宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

熱中症の死者が半月で200人を突破 ~ 異常気象・日本編

2010年07月31日 | 異常気象

今日も暑かった。梅雨明けした七月中旬以降、ずっと暑い日が続いている。続いているからといって、慣れるものでもない。いつまでたっても、暑いものは暑い。

七月後半の半月間、日本全国で、熱中症による死者が200人を突破したんだそうな。政府当局の発表によると、正確には「7月17日から29日までの半月足らずで、少なくとも217人」だという。「約9割が65歳以上」というから、高齢化と異常気象の相乗効果で起きている悲劇と言える。今年の夏は、本当に厳しい。十分な注意が必要だ。

全国217人の中で、目を引くのは、埼玉県の42人だろう。「熱中症による死亡者の5人に1人が埼玉県民」というのは、日本の人口構成を思えば突出している。やっぱり、北関東の暑さは凄まじいの一言なのだが、原因はそれだけではない。埼玉県は、人口が多い割に農業も盛んなので、暑い日に野外で農作業をする人が多いのも一因と思われる。

熱中症と言っても、原因はひとつではないらしい。大きく分けて、強い日差しを浴びすぎたことによる日射病と、蒸し暑いところにいたおかげで起きる脱水症状がある。脱水症状を予防するには、こまめに水を飲めばよいと思うのだが、それだけじゃないみたい。汗で失われるのは水分だけではなく、塩分やミネラルも体外に出ていってしまう。せっかく水を飲んだのに、急激な塩分不足で体調に異変が起きる人もいるという。

「塩分も同時に補給する」となると、スポーツドリンクを真っ先に連想する。でも、スポーツドリンクを飲むより、イカの塩辛と味噌汁で、ご飯を食べた方がよい。ご飯にも醤油をかけて、せっせと塩分を多めに取る。もっとも、熱中症以前に、高血圧症になってしまいそうだが・・・。

こんなときは、冷房の効いた部屋で、おとなしく休んでいるに限るのだろう。日の出とともに起きて、天高く日が昇る頃は静かに昼寝する。「晴耕雨読」とは反対で、晴れた日は外に出ない。悠々自適の、快適生活。そういう者に、私はなりたい。

もっとも、最近は夜も暑いので、夜勤の人でさえ熱中症になるという。まったく、とかくこの世は住みにくい・・・。


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異常気象 2010  ~ 凍死者が続出する寒さで、非常事態宣言のペルー

2010年07月29日 | 異常気象
 
Peru declares emergency over cold weather

連日、まったく、うだるような暑さだ。2~3年前も暑かったが、これほどじゃなかった。今日は雨も降ったし、暑さは久々に一服した。その代わり、湿度がさらにすごい。明日からは、また暑い日々が再開するだろう。どこまで続くのか、この暑さ・・・。

中国では、南部で大雨が続き、大洪水が各地で起きる一方で、北部は強烈な熱波に襲われている。内モンゴル地区では、気温が42℃にまで達した。人間の体温よりも気温の方が高いところにいると、非常に健康に悪いのは周知の事実だ。日本の北関東と同じで、なるべく外には出ないほうが良さそう。
   
ところが、世界は広い。季節が逆の南半球では、今が真冬の本番。なんと、ペルーでは、国家が非常事態宣言を発するほどの異常な寒さだというのだ。

緯度としては熱帯に属するペルーだが、アンデス山脈の高地なので、冬に気温が氷点下まで下がるのは珍しくない。ところが、今年の冬は異常で、マイナス24℃まで下がった地域もあるという。これじゃ、真冬のシベリア並だ。いくらなんでも、寒すぎる。寒さで凍死する人が続出し、肺病が蔓延するなど、被害が広がっている。

高地だけではない。熱帯のジャングルに覆われたアマゾン地域でさえ、気温が9℃まで低下したという。9℃なんて、日本でも「寒いねえ」という声が出る気温だ。密林の住人たち、テナガザルやオオアリクイも、この寒さにはビックリだろう。首都のリマでは、気温が8℃まで低下した。これは、「観測を始めた過去46年間で、最も低い気温」だという。

ペルーだけではない。ブラジルやパラグアイでは、寒さが原因で、牧場の牛が何千頭も死亡するという悲劇が起きた。もともと暑い国だけに、牛はいつも野放しで、厩舎もないという。このため、過去に前例のない大寒波に見舞われて、なすすべがなかった。
 
ボリビアやアルゼンチンなどでも、大勢の死者が出ている。南米全体では、すでに寒さによる死者が200人を超えた (もっとも、この数字には『暖房の事故による一酸化炭素中毒』なども含まれている)。
 
