宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

それでも、意識の覚醒は起きる

2010年03月29日 | 精神世界を語る
 
「さあ、久々にインターネットでアセンション情報でも漁ってみようか」(笑)と思ったところ、やっぱり、「どんなにアセンション情報を漁ったところで、お前を満足させるような答が出ることはないぞ。そんなことより、結局のところ、お前自身が覚醒するかどうか。それがすべてだと言っていい」という考えが、しきりに意識の表面へと浮かび上がってきた。

もちろん、そんなことは、とっくに分かっている。だが、覚醒するのは難しいのだ。なんたって、釈尊やクリシュナムルティのような、人類の歴史上でも限られた覚者の中の一人になろうというのだから、目指すもののレベルが高すぎる。あまりにも実現困難だから、「ここはひとつ、『地球のアセンション』の流れに乗って、ボクもついでに意識進化したいものだな」と考えているというのが実情だ。

でも、結局のところ、地球のアセンションといっても、ひとりひとりの人間が、意識を覚醒させるかどうかにかかっている。いくらハードルが高いとはいえ、「覚醒」から逃げるわけにはいかない。もちろん、60億人だか70億人だかしらないが、無数の地球人全員が覚醒することなど、ありえない。そもそも、大部分の地球人は、「われわれが目指しているものは、意識の覚醒なのだ」ということすら、分かっていないというのが実情だ。彼らの大半は、日常生活に埋没しきっている。それは仕方がない。地球人の日常生活の現実は、あまりにも厳しいのだから・・・。

地球人類の「意識の覚醒」は、ごく一部の探求者にかかっている。だからといって、精神世界の探求者が「選ばれた民」だというわけではない。単に、この分野において先陣を切るだけだ。世間の一般人たちも、後からついてくる(多分・・・)。大勢のワンダラー(宇宙人の魂を持った、地球への転生者)が集められているのも、そのためだ。結局のところ、意識が進化した社会からやってきた転生者たちの、経験とカンに頼らざるを得ない。それが、今の地球の実情と言えるだろう。

それにしても、「意識が覚醒したら、一体どんな人になるの?」というのが、素朴な疑問というものだろう。

実のところ、それは分かっていない。「覚醒した後のことは、覚醒してみなければ分からない」というのが実情だ。それはそうだろう。ぐっすりと眠って、夢の中の世界に没頭している最中に、目覚めたときの状態を考えられないのと一緒。目を覚まして、しばらくしてから、だんだん頭がスッキリしてくる。次第に、「夢の中では、自分は警察に追いかけられる凶悪犯罪者なのだと思い込み、必死で逃げていたのだが、実はそうではなかった。本当の自分は、OO市在住のXXという、平凡な小市民にすぎなかったのだ」といったように、「夢の中の自分」が実在しない存在だったことに気づき、「本当の自分」を徐々に思い出す・・・。

それと同じように、意識を覚醒した後のことは、覚醒してから考えればいい。まずは、「自分は、夢マボロシの世界に埋没している」ということに気づくことが先決だ。

それにしたって、意識の覚醒が難しすぎる。なんといっても、それを実現できた人が、今までの地球人類にはあまりにも少ないのだ。実現したのは、人類の精神史に名を残すほどの偉大なる覚者くらいのもの。これを地球人類のごく一部とはいえ、それなりに大勢で実行するというのは、絶望的に困難なように思える。ましてや、それを自分自身が実行するというのは・・・。

しかし、またしても、「お前がやらないで、ほかの誰がやるというのだ?」という考えが、しきりと心の中に浮かんでくる。しかも、「心配するな。昔と違って、今はグッと覚醒しやすい環境になってるから」だという。

やっぱり、そうなのか? 「宇宙から、地球人類をまとめて覚醒させるべく、膨大な生命エネルギーが地球に流れ込んでいる」という話は、本当だったのだろうか・・・?

またしても、「それは、解釈の問題だ。それを、そのまま事実だと思ってもいいし、何かを象徴する表現だと思ってもいい。どちらにしても、結果は同じなのだから」という考えが浮かんだ。

なんだか、「プリズム・オブ・リラ」の前書きに似ている。どうやら、「潜在意識からのメッセージ」というより、単に「リラ」の一節をふと思い出しただけのようだ。でも、そういうのが、潜在意識からのメッセージだったりするんだよな・・・(笑)。

それはともかく、そうだ。これは、「プリズム・オブ・リラ」の前書きと同じなのだ。「これを、そのまま事実だと受け取るのも自由。何かを象徴するストーリーだと受け取るのも自由。どちらにしても、同じことだ。両方とも、当たらずとも遠からず・・・」。

つまり、真実はひとつ。それは、「地球人類が、(それなりに)まとめて覚醒に向かっている」ということ。覚醒した人類は、急激に意識エネルギーを増大させる。エネルギーが増大した地球を、「宇宙からエネルギーが降り注いだ」というように見るのも、ひとつの解釈と言えるだろう。もちろん、本当に宇宙からエネルギーが降り注いでいるとしても、それはまことに結構なことだ。結局のところ、意味していることは変わらない。
 
どうやら、われわれが、釈尊やクリシュナムルティの時代より、格段に「意識の覚醒」をやりやすくなっているというのは本当らしい。それだけは、間違いなさそうだ。情報を漁るまでもなく、直感的認識により、それが真実だと知った。「知った」というより、思い出した・・・!!
  

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アセンションには、まず個人の覚醒

2010年03月28日 | 精神世界を語る
 
もう、2010年の春分も過ぎた。「2012年の冬至」が近づくにつれ、いよいよ現実味を帯びてきている。「アセンション」に関しても、過激なコメントが減り、慎重な意見が増えてきているように思われる。これは当然のことだし、良いことだと思う。そんな中、自分自身の意識の内側に向かって、「2012年、アセンションは本当に起きるんでしょうか?」と問いかけてみる。もっとも、それほどシリアスな気持ちで問いかけているわけではなく、気楽な質問なのだが・・・。すると、「それは、気にしても仕方がないことだ」という考えが、しきりに浮かんでくる。
 
それにしても、なぜ、それを気にしても仕方がないのだろうか。筆者の心の中の声(?)によると、それは、「アセンションというのは、自分ひとりでもできるぞ。地球全体のことを気にするより、まずは、お前がやってみろ」ということらしいのだ(笑)。

というのも、かつては(・・・ていうか、今でもそうかもしれないが)、「アセンション」というのは、「地球が変わります」という話だった。宇宙から降り注ぐパワーによって、地球の環境が変わり、それによって、人間が変わる。人間は、環境によって変わる生き物なのだ・・・というわけ。

でも、最近は、風向きが変わってきているように思う。まずは、個人が、それぞれの意識を覚醒させる。意識を覚醒した個人が増えてくれば、地球が変わります。つまり、地球が変わった結果として、個人が変わるのではない。逆に、ひとりひとりの、意識を覚醒させた個人を積み上げた結果として、地球が変わります。どうも、そういう話になってきたようなのだ。
 
端的な例のひとつに、「バシャール」のチャネリングが挙げられる。ダリル・アンカ氏がチャネリングする「バシャール」は、「2012年に地球がアセンションするためには、覚醒した個人が14万4千人、必要だ」と、具体的な人数まで挙げて断言している。

