宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

お金のいらない国 ~ 長島龍人氏

2014年04月30日 | お金が要らない世界

「お金のいらない国」という本の著者、長島龍人氏は、それからもずっと、「お金のいらない国」というテーマを掲げて活動している。筆者も、ずっと前に、スピ系の友人に「是非、読んでくれ」と言われて読んだ。

これは、まさに理想の社会だ。


>呆然と少し歩き、ふと見ると一軒のレストランがあった。
こぢんまりとした、入りやすい感じの店だった。

>私は急に空腹を覚えた。
ま、とりあえず飯でも食って、それからまた考えるとするか。
私は店のドアを開け、中に入った。
人気のある店らしく、結構混んでいた。

>私はウェイトレスに案内されてテーブルにつき、受け取ったメニューを広げた。
家庭料理風の、うまそうな料理の写真がたくさん並んでいた。
私はつい、ウキウキと迷っていたが、あることに気付いてはっとした。
値段が書いてないのだ。

>しまった。もしかしたらこの店、すごく高いのかもしれない。
そういえば、このテーブルやイスもさりげなくいいものを使ってるみたいだし。
困ったなあ、あんまり持ち合わせがないんだ。
今から出るわけにもいかないしなあ。足りるかなあ。
まあ、いいか。

>そう言えば、この国で日本円が使えるとも思えないし。
最悪、店の人に頼んで待ってもらって、あの紳士にお金を貸してもらおう。
私は恐る恐るあまり高そうでないものを選んでウェイトレスに注文した。

>ウェイトレスはにっこり笑って奥へ引っ込み、間もなく料理を運んできた。
目の前に料理が置かれるやいなや、私は値段のことも忘れて夢中で食べた。

>腹も減ってはいたが、とにかくすごくうまいのだ。
きっと、相当がつがつ食べていたのだろう。

>食べ終わってから、隣のテーブルの白人と黒人の学生風の女の子二人連れが
くすくす笑っているのに気付いた。 
照れくさかったので私はそそくさと席を立った。

>さあ、いよいよ問題の一瞬がやって来る。
果たして、いくら請求されるんだろうか。

>私は店の出口の方へ向かい、レジを探した。
しかし、レジは見当たらない。
仕方がないのでもう一度、中へ戻り、ウェイトレスを呼び止めた。

>「あの…」
「はい、何でしょうか」

>東洋系の、愛嬌のある顔をしたウェイトレスは、愛想良く日本語で答えた。

>「レジはどこですか」
ウェイトレスは、きょとんとしている。
店は結構話し声がしているので、よく聞こえなかったのかなと思い
私はもう一度ゆっくりと繰り返して聞いた。
「レジは、どこですか」

>彼女は困ったような顔をして小声で言った。
「あの、すいません。ここにはそういう物、置いてないんですけど」

>私は呆れた。こいつまで私をからかうつもりなのか。
一体、この国のやつらは何を考えているんだ。
よそ者をからかって、そんなにおもしろいのか。

>私は黙ってウェイトレスをにらみつけた。

>彼女はすまなそうに、うつむいてしまった。
私はちょっとかわいそうな気がして、なるべく優しい口調で聞いてみた。

>「私が食べた料理の値段を知りたいんです。お金を払いますから。
教えてくれないとこのまま帰ってしまいますけど、いいですか」

>ウェイトレスは顔を上げ、不思議そうに言った。

>「あのう、お食事がお済みでしたら
お帰りになっていただいてかまわないのですけれど。
もっと何かお召し上がりになるのでしたら、ご注文くださればお出ししますが…」

>ウェイトレスの表情は真剣だった。とてもふざけているとは思えない。
私の頭は混乱した。ひょっとしたら本当にタダなのだろうか。
ここは、何かボランティアでもやってる店なのか。

>でも、来てる客はそんな、生活に困っているふうにはとても見えない。
全く訳がわからなかったが、私はとりあえずウェイトレスに
にっこり笑って右手をちょっと上げて挨拶し、店を出てみた。

>彼女もにっこり笑って見送ってくれた。後は追って来ない。

>私は狐につままれたような気持ちで、また町を歩き出した。
ほんとにタダだった。
だとすると、あの紳士と飲んだコーヒーも、やはりタダだったのかもしれない。

>なぜだ。なぜ、タダでやっていけるんだ。
その時、私の脳裏に無謀な仮説が浮かんだ。
(ひょっとしたら、この国のものはみんなタダなのかもしれない)

>我ながらとっても無謀な考えだと思った。
後でそのシステムを理論づけることなど
自分にはできっこないという妙な自信まで持ってしまった。

>そんな馬鹿なこと、すべてタダで世の中が成り立つはずはないんだ。


・・・というわけで、この国では、何をやっても、お金がかからない。すべてが、無料で提供されている。

料理店にしても、料理を作るのが好きな人が、ボランティアでやっている。食べた人が喜び、感謝されることが、店主の生き甲斐なのだ。そのために、お店をやっている。

お金は一切、受け取らない。ていうか、もともと、「お金」という概念が、この国には無い。

スピ系の友人いわく、「ある経済学部出身の知り合いに、この本を見せたところ、これは原始共産制の社会だなと言われた」と言う。

「君はどう思う?」と言われたから、筆者は、「いやいや、原始共産制でも、ここまでは行かない。一言で言って、これは、あの世だ。霊界だ」と答えた。

原始共産制というのは、マルクスが唱えた説で、原始人の社会には、貧富の格差がなかった。みんなで海に行って魚を釣ったり、山でウサギやイノシシを狩ったり、森で木の実を拾い集めたりして、何もかも分け合って食べていた。

縄文時代の遺跡を見ても、原始人は、大きなツボを火にかけて、ドングリの実とかをグツグツ煮て食べていた。肉や魚もあったので、かなり良いものを食べていたことが分かる。人口は少なく、自然は豊かなので、なんでも取り放題だ。

それは小さなムラ社会で、村人たちが家族も同然に生きている世界。もちろん、料理店などという高度なサービス業は存在しない。だから、この「お金のいらない国」は、原始共産制とは言えない。

「現代のような都市の文明を捨てて、原始人みたいな小さなムラ社会にすれば、それは可能になる。現在の地球の人口では多すぎるので、かなり減らさなければいけない」というような話をした。

すると、スピ系の友人は、「この鍵を握るものの一つは、ヘンプ(大麻)の活用だろう」と言う。

現在では、大麻は「麻薬であり、危険だから」という理由で、禁止されている。ただし、ヨーロッパの一部の国や、アメリカの一部の州では、禁止されていない。

この大麻は、雑草みたいによく育ち、麻の服も作れるし、食用にも薬品にもなるし、住宅用の建材にもなる・・・という、便利な万能植物だ。これをうまく活用すれば、衣食住が不足するという問題は、大幅に解消される。

