宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

進化しない宇宙

2009年11月11日 | 神の使者
 
ゲイリー・レナードの「神の使者」に登場するアセンディド・マスターは、未来の地球で次元上昇して、人間から卒業したという。その意味で、彼らは未来からの来訪者でもある。

意外にも(?)、彼らが語る未来に、「近い将来、地球は次元上昇する」というような見方は含まれていない。今後も当分の間、基本的には今と同じような、激動の世界が続くとしている。ニューエイジに対するアンチテーゼと言われる所以(ゆえん)のひとつだろう(笑)。

次元上昇しないのは、地球だけではない。宇宙全体も、進化などしていないという。それは一見、高度な進化へと向かっているように見える。だが実際には、それは進化ではなく、循環しているだけ。宇宙は、完成に向かって前進しているように見えても、完成する前に崩壊してしまう。その繰り返し。進化と退化を繰り返し、同じところをグルグル回っている。それは、決して完成されることがない・・・。

地球人類の意識が、(もちろん、全員というわけにはいかないが・・・)急速に覚醒する局面を迎えているというのは、多くの観察者による、一致した意見だ。「神の使者」だって、それを特に否定するわけではない。

でも、「神の使者」の場合は、根本的に「地球や宇宙が進化する」という考え方をしていない。宇宙や地球は、神ならぬエゴによって誤創造された幻想の世界に過ぎない。完全な存在になることなど、永遠に待っていても決してないのである。

今の地球は、たしかに急速に進化している。だが、宇宙そのものが仮の姿である以上、地球の進化もまた、仮の姿にすぎない・・・。

宇宙は、やがて完成されるべく、着実に前進しているわけではない。宇宙にはゴールがなく、堂々めぐりを続けている。いつまでたっても、同じものの永遠なる回帰・・・。

「神の使者」によれば、この宇宙そのものが「分離」という幻想だ。宇宙は、真実ではない。真実なのは、神であり、神の愛だけ。

われわれの目標は、宇宙を進化させることではなく、この虚構の世界から離脱して、大いなる神のもとへと帰ることだ。

宇宙が完全無欠になることなど、未来永劫、ありえない・・・。


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赦し

2009年11月10日 | 神の使者
    
「神の使者」によれば、人々を輪廻転生へと縛りつけ、分離を固定化させている元凶は、「罪悪感」。そして、罪に対する罰を恐れることから生まれる、「恐怖」だ。
 
なんだか、ドストエフスキーの「罪と罰」を思い出す。殺人事件を起こしたラスコーリニコフは、恐怖に駆られて、悶々とした日々を送っていた。彼は、もともと度胸満点な上に、アコギな金貸しの老婆を殺すのは正義だと信じる確信犯。だが、ついでに他人を巻き添えにしてしまったおかげで、激しい罪悪感が生じた。それは、ラスコーリニコフの心をズタズタにしてしまった・・・。彼を精神的に追い詰めたのは、罪悪感。
 
もちろん、人類が潜在意識に持つ罪悪感というのは、「人を殺した」とか、そういうことではない。それは、大いなる神から離れて、分裂した世界を創り出したという、神に背いた罪。自分は全知全能の神に罰せられるのであるという、底知れない恐怖。これは、太古の昔から人間の意識にがんじがらめに絡み付いている、想像を絶するほど根深い問題だ。それは、あまりにも意識の奥深くに食い込んでいるため、一見すると打つ手がなさそうに思える。
 
だが、打つ手はあるらしい。これらの症状に対する効果バツグンの治療法は、「赦し」(ゆるし)だというのだ。
  
旧約聖書の時代は、まさしく「罪」といえば「罰」の時代だった。神様は、厳しい罰をもって古代人に向かい、人々にさらなる罪悪感と恐怖を植えつけた。それは、神と人間との距離を、途方もなく広げてしまった・・・。

だが、今はそんな時代ではない。われわれは「赦し」の時代を迎えた。いまや、「山」といえば「川」、「罪」といえば「赦し」というのが合言葉だ。神と人間との距離が、急速に縮まっていく時代・・・。

人間は、たびたび罪を犯すものだ。そんなときは、神にむかってザンゲする。「わたしは、思い・ことば・行い・怠りによって、たびたび罪を犯しました。罪深いわたしのために、どうか祈ってください」・・・。
 
