宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

固定観念からの脱却

2013年09月09日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
                               
ある比叡山の僧侶の話によると、比叡山に初めて登ったとき、雪が残っていた。春になって溶け残った雪だから、黒くなっている。それを見て、僧侶は雪だと思わなかったという。そうしたら、師匠から言われた。「雪は白いという固定観念を捨てよ」と。
 
  
>まず、比叡山天台宗の基本的なものの見方をお話ししたいと思います。私が初めて延暦寺に来た昭和18年(1943年)の春、境内には屋根から落ちた雪が土のように汚く積もっていました。ほとんど雪が降らない香川県善通寺市の出身だったため、私は最初、雪だと思いませんでした。すると、連れてきて下さった師匠が「世の中に決まったものはない。雪が白いとか黒いとか、比叡山に来たら固定観念を捨てよ」と教えられたのです。

>元来、ものには決まった姿はありません。すべては移り変わる。これを無常といいます。雪は白く見えるが、いつまでも白くはない。解けて水になって流れ、どこかで木の葉になるかもしれません。循環しているのです。それを仏教では縁起と呼びます。縁によって世の中が動くと考えるのです。

(小林隆彰 比叡山延暦寺学問所長の講話より)
 
 
モンロー研でも、「信念体系(ビリーフ・システム)の崩壊」ということが、盛んに言われている。いわく、死後世界の、フォーカス度の低い領域では、さまざまな信念にとらわれた人々が、独自の世界を創って住み着いている。食欲にとらわれた人は、はてしなく食べ続ける世界。仕事にとらわれた人は、はてしなく働き続ける世界だ。宗教団体の人たちは、集団で世界を創り上げている。そこでは、巨大な教会や祭壇があり、信者たちが永遠に宗教儀式を続けているという。

アセンションの時代を迎えて、こうした信念体系領域の破壊が進んでおり、地球の死後世界そのものが一挙に浄化されつつあるとされている。
  
 
ここでいう「信念体系の崩壊」というのは、「宗教を信じるかどうか」というようなのとは、また別問題。そういう、表面意識のレベルでの信念ではなく、もっと深いところでの根本的な固定観念を指している。
 
広い意味では、この地球の物質世界そのものが信念体系なのだ。古代の叡智は、「この世界は幻影であり、とらわれてはならない・・・」と、繰り返し教えてきた。
 
地球での人生は刺激的なもので、中毒症状を起こす。それが、輪廻転生する原因。
 
単に、瞑想して精神を修養しただけでは、意識の覚醒はムリ。まずは、固定観念からの脱却がカギを握る。

とはいっても、長年の地球生活によって刷り込まれた信念から脱却するのは、簡単なことではない。そもそも、「刷り込まれている」ということを自覚することが難しい。


まずは、「この世界は幻影であり、輪廻転生は、幻影の世界の中で続く、迷いのループにすぎないのだ」という見方を、しっかりと身につけることから始める必要がある。

もちろん、「この世界は幻影だ」というのも、ひとつの信念であることに変わりはない。でも、それを言いだしたらキリがない。「この世界は幻影だというのも、ひとつの信念だ」というのだって、ひとつの信念だ。そんな調子で、無限ループになってしまう。

なにも、あらゆる信念から完全にフリーになる必要まではないのである。そもそも、それはムリというもの。そんなことをしたら、人間ではなくなってしまう。一分たりとも生きていられない。

ここは、余計な疑念を持たずに、まずは「この世界や人生は、真実在ではない。幻影なのだ」ということを、とっくりと腑に落とすことに専念する。
 
もちろん、この地球の物質世界に、最初から現実感を持てない人もいる。「宇宙人の魂」と言われる人は、特にそうだ。でも、そういう人こそは、逆に、「もっと、この世界に現実感を持って生きなければ」とアガいていたりするもの。だから、「この世界は幻影なのだ」という古代の叡智を学ぶことが、やっぱり重要だ。
 
それが、「意識の覚醒とは、そもそも何なのでしょうか?」という疑問への答でもある。早い話が、この世界や人生という幻影にとりつかれた状態は、眠っているようなものなのだ。そこから、目を覚ます。

