宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

精神世界探求のメリット

2014年06月30日 | ヨーガ瞑想
 
精神世界を探求するのは、実生活においてもメリットが大きい。でも、それは知られていない。 
 
これほど世間の一般人から誤解されている分野は、他にないだろう。
 
世の中、「勉強すれば、知性と教養が向上する」ということや、「スポーツをすれば、身体能力が向上する」ということは、広く認められている。
 
それに比べて、「精神世界の探求をすれば、意識が向上する」というのは、あまり認知されていない。
  
いくら、「選民意識」がどうのこうのと言われても、やっぱり、精神世界の探求者と、そうでない世間の一般人とで、どちらの意識レベルが高いかは、ハッキリしている。
  
他の条件が同じなら、精神世界を探求したほうが、まちがいなく意識レベルが高くなるのである。
  
それは、日頃からスポーツをやっている人のほうが、カラダがよく動くのと一緒。こればっかりは、日頃の修練の有無によるものが大きい。
 
文句があるのなら、今からでも遅くはないから、精神世界を始めればいいだけだ(笑)。
 
 

 
 
とは言うものの、勉強で向上する「知性と教養」や、スポーツで向上する「身体能力」と比べて、精神世界の探求によって向上する「意識」というのは、いまひとつ分かりにくい。

でも、それは決して、目にも見えず、耳にも聞こえない・・・というようなものではない。

筆者の場合、「波動がいいですね」というのは、世間の一般人からもよく言われる。

いや、世間の一般人だけに、「波動」というようなスピ系っぽい用語は使わないのだが、要するに、そういう主旨のことをよく言われる。

だからといって、「そう言われることに、何のメリットがあるのか?」と言われたら、それまでなんだけど・・・(笑)。
 
でも、そんな波動が、周囲の環境にも影響を及ぼすのは確かだ。それだけ、自分にとっても居心地のよい環境に変わることになる。
 
それ以上に大きなポイントなのは、雑念がなくなることだろう。これは、瞑想で意識を集中することによって得られる。それは、日常生活にも大きなプラス効果をもたらす。

悩みの大半は雑念なので、雑念を排除すれば、その分だけ悩みが減ることになる。ウツ病その他で苦しんでいる人が多いことを考えれば、これだけでも大きなメリットと言えるだろう。

雑念がなくなれば、「集中しよう」とムリに努力しなくても、自然と集中力が増す。自然体で、集中していられるようになる。これは、日常生活において、いろんな面での能率の向上につながる。

とくに筆者の場合、これによって、仕事や生活の能力が劇的に向上した。

というのも、かつては、雑念が多すぎて注意欠陥のため、日常生活に支障を来たしていたからだ。
 
もっと若い頃から雑念を排除し、心を鎮めることができていたならば、回り道のない、ずっと安定した人生を送れたことだろう。それを思うと、まったく惜しいことをしたものだ。
 
もっとも、それと、回り道の多い人生の、どちらが真の意味で有意義だったか。それは分からないが・・・。
 
もちろん、「雑念を排除して、集中を高める」という効果は、瞑想でしか得られないものではない。

勉強でも、スポーツでも、ある程度、その効果は得られる。というより、どんなことでも、真剣に取り組んだならば、集中力は高まるだろう。

ただし、スポーツその他の場合、本来の目的は、それ以外のところにある。集中を高めるのは、そのための手段でしかない。
 
それに対して、「雑念を排除して、心を鎮める」ということ自体を目的にしているのが、瞑想の意義。

つまり、他のことをやらずに、それだけに専念しているから、瞑想の効果は大きい。

でも、たとえば、「弓道」なんかは、それと同じようなものなんじゃないでしょうか・・・というような疑問もありうる。
 
 

 
 
弓道は、集中力がモノをいう武道だ。いや、武道は、どれも集中力がモノをいうんだけど、弓道の場合はとくに、「心を鎮める」ということに重点がある。

マトに向かって、雑念を排除して、心を鎮める。キリリと弓をひきしぼり、無心に矢を放つ。それは、限りなく瞑想に似ている。
 
まあ確かに、弓道をやれば、瞑想をする必要はないかもしれない。

それでも、弓道だって、「雑念を排除して、心を鎮める」というのは、的に向かって弓を引きしぼる直前の、短い時間だけだ。それに対して、長時間にわたって、それだけをやるというのが瞑想。だから、やっぱり弓道も、瞑想の代わりにはならないだろう・・・。
 
 
(続く)

身体を使うのがヘタ ~ 三島由紀夫のケース

2014年06月29日 | こっくり亭日記


三島由紀夫は、スポーツが極端に苦手だった。スポーツという以前に、「身体を使うことが苦手」というのがピッタリ。これは、三島という人物を語る上で欠かせない、際立った特徴のひとつだ。

映画・演劇が好きだった三島由紀夫は、自分でも俳優として、映画に何度も出演していた。ヤクザとか人斬りといった、かっこいい役をやりたがったのだが、その割には、アクション・シーンが苦手だった。
 
「からっ風野郎」という映画に、ヤクザの役で主演したときは、灰皿を投げつけるシーンで何度もNGが出た。投げるときのフォームが、なんともサマになっていなかったのだ。監督は、練習のため、外でキャッチボールすることを命じたという。

しかも、エスカレーターでのアクション・シーンでは、失敗して転げ落ちてしまい、血を流して倒れていたという・・・。

少年の頃の三島由紀夫は、大変な文系秀才だったけど、病弱だった。しかし、精神的には、シンの強さがあった。文系に関しては、東大法学部をトップクラスで卒業し、大蔵省に入るほどの秀才だったが、スポーツはまったくと言っていいほどできなかった。
 
大人になっても小柄だったが、見るひとには「大きさ」を感じさせたという。初めて会った人は、「あの高名なる三島由紀夫という人は、こんなに小さかったのか」と驚いたが、話をしているうちに、なんともいえないほど大きく見えてきたという逸話がある。

でも、カラダの弱さへのコンプレックスは消えなかった。筋肉隆々な男は、最高の憧れだった。40歳近くになって、ボディビルに熱中したのは、そのせい。

カラダを鍛える喜びに目覚めた三島は、有頂天になった。「これだけの肉体があれば、なんでもできるぞ」と思うに至った。
 
そこで三島は、ボクシングや剣道、居合い抜きといった、武芸の修練を始めた。今までにも、そういうことをやりたくて仕方なかったのだが、身体が弱くてできなかった。ボディビルで鍛えたいま、いよいよ夢を実現するときがきたのだ。
 
しかし、ボクシング・ジムに入った三島由紀夫は、スパーリングで死にかけた。リング上でボコボコにされ、すぐにストップがかかった。ボクシングのコーチは、三島のボクサーとしての適性はともかく、そんな人がボクシングに挑むという、強烈な根性には圧倒された。「偉いもんだ」という言葉を繰り返しながら、ただ、首を振るだけだったという・・・。