敬虔な信者が、神の赦しを乞う姿は美しい。だが、赦すのは、神だけが持つ権能ではない。人間だって、神の一部だ。小さな神なのである。罪を赦すことは、人間にもできる。

「ACIM ~ 奇跡のコース」にいわく (出典は『神の使者』)、

>赦しは救済を貫く中心的なテーマで、すべての部分を有意義に関係づけており、まっすぐに続く道程であって、その結果は確実である。

「赦しなさい」という教えを受けたゲイリー・レナードは、毎日、あちこちで赦しを実践した。「バカ、アホウ」と罵られても、「バカはオマエだろ」と思いながら赦す。行列で待たされても、イライラしながら赦す。ひたすら、赦しまくる。このような赦しの実践を、何ヶ月も続けたという。
  
>赦すとは、兄弟があなたにしたとあなたが思っていることは、実際には起こっていないと認識することだ。・・・それは罪などないと見抜くことである。

言われてみれば、確かにその通り。そもそも、「世界はない」というのが、「奇跡のコース」の教え。世界そのものがないのだから、この世界で起きることなど、実際には何も起きていない。罪など、最初からあるわけがない・・・。
 
赦しの実践に熟達したら、苦しみや居心地の悪さはだんだん減っていって、いつかは消えるという。そして達人は、自分自身を赦し、このデキ損ないの世界をも赦す。その先には、大いなる神との一体化が見えてくる。
 
ありがたや・・・・・。合掌。
 
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エゴによる宇宙創世

2009年11月10日 | 神の使者
     
「神の使者」によれば、この宇宙という幻影を創りだしたのは、われわれ自身だ。といっても、われわれの全体ではなく、心の一部分が創り出したのだという。それは「エゴ」と呼ばれる、エゴイスティックな部分。
 
「エゴ」という言葉は、精神世界ジャンルではよく使われる頻出用語だ。それには、なんといっても「ACIM ~ 奇跡のコース」の影響が大きい。でも、「そもそも、エゴって何なのでしょうか?」というのが、素朴な疑問というものだろう。「奇跡のコース」では、このように定義されている。

>エゴとは、分裂を信じる心の一部である。
  
エゴは、徹底した分離主義者だ。常に、「全体になるな。離れた個になれ」と誘惑する。エゴとは、バラバラに分かれた個人の自我。人々がバラバラに分かれていなければ、存在できない。われわれが大いなる神と一体化してしまったら、エゴは消えてなくなってしまう。

エゴが居場所を確保したかったら、人間に「分離」という幻想をずっと見させておくしかない。それが、エゴの仕事なのだ。エゴは、エゴなりに必死。「奇跡のコース」にいわく、
  
>まことに、エゴは罪の上にその世界を創ったと言うことができる。そのような世界においてのみ、すべてがひっくり返り得る。この奇妙な幻想が罪悪感の雲を貫き通せない重いものに見せている。この世界の基盤が堅固であるように見える理由はここにある。

ここでは、「罪悪感」がキーワード。これが仏教文明圏なら、「執着」あたりが来るところなのだろうが、ここはキリスト教文明圏。「罪悪感」が、われわれを神から引き離している元凶だ。
 
背後には、旧約聖書に登場する、恐るべき神の存在がある。旧約聖書の神様は、荒っぽいのが特徴だ。なにかといえば、怒って人間を皆殺しにしてしまう。その、荒ぶる神に対する恐怖が、人々の精神に脈々と流れているという。「そんなの、キリスト教徒だけの問題じゃないか」と言われるかもしれないが、そんなことはない。イスラム教徒も、同じ旧約聖書の神様を信仰している。この二大宗教の信者数を合わせれば、地球人類の半分近くに達する。人類の集合意識におよぼしている影響は絶大だ。というより、むしろ旧約聖書こそが、人類の集合意識の象徴と言えるだろう。
  
恐怖は、愛の対極にある。愛の反対は、憎しみではなく、恐怖なのだ。なかでも最大の恐怖は、神に対する恐怖だろう。
 
というのも、われわれ人間は、心ならずも「大いなるすべて」である神から離れ、分裂してバラバラに別れてしまった。実際には分裂など起きておらず、錯覚にすぎなかったのだが・・・。とはいえ、神に背いた罪は、あまりにも深刻。
 
