切り者」呼ばわりされ、古来から日本でも評判が良くない。その代わり、この人は「書のルネッサンス」を行なった。大昔の有名な書家・王羲之(おうぎし)の書を徹底的に研究し、伝説の書体をよみがえらせたのだ。「祖国の裏切り者」として生きながら、祖国の古き良き古典文化を再興するという、なんとも皮肉な人生。
  
中国の歴史は、大なり小なり、こんな話ばっかりだ。何もかもが、政治的な問題に巻き込まれてしまう。とかく、この世は生きにくい。
 
古人の人生の難しさをしのびつつ、書画の美に、しばし現世を忘れる。このまま、現世を忘れ去ってしまいそうだ・・・。 
  

ワンダラーの生き方

2012年01月15日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々
 
「ワンダラー」とは、宇宙のどこかにある他の天体から、地球に転生してきた魂を意味する。ワンダラーは、普通の地球人と同じように、地球の両親から生まれてくる。外見は地球人と変わらないのだが、地球環境で人間にまで進化してきた土着の魂とは、意識が大きく異なる。
 
ワンダラーの他には、「ウォークイン」というのがある。わざわざ地球人の身体に入ってきた宇宙人の魂を、「ウォークイン」と呼ぶ。ウォークインは、どこかの高度に進化した惑星で、精神統一して魂だけ抜け出し(・・・というのも方法のひとつで、そればかりとは限らないが)、エイヤッとばかりに地球人の身体を強引に乗っ取る。外見はいままでと変わらないのだが、中身はすっかり別人になってしまう。言ってみれば、選手交代だ。
 
とはいっても、元の地球人も合意の上でそうしている。というより、元の地球人の意識も、ウォークインして入ってくる宇宙人の意識も、同じグループ魂の一部で、広い意味では同一人物だと言われている。
 
こんな話を聞けば、正直、「自分もそろそろ、誰かがウォークインして、地球生活を代わってくれんかな」と思うのが人情だろう。でも、なかなか、そうもいかない(笑)。地球でのオツトメは、まだ終了していないようだ・・・。

「ワンダラーの使命」という言い方がよくされるけど、別に、誰かに呼ばれて「キミ、ちょっと地球に出張してきてくれんかね?」と言われたわけではない。いや、多分そういうケースもあるんだろうけど、それだけではない。多くは、自分の意思で地球に転生してきたと言われている。

多くのワンダラーは、「地球の意識進化」に惹き付けられ、実地体験しようとしてやってきた。大変革期の地球をサポートしようと燃えていたワンダラーもいれば、単に見物に来ただけのワンダラーもいるみたい。

だが、地球はあまりにもキツい。「ウワサには聞いていたが、まさか、これほどとは・・・」というのが、多くのワンダラーのいつわらざる感想だ。「トンデモないところに来てしまったな」と後悔しても、アトの祭り。

つまり、それは無謀だったということ。「まあ、行けば何とかなるだろう」と思ってしまったのが判断の誤りだったのだ。しかも多くのワンダラーは、それだけでなく、しばしば地球の人生でも無謀なチャレンジをして自滅する。
 
地球環境にいきなり飛び込むのは、「戦場の真ん中に、単身、パラシュートで降下するようなものだ」と言われる。そう、まさしく、ここは戦場。地球人類も、最近はすっかり文明人になってきた。でも、宇宙から見れば、まだまだ先は長い。
 
もちろん、大昔の野蛮な人類と一緒になって、コン棒で殴り合ったり、槍で突き刺し合ったり、銃で撃ち合ったりするのも、マジ勘弁だ。でも、現代の地球に生まれて経済社会で生きていくのも、戦争よりは相当マシではあるとはいえ、本質的に似たようなものだろう。その上、昔ながらの災害や病気や、その他もろもろの苦しさは、今もなくなるにはホド遠い。去年の大地震は、それを思い出させるのに十分すぎるものだった・・・。
 
こんな環境で、無理をする必要はない。とりあえず、ガマンして地球にいれば良いのである。それだけで、地球の波動は上がるからだ。もしも、ワンダラーがいなくなったら、地球の波動はもっと悪くなる。
 
北朝鮮にも、イランにも、ワンダラーはいるだろう。社会の片隅でひっそりと、「波動調整装置」を努めていることだろう。
 
ここは、じっとガマンのしどころ。日常生活を、黙々と生きていくのが一番だ。まあ、筆者は人一倍、よくしゃべる方だけど・・・(笑)。
 

2012年、意識進化の年

2012年01月15日 | こっくり亭日記
 
時間がたつのが、本当に早い。もう、2012年も半月が過ぎてしまった。気がつけば、またしばらくブログの更新が止まってた。
 
それにしても、地球で生きるのは、本当に大変だ。なかなか、楽にはならない。まったく、なんとかならないものか・・・?
  