居合い抜きも、裂帛の気合で、見た目はいかにもサムライっぽくてカッコよかったが、やはり、その道のプロには「生兵法はケガのもと」と言われ、評判が悪かった。「あんな風にカッコよく刀を振り回す人は、危ない。そのうち、腹を切って自決でもしてみせないことには、おさまりがつかなくなるだろう」と評した人もいた。不幸にして、その予言は的中してしまったが・・・。

この辺りのことは、筆者にもよくわかる。筆者も、小学生のときは、体力テストで「ボール投げ」の飛距離がクラスで最低だった。
 
本当に、キャッチボールがマトモにできなかった。こちらが投げたボールは、ことごとく見当違いの方向に向かい、真っ直ぐに飛んだとしても、相手までノーバウンドで届くことは決してなかった。おそらく、一生かけて練習したとしても、野球の外野手は務まらないだろう。外野フライが捕れないし、もし捕れたとしても返球できないからだ。

だから、「からっ風野郎」で、三島由紀夫が灰皿をマトモに投げられなかったというエピソードには、非常に納得できるものがある。
 
しかし、10年以上も前のことになるが、サラリーマンを辞めたとき、肉体労働にハマってしまった。

家電量販店の倉庫でアルバイトしたところ、社員がエアコンの室外機を次々にトラックから降ろして、倉庫に手早く積み重ねていた。自分もマネして積もうとしたところ、なんと、重くて持ち上がらないではないか。一方、社員は、軽々と積み重ねていた。あのときは、「同じ人間なのに、これほど力が違うとは・・・」とショックを受けたものだった。

それでも、やってるうちに力がつき、筋肉質になってきた。しまいには、エアコンどころか、冷蔵庫も持ち上げるようになった。おかげで、体つきはかなり逞しく、力も人並み以上になったのだが・・・。

このように、身体は、鍛えれば強化できる。しかし、いくらなんでも、ボクシングをやるというのはムチャだ。昔の人とはいえ、三島由紀夫の無謀さには、ホトホトあきれてしまう。

ものごとは、限界を知るべきなのだ。筆者も、自動車工場で働いたときは、不器用さを克服できずに断念した。機械でネジ回しする作業が、何度やっても、どうしてもズレて失敗した。それに比べて、バイト仲間が溶接作業を難なくこなしているのには、超えられない壁を感じた。

「筋肉は、鍛えれば強化できる。でも、不器用な人が、器用になることはない」ということを思い知った。そこで、同じフリーターでも、今度は学習塾の先生になった。

塾の先生をやったときは、子供や保護者からの評判が良く、生徒が増えて成果が上がった。船井会長のいう「長所伸展法」の正しさを実感したのは、このときだ。

人生は短い。もともと苦手なことを、時間をかけて努力して、得意な分野に変えているヒマはないのである。やっと人並みにできるようになった頃には、時間切れで、寿命が尽きる。最初から得意なことだけを、ひたすら続けるのが一番だ。
 
それはともかく、身体を鍛える話に戻ると、世の中で一番強い人たちといったら、プロレスラーか、自衛隊の特殊部隊だろう。

三島由紀夫が最終的に憧れたのも、やっぱり、自衛隊だった。体験入隊を重ねて、どんどん自衛隊にハマっていった。
 
またまた自分の話になって恐縮だけど、筆者も、自衛隊の体験入隊が好きだった。軍用ヘリコプターに乗ったときは、高所恐怖症なのも忘れて、気分爽快になったものだ。自衛隊の広報官も、「自分も、以前はパラシュート降下訓練をいつもやってました。広報官もいいけど、あの頃に戻りたい」と語っていた。
 
三島由紀夫も体験入隊で、自衛隊の戦闘機F-104に乗って興奮した。

>「F-104、この銀色の鋭利な男根は、勃起の角度で大空をつきやぶる。その中に一疋の精虫のように私は仕組まれている。私は射精の瞬間に精虫がどう感じるかを知るだろう」

という名文は、語り草になっている。

三島由紀夫といえば、ゲイという評判もあった。実際に、ゲイバーが好きだったようだ。女嫌いを公言したこともある。まあ、20世紀の現代文学では、同性愛のような変態性欲の話が定番ネタなので、小説家としての職業柄、関心を持たざるを得なかった面もあるだろう。純文学も、スケベなほうが売れる。川端康成がいい例だ。

それよりも、筆者が以前から思うのは、「おそらく、異性との性行為も不得手だったのではないか」ということ。なにせ、身体を使うことは何でも苦手なのだから、それも得意だったとは思えない。

筆者も、20代の頃、風俗店によく行った時期があった。サラリーマンの同僚からは、「ずいぶん、好きだな」と笑われた。しかし、それは、スケベだからではなかった。以前から、どうもナジメないものを感じていたので、しっかり練習することにしたのだ。何事も、その道のプロは違う。ここにもまた、大きな経験値の差があることに変わりはない。

これも、人によっては、実にバカげた問題に見えるだろう。でも、決してバカにできるものではない。自分にとって、できて当たり前のことだからといって、他人にも当たり前だとは限らないのである。
 
人生経験の個人差は、「この人生」のみに止まらない。過去の輪廻転生までも含めれば、膨大な経験値の差がある。現実の生活でも、歴史上の人物でも、実にさまざまな人間を観察してきた結果、そういう結論に達した。

この「身体を使う」ということに関しては、とくにそうだ。というのも、人間としての転生経験にとどまらず、それ以前の、動物として進化する過程においても、地球で無数の動物に転生してきた経験があれば、身体を使うのがうまくなって当然だからだ。
 
この地球の身体で生きることに慣れるためには、かなりの経験が必要とされる。地球に転生したからといって、すぐに上達するものではない。こういう当たり前のことが、あまりにも軽視されているのは残念だ。
  
それにしても、三島由紀夫の、武人に対する憧れは強かった。「人斬り」という時代劇での、切腹シーンの迫力はすさまじかった。

しかし、最期に自衛隊の基地に突入して自決するときでも、三島由紀夫の切腹と介錯は、失敗してやり直すハメになったため、無用の苦痛を招いたようだという話もある。一緒に突入した同志の、若き森田必勝のほうが、ずっと鮮やかにスッパリと自決できたようだ。

やはり、森田必勝のほうが、年齢は若くても、過去世まで含めれば、武人としての「経験」が豊富だったんじゃなかろうか。

三島由紀夫が、日本文学研究者のドナルド・キーンにあてて書いた最後の手紙は、以下のようだったという。
  
>「君なら僕がやろうとしていることを十分理解してくれると思う。だから何も言わない。僕はずっと前から、文人としてではなく、武人として死にたいと思っていた」
 


美しい星 ~ 三島由紀夫のUFO小説

2014年06月26日 | こっくり亭日記
(以下には、三島由紀夫の小説・『美しい星』のストーリーに関する記述が少しあります。これから読もうとする人には、一応、『ネタバレ注意』としておきます)
  
  
三島由紀夫の「美しい星」は、当時の人もビックリさせたけど、今でも不思議な小説だ。
 
純文学としては異色の、UFOや宇宙人を、真正面から取り上げた作品。
 
もちろん、純文学とSFが、相容れないジャンルだというわけではない。特に、安部公房の場合、初期にはSF小説が多くて、星新一との間に強烈なライバル意識もあったことが知られている。
 
