宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

輪廻転生からの卒業 ~ ロバート・モンロー

2008年07月15日 | ロバート・モンロー
   
モンロー研では「地球生命系からの卒業」を唱えている。
 
それによると、我々は皆、どこからか地球生命系にやってきて、輪廻転生している。

地球生命系の特徴は、物質界と非物質界が、明確に分かれていて、相互の交流がほとんどないこと。そのため、物質界では「死んだら終わり」というサバイバルゲームが行われており、宇宙の中でも、非常に厳しい修行場(というより、実験場)となっている。
 
しかし、「覚醒」して地球生命系を「卒業」すれば、輪廻転生が終わるのだと言う。覚醒するとはどういうことかというと、「自分が本当は何者なのか、なぜ地球生命系に来たのか」を思い出すということ。
 
実のところ、「覚醒して、輪廻転生を終わらせる」というのは、古代インドで釈尊が説いていたことと、不思議に符合している。モンローは、明らかに仏教思想とは縁がなさそうな人物なのに、結論が似ているところが興味深い。

もっとも、似ているのは、そこまで。違うのは、そこからだ。

釈尊は、「輪廻転生が終わったあとはどうなるのでしょうか?」という質問に対しては、「無記」を通した。「無記」とは、「この点については語らない」ということ。「解脱した(輪廻転生が終わった)人は、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、生きていると同時に死んでいるというわけでもなく・・・」という、いつもの調子で質問に答えている。必ずしも、答をはぐらかしていたわけではない。これはこれで立派な回答なのだが、一般人にはどうにもイメージがわきにくい(笑)。

その点、ロバート・モンローの場合は、「輪廻転生から卒業した人間はどうなるのか?」という疑問に、明確な回答を出している。
 
それは、「自分が属する集合意識(トータルセルフ)が一体となって、宇宙の源に還る」というもの。
 
卒業した後は、「宇宙の源」と一体化することになる。ここで、個我としては終了。
  
しかも、体外離脱して、その「宇宙の源」を見てきたという。ただし、「お前が来るのは、まだ早い」と言われて、追い返されたそうな・・・。
                    
人間は、個体の消滅、全体との一体化に向けて進化している・・・ということが、ここで明らかになりました。
 

深まりゆく、意識の段階

2008年07月15日 | ロバート・モンロー


ロバート・モンローは、モンロー研究所の創始者だ。モンロー研究所といえば、ヘミシンク。
  
ヘミシンクとは、ヘッドホンで左右の脳半球に別々の周波数の音を流すことにより、特殊な脳波状態を生む。その結果、「何十年も修行したヨガ行者並みの瞑想状態」を生み出すという音響技術だ。超感覚的な認識が、飛躍的に増大するという。
 
創始者のロバート・モンローは、体外離脱の実験を重ね、調査結果をまとめた。そのひとつに、「意識の段階論」がある。
    
それは、その時々における、意識の状態、瞑想が深まっている度合いを表す。ヘミシンクの周波数を調整しただけでも、行き先が変わる。人間の意識の状態をどこにフォーカスするかに応じて異なる世界に行けるのである。ちょうどラジオの周波数を変えていくと、周波数に応じた局が選局されるように。
 
ただし、意識の深まりの状態であると同時に、そこに住みついている“住人”たちもいる。その多くは、人間界から旅立っていった死者たちの意識だ。彼らの意識も、それぞれの周波数に応じた意識界を選局して、そこにとどまっている。そういう意味では、「死後の世界」であると言える。

ただし、真の意味で、そこに「住んでいる」というわけではない。本来は通過点にすぎないはずの意識の領域なのに、途中で道に迷ってしまって、抜け出せなくなっている意識がある、ということに問題がある。モンロー研究所でやっている「救出」というのは、このような死者の意識を救出し、卒業に向かう手助けをすることを意味する。
 
モンローは40年間にわたる数千回に及ぶ体脱体験を積み重ね、調査結果をまとめ、「意識の段階」を明らかにした。
 
 
フォーカス10   体は眠っているが、意識は起きている状態
フォーカス12   意識が、身体を超えて拡大した状態
フォーカス15   過去や未来とつながっている無時間状態
フォーカス21   他のエネルギー・システムへの架け橋
フォーカス22   夢を見たり、精神撹乱している人の状態
フォーカス23   個人の想念が創り出した世界に囚われている状態
フォーカス25   集団の想念が作り出した世界に捉われている状態
フォーカス27   輪廻転生の中継センター

お釈迦さまにとっても、意識界というのは、「OO界」・「△△界」・「XX界」・・・と、多くの世界に分かれる。禅定が深まりゆくにつれて、行き先が変化する。それだけでなく、そのときどきの心境に応じても、行き先が変わる。
   
たとえ神さまでも、怒り狂っているときは、意識が阿修羅界に瞬間移動する。畜生でも、心が慈悲に満ちている瞬間には、菩薩界の住人だ。禅定が深まっていけば、「非想非非想処」、「空無辺処」といった、より深い心境の世界へと到達する。

 

では、最高に禅定を深めた意識は、一体どこに行くのか?