ここでは「144」という、芳香ただよう神秘数が登場してきたわけだが、この数字の是非はさておき、注目すべきなのは、「覚醒した個人の人数がカギを握る」という考え方が、ハッキリと打ち出されたことだろう。

結局のところ、個人が自分ひとりで覚醒するしかない。そういう個人が、それなりの人数に達すると、地球環境が変わる・・・という考えには、説得力がある。というのも、覚醒した個人の意識には、それだけのパワーがあるからだ。覚醒するにつれて、意識の振動数が加速度的に増大する。その結果、覚醒していない世間の一般人の、数千人分、数万人分ものエネルギーを、世界に対して放射するようになる・・・。「60億人」という世界の人口に比べ(もちろん、統計が粗雑な中国・インドの人口は、公表されているより遥かに多い可能性が十分にあるのだが)、覚醒した人々がごく一部にすぎなくても十分な理由が、ここにある。とはいえ、それなりの数が必要だ。

これは簡単なように見えて、ハードルが高い。というのも、意識を覚醒させるのが難しいからだ。これまでの人類は、釈尊やクリシュナムルティを初めとする、限られた覚者しか覚醒することができなかった。それを、人類の一部にすぎないとはいえ、それなりに大勢でやろうとしているのだから、言うは易く、行うは難し。

というより、そもそも、「覚醒するって、どういうことなの?」というのが、素朴な疑問と言えるだろう。

この疑問に対する回答は、意外に簡単なものだ。それは、「人生および世界という、夢から覚めること」を意味している。

われわれは、夜中に眠っているとき(まあ、夜勤の人なら昼間に眠るだろうし、夕方に眠るのが好きだという人もいるだろうが)、夢を見ることがよくある。夢の中で、人はそれなりにシリアスに生きている。たとえば、大学を卒業して十数年が経過しているにもかかわらず、「試験に落第して留年しそうだ」とマジで焦っている夢。それは夢の中では深刻な問題だし、「進路相談室」あたりを駆けずり回るのに必死。「ひょっとして、これは夢なんじゃないか」などという、疑問が生じるような余裕はない(笑)。でも、目が覚めてしまえば、「深刻な状況」は、パッと雲散霧消。夢の中のことは、夢の中でしか意味を持たない。目を覚ませば、それは終了する。「あ、あれは夢だったのか・・・」と、しばし呆然。

覚者たちによれば、われわれの人生もまた、そういうものなのだという。人生というより、われわれの生きている日常世界が、夢マボロシの世界といえようか。そればかりでなく、この宇宙全体が、幻影(マーヤー)だというのだ。
 
われわれは、仕事や日常生活において、いつも深刻な現実に直面している。切迫した問題で、追い込まれることが実に多い。このため、大半の人は日常生活にすべての精神エネルギーを集中して生きている。とてもじゃないが、「精神世界の探求」なんか、やっている場合ではない(笑)。それほどシリアスな、現実の世界と人生。ところが、目が覚めた途端、それは雲散霧消してしまい、意味をなさなくなってしまうという。

そういうと、「人生という夢から目を覚ます」というのは、なんだか、「死ぬ」ということと同義のような気がしてくる。たしかに、「人生という、一夜の夢がパッと終わった」などというと、死ぬことを意味しているような感じだ。それこそ、「大霊界、死んだら驚いた」(by丹波哲郎)の世界。あれだけ必死で生きていたのに、死んでみたら、人生や世界には、何も実体がなかった。あれは、一夜の夢だったのか・・・。

でも、それは違う。「人生という夢から目覚める」ということと、「死ぬ」ということは、同義ではない。

というのも、人間、死ぬのは簡単だ。それに比べて、覚醒するのは遥かに困難なのだ。そもそも、「死んでも、人生という夢から覚めない」という人が、残念ながら(?)、圧倒的多数を占めているのが実情だ。モンロー研で言う「信念体系領域」についてはご存知の方も多いと思うが、そこには肉体を失ったにもかかわらず、意識の世界において、生前と同じような生活を続けようという人たちが無数にいる。仕事人間も多いし、宗教に没頭している人も多い。もちろん、美食やSEXにおぼれている人たちもいる。たとえ、このような領域を抜け出したとしても、人間としての意識を超えることは、さらに難しい。肉体を持っていた頃の自分の「記憶」が、すべてのアイデンティティを支えていることに変わりはないからだ。覚醒しないまま、また生まれ変わって、さらに次の人生という強烈な幻影にとらえられてしまう・・・。

人間の大半は、死んでも、人生という幻影から覚めない。それほど、この世界や人生の現実感は、圧倒的なものなのだ。それは、人間の意識をワシづかみにして離さない。死後生活者にして、この状態。ましてや、生きている人間が目を覚ますのは、絶望的に困難だ・・・。

というようなワケで、要するに、覚醒するのは極めて難しい。これまでの人類においては、限られた覚者にしかできなかった。これを、それなりに大勢でやろうというのだから、やっぱり革命的な変革と言える。とはいえ、覚醒するのは一人の個人。ひとりひとりの個人が、自分自身の意識を覚醒させる以外に、どうすることもできない。「まずは、お前自身がやってみろ」というのは、そこにある。

でも、意識を覚醒させるのは難しい。難しいのが分かっているから、「地球のアセンション」に期待しているのだ(笑)。言ってみれば、「大宇宙の銀河から、地球に降り注ぐ宇宙パワー」という他力本願で、あまりにも実現困難な「覚醒」を実現しようとしている。
 
結局、「意識の覚醒」に自分で取り組むしかないのか。トホホ・・・。とはいえ、宇宙から地球に向かって「パワー」が降り注いでいるというのもまた、事実であるように思えてならない。

ヒヨコが卵からかえるときも、内と外の両方からのパワーが必要なのだ。卵の内側からは、ヒヨコが小さなクチバシで、コツコツと卵のカラを突つく。親鳥は、卵を温めたり、クチバシで突ついたりして、卵の外側からそれを助けている。そういう絵柄だ。「トホホ・・・」という絶望的な思いにとらわれた瞬間、そういう絵柄が、鮮明にイメージとして心の中に浮かんできた。

「意識の覚醒」は、自分ひとりでは難しい。かといって、「宇宙から降り注ぐパワー」だけでもできない。やはり、内と外の、両方からの働きかけが必要だ・・・。
 
  
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音に意識を集中させる

2010年03月28日 | 精神世界を語る
 
最近の筆者は、「頭の中の言葉を止めて、周囲の音を聴くことに意識を集中する」というのに取り組んでいる。それは、自分自身の意識の内側から、「これをやるべきだ」という考えが自然に浮かび上がってきたものだ。なんといっても、いつでもどこでも(特に、移動中の車内で)、手軽に実践できるところがいい(笑)。

そういえば、エックハルト・トールは、こう書いていた。

>自然の中にあふれる、かすかな音に意識を向けてみましょう・・・。木々の葉ずれの音、雨だれの音、昆虫たちの羽音、夜明けに一番鳥が歌う声・・・。聴くという行為に、身も心も100パーセント捧げてください。音を超越したところに、偉大なる「なにか」が存在します。思考を通しては、決して理解することのできない神聖さが・・・。

(エックハルト・トール著 あさりみちこ訳 『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』より)