一方、あの極北の大地・ロシアでさえも、連日35℃を超えるという、過去に前例のない異常な暑さに悩んでいる北半球。いっそのこと、北と南とで、空気の入れ替えができたら便利なのだが。でも、こればっかりは、「ちと、窓を開けて換気しようぜ」というようなわけにはいかない。残念ながら、地球環境は、そこまで人類に優しくできていない・・・。
 
それにしても、ロシア・ブラジル・アルゼンチン・オーストラリア・・・と、世界の「穀倉地帯」とされる農業大国が、異常気象に軒並みヤラレている。すでに、「小麦の価格が2割上昇した」というような、農業への影響が叫ばれ始めた。このままでは、いよいよ食料が心配だ。

  
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マヤ文明

2010年07月29日 | マヤ文明・アステカ文明

 
↑マヤとアステカ (緑色が、マヤ文明のエリア)
 
 
数千年の歴史を持つ「マヤ文明」は、メキシコ南部のユカタン半島から、グアテマラ・ベリーズあたりを中心とする文明。大きく分けて、3つの時期に区分されている。

最初は「先古典期」。どこから来たのか定かでない謎の民族・オルメカ人がメキシコ湾岸にもたらした古代文明は、紀元前からマヤ地域に広がった。いわば、真打ちが登場する前の、前座のような時期と言える。

2番目は「古典期」と呼ばれる。これは、マヤ文明が文化的な絶頂に達した、4世紀から9世紀あたりの時代。まさしく、真打ち登場だ。すばらしい文明だったのに、なぜか千年ほど前に衰退してしまった。原因は、「伝染病」、「気候変動」、「反乱」、「北米からの侵略者」など、いろいろ言われているようだ。歴史は、過去から未来へと、一直線に進歩発展していくものではない。せっかくの文明が衰退したり、消滅したりすることも、実はよくあることなのだ・・・(泣)。

最後が、「後古典期」。これは、マヤ文明が下り坂に入ってから、スペイン人に征服されて滅亡するまでの、10世紀から16世紀までの時期を指す。これはいわば、燃え尽きる前の残り火の時代。

古典期マヤ文明は、数々の偉大なる文化遺産を残した。中でも有名なのが、ご存知、「マヤン・カレンダー」。「2012年の冬至で終わっている」ということで知られる、マヤの暦だ。
 
マヤ人は、金属の使用などといった分野においては、原始人みたいなレベルだったのだが、天体観測が非常に発達し、ヤケに精密な暦を持っているのが特徴だった。マヤの暦といっても、いろいろあるのだが、大きく分けて2つある。

ひとつは「ツォルキン」と呼ばれるカレンダーで、これは一年が260日とされていた。何の役に立つのかは知らないが、宗教上の儀式などを、この暦に基づいて実施していたようだ。まあ、日本も昔は「太陰暦」を使っていた。中国人は、2月の初め頃になると、旧正月で一斉に帰国する。ツォルキン暦も、そのようなものか・・・?
 
もうひとつは、「ハアブ」と呼ばれる普通のカレンダー。こちらは、一年が365日となっている。ツォルキン暦とハアブ暦を両方とも使っていると、当然のことながら、だんだんズレてくる。暦がスタートしてから1000日が過ぎた頃には、ツォルキン暦では4年近くたっているのに、ハアブ暦では3年にも届かない。この2つの暦が同時にスタートしてから、再び年末年始を同時に迎えるのはいつか。約52年後だ。これを「カレンダー・ラウンド」という。 
   
しかし、スケールではこの2つを遥かに上回る、「長期暦」(ロング・カウント)が存在する。これは、紀元前3114年8月11日に始まり、2012年12月21日に終了するという、いわくつきのカレンダー。一般に「マヤのカレンダー」と言えば、これを指すことが多い。

もっとも、これについて語りだすと、「マヤ文明」の話より長くなってしまいそうなのだが・・・(笑)。

    
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マヤ・アステカのピラミッド

2010年07月27日 | マヤ文明・アステカ文明
 ← テオティワカンのピラミッド (メキシコ)
 
   
アステカ帝国の首都テノチティトラン(現:メキシコ・シティー)の郊外に、かの有名な「テオティワカンのピラミッド」がある。

テオティワカンには、「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」と呼ばれる、巨大な2つのピラミッドがある。さらに、もっと小さな3番目のピラミッドもあり、こちらは「ケツァルコアトルのピラミッド」と呼ばれている。

かつては日本の古墳と同様、草木に包まれた丘のように見えていた。だが、それは世を忍ぶ仮の姿だった。実は、エジプトのピラミッドと同じような、巨大な四角錐の建造物だったのだ。