確かに、人類が現代の文明を捨てて、自然に回帰していけば、麻の服を着る人が増えるだろう。

いずれにしても、未来の世界では、お金はいらなくなるだろう。どういうプロセスを通って、そうなるかについては、いろいろと考えている。

筆者も、かつては経済学部で貨幣論を学んだこともあるくらいなので、もともと、このテーマに関して、スピ系とは別の角度からの見方をしている。もちろん、話が脱線しすぎるから、ここでそれを展開するつもりは無いけど・・・。

それはともかく、「貨幣こそ諸悪の根源であり、これを無くせば幸せになる」というような、スピ系の過激な意見には、「貨幣」ってものに対する誤解がかなり含まれていると思うし、そのまま賛成は致しかねるんだけど、だからと言って、反対するかって言ったら、そういうわけでもない。そこが、微妙なところ。

実際のところ、「お金のいらない世界など実現不可能だ」とは、まったく考えていない。それどころか、未来の地球は、そういう方向に向かって進んでいくのが自然だと考えている。

(続く)

政府がおカネを配る社会

2014年04月25日 | お金が要らない世界

精神世界には、おカネをトコトン毛嫌いしている人もよくいる。貨幣制度そのものが、「悪魔の発明」みたいに言われているのも、よく見かける。確かに、その気持ちも分かるんだけど、ちょっと極端すぎるかもしれない。

おカネというのは、別に、地球人類を陥れるために悪魔が発明したわけではない。どこの社会でも、だんだん交換が発達してくれば、必ず自然に発生する。

原始人の社会でも、交換されるモノが「イモと魚だけ」とか、そのくらい単純なうちは、「それでは、イモ5本と魚3匹を交換しましょう」という具合に、物々交換でやっていける。

でも、しばらくすると、それじゃ不便になる。交換されるモノが「イモと魚とコメと肉・・・」と、だんだん増えてくると、「何本のイモと何グラムの肉を交換するんですか?」、「魚は要りません。誰か、肉を持ってる人はいませんか?」・・・という具合に、カナリややこしくなる。そこで、貝殻とかコメとか石コロとか、なんでもいいんだけど、何かが交換手段として使われるようになる。「イモは貝殻3個。魚は貝殻5個・・・」という具合に決めておくと、とても取引しやすい。

インターネットの世界では、これをシミジミと実感できる。

2~3年前には、モバゲーやGREEなどのソーシャルゲームが大流行していた(・・・今でも流行ってるのかもしれないが)。ほとんどがカードゲームで、プレイヤー同士が何枚かずつのカードを持ち、強いカードをたくさん持っているほうが勝利する・・・という内容だった。

手持ちのカードで勝負が決まるので、マニアなら、もっと強いカードが欲しくなる。そうなると、マニア同士で「カードを交換しましょうよ」ということになる。でも、カードとカードを直接交換するのは、よほど双方のニーズがマッチしない限り、難しい。相手がたまたま自分の欲しいカードを持っていて、逆に自分も、相手が欲しいカードをたまたま持ってなきゃいけない。これだと、交換取引が成立しにくい。

そこで、ゲームで使われるアイテム、「回復ツール」とか「メダル」とか、そういうのがゲーム内の通貨として使われるようになる。「このカードがメダル120枚とは、高いな。もうちょっと値下げしてくれ」とか、「このカードをメダル70枚で買えるとは、安くてオトクだな。よし、これを買って、90枚で転売しよう」・・・という具合に、日々の取引が行われる。

そんな中で、「このカードは、メダル150枚くらい」とか、「そのカードは、メダル30枚くらい」というような相場が、自然にできてくる。もっと強いカードが新たに出てくれば、古いカードの相場は下がる。メダル120枚くらいが相場のカードを、200枚で売ろうとしても、まず買い手はつかない。そういうときは、値下げするか、もしくは、相場を知らない初心者を騙して売りつけるしかない(笑)。

これは、どんなゲームでも、自然発生的に必ずそうなる。誰が決めるわけでもなく、自然にそうなっていくところが興味深い。

結局のところ、世の中に「おカネ」なんてものが、なぜ存在するのかといえば、ないと不便だからだ。要するに、おカネとは、「便利な道具」だということ。道具である以上、うまく活用すれば、世の中を変えることができる。

それなのに、どうして、おカネがこれほど罪悪視されるのか。なぜ、「諸悪の根源」とまで言われるのか。

それは、世の中に、おカネがなくて困っている人が多いからだ。ものすごく困って、そのために死ぬ人まで出てくるから、問題がある。

その一方では、おカネが余って余って仕方がない人というのも、確実に存在する。しかも、そういう人のところに、おカネがさらに集まってくる傾向がある。これは、シャレにならない問題だ。

筆者の知人にも、毎月、月末が近づくと、どんなに疲れていても銀座のクラブに行く人がいた。というのも、年間所得が何千万円、億単位というような人は、高額の所得税に悩まされている。税金対策のためには、年に1千万円とか、交際費を必ず使わなければいけない。それも、「毎月100万円」とか、決まった額をコンスタントに使っていなければ、税務署は認めてくれない。

でも、忙しい人にとって、交際費を月100万も使うのは大変なことだ。毎晩、パーティーをして過ごすわけにもいかない。だから、月末が近づくと、予算を消化するため、銀座のクラブに行くことになる。「座っただけでウン万円」の高級クラブに行くのだが、仕事で疲れているから、そこで寝る。グーグー眠って、予算を消化する。実際に、そういう人がいた。

オバマ大統領と安倍首相が、銀座の高級すし屋に行って話題になった。ここは、十席ほどのカウンター席があって、メニューは1人3万円~のおまかせコースのみ。しかも、20~30分で食べ終わって すぐに出て行かなきゃいけない。客は、出されたスシを黙々と食べて、会計で3万円を支払って出て行くだけ。1杯300円の牛丼屋と違うのは、「高級だ」ってことくらいだ。

そんな店が、VIPや海外セレブの御用達として有名で、予約がずっと先まで満杯だという。これというのも、上に書いたような、「忙しいけど、交際費の予算を消化しなきゃいけない人」がいるからだ。そんな人にとっては、「打ってつけのファーストフード」なんだそうな。