なんとも、美しい一節だ。ここは、繰り返して味わう価値がある。

ただし、筆者の心に浮かんだ「音に意識を集中する」というのとは、微妙にニュアンスが異なる。エックハルト・トールの場合は、どちらかといえば、「自然の中にあふれる、かすかな音」というところに重点があるようだ。もちろん、思考を止めるのも重要なのだが、それ以上に、自然に回帰せよ、自然に学べ・・・ということが、ここでは言いたかったみたい。

それはそれで結構なことなのだが、筆者の考えでは、とりあえず、周囲の都会の雑音に耳を傾けるだけでも、かなりの効果が得られる。雑音・騒音と言っては行きすぎなのだが、もっと日常的な音。たとえば、ふと立ち寄ったファミリーレストランで、周囲の人々の話し声や、食器がたてるカチャカチャという音、かかっているBGMをじっと聴いてみるとか。

もちろん、自然の音なら、さらに効果が高いのかもしれない。自然といっても、わざわざ旅行したりするまでもなく、郊外の雑木林にでも行けば十分なのだろうが。ただ、ここでの重点は、「自然回帰」にあるわけではなく、「頭の中の言葉を止める」ということと、「音に対する感覚を磨く」というところにある。特に、日常、言語に依存しすぎている人にとっては、意識を変革する上で、それが効果的だろう。

しばらく続けていると、自分のいる世界が、いろんな音だけで成り立っている、「音の複合体」みたいなものに思えてくる。人間は日頃、視覚に依存している生き物だ。人間にとって「世界」とは、基本的に「色や形、文字情報の世界」だと言える。音とか匂い、手触りなどは、視覚情報を補うものにすぎない。そこを逆転させて、音を中心にして世界をとらえるのだ。

そういえば、犬は人間より遥かに嗅覚が鋭く、一方で、視覚はたいしたことない。そもそも、犬はまったくの色盲で、モノトーンの世界に住んでいるという。イメージとは異なり、それほど遠くが見えているわけでもない。その代わり、鼻がきわめて敏感。いつも、鼻をクンクンさせている。電信柱にかかったオシッコの匂いで、他者を識別する。犬にとって、世界とは、主に嗅覚情報から成り立つ、「匂いの複合体」みたいなものなのだろう。
 
ここは発想を逆転させて、「いろんな音から成り立っている、音の複合体としての世界」を味わってみるのも、良いものだ。

もちろん、音楽を聴くのもいい。とくに、一時間以上も続く、マーラーやブルックナーの長大な交響曲。これを、雑念を起こさずに集中して聴き続けるのは至難のワザだ。音楽自体はすばらしいし、大いに楽しめるのだが、どうしても、5分とたたないうちに雑念がわいてくる。ここは、「思考を止める」ことが大事・・・。

なんといっても、音は「波動」そのものだ。霊界では、言葉も使われてはいるのだが、言語としては意味をなさない「音波」も、重要なコミュニケーションの道具として使われているという。音波は、多次元世界の共通言語。なぜか、「言葉を使わず、音の波動だけでコミュニケーションできるようになれば、どこの世界に行っても通用するぞ」という考えが、しきりに浮かんでくる(笑)。
 
できれば、頭の中の思考も、言語を使わず、音波だけでできるようになりたいものだ。そうすれば、日頃から酷使されている左脳を休めることができて、疲労回復にも効果がありそう・・・。
 
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音を聴く

2010年03月25日 | 精神世界を語る
 
それにしても、ルドルフ・シュタイナーの、「物質界の知覚は、自分の意識の外側から情報が入ってくる。霊界での知覚は、自分の意識の内側からやってくる」という話には、すっかり感銘を受けてしまった。まさに、逆転の発想だ。まるで、裏口入学みたいな話ではないか。しかも、「情報は、自分の外側から入ってくるもの」という、物質界での経験からくる思い込みが、知覚の拡張をさまたげているという。筆者もシュタイナーに習って、知覚を拡張したいものだ。ただし、限られた時間の中で・・・。そのためには、どうすれば良いものか・・・と思ったものだ。

すると、「(自分は)言語能力に依存しすぎている。頭の中の言葉を止めよ。言語より、音を聴け。意識を集中して、音を聴け」という考えが、心の中から浮かんだ。

タイミングからしても、「これがいわゆる、『潜在意識から浮かび上がってきた情報』か?」と思ったのは、言うまでもありません(笑)。その一方では、「これは、以前に読んだ本の一節をたまたま思い出しただけなのかもしれない」というような疑惑も起きてきた。そういえば、「頭の中の言葉を止めよ」という辺りは、エックハルト・トールの著書を思わせる。思わず、ああでもない、こうでもない・・・と、いろんな考えがグルグルと回り始めた。こういうのを、「頭の中の言葉」と言います。まずは、これを止めることが第一歩・・・!?
  
なんとなく、クリシュナムルティの本を手にとって、ページをパラパラとめくりたくなった。本屋で買ってはみたものの、まだ読んでいなかった本だ。なんと、次のような記述が、目に飛び込んできたではないか。

>君たちは、何にも注意を固定せず、集中しようと努力せず、本当に静まりかえった心で、ごく静かに坐ったことがありますか。そのときには、あらゆるものが聴こえるでしょう。遠くの音とともに近くの音も、ごく身近な音もただちに聴こえます。・・・このように聴き、楽に緊張なく聴けるなら、 自分の中でとてつもない変化が起きていることに気づくでしょう。・・・そして、その変化には大いなる美しさと洞察の深みがあるのです。

>いつか、それをやってごらんなさい。今、やってごらん。私の話を聴きながら、話だけではなく、まわりのあらゆるものを聴くのです。あれらの鈴や鐘・・・牛の鈴、寺院の鐘の音を聴きなさい。遠くの列車や道の荷車の音を聴きなさい。そして、もっと近づいて、私の話も聴くならば、聴くことには大いなる深みがあると気づくでしょう。

>あらゆるものを深く聴いているために、心は静かです。このように楽に巧妙に聴けるなら、心の中、頭の中で驚くような変化が起きていることに気づくでしょう。君の考えたこともない、決して想像したことのない変革です。

(クリシュナムルティ著 藤仲孝司訳 『子供たちとの対話』より)


偶然の一致なのか、それとも、本当に潜在意識が呼び寄せたのかは知る由もない(笑)。とはいえ、それがシンクロニシティというもの。このようなシンクロでもなければ、この一節がこれほど印象に残ることはなかっただろう。(実際のところ、クリシュナムルティの著書は、普通に読んでも、何も頭に残らないことが少なくない。もともと、頭に残すために読むようなものではないので、仕方ないのだが・・・)。
 
さっそく、移動中の車内で、頭の中をカラッポにして、周囲の音に耳を傾けてみた。車が走る音、道路上の騒音、どこかから聞こえてくる音楽、人々の話し声・・・。そういうものが、意識に流れ込んでくる。
 
音に意識を集中していると、たしかに、あれだけ垂れ流されていた「頭の中の言葉」が、ピタリと止まってきた。これは、珍しいことだ。基本的に筆者は、文筆と弁舌の徒。文章も大量に書き流すけど、しゃべる方も、機関銃のようによくしゃべる。いや、「機関銃のように」ではカッコよすぎるので、「蛇口から水を出しっ放しにするように」とでも言うべきか・・・。周囲の人々からも、「最初は、『また、しゃべりだしたか。うるせえな』と思うのだが、気がつけば、話に引きずり込まれていることが多い」と言われ、なかなか好評だ(?)。それはともかく、このため、頭の中では、常に言葉が渦を巻いている。どうやら、今の筆者にとっては、心を静め、「音を聴く」というのが重要であるみたい。
 
