宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

ヴィパッサナー瞑想 2

2011年09月20日 | ヴィパッサナー瞑想
 
最近のマイブームは、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。まあ、読者のコメントに影響されやすいのが、本ブログの特徴と言ってしまえばそれまでだが・・・(笑)。
 
そんなことより、ヴィパッサナー瞑想こそ、古代インドで釈迦と仏弟子たちが実践していた瞑想だ。これで、意識を覚醒できる。覚醒への鍵を握っているのは、昔も今もこれだ。地球のアセンションとは、この地球上で、大勢の人間が意識を覚醒することだ。意識の覚醒さえできれば、他のことなど、なんとかなると言ってよい。瞑想が、その鍵を握っている。

ヴィパッサナー瞑想は、主にスリランカやビルマなどの南方系の仏教で伝えられてきた、初期仏教に最も近い瞑想法。いい悪いは別にして、文化が異なる中国や日本では、インド伝来の仏教もちょっと違うものに変質してしまっていた。それは仕方がない。でも、仏典の研究が進み、情報革命が進行した今は、むしろ日本でこそ、釈迦の時代の仏教の内容が知れ渡りつつある。
 
人生は、苦に満ちている。誰が見てもそうなのだが、仏教的な観点に立てば、特にそうだ。ヴィパッサナー瞑想は、苦を消滅させるための方法として、古来から重視されてきた。
 
確かに、「人生は苦だ」と言うだけでは、単に事実を指摘しているだけであって、苦を消滅させるまでには至らない(笑)。やっぱり、苦を消滅させる方法を学ばなくては、この学びが完結することはないだろう。
 
いきなり瞑想に取り組むのも、もちろん有効だろう。でも、釈迦の教えをジックリと学んだ後で取り組めば、味わいがまったく違ってくるように思う。精神世界には、「知識は要らない」といって知的な理解を軽視する人も少なくないのだが、それは正しい姿勢と言えない。少なくとも釈迦は、教えの内容を知的に理解して記憶することを、非常に重視していた。あくまでも、その上での瞑想の実践だと言える。この2つは車の両輪であり、どちらが欠けても良くない。
 
知識や理解は、精神世界を探求する上でジャマになるものではない。むしろ、それを大いに助けるものだ。探求者にとってジャマなのは、「知識」ではなく、「思考」なのだ・・・。
 
もっとも、「教えの内容」については、すでに本ブログでもさんざん書いてきた。これからは瞑想の実践が重要だ。

まずは、カルチャーセンターで瞑想指導をしているという地橋秀雄氏の「実践 ブッダの瞑想法」のテキストを読み、DVDを見た。瞑想は、実践する行だ。できれば、実地で指導を受けるのが良いのは分かっているのだが、昔と違って今は、このようなDVDで間接指導を受けられるので便利。前書きによると、「DVDのほうが学びやすい」という、受講者の声もあるらしい(笑)。
 
釈迦の瞑想には、「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」がある。サマタ瞑想というのは、思考を止めて、徹底的に精神を集中する瞑想だ。地橋氏は、「サマタ瞑想は難しく、多忙な現代人にはそぐわない」として、ヴィパッサナー瞑想に特化することを勧めている。予備知識ゼロで最初に読んだときは、「そういうものなのか」と思ったのだが、他にもいくつか異なる著者による解説に接した今となっては、この点に関して、いろいろと思うところがある。まあ、それはさておき・・・。
 
ヴィパッサナー瞑想においても、もちろん、精神集中することは重要だ。でも、そこに主眼があるわけではない。「集中」を主目的としているのは、サマタ瞑想なのだ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の主眼は、「観察」にある。もっとも、どちらにしても、「思考を止める」ということには変わりない。
 
早い話が、「思考」を止めて、「観察」を徹底的に強化するのが、ヴィパッサナー瞑想だと言える。
 
ヴィパッサナー瞑想は、大きく分けて「歩く瞑想」、「立つ瞑想」、「座る瞑想」から成り立っている。
 
(続く) 
 

引き続き、世界情勢に思う

2011年09月20日 | こっくり亭日記
  
アラブ諸国の情勢が、ますます動いている。リビアでも、ついに長年の独裁者カダフィが逃亡し、反政府側が政権を樹立した。逃亡したカダフィの行方は知れない。アフリカ諸国でのカダフィの人気は高く、保護する動きも見られるという。
 
反政府側が短期に勝利をおさめた背景には、イギリス・フランス・イタリアといった、ヨーロッパ諸国の軍事介入がある。これまた、アフリカ諸国では、欧州諸国の軍隊によってリビアが爆撃される姿が、かなりの反感を買ったという話もある。また、イラクと同様、産油国のリビアだけに、「貢献」した国々による石油利権の争いが、公然と勃発している。

まあ、見た目はともかく、歴史的な意義としては、アメリカのブッシュ政権が数年前にイラクを爆撃して独裁者フセインを排除したのと、たいした違いはないように思う。イラクの場合は、「フセインの独裁継続を願うイラクの人民に、アメリカが爆弾を降らせて強引に民主主義を押し付けた」とされ、悪魔の所業のように言われている。これに対して、リビアの場合は、「カダフィの独裁に怒ってリビアの人民が立ち上がり、ヨーロッパ諸国が助けて民主主義を実現した」という形になっている。このように世間のイメージには天と地の違いがあるのだが、おそらく、百年後や二百年後の人類が、今の時代を歴史的に振り返ったならば、似たような一連の出来事として受け取られるんじゃないかと筆者は予想する。

これはやはり、国際的な状況の違いもさることながら、武骨なアメリカに比べて、ヨーロッパ諸国の対応が上手なんじゃないかと思う。実際には、やってることは似たようなものなのだが、あまりにも世間に与えているイメージが異なる。これが、よくある「アメリカ・影の政府の陰謀論」を、筆者が否定する最大の理由だ(笑)。早い話が、歴史的に見て、アメリカ人のやることはいつも単純で露骨なのである。これほど、複雑怪奇な「陰謀論」がそぐわない国もない。
 