とはいうものの、すでに激動の2012年が始まっている。アセンション論者にとっては、ワクワクする年。そうでない人にとっても、ドキドキする年(笑)。自分も、世の中も、どっちに転ぶか分からない。重大な路線選択の分岐点となる年が、ついにやってきた。

何を選ぶかは、人それぞれ。「ボクは、ポジティブな第四密度に収穫されたいな」という人もいるだろう。「私は、ネガティブな意識進化の道で修行することにしました。将来的には、恐怖の大王を目指します」という人もいるだろう。どちらでもなく、第三密度の意識にとどまる人も多いだろう。宇宙は広いのだ。意識進化のメニューはひとつではなく、いろいろと用意されているから心配ない。
 
今日は、久々にヒマだったので、また美術館に行った。上野の西洋美術館では、近代絵画の創始者とも言われるスペインの巨匠、ゴヤの特別展をやっていた。
 
「40年ぶりの来日」という大作・「着衣のマハ」と、晩年の自画像などが見どころだ。個人的には、戦争絵画にひきつけられた。宮廷のお抱え絵師で、エラい人や、エロい女性の肖像画を得意としていたゴヤは、60歳を過ぎてからナポレオンのフランス軍に祖国を占領され、激動の世に巻き込まれた。フランス軍に占領されたスペイン人は、反乱の独立戦争を起こした。それからのゴヤの絵は、虐殺された大勢の人間や、銃殺される人間、串刺しにされた人間の死体などの絵が目立ち、凄惨そのもの。
 
これもまた、メチャクチャな地球人類の歴史のひとコマ。この時代のヨーロッパに限らず、地球の歴史は、こんなのばっかり。いつもこうなので、この時代だけが特別という感じはちっともしない。
 
「神様は、愛と調和の世界にしようと思って地球を創造したのに、神様のお心も知らず争ってばかりの人間たちが、地球を悪くしているのだ」と唱えている人は少なくない。でも、筆者にはそう思えない。むしろ地球環境は、そこで生きる者たちがエゴに目覚め、争いを起こすようにできている。もともと、生き延びるために必要なものが全員に行き渡るようには出来ていない。生き延びるためには、どうしても、なんらかの争いが避けられないように出来ている。ここは、バトルフィールドなのだ。
 
そして、争ってばかりの人間たちの集合意識は、さらに地球環境をすさんだものにしている。この2つは、どちらが先で、どちらが後というわけでもない。「ニワトリが先か、タマゴが先か」という関係だ。

動物たちを観察すれば、それがよく分かる。自然界の動物たちは、いつも争い、互いに喰い合って熾烈なサバイバル競争を繰り広げている。それに加えて、地球は、大災害や異常気象をたびたび起こしては、そこで生きる者たちを生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込んできた。ここは決して、優しい環境ではない。むしろ、とても荒っぽい環境だ。
 
もしも地球を創造した創造主がいるのなら、「ここはひとつ、地球の生命たちにトコトン競争させて、鍛えることにしよう」というのが、地球創造の意図だったと思われる。
 
でも、凶暴なトラやライオンでさえも、人間にエサを与えられ、飼いならされると、すっかり大人しくなってしまう。それどころか、人間と同じように、小動物をペットみたいに可愛がるようになる。ネズミをかわいがるネコや、ブタの子供をかわいがるライオンなどの動画は、ネットでいくらでも目にすることができる。肉食動物も、本当は優しいのだ。彼らを凶暴な闘争者に変えているのは、地球環境のなせるワザと言える。
 
それを思えば、地球がこんなにキツい環境でなく、生き延びるためにアクセクしなくてすむようになれば、エゴをむき出しにした地球人類も大きく変わる可能性がある。それが地球人類の集合意識を変容させ、さらに世界を変えていくことになる。これもまた、ニワトリとタマゴの関係だ。
 
つまり、人類が意識進化するだけでは足りない。地球にも、環境を変えてもらう必要がある。この2つの相乗効果で、ラセン階段を上るように全体が変容していくのが理想的。
  
2012年は、その変容の入り口となる年になる。誰にも気づくほど劇的な変化が起きるかどうかは、なんとも言えない。でも、いよいよ変化が起き始める年になるだろう。日常生活がいくら大変だとしても、それに埋没して、意識進化を忘れてしまっては困る。まあ、とりあえず日常生活も大事だけど・・・(笑)。