アステカ帝国の人たちにとっても、気が遠くなるほど太古の遺跡。いつ頃これが作られたのかといえば、諸説あるらしいのだが、シッチンによると「紀元前1400年」(今から3400年ほど昔)というのが、学界での定説になっているという。ただし、この地の遺跡そのものは、「今から六千年も前に始まった」という話もあるらしい。シッチン自身も、「この地の文明そのものは、もっと古いんじゃないか」と思っているようだ。

「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」には、メソポタミア文明のジッグラト (大神殿) のような階段がついている。かの有名なエジプト・ギザの巨大ピラミッドとは異なり、巨石を切り出して積み上げたものではなく、主に日干し煉瓦と小石や砂利で建てられている。その上、「王の間」だの、「声が共鳴する廊下」だのといった、複雑な内部構造を持っているわけでもない。高さも、半分くらいしかない。にもかかわらず、シッチンによれば、テオティワカンのピラミッドは、ギザの大ピラミッドと、驚くほどの共通点を持っているという。

 
 ← ギザの大ピラミッド (エジプト)
 
  
ギザの大ピラミッドも、2つの巨大なピラミッドと、もうひとつの小さなピラミッドからできているのだが、大きい方は、2つとも人工的な高台の上に建っている。それぞれ建物の高さは違うけど、頂点の海抜高度は、ほぼ一致するようにできているという。つまり、地面が小高い丘になっているところでは、その分、ピラミッドの高さをちょっと低くする。地面が低いところでは、その分、ピラミッドをちょっと高くする。そうやって、頂点の高さがピタッとそろうようになっているというのだから、なんとも芸が細かい。東京に例えれば、丸の内よりも新宿の方が地面の標高が高い分、丸の内に高いビルを建て、新宿に低いビルを建てることにより、「屋上の高さをそろえました」というようなものだろう。なんで、そうまでして海面からの高さ (言い換えれば、宇宙から見たときの高さ) を、そろえなきゃいけなかったのか・・・。

驚くべきことに、この頂点の高さのそろえ方は、テオティワカンにある2つの巨大ピラミッドの間にも、そっくりあてはまるという。
 
さらに、ギザとテオティワカンの両ピラミッドは、大西洋を隔てて遠く離れているにもかかわらず、建ぺい面積のサイズは、ほぼ同じ。つまり、地面と接している底辺の四角形の寸法が、ほとんど変わらないらしい。ギザは一辺754フィート、テオティワカンは一辺745フィートだというから、確かに偶然とは思えないくらい似ている。
 
シッチンによれば、テオティワカンのピラミッドは、ギザの大ピラミッドだけではなく、エジプトでピラミッドが造られ始めた初期のものとされる、「ジョセル王のピラミッド」とも数々の共通点を持っている。これは、ギザのものとは異なり、六段に分かれた段階式になっている。そして、壁面の傾斜角が「43.5度」となっており、これはなんと、テオティワカンのピラミッドの傾斜角と一致しているというのだ。
 
 
 ← ジョセル王の階段ピラミッド (エジプト)

 
しかも、これらすべてのピラミッドに共通する、もうひとつの特徴がある。それは、「地中深くへと続く、地下階段がある」ということ。やはり、両者とも、「上にある如く、下も然り」という格言の通りに造られているのだろうか!?

そんなこんなで、シッチンによれば、とても偶然とは思われないほどの共通点を持つ、エジプト文明とマヤ文明のピラミッド。ゼカリア・シッチンは、そこに、太古の昔における、中東と中米の交流を見る。現代のわれわれが想像する以上に、この両者は影響を与え合っていたというのだ。というより、「大西洋の東側と西側の両方に文明をもたらした、人類共通の指導者」の姿をそこに見ている。
   
メキシコには、マヤ文明の先住民が残した階段ピラミッドが、たくさんある。その中でも、美しい姿で名高いのは、「チチェン・イツアーのピラミッド」だろう。チチェン・イツアーの遺跡といえば、ハンドボールに似た(?)スポーツをしている姿が彫られた、レリーフでも有名だ。なんと、どちらかのチームの選手が、首を斬られている図柄も描かれている。このため、「このスポーツは真剣勝負であり、負けた方の選手は、斬首されて神に捧げるイケニエになった」と考えられている。これには、ワールドカップの代表も真っ青でしょうな・・・(怖)。
 
  
 ← チチェン・イツアーのピラミッド (メキシコ)
 