どちらにしても、歴史的な評価なんてものは、後世になってみないと分からない。同時代人の予想を超えて、評価が変化するのが普通だ。これほどアテにならないものは他にない。しかも、この先の地球では、おそらく戦争や革命そのものが消滅していくことが予想される。歴史的な評価もなにも、後世から振り返ってみれば、どの事件も全部ひっくるめて、「過去の地球では、いつもこのような騒乱が起きていました」という結論でひとくくりにされる可能性が高い。
 
それはともかく、アメリカといえば、オバマ大統領が大苦戦している。いつもなら、再選を控えたアメリカ大統領が大規模な景気刺激策を打ち出し、それによって世界全体の景気がよくなるという、「アメリカ大統領選サイクル」によって世界経済が動かされるのが普通だ。でも、今回は議会で法案が通らないので、そうもいかないみたいだ。

オバマ大統領は、富裕層に対する大増税で、財政赤字を解消する大胆な案を打ち出した。これには先日の、世界有数の大富豪ウォーレン・バフェット氏による、「アメリカの富裕層は優遇されてきた」という良心的な発言が追い風になったと言われている。これに強硬に反対して立ちふさがっているのは、野党・共和党だ。特に、茶会派(ティーパーティー)と呼ばれる超・保守層が、富裕層増税に断固反対している。こんな茶会派を、高島康司氏がブログで称賛しているのは滑稽だ。彼はいったい、何がやりたいのだろうか(笑)。

日本でも、野田政権が発足した。今度こそ、できれば長く続いてほしいと思う。日本では、このところ政権ができては潰れ、できては潰れという傾向が続いている。新しい政権ができても、すぐにマスコミの総攻撃が始まり、支持率が急低下して政権が崩壊する。こういうのは、民主主義国が陥りやすい落とし穴だ。
 
いずれにしても、地球人類のやっていることには、「相変わらず」の感がある。やっぱり、ここは政治経済のことより、せっせと皆でヴィパッサナー瞑想をして、意識の覚醒に取り組むのが急務だ・・・(笑)。
  

歴史の終わり

2011年09月14日 | こっくり亭日記
 
政治や軍事の問題というのは、いつまでたっても真の解決が得られないように見えるものなのだが、実際のところ、そんなことはない。

最も良い例は、ドイツとフランスの関係だろう。

中世のフランク王国が分裂して以来、ドイツとフランスは千年の対立を続けてきた。最初の決定的な対決とされるのは、1214年の、ドイツの皇帝と、イギリスのジョン王の連合軍が、フランスのフィリップ尊厳王と戦い、フランスが歴史的な勝利をおさめた・・・という事件。敗戦で権威が失墜したジョン王が、翌年にはマグナカルタ(大憲章)に署名させられたことは、イギリスの議会政治の出発点として中学校の教科書にも載っている。ついでに、ドイツの皇帝も失脚した。「王冠は敗戦を生き延びられない」という格言の通り。

近現代に入って、ドイツとフランスの争いは激化し、世界を巻き込む大戦を何度も引き起こすようになった。

19世紀の初め、ヨーロッパ全土を席巻したナポレオンのフランス軍は、ドイツをも蹂躙した。進駐するナポレオンを見て、ヘーゲルが「馬上の世界精神」と呼んだ話は有名だ。19世紀の後半には、今度は鉄血宰相ビスマルクが、フランスに攻め込んだ。敗れたフランスの皇帝ナポレオン三世は退位し、代わりにドイツの皇帝がベルサイユ宮殿で戴冠した。
 
20世紀には第一次大戦が起きた。これは、「ヨーロッパ文明の崩壊」とされる大戦争。ドイツはフランスを占領したが、最終的には敗れて、過酷な講和条件を飲まされた。今度はドイツの皇帝が退位した。フランスへの莫大な賠償金を背負って、超インフレに苦しんだドイツ。そこに登場したのが、ナチスのヒトラーだ。ヒトラーは第二次大戦を起こし、またしてもフランスを占領。フランスの将軍たちは、「講和条件が過酷なのは、覚悟してるでしょうな」と言われてしまった。でも、最終的には、やはりドイツが敗れた。
 
そんなこんなで、中世から近代にかけて、勝ったり負けたりの戦いを延々と繰り返してきたドイツとフランス。

そんな宿敵の2国が、20世紀の後半には、ヨーロッパ統合の主軸となってきた。いまや、この2国間に再び戦争が起きることなど、ちょっと想像しにくい。

20世紀は、まさしく戦争の世紀だった。第二次世界大戦の枢軸となり、大暴れした日本とドイツ。この2国がすっかり平和国家と化した後、今度はソビエト連邦が半世紀におよぶ冷戦を世界中で展開した。

いまや、そのソビエト連邦も崩壊して久しい。今のロシア連邦もちょっと怪しいけど、かつてのソ連ほど危険な国家ではなくなった。

危険な国家とはつまり、むやみに軍備を増強して周囲の国々に脅威をまき散らし、暴走を止められなくなっているヤバイ国のことだ。今の東アジアにも、まさしくそういう国々があることはご存知の通り。

でも、そんな国々の脅威も、いつまでも続くわけではないということは、上記のような歴史上の事例を見れば、察しがつくというものだ。中国も北朝鮮も、国内情勢は崩壊寸前で、いつまでも強硬路線を続けられそうにない。もう、熟した柿が落ちるのを待つ、というくらいの構えでいいんじゃないか。

真の平和を実現するためには、こういう危険国家が潰れて、普通の国に変身するのが一番だ。それが唯一の、最終的な解決と言っていい。

もっとも、こうした危険国家は、一つが潰れても、また別のところが台頭してくる。一見、キリがないように見える。でも、そうではない。というのも、今の世界を見渡せば、そろそろ危険国家のネタも尽きてきているからだ。
 