心の奥に消せない罪悪感を抱え、恐るべき神の罰におびえる人間は、絶対に神に見つからない洞窟へと逃げ込もうとする。そこには、魔物が住んでいた。「エゴ」という名の魔物だ。エゴは、気がくるっていた。

エゴは、なんと、「身体」という最強のツールを創り出した。身体は、本来は形のない意識であるはずの人間に、目に見える形を与える。おかげで、「ボクやアナタは、お互いに別々の、独立した個人なのだ」という思い込みは強化され、分断が固定化されたといえる。たとえていえば、広大無辺の海から、コップで水をすくってみたようなものだ。コップの中の海水も、もといた海の水と何も変わらないのだが、なんだか、自分と海とは、もともと違う存在だったような気がしてくる。人間の場合、コップに相当するのが、身体と言えるだろう。
 
ゲイリー・レナードの元を訪れたアセンディド・マスターたちは、「エゴによる創世記」を、滔々(とうとう)と語る。この宇宙は、銀河・惑星・人間・動物・植物・鉱物・・・などといった、個性あるものたちで成り立っている。それらは皆、「大いなるすべて」である神から分離して、それぞれが個別存在となってきたのだ。でも本当は、個別存在などというものはない。エゴが、「分離」という幻想を創り出しているだけだ。エゴがなくなれば、分離もなくなる。そのとき、あらゆる個体が消え失せ、宇宙は消滅する・・・。
 
エゴは、人が死んだ後でも残る。神から分離した個我のまま、生まれ変わり、死に変わり、輪廻転生を続けているのだ。神のもとに帰りたくても帰れず、道に迷ってしまっているのである。大いなる神のもとに帰るためには、輪廻転生を終わらせなければならない。ちょうど、2人のアセンディド・マスターたちのように。
 
いわく、「エゴの思考システムがどう働いているかを君が観察できるようになったら・・・君自身の救済を早めて、最終的には『生と死の循環』をどうすれば打ち破れるかを説明してあげるよ」。
 
そこでゲイリー氏いわく、「すると、ぼくは心の中にある無意識の罪悪感と恐怖のせいで、輪廻し続けているんだね。その罪悪感が癒され、隠された恐怖が消えたら、もう身体も世界も、この宇宙さえ必要なくなる!!」。

「やっと分かってきたみたいだな」と、満足そうな神の使者。
  
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「奇跡のコース」への入口

2009年11月09日 | 神の使者
 
この宇宙は、夢だ。一見、現実的に見えるのだが、実は、まったくの非現実。神こそが、唯一のリアリティである。

夢といっても、リアルな夢だ。これには、荘子の一節を思い出す。

古代中国の荘子は、夢の中で胡蝶となった。荘子はヒラヒラと舞い飛びながら、自分のことを胡蝶だと思いこんでいた。目を覚ました荘子は、自分が人間だということを思い出してガク然。自分は、実は胡蝶というのがホンモノで、夢の中で荘子になってるんじゃないかと疑った・・・。

あまりにも有名なストーリーだが、これは、すべての人間に当てはまるようだ。もっとも、われわれは「胡蝶」の夢を見ているわけではない。では、何の夢を見ているのか。

「分離」という夢である。

この、われわれが創り出した幻影の中で、われわれは「分離」という夢を見ている。それは、神からの分離。そして、人間同士の分離。ひいては、人間のみならず、あらゆる個体としての分離。
  
大宇宙に遍満する、「分離」。それは、夢まぼろしに過ぎなかった・・・。
 
そうなると、「さあ、分離という夢から覚めようじゃないか」となるのが自然な流れというもの。「神の使者」が勧める強力な目覚めのツールは、「ACIM~奇跡のコース」である。世界各国語に翻訳されているのだが、なぜか、世界に冠たるスピリチュアル大国のひとつ、日本では翻訳されていない。まだ、翻訳者が本部に認められていないからだという(笑)。もっとも、コアなマニアはすでに原書で読んでいる。原書を読む趣味がない人は、その代わりに「神の使者」を読むわけなのだが、これには賛否両論がある。「神の使者」に限らず、思想の世界に賛否両論はツキモノだ。

