宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

いかにして超感覚的認識を獲得するか? ~ ルドルフ・シュタイナー

2007年12月18日 | 精神世界を語る

 
モグラは、いつも真っ暗な地中にいるので、目が退化してほとんど見えなくなっている。ルドルフ・シュタイナーによると、これと同じように、現代人も「霊の目」を使っていないので退化したらしい。日頃、我々の目に霊が見えないのは、そのためである。
 
これはつまり、現代人の霊体は、眼も耳も鼻もない「のっぺらぼう」ということを意味しているのだろうか? シュタイナーによると、もともとないのではなく、「まどろんでいる」ということらしい。そのため、霊視能力を獲得するためには、まず「霊的な目を形成する」ことから始めなければならない、ということだ。


 
たとえば、花を見る(想像ではなく、実物)。 そして、「ホンモノそっくりの造花」をイメージして、どこが違うのかを認識する、という訓練があるという。ツボミから花が咲き、やがてしおれて実になる。そういうエネルギーが、花の内部に秘められている。このイメージを思い描くそうな。 

次に、種を見る。種子から発芽して、やがて生長し、葉が茂り、花が咲く。このイメージを思い描く。ホンモノそっくりに模造した種子とは、何かが違う。やがて、種子の周りにオーラが見えてくるという・・・。

 

 
もっとも、この訓練がただちに「霊視」につながるわけではないらしい。のっぺらぼうだった霊体に、「霊的な目」が徐々に形成されてくるという、根気のいる準備運動みたいなものだそうだ。「とても根気がいるので、たいていの修行者は『効果がないな』と思って退転してしまう」のだという。 
 
根気よく、種とニラメッコを続けることだ。
 
そのうち、緑色のオーラが見えてくる・・・(?)。
 
 


境域の守護者 ~ ルドルフ・シュタイナー

2007年12月11日 | 精神世界を語る

  
シュタイナーによると、大昔の人類は、霊的な感覚器官が発達していたらしい。現代人は、文明が発達し、能力が進化するのと引き換えに、それが退化してしまった。
 
もっとも、現代人も、魂が肉体を離れて霊界に参入しようとするときがあるそうな。それは夜、眠っているとき。

でも、現代では眠っているときでさえ、霊界参入は果たされない。

現代人の霊界参入を阻止するのは、「境域の守護者」。

眠っている現代人の魂が、フラフラと肉体を離れて、夢遊病者みたいに霊界に迷い込もうとすると、境域の守護者(境域の守護霊とも言う)が「コラッ!!」と一喝する。 
 
「ここから先に、お前を通すわけにはいかない。境域を越えてはならない。帰れ」と言われてしまうそうな。

なぜ、境域の守護者は現代人の参入を阻止するのか。

それは、唯物的な現代思想に染まった人が超感覚界に入ると、精神が破壊されるから、ということだ。魂を抜かれたような、ボーッとした人間になり、目覚めてから物質界に戻っても適応できない人間になってしまうのだそうだ。

昔、丹波哲郎の「大霊界・死んだら驚いた」という映画にも、自分が死んだことが分からず、ボー然としている浮遊霊・地縛霊たちが登場していた。ちょうどあんな感じになると見ていいだろう。

それを防ぐために境域の守護者が存在している。 

シュタイナーによると、境域の守護者は「自分自身の投影」、つまり「ドッペルゲンガー」だ。
 
その姿は自分の人生すべてを反映しており、ぞっとするほど醜いという(日本で言う、閻魔大王の照魔鏡に相当する)。
 


畏敬の念 ~ ルドルフ・シュタイナー

2007年12月08日 | 精神世界を語る

 
ルドルフ・シュタイナーによると、太古の人類は、今よりもずっと容易に霊的に向上し、超感覚的認識を増大することが出来たという。
 
では、現代人と古代人とでは、何がそんなに違うのか。

シュタイナーによると、最大の違いは「畏敬の念」だということだ。

かつて、人類の物質生活が素朴だった時代には、大自然の偉大さが際立っており、圧倒的な存在だった。深い森林の中、自然の一部として生きていた人間にとって、畏敬や尊崇といった感情を持つことは容易だった。それが、現代人にとっては難しい。