今の世界を見渡して、このような「危険国家」といえば、大国では、なんといっても中国だ。でも、その中国を除けば、しいて言えば北朝鮮とイランくらいしか残っていない。かつて、日本やドイツ、ロシアといった、世界の大国が大暴れしていた頃と比べて、なんと小粒になったことか。つまり、もう危険国家のネタは尽きてきている。
    
中国と北朝鮮が潰れて、普通の国になってくれさえすれば、東アジアに真の平和がもたらされる。在日米軍も、必要なくなるのは明らかだ。いつでもアメリカ本国に帰ってくださいな、ということになるだろう。もちろん、日本が軍備を増強する必要はなくなる。

国際情勢ばかりは、相手のあることなので、自国の意思だけではどうにもならない。でも、脅威はいつまでも続くものではない。真の平和は、すぐそこまで来ている。

今までの地球の歴史は、まさしく戦争と革命の連続だった。先日、朝日新聞の投書欄に、「世界史の教科書を読んで、人類の歴史の悲惨さにゾッとして暗くなりました」という高校生の投書が載っていた。高校の世界史くらいでゾッとするのなら、もっと深く突っ込んでいけば、さらに憂鬱になるのは確実だ。地球人類の歴史は、単にいつも殺し合ってるだけなら、まだ分からないでもないのだが、多くの場合、殺しかたが凄惨で強烈だ。歴史ドラマは、マトモに描写したらホラー映画のスプラッターもの以上に残虐シーンの連続になってしまう。地球の歴史は、精神衛生には、どうも良くない。

でも、戦争と革命が連続する地球の歴史は、あえて悲惨さに目をつぶりさえすれば、血わき肉踊るエキサイティングなストーリーでもある。三国志や、戦国時代の歴史ドラマ、ベルサイユのバラその他に人気があるのは、単純におもしろいからだ。戦争や革命は、当事者として参加すれば狂気の沙汰なのだが、後の世から振り返る分には、ストーリーとして実におもしろいのである。それに比べて、平和な時代の話が、なんと退屈なことか。

でも、今までの歴史の流れを見る限り、そういう血わき肉踊る歴史も、いよいよ終わりが近いのではないかと思う。

今後もしばらく、小さな紛争はアチコチで起き続けそうだが、地球規模の対立みたいなのは、そろそろ終わりそうだ。あとは、すっかり平和になった世界で、かつての地球の過激な歴史が、妖怪変化のストーリーとなって語り継がれていくはずだ・・・。


政治問題について

2011年09月13日 | こっくり亭日記

「2011年10月28日」という、コルマン・インデックスの終了期日が近づいている。このため、最近はコルマン博士のサイトと並び、日本における紹介者である高島康司氏のブログをよく見ている。

高島氏のブログは、最近ますます政治一色だ。というより、この人はもともと政治問題にしか興味がないのだということが、この頃よく分かってきた。この人にとっての「意識の覚醒」というのは、「権力者に抵抗して民衆が立ち上がる」というようなことを意味している。純粋に精神的な問題への関心は、ほとんど見られない。まあ、それも一つの方向性とは言えるんだろうけど・・・。

それにしても、原子力発電がアセンションの妨げになるのなら、電力の大半を原子力に頼っているフランス人は、誰もアセンションできないということにならないか(笑)。「東京電力を潰せ」もいいけど、その前にフランスをなんとかすべきだろう。

もちろん、原子力発電の問題は重要だし、別途、大いに議論してもらったらいいと思う。ただ、それとアセンションとの間に、直接の関係があるわけではない。

原発のような地球の自然環境に関わる問題なら、まだ分からないでもないのだが、「郵政民営化反対」に至っては、アセンションとなんの関係があるのか、さらに首をひねることになる(笑)。

高島氏は、「日本の肥大した官僚機構による統治システム」を激しく槍玉に挙げ、アメリカの「茶会派」をやたら持ち上げている。

アメリカの「茶会派」は、ひたすら財政支出削減と減税を主張する、熱狂的な新自由主義の改革派だ。平たく言えば、日本でいう「小泉改革」みたいなことを、もっと徹底的かつ極端にやりましょうという集団。普通の共和党関係者でさえドン引きするほどの、原理主義的な南部の白人保守層の論理であり、当然オバマ大統領とは相性が悪い。

「中央官僚による統制システムを解体すべき」と強く主張し、茶会派を称賛する姿は、新自由主義者そのものだ。でも、それでいて自由放任路線には反対し、小泉改革を悪魔の所業みたいに言ってるのが、高島氏の不思議なところ(笑)。

では何なのかと言えば、「地方分権による地方コミュニティの形成、地産地消型の社会への移行」が、そのどちらでもない第三の道なのだという。

高島氏は、「A)中央政府の官僚による統制経済 B)グローバルな市場経済 C)地域コミュニティを主体とする自給自足型の経済」という3つの路線を挙げて、「AとBではなく、Cを選択せよ」と唱えている。

でも、BとCは、路線選択というより、ある意味で表裏一体だ。「グローカル」という造語の通り、グローバル化とローカル化は、切っても切れない関係にある。

実際に、中世ヨーロッパは無数の自由都市と領邦国家に分かれた地方分散型の社会だったが、そこでは市場経済の広域ネットワークが大きく発達した。

「地産地消」は、古来から常に唱えられている地域振興のスローガンだ。今の日本だって、どの地方に行っても、「ふるさとの製品を愛用しましょう」というような垂れ幕がかかっている。単に、各地の気候風土や地形、人口、技術その他にバラつきがあるから、実際には実現困難であるにすぎない。

中世ヨーロッパが、グローカルな世界の雛型だ。たとえば、海から遠く離れた内陸で、どこから塩を調達するのか。逆に、岩塩の産地では塩くらいしか取れないから、塩を売らなくちゃいけない。ニシンの産地では、塩を買って塩漬けニシンを売る。そうやって、自然と、他の地域との取引が増えてきた。アチコチに関税同盟が広がって、だんだん市場ネットワークが広域化してきた。

