「神の使者」によれば、この宇宙という幻影を創りだしたのは、われわれ自身だ。といっても、われわれの全体ではなく、心の一部分が創り出したのだという。それは「エゴ」と呼ばれる、エゴイスティックな部分。
「エゴ」という言葉は、精神世界ジャンルではよく使われる頻出用語だ。それには、なんといっても「ACIM ~ 奇跡のコース」の影響が大きい。でも、「そもそも、エゴって何なのでしょうか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。「奇跡のコース」では、このように定義されている。
>エゴとは、分裂を信じる心の一部である。
エゴは、徹底した分離主義者だ。常に、「全体になるな。離れた個になれ」と誘惑する。エゴとは、バラバラに分かれた個人の自我。人々がバラバラに分かれていなければ、存在できない。われわれが大いなる神と一体化してしまったら、エゴは消えてなくなってしまう。
エゴが居場所を確保したかったら、人間に「分離」という幻想をずっと見させておくしかない。それが、エゴの仕事なのだ。エゴは、エゴなりに必死。「奇跡のコース」にいわく、
>まことに、エゴは罪の上にその世界を創ったと言うことができる。そのような世界においてのみ、すべてがひっくり返り得る。この奇妙な幻想が罪悪感の雲を貫き通せない重いものに見せている。この世界の基盤が堅固であるように見える理由はここにある。
ここでは、「罪悪感」がキーワード。これが仏教文明圏なら、「執着」あたりが来るところなのだろうが、ここはキリスト教文明圏。「罪悪感」が、われわれを神から引き離している元凶だ。
背後には、旧約聖書に登場する、恐るべき神の存在がある。旧約聖書の神様は、荒っぽいのが特徴だ。なにかといえば、怒って人間を皆殺しにしてしまう。その、荒ぶる神に対する恐怖が、人々の精神に脈々と流れているという。「そんなの、キリスト教徒だけの問題じゃないか」と言われるかもしれないが、そんなことはない。イスラム教徒も、同じ旧約聖書の神様を信仰している。この二大宗教の信者数を合わせれば、地球人類の半分近くに達する。人類の集合意識におよぼしている影響は絶大だ。というより、むしろ旧約聖書こそが、人類の集合意識の象徴と言えるだろう。
恐怖は、愛の対極にある。愛の反対は、憎しみではなく、恐怖なのだ。なかでも最大の恐怖は、神に対する恐怖だろう。
というのも、われわれ人間は、心ならずも「大いなるすべて」である神から離れ、分裂してバラバラに別れてしまった。実際には分裂など起きておらず、錯覚にすぎなかったのだが・・・。とはいえ、神に背いた罪は、あまりにも深刻。
心の奥に消せない罪悪感を抱え、恐るべき神の罰におびえる人間は、絶対に神に見つからない洞窟へと逃げ込もうとする。そこには、魔物が住んでいた。「エゴ」という名の魔物だ。エゴは、気がくるっていた。
エゴは、なんと、「身体」という最強のツールを創り出した。身体は、本来は形のない意識であるはずの人間に、目に見える形を与える。おかげで、「ボクやアナタは、お互いに別々の、独立した個人なのだ」という思い込みは強化され、分断が固定化されたといえる。たとえていえば、広大無辺の海から、コップで水をすくってみたようなものだ。コップの中の海水も、もといた海の水と何も変わらないのだが、なんだか、自分と海とは、もともと違う存在だったような気がしてくる。人間の場合、コップに相当するのが、身体と言えるだろう。
ゲイリー・レナードの元を訪れたアセンディド・マスターたちは、「エゴによる創世記」を、滔々(とうとう)と語る。この宇宙は、銀河・惑星・人間・動物・植物・鉱物・・・などといった、個性あるものたちで成り立っている。それらは皆、「大いなるすべて」である神から分離して、それぞれが個別存在となってきたのだ。でも本当は、個別存在などというものはない。エゴが、「分離」という幻想を創り出しているだけだ。エゴがなくなれば、分離もなくなる。そのとき、あらゆる個体が消え失せ、宇宙は消滅する・・・。
エゴは、人が死んだ後でも残る。神から分離した個我のまま、生まれ変わり、死に変わり、輪廻転生を続けているのだ。神のもとに帰りたくても帰れず、道に迷ってしまっているのである。大いなる神のもとに帰るためには、輪廻転生を終わらせなければならない。ちょうど、2人のアセンディド・マスターたちのように。
いわく、「エゴの思考システムがどう働いているかを君が観察できるようになったら・・・君自身の救済を早めて、最終的には『生と死の循環』をどうすれば打ち破れるかを説明してあげるよ」。
そこでゲイリー氏いわく、「すると、ぼくは心の中にある無意識の罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!!」。
「やっと分かってきたみたいだな」と、満足そうな神の使者。
奇跡への入口 →