宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

「人間五十年」のマイケル・ジャクソン

2009年06月30日 | こっくり亭日記
  
あのマイケル・ジャクソンが急死して、世界中が騒然としている。なにせ、「スリラー」は全世界で一億枚を売り上げたのだから、スケールが違うスーパースターだ。
  
久々にyoutubeで「スリラー」のビデオクリップを見た。「80年代、家庭用VTRの普及に大きく貢献した」とされる、その後のミュージックビデオ全盛期を築いた記念碑的作品だ。「ホラー映画みたい」とよく言われる演出だが、筆者は、かつてケーブルテレビでよく見てたアメリカのドラマ「吸血鬼ハンター・バフィー」を連想した(知らないか・・・)。それにしても、あの歩き方は、いま見ても新鮮。さすがに、スーパースターは動きのキレが違う。

死因がナゾめいているのも、話題を呼んでいる。「気がついたら、呼吸が止まってた」という感じ。まったく、「宇宙人が宇宙に帰った」と言わんばかりの最期だ。

享年50歳。現代人としては早すぎる逝去ではあるのだが、昔は「人間50年」だったわけで、幼少の頃から高密度な人生を送ってきたことを思えば、十分に生き切ったと言えるだろう。

「人間50年」といえば、織田信長。強大な今川義元に攻め込まれ、盟友・浅井長政に裏切られ、強敵・武田信玄に攻め込まれ・・・。最後は明智光秀に裏切られたわけだが、もともと、いつ死んでも不思議はないハイリスク人生。たまたま、それが最後に当たったというところだろう。
 
ナポレオンもまた、51歳で世を去った。ナポレオンも、銃弾が飛び交う戦場で、体を張って指揮していた。銃弾が雨あられと飛び交っているのだから、たまたま運良く生き延びたとしても、何度も戦場に出ていれば、いつかは弾が命中して命を落とす。それが、あの時代の戦争だった。ナポレオンは幸運にも幾多の戦場を乗りきったものの、最後は島流しとなり、南大西洋の小島で息を引き取った。マイケル・ジャクソンと同様、死因がナゾめいている。
 
命を燃焼しつくした大英雄にとっては、「人間50年」が節目なのか・・・。もっとも、寿命が長くなった現代においては、基準が違うとも言える。よく言われることだが、落語に出てくる江戸時代のご隠居は、40代が多かった。つまり江戸時代には、40歳が隠居する年齢。今じゃ考えられない。当時の50歳は、今の70歳くらいなのだろうか??
 
関係ないけど、かつて、三島由紀夫は42歳で自決した。その理由はいろいろと語られているが、三島由紀夫が晩年に書き残したものなどを見た限りでは、「これ以上、トシを取りたくなかった」というのが、実は最大の理由ではなかったかと思われる。最後の作品「豊穣の海」四部作は、主人公が、生まれ変わるたびに二十歳でこの世を去り、次の巻で再び生まれ変わるという内容。美しく死ぬためには、若くなければならぬ・・・という、三島独特の奇妙な美学だ。特に、第一巻「春の雪」の主人公・松枝清顕の死は、ホレボレするほど美しい。三島が書き残した書簡によると、アラフォー年代は、美しく死ぬためのタイムリミットなんだそうな。これは厳しい。筆者もそろそろ、世を去らねばならない年齢圏ということになる。まだやり残したことが多いので、勘弁してもらいたい(笑)
 
それを思えば、マイケル・ジャクソンも、美しく世を去っていった、ということか(三島美学からすれば、ちょっと年齢オーバーだけど)。アーティストにふさわしい人生とも言える。まして、マイケル・ジャクソンの場合は、どちらかといえば「歌手」というより「ダンサー」に分類されるべき人。ビジュアル勝負で、本人も整形手術を繰り返していただけに・・・。
 
だが、芸術家は老境に入って芸に磨きがかかり、至高の境地に達することがしばしばある。それを思えば、早世は惜しい。今後は、再生医療が急速に進歩することが予想される。整形手術が大好きなマイケル・ジャクソンにとっては、皮膚を張り替えたりとか、いろんな若返り技術を試す楽しみが広がったことだろう。それを見れば、三島由紀夫の考えも変わったのではないだろうか・・・。 
  