 
ちなみに、考古学界の通説では、5000年近く前のエジプトで「ジョセル王のピラミッド」のような階段型のピラミッドが造られ始め、そこで技術が蓄積された後、4500年くらい前の「エジプト古王国」の最盛期において、巨大なギザの大ピラミッドが建造されたとされている。マヤのピラミッドは、それより1000年も後にできたものだ。

でも、周知のとおり、一般にチャネリングの世界では、そうなっていません(笑)。チャネリング関係者には、「ギザの大ピラミッドは、大勢の人間がエッチラオッチラ、巨石を引っ張って運んで積み上げたものなのだ」と考えている人など、滅多にいない。「高度な文明を持つ宇宙人の関与により、なんらかの特殊な方法で造られた」というのが、チャネリング界の通説と言えるだろう。
  
シッチンも、そう考えているようだ。シッチンの考えでは、まず、いつ頃なのか分からないほどの太古の昔に、宇宙人の関与によって造られた「ギザの大ピラミッド」という理想的なお手本があった。それを見て憧れた地球人たちが、「ジョセル王のピラミッド」や、「テオティワカンの太陽と月のピラミッド」といった、もっと原始的なピラミッドを、見よう見マネで造った・・・といったところが真相であるらしい。
   
   
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オルメカ文明の謎

2010年07月26日 | マヤ文明・アステカ文明
 
数千年の歴史を持つマヤ文明は、多くの素晴らしい都市を建設した。しかし、熱帯の地であるだけに、都市民が移住して衰退するたびに、都市遺跡が密林に埋没して消えていった。そんな都市遺跡の中で有名なのは、コパン、パレンケ、チチェン・イツアーなど。

気になるのは、「数千年前に、中米の地で最初に文明を築いたのは誰だったか?」ということ。これについては、「オルメカ人」と呼ばれる、古代の先住民族だったと考えられている。

オルメカ人は、今から3千年以上もの昔に、どこからかやってきてメキシコ湾岸に住み着いた、海の民だ。何もなかった中米に、突如として文化の花を咲かせた。ユカタン半島を中心とするマヤ地方とはエリアが微妙に異なるので、「マヤ文明」とは言われないのだが、その先駆者なのは確か。

 
 

↑ オルメカ文明の地域 (隣に突き出ているのがユカタン半島)
 

熱帯の海岸の低湿地だけに、ゾッとするほど高温多湿な「緑の地獄」と呼ばれるジャングルの中。ウカツに入ろうものなら、無数の蚊やヒルに喰いつかれて、あっという間に血まみれだ。こんなところに、よく、人が住めたものだ・・・。

面白いことに、ゼカリア・シッチンは、この古代民族オルメカ人を、「アフリカ大陸から大西洋を渡って来た、西アフリカの黒人だった」と断言している。アフリカ大陸の黒人たちは、地続きのエジプトやメソポタミアから、シュメール文明に始まる高度な文化を受け継ぎ、大西洋を越えてメキシコ湾岸に渡来したというのだ。著書の中で、これは一度や二度ではなく、何度も強調されている。

面白い説なのは確かだが、そこまで自信たっぷりに断言する根拠が、「オルメカ人が残した古代の石像の顔は、どう見ても黒人にしか見えない」というのだから、まさしくシッチン節が全開だ(笑)。ご丁寧にも、オルメカ人の石像の顔の横に、「ナイジェリアのリーダー、バナキダ将軍の顔」の写真を添え、「このように、オルメカ人の顔は、現代の西アフリカ人の顔とあまりにも似ている」という注釈が付いていた。「ナイジェリアのバナキダ将軍」も、思わぬところで「証拠写真」に使われ、さぞ度肝を抜かれたことだろう・・・。(もっとも、オルメカ人の石像がアフリカの黒人に似ているということ自体は、シッチンひとりの思い付きではなく、昔からそう言われている)。
 


 
↑オルメカ文明の巨大人頭像 (高さ3m!!)
 
 
不思議なのは、それだけではない。というのも、オルメカ時代に描かれた絵には、長いアゴひげを伸ばした偉そうな人物もよく登場する。そして、この長いアゴひげの人物に、「黒人」がかしずいているような絵柄も、数多く残されているのだ。この、長いアゴひげの人物の顔は、「黒人」とは明らかに異なる。中南米の先住民・インディオにも似ていない。そもそも、中南米のインディオは、遺伝的にはわれわれ東アジア人と近縁の人種であり、こんなに見事な長いアゴひげが生える人など、滅多にいない。どちらかと言えば、それこそシュメールの粘土板や、ペルシア帝国の石碑にでも出てきそうな、あちらの人の風貌なのだ。不思議といえば、確かに不思議なのである。