夜、眠っているときに、「明日の数学の試験に落第したら、留年してしまう」という夢を見たとする。夢の中では、「留年なんかしてたまるか」と、必死になっているかもしれない。でも、目を覚ませば、なんということはない。「落第したら大変なことになる」どころか、そもそも学生ですらないというのが真実なのだ(笑)。

それと同じように、幻影から目を覚まして、それが真実在ではないことに気づく。そして、本当の真実在を自覚する。それこそが、意識の覚醒だということになる。
 
・・・という風に、言葉にするのは簡単なんだけど、実際には、これができた人はほとんどいない。
 
でも、なにごとも一足跳びでデキるものではない。それは、なんだってそうだろう。

まずは、「この世界は幻影である」ということを、とっくりと腑に落とすことから始める。そこから、次のステップが始まる・・・。

輪廻が終わった後

2009年10月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
  
「輪廻転生の終焉」の話で、気になることといえば、「輪廻転生が終わった後は、どうなるのでしょうか?」ということだろう。

どこに行くんでしょうか?

魂そのものが、なくなっちゃうんでしょうか!?

もちろん、釈尊の生前にも、このような質問をした人はいた。これに対する釈尊の回答は、例によって、「輪廻転生が終わった人は、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、生きていると同時に死んでいるというわけでもなく、生きていないと同時に死んでいないというわけでもなく・・・」といった、独特の論理。どうにも、明確なイメージは浮かんでこない。
 
だが、実際のところ、それでいいのである。

そもそも、解脱した人は、「根本的な生存欲」をとことん滅却してしまったのだ。そんな人が、「私は、死んだ後にどうなるのでしょうか」というようなことを、気にするはずもない。
 
逆にいえば、「死後の行く末」 (あの世とか、生まれ変わりとか・・・) が気になるような人は、まだ卒業する時期ではないのかもしれない。この地球生命圏、もしくは、それと似たような環境で、もうしばらく堂々巡りのグルグル輪廻を続けてくださいな・・・ということになるだろう。
 
でも、少なくとも、「存在しなくなる」というわけではないので、安心してもらっていい(笑)。

そもそも、解脱した人は、「過去から未来に向かって時間が流れている世界」から、完全に外に出てしまったのだ。解脱した人にとって、時間は意味をなさない。時間そのものがないのに、「生まれる前」や「死んだ後」のことなど、気にする必要がないのである。「いま、ここ」だけを、気にしていればよろしい。

解脱した人は、「現在ただ今、この一瞬」にしか存在しない。でも、「この一瞬」が永遠に存在している。

「人は、死ねば肉体とともに消滅する。後には、何も残らない」などという信念にとらわれている人は、底知れない虚無へと落ち込んでいく。そんな考え方は、問題外。

かといって、「ボクは、この人生が終わった後も、永遠の輪廻転生を続けて、自分の魂を磨いていくぞ」などという、自我の信念にとらわれている人もまた、迷いから抜けるにはホド遠い。それは、覚醒に役立たない。かえって、眠りを深める。

「無我」こそが、お釈迦さまの教え。我は無い。ただ、全体あるのみ。それは、自我の終焉。そして、分離の終焉。バラバラに分かれた世界が終わり、人は、小さな自分を超えて、大いなるすべてへと回帰する。

ありがたや・・・・・合掌。 
   
 
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盲目的な意志

2009年10月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

人間を、輪廻という名の強制労働へと縛りつける、「根本的な生存欲」。

十九世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、これを「盲目的な意志」と呼んだ。

ショーペンハウアーがみずから「わたくしの主著」と呼んだ「意志と表象の世界」は、体裁こそ西洋哲学だが、思想の中身はインドそのもの。

彼は、万生万物の「盲目的な、生きんとする意志」こそが、この仮象の世界を成り立たせる根源と見た。

この有為転変の世界で生きることは、苦しい。たとえ一時的には楽しくても、最終的には必ず苦しい。

芸術によって、その苦しみを癒すことはできる。だが、その効果は長続きしない・・・。

「解脱」を説いたショーペンハウアー。「生きんとする意志」の滅却こそが、最終的な解決だ。
 
西洋では「厭世主義者」のレッテルを貼られてしまったが、影響は大きかった。現代思想の開祖・ウィトゲンシュタインが、若い頃に読み込んだ哲学書は、「意志と表象の世界」だけだったという。
  