でも、「美しい星」の場合は、SFではない。内容も雰囲気も、純文学そのものなんだけど、それでいて、普通にUFOや宇宙人が登場する。そこが異色なのだ。

どういうストーリーなのかというと、埼玉県飯能市の旧家・大杉家の家族四人は、地球の人間ではなく、宇宙人だった。父・重一郎は火星、妻・伊余子は木星、息子・一雄は水星、娘・暁子は金星から飛来した宇宙人だった。

彼らは、空飛ぶ円盤を見て、宇宙人としての自らの使命を自覚した。その一方では、なかなか円盤が見えなくて、悩むこともあった。
 
宇宙人としての使命とは、核戦争による絶滅の脅威から、地球人類を救うことだった。なかでも、父の重一郎はインテリで、使命感に燃えながらも、思い悩んでいた。

 
>「誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子のかけらの上を、血を流して跣足(はだし)で歩いてみせなければならぬ」 
 
 
これといった仕事をしているわけでもなく、先代の遺産で食いつないでいる平凡な小市民の重一郎は、そんな具合に思いつめていた。
 
そこに、「仙台の大学からやってきた羽黒真澄助教授と、その教え子の銀行員と、大学の近くの床屋の三人組」が登場する。
 
かれらは、白鳥座61番星あたりの未知の惑星からやって来た、ネガティブな宇宙人だった。汚れた人類を滅亡させ、この地球を浄化することが、彼らの使命。この三人組もまた、空飛ぶ円盤を見て、自分たちがネガティブETであることを自覚し、使命感に燃えていた。

そして、注目の論戦が始まる。

白鳥座のネガティブETは、「地球人類は不完全なのだから、核戦争で滅びるべきなのだ」と主張する。

これに対して、宇宙人一家の長は、地球人類を擁護する。

擁護すると言っても、それは、「人間それぞれが抱いている空虚な絶望が、虚無の連帯を生む。それによって、人類は、政治的な対立から離れるのだ」というような、ちょっとネガティブな論法なのだが。
 
論争は白熱し、怒鳴りあいのケンカになった。昭和30年代は、アメリカとソ連が冷戦を繰り広げていて、いつ本当の核戦争が始まるか、世界中がビクビクものの時代だった。そんな核兵器の廃絶をめぐる、長くて熱い論争。
 
ここは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に出てくる、かの有名な「大審問官」の議論をホウフツさせる場面だ。
 
「大審問官」というのは、ニヒルな無神論者の次兄・イワンが、おのれの思想を熱く語る、有名なシーン。小説の中の一場面とは思えないほど長い議論だった。
  
「美しい星」の宇宙人たちも、自分たちの思想を熱く語り合う。小説のストーリーよりも、この論争のほうが重い。

この「核戦争」をめぐる論争によって、「美しい星は、最高の思想文学になった」と評価する人も多い。
  
 
宇宙人一家には、美人で評判の娘がいた。透徹した美しさで、男を寄せつけない冷たさがあった。しかも、「私は、地球を救済しにきた宇宙人なのだ」という自覚を持ってからは、ますます美しさと冷たさの双方に磨きがかかった。
 
そんな娘は、周囲の俗物な男たちとはお付き合いせず、石川県金沢市に住む自称・金星人と文通する。

わざわざ金沢まで会いに行ったところ、金星人は、この世のものと思えないほどの、神秘的な美男だった。2人は、金沢で美しいUFOを目撃する。娘は、UFOを見ながら意識を失った・・・。
 
飯能に帰ってきたところ、娘は妊娠していた。この「処女懐胎」事件が、ひとつの焦点となる。
 
やがて、この金星人の男は、偽名を使っていたこと、女たらしでアチコチ放浪してる人だったということなどが判明するのだが、謎の人物であることに変わりはない。最後まで、神秘的な存在で終わる。
  
 
この宇宙人一家は、人類を救済しようと熱く燃えている。自分たちは、他の平凡な小市民たちとは違うのだ。なんたって、「地球人類を救済する」という、崇高な使命があるのだから・・・。
 
これは、見る角度によっては、「宇宙人」をパロディにしているようにも見える。

実際のところ、「美しい星」は、あくまでも、「宇宙人の物語」ではなく、「自分を宇宙人だと信じた人の物語」として書かれている・・・というのが、解釈としては正しい。作者本人がそうコメントしているのだから、間違いないだろう。
 
それでいて、UFOが、なんとも美しい描写で登場する。登場人物も、謎の人物が多い。
 
最終的には、どっちとも取れるようになっている。
 
精神世界マニアとしては不満が残るかもしれないが、文学マニアとしては、そこが面白いところ。
 
本ブログも、最初の頃は、そうだった。
 
7年前にブログを開設した当初は、「コンサル星人日記」というタイトルの、サラリーマン日記風ブログだった。当時はちょうど、小倉優子の、「こりん星人とは、もう言いません」という「脱・宇宙人宣言」が、芸能ニュースをにぎわせていた頃だった・・・。

当初は、スピリチュアル系の話題に関して、パロディーとして取り上げることが多かった。 

というのも、このスピ系というジャンルでは、妙に必死な人を見ると、失礼ながら、つい笑ってしまうことがよくある(笑)。パロディー化するのには、打ってつけの題材なのである。
 
それでいて、やっぱり、こちらも長年の精神世界マニアであることに変りはない。だから、最終的には、パロディーで終われない。「ミイラ取りがミイラになる」どころか、自分自身もミイラなのに、ミイラを見て笑うようなものだ。
 
 
その点、三島由紀夫の場合はどう思っていたのかというと、やはり、三島自身も、本気でUFOファンだったのは間違いない。UFO愛好会にも入って、UFOを観測しようと夢中になっていた。
  
ところが、いつまでたっても、UFOは現れなかった・・・。 
  
>この小説を書く前、数年間、私は「空飛ぶ円盤」に熱中してゐた。北村小松氏と二人で、自宅の屋上で、夏の夜中、円盤観測を試みたことも一再にとどまらない。しかし、どんなに努力しても、円盤は現はれない。少なくとも私の目には現はれない。そこで私は、翻然悟るところがあり「空飛ぶ円盤」とは、一個の芸術上の観念にちがひないと信じるやうになつたのである。 (生前の三島由紀夫のコメント・『空飛ぶ円盤の観測に失敗して』より) 
 
 
このように、待てど暮らせどUFOが出現しないので、三島由紀夫は、「UFOは、本当は実在しないのだ」と考えるようになった。論理に生きるインテリとしては、当然の結論とも言える。「それなら、小説に登場させるしかない」と考えた。
 
しかし、その結論に対する確信はなかっただろう。「やっぱり、たまたま、自分がまだ見ていないだけなんじゃないか?」という疑念が晴れるはずもない。それが、UFOファンの心理というものだからだ(笑)。 
 
