宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

精神世界探求の効用

2015年09月26日 | 精神世界を語る

 
以前からよく思うことだけど、世間では、「スポーツ」を妙に高く評価している。身体を動かして、ボールを追いかけたり、走り回ったりすることに、高い価値を見出している人が多い。そういうことをやっているのを見ると、「いいねえ」、「いいことやってるねえ」と言い出す。反対する人があまりいない。

スポーツほどではないのだが、知的な活動も、それなりに高く評価されている。本を読んだり、美術館で絵を見たり、クラシック音楽を聴いたりしていると、「いい趣味だねえ」と言われる。もっとも、こちらは、スポーツほど高く評価されないことも多い。「そんなことばかりやってないで、野外に遊びに行け」と言われることもよくある。その手の人たちは、そういう内向的な趣味にハマッていると、性格が歪み、社交性に欠ける偏った人間になると考えているようだ。

知的な趣味が、スポーツやアウトドアライフに比べて否定されやすい背景には、学校で受験勉強に苦しめられた人が多いというのもあるだろう。つまり、英語や文学・歴史、科学や幾何学その他については、「学校で無理やりやらされた」というネガティブな記憶を持つ人が多く、それが「趣味」と見なしてもらえない元凶になっている。

単なる読書でさえそうなんだから、ましてや、精神世界の探求については言うまでもない。これについては、世間の多数派がネガティブなイメージを持っていると言ってよい。「先週の日曜に、何をしましたか?」ときかれて、「みんなでサッカーをやりました」と言えば、「そりゃあ、いい過ごし方をしましたね」ということに、普通はなる。「美術館で絵を見ました」と言っても、「へえ、いい趣味ですね」と感心される。でも、「宗教書を読んで瞑想しました」と言って、高く評価されることは少ない。

これこそ、「世間の偏見」というものだろう。おそらく彼らは、精神世界の探求を、「役に立たない上に、おもしろくもないもの」と考えている。つまり、精神世界の探求には、スポーツをすることによって得られるような、一種の「効用」があると思われていない。

ここで、その効用を考えるに当たっては、「スポーツの効用」ってものを参考にしたらどうかと思う。

世の中には、野球がどれだけうまいか、サッカーがどれだけうまいかによって、人生が左右されるプロもいる。でも、たいていの人はそうではない。普通は、テニスがうまかろうが下手だろうが、人生が変わるわけではない。

では、なんで練習するのか。それは、うまいかどうかに関係なく、スポーツをすること自体に効用があるからだ。少なくとも、世間ではそう受け取られている。

では、どう効用があるのかというと、たとえば、運動不足が解消されて健康になるとか、ゼイ肉が取れてスリムな体型になるとか、元気で活発になるとか、協調性が身につくとか、根性が養われるとか・・・。

つまり、スポーツをすれば、しない場合に比べて、人は容姿端麗になり、明るく爽やかな人柄になる。それによって、人間的な魅力が増す。もちろん、必ずしも全員がそうなるわけじゃないけど、そういう傾向にある。たとえば、テニスの松岡修造などは、テニスという狭い世界を超えて、テレビ番組を席巻する人気者になった。もともとそういう人なのかもしれないが、スポーツによって磨かれた部分も当然あるだろう。それこそが、スポーツの効用だと言える。

これを見るに、精神世界の探求には、そういう意味での「効用」がないと受け取られているんじゃないか・・・と思えて仕方がない。つまり、精神世界を探求する人は、しない場合に比べて、ポジティブな方向に変化すると思われていない。

なんで、そう思われているのか。筆者に言わせれば、またまた批判することになって申し訳ないんだけど、やっぱり悪いのは、新興宗教の信者さんたちだ。

世の中には、新興宗教の信者は多くて、熱心な勧誘活動をやっている人も多いから、自然と目に付きやすい。

その点、正統派の古典的な精神世界探求者は、もともと少数派にすぎない上に、「どうせ、世間の一般人に分かるわけがないさ」と思っているせいもあって、勧誘や紹介活動をほとんどやっていない。このため、一般の目に触れる機会は少ない。この分野のイメージを代表しているのは、やっぱり信者さんたちなのだ。

早い話が、世間の一般人の多くは、新興宗教の信者を見て、「精神世界をやると、こういう人になる」と誤解している。それが、あまりにも思いっきり、精神世界の評価を下げているのだ(笑)。