実際のところ、「神の使者」の読者には、著者のゲイリー・レナード氏に対して、「個性的」というか、「アクが強い」という印象を受ける人も多いというのが事実だ。そこに、賛否両論が生まれる素地がある。というのも、「奇跡のコース」のメッセージは、これを読む人々が、原典から離れないことを強く望んでいる。もともと、読者による自由な解釈や、アレンジを好まないところがあるのだ。そこには、血で血を洗う宗派対立に明け暮れてきた、キリスト教の歴史という背景があるらしい。そのためか、「奇跡のコース」は、自学自習用の教材として構成されている。そうすることで、宗派が形成されるのを、できる限り防ごうとしているのかもしれない。

もっとも、オリジナルの「奇跡のコース」しか認めない・・・という原理主義者(?)にも、「神の使者」の有益な使い道はある。それは、この分厚い本の隅々にまで満ちている、「奇跡のコース」からの引用部分を拾い読みすることだ(笑)。訳者は、「神との対話」で定評ある、吉田利子氏。さあ、さっそく読み始めよう。

・・・導入部

これは奇跡のコースである。これは必要なコースである。あなたがいつこのコースを学ぶか、それだけがあなたの意志に任される。(中略)・・・このコースは愛の意味を教えることを目的としてはいない。・・・そうではなく、(あなたがたが自然に受け継いでいる)愛の存在に目覚めるうえでの障害を取り除くことを目的としている。愛の対極は恐怖だが、すべてを包み込むものには対極がない。したがってこのコースは、ごく簡単に言えば次のように要約できる。

現実(リアル)であるものは、いっさい脅かされることがない。

非現実(アンリアル)であるものは、いっさい存在しない。

ここに神の平和がある。
 
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アセンディド・マスター ~ 神の使者

2009年11月07日 | 神の使者
  
「ACIM~奇跡のコース」を学ぶゲイリー・レナードの前に現れた、「神の使者」こと2人の男女。彼らは、アセンディド・マスターと呼ばれる。意味は、「昇天(アセンション)した達人」といったところか。地球での輪廻転生を卒業した、純粋に精神的な存在である。このような人格的存在が実在するのかどうかについては、なんともいえない。それは、現象に対する、解釈の問題といえるだろう。
 
しかし、レナード氏によれば、彼はこの2人との会話をテープに録音したんだそうな。あとで、せっせとテープ起こしして、「神の使者」を書いたらしい。しかも、2人のうちの女性の方には、試しに(?)触ってみたという。たしかな実在感があったということだ。アセンディド・マスターいわく、「これは私が輪廻転生から卒業したときの、地上での最後の姿なのである」。

神の使者は語る。「きみの頭、脳、身体、世界、宇宙全体、それにパラレルワールド、とにかく認識できるものはすべて、心の投影さ」。

つまり、地球だけではなく、宇宙全体、それも、平行宇宙をも含めた全宇宙を「幻影」だと断言する。現在の地球環境を否定するだけなら、両手を挙げて賛成なのだが、宇宙そのものを否定するとは、なんとも大胆だ。

宇宙は、夢だ。すべて、幻だ。「それにしては、妙に手ごたえがあってリアルだな!?」と思うところだが、それは錯覚にすぎない・・・。
 
そもそも、「神の使者」の原題は、“The Disappearance Of Universe”(宇宙の消滅)。こんな幻影の宇宙なんか、消してしまいたい・・・(!)といったところだろう。

宇宙は、われわれが見ている夢だ。本当のわれわれは、どこかでグウグウ眠っている。眠りの中で、自分が創り出した夢の中の「現実」を、ホンモノだと思っているのである。

宇宙そのものが幻覚の産物にすぎないのなら、いったい、何が現実なのか。

それは、神。すべてを包み込む、神の愛だという。

神こそが、唯一のリアリティ。つまり、幻影に包まれた状態から脱却し、神の愛に目覚め、神と一体化すること。これこそが、「神の使者」の目標だ。

でも、それは、地上に生きる人間が独力で達成できるようなことではない。あまりにも、幻影がリアルで、強力だからだ。目を覚まそうにも、あまりにもパワフルな「現実」の前に、大半の人間は為すすべがない。そのまま、ずるずると引きずりこまれていくのがオチだろう。「神の愛」との一体化は、あまりにも遠い。