大哲学者たちも、みんな、ブッダの思想に魅了されてきた。東洋の叡智が、西洋に流れ込んだ近代。人類覚醒のプロセスは、この頃から、ゆっくりと始まっていたのだろう。

ありがたや・・・・・合掌。
 
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現代人の解脱

2009年10月29日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
    
解脱。つまり、覚醒して輪廻から離脱すること。そのためには、まず、人生や世界に対して無関心になる必要がある。それも、「究極の無関心」が必要だ。
  
この世界は幻想であり、夢である。目を覚ませば、夢からも覚める・・・。
 
まずは、「自分は今、夢を見ている」と自覚することから始める。でも、それは難しい。夜中に見ている夢の中でも、われわれはよく、誰かに追いかけられたりして、追い詰められることがある。それはそれで、実にシリアスな状況だ。でも、目を覚ませば、その状況は消滅する。「あ・・・、あれは夢だったのか・・・」という感じ。
 
もちろん、それだけでは足りない。トータルな意識レベルを高めることも重要だろう。
  
ゴータマ・ブッダ釈尊は、「思考を止める瞑想」と、「欲望を抑える苦行」によって、至高の意識レベルに到達した。結局のところ、この2つが、ブッダを史上最高の聖者へと押し上げたのである。

とはいっても、現代のわれわれが、それを真似するわけにもいかない。それに、真似するべきでもない。

現代は、多くの人が覚醒しなければいけない時代。覚醒するために、これほど困難な道を通らなければならないのでは、それが達成されないではないか。

現代人の意識は、古代人のそれに比べて、大幅に高まっている。この、地球人類の意識進化の流れに乗ることによって、われわれは、ブッダよりもずっと容易に、覚醒へと至ることができる・・・はずだ(笑)

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生存欲の克服

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

輪廻の究極原因は、「根本的な生存欲」であった。だが、それはあまりにも意識の奥にあり、誰にも自覚できない。これこそ、「無明」(何も分からないこと)の本質。

「ならば、根本的な生存欲を克服しようじゃないか」というのが自然な流れなのだが、これは人間としての自然な感情と、あまりにも鋭く対立する。

「もう、生きていきたくない」という時点で、十分に人情に反するのだが、この問題はそこにとどまらない。

というのも、ここでいう「生存欲」とは、「現世への執着」だけを意味するわけではない。死後に、天国や地獄で再生することを含む。

つまり、「根本的な生存欲を克服する」というのは、単に「ボクはもう生きていきたくない」というような、生易しいものではないということだ。それは、「もう二度と再生したくない」ということ。「ボクやアナタ」というような、「個我」としての終焉を意味する。

世間一般の価値観からすれば、これは極めて後ろ向きな発想だ。それどころか、ありとあらゆる前向きな発想と、真っ向から対立する。いわば、純度100%の、純粋に後ろ向きな発想なのだ。

例えば、今の世の中では、「自殺者が多い」というのが大問題になっている。しかし、上記の考え方に立てば、「もう生きていきたくない」と思うのは、解脱への第一歩(笑)。自殺することには、特に問題ない。

ただし、自殺したところで、問題は解決されないのも事実である。というのも、多くの場合、ウツ病になって自殺するのは、「もっと良い人生を送りたい」という気持ちの裏返しだからだ。それが満たされないから、反動で絶望するのである。「根本的な生存欲の克服」には、まったくホド遠い。死後はどこか別の世界に再生し、その後、また同じような環境に戻されるのがオチだろう。(それにしたって、自殺は良くないことだという考え方が、仏教にはまったく見られないことに変わりはない)。

もちろん、「ポジティブ・シンキングで、アナタの人生はどんどん良くなります」というような、現世の人生に対して前向きな考え方とは、まったく相容れない。

それだけでなく、「ボクは永遠の輪廻転生で魂修行して、意識を進化させていくぞ」というような、スピリチュアルに前向きな考え方も、「根本的な生存欲の克服」には、非常にジャマになる。釈尊がそういう言葉を一切、口に出さなかったのは、そのためだ。「今までの転生は、良い経験になりましたね」とすら言わない。「輪廻を否定している」と言われる所以である。