「おカネは、有るところには有るものだ」とは、よく言われることだけど、まさしく、その通り。

おカネというのは、カチコチに固まっているものではなく、水のように世界を循環している。水みたいなものだから、そこらじゅうで川のように流れている。どこかに池や湖のように溜まっていることもある。世界全体には、膨大な海の水のように存在している。その中から、ホンの少しを引っ張ってきただけで、「お金持ち」といわれるようになる。

おカネは、そのくらい柔軟なものなのだ。だから、柔軟な発想でこれに接すれば、まったく違って見えてくる。

前の記事に書いたような、「政府が、国民におカネを配る社会」というのも、柔軟な発想の一つだろう(笑)。

戦時中は、食糧が不足して、皆がお腹をすかせていた。そういうときは、政府が国民に、食糧を配給する。このように、モノが足りないときは、モノを配る。

でも、今はそうではない。モノが余っている。特に工業製品は、大量に過剰生産されている。作りすぎると売れ残って困るからホドホドに抑えてるだけで、その気になれば、もっともっと、いくらでも作れる。「これ以上は、もう要らないよ」というところまで、作ろうと思えば作れる。問題は、それを買う側に、おカネがない・・・ってことだけ。こういうときは、おカネを配ったほうが効率がいい。

要は、「おカネがなくて困る」という、地球人類の苦悩の原因を取り除けば良いのである。そのためには、「おカネをなくす」のではなく、むしろ逆に、「おカネをバラまく」ことが、解決への近道になるだろう。

世の中は、しょせん「需要と供給の法則」だ。大量にバラまかれたものは、だんだん価値が落ちてくる。おカネのありがたみは、次第に薄れてくるだろう。最終的に「おカネが要らない社会」を目指すためには、このプロセスを通らなければいけない。


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改めて、お金が要らない世界

2014年04月23日 | お金が要らない世界

ずっと前に書いた、「ベーシックインカム」に関する記事に、なんと感想のメールが届いた。ありがとうございます。

ベーシックインカムとは、政府が国民全員に、一定額のおカネを配るという制度。現在は一部の人に偏っている年金や生活保護の制度を、すべての国民に広げるという感じ。

一見すると無理な制度みたいだけど、決して不可能ではない。今でも日本の社会保障費は膨大なものだ。おカネの配り方を変えれば、薄く広く、対象を広げることは十分に可能となる。

これをやると、「人は働かなくなる」とよく言われるんだけど、そんなに多額のおカネにはならないから、心配しなくてOK(笑)。

まあ、それを現実に実行するかどうかはともかく、「おカネがなくても困らない社会」を、そろそろ真剣に考えてみてもいいんじゃなかろうか。

もちろん、世の中には過激な人もいて、一足飛びに「貨幣制度を全廃せよ」と唱える人もいる。でも、いきなり最終目標まで跳躍するのは、さすがに無理というものだ。

まずは、「おカネがなくても、必要最低限の生活は維持できる社会」が目標だろう。デフレが長く続いたおかげで、今でも、低価格なモノが世の中にあふれている。その気になれば、相当に低いコストで生活することが、日本でも可能になってきている。もう、あと一歩という感じだ。

アメリカでは、フードスタンプの配給に行列ができている。農業が盛んなアメリカは、余った食糧をさばくためにも、貧乏な人にフードスタンプを配って、食べるのには困らないようにした。失業者だけでなく、働いているのに食べていけない「ワーキング・プア」も多い。でも、これがあれば、スーパーの売れ残りの食品とかと交換できる。
  

日本でも、わざと夜遅くにスーパーへ行き、賞味期限が切れる寸前で値引きしたお惣菜を狙う人がよくいるけど、それに似ている。「おっ、店員が来て、30%値引きのシールをペタペタ貼ってるな。もうちょっと待てば、半額になるんじゃないか?」という感じ(笑)。
 
こういうのも、デフレだから出来ることだ。

日本では、アベノミクスが実施されて一年余りになる。金融緩和こそ、アベノミクスの肝だ。要するに、通貨を発行する日本銀行が、ジャンジャンとおカネを発行して、世の中に流すということ。

もちろん、インフレの時代にそれをやれば、おカネの価値がますます下がり、物価が上がって大変なことになる。それは、真夏の暑いときに暖房をつけるようなものだ。

でも、今の日本のようなデフレの時代には、きわめて有効な手段になる。真冬の、凍りつくような寒さのときに、暖房をつけるようなものなのだ。そんなときに、冷房をきかせる人はいない。それと同じこと。

でもって、日本銀行が、国債をバンバン買い取る。百兆円でも、二百兆円でも、ドンドン買う。国債は、政府の借金だけど、日本銀行は、なんたって「円」の出ドコロだ。ここに政府の借金を引き受けてもらえば、政府は実質的に、返す必要もなければ、利息を払う必要もなくなってしまう。つまり、その分だけ借金が無くなったも同然。

インフレのときに、これをやったら、とても危険なことになる。それでなくても、やりすぎると信用をなくす。でも、デフレのときには有効だ。

あとの問題は、そのおカネをどうやって国民に配るかということだけ(笑)。

かつて中国では、内陸部の貧しい農民に金券を配り、電化製品を買わせるという手法で、景気が悪くなるのを防いだ。

「世界の工場」と化した中国では、大量の商品が過剰生産されている。アメリカのフードスタンプと同じで、なんとか、余ったモノを国民に買わせたい。でも、貧乏な人が多すぎて、買えない。そこで、おカネを配るのだ。そうすれば、電化製品が売れて景気が良くなる。

これを見て、「さすがは、中国。人口が多いという利点を生かした、斬新な景気刺激策だな!」と感心した人は多かった。

「政府が、国民におカネを配る」というアイデアは、決して突飛なものではない。豊かな暮らしをしたい人は、もっと働いて稼げばいい。そこは、選択の自由というもの。

どの国の例を見ても、「モノが余っている」というのが、この話の前提だ。モノ不足でみんなが困っているような、生産力の低い社会では無理。つまり、生産力が高い、21世紀の世界だから出来ること。ここまで来れば、「おカネが要らない世界」が、地平線の向こうから姿を現してくる・・・。

(続く)

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天命

2014年04月22日 | 精神世界を語る
  
アセンション巡回のついでに、阿部敏郎氏の「いまここ」ブログも見た。ここは、しつこくコピペする人がいたおかげで、すっかり嫌いになってしまったが、読んで参考になった。信者さんたちのおかげで新興宗教が大嫌いになったのと同じ原理だけど、教祖の著書も、読めば参考にはなるのと一緒(笑)。
 
 
>自分の天命って何だか考えたことありますか?

>ソウルメイトはどうですか?