↑こちらは、「白人に見える」という評判の「アンクル・サム」

  
シッチンは、オルメカ人が残した記念石柱にも注目する。なんと、そこにはシュメール文明の粘土板でおなじみの、「翼のある神様」が描かれていたのだ。さらに、マヤの神話と、シュメール神話やエジプト神話との「共通点」を、これでもかとばかりに列挙しては力説する。これは偶然なのか。それとも、シュメール人とオルメカ人は、同じ神々を崇拝していたのか。その答は、神様とゼカリア・シッチンだけが知っている・・・(笑)。

それはともかく、中米の地に最初の文明を築いたオルメカ人の時代は、やがて終焉した。彼らが放棄した都市は、徐々に熱帯の木々に覆われ、緑深い密林の枝葉の茂みに埋もれていった。

その後、「マヤ文明」が全盛期を迎える。マヤの文化が頂点に達したのは、紀元8世紀から9世紀頃とされる。日本で言えば奈良時代あたりの前後に、地球の裏側ではマヤ文明が空前の繁栄を遂げていた。しかし、その後、マヤ文明はなぜか衰退してしまう。最後に滅んだアステカ人たちの時代は、本来のマヤ文明が衰退してから、すでにだいぶ経っていたのである。


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アステカ帝国の謎

2010年07月25日 | マヤ文明・アステカ文明
 
アステカ族は、メキシコ中央高原に栄えた、高地の文明人。ユカタン半島を中心とするマヤ地方とはエリアが微妙に異なるので、「マヤ文明」とは言われないのだが、その後継者だったのは確か。




↑アステカ帝国の領域 (隣に突き出ているのがユカタン半島)
 

アステカ帝国の首都テノチティトランは、数十万の人口を擁する、当時の地球では最大級の都会だった。でも、彼らの文明が世界の最先端を行っていたかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、いくつかの点で、奇妙なほど不釣り合いな遅れが見られた。

帝国全土から集まった商人たちで賑わう市場は、世界でも屈指の規模を誇っていたのだが、そこではなんと、物々交換が行われていた。つまり、アステカ帝国では、お金が使われていなかったのだ。

さすがは、現代人も及ばないほどの高い精神性に到達していた、神秘のアステカ文明。何百年も前に、「お金のない世界」を実現していたのか!!・・・と、思わず感心してしまいそうになるのだが、そういうワケではない。単に、「貨幣」という概念を知らなかっただけだ。

その上、アステカ人は、金属を道具として使うことを知らなかった。彼らの道具のレベルは、石器時代の原始人と変わらない。鉄器はもちろん、青銅器すら使われていなかったのだ。青銅の合金は、鉄ほど高温で加熱しなくても溶かして加工できるので、大昔の人類から、洋の東西を問わず愛用されていた。それすら使えなかったのだから、逆にビックリするほどの重症。少なくとも金属に関しては、世界の大勢から五千年くらい遅れていたと言ってよい。

当時は、16世紀。すでに世界では、オスマン・トルコの鉄砲隊が、無敵のイラン騎兵隊を潰走させていた時代。織田信長の鉄砲隊が武田騎馬軍団を壊滅させるのは、その数十年後のことになる。そんな時代に石ヤリで戦ってるようじゃ、無敵艦隊・スペインを相手に、最初から勝ち目はなかったと言えるだろう。

ただし、石器時代と言っても、さすがに、ただの石コロを使っていたワケではない。黒いガラスの破片みたいな黒耀石が、鋭利な刃物として使われていた。

黒耀石の刃物は、神殿でも必要不可欠だった。というのも、彼らが神に捧げていたイケニエは、囚人から切り取った心臓だったのだ。切り取られたばかりの新鮮な心臓は、祭壇でまだドクンドクンと脈を打っていたという・・・。

鉄も青銅も使えなかった、アステカ人。不思議なのは、それでいて、金細工だけは発達していたというところだ。ヨーロッパ人もビックリの、高度で精巧な金細工。われらがゼカリア・シッチンは、そこに注目する。「誰が、彼らに金の扱い方を教えたか?」、それ以前に、そもそも「なぜ彼らは、他の金属には目もくれず、金だけをアリガタがっていたのか?」というナゾだ。その答は、誰も知らない・・・(笑)。

一方、圧倒的なまでにすばらしかったのは、神殿だ。そこには、神々や女神たちの大きな彫像や、まるく刻まれた大きな厚い石の円盤が並んでいた。

中でも目立つのは、重さが約25トンもあるという、巨大なカレンダーの石碑。それは、52年周期で正確に刻まれた、驚くほど精密な暦だった。かつて、これほど「暦」を神聖視した人々がいただろうか。




↑床の間に飾りたい、豪華なカレンダー


他のことでは原始人のレベルなのに、建築と彫刻、そして、天文と暦だけは、妙に進んでた。う~ん、ナゾは深まるばかり・・・。

ゼカリア・シッチンは、こう問いかける。

>一方では、原始的な粘土や木製の品物、そしてグロテスクな彫像があり、他方では、巨大な石の彫刻や記念すべき壮大な聖域があるという、この2つの対照にはまったく驚かされる。このことは、アステカ族がメキシコにいた4世紀たらずの短い期間では、説明がつかない。このような文明の二面性をどう説明したらよいのか?