だが、黙って手をこまねいている神ではなかった。ちゃんと、手は打ってあった。それは、「聖霊」を人間のもとへと遣わすこと。ゲイリー氏のみならず、ひとりひとりの人間に、聖霊は遣わされている・・・。
 
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非・二元論の世界

2009年11月01日 | 神の使者
  
「神の使者」によれば、この宇宙を創造したのは、われわれ人間だ。

ただし、「創造した」というのは正確ではない。そもそも、「創造」などされていないからだ。この世界は、真実在ではなく、幻想だという。つまり、みんなで見ている「夢」。現実ではない。

例えて言えば、ベッドの中で眠っている人間が、夢の中で、蝶(チョウ)になってお花畑で飛んでいるようなものだろう。この場合、蝶というのは、仮の姿にすぎない。お花畑も、夢の中だけの幻想世界。本体は、眠りこけている人間であり、ベッドの中こそが現実だ。
 
それと同じように、われわれは、この宇宙という幻想世界の中で、人間になりきっている。でも、人間というのは、夢の中だけの、仮の姿にすぎない。この世界も、夢の中のお花畑。本当は、どこか他のところで寝ているらしい・・・。
 
「そうか。これは夢だったのか。・・・それにしては、強烈にリアルだな!?」といったところだろう。
 
「神の使者」(と言っても、元はといえば『奇跡のコース』なのだが)の世界観は、「徹底した非・二元論」とされる。

徹底した、非・二元論的な世界観。
 
この、われわれが住む物理的世界は、エゴの作り出した幻想であり、現実ではないとしている。
 
神の子(人類の本当の姿)は、この世界という悪夢を見ており、悪夢の中でバラバラに分離した人格になりきっている。悪夢にうなされる息子(人間)をやさしく目覚めさせるため、神は聖霊を全ての人間に遣わせた。
 
「分離」は、幻想にすぎず、現実に存在しない。「統合」だけが真実だ。つまり、これは「分離と統合」の二元論ではなく、「統合」だけの一元論。


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神の使者

2009年10月31日 | 神の使者
      
長い間、日本の精神世界ファンが待ち望んでいた(?)、「ACIM~奇跡のコース」(A Course IN Miracles)の日本語訳が、来年はいよいよ出るようだ。

もっとも、コアなマニアは、すでに原書で読んでいる。原書を読む趣味がない人は、代わりにゲイリー・レナード著・吉田利子訳、「神の使者」を読めばいい。

「神の使者」では、「奇跡のコース」を読み始めたばかりのゲイリー青年の前に、男女ペアの「使者」たちが登場する。

「ACIM~奇跡のコース」とは、アメリカ人の女性が「J」ことイエス・キリストの言葉を書き留めたとされる、世に名高い精神世界の古典。テキスト・ワークブック・マニュアルの三部から成り、自学自習用として構成されているため、「宗教は好きだが、組織は嫌い」という人にもウケがいい。あのエックハルト・トールも、かつてはこれで自学自習していたようだ。
  
「イエス・キリストの言葉」とはいっても、おなじみの聖書とは大きく異なる。それどころか、「この世界を創造したのは、神ではない」という、聖書と真っ向から対立する思想が展開される。敬虔なクリスチャンが、これを読んだら怒るだろう。もっとも、敬虔なクリスチャンは、この本を読まないかもしれないが(笑)。

ゲイリー青年の前に現れたのは、「奇跡のコース」という名の福音を地上に告げ知らせに来た、神の使者たちだ。彼らは、地球がどれほど最悪な環境なのかを、口を極めて力説する。「こんなにヒドイ世界を、神が創造するはずがない」というのだ。

実際のところ、「神の使者」によれば、世界を創造したのは神ではない。地球だけでなく、宇宙そのものが、そうなのだという。

われわれの宇宙は、正しく創造されてはいない。それは、誤って創造された。

宇宙を誤創造したのは、神ではない。全知全能の神ともあろうお方が、こんなデキ損ないの世界を創造するとは、神に対するボートクだ。では、誰が宇宙を誤創造したのか。

実のところ、それは、われわれ自身のしわざだという。

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