釈尊は、霊魂を否定した。単純な「生まれ変わり」論を退けました。でも、ここで根本的な疑問が生ずる。それは、「霊魂がないのなら、何が輪廻するのか」というもの。
それに対する回答が、かの有名な「ミリンダ王の問い」にあります。
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「ブッダは再生を信じたか?」 ギリシア人のミリンダ王は尋ねた。
ナーガセーナは「然り」と答えた。
「それは矛盾していないか?」
「否」とナーガセーナは言った。
「魂がなくても再生があるのか?」
「もちろんです」
「どうしてありうるのか?」
「たとえば王よ、灯火から灯火に火を移せば転生というでしょうか?」
「そんなことはもちろん言わない」
「霊魂のない再生とはそういうものです、王よ」
「もっとよく説明せよ、ナーガセーナよ」
「子供の頃教師から習った詩句を記憶していますか、王よ」
「記憶しているとも」
「その詩句は教師から転生したものですか?」
「もちろんそうではない」
「転生のない再生とはそのようなものです、王よ」
「魂というようなものはあるのだろうか、ナーガセーナよ」
「究極においてそのようなものは存在しません」
「見事である、ナーガセーナ」
(以上、『ミリンダ王の問い~ インドとギリシャの対決』の一節)
古代の大征服者・アレクサンドロス大王の東征により、遥か東方のインダス川流域あたりまで、ギリシャ人の勢力が広がった。古代の西北インドには、その流れをくむギリシャ人の王様たちの時代がしばらく続きました。「ミリンダ王の問い ~ インドとギリシャの対決」は、ギリシャ的な知性を極めたミリンダ王と、インド的な知性を極めたナーガセーナ長老の、哲学的な対話です。ともに、観念的な知性としては世界の最高峰と言える2人による、一種の頂上対決。
ここでナーガセーナ長老は、「霊魂は無い。だけど、人は生まれ変わる」という、仏教の根本教義を明快に説明しています。
つまり、仏教の輪廻は、単なる「原因と結果の連鎖」にすぎない。「輪廻する主体」が、スッポリと抜け落ちている。まったく、主体性のカケラもない。
それが、実によく分かる。まさしく、「見事である、ナーガセーナ」というところでしょうな・・・。