スピリチュアルな諸問題に対して、最終的な結論が出るのは、結局のところ、「死んでから」ということになる。この地球という世界そのものが、そういう風にできているのだ。そこに住む者たちの解釈次第で、どっちとも取れるようになっている。

「美しい星」には、UFOが、なんとも美しい描写で登場する。それは、追いかけても手が届かない、神秘の宇宙への憧れそのもの。
 
思うに、三島由紀夫は、自決しないで、もうちょっと長生きすればよかったのだ。生きていれば、もう90歳に近いのだが、長野県にある日本のUFO聖地・八ヶ岳に住んで、そこで作家業を続けることもできただろう。
 
当時の八ヶ岳は、葦原瑞穂氏のような先駆者が住みつき始めたばかりで、冬は凍死する寸前の生活をしていた頃だったから、まだ早すぎた。今なら、リゾートマンションが整備され、同好の士が集まり、いつもUFO談義で盛り上がっている。
 
UFOを見るためには、よほどの偶然に恵まれない限り、かなりの努力が必要になる。そのために、八ヶ岳にずっと住んでいる人もいるくらいだ。アメリカだって、アリゾナ州のセドナが聖地とされている。
 
 
(続く)

豊饒の海 ~ 三島由紀夫の転生小説

2014年06月23日 | 精神世界を語る
(以下には、三島由紀夫の小説・『豊饒の海』のストーリーに関する記述が少しあります。これから読もうとする人には、一応、『ネタバレ注意』としておきます)
  
  
「豊饒の海」4部作は、三島由紀夫の最後の大作だ。
   
第1部では、主人公の親友が死ぬ。まだ、20歳だった。その愛と死が、全編に桜の花吹雪を散らしたような、なんとも美しい文章でつづられる。
  
第1部で死んだ親友が、第2部では、なんと、別の人に生まれ変わった。本人にその自覚はなかったが、主人公はそれに気づいた。でも、やっぱり20歳で死んだ。
 
毎回、20歳で死んでは、生まれ変わって別の人になる。第3部では、かわいい美少女に生まれ変わった。そして、やっぱり20歳で死んだ。
 
その間も、主人公はずっと生きていて、だんだん、年を取っていく。「生まれ変わり」を、ただ見守るだけ。どうすることもできない。生まれ変わりごとに、年の差が大きくなっていく。自分がお爺さんになるにつれて、「永遠の若さ」が、うらやましくなってくる。
  
第4部ともなると、「過去の生まれ変わりでは、いずれも20歳で死んだらしい」というウワサが、本人の耳にも入ってくる。そして、「ということは、オレも、20歳で死ぬのかな?」と、気にし始める・・・。
  
 
三島由紀夫は、晩年になるほど仏教思想に傾倒し、とくに「唯識論」を熱心にやっていた。「豊饒の海」も、後半になると、唯識論の話がしきりに登場するようになる。

唯識論というのは、古代インドの仏教哲学が生んだ、とてもフクザツな、輪廻転生の理論。 「唯識3年、倶舎8年」(・・・合計11年も勉強して、やっと理解できる)と言われるほど、難しいことで知られる。
  
なんで、そんなに難しいのか。
   
それは、仏教では、基本的に「霊魂」というものを認めていないからだ。
    
仏教では、「霊魂」というのは、「いつわりの自我」とされている。それは本当の自分ではなく、錯覚であり、実在しない。
 
修行者たるもの、そんなものに執着してはいけない。霊魂、すなわち「永遠の自我」への執着は、解脱のさまたげになるのである。「ボクは、死んでからも、肉体を抜け出した霊魂となって、永遠に生きていきたいな」というのは、世間の一般人ならともかく、修行者としてはアウトなのだ。

でも、だからといって、輪廻転生もないのかといったら、そういうわけでもない。それとこれとは、別の話になる。
 
つまり、霊魂は、存在しません。それは、アナタが作り出した幻影です。でも、輪廻転生はしています。・・・そこが、ややこしいところ。
  
じゃあ、「霊魂が無いのなら、何が輪廻しているのか?」となるのが、当然の疑問というものだろう。

古代インドでは、当時の最高の知性たちが集まっては、この議論に明け暮れた。これほど熱く盛り上がるテーマは、他になかった。
   
とはいうものの、もともと前提からして無理のある議論なので、やればやるほど、理屈がややこしくなっていった。
             
この問題の結論を言えば、「阿頼耶識」(アラヤシキ)が輪廻しているのだ・・・ということになる。いや、輪廻を作り出しているのだ・・・と言うべきか。
 
アラヤシキとは何なのかといえば、表面意識の奥にある、深層意識の中のコアの部分。
 
スピリチュアル風に言えば、「自分専用の、小さなアカシックレコード」といったところか。
 
これは高性能な記録装置で、ここには、あらゆる情報が書き込まれている。自分自身の過去はもちろん、過去世の転生履歴も、すべて記録されている。ついでに、地球生命系の歴史までが記録されている。
 
アナタが死んでも、この記録装置は残る。そこには、すべての情報が記録されている。
 
なんと、この情報を元に、アナタの新しいバージョンが再生されるのだ。
 
そこでアラヤシキは、映写機に変身する。世界というスクリーンに、「生まれ変わった、次の人生」という、映画を投影する。なんたって、ここには、あらゆる情報があるのだ。それを元に、スクリーンに映せばいいだけ。
  
そんなこんなで、要するに、阿頼耶識のおかげで、人は輪廻転生している。いや、「輪廻転生という、夢を見ている」というべきか。
 
 
晩年の三島由紀夫は、文学仲間たちと過ごした別荘で、唯識論の話に夢中になっていた。2枚の皿を手に持って、生まれ変わりの原理を、熱く語っていた。それを見た渋澤龍彦は、「お前、それじゃアラヤシキじゃなくて、サラヤシキじゃないか」と言ったという。
 
「豊饒の海」に出てくる、「若くして死に、そのたびに生まれ変わる」という話は、三島由紀夫の理想だった。
  
それくらい、三島由紀夫は、年を取りたくなかった。彼の美的感覚からいって、年を取った人間は、それほど美しくなかったのか。
 
いや、正確にいえば、年を取った人間が美しくないというより、年を取ってから死んでも、その死は美しくなかったのだ。
  
未完成なまま死んでこそ、その死は鮮やかに光り輝く。
    
永遠に未完成の繰り返し、「同じものの永遠なる回帰」(byニーチェ)が理想だったのかもしれない。
 
まさしく、体を張って、自分の人生そのものをアートにしようとしていた・・・。
   
 
ただし、本人も、死ぬことの虚しさは知っていた。 
 
あるとき三島由紀夫は、インド旅行して、ガンジス川のほとりの火葬場を見た。そこでは、無数の死体が、ゴミ焼却場のように、黙々と焼かれていた。そこで三島は、「これが、人間の末路なのか・・・」と、なんともいえない無常観にとらわれたという。
 