周囲の音に耳を傾けていたとき、ふと、あるイメージが浮かんだ。それは、自分の身体の、心臓の辺りが光り始め、その光が胴体へ、手足へと広がっていく・・・というイメージ。それが、鮮明に浮かんできた。ふと、「知覚情報だけではない。生命エネルギーもまた、自分の意識の内側から入ってくるのだ」という考えが浮かび上がってきた。
 
そういえば、今までは、「生命エネルギーというのは、天から降り注いでくるものだ」という固定観念にハマッていた。自分の頭の中の声(?)のおかげで、そうとも限らないということに気づいた。この先、疲れがたまってきたときは、意識の内部から生命エネルギーを取り出して、疲労回復することにしようか(笑)。

ついでに、「2012年、地球にアセンションは起きるんでしょうか?」という質問を、自分の意識の内部に向かって問いかけてみた。すると、「今は、それを気にしても仕方がない。地球のことより、まずは、お前自身がやってみろ」という考えが浮かんだ・・・。 

 


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吹き荒れた強風

2010年03月22日 | こっくり亭日記
 
2010年3月21日、日本各地で強烈な風が吹き荒れた。全国各地で、瞬間風速の史上最高記録を更新。千葉では、風速38mを超えたそうな。ただの春風なのに、まるで大型の台風みたい。

暴風で外出する人影もまばらな中、新聞屋の前を通ったら、大量の新聞紙が宙を舞い、新聞配達の人たちが必死で拾い集めていた。でも、手が届かないほど高いところを飛ぶ新聞紙もあり、どうにもならない様子だった・・・。段ボール屋でも、段ボールが舞い飛んでいた。全国各地で、電線が切れたり、屋根が飛ぶなどの被害が続出しているという。

強風で、花粉と黄砂も飛び散った。日本の豊かな木々の緑がもたらす花粉と、大陸の乾燥した荒野がもたらす黄砂の相乗効果で、アレルギー体質も激化する一方。

地球暮らしにイマイチなじめないワンダラー(宇宙人の魂を持つ人)の場合、アレルギー体質に悩まされている人は特に多い。筆者も毎年、この季節は花粉との戦いだ。

知人の中国人が、「花粉症を治したいのなら、中国に行くのが一番ですよ。中国では、花粉なんか飛んでませんから」と言っていた。「それは、木が生えてないからですか?」と聞いたところ、「そのとおりです」との回答。ただし、北部では黄砂の害が深刻だという。要するに、「私の出身地、上海が一番」ということが言いたかったらしい。

21日の黄砂の害は、日本でもすさまじいものがあった。大陸から遠く離れた東京でさえ、「黄砂にけぶる新宿の摩天楼」なんて写真が公表された。東京とは思えない。「ここは、北京かよ?」と思わせる風景。まして、大阪や福岡あたりは、真っ黄色になったことだろう。

黄砂の害が激化する日本。たしかに、深刻な問題だ。ただし、九州では昔から黄砂が飛んできていた。「黄砂で黄色くなった博多の空が、ボクの原風景です」と武田鉄矢も語ってたほどだ。韓国のソウルでは、もっと昔から影響があったようだ。韓流の時代劇・「チャングムの誓い」にも、黄砂の害で疫病がはやる中、主人公チャングムの機転により食器をお湯で洗い、宮中の人々を救うというエピソードが出てくる。まして、中国では、黄砂は古来から当たり前の存在。春秋戦国時代の昔から、「歯が黄色いのを見れば、晋(北部の大国)の人だと分かる」と言われたほど。

とはいえ、近年の大陸における環境破壊が、深刻なのは事実だ。北京オリンピックが終わり、中国政府による必死の対策も一段落。去年あたりから野放し状態のようだ。

アメリカでは史上最大級の豪雪。ブラジルでは史上最大級の熱波。チリでは、地軸もズレるほどの強烈な地震。これが、2010年の地球だ。そして、暴風が吹き荒れる日本。そこに、環境破壊も重くのしかかる。いやはや、まだ3月だというのに、この先どうなることやら・・・。


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霊界への参入 ~ ルドルフ・シュタイナー

2010年03月17日 | 精神世界を語る
 
ルドルフ・シュタイナーによれば、霊界へと参入する道は、ひとつではないらしい。大きく分けて、2つの道があるようなのだ。
 
ひとつは、いわゆる「体外離脱」。身体から離脱し、魂となって霊界に参入する方法だ。いわば、空間的に身体の外で生き始める道。自分の外側に出て、みずから霊的空間におもむく。これは、分かりやすい。
 
問題は、もうひとつの道だろう。それは、「これまで以上に自分の内部に没入することで、自分から脱する道」だという。言ってみれば、「自分の外に出る」代わりに、「もっと自分の内に入っていく」という道だ。さっきの「体外離脱」とは、進路は逆方向。だけど、なぜか目的地は一緒。自分の意識の内部を、奥へ奥へと分け入っていくと、そこはやはり、霊界につながっている・・・。
 
シュタイナーによれば、この「自分の内部へと没入する」という道において、鍵を握るのは、記憶力だという。

>私たちは魂の内部の、霊的経験にもっとも似ている働きである記憶力の助けを借りて、霊界へ赴く(おもむく)ことができます。

なんということだ。「記憶力」というのが、これほど重要なものだったとは。それは、霊界参入の鍵さえも握っている。記憶とは、それほどまでに霊的な作用だったのか・・・。
 
もっとも、シュタイナーがこれほど記憶力を重視するのには、20世紀フランスの哲学者・ベルクソンの影響もあるようだ。この連続講演(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』)の中でも、シュタイナーは、ベルクソンの代表作「物質と記憶」に何度も言及している。いわく、

>ベルクソンは、魂の中にある記憶内容を、身体とは直接関係のない「魂の内面性」、魂が生み出す純粋に霊的・魂的なものと見なさなければならない、と述べているのです。

要するに、「記憶ってのは、脳ミソにあるんじゃないんですよ。それは魂の中にあるのです」と、ベルクソンは言っているということ。もちろん、ベルクソンは哲学者だけに、ここまでストレートに「霊だ、魂だ」という人ではないけど、ひらたく言えば、そういうことになる。これは、記憶と脳ミソとの関係を、徹底的に調査した結果としての結論。ああ、偉大なるベルクソン。この人の神秘主義もまた、根が深い・・・。

それはともかく、霊界参入者に見霊能力が生じてくると、実際に霊視(イマジネーション)が始まる。そうすると、暗闇だった霊界から、最初の印象が浮かび上がってくる。シュタイナーによれば、その印象は、性質といい、全体的なあり方といい、「記憶内容に非常によく似ている」という。霊界からの最初の啓示は、記憶像のように(ただし、日常の記憶とは違って、霊的な記憶だが・・・)、立ち現れてくる。

「そもそも、私たちの記憶像は、霊的体験の始まりなのです」とまで、シュタイナーは言っている。それはつまり、記憶というのは、通常われわれが思っているよりも、はるかに霊的なものだということを意味する。ただし、「記憶力」といっても、「英単語を丸暗記する」というような記憶力とは、ちょっと違う。というのも、どちらかと言えば、シュタイナーが重点を置いているのは、「覚える」というより、「思い出す」ということにあるからだ。それは、過去の思い出を、潜在意識の奥から引っ張り出しきて、表面意識のスクリーンに生き生きと映し出すこと。「記憶力」というより、「想起力」といった方が、真意に近いだろう。
 