本当は、精神世界には、大きな効用がある。この分野のマニアだけでなく、世間の一般人にとっても、十分に有意義と思えるような多くの効用がある。

たとえばの話、長年にわたって修行を積んだ、禅寺の高僧はどうだろう。その静かな叡智に満ちた深い眼光や、飄々とした人柄に、魅力を感じないだろうか。先ほどの「スポーツ」の例と同じように、座禅をすることによって人間的な魅力が増すことは大いにありうるのである。

これは座禅に限ったことではなく、念仏や題目をずっと唱え続けることによっても、時間がかかる回りくどい道ではあるものの、同様な効果が得られる。

それだけでなく、瞑想をすれば、雑念が消えて集中力が高まり、直感が鋭くなるので、仕事や日常生活にも良い影響がある。これまた、スポーツで運動不足を解消することにより、日常生活に良い影響があるのと変わらない。

そういえば、「禅寺で座禅を組んできた」と人に言ったところ、「へえ、そりゃあ、意外にも良い趣味だねえ」と感心されたことがあるのを思い出した。それを思うと、やっぱり、上に書いたような「低い評価」は、一種の被害妄想にすぎず、本当はそれなりに高く評価されているのかもしれない。

まあ、どっちにしても、人から高く評価されるためにやることじゃないから、どうでもいいとは言うものの・・・(笑)。もっとも、ここで問題にしている点は、他人の評価がどうのこうのではなく、精神世界の「効用」がイマイチ認識されてないってことにある。

それを思うと、スポーツをずっとやってきた人が、そうでない人に比べて、一見してドコか違う雰囲気があるように、精神世界の探求者も、一見して、「この人はドコか違うな」と感心されるくらいになるのが望ましい。そうすれば、「精神世界をやれば、やらないのに比べて、ほぼ確実に良くなる」と思われるようになる。

じゃあ、ドコが違うのかというと、意識が高まっているから違うのである。

では、何をもって、意識が高まったと言えるのか?

(つづく)
 


精神世界探求の目的

2015年09月22日 | 精神世界を語る
   
最近の筆者は、スポーツをやっている。スポーツといっても、テニスと筋トレが中心メニューだ。かなり、寸暇を惜しんで取り組んでいる。これについては、過去にもサラリーマンを辞めてアルバイトを始めたところ、肉体労働にハマって何ヶ月も続けてしまったことがあるくらいで、もともと強い興味がある。小学生のときも、体力テストや運動能力テストの成績がクラスで最下位だったが、妙に熱心にトレーニングしてたおかげで、「努力賞」をもらっていた。クラスで一番のスポーツマンが金メダルで、2番目のスポーツマンが銀メダルで、筆者は「努力賞」の銅メダルだった。

歳月がすぎて40代となった今、同年代の普通の人は、かなり体力が衰えている。それに比べて筆者の場合は、妙に熱心に身体を鍛えたおかげで、疲労が回復する早さを除けば、20年前よりも多くの点で体力が上がっている。今なら、体力テストや運動能力テストで、同年代が相手なら上位入賞も夢ではないだろう(笑)。

このように、スポーツをすれば、目に見えて成果が上がる。特に、筋トレの成果は、目に見えやすい。

それに比べて、精神世界の探求はどうだろうか。こちらの方は、目に見えるような成果など、なかなか期待できないように思える。世間の一般人の多くは、精神世界本を読んで瞑想するより、野外でスポーツするほうが、ずっと有意義な余暇の過ごし方だと感じることだろう。

でも、それは偏見というものだ。精神世界の探求が意識にもたらす効果は、スポーツが身体にもたらす効果に匹敵する。読書が、知性や教養にもたらす効果に匹敵するものがある。

精神世界の探求が目的とするものは、人によって、いろいろあるだろう。もちろん、自分がライトワーカーであることを自覚し、世界の変容のために働くというのは、大いなる目的だ。それは大いに結構なことなんだけど、筆者はそういう考え方をしないタイプで、もっと内面的な「意識の向上」を目的としている。

これはスポーツも同じで、世の中には、「ボクががんばってサッカーすることにより、ワールドカップで日本代表を優勝させるんだ!」というような、大いなる目標のもとに取り組んでいる人もいる。でも、たいていの人はそうではなくて、もっと目標が小さい(笑)。それと同じようなものだろう。