各地域が無理に自給自足を目指すより、地域の特性を活かして特産品を作り、お互いに流通しあったほうが全体がずっと豊かになる。だから、地方の自主性が高くなるほど、自然に広域の市場経済ネットワークが発達することになる。基軸通貨の制度も、そういう取引に便利だから自然とできあがってきた。国際的な商取引の中心地であるベネチア共和国の通貨で決済するのが、誰にとっても一番納得しやすいことだったから、そうなるのが自然だったのだ。

「グローカル」というのは、そういうことを意味している。世の中がローカル化するにつれて、グローバル化が同時進行する。例によって逆説的なのだが、それが真実だ・・・。

いずれにしても、政治的な問題を重視しすぎるのは、イカガなものかと思う。権力や富をめぐる闘争については、客観的に観察するだけで、自分自身はそこからフェードアウトしていくというのが精神世界探求者の傾向だ。ましてや、そこに自分から突っ込んでいって争いを引き起こすことなど、普通はしない。

20世紀最高の聖者として名高いクリシュナムルティに至っては、「将来は、矛盾に満ちたインドの社会を改革したい」と理想に燃えるインドの子供を、同様の理由でたしなめていたほどだ。

重要なのは、意識を変えることだ。意識が変われば、価値観も変わる。

例えば、今の日本人の大半は、日本が軍事的に強いか弱いかを、ほとんど気にしていない。日本が、軍事的な面で強国であるべきだと思っている人は、一部の特殊な人を除いて滅多にいなくなった。昔とは、大きく意識が変わったのだ。

要は、政治経済の問題というのは、気にならなくなればいいのである。誰も困らないようなことなら、気にしなくてもすむ。富が偏在していても、別に生活に困らないのなら、「おカネが好きな人は、勝手にやっててくれよ」ということになるだろう。

今は、「金持ちや権力者を打倒して富を山分けしよう」なんて考えるより、富そのものが気にならなくなる方向を目指すべきだ。やっぱり、目指すのは「お金がなくても困らない社会」・・・。


ヴィパッサナー瞑想

2011年09月11日 | ヴィパッサナー瞑想
   
最近の興味の焦点は、なんといっても「ヴィパッサナー瞑想」だ。
 
「お釈迦さまは、菩提樹下で瞑想して解脱したっていうけど、具体的には、どういう瞑想をしておられたんでしょうか?」という、素朴な疑問がある。その答は、「ヴィパッサナー瞑想」なのだ。これこそ、釈迦の瞑想だ。
 
麻原彰晃の「マハーヤーナ・スートラ」その他のおかげで、インドに由来する精神世界用語はかなりイメージを悪化させてしまったが(苦笑)、それとこれとは関係ない。昔も今も、意識の覚醒に近づくためには、瞑想の本場であるインドから学ぶものが多い。
 
というわけで、さっそく、ヴィパッサナー瞑想の本を書店で何冊か購入した。とはいっても、選ぶ余地はほとんどない。本の種類が少ないからだ。最近になって注目されてきている分野とはいうものの、普及度はまだまだのようだ。

とりあえず、地橋秀雄著「実践 ブッダの瞑想法」というDVDブックと、ウィリアム・ハート著、日本ヴィパッサナー協会監修「ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門」という本を購入した。都心の大手書店だったが、この2つしかなかったので、考えるまでもなかった。関西では「ヴィパッサナー瞑想」の知名度がかなり高いそうなのだが、東京ではまだまだだ。
  
前者は、カルチャーセンターで実際に瞑想指導している人の本で、DVD付なので助かる。後者は、「ゴエンカ流」という流派に属しているらしい。正直、この辺りの流派関係については、まだよく分からない。残念ながら、読者諸氏に教えてあげられるほど詳しくはなく、逆に教えてもらっているというのが実情なのである。まあ、もともとマニアックなタイプなので、これから探究が進むとは思うけど・・・(笑)。

そんなわけで、今こそ、真の瞑想修行のスタート地点に立ったと言える。

もっとも、「釈迦の瞑想」は、ヴィパッサナーだけではない。もうひとつ、「サマタ瞑想」というのもあって、2本柱となっているらしい。
 
「サマタ瞑想」というのは、徹底した精神集中の瞑想だ。意識を一点に凝集させ、完全なる精神統一を実現する。究極の意識状態を実現する、最高の瞑想だ。残念ながら、忙しい現代人には不向きな瞑想法とされており、ほとんど紹介されていない。

どうやら、「サマタ瞑想」のことは、とりあえず考えなくても良さそうだ。われわれにとって、「釈迦の瞑想」といえば、イコール「ヴィパッサナー瞑想」と考えて差し支えない。

ヴィパッサナー瞑想の内容は、見れば見るほどインド的だ。

これがアメリカ人だと、「思い通りの自分になるという、自己実現の瞑想」あたりが、最も好まれるテーマだろう。日本人だったら、「私が悪うございましたと過去を振り返る、反省の瞑想」なんてのが、根強い人気を誇っている。どちらも、国民性を反映している(笑)。

これらは、釈迦の瞑想とは関係がない。
  
ヴィパッサナー瞑想は、徹底した「観察と気づきの瞑想」だ。幸い、仏典やクリシュナムルティを読み込んできたおかげで、「観察」の考え方には深くなじんでいる。後は、観察の瞑想を実践するだけ。遅まきながら、真の瞑想に向けて、ようやく一歩を踏み出した。

「観察の瞑想」である以上、観察力を鍛えることが重要だ。とはいえ、日本人の探求者の多くはマジメすぎて、「もっと意識を集中しなければ」と焦ってしまうのが通例だという。

意識を集中するのは、サマタ瞑想だ。これに対して、ヴィパッサナー瞑想の目的は意識を集中することより、「観察」にある。
 
ヴィパッサナー瞑想の場合、雑念が起きるのは、一向に構わない。というより、雑念すらも、観察の対象だ。つまり、雑念が起きるのは、観察するネタができたわけだから、おおいに結構なことなのである。
 

世界地図を客観視する

2011年09月11日 | こっくり亭日記
  
もう、2011年の9月も半ばとなってきた。時間の経過が、本当に早い。コルマン・インデックスでいう「第5の夜」は、9月4日に無事終了して、ホッと一安心だ(笑)。でも、ギリシャ・イタリア・スペインといった南欧諸国に発する、欧州の金融・財政危機は深刻化してきている。やっぱり、油断は禁物だ(?)