なぜ、「思い出す」ということは、それほど霊的なのだろうか。それは、霊視や霊聴というのが、この世の五感による視覚や聴覚とは、似て非なるものだからだ。それらは、いつもの視覚や聴覚とは、逆方向からやって来る。

というのも、この世の五感による視覚や聴覚その他は、基本的に、外界から自分に向かって来る情報をとらえるものだ。パチパチと明滅する信号の色や光、ブーブーという車の騒音、立ちこめる排気ガスの匂いなどは、すべて、自分の外から目や耳、鼻に入ってくる。道路上のことに限らず、通常の知覚において、あらゆる情報は外界からやってくる。
 
でも、霊視や霊聴は、そうではない。情報は、自分の内部から生じてくる。意識の内部から、わきあがってくるという感じ。それを、霊的なセンサーでキャッチするのだ。それは、「知る」というより、「思い出す」というのに似ている。「霊的なイマジネーションは、記憶像に似ています」という所以(ゆえん)が、そこにある。
 
いわく、
 
>とはいえ、記憶像に似たあり方をしてはいますが、霊的形姿のほうが、もちろん遥かに生き生きと霊界の深みから浮かび上がってきます。それは記憶内容とは異なり、私たちの体験内容の一部分なのではなく、未知なる内容を伴って、いわば記憶の背後から引き上げられてくるのです。

霊界からのイマジネーションは、記憶像に似ている。それは、意識の内部から、表面意識へと想起されてくる。最初は、大昔の思い出みたいに、おぼろげな映像で立ち上がる。でも、やがて、もっと鮮明なスクリーンに映し出されてくる・・・。

「思い出す」という作用によく似た、この「想起力」。ということは、「思い出す」という能力を鍛えれば、意識の内部からわきあがってくる情報を、意識のセンサーがキャッチしやすくなるのではないか。
 
シュタイナーによれば、まさにその通り。このため、集中的に「思い出す」ということが、よい訓練になるらしい。瞑想する中で、自分の内なる記憶の中に深く入り込む。膨大な記憶内容の中から、いつもは意識していない記憶内容まで引き出せるよう、繰り返して取り組むのだ。「昨日の晩メシ、ナニ食べたか覚えてる?」どころの話ではない。十年前の昼メシのことまで、せっせと思い出す。「その気になれば、なんでも思い出せる人」になるのが目標だ(?)。
 
こうして、ずっと以前に忘れてしまったことまで思い出せるほどに、強い想起力を発達させることができたとする。そうなると、「牧場で緑の茎と茎の間から美しい花が浮かび上がるように」、記憶像と記憶像の間から、これまで知らなかった像が、イマジネーションとして浮かび上がってくるという。

次に、「単なる記憶像」と、「霊の深みから浮かび上がってくるもの」を区別することを学ぶ。それが、霊読(リーディング)。これがあるから、霊界参入者は、「単なる思い出」と、「霊的なイマジネーション」を区別することができるのだ。繰り返して取り組むことにより、しだいに霊の深みから、霊的内容を取り出してくる力が発達してくる・・・。

どうやら、認識力を拡張するためには、逆転の発想が必要なようだ(笑)。いつもとは、逆方向でとらえなきゃいけないらしい。

もっとも、「過去の記憶を思い出す」という訓練は、人によっては、イヤな思い出が浮かび上がりすぎて、精神衛生上、良くないかもしれない。そういうことは、わざわざ思い出さない方がいい。「私が悪うございました」という「反省行」とは、そもそもの目的が違うということに、くれぐれもご用心・・・(笑)
 

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死後生活者の記憶力

2010年03月16日 | 精神世界を語る
 
ルドルフ・シュタイナーにとって、「記憶」もしくは「記憶力」は、特別な意味を持っていた。

死んで肉体を失った人間が、霊界に持っていくものは何か。肉体は、すでに失われた。家財道具は、持っていけない。でも、この世で作った思い出だけは、まだ心の中に残っている。そう、あの世に持っていけるものは、生前の「記憶」だけ・・・。

そういえば、死後のことを語りたがらない、硬派のクリシュナムルティでさえ、「死んだ後にも、『思考と記憶の束』は残ります」と言っていた。ただし、その「思考と記憶の束」は、自分ではない。それを自分だと錯覚するのが、まちがいのモトだという。

それはともかく、シュタイナーによれば、死後生活者が霊界に入って最初に経験するのは、人生における全ての記憶を追体験すること。この世の人生で得た収穫の、長い長い再確認。それは、壮大なパノラマとして何日も続く。やがて、それがおさまると、いよいよ本格的な死後生活がスタートすることになる。

この世において、人は肉体を持って生きている。肉体は、とても分かりやすい器だ。それは、「自分」と「自分以外」を区別する、最も簡単な目印。「自分とは、コレなのだ」と、この上もなく明快に教えてくれる。このような、肉体を持った何十年間かの人生において、人は「俺は、俺なのだ」という自己意識を発達させる。この世というのは、そのためにあるようなものだ。
 
たとえて言えば、大海の水を、コップで一杯、すくったとする。コップの中の水も、最初はただの海水と何も変わらない。でも、コップの中に長くいるにつれて、コップの中が「自分」だと思うようになる。コップの外は、「自分でないもの」、つまり外界。やがて、コップの中の水は、「俺だよ」という自己主張を開始する。個人の意識というのは、もともと、そういうものなのだ(笑)。コップが健在なうちは、それでよいのだが、問題はコップが壊れたときだろう。コップが割れて、中の水は流れ出した。さあ、中の水は、「俺は、俺なのだ」という自己意識をキープできるのか。それとも、もとの個性のない、ただの海水に戻ってしまうのか。
 
せっかく、この世で苦労して鍛え上げた自己意識。シュタイナーによれば、これを、あの世においても一定期間、キープしておく必要がある。というのも、「肉体」という分かりやすい目印を失った死後生活者にとって、「俺は、俺なのだ」という自己意識を維持することは、口で言うほど簡単なことじゃないようなのだ。このままでは、単なる、個性のないエネルギー体へと逆戻りしかねない。それを防ぐためには、「俺は、俺だったのだ」という、生前の記憶を思い出すのが一番。この世で肉体を持って生きていた頃の記憶が、あの世でも死後生活者の個性を支えていくことになる。この世というのは、そのためにあるようなものだ・・・。
 
このため、死後生活の前半においては、生前の記憶をキープするために相当なエネルギーが費やされることになるという。
 
ここまでくると、もはや「記憶のカタマリ」こそが、人間の意識、ひいては「自分」そのものなんじゃないかとまで思えてくる・・・。

これは、裏を返せば、「過去の記憶」さえ捨ててしまえば、自我も消滅するということ。それは、「大いなるすべて」へと回帰することを意味する。
 
それはさておき、ここでいう「死後生活」というのは、人が死んでから再び生まれ変わるまでの、輪廻転生の間の時期を意味する。シュタイナーによれば、それは前半と後半に分かれている。

この世でも、人の人生は、前半と後半に分かれている。前半は、子供の頃から、若い頃にいたる成長期。そして後半は、成長したあと、大人として過ごす人生だ。死後生活者の「前半と後半」も、これに似ている。前半は、立派な一人前の(?)死後生活者となるための、成長期とも位置づけられる。シュタイナーによれば、この時期において重要な役割をになうのが、記憶。

