以前からよく思うことだけど、世間では、「スポーツ」を妙に高く評価している。身体を動かして、ボールを追いかけたり、走り回ったりすることに、高い価値を見出している人が多い。そういうことをやっているのを見ると、「いいねえ」、「いいことやってるねえ」と言い出す。反対する人があまりいない。
スポーツほどではないのだが、知的な活動も、それなりに高く評価されている。本を読んだり、美術館で絵を見たり、クラシック音楽を聴いたりしていると、「いい趣味だねえ」と言われる。もっとも、こちらは、スポーツほど高く評価されないことも多い。「そんなことばかりやってないで、野外に遊びに行け」と言われることもよくある。その手の人たちは、そういう内向的な趣味にハマッていると、性格が歪み、社交性に欠ける偏った人間になると考えているようだ。
知的な趣味が、スポーツやアウトドアライフに比べて否定されやすい背景には、学校で受験勉強に苦しめられた人が多いというのもあるだろう。つまり、英語や文学・歴史、科学や幾何学その他については、「学校で無理やりやらされた」というネガティブな記憶を持つ人が多く、それが「趣味」と見なしてもらえない元凶になっている。
単なる読書でさえそうなんだから、ましてや、精神世界の探求については言うまでもない。これについては、世間の多数派がネガティブなイメージを持っていると言ってよい。「先週の日曜に、何をしましたか?」ときかれて、「みんなでサッカーをやりました」と言えば、「そりゃあ、いい過ごし方をしましたね」ということに、普通はなる。「美術館で絵を見ました」と言っても、「へえ、いい趣味ですね」と感心される。でも、「宗教書を読んで瞑想しました」と言って、高く評価されることは少ない。
これこそ、「世間の偏見」というものだろう。おそらく彼らは、精神世界の探求を、「役に立たない上に、おもしろくもないもの」と考えている。つまり、精神世界の探求には、スポーツをすることによって得られるような、一種の「効用」があると思われていない。
ここで、その効用を考えるに当たっては、「スポーツの効用」ってものを参考にしたらどうかと思う。
世の中には、野球がどれだけうまいか、サッカーがどれだけうまいかによって、人生が左右されるプロもいる。でも、たいていの人はそうではない。普通は、テニスがうまかろうが下手だろうが、人生が変わるわけではない。
では、なんで練習するのか。それは、うまいかどうかに関係なく、スポーツをすること自体に効用があるからだ。少なくとも、世間ではそう受け取られている。
では、どう効用があるのかというと、たとえば、運動不足が解消されて健康になるとか、ゼイ肉が取れてスリムな体型になるとか、元気で活発になるとか、協調性が身につくとか、根性が養われるとか・・・。
つまり、スポーツをすれば、しない場合に比べて、人は容姿端麗になり、明るく爽やかな人柄になる。それによって、人間的な魅力が増す。もちろん、必ずしも全員がそうなるわけじゃないけど、そういう傾向にある。たとえば、テニスの松岡修造などは、テニスという狭い世界を超えて、テレビ番組を席巻する人気者になった。もともとそういう人なのかもしれないが、スポーツによって磨かれた部分も当然あるだろう。それこそが、スポーツの効用だと言える。
これを見るに、精神世界の探求には、そういう意味での「効用」がないと受け取られているんじゃないか・・・と思えて仕方がない。つまり、精神世界を探求する人は、しない場合に比べて、ポジティブな方向に変化すると思われていない。
なんで、そう思われているのか。筆者に言わせれば、またまた批判することになって申し訳ないんだけど、やっぱり悪いのは、新興宗教の信者さんたちだ。
世の中には、新興宗教の信者は多くて、熱心な勧誘活動をやっている人も多いから、自然と目に付きやすい。
その点、正統派の古典的な精神世界探求者は、もともと少数派にすぎない上に、「どうせ、世間の一般人に分かるわけがないさ」と思っているせいもあって、勧誘や紹介活動をほとんどやっていない。このため、一般の目に触れる機会は少ない。この分野のイメージを代表しているのは、やっぱり信者さんたちなのだ。
早い話が、世間の一般人の多くは、新興宗教の信者を見て、「精神世界をやると、こういう人になる」と誤解している。それが、あまりにも思いっきり、精神世界の評価を下げているのだ(笑)。
本当は、精神世界には、大きな効用がある。この分野のマニアだけでなく、世間の一般人にとっても、十分に有意義と思えるような多くの効用がある。
たとえばの話、長年にわたって修行を積んだ、禅寺の高僧はどうだろう。その静かな叡智に満ちた深い眼光や、飄々とした人柄に、魅力を感じないだろうか。先ほどの「スポーツ」の例と同じように、座禅をすることによって人間的な魅力が増すことは大いにありうるのである。
これは座禅に限ったことではなく、念仏や題目をずっと唱え続けることによっても、時間がかかる回りくどい道ではあるものの、同様な効果が得られる。
それだけでなく、瞑想をすれば、雑念が消えて集中力が高まり、直感が鋭くなるので、仕事や日常生活にも良い影響がある。これまた、スポーツで運動不足を解消することにより、日常生活に良い影響があるのと変わらない。
そういえば、「禅寺で座禅を組んできた」と人に言ったところ、「へえ、そりゃあ、意外にも良い趣味だねえ」と感心されたことがあるのを思い出した。それを思うと、やっぱり、上に書いたような「低い評価」は、一種の被害妄想にすぎず、本当はそれなりに高く評価されているのかもしれない。
まあ、どっちにしても、人から高く評価されるためにやることじゃないから、どうでもいいとは言うものの・・・(笑)。もっとも、ここで問題にしている点は、他人の評価がどうのこうのではなく、精神世界の「効用」がイマイチ認識されてないってことにある。
それを思うと、スポーツをずっとやってきた人が、そうでない人に比べて、一見してドコか違う雰囲気があるように、精神世界の探求者も、一見して、「この人はドコか違うな」と感心されるくらいになるのが望ましい。そうすれば、「精神世界をやれば、やらないのに比べて、ほぼ確実に良くなる」と思われるようになる。
じゃあ、ドコが違うのかというと、意識が高まっているから違うのである。
では、何をもって、意識が高まったと言えるのか?
(つづく)