>ソウルメイトと出会って、天命を生きられたらって、そんなこと考えたことありますか。

>ある一部の人はこう思っています。

>いつかそんな出会いがあったら、私の本当の人生が始まる。

>いつか自分に偉大な気づきが訪れ、使命が明確になった時、そこからが人生の本番だ。

>そんな人にとってここからのお話は、やや悲しいお知らせになります。

>あなたの本当の人生はすでに始まっています。

>まさにいまが、人生の本番です。

>本番の意味わかりますよね。

>「お客さん、本番にします?」

>の本番じゃありません。

>人生とはリハーサルがない本番の連続であり、まさにいまが、二度と繰り返されることのない本番なのです。

>あなたはすでに天命を生きています。

>いまの目の前のこの人生が、かげがえのない天命です。

>天はあなたの中で、いまのあなたを体験したかったからあなたを作りました。

>その感情、その考え方を体験したかったのです。

>そしていま、あなたの周囲にいるその人がソウルメイトです。

>70億人の中から選ばれて、あなたのために人生を彩ってくれるその人です。

>たとえその人との関係がどうであれ、その人がどんな人であれ、あなたの魂の成長に必要だから登場してくれています。

>いつか現象界の仕組みが分かった時、その人たちに心から感謝することになります。

(以下略)


これは、確かにその通りだろう。「いつの日か、おのれの使命に目覚める」なんてことは、あり得ない。それは、「時間」がもたらした錯覚であり、幻想にすぎない。

いま生きている、この一瞬こそが、天命だ。

要するに、こんな地球で生きていかなきゃいけないということ自体が、天命そのものなのだ。

別の、日本で1、2を争うメジャーな精神世界ブログ(・・・というより、インターネット宗教)には、「生かしていただいて、ありがとうございます」という人たちがいる。

筆者に言わせれば、こんな地球で生きているのは、一種の罰ゲーム。この先も、まだ当分のあいだ、地球での人生が続くと思うと、トホホの心境だ。どこがアリガタイのか、よく分からないところではある。

もっとも、こればっかりは、誰に文句を言うわけにもいかない。この地球で生きていること。それ自体を、運命として受け入れる。それこそが、われわれの天命なのだ。

この一瞬を生きる。それだけが、われわれの天命。

とりあえず、ありがたや・・・・・合掌。
 
 
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ライトワーカー

2014年04月22日 | アセンション ~ 地球の次元上昇
   
久々に、ネット上でアセンション巡回した。次から次へと、アセンション情報をチェックした。

「もう、アセンションのブームは去った」という人もいれば、「いよいよ、これからだ」という人もいる。

一般的には、「2012年12月21日」という期日であまりにも盛り上がったおかげで、その反動が来ている面もあるだろう。でも、人によっては、そんなの関係ない。こればっかりは、物事を見る角度によるだろう。おそらく、「正直、どっちでもいい」という人が多数派かもしれない(笑)。

それはともかく、ここは、安定のドリーン・バーチューを見ておかないと。「ライトワーカーが持つ癒しの力」というメッセージが載っていた。

ライトワーカーについても、「もう、ブームが去った」という人もいる。でも、これはブームとかなんとか、そういうものではない。この地球に生まれたライトワーカーたちは、まだ生きているのだ。その事実には、なんら変化がない。変化しているのは、地球の環境だ。こちらは、急速に変化している真っ最中。

「ところで、ライトワーカーって何だっけ?」というのが、素朴な疑問だろう。


>ライトワーカーとは、この惑星とそこに住む人々を、恐れが与える影響から解き放つ手助けをすることを自ら選んで生まれてきた人のことをいいます。

>どのライトワーカーも、聖なる目的を持ってここにきています。しかし、地球の生活では、物質的なものに関心が集まるため、多くの場合、ライトワーカーたちは記憶喪失のような状態に陥ります。そうして、自分が神の一部であり、完璧であるという自己認識も失い、地球とそこに住む生きとし生けるものすべてを奇跡的に助ける能力を持っていることさえ忘れてしまうのです。ライトワーカーが、真の自分も、目的も見失うと、どうしてよいかわからなくなり、不安を感じます。

>もしあなたが次のように感じることがあれば、あなたはライトワーカーです。

- 人を癒すのが自分の使命だと感じている。
- 世界の社会問題や環境問題を解決したいと思っている。
- どんな状況もスピリチュアルな方法で解決できると信じている。
- 霊的な予感や、天使との遭遇といった神秘体験を持っている。
- 自分は神のように完璧であるという認識をそこなわせるような過酷な人生に耐えてきている。
- 世界を癒すための第一段階として、自分の人生を癒したいと思っている。

>あなたは、自分の癒しの体験を文章に書いたり、教えたり、助言したりせずにはいられなくなったり、また、高次の目的を持って生まれてきたことに気づく前に、自分の使命を一刻も早く果さなければいけないと感じたりすることがあるかもしれません。その使命が何で、どのようにして遂行すればよいかもよくわからないのに‥‥。


そうなのだ。ライトワーカーは、人々を癒すために、地球に生まれてきたのだ。

そのためにも、とりあえず、自分の人生を癒したい。そう思っている人が大半を占めている。それだけ、地球での人生が過酷だったということだろう。

ライトワーカーには、この地球に生まれて、一種の記憶喪失になっている人が多い。自分の本当の目的とかが、思い出せなくなっているのだ。

そんなライトワーカーたちは、とりあえず、人々にメッセージを伝えようとしている。ブログを書いたり、掲示板にコメントを書いたり、コピペを貼ったり・・・。講演会や、瞑想セミナーをやっている人もいる。中には、右翼みたいに街宣活動している人だって、いるかもしれない。それぞれ、思い思いにやっている。

自分の使命が何で、どうのようにして遂行すればいいのか分からないけど、「とにかく、使命を果たさなければいけない」と感じている・・・というのが、ドリーン・バーチューさんの描く、ライトワーカーの人物像。

そんなライトワーカーたちは、いま、どうしているのか。


>今、この惑星のいたるところで、ライトワーカーたちは、なぜ自分がこの地球にやってきたかを知る、かすかな記憶を呼び戻しつつあります。無視することのできない内なる呼び声を聞いているのです。この呼び声は、物質的な夢をもて遊ぶことをやめて、本来の仕事にとりかかる時期がきたことを知らせてくれています。

>ライトワーカーの多くは、霊的なコミュニケーション能力やスピリチュアルヒーリングの能力など、天性のスピリチュアルな資質を自分のなかに見い出しています。こういった資質は、新しく始まった千年紀の前後数十年間に、地球や人類を癒すために自発的に使うように与えられたものなのです。