精神世界の探求者にとって、目的とすべきものは、「意識の向上」だ。その先には、「意識の覚醒」が待っている。このように、精神世界には明確な目的があって、取り組む意義がちゃんとある。決して、つかみどころがなくて意味不明なジャンルなんかじゃない。

ただし、百人いれば百通りの意見が錯綜する精神世界のこと、この時点ですでに、有力な異論がある。それは、一言でいって、「アナタは、今のままで完璧な存在です。そのままでいいんですよ」というような立場。この考え方については、今までにも取り上げてきたし、これからも語る予定でいるから、ここでは省略するけど、これはこれで正しいのである。むしろ、見る角度によっては、究極の真実といってもいいくらいだ。。

しかし、それは見る角度を変えた場合の話。ここでは、別の角度から物事を見るとする。つまり、「意識の向上」を目標にして、トレーニングを積み重ねて進歩していく探求路線で行く。

そうなると、次は、「意識の向上っていうけど、それは要するに、どういうことなの?」ということになるだろう。

(つづく)

世界の変化は、さらに加速している

2015年09月21日 | こっくり亭日記
ここ1年ほど、本当にブログの更新が少なくなった。もっとも、ここは開設してから、すでに十年近く経っている。どんなことでも、同じことを十年も続けるというのは大変なことであり、続かなくったって仕方がないと思われる。

精神世界の探求というのは、筋トレみたいに「筋肉がついてきました」とか、勉強みたいに「知識がついてきました」というような、分かりやすい成果や進歩があんまりない。「意識の向上」という、なんとも分かりにくいことを目指しているものだから、これは仕方ない。では、どうするかと言ったら、「このところ、私の意識はますます上がってまいりました」と、ひたすら自己申告するしかなかったりする。

だが、年がら年じゅう、「意識が上がった」と言い続けたところで、そんなに一本調子で上がるはずもないから、しだいに説得力が失われるのは避けられない。

それでも、やっぱり、長らく探求を続けていれば、意識がだんだん向上してくるのは確実だ。それこそが、精神世界探求の成果なのだ。もちろん、方向性がまちがっていなければ、の話だが・・・。

そういう個人の内面的な意識の変化を別にしても、世界は、確実に変化している。それも、ますます変化が加速している。

この地球上で、最も急速に変わってきたところといえば、なんといっても中国だろう。少なくとも、ここ2~30年ほどをとってみれば、中国の変化はすごい。いきなり、経済が何十倍にも膨張して、農村から都市に人口が流入して、まるきり別世界になった。日本も20年前や30年前と比べて、変わったことは変わったけど、中国のものすごい変化と比べたら、むしろ、あんまり変化がなかったと言える。だから、変化を好む筆者としては、日本よりも中国の情勢に興味を持っている。

テレビのニュースで、左翼のデモ隊を見てイライラするのも、ひとつには、そのせいだ。日本のように成熟して安定した、変化の乏しい国で革命騒ぎを起こしたところで、意味がなくてバカバカしいのである。そんなに反戦運動がやりたいのなら、中国に行ってやってくればいいのだ。もっとも、その結果として、どうなっても知らないが・・・。

中国ほどではないにしても、アメリカだって、ものすごく変化している。20~30年前に比べて、アメリカの人口は大幅に増えた。主に、メキシコ人をはじめとする中南米の人々が、何千万人も流入してきたおかげ。これだけ増えたら、社会も変質する。早くも、黒人のオバマ大統領の次は、ヒスパニックの大統領が登場するんじゃないかと言われている。実際に、黒人よりもヒスパニックのほうが、遥かに人口が多くて経済力もあるのだから当然だろう。

政治や経済、社会の変化もさることながら、それ以上に早いのは、科学技術の進歩だ。

かつての人間社会では、力持ちが重宝されていた。図体がデカくて、重いモノを持ち上げられる人の存在意義は大きかった。それが、機械の進歩によって変わった。どんなに重量挙げがうまくても、クレーン車にはかなわない。どんなに力持ちを集めたところで、現代の超高層ビルは、建築資材が重すぎて建てられない。機械の進歩によって、世界は大きく変わった。昔よりも、ずっと大きくて複雑なものを作れるようになった。