そんな三島由紀夫が死んだのは、45歳。自衛隊の駐屯地で、壮烈な割腹自殺を遂げた。
 
三島にとって、45歳は、もうギリギリ、ガマンできる限界だった。40歳をすぎた頃から、「これ以上は、年を取るわけにいかない。一日も早く、死ななければ」というくらいの、奇妙な切迫感があった。それは、いろんな友人への言葉や、手紙などに表れている。
 
それ以上に年を取ってから、壮烈な死を遂げても、カッコ良くないのだった。だから、なんとしても、45歳のうちに死ぬ必要があった。

割腹して介錯された三島の無残な姿に、現場を目撃した人は、「これが、あの大作家の末路なのか・・・」と、なんともいえない無常観にとらわれたという。
 
 
筆者も、このブログを書き始めてから7年にもなり、いつのまにか、三島由紀夫が死んだのと同じくらいの年になった。まあ、人間の寿命が延び、高齢化が進んだので、昭和40年代とは、年齢に対する感覚があまりにも違うんだが・・・。
  
今では、むしろ、ここまで来たら、「いっそのこと120歳くらいまで生きてやろうか」というくらいの気持ちでいる。それなら、まだまだ先は長い。その頃までには、アンチエイジングが高度に発達して、かえって今より若返ることになるだろう。
 
以前から、「われわれが生きている間に、人類は500歳まで生きられるようになる可能性がある。ということは、あと500年近くも生きるということだ」と、周囲の人には言っている。まあ、それは冗談なんだが。

いや、本当にそうなる可能性はあるのだが、自分自身が、そんなに長く生きたくない(笑)。
 
そこまで長生きする意味はないけど、予定よりも早く死ねば、それだけ、地球での人生が中途半端なものになる。ここで、キッチリ予定を完了しておけば、あと腐れなく地球とオサラバできるというものだ・・・。
 
 
(続く)
 

三島由紀夫 ~ 典型的なET人格の例

2014年06月22日 | 精神世界を語る

   
  
筆者が「典型的なET人格」と思う、歴史上の人物は何人もいる。
  
三島由紀夫は、その中の一人。
  
なんで、ここで文学者の名前が出てくるのかというと、個人的に、精神世界マニアであるのと同じくらい、文学マニアでもあるからだ。
 
三島由紀夫の作品といえば、「豊饒の海」4部作は圧巻だった。

4部作の最後を書き終わり、「豊饒の海」完・・・と書いて、三島由紀夫は自衛隊の駐屯地に向かった。そこで、ご存知のとおりの割腹自殺を遂げた、という次第。
 
「輪廻転生」をテーマにした文学としては、まちがいなく世界の金字塔だろう。
 
もうひとつの注目作は、「美しい星」。

SFならともかく、純文学としては滅多にない、「UFOと宇宙人」を真正面から取り上げた異色作だ。SFとしてではなく、普通に「宇宙人」が登場する。これほどスピリチュアルな文学は、世界の文学史上にも例がない。

ニューエイジ思想がすっかり定着した今ならともかく、昭和30年代にこれを書いたのには、ビックリさせられる。当時の文芸評論家たちも、「三島は、なんでこんな小説を書いたの?」と、首をひねるばかりだったという。
 
三島由紀夫の作品は、いろいろ読んだけど、「豊饒の海」と「美しい星」の2作品が、飛び抜けて好きだ。
 
文学者としては、安部公房や谷崎潤一郎が最高峰で、三島由紀夫はその次くらいに位置する人だと思うんだけど、この2作品は別格。
 
文学作品として優れているだけでなく、精神世界の隠れた古典でもある。
 
  
三島といえば、「右翼」を連想する人も多いだろう。「英霊の声」や「憂国」を書き、「などて、すめろぎは人となりたまいし」と、天皇の人間宣言を嘆いた。

日本刀を持って自衛隊の駐屯地に突入し、自衛隊員に決起を呼びかけた「市ヶ谷クーデター事件」は、世界的にも有名だ。
 
でも、これもETソウルには、よくあることなのだ。
 
「宇宙からの転生者」なら、「地球はひとつだ。国境など幻想なのだ」とばかりに、「日本」に対するコダワリなんか無いかといったら、そんなことないのである。もちろん、そういう人もいるのだが、そうでない人も多い。
 
ワンダラーの古典・「オイカイワタチ」でも、日本は特別な国であるとし、天皇陛下を「世界の救世主」と位置づけている(・・・正確には、今の天皇がまだ皇太子だった頃、『皇太子殿下は世界の救世主』と言っていた)。

それはちょっと過激なので、いかがなものかと思うのだが、それに近いノリの人は決して少なくない。
 
筆者も、大学生の頃には、「正月は皇居の参賀、お盆は靖国神社に参拝、秋は三島由紀夫の憂国忌」という調子で、「日本の伝統精神」をいつも力説していた。
 
それを見た周囲の人からは、「お前、それじゃ右翼じゃないか」と言われたものだった(笑)。特に、家族は左翼ぞろいだったので、家庭内でボロクソに言われた。
  
でも、やっぱり、右翼ではないのである。というのも、こちらの関心は、政治というより、精神世界にあるからだ。
 
一見、政治の話をしているように見えても、それは、あくまで精神世界の延長上にある。
 
日本は、もともと神道の国だ。その日本の精神世界関係者に、日本の神々、ひいては天皇を根本に据えた世界観が多いのは、注目に値する。
  
その点、筆者の場合は、単に、日本の伝統文化とその精神が好きなだけかもしれない。
  
ただし、反日キチガイ国家は嫌い。誰に何と言われようが、それだけは断言する(笑)。まあ、嫌いと言ったって、本当はたいして嫌いなわけでもないんだが。
  
それはともかく、「日本」は、それ自体が、精神世界の大きなテーマ。日本は、選ばれた特別な地なのだ。地球のアセンションに、大きな役割を果たすことになる。

ただ、正直なところ、現在の地球における精神世界の中心地は、日本じゃなくて、アメリカだとは思うんだけど・・・。
 
  
(続く)
   

シリウス人

2014年06月19日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々

  
冬の日暮れどきに、最初にぽつんと光り始める星は、シリウス。

地球の夜空で、一番明るい星といったら、シリウスだ。ほかの星たちと比べても、飛びぬけて光輝いている。
 
もともと大きくて高温な上に、地球や太陽系にとっては、「お隣さん」と言えるほど近い距離にある。だから、ますます明るく見える。
 
古来から、東洋でも西洋でも、畏敬と崇拝の対象になってきた。

上の画像がシリウスだけど、斜めに4本の光線が出ているうち、左下の光線のそばに、小さな点がある。
 
これこそ、かの有名な「シリウスB」。巨大な恒星の「シリウスA」と一緒に回転している、小さな伴星だ。これを見るためには、高性能な望遠鏡が必要になる。肉眼で見えることは、決してない。
 
地球くらいの大きさしかないのに、太陽ほどの重さがある。つまり、トンデモなく密度が高い。
 
もしも、シリウスBから、ひとかけらのカタマリを瞬間移動させて、テーブルの上に置いたとしたら、あまりの重さでテーブルは潰れ、カタマリはそのまま地下の奥深くまでズブズブとメリ込んでいってしまう・・・(たしか、『うる星やつら』というマンガに、そういうシーンがあった)。