風水のせいで大損した? 台湾のギャンブラー

2009年06月12日 | こっくり亭日記


AFPニュース


ラスベガスのカジノで、ある台湾人が200万ドル(2億円くらい)も大損した。驚いたことに、その原因は、風水にあるという。

カジノ・ホテルに泊りがけでギャンブルに打ち興じていた台湾人は、宿泊したスイートルームの壁に1メートル四方の穴が開いており、それが黒い布で隠されていたことや、スイートルームの前にも2枚の白いタオルが掛かっていたことを問題視している。いわく、「中国人は、黒と白の布は家族が死んだときにしか部屋に掛けない。普通の人にとってもタブーなのだから、ギャンブラーにとってはなおさら」だそうな・・・。

さらに、この部屋に向かい合う大きなファン2台をまわしたことも、風水に影響したと訴えている。どうやら、扇風機で空気をかき回したことが、気の流れを悪くしたようだ。
 
それまでは40万ドル(約3800万円)も勝っていて順調だったのに、この悪い気の流れを発見した途端、200万ドルのマイナスに負け込んだというから、たしかに深刻。「風水を悪くされた」という理由で、裁判が起きかねない状況になった。カジノ・ホテルの側は、現金で10万ドル(約950万円)の返金と、同額のカジノ用チップの贈呈には応じると約束したというから、責任は感じているということなのか・・・。
   
日本人同士のマージャンでも、「流れの悪い場所に座ってしまった」という話になることはよくある。席替えで、「アイツが座ってた場所かよ・・・」と顔をしかめる場面だ。だが、泊まったホテルの気の流れが悪かったとは、日本人ならさすがに言わない。
 
これからは、ラスベガスでも、モナコでも、風水には要注意だろう。世界のギャンブル界を席巻する、さすらいのギャンブラー民族。中国文明圏の膨張とともに、風水が世界に影響を及ぼしつつある・・・。
 

輪廻転生の終焉

2009年06月08日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
お釈迦さまは、「輪廻転生が発生する原因と、それを終わらせる方法」を、何十年もの歳月をかけて、われわれに指導してくれた。なんとも、ありがたいことだ。

仏教において(というより、インド哲学において・・・)、輪廻転生は、はてしなく広がり続ける、迷いと苦しみのチェーン展開みたいなもの。「人生は明るく楽しいので、ボクは何度でも繰り返したい」と考えているような修行者は、残念ながらいなかった。かといって、「我々は、地球で厳しい魂修行を重ねることにより、永遠に進歩発展向上していくのだ」というような、輪廻転生を前向きにとらえる発想もまったくなかった。

仏教において、輪廻転生は、単に長くて苦しいだけ。無明(むみょう・・・まっ暗で、何も分からないこと)が原因で、それは延々と続く。目を覚ませば、それは終了する。

輪廻転生の終焉、つまり、「どこにも生まれ変わらない」というのが、人間として最高の幸せ。「天国に生まれ変わる幸せ」というのも素晴らしいのだが、どこにも生まれ変わらないのは、それすらも上回る幸せだ。

これを見て、「人生はそこまで苦しくないよ? 確かにツライこともあるけど、楽しいことも一杯あるじゃないの。働いたり、遊んだり、結婚して子供を育てたり・・・。生き甲斐は、いろんなところにあるものさ」と言う人もいるだろう。

確かに、その通り。かの高名なロバート・モンロー氏も、体外離脱して出会った高次の存在から「輪廻転生からの卒業」の話を聞かされたとき、そのように言ったという。

ところが、高次の存在によれば、それは錯覚であるらしい。というより、「そのように錯覚させることによって、延々と輪廻転生を続けさせる」というのが、地球生命系にビルトインされたシステムなんだそうな・・・。現代人も、大半がその罠から抜け出せずにいる。
 
どうやら、お釈迦さまも、それに近い考え方だったようだ。「魅力あふれる美女が、腐乱死体になって、白骨になる姿をイメージする瞑想」とかを、弟子たちに一生懸命やらせていた。輪廻転生を終わらせるため、人によってはまず、「この世は楽しいところじゃないんだ」と思うところから始めなければならない(笑)。
 