欧州共通通貨の「ユーロ」も、下落の一途をたどっている。このままでは、久しぶりに1ユーロ=100円台を割りそうな勢いだ。ドルも低迷している。上がっているのは、日本円とスイスフラン。

それにしても、世間の変わり身は早い。2年前くらいは、「もうすぐ、ドルの基軸通貨体制は終わる。ユーロが、ドルに取って代わりつつある」という大合唱が起きていた。でも、今では「ユーロが世界の基軸通貨になる」という人は誰もいなくなってしまった。
     
ここ数十年、「アメリカの覇権は揺らいでいる。遠からず覇権が交代する」という論調がずっと続いているが、いつも「挑戦者」の方が先にコケてしまうのが、毎度おなじみのパターンだ。

今は「中国」が有力な挑戦者と見なされているが、筆者の見たところでは、アメリカよりも中国の方が先にコケるのは確実だ。そもそも、中国が挑戦者だということ自体、中国の国力を過大評価したことによる錯覚であって、実際には挑戦できていない。

別にアメリカが好きなわけではないのだが、現在の世界情勢を客観的に見て、そう思う。
 
アメリカの強さの原因はいろいろあると思うのだが、個人的には、最も恵まれている要因は自然の「地形」なんじゃないかと思う。日本でも、東京・名古屋・大阪といった太平洋側に大都市が集中して、昔は「太平洋ベルト地帯」と言われていたが、今の中国でも、北京・上海・香港といった「沿海部」に主要都市が集中している。でも、日本や中国の場合、「太平洋ベルト地帯」や「沿海部」は、ひとつの海岸線でしかない。
 
それに比べて、アメリカの場合は、「東海岸」と「西海岸」という2つの沿海部ベルト地帯があり、これは単純に比較して2倍だ。また、中国では大河といえば長江だが、アメリカにもミシシッピ川がある。この2つの大河の実力は同じくらいとしても、アメリカには、それに加えて「もうひとつの海岸」と呼ばれる五大湖があるので、これまた単純に比較して倍以上の水利があると言ってよい。
 
実に単純な話だが、現実には、こういう地形要因が国力を大きく左右するのである(笑)。日本にも、関東平野がもうひとつあって、そこにもう一つの東京があったなら、それ以外の国土がいくら狭くても、アメリカや中国とも十分に対抗できただろう。残念ながら、大阪では平野が狭すぎた・・・。
 
日中米の3ヶ国ばかりを挙げてきたが、その他の国々は緯度が偏りすぎており、たいてい暑すぎるか寒すぎるかのどちらかで気候に恵まれていない。これら3ヶ国は、その点でも非常に恵まれており、世界的に見ても飛び抜けて有利だ。
  
話はさらに脱線するけど、「日本は、なぜ他のアジア諸国に先駆けて、欧米の文化を取り入れ、近代化することができたのか」という、昔から語られている疑問についても、日本人の民族性とか、いろいろな理由が言われているが、筆者に言わせれば、「太平洋をはさんでアメリカの隣にあるから」という地理的な要因が、最も大きいと考えている。海をはさんで隣に位置しているのだから、文化を取り入れやすいのは当たり前だ。

日本を、「西洋と東洋の文化が混ざり合う地である」として、特別な国であるとする論調をよく見かけるのだが、個人的には、それをイカガなものかと思っている。トルコなどは、まさしく西洋と東洋の境界となる位置で、アジアとヨーロッパにまたがる帝国を数百年も維持してきたのだ。東西の文化が混ざりこんでいる度合いにおいて、やはり歴史の深みが異なると思う。ロシアだって、モンゴル帝国に何百年も支配され、モンゴルから独立することによって、ヨーロッパの大国としての歴史をスタートさせた。その意味で、まさしくアジアとヨーロッパにまたがって存在している。アメリカだって、西海岸はアジア方面に開かれ、多くのアジア系移民を受け入れてきたのだから、東洋と西洋の接点としての資格は十分だ。
 
日本を世界の中心だと考えるのは、どうかしているとしか思えないのだが、逆に、「日本は辺境である」というのを強調するのも、イカガなものかと思う。たしかに、日本は東洋の辺境として二千年も存続し、近現代においては西側諸国の辺境として欧米の文明を輸入してきたのだが、同じようなことは、どの国にも大なり小なり当てはまる。
 
現在の大国であるアメリカやロシアは、ヨーロッパの辺境だ。ヨーロッパの中心地から移民や文化を取り入れることによって発展し、国土に恵まれたおかげで、いつの間にか本国の国力を凌駕してしまったにすぎない。その本家であるヨーロッパも、元はといえばユーラシア大陸の西端の辺境だ。昔の人々が書いた文献を見れば、かつてのヨーロッパがどれほど後進的な地域だったかがよく分かる。イスラム諸国に攻め込んだ十字軍などは、モンゴルの砂漠地帯から中国の文明地帯に攻め込んできた、北のハテの野蛮な遊牧民の軍団とソックリだ。

そのヨーロッパの中でも、本家がどこなのかは見る角度による。17世紀から大陸随一の華やかな文化が栄えたフランスと比べて、イギリスやドイツは明らかに文化的には脱帽だ。でも、そのフランスだって、16世紀にイタリア人からナイフとフォークの使い方を教えてもらうまでは、手づかみで肉をガツガツ食べていた国だ。その、16世紀までは図抜けた文化水準を誇っていたイタリアやスペインも、現代の地図からすれば、辺境の半島国家にしか見えない。