「アフリカのドゴン族が崇拝していた」という話でも有名。アフリカの原始人の村で暮らすドゴン族は、肉眼では見えないシリウスBのことを、なぜか知っていた。「小さいのに、トテツもなく重い」ということまで知っていたという・・・。 
 
シリウスAとシリウスBは、お互いに引力をおよぼしながら、ダンスするように一緒に回っている。
 
「シリウス人には、ポジティブなシリウス人と、ネガティブなシリウス人がいる」とは、よく言われるところだけど、この「シリウスB」こそが、ネガティブ・サイドの象徴。

この説によると、シリウスAと、シリウスBの周囲には、それぞれに霊的な磁場のようなものがあり、前者はポジティブなシリウス人、後者はネガティブなシリウス人の拠点になっているという。
 
ネガティブなシリウス人は、しばしば、「地球を支配する黒幕」とも言われる。そこまで行かなくても、かなり困った連中だとされている。

太古の宇宙戦争、「オリオン大戦」をひき起こしたのも、ネガティブなシリウス人に原因があるという話だ。
 
もちろん、シリウス人と言ったら、普通は、「ポジティブなシリウス人」を指す。ネガティブなほうの人たちは、もともと数が少ない上に、日陰モノだから、まず会うことがない・・・。
 
愛と調和の星、プレアデスからやって来たプレアデス人が、典型的な「癒しキャラ」なのに対して、シリウス人は、シャキシャキした江戸っ子みたいな人たちだという定評がある。
 
精神世界ブログでも、文章を書きまくるようなタイプは、まず、プレアデス系。

それに対して、シリウス系は、言葉で説明するのが回りくどく感じられるため、絵とか音声などで、直観的にパッと分かるようにする傾向があるという。

それでいくと、コンサル星人(こっくり)は、自動的に「プレアデス系」に確定だ。はたして、どうなのか・・・(笑)。

よく言われるのは、「シリウス人は、水とか海に、深い縁がある」ということ。

スピ系の人には、イルカやクジラが大好きで、身の回りがイルカ・グッズにあふれてるような人がときどきいる。そういう人は、シリウス系である可能性が高いという。

その延長上かもしれないけど、シリウス人のイメージとしては、「青い肌」ってのも、よく出てくる。3D映画の「アバター」みたいな感じ。
 
 



シリウスも、冬の夜空で見つけるのは簡単だ。

プレアデスと同じく、シリウスを見るときも、オリオン座が目印になる。オリオン座ほど分かりやすい星座は、他にない。冬の夜空を見上げれば、普通は、三ツ星が真っ先に目に入るからだ。

オリオン座の左下、三ツ星を左斜め下まで一直線に伸ばした先に、ひときわ明るく光る星が、シリウス。

なんたって、シリウスほど明るい星は他にないのだから、実にあっさりと見つかる。天気がイマイチで、他の星がひとつも見えないときでも、シリウスだけはボンヤリ光って見える・・・というくらい。

シリウスとプレアデスは、オリオン座をはさんで、両サイドにある。3つとも、冬の星座の代表格。

それはつまり、地球から見て、この3つは同じ方角にあるということ。それだけ、銀河系の中でも、お互いに近い場所にある。

この3つの星系が、地球に大きな影響をおよぼしてきたとされるのも、決して偶然ではない。われわれは、広大な宇宙空間から見れば、すぐ近くにいる宇宙ファミリーなのだ・・・。
  

(続く)
 

プレアデス人

2014年06月19日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々

 
  
いろんな宇宙人がいる中で、一番人気なのは、プレアデス人だろう。シリウス人と並ぶ両横綱だけど、その中でも別格だ。
 
その理由としては、プレアデスと地球との関係が強く、プレアデス人が地球人の進化に深く関与してきたということ。遺伝子操作によって、DNAが共通するとも、よく言われる。
  
もうひとつには、プレアデス人の特徴として、しばしば語られる「美しさ」だろう。
  
プレアデス人は、金髪碧眼の美男美女として現れることが多い。北欧系の外見であることから、「ノルディック」とも呼ばれる。その点、ゼータ・レチクル人やレプティリアンとは、えらく扱いが異なる。
  
ただし、彼らは、もともと地球人と同じような物質界の肉体存在ではないと考えられるため、どんな外見で立ち現れようが、単なる「表現」の問題とも思えるのだが・・・。
  
「プレアデス人=白人」というイメージが定着したのは、かの有名なスイス人のコンタクティ、ビリー・マイヤーが書いた「プレアデス/プレヤール人とのコンタクト記録」のおかげだろう。ビリー・マイヤーの影響は広くて深く、現在に至るまでのプレアデスの人気も、この人によるものが大きい。
  
プレアデス人の影響は、主に西洋文明のベースになっていると言われる。でも、誰もが「プレアデス人=白人」と思っているわけではなく、「プレアデスの文化を最も継承しているのは、日本だ」という人も少なくない。
 
プレアデス人の「サーシャ」をチャネリングすることで知られるリサ・ロイヤルも、しばしば、プレアデスと日本との強いつながりを語っている。
 
そのリサ・ロイヤルの「プリズム・オブ・リラ」によれば、プレアデス人は、全員がテレパシーでつながった意識状態にあった。この上なく平和な、美しい調和を実現した社会だったけど、あまりにもワンネス化したため、没個性的になってしまった。
 
プレアデスと、日本や東洋との結びつきが語られる背景には、このような全体主義・集団主義の精神がある。
 
日本人は、「沈黙は金」とか「あうんの呼吸」と言って、言葉を超えた、テレパシー的なコミュニケーションを好むところがある。昔の東北地方の人は、とくに無口だった。寒いせいでもあるけど・・・。
   
それを思うと、確かに、日本人にはプレアデスっぽいところがある。
  
そんな、ポジティブ・サイドを代表する惑星だけど、なにごとも行き過ぎると弊害がつきもので、プレアデスの場合、その弊害は「全体主義」となって表れた。「個性のない、金太郎アメのような集団」になっちゃった・・・というわけだ。「平和なのはいいけど、さすがに、これじゃつまんねえ」とばかりに、個性を求めるプレアデス人は、別の惑星に移住したのだという。
 
その代わり、なんといっても平和なのが、プレアデスの取りえ。プレアデスこそは、「愛と美」の世界だ。アーティストや俳優などに、プレアデス系が多いと言われている。

「愛の狩人」と呼ばれるような人や、「根っからの芸術家」と言われるようなタイプの人は、プレアデス系である可能性がある。
 


 
 
プレアデス星団には、いくつかの若い星(6千万年~1億年くらい)が集まっている。
 
ひとつひとつは目立つほどの星じゃないんだけど、いくつも集まっているから、夜空に明るく輝く。東洋でも西洋でも、昔から有名で、日本では「昴」(すばる)と呼ばれてきた。
 