この霊的な記憶力は、生命エネルギーのあらわれだ。「なぜ、人間は、赤ちゃんの頃には記憶力がないのでしょうか?」という疑問に、シュタイナーは答える。「成長期には、記憶力というエネルギーが、成長して肉体を形成するためのエネルギーに転化して消費されるため、人には赤ちゃんの頃の記憶がないのである」。

生命エネルギーは、いろいろなものに転化されて使われている。シュタイナーによれば、たとえば、「35歳で交通事故で不慮の死を遂げた人」は、残りの人生で使われる予定だった生命エネルギーを大量に残したまま、この世を去ることになる。この使われなかったエネルギーは、次の人生において、知的なエネルギーに転化されることもあるという。「大発明家には、前世において早死にした人が多い」とまで、シュタイナーは言っている・・・。
 
記憶力も、そんな生命エネルギーのあらわれの中のひとつ。人間の記憶というのは、本人が自覚する以上に膨大なものだ。普段は忘れているのに、何かのキッカケで思い出すことというのは、驚くほど多い。医学の実験で、脳のアチコチをつついてみれば、それこそ十年前の昼メシだって思い出せるほど。人は驚くほど、何もかも覚えている生き物なのだ。これは、当たり前のようで、実は大量のエネルギーを消費している。コンピュータだって、データを維持するために、大量の電力を消費しているのだ。それと同じようなものだろう。

やがて、死後生活の後半に至るにつれ、記憶力はまた別のエネルギーに転化されるという。それは、死者の魂の力を目覚めさせ、目覚めた意識として生き続けるためのエネルギー。死後生活者は、立派な一人前の意識に成長したのだ。魂から放射される光で、周囲は明るく照らされる。これは、生命エネルギーとしての、本来のあり方に最も近いといえる。

シュタイナーいわく、

>地上界での私たちが見たり聞いたりするとき、聴覚や視覚に刺激を与えるものが外界から来ます。霊界においては、その刺激が私たち自身の中から来るのです。私たちが魂の光、魂の輝きと呼ぶものは、私自身の魂から光を放射して、周囲の事物を明るく照らすのです。

ここまでくれば、記憶は、もはや必要なくなる。いわく、

>皆さんはきっと問おうとなさるでしょう。「死後、記憶力を克服して、別の何かを持つということは、寂しいことではないだろうか」。

>寂しいことではありません。なぜなら死後、私たちはそれに代わる多くの代償物を持っているからです。

この世の物質界において、記憶や思考は、人間の脳や意識の中で行われる、個人の内面的な営みだ。でも、霊界では、そうではない。記憶や思考は、それ自体が生き物として存在しているという。死後生活者の目覚めた意識は、それをハッキリと悟る。自分の思考内容や記憶内容が、まるで「アリ塚の中のアリのように」、生き物となって周囲でうごめいているのが分かる。だから、生前のような記憶力が失われても、少しも寂しくない(笑)。
 
要するに、「記憶力の代わりに得られる代償物」というのは、この記憶内容や思考内容が生きて動いているのを、見ることができる力なんだそうな。いわく、

>今、私たちは悟ります。「生前、お前は思考を働かせ、思考内容をお前の中に生じさせた。しかし、お前がそのようにして妄想に耽り(ふけり)、思考内容を作り出していたとき、お前はひたすら四大霊(註:地水火風の四元素の精霊)を生み出していたのだ。それは全宇宙に対して、お前が付加した新しい何かなのだ。お前によって霊の中へ産み落とされたものが、今ここにこうして生存している。それは、お前の思考内容の真実の姿なのだ」。
 

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「霊的な認識」とは何か

2010年03月14日 | 精神世界を語る
  
魂が注意力を活発に働かせるように努めれば努めるほど、記憶力も強まっていく。シュタイナーによれば、注意力と、記憶力は、本質的に同じものだという。両方とも、内面的な集中が、どれだけ出来ているかにかかっている。
  
いわく、記憶力は、魂の中に生きる霊的なものの最初の現れだ。これは、意外なことかもしれない。というのも、記憶力には、「丸暗記」や「棒暗記」という言葉に代表される、機械的なイメージがつきまとうからだ。
 
だが、シュタイナーによれば、そうではない。それはむしろ、霊的なものと固く結びついている。

20世紀前半(シュタイナーと同時代)のフランスを代表する哲学者・ベルクソンは、人間の記憶の中に、純粋に霊的なものを見ていた。ベルクソンの代表作といえば、「物質と記憶」。脳ミソと記憶の関係を徹底的に調べたベルクソンは、「記憶の大部分は、脳によって行われているのではない」という結論に達した。記憶を衣服に例えるならば、脳は、衣服をかけるハンガーにすぎない・・・。
 
シュタイナーによれば、死んだ人が死後の生活をスタートするに当たって、最初に体験するのは、この世での人生におけるすべての記憶の壮大なパノラマだ。それはつまり、「過去の人生のすべてを、生き生きと思い出す」ということ。単に思い出すだけでなく、それを追体験するという。

ここにおいて、死後生活者は、記憶力というのが、魂の力であるということを知る。というのも、死んで肉体を失った今、脳細胞に貯蔵されていた記憶は、すべて自動的に消去されてしまったはずだ。それなのに、自分は、過去のすべてを生き生きと思い出すことができる。むしろ、生きていたときには忘れていたことまで、クッキリと思い出せる(笑)。このように、魂の記憶力が働き出せば、過去のすべてを追体験することさえ可能になる。
 
実のところ、この「追体験」というのが、霊的な認識のカギを握っているようだ。

シュタイナーによれば、霊界で体験される知覚は、外的感覚世界の知覚とはまったく異なる種類のものだということが重要だという。この、本質的に異なる2つのものを、同じだと誤解することが、霊的知覚を開発できない大きな阻害要因となっている。

霊視を獲得することは、例えば、目の不自由な人の手術が成功したとき、周囲に新たな色や光が現れるのとは、似て非なるものだ。というのも、霊視の場合は、外界から自分に向かって情報が入ってくるというワケではない。逆に、外界に向かって、対象の内部へと自分が流れ込んでいくようなものだという。
 
感覚世界における通常の認識では、外部から発生した情報が、目や耳などを通して、自分の内部に入ってくる。一方、霊的な認識は、これとは逆の方向に作用する。いわば、自分自身が動いて、対象の内部へと入り込んでいくことを意味するらしい。

シュタイナーとはタイプが異なるのだが、ロバート・モンローの著書には、「気がつけば、私は古代ローマ時代の戦士になっていた。いつのまにか、私自身が戦士となって戦っていた」といったような話がよく出てくる。それどころか、死後世界にいるときのモンローは、その気になれば、誰にでもなれた。というのも、死後世界で見かけた人物の内部にモンローの意識が流れ込み、誰でも、その人物になりきって追体験できた・・・ということだ。「対象の内部に流れ込む」というのが、こういうことを意味しているとすれば、分かりやすい。おそらく、こういうのが「真の霊的な認識」の端的な例なのだろう。