今は、コンピュータの進歩によって、同じような変化が起きている。IT革命のおかげで、コンピュータが劇的に進歩した。そのコンピュータに大量のデータを突っ込んで解析できるおかげで、人間の肉体の頭脳ではありえないほどの進歩が急激に起きている。

機械の発達によって、力持ちの存在意義が昔ほどじゃなくなったように、コンピュータの発達によって、筆者のように万巻の書を読んで知識が多い人の存在意義は、確実に薄れることになる(笑)。とにかく、解析できるデータの量が半端でなく、文字通り天文学的だ。

言語の翻訳とかも、「コンピュータは人間の頭脳にかなわない」とずっと言われてきたけど、それが変わろうとしている。

たとえば、日本語の「どうも」という言葉は、状況によって「こんにちわ」という意味にもなり、「すみません」という意味にもなり、「ありがとう」という意味にもなる。そういう微妙なニュアンスを、前後の文脈も含め、全部ひっくるめて大量に機械に覚えこませる。

「キミの名は、なんというの?」も、「アナタのお名前、なんてえの?」も、「貴公のご尊名は、どないぬかすねん?」とかも、なにもかも詰め込んで暗記させる。それぞれに微妙なニュアンスの違いはあるけど、大量のデータ解析を通じて、その違いを認識する。

ひとつひとつの文法や単語じゃなくて、大量の言語をまるごと解析する。たとえば、本ブログの文章をすべて解析すれば、同じような文体の文章を人工知能が書くのは容易なことだろう。それを、あらゆる精神世界ブログに対して実行する。人間のような限界はないから、何でも書ける。あるところでは、「世界の変化は、だんだん加速しているのである」と書き、別のあるところでは、「生かしていただいて、感謝しています」と書く。こうして、いかなる精神世界ブロガーの文章も、人工知能が代わりに書いて勝手に更新してくれるようになるのも夢ではない。

万里の長城のように、どこから槍で突いてこられても即座に対応できるようにする。こうして、人間並みの言語能力が得られることになる・・・という方向に変わってきた。

コンピュータの性能が上がるにつれて、極端にサイズが小さくなり、薄くして手の甲に貼り付けたり、脳に埋め込んだり、血管に注入したりできるようになってきた。それによって、いずれは、普通の人間の肉体の頭脳ではありえなかったような、スーパー知識人に変身できるようになる。誰にでも、それは可能だ。それこそ、渋谷や池袋でうろうろしている非行少女に、いきなり国会図書館なみの知識を注入するというようなことだって、十分できるようになる。

本当にすごいのは、それによって起きる変化だろう。すでに、バイオテクノロジーとか、いろんな科学技術の進歩が、以前の予想を遥かに超えるものになってきている。

10年ほど前までは、「21世紀になったら、鉄腕アトムが空を飛び、宇宙旅行も自由になると思っていたのに、意外とたいした変化がなかったね」とよく言われていたものだった。でも、それを判断するのは、まだ早い。これから10年、20年で、意外と早くSF映画そのもののような世界が近づいてくることになる。21世紀の初めに起きたIT革命によって、それが一気に近づいた。

ひとつの変化が、また次の変化を引き起こす。このようにして、さざ波のように変化が重なり、どんどん加速して、怒涛のような速さになる。

だから、今までの常識で人生を考えてはいけない。バイオテクノロジーの進歩により、いま60歳の人が、20年後に80歳で若返り、40年後に100歳でもっと若返る・・・というように、時間の流れが逆転してもおかしくない。今までの人生設計は、まったく意味をなさなくなる。

筆者は、もとより歴史マニアで、過去と未来のことを考えるのが大好きだ。「変化がだんだん加速している」というのは、地球の数十億年の歴史を見ても、人類の数千年の歴史を見ても、明らかに実感できる。

率直にいって、個人的には、「銀河の中心から降り注ぐ光により、地球に大きな変化が起きます」というような話も好きだけど、こういう現実的な「時間の加速」の話のほうが、さらに好きかもしれない(笑)。といっても、その背景には「意識の変化」があるのだから、どっちにしても同じことを意味している。

意識の変化と、世界の変化は、車の両輪のように一緒に進むもの。そして、それはだんだん加速している。
 

(続く)