中国だって、世界の歴史地図を客観的に見れば、東の端の辺境と言える。昔から国力は大きかったが、それ以外の文明地域とは、険しい山岳地帯と砂漠地帯で区切られており、古来から隔絶した別世界になってしまっている。
 
筆者がしばしば強調するのは、「中国」は一枚岩ではないということだ。現代の中心である北京・上海・香港などの沿海部は、どちらかといえば新興地域だ。「四千年の歴史」があるのは、河南省や陝西省などの、今では荒れ果てた辺境地帯にしか見えない内陸部なのである。秦や漢の時代には、上海や香港あたりなど、辺境地帯そのものだった。北京だって、現在の北京は古代のオアシス都市・燕京とは別物で、今あるのは北方の異民族が中国支配の拠点として作った都市の、なれのはてだ。

たしかに、中国の内陸部には、広大な平原と、四千年以上におよぶ悠久の歴史がある。でも、東京・名古屋・大阪・福岡といった日本の臨海部と、北京・上海・香港といった中国の沿海部だけを比較したならば、海岸線の長さも、歴史の長さも、たいした違いがない。今の中国の中心が、圧倒的に沿海部にあるのは明らかだ。要するに、日本と中国では、イメージ的には中国のほうが遥かに古く感じられるのだが、今の中国は、古代の中国とは地理的な中心が大きく移動してほとんど別の国と化しているので、実質的にはそれほどの違いがない。
 
いずれ、東アジアが発展するにつれて、そのことがより鮮明になってくると予想している。アメリカにも東海岸と西海岸があるように、日本の太平洋側が東アジアの第一海岸、中国の沿海部が東アジアの第二海岸に見えてくることだろう。
 
・・・そんなこんなで、中心だ、辺境だなんてことを言い出したら、キリがないのである。どこだって、見る角度を変えれば中心だし、辺境だ。中心地の移動なんてのは、地球人類の歴史では毎度オナジミのパターンなのだ。

現代の世界情勢にとらわれている人々は、「アメリカの覇権」ばかりを問題視しているが、そんなの、地球人類にとっては少しも目新しいテーマではない。地球では、権力や富が常に偏在しているし、常に移動している。

「せっかく、全知全能の神様がすばらしい世界を創造してくれたはずなのに、一部の金持ちや権力者が世界を悪くしている」なんてのは、いつの時代にも、皆が考えていることだ。それは、少しも新しい発想ではない。

もしも「創造主」うんぬんが真実なら、そんな一部の金持ちや権力者を創造したのも、同じ創造主だ。どうやら、創造主の真意は、人間の浅知恵では測り知れないようだ・・・(笑)。
 

釈迦の瞑想

2011年09月04日 | ヴィパッサナー瞑想
   
昔も今も、「意識の覚醒」を考える上で、釈迦は外して考えることができない人。古代インドの聖者の教えを研究する価値は、現代のわれわれにも確実にある。
 
「釈迦は輪廻転生が起きる原因を発見し、それを終わらせる方法を発見した」ということ、さらに「その原因とは、【根本的な生存欲】なのである」ということまでは、以前からよく書いている。

ここまでは、筆者にとって長く慣れ親しんできたテーマだ。これに関して、「輪廻転生は古代インドの迷信であり、私は釈迦の思想からそれを除外して考えている」という学者が、最近読んだ本にもいた。それも確かに、ひとつの世界解釈だろう。でも、それは「天国や地獄に興味がない」という人がコーランを読むのと同じで、かなり無理のある読み方と言わざるを得ない。まあ、それでも学べるものはあるんだろうけど、古代インド人の心になって読むことはできない。

釈迦は、単に「迷いを捨てる」というようなことを言っていたわけではない。ずばり、「輪廻転生を終わらせる」というのが、釈迦の教えの核心だ。これは、ひとり釈迦だけの問題ではなく、古代インド思想に共通する最大級のテーマで、釈迦以前にも数百年の伝統がある。この問題に最終的な解答を与えたというのが、古代インドの思想家の中でも、釈迦が別格あつかいされる最大の理由。

何度も書くけど、ここを誤解している人が世間には少なくないので、また書きます。「ボクは、永遠の魂修行を通じて、無限に進化していくのだ」というような、輪廻転生を前向きに捉える発想が、釈迦の教えにあるだろうか。はっきり言おう。ありません。

釈迦にとって、輪廻転生とは、果てしなく続く苦の連鎖。延々と続く、迷いのチェーン展開。目を覚ませば、それは終了する。

そこまではいいのだが、そこで筆がストップしていた。その次に来るテーマは、当然のことながら「目を覚ますための方法論」ということになる。それが筆者には書けずにいた。子供の頃から禅寺で座禅を組んだり、瞑想はいろいろとやってきたが、古代インド式の瞑想は、そういうものではない。残念ながら、その方面には詳しくなかった。そもそも、日本ではそれに関する情報があまりに乏しく、その方面に詳しくなるのは無理があった。
  
幸い、読者からのコメントにより、「ヴィパッサナー瞑想」を勧められた。これこそ、釈迦が菩提樹下で実践し、弟子たちにも教えていた瞑想だ。これで、意識を覚醒できる。やっぱり、ブログをやっていると、情報が集まってくるので助かります。
 
こういう実践的な面に関しては、やはり然るべき瞑想指導者のもとで、瞑想訓練を受けるべきなのだろう。それにもいずれ取り組むけど、とりあえずは事前研究(笑)。
 
というわけで、早速、「ヴィパッサナー瞑想」に関する参考図書を買いに、書店へと出かけた。最近になって注目を集めつつある分野とはいうものの、現時点では、非常に本が少ない。
 
(続く) 
  