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マヤ・アステカ・インカ 神々の起源と宇宙人

2010年07月23日 | マヤ文明・アステカ文明
  
最近の精神世界では、中南米のフィールドワークがブームのようだ。

中南米の探索者として世界的に有名なのは、ドランヴァロ・メルキゼデク氏あたりだろうか。いまや、精神世界関係者が何人か集まると、たいてい話題に出る人物だ。日本では、「地球巡礼者」のエハン・デラヴィ氏、「2012年 最後の真実」の浅川嘉富氏などが、精力的に中南米を探査しているみたい。

何が、これらの人々を中南米に惹きつけるのか。それは、滅び去った神秘の文明、宇宙的なスケールを誇るナスカの地上絵やマチュピチュの遺跡、そしてご存知、「2012年の冬至で終わっている」というマヤのカレンダーだろう。

筆者が個人的に注目するのは、徳間書店の5次元文庫から出ている、ゼカリア・シッチン著「マヤ・アステカ・インカ 神々の起源と宇宙人」という本。「古代シュメール文明を創ったのは、宇宙人アヌンナキだ」という説で知られる人だけに、本書でも、「中南米の古代文明を創ったのも、やっぱり宇宙人アヌンナキなのだ」という大胆な仮説を展開する。シュメール文明の古代ロマンは、なんと、大西洋を渡って新大陸にまで広がっていた。真偽はさておき、まさしく、第一級の精神世界エンターテインメントとして楽しめる内容だ(笑)。
 
「古代シュメール語で書かれた粘土板を読める、数少ない学者」とまで言われる人が書いただけあって、参照している文献の豊富さと、緻密な現地調査は、他の追随を許さない。惜しむらくは、せっかく集めた客観的な事実と、作者本人の自由奔放な想像とを区別せず、渾然一体に記述する傾向があるところか。できれば、その両者の区別がしやすければ、より一層ありがたかった。まあ、時代の先駆者とは、えてして、そういうものなのかもしれないが・・・(笑)。
 
それはともかく、ヨーロッパ人と、メソアメリカ(中米)の文明との出会いは、悲劇的な「アステカ帝国の滅亡」で幕を開けた。

日本でいえば室町時代から戦国時代初期くらいにかけての時代に、現在でいうメキシコの中央高原で栄えたのが、かの有名なアステカ帝国。この地の歴史上、おそらく最も繁栄した大帝国だったのだが、16世紀にやってきた、コルテス率いるわずか500人のスペイン人によって、アッサリと滅ぼされた。結果だけを見れば、まるで無力だったように思えるのだが、実際のアステカ帝国は、一千万人を超える人口を擁する、当時の世界の基準からすれば相当な大国だった。

首都のテノチティトランは、人口が30万人に達していたという。江戸やロンドンが大発展して百万都市となるのは、まだまだ先の話。当時としては、テノチティトランが世界最大級の都市だったのは確かだろう。
 
荒涼たるイベリア半島から、大西洋の波濤をはるばる越えてやってきた野蛮なスペイン人たち。熱帯の密林を抜けると、天空に近い高地の湖上に浮かぶ島の上に、目にもあやなる桃源郷・テノチティトランはあった。。長くて広いメインストリートを通って街に入ると、整然と区画された街路を無数の人々が歩き、張り巡らされた運河を多数のカヌーが行き交い、市場は商人たちで活気づいていた。そして、金銀財宝が満ち溢れる宮殿。
 
地上に、こんな誰も知らない都市があったとは。しかも、スペインの首都・マドリードなんか、目じゃないほどの大都会ではないか。まさしく、異空間の幻想世界に迷い込んだほどの衝撃だったろう。

だが、シッチンによれば、最大の驚きは大神殿にあった。そこには、「羽毛の生えた蛇の神」こと、ケツァルコアトル神が祀られていたのだ。

>しかし、この都市と王国の中心は、なんと言っても大きな宗教センターだった。百万平方フィート以上もありそうな大きな長方形の区域で、くねくね動く蛇の形に似せてつくられた壁で囲まれていた。この聖域の中には、多数の大きな建物が建っていた。中でも、最も目立っていたのは、2つの塔と神ケツァルコアトルを祭っている、一部が円形の寺院のある「大神殿」だった。(同書より)