単なる「厭世観」とも、また違う。というのも、「こんな世の中はもう嫌だ」というのは、多くの場合、「もっと良い世の中で生きていきたい」という気持ちの裏返し。「生き残りたい」という本能の克服には、ホド遠い。

つまり、人生や世界に対して、嫌いになったり、ひっくり返したいと思うようじゃ、まだ甘いのである。

そうではなくて、人生や世界に対して、無関心にならなければならない。

徹底的な、無関心。どうやら、これが解脱へのカギだと言えそうだ。

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根本的な生存欲

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
苦行に励んでいたゴータマ・ブッダが、スジャータの乳粥を飲み干して「苦楽中道」の真理に目覚めた、というのは、あまりにも有名なエピソードだ。故郷カピラヴァーストでの、楽しい王家の生活。インドの山奥での、苦しい修行の日々。「真実は、その中間にある」というわけだ。
 
実際のところ、苦行には高い効果がある。欲望を抑えるために、これほど有効なものは他にない。

ある意味では、ブッダは、後々までも弟子に一種の苦行をやらせていたと言える。お椀を持ち、乞食をして回る托鉢(タクハツ)行も、一種の苦行ではある。これは今でも、お坊さんがやっているのをよく見かける。他にも、わざわざ墓場に行って美女の死体を見せたりとか。弟子の多くは、普通の人間だ。「がんばって修行するぞ」とは思っているものの、本当はおいしいものを食べ、美女とたわむれて人生を楽しみたいというのが本音。そういう人には、まず、「人生は楽しくないのだ」ということから教えなきゃいけない(笑)。

もっとも、修行期間中のブッダがやっていた苦行は、それとは趣旨が異なる。これは、「苦」を徹底的に体験すること、それ自体を目的とした苦行だ。ブッダは、これによって解脱することを、目指したのだが、それでは果たせなかった。それは、何が理由だったのだろうか。
 
それは、「苦行によって欲望を抑えることはできても、欲望をなくすことまではできない」というのが理由だったようだ。例えて言えば、よくカゼをひく人が、そのたびにカゼ薬を飲むような対症療法。カゼをひかないようにするためには、それでは足りない。体質そのものを変えていく、長期的な滋養強壮の取り組みが不可欠だ。結局、「欲望は、元から絶たなきゃダメ」ということなのだろう。
 
当時、インドの修行界を席巻していた「思考を止める瞑想」と「欲望を抑える苦行」を、2つとも極限まで極めた、ゴータマブッダ釈尊。結局、2つとも、欲望を一時的になくすことや、欲望を抑えることはできても、欲望そのものをなくすまでには至らない。ゴータマは、そういう結論に達した。

この2つによって、意識を高めることはできる。人間としては、最高のレベルまで行ける。だが、人間の域を超えるには、何かが足りない・・・。
  
ここで釈尊が選んだ道は、瞑想しつつ、自分自身の心、というより、自分という存在そのものを徹底的に観察することだった。単に、思考を止めて精神集中するだけではない。徹底的な、観察の瞑想だ。ここでついに、輪廻思想史上に残る、空前の大発見が得られた。
 
「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある」

・・・というのが、天才・ヤージュニャヴァルキヤによって確立された、輪廻転生の定式。だが、なんと、さらにその奥があった。つまり、欲望が根本的な原因ではない。その欲望には、さらに原因があるというのだ。

それは、「根本的な生存欲」である。
 
地球は、サバイバルゲームの世界だ。人間はもちろん、動物や植物も、生き残るために必死。激しい食い合いをしている肉食動物は分かりやすい例だが、平和に見える植物だって、実は厳しい陣取り合戦を続けているのだ。そんな地球環境で、無数の輪廻転生を経てきた人間には、「生き残りたい」という根本的な本能が刷り込まれている。それは、あまりにも意識の深いところにあるため、だれも自覚していない。
 
食欲や性欲も、「生き残りたい」、「子孫を残したい」・・・という、「根本的な生存欲」が原因となって生じる。

ついに、ゴータマ・ブッダは見抜いた。

「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある。欲望の原因は、根本的な生存欲にある」。

これが新たなる、輪廻転生の定式。輪廻転生における、原因と結果の法則だ。

2千数百年も昔、古代のインドでひっそりと発見された、輪廻の秘密。奇しくも、現代のアメリカを中心とするスピリチュアル界で「輪廻転生からの卒業」がクローズアップされる中、今こそ学ぶべき東洋の知恵と言える。この2つを結び付けられるポジションにいるのは、日本の精神世界ファンしかいない(笑)
  