「プレアデス星」という名前の、ひとつの星があるわけではない。だから、「プレアデス星人」という言い方は、正しくない。ここは、ちょっと要注意。
  
ビリー・マイヤーがコンタクトしたプレアデス人の場合、「私はプレアデス星系の、エラ星から来ました」と言っていた。そういう言い方が、本当は正しい。
   
もともと、「プレアデス人」というのは、そういう意味だった。
 
つまり、「あなたは、どこから来たのですか?」ときかれて、夜空に輝くプレアデスを指差した・・・というくらいの話。
 
これは「シリウス人」その他も同様で、「○○人」と言ったって、必ずしも、その星の上に住んでいるということを意味するわけではない。「地球の夜空でいえば、シリウスが見える辺りから来ました」というくらいに受け取るのが、本当は正しい。
 
  
それはともかく、冬の夜空で、プレアデス星団を見つけるのは簡単だ。

もともと湿度が高い上に、街の明かりがまぶしい日本の都会では、天気がよくても、星などそんなに見えるものではない。それでも、オリオン座なら、すぐに見つけられる。それは、なんたって、三ツ星がやたら目立つおかげ。

オリオン座さえ分かれば、プレアデスを見つけるのも難しくない。オリオンの右肩を伸ばしたところに、有名な赤い星・アルデバランがあり、そこからまた少し伸ばした先に、プレアデスがある。


画像出典

「いくつもの星の集団」だと分かっていても、よほど星空のキレイな環境じゃない限り、普通は、ひとつの塊に見える。ただし、普通の星とは違って、三角形か、「?」マークみたいな形に見える。
 
冬は寒くて嫌いだけど、オリオンとプレアデスを見るのは、楽しみ。
 
筆者も、プレアデスが大好きだ。
 
 
(続く)
  

ワンダラーの「出身地」

2014年06月17日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々
 

ワンダラーの「出身地」としては、プレアデス、シリウス、ベガ、アークトゥルス、オリオン・・・といった、地球に近い星団や星座が、よく挙げられる。
   
なぜ、これらの星から地球に来るのか。それは、「プリズム・オブ・リラ」の話をしたとき、筆者がつくった表を見れば、よく分かる。
  
   
☆地球からの距離の一覧表
 
シリウス          8.6光年
こと座ベガ         25光年 
レチクル座ゼータ      35光年
アルクトゥルス       37光年
プレアデス         400光年
オリオン座ベテルギウス   640光年 
 
銀河系コア         2万5千光年
 
アンドロメダ星雲      250万光年
  
 
銀河系の直径は、「10万光年」とされている。銀河系の中心(銀河系コア)と、太陽系は、2万5千光年ほど離れている。
 
10光年や20光年ということは、光速で移動しても10年や20年もかかるわけで、人間にとってはトテツもなく遠いところだけど、広大な銀河系の中では、「となり近所」と言えるほど近い。
 
たとえてみれば、地球の位置を「東京駅」だとして、シリウスのある辺りを「新宿」だとする。

この例えで、アークトゥルスがどのくらい離れているかというと、だいたい「横浜」くらいに相当する。歩くと大変だけど、自転車なら、たいしたことはない。
  
プレアデス星団はそれより少し遠くて、名古屋あたり。オリオン座は、大阪くらいの距離にある。どちらにしても、電車で日帰りできる範囲内だ。
 
それに比べて、銀河系の中心は、飛行機に乗っても丸1日かかる地球の裏側の、ブラジルやアルゼンチンあたりまで離れているという計算になる。さらに、その向こう側の星たちともなると、それこそ地球を何周もするほど遠い。
  
これほどまでに、だだっ広いのが銀河系。そんな銀河系の中で、地球や太陽系と、シリウスやプレアデスなどの「こと座ファミリー」が集まっているところは、ほんの小さな一角でしかない。
  
早い話が、シリウスやプレアデスと、地球との関係が深い最大の理由は、単純に、「近いから」と言えるだろう(笑)。
  
 
とはいうものの、これらの星たちは、地球と同じような物質世界に、肉体の人間や動物が住むようなところではない可能性が高い。

たとえば、高熱でまばゆい光を放つプレアデス星団にあるのは、若い星ばかり。星として誕生してから、まだ数千万年しか経っていない。地球で生命が発生して、人間に進化するまでに何十億年もかかったことを考えれば、とても時間が足りない。たとえ、地球と似たような環境の惑星があったとしても、そこにいる生命は、まだ人間に進化できていないと考えられる。

この点については、あのヘミシンクの坂本政道氏も、理学部出身の人だけに、かつては、「シリウスやプレアデスに、人間が住んでいるはずはない」と考えていたという。その疑問は、「これらの星にいる宇宙人は、地球の人間と同じような物質界の存在ではないのだ」と気づくことにより、あっさりと解決された。

シリウス人やプレアデス人は、非物質界の存在なのか、もしくは、物質界から非物質界への移行段階にある存在で、地球人がいる物質界の次元とは、ちょっと異なるところにいる。
   
このため、直接に接触するのは難しい。
 
地球環境も、いままではガチガチの物質界だったけど、これからは、徐々に非物質化が進んでいくと言われている。そうならないと、地球人と宇宙人との、本格交流はできかねる。
 
それこそが、地球のアセンションの、本質的な意義なのだ・・・。
 
 
シリウスやプレアデス・オリオンなどの宇宙人は、地球の創世にも、深く関与したと言われている。

そのあたりの経緯については、「プリズム・オブ・リラ」をはじめとして、実にさまざまなストーリーが語られてきた。
 
銀河系の、この一角においては、壮大な宇宙戦争が何億年も戦われてきたのだという人もいる。

まあ、宇宙戦争はともかくとしても、いろんな面で地球に影響があったのは、まず間違いないだろう。

ただし、もともと異次元の存在だけに、直接コンタクトは難しい。だから、間接的なアプローチが中心になってきた。
 
  
(続く)
 

ワンダラーの特徴

2014年06月14日 | こっくり亭日記
 
ワンダラーは、地球に1億人ほどいると言われている。これは、地球の人口からすると、「60人~70人に1人」というくらいの比率。
 
日本のような先進国には、とくに多いと考えられるので、「20人~30人に1人」というくらいにはなるだろう。これだと、「クラスに1人か2人はいる」という感覚。
 
これに対して、「いや、ワンダラーはもっと多いぞ」という声もある。「地球人類の約87%は、宇宙からの転生者」というのも、どこかで見た覚えがある。何を根拠にした数値なのか、それは分からないが・・・(笑)。
 