そんな素晴らしい花の都・テノチティトランは、残虐な侵略者・コルテス隊によって滅ぼされてしまった。建物はすべて取り壊され、大半の住民は死に絶えた。まるで、ジンギスカンのモンゴル騎馬軍みたい。彼らが通った後には、ペンペン草も生えなかった。

アステカ帝国が滅亡したあとも、悲劇は続いた。特に、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の被害は大きく、免疫のないメキシコ先住民は壊滅的な打撃を受けた。長きにわたる暗黒の中世において、いつも戦乱と疫病の連続だったヨーロッパ人は、やはり鍛えられ方が違っていた。逆境は、人を強くする。中世ヨーロッパ人こそ、その見本だったのだ。
  
今に語り継がれる、アステカ帝国の滅亡。

だが、テノチティトランの歴史が、それで終わったわけではなかった。その後、湖は埋め立てられ、かつての湖上に新生メキシコの首都が再建された。「メキシコ・シティー」と呼ばれる、その都市は、いまや人口2千万人の巨大都市圏となっている。姿かたちは変わっても、世界屈指の巨大都市であり続ける。やはり、選ばれたる王城の地にみなぎる王者の気は、時を経ても失われるものではないのだろう。
 
アステカ帝国が滅びた後のメキシコには、「マヤ文明」をはじめとする、メソアメリカ諸文明の遺跡が残されていた。20世紀になって、ゼカリア・シッチン氏が遺跡を調査したところ、驚くべき事実が浮かび上がってきた・・・!?


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異常気象 2010 ~ 南米に大寒波到来、ペンギンも寒さに苦しむ

2010年07月21日 | 異常気象
 
いやはや、ここ数日は、とにかく暑いのなんの。東京でも気温が35℃を超える真夏日となったが、北関東では38℃に達しているという。熱中症の被害者が続出している。こんなときは、こまめな水分補給が欠かせない。

日本に限らず、北半球はどこも暑いようだ。あのロシアでさえ、熱中症の被害が広がっているというのだから、他の地域は言うに及ばずだろう。

一方、南半球は、今が冬の真っ盛り。これが、なんと「大寒波が到来して、信じられないほどの寒さ」だというのだから、今年の地球は、一体どうなっているのか・・・!?

異変が起きたのは、ブラジル南東部・サンパウロ州の海岸。なんと、餓死したペンギンが530羽も打ち上げられていたので、漁民もビックリだ。ペンギンの群れは、毎年、冬は南米大陸の南端あたりから、エサを求めて暖かい地域に移動するのだそうだが、いつもなら暖かいはずの地域でさえ、今年は海水温が冷たくて、エサ不足だったと見られている。南極の近くから出発し、エサを求めて北へ北へと向かったペンギンの群れは、どこまで行っても冷たい海に悩まされたあげく、ブラジルの海岸でついに力尽きた・・・。
 
ブラジルといえば、ちょっと前までは「過去50年間で最大の熱波」に襲われ、暑さで人々がバタバタ倒れる騒ぎだったはず。常夏の地、サンバと情熱の国だけに、暑いのは分からないでもない。でも、いまや、様相は激変した。現地の人が書いているニュースやブログなどを見ても、みんな、「寒いねえ。今年のブラジルは、どうなっちゃってるの?」という論調だ。霜が降りるわ、雪は降るわ。マフラーでぐるぐる巻きにした厳重装備の人々が、リオの街を行き交う。「こんなブラジル、今まで見たことない」と、誰もが信じられない表情だ。
  
 
NHKニュースの報道によると、

>南半球の南米は厳しい冬の寒波に見舞われていて、少なくとも20人が寒さで死亡したほか、めったに雪が降らない地域でも記録的な大雪となり、市民生活に影響が出ています。

>アルゼンチンの首都ブエノスアイレスでは、先週、7月の平均の最低気温より8度ほど低い氷点下1度5分を記録し、路上で生活していたホームレスなど20人余りが死亡しました。このほか、パラグアイやボリビアでも死者が報告されています。また、めったに雪が降らないボリビア中部などでは記録的な大雪が降り、車が路上で立往生するなど、交通機関がまひして、市民生活にも大きな影響が出ています。

 
それにしても、赤道に近い国々で大雪とは、晴天の霹靂だ。なんで、こうなったのか。原因は、「南極からの冷たい空気が流れ込んだから」だという。そういえば、今年の冬は北半球が寒かったわけだが、そのときも、理由は「南極から、冷たい空気が異常なほど広がったから」と説明されていた。