そうなると、「では、根本的な生存欲をなくしましょう」ということになるのが、自然な流れだろう。だが、これは、世間の価値観とは真っ向から対立する。というより、人間としての自然な気持ちと、これほど対立する考えは他にない・・・。
 
 
(参考文献 : 宮元啓一著「ブッダが考えたこと」)
  
 
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ブッダの苦行

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

瞑想修行で、信じがたい才能を存分に見せつけたゴータマ・ブッダ。たちまち、「一切の思考や感情をストップする瞑想」をマスターし、至高なる無の境地に到達した。だが、それで満足するゴータマではなかった。高名なる師匠たちからの、「ボクと一緒に弟子たちを率いていこうよ」という申し出を断り、さらなる求道へと旅立ってしまった。

いったい、ゴータマは何が不満だったのか。

実のところ、「思考を止める瞑想」に対する不満とは、「効果が長続きしない」というところにあった。たしかに、瞑想している間は、無念無想となる。その間は、欲望が起きてこない。したがって、業(ごう、カルマ)も生じることがない。

でも、瞑想が終わって日常生活に戻ったら、無念無想の状態を続けるわけにいかない。それでは、生活に支障を来たすことになる。そうすると、どうしても欲望は起きてくる。これでは、根本原因を断ち切ったことにならないじゃないか・・・と、ゴータマ・ブッダは考えたらしい。

もちろん、だからといって「思考を止める瞑想」に意義がないわけではない。少なくとも瞑想している間は、たしかに過去の記憶や、未来の不安から解放され、現在の一瞬に集中できる。至高の境地に至るためには、これが欠かせない。あくまでも、「それだけでは、(解脱するには)足りない」というだけ。

「思考を止める」というのは、古代の流行にとどまらず、現代に至るまでインドの精神世界の伝統となってきた。インド人の導師の話では、必ずといっていいほど言及される。ブッダもそうだし、クリシュナムルティもそうだ。
 
さて、ゴータマが瞑想修行の次に目をつけたのは、苦行(くぎょう)である。なんといっても、瞑想と苦行が、当時の二大流行だ。2つとも、「欲望の克服」を目的としているという点では同じなのだが、その手段がおおいに異なる。

「苦行」の道を選んだ人々は、徹底した禁欲がポリシー。食欲・性欲・睡眠欲・・・。自らの肉体をイジメぬき、極端な禁欲で心を鍛え、じっとガマンの日々を送る。これによって、欲望をシャットアウトしようというのだ。いわば、力ずくで欲望を押さえ込む道である。

彼らの辞書に、「ほどほどに」という言葉はなかった。彼らは、徹底的に苦行した。「ここまでやるか」とばかりに苦行した。何年間も立ちっ放しですごしたり、針の寝床に寝たり、ゴロゴロ転がって移動したり・・・。
 
五人の修行仲間(五比丘)とともに、ゴータマ・ブッダは苦行に打ち込んだ。とくに熱心に行ったのは、断食行と止息行だという。
 
モーレツな断食で、肉は落ち、骨と皮ばかりにやせ細ったゴータマ。顔は、すさまじい形相だ。
 
あるとき、ずっと息を止めていたゴータマは、仮死状態に陥った。神々からは、「ゴータマは死んだ」と言われた・・・(泣)。

六年間、徹底的に取り組んだ苦行。これによって、ゴータマ・ブッダの心身はこの上なく清澄になり、大半の欲望を抑え込めるようになった。もはや、どこから見ても、堂々たる聖者。うっすらと後光が差している。
 
だが、ゴータマ・ブッダは気づいてしまった。たしかに、苦行によって、欲望を押さえ込めるようになった。だが、欲望がなくなったわけではない。次々に起きてくる欲望を、次々に抑え込む。これじゃ、モグラ叩きと一緒。欲望を、元から断ち切るにはホド遠い・・・。

そんなある日、村娘スジャータが布施した乳粥を、受け取ったゴータマ。これを飲み干すのは、苦行の道から降りることを意味する。修行仲間からは、「ゴータマは堕落した」と言われるだろう。