つまり、「ボクは、キミじゃない。キミには、キミにしか分からないことがある」というのが、ボクにとっての認識の限界。それに対して、「いまや、ボクとキミは、一心同体になった。お互いに、すべてを分かり合えている」というのが、認識の拡張ということになる。ちなみに、ここで言う「キミ」というのは、人間とは限らない。机やイスのような無生物、ひいては、世界や宇宙全体も含まれる。これが、難しい言い方をするならば、「主観と客観の一致」。限りある認識力しか持ち得ない人間にとって、これは永遠のテーマ・・・。
 
要は、真の意味で「霊的な認識」をするためには、自分の全存在を挙げて霊的な事物に入り込み、それを追体験しなければならない。というより、「霊的な認識」とは、そういう体験そのものだ・・・ということになる。それは、認識する対象との、霊的な合一に他ならない。 

このため、この連続講演録(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』)でも、シュタイナーはしばしば「霊視・霊聴・霊的合一」と、この3つをセットにして語っている。それはつまり、霊的な認識というのは、認識する対象と霊的に合一することを意味しているということ。

たとえば、犬や猫を霊的に知覚するためには、自分自身が、犬や猫になってみるのが一番。このとき、自分は霊となって、犬や猫の中に流れ込んでいる。気づいてみたら、ワンワン・ニャーニャーと言っていた。人間は、でっかくて、エサをくれるなあ。それこそが、真の意味での霊的な知覚。

そのためにも、受け身な態度は禁物。自分から積極的に動いて、対象に入り込んでいく必要がある。
 
 
蛇足 : 私見では、それを言うなら、「霊視ができない」・「霊聴ができない」ということ自体、誤解を招く表現なのではなかろうか。「霊的な知覚」とは、「見える、見えない」というような問題ではなく、むしろ、「意識の内部における、内面的な体験」というべきものなのではないかと思う。とはいっても、それは単なる個人的な体験ではない。地上界にも自分と他者が存在するように、霊界にも、他者は確実に存在している。霊界において、他者を認識するということは、他者を追体験するということ。それは、自他の区別を乗り越えた、自分と他者との合一を意味する。結局のところ、なんだか、ヘーゲルの言う「絶対知」に似てきた・・・。
 
 
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魂の諸力を強める訓練

2010年03月14日 | 精神世界を語る
  
ルドルフ・シュタイナーは、「人間の認識には限界があり、事物の本質にまでは達することができない」という考え方と対決した。ここでいう「事物の本質」の中には、「霊魂」も含まれる。霊魂こそが、「人間」という事物の本質だからだ。
 
この考え方には、続きがある。それは、「だから、そういったことについて考えるのはヤメておこう」というもの。これは、ひとりカントの思想であるにとどまらず、自然科学の発達が生み出した、近代人特有の信仰とも言える。
 
いかにして、これを乗り越えるか。そのためには、通常の「人間の認識の限界」を超えて、新しい認識力を獲得しなければならない。とはいっても、実のところ、それは新たに獲得される必要はない。日ごろは眠っているだけで、もともと誰にでも備わっているという。

シュタイナーによれば、古代においては、見霊能力は失われていなかった。つまり、古代人は、霊を見ることができた。ただしそれは、夢を見ているような、おぼろげなものにすぎなかった。これに対して、現代人が獲得すべき新たな霊視・霊聴は、もっと明晰判明なものでなければならない。

昼間は、青い空が広がっている。日が暮れて太陽が沈み、空が真っ暗になると、輝く星や月が、ポツンポツンと姿を見せてくる。やがて、満天の星空。星や月は、昼間の空にも、実はあったのだ。太陽が明るすぎて、見えなかっただけ。日が沈んだおかげで、今までは見えなかったモノが、見えるようになったのだ。

それと同じように、日ごろ、人間は視覚・聴覚を初めとする、強力な五感を働かせて生きている。人間の感覚・知覚は、もっぱら外界へと向けられている。まずは、静かに瞑想して、外界へと向けられた感覚・知覚を、鎮めなければならない。そうすれば、夜空に星が見えてくるように、今までは見えなかったモノが見えてくるはずだ・・・。
 
「地上界」と「霊界」は、ちょうど、昼間の青い空と、夜の暗闇のような表裏一体の関係にある。「霊が見えない」というのは、「昼間の太陽が明るすぎて、星や月が見えない」というのと一緒。つまり、日ごろは、外界から受け取る刺激が強すぎるため、「霊」のかすかな光が圧倒されてしまい、影に隠れているということになる。まずは、お日さまが沈んで、夜にならなければならない。でなければ、せめて、明かりを消して部屋を暗くしなければならない(笑)。そうしないと、「霊」が発する、かすかな光をとらえることができない・・・。
  
まずは、気持ちを鎮めて、外界からの刺激をシャットアウトすることが前提条件。その上で、内面へと向かう意識の力、魂の力を高めることが重要だ。
 
まず、強化しなければならない力として挙げられているのは、注意力。注意力は、日常生活においては片手間に用いられているが、いまや、無限に高められなければならない能力だ。

これは、上の例えで言えば、「星や月に対して、もっと目を凝らす」というようなものだろう。一見、何もなさそうな、昼の青い空。でも、ジックリと目を凝らせば、丸いお月さまが、かすかに見えていたりするものだ。同じように、明るい星なら、注意深く見れば、夕方くらいにはポツンポツンと見えている。それと同じように、かすかな「霊」の光をとらえるには、注意力を強化して、ジックリと見なければならない・・・ということになる。

いわく、

>注意力が働くときの私たちは、魂の傍ら(かたわら)を流れていく生活を、いつものようにただ傍らを流れていくままにしてはおきません。精神の眼をあれこれの事象に向けます。そしてそのために、心の内部の力を一点に集めます。ひとつの事象を生活の流れの中から取り出し、それを意識の中心に据え、魂の力をそこに集中します。

超感覚的な認識のためには、「瞑想」が大事なのだが、瞑想といっても、ボーッとしていたんじゃダメ。注意力を特別に発達させ、強烈に集中する必要があるという。いつもは外から来る刺激に応じて分散させている魂の諸力を、意識の中心に据えられた対象に向かって集中させる。それによって「魂の諸力がひとつに合わさり」、まどろんでいた力が、魂の内から姿をあらわす。何年もかけて地道に、魂の内的な力を強めていく。修行者にとっては、そういう訓練が必要だ。
 

(引用部分は、「シュタイナーの死者の書」ちくま文庫)
 
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超感覚的な認識を身につける ~ ルドルフ・シュタイナー

2010年03月10日 | 精神世界を語る
     
ちくま学芸文庫から、「シュタイナーの死者の書」という本が出ている。文庫だし、シュタイナーの著書にしては、わりと平易で読みやすい本だ。あくまでも、シュタイナーにしては、なのだが・・・。この講演録では、「死後の生活」というテーマを取り上げている。
   
世間の一般人に「精神世界」と言えば、「霊界は実在する!!」(by丹波哲郎)というような話だと思われることが多い。だが、それは必ずしも当たっていない。
 
もちろん、精神世界ファンに、「あの世」とか「生まれ変わり」の話が好きな人は多い。たとえば、「アナタの前世は、坂本龍馬ですた」とか、「私は、寝ている間に魂が体を抜け出して、UFOで金星に連れて行かれますた」(鳩山夫人か・・・?)といったタイプの話。ほかならぬ筆者自身、そういう話をよくする方だ(笑)。でも、誰もがそうだというワケではない。実のところ、精神世界関係者には、その手の話題を嫌う人も少なくないのである。
 