生き残りをかけた、魚の「逆進化」

2011年09月04日 | こっくり亭日記
  


ナショナル・ジオグラフィック
 

ナショナル・ジオグラフィックの記事によれば、シアトル近郊の湖で、トゲを持つトゲウオ科の魚が生き残りをかけて“逆進化”している可能性が浮上した。

ワシントン州の太平洋岸に沿うようにたたずむワシントン湖という内陸の湖には、1950年代には大量の汚水が流れ込み、汚水のたまり場と化していたという。そのため、60年代半ばには1億4000米ドルという巨額の費用をかけてこの湖の浄化作戦が実施され、いまでは自然あふれる楽園へと変身を遂げた。

それだけを見れば、実にハッピーなことだ。でも、残念ながらエブリワン・ハッピーとはいかないのが、地球の現実。

皮肉なことに、「イトヨ」というトゲウオ科の魚は、この湖の浄化作戦でピンチに陥ってしまったという。というのも、湖がきれいになる以前は、濁った水の奥に隠れて敵に見つからずにすんでいたのだが、湖が透明になった今は、すぐにカットスロートトラウトのような天敵に発見され、食べられてしまうようになったというのだ。
 
でも、おかげでイトヨは、「環境の変化」が生物の進化を促進する貴重な実例を見せてくれた。それも、驚くほどの短時間で・・・。

記事によると、

>「現在、ワシントン湖にいるイトヨは先祖返りを起こしていて、身を守るために体の表面を鎧のように発達させている」と指摘するのは、シアトルにあるフレッド・ハッチンソンガン研究所の生物学者、ケイティ・ペイシェル氏だ。「イトヨはその祖先の外見に戻ろうとしている。この現象は“逆進化”と言える」。(中略)。「通常、トゲウオ科の魚は鎧をまとうのではなく、脱ぐ方向に進化するからだ」。

ほんの数十年で、イトヨの「重武装」は一気に進んだ。透明度がわずか70センチほどだった頃、完全に鎧に覆われていたイトヨは6%にすぎなかったが、透明度が7メートルにまで回復した今は、49%が完全装備の鎧を付けたような姿で、頭から尾に至るまで体中を骨の板で防御しているという。

それにしても、驚くべきスピードだ。研究者によれば、

>ワシントン湖のイトヨは、全身を鎧化する傾向のある海水種のDNAと、鎧をなくしていく傾向のある淡水種のDNAの両方を持っている

ということだ。上の比較写真では、2006年の新しい方の魚は、まるで古生代の「生きる化石」みたい。湖が透明になり、視界がパッと開けるという「危機の時代」にあって、今まではヒッソリと眠っていた「全身を鎧で覆う」という古いDNAがスイッチ・オンされたのだ。
  
これが、生命の適応力というもの。生物の進化というのは、見た目ほど特別なことではない。意外と、簡単に起きるものなのだ・・。
  

古来から変わらない問題

2011年09月04日 | お金が要らない世界

 
以前からたびたび書いていることなのだが、最近の精神世界では、本当に政治的な主張が多い。社会を改革することが、アセンションなのだと受け取られているフシがある。
 
たしかに、貧富の格差という地球の現実は、過酷なものだ。でも、これは今に始まったことではない。大昔から、どこでもそうだ。中国でも、インドでも、中東でも、アフリカや、マヤとかインカといったアメリカ大陸の文明でも、常に権力者や貴族はいるし、貧富の格差は存在する。
 
この貧富の格差を、「アメリカ・影の政府が作り出したのだ」というのは、あまりにも現代の世界しか見ていない意見だ。洋の東西を問わず、太古の昔から、地球というのはそういうところなのだ・・・ということを、忘れてはいないか。
 
例によって高島康司氏のブログを見たが(今はコルマン・インデックスが大詰めなので仕方がない・・・笑)、「日本人よ、怒れ。民衆の覚醒だ」みたいなことが書いてあった。気持ちは分かるのだが、それはイカガなものかと思う。そういう「民衆の意識の覚醒」というのは、政治的な問題だ。精神世界でいう「意識の覚醒」は、それとは関係ない。
 
そういう「怒れる民衆の行動」なんてものは、18世紀末のフランス大革命で、すでに実現されている。というより、二千年前の、古代中国の農民反乱でも実現されている。それは地球人類にとって、まったく目新しさのない問題だ。古代から変わらない、権力と富をめぐる闘争の一環でしかない。
  
重要なのは、闘争をなくすことだ。つまり、「富の偏在」という問題があるのなら、「金持ちを打倒して山分けしよう」と考えるのではなく、富そのものの持つ意味を希薄化させる方向に持っていくべきだろう。
 
たとえば、人間、食べられる量には限りがある。どんなにおカネがあっても、一日3食も食べれば、普通は限界だ。美食するったって、毎日フォアグラばかり食べていたら、誰でもフォアグラなど見たくもなくなるだろう。古代ローマの貴族は、豪華な食事のあとで薬を飲んで吐き出し、また食べていたが、それでも一人が食べられる量には限界がある。
  
逆に、おカネがなくても、生きるのに必要なだけ食べることができれば、特に問題ない。富が偏在していても、それに興味がなければ、「勝手にしてくれよ」ということになるだろう。
 
おカネを稼ぐのにアクセクしているというのは、確かに害が大きいと思う。昔の地球人類にとっては、必要な修行の一環(?)だったのかもしれないが、いつまでも続けるべきこととは思えない。これさえ何とかできれば、精神的な成長におよぼす効果は絶大なものだろう。
 
理想は、「不食」なのかもしれない。つまり、食べなくても生きていける人間だ。聞くところによれば、ヒマラヤ山脈には、食べなくても生きていける聖者が住んでいるらしい。それが本当なら、下界に住むわれわれも、ぜひ見習いたいところだろう。いまのところ、筆者は一日一食で平気だが、さすがに「不食」は無理だ(笑)。
 
どちらにしても、すべては地球という温室の中の出来事だ。遠からず、なんとかなるだろう。地球の古い政治経済の問題に、あまりにメクジラを立てると、かえってその世界から抜け出せなくなる恐れがある。
 