ゴータマ・ブッダは、乳粥をググッと飲み干した。長い苦行の日々は終わった。これからは、「苦楽中道」でいくことにしたのである。
  
結論 : 苦行して欲望を抑え込んだだけでは、解脱できない。

 
(参考文献 : 宮元啓一著『ブッダが考えたこと』) 

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ブッダの瞑想修行

2009年10月27日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
    
インド思想の研究者・宮元啓一氏によれば、釈尊が登場する以前から、「業(ごう)こそが、再生が繰り返される原動力である。業が生じる原因は、欲望にある。はてしない輪廻を終わらせるには、欲望を消滅させなければならない」というところまでは、話が進んでいた。ヤージュナヴァルキヤが唱えたこの説は、インド思想界に広がり、皆の共通理解となった。
 
解脱(げだつ・・・覚醒して、輪廻を終わらせること)のためなら、なんでもするのが古代インド人。いまや、「欲望を消滅させて、さっさと輪廻にオサラバしようぜ」というのが、修行者の合言葉だ。そこで、欲望を消滅させるため、大きく分けて2つの方法が編み出された。

ひとつは、瞑想をすること。もうひとつは、苦行である。
 
「瞑想」の道を選んだ人々は、こう考えた。欲望とは、「○○をしたい」、「××になりたい」・・・といった、思うことや、考えることから生まれる。彼らは、欲望を消滅させるためには、このような思いや考え、つまり、「思考」をなんとかしなければならないという結論に至った。
 
彼らの辞書に、「ほどほどに」という言葉はなかった。彼らは、徹底的に瞑想した。「これでもか」とばかりに瞑想した。
 
ゴータマ・ブッダ釈尊は、王家の生活を捨てて出家した。出家してはみたものの、何をやれば解脱できるのかが分からない。そこで、まずは「瞑想修行をやってみよう」と思いついた。

当時、インドの瞑想界には、「瞑想を極めた」という評判のスターがいた。アーラーラ・カーラーマ仙人と、ウッダカ・ラーマプッタ仙人である。彼らは、「思考を止める瞑想を極めた」という評判だ。ゴータマ・ブッダは、そこに行ってみることにした。
 
宮元氏によれば、アーラーラ・カーラーマ仙人が極めた瞑想とは、次のようなものであった。


>いくつもの伝承が共通して伝えるところによれば、アーラーラ・カーラーマ仙人が、これによって解脱にいたることができるとしたのが、無所有処(むしょうしょ)を最高の境地とする瞑想であった。(中略)

>おそらくアーラーラ・カーラーマ仙人が言うところの無所有処というのは、瞑想の果てにたどりつく、見るものも見られるものも何もないという心境のことであろう。これは、はるか後世の「ヨーガ・スートラ」における「心のはたらきの停止」という意味でのヨーガ、つまり三昧(サマーディ)に相当するものと思われる。心のはたらきが停止するとは、感情も思考も停止することである。
 

アーラーラ・カーラーマ仙人のもとに入門した、若き日のゴータマ・ブッダ。なんと、たちどころに奥義・「無所有処の瞑想」をマスターしてしまったという。仙人が「アララー」と驚いているヒマすらなかった。

次に、ゴータマは、もうひとりの大物、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のところに行って入門した。ウッダカ・ラーマプッタ仙人が極めた瞑想とは、次のようなものであった。


>この仙人は、非想非非想処(ひそうひひそうじょ)こそが最高の境地で、アーラーラ・カーラーマ仙人と同じように、瞑想によって到達できると説いていた。(中略)

>文字どおりには、「識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境地」というほどの意味である。先の無所有処では、「識別作用は消えた」というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、ここでは完全に消え去る。つまり、識別する、しないがまったく意味をなさないほどまで心のはたらきが停止する、ということなのであろう。これも、感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。


またまた、奥義・「非想非非想処の瞑想」を、あっという間にマスターしてしまったゴータマ。

ゴータマ・ブッダは、瞑想によって思考も感情も停止した。心のはたらきを、何もかも停止して、至高の境地に至った。だが、ブッダは気づいてしまった。たしかに、瞑想している間は、完全なる静寂が得られる。だが、瞑想が終わって日常生活に戻ると、すぐに元に戻ってしまう。これじゃ、解脱にはホド遠い・・・。