いわゆる「霊ばなし」を好まない人の代表格といえば、やっぱり、お釈迦さまだろう。古代インドの釈尊は、「あの世」とか「生まれ変わり」について、具体的な話をほとんどしなかった。それだけでなく、弟子たちがその手の話題で盛り上がるのも嫌がった。同様に、現代ではやっぱり、クリシュナムルティが最右翼と言える。いろんな意味で、精神世界の極北をゆく、クールな人たちだ・・・。
 
それに比べて、ルドルフ・シュタイナーの場合は、霊に関する話題にも、つっこんだ話をするのが特徴。とはいえ、もちろん、巷(ちまた)の霊能者とは違うので、なかなかストレートに語ることはない。その点、本書は、「死後の生活」を真正面から(?)取り上げた、シュタイナーの講演録として注目される。

それにしても、なぜ、釈尊やクリシュナムルティを頂点とする、この分野の本格派(というより、硬派というべきか?)の人々は、この手の話題を嫌うのだろうか。もともと、精神世界は、大なり小なり、「目に見えない世界」を扱っている分野だ。とは言っても、「精神世界の探求者は、目に見えない存在を信じる人なのだ」というワケではない。どちらかといえば、それは宗教の信者がとるスタンスだ。クリシュナムルティに「私は何も信じない」というタイトルの著書があるのだが、探求者には、それで十分。では、精神世界の探求者は、どのようなスタンスをとるべきなのだろうか。
 
それは、「あるがままを、あるがままに見る」というスタンス。

あらゆる先入観を捨てて、あるがままに見るのが探求者のとるべき姿勢であり、目標だろう。それに従うならば、「目に見えるものしか、見ない」(当たり前といえば、当たり前なのだが・・・)というのが、とりあえずの基本。それが、自然な態度と言える。
 
「目に見えない存在」を無視する人々は、「現実主義者」と呼ばれる。必ずしも、悪いことではない。現実主義者は、生きて「この世」にいるから、「この世」という現実しか見ないのである。そういう人が、死んで「あの世」に逝ったら、今度は「あの世」という現実しか見なくなっても不思議はない。常に、目の前の現実だけを見ている。真の現実主義者とは、そういうものだ・・・(笑)。
 
もっとも、「物質」という、分かりやすい素材でできている「この世」とは違って、「あの世」という現実には、決まった形がない。百人いれば、百通りの「あの世」がある。それは、どちらかといえば、内面的な個人体験に近い。だから、「あの世」について他人が語った内容をせっせと勉強しても、得るものは多くないと言える。ただし、参考にはなるので、たまには聞きたくなるのが人情というものだ・・・(?)。
 
いまや、ヘミシンクをはじめとする、さまざまな瞑想用ツールが開発され、誰にとっても「目に見えない世界」が身近になってきたとされている。筆者の周囲にも、見霊体験を語る人が続出している。どうやら、今の世の中には、霊視者が増えているのかもしれない。
 
それはともかく、通常、一部の霊能力者を除けば、「霊」の姿は、人の目には見えない。また、霊が語ることも、人の耳には聞こえない。それは、ナゼなのだろうか。この、「霊が目に見えない、耳に聞こえない」というのは、ルドルフ・シュタイナーの生涯を通じて、最大級の関心事だったと言えるだろう。

「シュタイナーの死者の書」の場合、その主張はストレートだ。ずばり、「霊を見るという能力を身につけよう」、「霊視者になろう、霊聴者になろう」、と訴えている。
 
こりゃまた、ずいぶん思い切ったことを言うものだ。通常、霊視者・霊聴者は、自分が見たことや聞いたことを語るもの。聴衆に向かって、「アナタ方も霊視者になりなさい」とは、なかなか言わない。シュタイナーはなぜ、これほど「見霊能力を身につける」にこだわるのだろうか。それにはやっぱり、シュタイナーなりの事情がある。人にはそれぞれ、事情ってものがあるのだ。
 
というのも、ドイツ人のシュタイナーは、若い頃は大学の哲学科でゲーテを専攻していた、哲学の研究者だった。当時の哲学界には、18世紀の大哲学者・カントの影響が色濃く影を落としていた。大哲学者・カントの巨大な影は、当然のことながら、若き日のシュタイナーにも重くのしかかってくる。
 
カントの思想的な特徴のひとつに、「神さまのこととか、あの世のこととか、そういう話を基本的にやらない」というスタンスがある。これには、カント自身の思想傾向もさることながら、やっぱり、時代の精神ってものがあった。17世紀を代表する大哲学者・デカルトは、まだ「神の実在を証明する!!」とヤル気満々だった。でも、カントが生きた18世紀ともなると、欧州(特に、先進国のイギリス・フランス)は、すでにバリバリの近代社会そのもの。人々の考え方も変わってきている。
 
カントは、「人間の認識の限界」を説いた。いわく、人間の限られた認識力では、神とか、霊魂とか・・・そういった(目に見えない)ものを、ダイレクトに認識することができない。哲学者は、「神は実在するのか、しないのか」とか、「霊魂は不滅なのか、そうでないのか」というような問題に、いつも頭を悩ませてきたのだが、最終的な解答をズバッと出すことは誰にもできなかった。一方、数学者や物理学者が、問題にスパッと解答を出しているのを見ると、うらやましくて仕方がない。それに比べて、哲学の、なんとマドロっこしいこと。かつては「学問の王様」だった哲学が、人々にマトモな学問と見なされなくなったのは、こんな「解答の出ない問題」に取り組んでいるのが原因だ・・・という、哲学業界における業界人としての危機感が、カントにはヒシヒシと迫ってきていた。よって、これからは「解答の出ない問題」を、哲学から排除する・・・というのが、大哲学者が出した結論。後に続く者たちは、みんな右にならえ。いつしか、「人間の認識の限界を超える問題」のことなど、誰もが避けるようになっていった・・・。
 
若き日のシュタイナーの前には、このカント思想が、厚い壁となって立ちはだかっていた。学問の府は、カントの色に染まってた。「シュタイナー自伝」には、「私は再び認識論に立ち向かった。私の前には、(カントに帰れ、を強調した新カント派の)オットー・リープマンの思想が立ちはだかっていた」、「運命の定めるところにより、私は当時の(新カント派の)認識論と対決せざるを得なかった」と述べられている。
 
シュタイナーは考えた。哲学でさえ、マトモな学問と見なされないのなら、ましてや、「霊学」はどうなるの。霊学は、目に見えない世界を真正面から扱っている。これではとても、霊学の研究者が、世間様からマトモだとは見てもらえそうにない。
 
「これは、人間の認識力に限界があるというのが原因だ」と、シュタイナーは考えた。人間の認識の限界を超える世界の話にとどまっている限り、霊学には「確実な根拠」ができない。認識力の限界を拡張しない限り、霊学の基礎づけはできっこない。霊学が、誰にも否定されない立派な学問になるためには、霊学の学徒がすべからく「超感覚的な認識力」を身につけなければならない・・・というのが、シュタイナーが出した結論。
 
稀代の大神秘家が、悩みに悩んだ上での結論だ。さあ、シュタイナーに習って、われわれも「見霊能力」を身につけようじゃないか・・・というところなのだが、人間、無理は禁物だ。とりあえず、できる範囲でがんばりましょう(笑)。
 
 
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