霊体にとって、畏敬や尊崇の念は、肉体にとってのタンパク質のようなものだ。必須の栄養成分なんだそうな。この栄養が乏しくなった現代人の霊体は、衰弱しているという。 
 


 
現代の文明生活の中では、「畏敬や尊崇の念」を持つことが困難なため、自分で自分に、そのような感情を植え付ける努力をしなければならないらしい。

無理やり早起きして、昇る朝日を拝み、「ありがたや~」と心に念じる。

ビタミン剤を飲んで栄養補給するようなものだ。
  


我や我がものは、真実として捉えられない

2007年12月05日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
ブッダの言葉


 
「弟子たちよ、我(アートマン)や我がものなどは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、我と世界は一つであるとか、我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろうというような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」
 
「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
 
(マッジマニカーヤ 中部経典22)


ブッダは、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」という考えを退けた。

拍子抜けするほど、あっさりと退けた。
 
「まったく愚かな教え」と、一刀両断だ。

ありがたや。合掌・・・・・。
  

汝もまた、信仰を捨て去れ

2007年12月05日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
ブッダの言葉
 


ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、

そのように汝もまた信仰を捨て去れ。

そなたは死の領域(死王が支配する世界=悲苦にさいなまれる煩悩の世界)

の彼岸にいたる(超克する)であろう。ピンギヤよ。
 

(スッタニパータ 1146、中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)
  
 
われわれが法を学ぶ目的は、迷信・俗信から離れることにある。
 
信仰、それは捨てるべきもの。

こらこら、そこのアナタ。せっかく捨てた信仰を、ゴミ箱を漁って拾おうとしてませんか?(笑)
 
ありがたや。合掌・・・・・。
  
 

法を、筏のように乗り捨てよ

2007年12月05日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
晩年のブッダの言葉



比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。

そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。

しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。

そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、

その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。

かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。

すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。

われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。

さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。

なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、

その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、

なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。

悪しきものならばなおさらのことである。


(マッジマ・ニカーヤ 22)
 
 
法とは、絶対のものではない。

「永遠不変の法」なんてものは、ない (もっとも、この点に関しては、釈尊の入滅後に論議を呼んだ・・・)。
 
法を学ぶのは、固定観念の呪縛から離れて、精神の自由を得るため。

学んだ法が、新たな呪縛になってしまったんじゃ仕方ない・・・トホホ。
 
まず、法を学ぶ。

次に、学んだ法を捨てる。

ありがたや。合掌・・・・・。
 
  

自燈明

2007年12月05日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
晩年のブッダの言葉
 

 
アーナンダよ、わたしはもはや老い衰え、老齢すでに八十となった。

たとえばアーナンダよ、古き車が革ひもの助けによって行くがごとく、

そのごとくアーナンダよ、思うに、わたしの身体は、革ひもの助けによって、

わずかに保っているに過ぎない・・・。

それゆえ、アーナンダよ。

なんじらは、これからは、自己を燈明とし、自己をよりどころとして、

他人をよりどころとせず、真理を燈明とし、真理をよりどころとして、

他をよりどころとせず、生きていきなさい。


(ディッガ・ニカーヤ 16:2.25-2.26)


入滅を目前にしたブッダは、弟子たちに諭しました。

「諸君は今まで、私を燈明とし、私を拠り所として、法を学んできた。 私の亡き後は、諸君自身を燈明とし、より所とせよ。 諸君が学んだ法を燈明とし、より所とせよ・・・」
 
釈尊は、知っていた。入滅後、教祖だの霊能者だのが、掃いて捨てるほど登場するいうことを。

そういう、怖いオジサン・オバサンたちに、ついていっちゃダメだよ。

わざわざ、仏弟子たちに、そう警告してくれた。

ありがたや。合掌・・・・・。