>数々の予言が、私たちライトワーカーが地球に到来することを告げてきました。そして、今こそ私たちが聖なる目的を遂行するときなのです。世界の行く末は、私たちにかかっているのです。

>ライトワーカーである私たちが自分の使命を果すのに、既に備えているものに何か付け加える必要などありません。私たちには、十分な資質が備わっています。そのような能力は、まだ使われずに眠っているかもしれませんが‥‥。ただ、その代わり、ライトワーカーとしての能力に自信を持ち、ライトワーカーとして行動することの恐れを解き放つ努力は必要です。ライトワーカーとしての力は、「自我」からではなく、あなたのハイヤーセルフと神からもたらされていることを思い出せば、あなたは自然に、スピリチュアルヒーラーとしての自分の能力を確信できるようになるでしょう。

>意思、考え、精神を集中させれば、どんなことでも癒せます。限界はありません。自分で自分のヒーリング能力に限界を設けさえしなければ。


なぜ、今になって、これが目に留まったのか。それには、理由がある。

それは、「意思、考え、精神を集中させれば、どんなことでも癒せます。限界はありません。自分で自分のヒーリング能力に限界を設けさえしなければ・・・」という下りを見て、「う~ん、その通りだな」という実感がわいてきたから。

最近は、「思考を停止して、意識を集中する」という修練が、かなり進んできた。そうなると、この意識状態なら、たいていのことは実現しそうな気がしてくるから不思議なものだ。いつもの見慣れた物質世界が、なんだか違って見えてくる。

「意識のパワーを、レーザービームのように増幅する」と何度も書いてるけど、これは本当の実感。余計な雑念は、そのパワーが発現するのを、明らかに妨げている。

だからといって、ここ数日で、コンサル星人(こっくり)が、なにか奇跡を起こしたってわけでもないのだが・・・(笑)。

      
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観察する瞑想で、知覚を拡大する

2014年04月21日 | ヴィパッサナー瞑想
スザンヌ・リー

スザンヌ・リーさんという人が、観察の瞑想の意義について、シンプルに解説している。RIEKOさんの翻訳もアチコチでコピペされてネット上に流布している(元ネタのリンク不明)。


>多次元マインドを三次元脳に合わせて調整を行うと、私達の意識、つまり知覚は大きく拡大します。

>私達の拡大知覚が目覚めると、身体の五感の限界によってとどめられていた大量の情報が表面化して私達の気づきに現れ、現実が透明化します。

>日常でこの「全てを知っている」状態にいると、制限や分離といった残存している幻想が解体してゆきます。

>日常で私達が特別な才能を発揮するように、拡大した知覚は強化され、日常意識にオンライン化します。

>こういった拡大知覚は、私達の真なる多次元的本質が元々持っているものです。

>それが理解できず、恐怖心から判断を下す人々が出てきます。

>このように他人から判断を下されることがなければ、多くの人々が拡大知覚を隠すこともなくオープンに使うことができることでしょう。

>幸い、どんどん人々は目覚めていますので、そういった判断が下されることが少なくなってきました。

>ですから私達の中からこの新たに活性化された、この長らく隠されていた知覚能力を使う人が増えてきています。


これによると、スピリチュアルな目覚めとは、「知覚の拡大」なんだそうな。日常生活で使っている五感とは異なる、拡大された知覚。いままで、超能力とも、観自在力とも言われてきた能力だ。

それによると、この新たな知覚は、自分の身体の中の微細な感覚を、念入りに観察することで得られるらしい。

「新たな知覚を得る」というより、むしろ逆で、「もともと持っていた、古い知覚を思い出す」という感じ。


>この生来持っているサイキックな知覚を取り戻す一番の秘訣は、私達のマインドやハート、身体の内で囁きかけてくる静かで小さな声に耳を傾けること。

>私達は聞き、見、感じ、匂い、触れるものについての情報を得るために肉体の五感を使います。

>そして高次意識の拡大した振動に共鳴する情報についても、肉体が教えてくれます。

>覚えておいてください、私達は単に意識を上昇させるのではありません。意識を拡大させるのです。

>意識、思考、期待、知覚を拡大させると情報がやってきます。
 
  
  
・・・これは、実にシンプルに要点がまとまっている。
  
「念入りに観察する」ったって、なにが目的でそうするのかは、なかなか分かりにくい。

ここでいう、「私達のマインドやハート、身体の内で囁きかけてくる静かで小さな声に耳を傾ける」というのは、まさに、そのものズバリという感じだ。

「静かで小さな声に耳を傾ける」ためには、まず、まわりでワイワイガヤガヤ言っている、周囲の雑音を封じなければいけない。思考を停止するのは、そのため。意識の中では、「思考」こそが、おしゃべりの雑音なのだ。だから、まずは、それを止める。
 
そうすると、「静かで小さな声」が、かすかに聴こえてくるようになる・・・。それによって、眠っているサイキックな聴覚を呼び起こす。
 
サイキックな感覚というのは、肉体の五感のように粗雑ではなく、とても微細なもの。だから、真昼のまぶしい太陽の光に隠れて、いつもは夜空の星が見えないように、ふだんは眠って使えなくなっている・・・というのが、ルドルフ・シュタイナーもしきりに強調するところだった。
 
ここは、ギラギラする太陽を、いったん地平線の向こうに沈めなければいけない。つまり、日常の強力な思考とか感情とか、その他もろもろを、いったんは消し去ってしまう。夜空にまたたく美しい星を探すのは、それからだ・・・。
 
「観察する瞑想」というのは、ひらたく言えば、そういうことでした。
 

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マインドフルネス瞑想 その3

2014年04月21日 | ヴィパッサナー瞑想
    
アメリカで広がっている「マインドフルネス瞑想」は、日本で「ヴィパッサナー瞑想」として数年前から流行しているものと、内容がだいたい一緒。創始者はアメリカ人だけど、日本の禅、とくに鈴木大拙の影響を受けたという。
  
ただし、アメリカでは、どちらかといえば「心理療法」として注目されているようだ。つまり、ウツ病とか、パニック障害とか、そういう人がアメリカには多いので(・・・まあ、それはアメリカに限ったことじゃないが)、それを瞑想によって治療する。
  
クスリに頼った精神医学には、限界と副作用がある。これは、たしかに注目すべき動きだろう。
  
もっとも、それだけではない。大学や企業で導入されているのは、集中力や注意力を強化して、ビジネスマンとしての能力を高めることを重視している。つまり、単なる「ストレス解消」というようなものに限定されるわけではない。こうした人々は、もっとポジティブに、プラス効果を目指している。
    