「どこにも行かない」というのが、お釈迦さまの最終解答。心境の変化が一切なくなり、絶対の境地へと到達する。それこそが、修行者の目標だ

これは、一部の新宗教でいう「霊界の階層」とは、似て非なるものだ。ここで言われているのは、あくまでも、瞑想による意識の深まりの段階。「霊格」の違いというようなものではない。

   


捨置答

2008年07月15日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
  
原始仏典より・・・
 

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、
その心に次のような考えが起こった。
 
「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。

すなわち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、
世界は有限であるとか、世界は無限であるか、
魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、
人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、
  
これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。

世尊がわたしに説かれなかったということは、
わたしにとって嬉しいことではないし、
わたしにとって容認できることでもない。
 
だからわたしは世尊のところへ参って、この意味を尋ねてみよう・・・。
もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、
わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」

「マールンキャプッタよ、

わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、
わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、

わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、
愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、
そのようの説くことをしないわたしを拒もうとしている。

マールンキャプッタよ、

人間は死後も存在するという考え方があってはじめて
人は修行生活が可能である、ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて
人は修行生活が可能である、ということもない。
 
マールンキャプッタよ、

人間は死後も存在するという考え方があろうと、
人間は死後存在しないという考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである」


(マッジマ・ニカーヤ 63)
 


マールンキャ・プッタは、「人は死んだらどうなるの?」に始まる、いろんな疑問にとりつかれてしまった。

しまいには、いつも、このことが頭から離れなくなってしまった。

そこで、一切を知る者(一切智者)として名高い、ブッダのところに悩み相談に行きました。

「ボクは、人が死んだら、その後どうなるのか、気になって夜も眠れません。

一切を知るお方よ。 教えてもらえないでしょうか。 

教えてくれないのなら、修行をやめて実家に帰らせていただきます」


これを聞いたブッダは、一喝した。

「誰が、そんなことを教えてやるから、修行しに来いと言ったか」。


「あの世があるから、修行が進むというわけでもない。

あの世がないから、修行が進まないというわけでもない。

余計なことは気にせず、修行に励め」。
 

かくして、マールンキャ・プッタの迷いは、すっかり晴れた。

ありがたや。

合掌・・・・・
 
  

十難無記

2008年07月13日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
お釈迦さまの言葉・・・


マールンキヤよ、ここに、わたしがいずれとも確定して説かなかったことを説かなかったとして了解せよ。

また、わたしが確定して説いたことを説いたこととして了解せよ。

マールンキヤよ、わたしが確定して説かなかったこととは何か。
 
それは

〝世界は常住(永遠)である〟
〝世界は無常である〟
〝世界は有限である〟
〝世界は無限である〟
〝生命(霊魂)と身体とは同一である〟
〝生命と身体とは異なったものである〟
〝人格完成者(如来)は死後に存在する〟
〝人格完成者は死後に存在しない〟
〝人格完成者は死後に存在しかつ存在しない〟
〝人格完成者は死後に存在するのでもなく、存在しないのでもない〟

などということである。

なぜ、わたしはこのことをいずれとも確定して説かなかったのか。

じつに、このことは目的にかなわず、清らかな修行の基礎とならず、世俗的なものを厭い離れること、
欲望を離れること、煩悩を滅尽すること、心の平安、勝れた叡智、正しいさとり、
安らぎ(ニルヴァーナ、涅槃)のために役立たないからである。

だから、わたしはこのことを確定して説かなかったのである。
   
 

 
人は、死んだらどうなるのか。

誰もが抱く、もっともな疑問です。

これに対して、「一切の回答を拒否する」というのが、ブッダのポリシー。

死んだ者に関して、一切の論議は絶やされた。

そういう、考えてもムダなことからは離れよ。

ましてや、カルト宗教の信者と論争するなど、時間のムダだからヤメておけ。

そんなことより、一心不乱に修行に励むことをオススメする。

たった今、この瞬間(即今)のみに生きよ・・・。