ブッダがアチコチで有名な師匠を訪ねて修行していた頃、修行者たちは皆、「輪廻転生を終わらせるにはどうしたらよいか」を、一生懸命に探究していた。

古代インドは、輪廻転生思想の本場。日本の新興宗教の教祖には、「ブッダは古代インドにおいて、『あの世はある。人は生まれ変わる』ということを人々に教えたのです」という人を見かけるのだが、それはまったく事実に反する。古代インド人たちにとって、輪廻転生は当たり前の常識であり、誰にとっても前提となるスタートラインにすぎなかった。「何が原因で輪廻転生は起こり、どうすれば終わらせられるのか」というのが、彼らの探究対象。ブッダも、そのラインに乗っている。

「どうやら、煩悩を滅尽すれば輪廻を終わらせられるようだ」というところまでは、すでに先人がたどりついていた。煩悩とは、食欲・性欲・金銭欲とか・・・その他もろもろの欲望とか。

それを実現するために、「一切の思考を止めて、完全なる無念無想の境地になる」という修行のメソッドも、ある高名な師匠によって確立されていたという。ブッダはさすがに優秀で、あっという間にそれをマスターした。でも、さんざんやってみたけど、「これじゃ何かが足りない・・・」という違和感を抑え切れなかったという。どうやら、「一切の思考を止めて無念無想になった」というだけじゃ、まだダメらしい。

その後、紆余曲折を経て、ブッダは気づいた。「輪廻転生が発生する、本当の根本的な原因」に気づいた。

それを一言で言えば、「根源的な生存欲」だということだ。

食欲・性欲・金銭欲・・・その他もろもろの欲望の奥、さらに一段と深い奥底には、根源的な生存欲がある。あまりにも我々の意識に深く刻み込まれているが故にふだんは意識することもない、生存への執着。「生きていきたい」という、あらゆる存在者が持つ根源的な本能だ。
 
古代インド思想と近代ドイツ哲学を統合した異色の哲学者・ショーペンハウアーに言わせれば、「生きんとする意志」といったところか。

万生万物の「生きんとする意志」が、炎となって燃え上がり、すべてのものの存在原因となっている。人生は苦しい。ショーペンハウアーによれば、芸術、特に音楽によって、その苦しみを癒すことはできる。だが、それは一時の癒しにすぎない。「生きんとする意志」を克服しない限り、最終的な解決にはならない・・・。

言われてみれば、確かにその通り。だが、これはコロンブスの卵。誰かが言ってくれない限り、凡夫には永遠に気づきそうもない。

ありがたや。合掌・・・・・。
 

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薪が尽きたとき、火も燃え尽きる・・・

2009年06月04日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
    
「火が、薪(たきぎ)から薪へと燃え移る」というのが、仏教における輪廻のイメージです。

やがて、薪は尽きて、火も燃え尽きるときがくる。

それが、輪廻転生の終焉。ブッダは、「輪廻転生の終焉」を説いた。というより、「輪廻転生が起きる原因と、それを終わらせる方法」を説いた。
 
現代日本人の目には、あまりにも奇異に映るテーマなので、それを最初からハッキリと言ってくれる人がなかなかいない。そのため、「ブッダのメインテーマはそれだった」というスタートラインにたどりつくだけでも、かなりの時間と労力を要することになる(笑)。
 
それはともかく、ブッダは「輪廻転生が起きる原因と、それを終わらせる方法」を説いた。でも、残念ながら(?)、「輪廻転生を終わらせた人がどこに行くのか」については、教えてくれませんでした。ブッダによると、「どこかに行くというワケでもないし、どこにも行かないというワケでもない」んだそうな。

これを聞いて、すっかりワケが分からなくなってしまった人が、「どういうことなのか説明してください」としつこく食い下がった。すると、ブッダはこのように説明したという・・・。

ヴァッチャよ、私はさらに、汝(なんじ)のために説こう。いま私が、汝に問うから、思いのままに答えるがよい。ヴァッチャよ、もし汝の前に、火が燃えているとしたならば、汝は、火が燃えている、と知ることができるか。」

「無論である。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、汝は何と答えるか。」

「それは、この火は、薪(たきぎ)があるから燃えるのだと、私は答える。」

「では、もし汝の前で、その火が消えたならば、汝は、火は消えた、と知ることができるか。」

「無論である。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、汝はいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。

「ヴァッチャよ、まったくその通りである。そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」  



輪廻転生は、永遠に続く苦の連鎖。果てしなく続く、迷いの生存。

でも、一切の執着を断って煩悩を滅尽すれば、薪が尽きて火も消えるように、輪廻転生は終わります。

ありがたや。合掌・・・・・。