政治経済・科学技術・芸能スポーツ・・・などと違って、精神世界というジャンルには、「日々のニュース」と呼べるようなものが、あんまり無い。たいていの話題は、世間の一般人にまでは広がっていないものの、一部の地球人類の間では、千年も二千年も前から知られていたことばかりだ。半年間もブログを更新せずに放置していても、何事もなかったように再開できるのは、そのおかげとも言えるだろう(笑)
たとえば、「知性単一説」というものがある。「人は、死んだらどうなるの?」という素朴な疑問に対する、有力な回答のひとつだ。いわく、この宇宙には一つの知性がある。すべてのものは、そこから分離して、やがてそこに戻る。The One、ワンネスの世界だ。大いなる根源だ。人はそれぞれ、生きている間は個性がある。でも、それは生きてる間だけの話。死ねば、大いなるワンネスに溶けて、消えて無くなってしまう。人それぞれの個性は、そこで消滅する。我は無い。ただ、全体あるのみ。われわれは、全体として永遠に存在し続ける・・・。
この話をすると、「そうだ、その通りだ」と賛同する人もいれば、「人は、死ねばお終いだ」というニヒリズムにつながる発想だとして嫌う人もいる。それは、人それぞれだろう。
でも、これは現代のインターネットの中における、精神世界マニア同士の見解相違にとどまるものではない。これは「知性単一説」と呼ばれ、千年前のペルシャ(いまでいうイラン)の大哲学者が唱えて以来、西洋世界では何百年もの大論争を引き起こした、古くて新しいテーマなのだ。
というのも、昔は、誰もがイスラム教やキリスト教を信じていた。これらの宗教では、神が世界を創造した・・・ということになっている。善い人々は、死後に神の王国で永遠の生命を与えられる。悪い人や、無信仰な人たちは、燃え盛る炉の中に投げ込まれたり、永遠に消滅させられてしまう。このように、死後の霊魂に対して、神は徹底した信賞必罰で臨む。その権威は、絶対だ。
その一方で、多くの哲学者が「知性単一説」を支持していた。哲学者にとっては、それこそが真理と呼ぶに値するものだった。この矛盾する2つの考えを、どうやって結び付けたら、信者もナットクするような説明ができるのか。哲学者にとっては、それが課題だった。これを説明できなきゃ、中世のガチガチな宗教国家では生きていくことすら、おぼつかない。まさに命がけの問題だ。中世のアラビアでもヨーロッパでも、当時の最高の知性が集まっては、この問題を論じあっていた。これは、地球人類にとって最大級の難問のひとつだった。
それくらい難しい問題なんだから、これに対する明確な答が見つからなかったとしても、心配する必要はない。スパッと「ファイナル・アンサー」を求めたところで、すぐには無理というもの。簡単に答が見つかるくらいなら、何の苦労もない。「ああでもない、こうでもない・・・」と悩むこと自体に意義を見出すくらいでないと、とてもやってられないのも事実。
それにしても、この地球は、過酷なサバイバル環境だ。ここは、そこに生きるもの同士を争い戦わせようとして神が設定した、無限のバトル・フィールド。ここでは、人間や鳥や獣や魚といった個別のものたちが、バラバラに分かれて生存競争している。これじゃあ、争いが起きないほうが不思議。この地球が存在する意義とは、そうやって、個別に分離したものたちを、「競争させて鍛えよう」というところにある。もともと、それを意図して創られた世界と見るのが、自然な解釈というものだろう。
もちろん、それは、この地球が存在する本当の理由ではないのかもしれない。でも、だとしたら、神の真意はどこにあるのか。ひょっとすると、地球は、全知全能の神にしては珍しく不覚を取った、レアな失敗作なのかもしれない。いや、ここは全知全能の神があれこれと条件設定してできた世界なのではなく、自由放任体制の中から自然に発生した、デタラメな世界なのかもしれない。さらにひょっとすると、ここは、宇宙の神に反乱を起こした、流れ者たちが集まった出来損ないの世界なのかもな・・・。このように、いろいろと考えられる。
とりあえず考えられる最大の可能性としては、「これは途中経過なのだ」ということ。つまり、この地球がバラバラに分かれた支離滅裂な世界なのは、本来の姿なのではなく、あくまでも、統合された理想の世界に向かっていくまでのプロセスにすぎないという見方が成り立つ。
でも、それだって、表面的な見方にすぎないのかもしれない。この地球は、一見デタラメな世界に見えるだけで、本当は「考えうる限りで最善の世界」なのかもしれないではないか。ここは、あらゆる可能性の中から、全知全能の神があえて選択した、唯一の現実世界なのだ。それはつまり、早い話が、「ほかの世界は、ここよりもさらに悪い」ということ(笑)。あらゆるパラレル・ワールドの中から、「比較すれば、ここがベストだな」とばかりに、神が選んだ世界が、この地球。
というわけで、われわれがいる地球は、こう見えても、実は最善の世界でした。ありがたや。合掌・・・。これまた、哲学では「最善説」と呼ばれ、17世紀のドイツの大哲学者が唱えて有名になった、古くて新しい考えの一つ。
でも、筆者が「地球はもう嫌だ。魂の故郷に帰還しましょう」という話をすると、そういう反論をしてくる人も実際にいるから、やっぱり古くて新しい。「ここは、神様が創った最善の世界です。アナタは、まだよく分かってないみたいですね」というわけだ。本人は自覚していないとはいうものの、これは近代ヨーロッパの大哲学者と基本的に同じことを言っているのだから、意外とすごいことだったりする。
このように、ここで生きている限り、わからないことは沢山ある。死んで初めて分かることだって、いっぱいあるだろう。死んでも分からないことだってあるだろう。
まあ、普通の人生訓としては、「難しく考えすぎるな」というのが最良の答になるだろう。実際のところ、世間ではそれが最も賢明な態度とされている。でも、それじゃ満足できない人だって、当然に存在する。哲学的な思考は、そこからスタートする。そうやって、深淵な暗黒の迷宮の中に紛れ込み、迷って出て来られなくなる。それもまた、人生の深い味わいのひとつだろう。
結論を言えば、この深淵な問いには、答がない。というより、正確には、見る角度によって答が変わってくる。
つまり、「人は生まれ変わって、それぞれの個性が続いている」とか、「死後の世界で、個性が残っている」というのも、ひとつの真実。でも、「人は、死ねば大いなるワンネスに溶けてしまう。それぞれのバラバラな個性は、生きてる間の錯覚でしかない」というのも、見る角度によっては真実なのだ。こういうのは、物事をどちらの側から見るかによって、見え方が変わってくる。
どちらかと言えば、精神世界の探求者が目指すべきものは後者、つまり「大いなるワンネスに溶けていく」のほうだろう。その一方で、世間の一般人にとっては、まずは「死後の世界はある」とか、「人は生まれ変わっている」というのが精神世界への第一歩で、そこが重要なテーマになる。
このように、この問題に対する答は、人それぞれ。ワンネス思想というわりに、答は一つじゃなかった・・・。
(つづく)