瞑想修行の道を捨て、去ってゆくゴータマ・ブッダ。

結論 : 瞑想して思考や感情を止めただけでは、解脱できない。


(引用箇所 : 宮元啓一著『ブッダが考えたこと』より) 

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輪廻の原因の発見

2009年10月27日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
     
「輪廻転生の終焉」こそが、釈尊の生涯を貫くテーマであった。「輪廻転生」が重要なのではない。あくまでも、ウエートは「終焉」の方にある。

最近になって、このテーマは思いがけない形で再浮上してきた。驚くべきことに、仏教とは縁もゆかりもない、現代のアメリカを中心とするスピリチュアル界において、「アセンションとは、地球人類が輪廻転生から卒業することである」という認識が広がってきたのである。本ブログで、この話題をたびたび取り上げているのも、そのためだ。決して、古い仏教談義を蒸し返そうとしているわけではないということを断っておきたい(笑)。

それはともかく、原始仏典は、どこから読んでも、「私は解脱した。輪廻は終わった。もはや二度と再生することはない」のオンパレード。それでも言い足りなかったのか、弟子たちも次々に登場して、「釈尊のおかげで、私たちも解脱した。輪廻は終わった。私たちも、もはや二度と再生することはない」の大合唱。

あまりにも「終焉」の方に力点が置かれているため、「輪廻転生そのものを否定するのが、釈尊の真意であった」とする解釈は、根強い勢力を保っている。だが、それはやはり無理がある。輪廻転生がないのなら、終わらせるまでもない。やっぱり、あるから、終わるのである。

インド思想の研究者・宮元啓一氏によれば、実のところ、これは釈尊ひとりが唐突に始めた話ではなかったらしい。インド思想の流れは、釈尊が登場するより以前から、すでにこれが最大のテーマになっていたという。

もっとも、最初からそうだったわけではない。インド人の思想家たちも、かつては、「あの世はある。人は生まれ変わります」というような、単純な話からスタートした。やがて、「善い人は天国に赴き(おもむき)、悪い人は地獄に赴く」という考え方が広がった。おなじみの、因果応報思想である。このあたりの話までは、日本人にもおなじみだ。こういうのを「お釈迦さまの教え」だと思っている人が、世間には多い。だが、実際には、釈尊がそのレベルの話をするのは、在家の素朴なお爺さん・お婆さんたちが相手のときに限られていた。相手がプロの修行者なら、そんな話はしない。
   
やがて、輪廻思想が高度に展開し、深化するにつれて、「いかにして、はてしない輪廻から脱却するか」が、最大の関心事に浮上してきた。そのためには、まず、「なぜ、輪廻が延々と続くのか」という原因を探る必要がある。原因が分からなければ、対策の立てようがない。

そんな中で、釈尊の先駆者ともいえる大哲学者が登場した。かの高名なる、天才ヤージュニャヴァルキヤである。

ヤージュニャヴァルキヤは、「業」(ごう)、つまり、カルマこそが、人を輪廻させる原動力であると見抜いた。業とは、行為のこと。われわれが日々やらかしている、数々の行いだ。そして、われわれの行為は、欲望を原因として起きる。

つまり、「欲望」こそが輪廻が終わらない根本原因だというのだ。ということは、欲望を消滅しさえすれば、輪廻も終わるということになる。

これは、輪廻思想史上、空前の大発見と言える。もっとも、輪廻そのものに関心がない人にとっては、「発見」でもなんでもないだろうが(笑)。そういう人は、対象外・・・。

かくして、「輪廻から脱却するためには、欲望を消滅させる必要がある」というのが、インド思想界の共通理解となった。宮元啓一氏によれば、釈尊が登場する以前から、ここまでは話が進んでいたのだという。


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なぜ、輪廻転生を終わらせるのか

2009年10月22日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
「輪廻が生じる原因」と、「輪廻を滅する方法」が、釈尊の悟りであり、教えの中核部分であるということは分かった。