お金が要らない世界 2

2011年09月04日 | お金が要らない世界

        
以前、スピリチュアル系の友人に、長島龍人氏が書いた「お金のいらない国」という本を見せられ、「これについて、どう思うか?」と聞かれたことがある。別の人に見せたところ、「これは原始共産制だな」と言われたそうな。それが、このテーマとの出会いだった。
 
これに関して、読者の方が付けてくれたコメントによると、長島氏自身は、まずは「お金があってもなくても大差ない社会を目指すべきだ」と言っているらしい。
 
船井勝仁氏も、出口汪氏との対談で、
 
>みろくの世でもお金はある、しかし今のようにお金がお金を生むような社会ではない。一日に三時間、週に三日四日働けば十分。自己実現できる機会や、自分の才能を発揮できる仕事がたくさんある。思ったことがどんどん実現してゆく・・・

と、述べているという。

これについては、「なるほど」と言える。貨幣を一気に消滅させるということまでは、この人たちも考えていない。まずは、「お金がなくても困らない世界」を作ることが目標とされている。

おカネという問題が特殊なのは、「世の中の誰もが、否応なく直面せざるを得ない問題」だということだろう。ほかのテーマなら、興味のある人だけがガンバって、興味がない人はスルーしていればいい。仕事や勉強だろうが、芸術やスポーツだろうが、交友や恋愛だろうが、みんな同じことだ。食事や睡眠も、ほとんど取らない人がいる。もちろん、精神世界の探求は、その最たるものだろう(笑)。
 
でも、おカネだけは、ないと本当に困る。これは、誰にとっても一緒だ。生活するのに、どうしても必要最小限のおカネは必要で、その「必要最小限」というハードルが、ほかの分野に比べて結構高い。不労所得者ならともかく、普通は、おカネを稼ぐために大部分の時間を使うハメになる。良くも悪くも、それが地球で生きる者の生き方だ。
 
世の中の多くの人は、こうした必要最小限の所得を得るために働いている。いつの時代も、それは変わらない。洋の東西を問わず、世間の一般人は常に貧困ラインで瀬戸際のスレスレ生活というのが、地球の歴史の大半を占めてきた現実だ。ゾッとするほど貧しい人々の群れに、戦争・疫病・災害が容赦なく繰り返し襲い掛かってくるというのが、いつの時代も、どの地域でも、紛れもない地球の現実だった。地球人類の歴史を知れば知るほど、ホラー映画を見るような戦慄を覚えるのは、このためだ。

その点に関して、現代の日本は、大幅に改善された社会といえる。それでも、貧しさはなくならない。
 
一方、莫大な富を蓄積している層がいるのは、いつの時代も変わらない。現代では、アメリカと中国がとくにひどいが、貧富の格差はどこの国にもある。「これを、もうちょっと均等に分配できないか」と考えるのは、誰にとっても自然なことだろう。

でも、貨幣を消滅させれば、そういう現実が変わるかといえば、そういうわけでもない。貨幣は、単なる道具だ。交換したり、価値の尺度にしたり、蓄積したりするのに便利だから、使われている道具にすぎない。それ自体には、何の意味もない。それを受け取って、代わりに財やサービスを提供する人がいるから、意味があるだけだ。
 
例えてみれば、仕事をするのが嫌になったからと言って、道具を捨ててしまえば、それで問題が解決するのだろうか。そんなことはない。単に、仕事ができなくなって困るだけだ。仕事そのものをしなくても生活できるようにならない限り、仕事の道具をなくしたところで何の解決にもならない。それは、単に不便になって困るだけの結果に終わる。

もっとも、おカネがなくても衣食住が確保できるなら、なくても困らない。そうなれば、別に問題ないだろう。

世の中には、なくても困らないものが沢山ある。たとえば都会では、電車でどこへでも行けるので、車がなくても生活できる。むしろ、車があると管理や維持費が大変だ。それでも、高価な車を購入して、維持している人は多い。それは、自由選択そのもの。

同じように、おカネも、なくても困らないものになればOKだろう。つまり、おカネがなくても生活できるから別にいいんだけど、もっと欲しい人は、自由に稼いでくれればよい。そういう社会になれば、「おカネが好きな人は、勝手にガンバッてくれよ」で済むはずだ。

実際のところ、昔の社会主義国では、それを目指していた。ソビエト連邦や東欧諸国では、電気代や水道代といった公共料金、パンをはじめとする生活必需品の価格が、政府の負担によって極端に安く抑えられていた。このため、昔を懐かしむロシア人は少なくない。「ソ連時代はよかった。生活必需品が安くて・・・」というわけだ。

つまりソ連では、事実上、政府が生活必需品を高く買い取り、安く売っていた。一見すばらしいことに見えるのだが、残念ながら、そういう無理は長く続けることができない。財政赤字がみるみる膨れ上がっていくことになり、遠からず国家経済が破綻する。そのツケは結局、国民に回ってくることになるから、結果は変わらない。

経済の問題というのは、一方向にだけ作用するものではない。どこかで無理をすれば、別のどこかにシワ寄せがくるのが常であり、何事にも常に副作用が発生する。いずれ、どこかで必ず調整することが避けられない。
 
しかし、衣食住が「無限供給」されていれば、話は別だ。昔、松下幸之助の「水道哲学」というのがあった。「家電製品を、蛇口をひねれば水がジャンジャン出てくるように、世の中にジャブジャブ供給する」というものだ。それなら、家電製品は、タダみたいに安くなる。実際に、どんどん安くなってきた。他のものも、大量供給されれば安くなる。無限供給されれば、タダになるでしょうな・・・。
 
前述のスピ系友人にも、そういう話をしたところ、彼が言うには、「ヘンプ(麻)が、そのカギを握っている」という。ヘンプは、雑草のようにどこでも育って、繊維は衣服になるし、住宅建材にもできる。食用にも、薬用にもなる。これを活用すれば、衣食住の無限供給が可能になるという。

確かに、それにも一理あると言える・・・。