スポーツが、身体の鍛錬に役立つことは広く知られている。勉強が、知性の鍛錬に役立つことも、同じようによく知られている。
  
それに比べて、瞑想が意識の鍛錬に役立つことは、あまり認識されていない。どうも、「世捨て人が洞窟の中でやること」というような、浮世離れしたイメージが強いようだ。
    
瞑想の意義が広く知れ渡ってくれば、世の中は大きく変わるだろう。精神世界関係者が活躍する場も、ずっと広がるに違いない。「瞑想療法士」なんて認定資格を作ったところもあるみたいだけど、それが国家資格になるのは、いつの日か・・・(笑)。  
    
  
具体的にどうするのかについては、いろんなやり方があって、ひとつではない。あるサイトに載っていたやり方では、

>(1)手を前で合わせて合掌のポーズをとります。

>(2)鼻からゆっくり4秒程、息を吸い込みながら、合掌したまま手を上に押し上げていきます。

>(3)下腹部に力を込めて、両手は、上げたままで7秒程息を止めます。吸い込んだ息を全身に放散させる感じをイメージしましょう。

>(4)肺に残っている息を全部吐き切るようなイメージで、両手を広げ、8秒程かけてゆっくり下ろしながら、息を吐きます。

>(5)(1)~(4)を2~4分程、毎日繰り返します。


・・・だそうな。なんだか、ヨガの呼吸法(プラーナーヤーマ)の教科書の、最初の1ページ目に載っているような内容だ。ほかにも、いろんなところがやっているけど、だいたい似ている。それだけ、基本が大事ということだろう(笑)。

どちらにしても、なんたってメインとなるのは、「呼吸」。
 
呼吸に意識を集中することにより、雑念を排除し、過去も未来も忘れて、「いま」という一瞬に意識を集中する。 

ここで重要なのは、「継続は力なり」ということ。

瞑想しているときは、「いま」という一瞬に意識を集中することができても、日常生活に戻れば、また元に戻ってくる。地球で暮らす者の日常生活は、過去のことを忘れたり、未来の計画を立てなくても生きていけるようには出来ていない。

そこをどうするか・・・というところで、マジメな人ほど悩むわけだけど、それは「当たり前」と割り切るべきだろう。

トレーニング・ジムで筋肉トレーニングをしたり、肉体労働で汗をかいたりすれば、身体は確実に強化される。重いモノを持ち上げられるようになるし、フットワークが軽くなって、身体がよく動くようになる。

でも、日常生活に戻れば、すぐ運動不足になる。職業でやってれば別だけど、そうでない場合、普通は運動不足になる。そうすると、だんだん身体がなまってくる。とことん鍛えたスポーツマンほど、いったん運動不足に陥れば、かえって劣化するのが早いということも知られている。
 
さて、どうするか・・・というわけなのだが、「また、運動する」という以外の答が、そこにあるだろうか? 

せっかく鍛えた身体が、運動不足でなまってきたら、また運動して鍛えるしかない。それでもまた、なまってきたら・・・。またまた、運動する。それ以外に、どうすることもできないのである。
 
それと同じで、せっかく瞑想で向上した意識が、日常生活でまた元に戻ってきたとしても、それに対する対策は、「また、瞑想する」という以外にない。

「それじゃ、いつまで経っても同じことじゃないの?」と思うところだけど、そうとも限らない。

トレーニングや肉体労働も、ずっと続けていれば、だんだん身体そのものが変化してくる。何ヶ月もたてば、やってない人とは、歴然と違ってくる。何年かたった頃には、「たくましいね!」といって感心されるようになるのは請け合いだ。 

それと同じように、瞑想による意識のトレーニングも、1回や2回やったくらいじゃ、すぐ元に戻るのだが、継続していれば、歴然とした違いが生じる。やがて意識そのものに大きな変化が起きてくる・・・。
 

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マインドフルネス瞑想 その2 ~ 観察する瞑想

2014年04月13日 | ヴィパッサナー瞑想
   
「集中する瞑想」の次は、「観察する瞑想」、または、「気づきの瞑想」ということになる。
 
集中する瞑想は、「サマタ瞑想」。それに対して、観察する瞑想は、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれる。
 
日本の仏教で、「止観」といわれているのも同じ。この場合は、「止」が集中する瞑想で、「観」が観察する瞑想。この2つを合わせたのが、「止観」。

この「止観」を見て、遠いスリランカから訪れたスマナサーラ長老も、「日本には、インドの仏教の本来の形が、意外なほど残っている」と、ビックリして感心することしきり。守り続けてきた千年の法灯は、ダテじゃなかった。ありがたや・・・合掌。
 
もっとも、この「サマタ瞑想」と「ヴィパッサナー瞑想」の2つがどう違うのかは、あまり深く考えなくてもいいみたい。たいていの場合、「まずは、意識を集中しましょう」と言って、そのまま、「次に、気づきの瞑想に入りましょう」というような調子で、切れ目なく連続している。その上、「ヴィパッサナー瞑想」という名前のほうが遥かにポピュラーなので、最近は、この2つを引っくるめて、全部をそう呼ぶことが多い。
 
前回の「なぜ、集中力を強化する必要があるのか?」に続いて、「なぜ、注意力を強化する必要があるのか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。
 
それに対する答は、「しっかり観察するため」ということになる。
 
仏教には、弟子が守るべき基準として「八正道」(はっしょうどう)というものがある。この八つの項目のうちの七番目が、「正念」(しょうねん)。
 
この正念について、かつて某宗教の教祖は、「正しい方向に向けて、念力をかけること」と解説して、仏教関係者をあきれさせたものだった。これでいくと、ユリ・ゲラーのスプーン曲げは、「正しい念力」だったのかな?
 