現代の日本人には、これは奇異に映る。でも、古代インドの思想界では、これは奇妙でもなんでもなかった。一部の特殊な思想家(唯物論者など)を除いて、全員が輪廻転生を当たり前の前提として物事を考えていたし、釈尊の師匠や先輩、修行仲間たちも皆、輪廻転生を終わらせることを目標にがんばっていたのだ。

輪廻そのものを否定する人は、残念ながら対象外。「輪廻には興味ないけど、お釈迦さまには興味がある」という人(そんな人がいるというのが不思議だが・・・)には、この中核部分を避けて、残りの人生論その他に目を向けてもらうしかない。

ここでは、精神世界ファン特有の、輪廻思想に対するなじみ深さがモノを言う。その意味では、古代インド人と思想基盤を共有していると言っていい。

ただし、現代日本の精神世界ファンと、古代インド人とでは、重大な相違点があるのも確かだ。

というのも、現代日本の精神世界ファンの多くは、輪廻転生を、ポジティブにとらえている。「輪廻転生とは、永遠の魂修行を通じて、意識を進化させるプロセスなのだ」といったような、輪廻を前向きにとらえる発想だ。これ自体は、もちろん悪くない。だが、お釈迦さまの教えに、このような発想はまったく見られない。

初期仏教に、輪廻転生を前向きにとらえる発想があるだろうか。はっきり言おう。ありません。初期仏教において、輪廻は、はてしなく続く、苦しみが苦しみを呼ぶ連鎖反応、迷いが迷いを生むチェーン展開。目を覚ませば、それは終了する。これはお釈迦さまに限らず、古代インドの輪廻思想に共通する特徴。「輪廻を終わらせる」というのが、皆に共通する究極目標といっていい。

これを見れば、「古代インド人は、なんでそんなに、輪廻転生を終わらせたかったのでしょうか?」というのが、素朴な疑問といえるだろう。

これに対する、よくある通俗的な解釈は、こうだ。いわく、「インドは、暑くて伝染病が多い。当時は都市国家が乱立して、戦争が続いてた。インド人の人生は、苦痛だったのだ」。
 
たしかに、そういう面もあっただろうとは思う。だが、いくつかの理由で、これは当たっていない。

そもそも、これは、「この世での生活は苦しい。さっさと死んで天国に行きたいな」というような話ではない。「天国に行きたいな」というのと、「輪廻転生を終わらせたいな」というのは、似て非なる話・・・。
 
次に、「インドでの人生は苦しい」というのは、偏見じゃないかということ。悠然たるガンジスの流れ。 花咲き乱れ、孔雀は舞い、牛は草を食む。古来から、北方や西方の異民族 (アーリア人、トルコ人、イギリス人・・・)がインドに侵入したが、彼らは一様に、想像を絶するインドの豊穣さに圧倒されてきた。現代のように、何億人もの貧民が群れる世界だったわけでもない。釈尊自身、インドの自然に見とれ、「美しい・・・」と嘆息する場面が、仏典にも出てくる。
  
それ以上に、最も根本的な問題として、たしかに現代の日本では寿命が伸びた。でも、それにしたって寿命は百年かそこらにすぎず、「死」という問題が解決されたわけではない。むしろ、余生が長くなった分、老化の脅威がさらに大きくなっているとも言える。アンチエインジングが流行するのも、無理からぬところ。

「十二因縁」は、最初の「無明」(生まれる前の、何も分からない状態)から始まり、最後は「老死」で終わっている。「老死」こそ、迷いと苦しみの最終結果。古代インド人たちが最も恐れた人生の「苦」とは、この「老死」だった。

結局のところ、古代インド人たちは、輪廻を本当に真剣に考えていたからこそ、輪廻が怖かったのである。何千回も何万回も生まれ変わっては、そのたびに老いて、苦しんで死ぬ。ラクな死に方など、できる方が珍しい。その上、死後、どれほど悲惨な境遇に再生するハメになるかも分からない。これは、怖いことだ。

輪廻転生とは、トテツもなく怖いものだ。「輪廻転生」というものを、夢いっぱいのオトギ話としてではなく、本気で真正面からとらえたならば、そういうことにならざるを得ない。

マラソンにも、ゴールは必ずある。生まれ変わり死に変わる流転の日々は、いつまでも続けられるものではない。「もう十分だ」という人は、そろそろゴールを意識することになる・・・。

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