なんといっても、「地球生活になじめない」というのが、ワンダラーの基本的な特徴。
 
このため、ADHD(注意欠陥・多動性障害)と診断される子供も多い。
 
おとなになっても、地球での生活が非常に難しいため、精神を病むケースもよくある。もともと、感受性が強い人が多いので、特にそうなりやすい。
 
そこまでいかなくても、「変わったヒト」、「不思議なヒト」・・・とは、よく言われる。筆者の場合も、そのままズバリ、「宇宙人」、「ET」などとよく言われた。
 
地球の物質世界に慣れていないので、時間や距離の感覚などが、かなりズレている。普通の子供と違って、10年、20年・・・と地球で生きていても、なかなか慣れてこない。
 
この点に限らず、普通の地球人にとっては、とても簡単で当たり前のことが、妙に難しくて、悪戦苦闘することが多い。
 
地球人の身体で生きることに慣れていないから、使い方がヘタだ。身体の動かし方や、声の出し方などに、その影響がある。妙にヘタなのだ。
 
それでいて、地球で生きることには、あまり執着がない。それどころか、「ここは、自分がいるべきところではないな。早く、元いたところに戻りたい」という、帰還願望を持っていることが、よくある。

それにしても、人生が大変だ。本当に、大変な人生を送っている。あまりにも苦労が多い。
 
そんなワンダラーが、強い関心を寄せることが多いのは、精神世界とアート。感受性が強いせいもあって、芸術に傾倒することが多い。
 
それに限らず、世間の一般人とは、価値観が大きく異なっている。合わせるのも難しいほど、大きく感覚が異なる。ユニークな思想を持っている人も多い。

価値観がズレているから、協調性がない。

突っ張っているわけではなく、むしろ、穏やかで優しく、少しも攻撃的でない。それなのに、協調性は乏しい。考え方が、周囲と根本的にズレているのが原因だ。

もっとも、協調性がないのは、それだけが原因ではない。ワンダラーには、「自分のやりたいことしか、やらない」という傾向がある。興味のないことは、基本的にやらない。ワガママだからというより、極端にマイペースだから、自然とそうなってしまうのだ。

子供を欲しがらないし、親に対しても、「なにか違う」という感じがしている。それでいて、小さな子供は好きだ。動物や植物も大好きで、正直なところ、人間よりも、犬や猫のほうが好きだ。
 
一人でいるのは、苦にならない。一人でジッとしていても、まったく孤独感が無い。

地球人の姿形や、地球の風景が、なぜか奇妙に思えてしまう。実際には、自分のほうが奇妙なのかもしれないが・・・。

攻撃的でエゴイストな地球人を見ると、良い悪いという以前に、ビックリしてしまう。「こんな人間が、本当に実在するとは・・・!?」というくらいの、カルチャーショックがある。

ツブラな瞳を持ち、とくに子供の頃は、「エキゾチックな顔立ち」と言われることがよくある。

宇宙が大好きだ。とにかく、宇宙船に乗って、どこかに行きたい。


 
・・・こういった特徴がなにかにつけて当てはまる、典型的な実例がある。それは、他ならぬ筆者自身。
 
ADHDでもあるし、「変わったヒト、不思議なヒト」ともよく言われるし、身体の使い方がヘタでもあるし、精神世界マニアで、芸術狂でもあるし、地球での人生に執着がないし・・・。
  
「ワンダラー」の説を長らく熱心に唱え続けているのも、自分自身という実例があるせいだ。
 
まあ、それだけだと抽象的なので、どう当てはまっているのかについても、これから書いていきたい。
 
自分のことだけでなく、思い当たる実例が、他にいくつもある。それについても、今後は取り上げて行きたい・・・。
 
 
(続く)
 

ワンダラーは、第六密度から転生してきた

2014年06月13日 | こっくり亭日記
 
今までの地球は、第三密度だった。今は、第四密度に進化している真っ最中。
 
たとえてみれば、今までの地球は、中学校だった。これからは、高等学校になろうとしている。もう中学校の卒業式は終わって、高校の入学式を待つばかり・・・という時期だ。

ワンダラーは、それにお付き合いするために、わざわざ他の惑星から転生してきた。

そんなワンダラーは、第六密度からの転生者が多いと言われている。

たとえてみれば、大学院生が、中学に入り直して、一緒に高校に進学するようなものだ。

大学院生にとって、いまさら高校に入り直す必要はない。必要はないけど、これにお付き合いすることには意味があるので、あえて中学校に転生している。

もしも、大学院生が、そのまま中学に入って、中学生たちと一緒にいるならば、まず、周囲と同じレベルで対話をするのは無理がある。
 
どう見ても、「生徒」には見えない。普通に見て、「先生」としか思えないことだろう。先生とまで行かないにしても、まあ、「教育実習生」といったところか。

本来なら、それくらい、意識レベルに差があるのも事実。
 
だけど、一見、そうは見えない。そこが、重要なポイント。

というのも、地球に転生する過程で、それまでの記憶や自覚はすべて失われている。まっさらな白紙状態で、普通の地球人と同じように生まれてくる。
  
だから、周囲はもちろん、本人にさえ分からないようになっている。とりあえず、「何を考えているのか、よく分からないヒト」くらいにしかなれない。

もしも、「大学院生」としての記憶と自覚を持ったまま、「生徒」たちを指導するために地球にいるのならば、それは、ここでいう「ワンダラー」(さまよえるヒト)ではない。

ワンダラーでないのなら、別の名前を考えなきゃいけない。それは、「覚醒ETソウル」とか、場合によっては、「ウォークイン」と呼ばれることもある。
 
中には、「大学院生」どころか、「教授」に相当するような意識レベルの転生者もいる。そういう人が、「人類の教師」と呼ばれるのだろう。

でも、普通は、そこまでの力がない。むしろ、地球での困難な人生をなんとか生き抜くのが精一杯だ。

どちらにしても、意識進化のプロセスというのは、すべてが途中経過だし、行ったり来たりの繰り返しも多いので、究極的には、たいした違いじゃないとも言えるけど・・・。
 
 
地球に生命が発生して、40億年ほどがすぎた。

進化は、最初はゆっくりと始まり、だんだん加速してきた。今は、1年が、かつての1億年にも匹敵するほどの、急速な進化が起きている。

そんな中で、地球の生命は、かつてはアメーバのような小さくて単純な生き物から始まり、無数の輪廻転生をかさねるにつれて、鳥や獣へと進化し、やがて、人間にまで進化してきた。

そこに、宇宙からの転生者たちも、続々と参加してきた。プレアデス、シリウス、ベガ、アークトゥルス・・・といった星から、転生者が入ってきた。

地球人類には、まだ、野生動物の意識から進化して、日が浅い魂が多い。彼らは、生き残るための闘争本能を、色濃く残している。いまも、争いが絶えない。

そんな地球に、別の波動をもたらすために到来したのが、宇宙からの転生者たちだ。

宇宙の意識は、究極のところでは、すべてつながっている。でも、とりあえず「文化の違い」みたいなものは大きい。

たとえてみれば、古代の日本列島に、アジアの各地から人間が集まってきたようなものだ。シベリアや北海道から来たヒトもいれば、東南アジアや沖縄から来たヒトもいるし、中国や朝鮮から来たヒトもいる。

そういう人たちが、長い間に混血して、「日本人」が出来上がってきた。

そんな日本に、最近になって移住してきた外国人は、「移民」と呼ばれる。日本にやってきて日が浅いので、文化の違いに直面することになる。

宇宙からの転生者も、それに似ている・・・。


(続く)