残念ながら、「正念」というのは、「念力」の念ではない。どちらかといえば、「念入りに準備しました」とか、「大事な書類なので、念には念を入れてチェックしましょう」というようなときの、「念」に近い。つまり、しっかりと、細部にいたるまで観察しましょう・・・ということ。

  
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

その延長上に、意識の覚醒がありますよ・・・ということになる。

まあ、確かに、眠っているときと、目覚めているときの意識の違いを考えてみれば、普通は、眠っているときのほうがボンヤリしていて、目覚めているときのほうが、ハッキリ・クッキリしているものだろう。中には「睡眠学習」が得意な人もいて、「ボクは、眠っているときのほうがアタマが冴えてるんだ」ということもあるかもしれないが、普通は、そうではない。

注意力を強化し、ひいては、観察力を研ぎ澄ませていくこと。それが、覚醒した意識へとつながっていく。


ところで、「観察」の反対語は何か?・・・という質問を受けたら、どう答えるべきだろう。
  
というのも、小学校の国語のテストには、「反対の言葉はなんですか?」というような問題がよくある。「利益」の反対は、「損失」。「勝利」の反対は、「敗北」・・・といった、よくあるタイプの問題。このあたりまでは分かりやすいんだけど、「戦争」の反対が「平和」とか、「感情」の反対が「理性」とか、「ホントにそれが反対なのかよ?」とツッコミたくなるものもある。

瞑想の世界だと、「観察」には反対の言葉がある。それは、「判断」。

たとえば、建物を見ていて、「なんだ、このボロい建築は。さっさと建て替えないと、震度3でも倒壊するぞ」・・・というようなのは、判断。そういうものを交えず、ただひたすら、あるがままに見るのが、「観察」。

犬がワンワン吠えていたり、赤ちゃんがウエーンと泣いている声を聞いて、「うるさいな」とか、「かわいいな」と思うのが、判断。ただひたすら、あるがままに聞くのが、観察。

精神世界ブログを読んでいて、「なんだ、このブロガーは。アタマ大丈夫なのか?」というのも、判断だ。「これは、良いコメントだ!」というのも、判断。
 
そうした一切の判断を交えず、ただひたすら、あるがままに受け入れるのが、「観察」ということになる。ただし、それを実行するのは難しい(笑)。
 
ルドルフ・シュタイナーの「いかにして超感覚的認識を獲得するか?」という本にも、「一切の判断をまじえない読書」というのが、有効なトレーニングとして強く推奨されていた。つまり、本とか新聞を読んで、その内容を、「正しい」とか、「まちがっている」とか、そういう判断を一切しないという訓練を、意識的に行うというのだ。
 
ここを押さえておかないと、正しい観察はできない。主観を放棄して、一切の判断を交えない・・・というのが、観察する瞑想者の目標。
 
 
(つづく)
 

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マインドフルネス瞑想 その1 ~ 集中する瞑想

2014年04月11日 | ヴィパッサナー瞑想
  
アメリカの企業や大学で取り入れられている瞑想は、「マインドフルネス瞑想」と呼ばれる。これは、「集中力と注意力を強化する瞑想」 。

「マインドフルネス」という英語には、ピッタリする日本語の訳がない。普通は「気づき」と訳される。でも、「自覚、集中、覚醒・・・」とか、そういう意味を含んでいる。これじゃ意味がわかりにくいかもしれない。

マインドフルネスの反対は、「注意力と集中力が欠如している、ぼんやりした状態」のこと。マインドフルネスとは、要するに、それとは反対の状態。
 
古代インドの昔から「サマタ瞑想」と呼ばれてきた瞑想と、とてもよく似ている。・・・ていうか、元ネタが「サマタ瞑想」のは明らか。キリスト教文明のアメリカでは、こういう仏教的なモノが、妙に歓迎されたり、逆に反発されたりする。その点、日本とは文化的な土壌が異なる。
 
とはいうものの、専門家によると、「瞑想は、マインドフルネスを実践するための手段のひとつにすぎない。瞑想のほかにも、いろんな手段がある」ということなので、マインドフルネスといっても、必ずしも瞑想とは限らないみたい。要するに、マインドフルネスとは、集中力と注意力を強化すること。

これは、うつ病の治療にも使われる。瞑想は、心の安らぎにつながる。うつ病に効果があるのは、確かだろう。でも、もっと直接に効果があるのは、注意欠陥・他動性障害(ADHD)の治療だろう。
 
ADHDは、病気ではない。単に、注意力と集中力が欠如しているだけだ。だけど、人間が日常生活を送る上では、大きなハンデになる。たとえば、山手線や大阪JR環状線の電車に乗るとき、しょっちゅう逆方向の電車に乗ってしまったり、しかも乗り過ごして引き返したり。あげくのハテは、電車の中で切符をなくして、ゴソゴソと探してみたり・・・。筆者も、かつては、これに悩まされたものだ。

何かひとつのことに向かって意識を集中することにより、極度の精神統一を図る。これは、古来から「サマタ瞑想」と呼ばれ、インドでは「ヴィパッサナー瞑想」と並ぶ、2大瞑想のひとつとされている。ADHDの人は、言ってみれば、スタートラインより50mくらい後にある地点から走り始めるようなもの。大リーグボール養成ギプスをつけて投球練習する星飛雄馬(・・・ちと古いか)みたいなもので、それだけに収穫も大きい。
  
 
・・・と、まあ、理屈をひととおり並べてみたわけだけど、なぜ、「集中力を強化することが必要なのか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。

世の中、意識を変える「気づき」の話は、いくらでもある。たとえば、精神世界の指導者の話を聴きに行き、「過去も未来もありません。いま、ここが全てなのです」と言われて、「なるほど!」と、目からウロコが落ちる。それで、悟ったような気になるのはカンタンなんだけど、多くの場合、それは「意識の覚醒」ではなく、「気分の変化」でしかない。

精神世界の話を聞いて、悟ったような気分になったところで、時間がたてば、いずれ元に戻る。スポーツと同じで、精神世界も、他人の話を聞いたくらいじゃ足りない。それを自分のモノにするためには、「訓練」が欠かせないのだ。
 
太陽光線も、そのままでは、「ポカポカと暖かいなあ」という程度でしかない(・・・まあ、真夏とか熱帯なら、かなり熱いけど)。白い紙を、外に置いておくと、変色して茶色になる。その太陽光線を、虫メガネで一点に集中すると、その中心は白銀に、まばゆく光り輝く。やがて、紙はメラメラと、炎を上げて燃え始める。

それと同じように、人間の意識が持つパワーも、マインドフルネスによって、強烈に増幅される。世間の一般人の平均的な意識とは、そのへんの蛍光灯と、レーザー光線ほどにも違ってくる。
 
重要なのは、「いま、ここ」という一瞬に、全力を集中すること。過去の反省とか、未来への希望とか、そういう余計なモノを付け加えることなく、自分の全存在を賭けて、いまという一瞬に完全集中する。まるで、剣豪・宮本武蔵の真剣勝負みたい。
 
意識を覚醒するためには、こうやって、レーザー光線のように、意識パワーを増幅することが欠かせない。

言うのはカンタンだけど、すぐには出来ない。訓練だから、時間がかかる。

たとえば、他人の話に、一心不乱に耳を傾ける。たとえ、いつも同じ話をするグチっぽい人であろうとも、幼児やオウムの片言であろうとも、じっと集中して聴く。

いつもと同じ、駅と自宅との往復であろうとも、意識を集中して歩く。そうすると、予想外に多くの気づきがある。「人間というのは、日頃は、周囲の景色や音声といった、情報の1割くらいしか取り入れていない。残りの9割については、無意識にシャットアウトしているんだな」ということが、よく分かる。