どうやら、地球全体で空気の流れが狂っているのが、異変続きの原因らしい。日本の気候も変だけど、世界はもっとすごい。「掛け値なしに異常気象の年」と位置づけられるのも、もっともだ・・・。
 

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中国でUFO目撃者が続出 ~ パニックで空港閉鎖

2010年07月19日 | UFO
 

いまや、世界経済の「頼みの綱」とまで言われる、中国。だが、経済発展にも負けないほど、話題を集めていることがある。なんと、この地で「UFOの目撃談が急増している」というのだ。
 
メディアの報道によると、浙江省の古都・杭州の空港では7日夜、航空管制当局が上空に正体不明の飛行物体を発見したとして、約1時間にわたり空港が閉鎖される騒ぎとなった。レーダーに捕捉され、多数の航空客や、周辺の農民も目撃しているというから、デマや錯覚ではない。
  
杭州だけではない、何千キロも離れた内陸部の荒野・新疆ウイグル自治区のウルムチでも、6月30日夜、白い扇形の光の尾を引く飛行物体(画像ご参照)を多数の市民が目撃したという。

そんな中で癒されるのは、チベット自治区ラサで6月28日夜、日本の観光客らが撮影したという、「ポタラ宮(ダライ・ラマの宮殿)の上空に浮かび上がる丸い発光体」の話だ。写真を見たチベット族住民は、「仏の光だ・・・!!」と大喜びしているらしい。

もっとも、これらのUFOには、合理的な説明もなされている。「大富豪が乗っていたプライベートジェット機ではないか」「米国が発射したICBMではないか」、「中国軍が開発した新型兵器ではないか」・・・といった声が出ている。特に、ウルムチの目撃例については、「ロシアが発射した、ソユーズロケットである可能性が極めて高い」とされている。
 
中国各地で広範囲に広がる、UFOの目撃談。もちろん、宇宙人が乗っているのかどうかは、定かではない(笑)。いずれにしても、今の中国では、それだけ正体不明の飛行物体が乱舞しているということだろう。
 

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異常気象 2010 ~ 過去130年間で最高気温のロシア

2010年07月19日 | 異常気象
  
西日本を中心に、全国各地で洪水や土砂崩れを引き起こし、猛威をふるって暴れまわった梅雨も、ようやく明けてきた。
 
もっとも、洪水に悩まされているのは、日本だけではない。新華社通信の報道によると、中国の南部では、洪水で3000万人を超える被災者が出ているという。10万棟を超える住宅が破壊され、100万人を超える住民が避難したというから、まるで民族大移動だ。南部の長江流域だけかと思ったら、北部の陝西省(古都・西安があるところ)でも、「洪水で100人以上の死者が出た」と発表された。東南アジアに近い山岳地帯の雲南省でも、「洪水で死者11人」と報道された。いったい、どこまで洪水が広がっているのか。考えられない事態だ。
 
とはいえ、日本では梅雨が明けてきた。ホッとしたのもツカの間、今日の東京は、いきなり気温が36℃に達する猛暑。気温の高さもさることながら、湿気がすごいのなんの。スチームサウナの中で、服を着て動き回ってるみたい。外出すると、体力の消耗がひどい。

冬から春にかけて、「なんで、今年はこんなに寒いのか」と皆が首をヒネッていたことなど、もはや遠い過去になってしまった。気象庁も、「今年は冷夏になる」という予報を、早めに修正しておいてよかったと、さぞかし安堵していることだろう。

これまた、この傾向は日本だけではなく、世界的にも同じのようだ。今年前半の世界平均気温は、過去120年間の観測史上で最高だったらしい。おそらく、7月も暑かっただろう。
 
あの北の果ての凍てつく大地・ロシアも、すさまじい暑さで話題になっている。モスクワでは、気温が35℃に達した。夏でも気温が20℃ちょっとにしかならない朔北窮寒の地で、これはひどい。あまりの暑さで、水に飛び込む人が続出しているようだ。

スポーツ報知によると、ロシアではウォッカを飲んでから水浴する人が多く、水浴中の事故で死んだ人が、6月だけで1244人、7月は400人以上。7月13日だけで49人が水死した。1日だけで60人以上が亡くなった日もあるという。

記事には、「同国では6月中旬から、130年ぶりという記録的猛暑で、気温40度を超える地域もあり、降雨もない酷暑が続いている」とある。ついに、政府が非常事態を宣言するに至った。

う~ん、なんという途方もない暑さ。どこまで進むのか、今年の異常気象・・・。
 
 
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