古代インドの昔から、しばしば推奨されてきた手法は、「自分の呼吸に意識を集中する」ということ。

鼻から出たり入ったりする息に、意識を集中する。「1、2、3、4・・・」と、ゆっくり息を数えてみたり。なんの意味もないものだから、雑念が起きない。スマナサーラ長老たちがやっている「ヴィパッサナー瞑想」のセミナーでは、「息を吸ってます。いま、吐きました」という風に、実況中継したりする。

やり方はいろいろあるだろうけど、意識を集中することに変わりはない。

「いまという一瞬に集中する」というと、マジメな人ほど、「いま現在、取り組んでいる仕事や勉強に一生懸命、取り組むことだ」というような意味に取りやすい。でも、むしろ逆に、そういう社会的に有意義なことよりも、「鼻から出たり入ったりする息」というような、意味のないことに集中したほうが、より効果が高いのである。

「いまという一瞬に集中する」というのと、「いま、やっていることに集中する」というのとは、似てるけど、ちょっと違う。何かに取り組んでいる必要は、特にない。むしろ、一番いいのは、何もせず、ジッとしているときだろう。

(つづく)


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アメリカの企業で、瞑想が導入されている

2014年04月10日 | ヴィパッサナー瞑想
  
アメリカは、やっぱり世界最先端の地だ。いまさらアメリカを称賛したところで、どうなるってものでもないけど、いまの地球で文明が最も進んでいるのは確実で、そこは認めるしかない。

海外ドラマ・ファンの筆者にとっては、ドラマを見るたびに、それをシミジミ実感する。韓国ドラマや台湾ドラマを見たあとで、アメリカのドラマを見ると、現代モノでも、まるでSFみたいに感じられる。学校も、職場も、病院も・・・。いろんな面で、ほとんど未来社会のような印象を受けるのだ。もちろん、どこの国でもドラマと現実は違うから、そこは均等に割り引くしかないんだが(笑)。でも、おおむね、当たらずとも遠からず。
 
そんなアメリカでは、企業に、瞑想を導入する動きが広がっている。

特に、西海岸のIT企業では顕著なようだ。もともと、かの高名なる故・スティーブ・ジョブズを初めとして、この手の企業を創業する人たちは、いわゆる「ヒッピー文化」みたいなものに染まっている。これは、ニューエイジャーの領域。インド人の導師の下で瞑想したりとか、もともと、そういうことが大好きな人たちだ。

いま、最も注目されるIT企業といえば、やっぱり、グーグルだろう。グーグルのアンドロイドは、世界の多くのスマホやタブレットに搭載されている。急速に普及するタブレットは、ノートPCに並ぶ勢いで、長らく君臨してきたマイクロソフト・ウィンドウズの天下を脅かしている。ビル・ゲイツの片腕として有名なマイクロソフトのバルマー元社長も、「10年前に戻れるのなら、やり直したい」と、妙に弱気なことを言ってるらしい。これから、ウィンドウズは、マウス中心の入力方法から、タッチパネル中心の操作へと切り替えていくんだとか。

そんな、動きが激しいシリコンバレーのIT業界。いつもスピード違反で暴走しているような、なんともキツい世界だ。強烈なプレッシャーとストレスがある。だから、心の安らぎが必要。
 
そこで、瞑想というわけだろう。
  
グーグルでは、「マインドフルネス瞑想」の社内セミナーが、定期的に実施されているらしい。マインドフルネス瞑想ってのは、注意力と集中力を強化する、「気づき」の瞑想。本ブログでもたびたび取り上げてきた「ヴィパッサナー瞑想」と、呼び名は違うけど、まあ、内容はだいたい同じようなものと言ってよい。

マインドフルネス瞑想については、また改めて取り上げるとして、注目されるのは、グーグルを初めとする多くの企業で導入されていること。

ハフィントン・ポストの記事によると、

>Google社やデパートチェーンのTarget社、そして大手食品メーカーGeneral Mills社に共通するものは何か、ご存知だろうか。

>それは瞑想だ。

>東洋を起源とする瞑想の技術、「マインドフルネス」(気づき)のトレーニングを導入する大企業が増えている。
 

グーグルでは、「自分の心をなかを検索する(Search Inside Yourself)」と名付けられたマインドフルネスのコースを実施し、これまでに1000人以上の従業員が受講しているという。

D.I.Y (ドゥー・イット・ユアセルフ)ならぬ、S.I.Y (サーチ・インサイド・ユアセルフ)だ。

ワールド・ワイド・ウェブの中を検索する代わりに、自分の心の中を検索するというわけ。

ニューヨーク・タイムズの記事(英文)によると、この瞑想コースを始めたのは、Chade-Meng Tan という名前の、シンガポール人だそうな。

シンガポールで生まれ育ち、アメリカ西海岸の大学を卒業したTan氏は、創業まもないグーグルに入社し、厳しい荒波の中を生き延びてきた。そんな中で始めた、マインドフルネス瞑想のトレーニング・コース。受講者の口コミで広がり、すでに1000人以上の社員が受講した。いまも、ウェイティング・リストはいっぱいだという。

さらに、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事(英文)によれば、欧米のいくつかの著名な大学の、MBA(経営学修士)コースで、マインドフルネス瞑想が取り入れられている。

瞑想には、意識を覚醒させる効果があるのは、もちろんなんだけど、それだけでなく、現実世界を生きる上でも、まちがいなく高い効用がある。

世間の一般人は、スポーツで体を訓練することや、勉強で頭を訓練することの重要性については広く認識している。でも、瞑想によって心を訓練することの重要性までは、まだ十分に認知されていない。

「瞑想」ってものに対して、あまりにも浮世離れしたイメージを持っている人が多い。

でも、マインドフルネス瞑想をやれば、集中力や注意力を初めとする、日常生活を送る上でも重要な能力が、確実に強化されるのは請け合い。見落とされがちだけど、そこは重要なポイントだ。
  
筆者も、もっと前からやっていれば・・・と後悔することしきり。というのも、人間が日常生活を送る上で大切な、集中力や注意力その他が、かつては、とても不足していたからだ。そのせいで、この人生における苦労がどれだけ増えたかは見当もつかない。もっと早く、瞑想トレーニングの重要性に気づいていれば、人生がまったく違うものになったことだろう。いまさら言っても仕方がないことだけど・・・(笑)。
 
(つづく)
  

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