宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

究極の後ろ向き思想 ・・・ その4

2014年05月31日 | 精神世界を語る
 
この「究極の後ろ向き思想」という話は、どうも誤解されやすい。

どう誤解されるのかというと、ここでは、「地球での人生は、とても大変だ。だから、生きるのが嫌になってくるのだ」という話をしているわけではない。いや、もちろん、そういう話もしてるんだけど、それがメインではない。

ここでの主眼は、なんといっても、「人生が嫌になることこそ、解脱への第一歩」というところにある。

というのも、地球の物質世界という、深い眠りの中で夢を見ている状態から、目を覚ますためには、まず、「ここから抜け出したい」と思わなきゃいけない。そもそも、「抜け出したい」と思ってなければ、抜け出せるはずもないからだ。だから、むしろ、積極的にそう思うべきなのである。

古代インドのお釈迦さまも、「人生は苦しい」と弟子たちに教えていた。当然のことながら、世の中の人々の全員が、「人生は苦しい」と思っているわけではない。中には、「生きてることが、楽しくて仕方ないんです」という人もいる。そこまで行かなくても、「まあ、大変なことも多いけど、その代わり、楽しいことも多いよね」というくらいの人が多いだろう。

そういう人には、おいしい食べ物が腐っていくところを見せたり、瞑想でそういうイメージを持たせたりする。しまいには、弟子たちを墓場に連れて行って、美女の死体が腐乱していくところを見せたりとか。そうやって、「人生は、楽しくないんだ。一見、楽しそうに見えたとしても、それは長続きしないんだ」ということを、せっせと刷り込む。

なんで、そこまでして、後ろ向きな人生観を持たせたいのか。それはやっぱり、それこそが、「解脱への第一歩」だからなのだ。

ポジティブ・シンキングもいいんだけど、残念ながら、意識の覚醒には役立たない。まったく役に立たないというわけじゃないんだけど、それほど役に立たない。それよりも、後ろ向きな人生観のほうが、よほど効果が高いと言える。

後ろ向きな人生観を、努力して身につけるのは、大変なことだ。それに比べて、特に努力をしなくても、自然と嫌気がさしてくるくらい不愉快な人生を送っているのなら、むしろ好都合と言えるだろう(笑)。

しかし、それは、両刃の剣でもある。

というのも、人間には、往々にして、「ムキになってガンバる」ということもあるからだ。「ちくしょう。俺は、こんな人生を送るつもりじゃなかったのだ。なんとかして、立て直してみせるぞ」と燃えるのもいいんだが、そうすると、ますます地球の物質世界という、底なし沼にズブズブとハマッていく恐れがある。

しまいには、「もはや、生まれ変わって、人生を最初からやり直すしかない」ということにもなってしまう。そういう強い気持ちを持っている人が、「輪廻転生から卒業」できるはずもない。また、生まれ変わることになるのは必定だ。

どっちかっていったら、「ボクの人生は、振り返ってみると、とても楽しかったな。また生まれ変わって、楽しい人生を送りたい」という人より、「こんちくしょう。俺は、生まれ変わって人生を最初からやり直すぞ。今度こそ、とても楽しい人生を送ってやる」という人のほうが多いだろう。そのほうが、輪廻転生の大きな原動力になっていると思われる。

苦難の多い大変な人生のほうが、ずっと刺激が強いのは確かだ。クスリと同じで、刺激が強いほど、依存症になりやすい。地球生命系での輪廻転生も、それと同じだろう。それが意識覚醒をさまたげることは、十分に考えられる。


一番いいのは、そこそこ気楽な楽しい人生を送って、なおかつ、極端に後ろ向きな人生観を持ち、そのまま地球生命系を卒業することだろう。なかなか難しいのだが、それができたら、ベストだ。

実際のところ、お釈迦さまは、それに近かった。若き日のお釈迦さまは、一国の王子として、なに不自由ない日々を過ごしていたのだ。しかも、容姿端麗で、大変な秀才だったと言われる。ちょっと、カラダは弱かったみたいなのだが、ネガティブな要素はそれくらいしかなかった。

それでいて、人生に心底、嫌気がさし、王家での暮らしを捨てて出家してしまいました・・・というのが、この話のミソ。

なぜ、生きるのが嫌になったのかというと、老人がヨボヨボ歩いているのを見て、「大変そうだな。年をとるというのは、とても悲しいことだな・・・」と、嫌になってしまった。病気で人が死ぬのを見て、「みんな、こうやって死んでいくんだな。この世は、悲しいところだな・・・」。赤ちゃんがウエーンと泣いているのを見て、「赤ちゃんは、いつも泣いててカワイソウだな。この世に生まれてくるというのは、悲しいことなんだな・・・」。

・・・そんなこんなで、この世で生きることが、完全に嫌になってしまったのだ。このように、なに不自由ない快適な人生を送っていても、感受性が強い人なら、地球という環境を観察しただけで、「究極の後ろ向き思想」に到達することは十分にあり得る。


でも、何度も言うように、究極の後ろ向き思想は、実のところ、究極の前向き思想へとつながっているのである。ブラックホールの出口が、ホワイトホールにつながっているようなものだ。

地球という環境に、なんの未練も執着もなくなると、かえって、地球の風景の美しさが、目にしみるようになってくる。

緑があふれる森林に、悠然たるガンジスの流れ。孔雀が舞い、牛が草を食む。入滅する寸前のお釈迦さまは、インドの風景に見とれて、「美しい・・・」と感嘆した。そして、「人生は甘美なものだ・・・」とつぶやいた。

おそらく、最後には、そんな美しい地球にいるだけで、なんだか楽しくなってきたのだろう。しょせん、この世は、仮の宿り。だからこそ、かえって、その美しさが鮮烈に感じられる。

 
そこまで行かなくても、後ろ向きな思想は、「ウツ病の人に、ガンバレとか、ポジティブな言葉をかけるのは禁物だ」というのと、まさしく逆の効果も期待できる。

「そんなに落ち込んでばかりいないで、元気だせよ」などと言われても、ウツ病になって困っている人は、元気など出せっこない。だから、「俺は、いつも元気がなくて、情けないヤツだな・・・」と思って、ますます落ち込んでしまうのだ。

しかし、後ろ向きな思想を持てば、それこそが「解脱への第一歩」なのだから、なんだか楽しくなってくるというもの(笑)。

「ボクはあの時、どうして、あんなことをしてしまったんだろう・・・」とか、「こんなはずじゃなかった。どうして、こんなことになってしまったのか・・・」というように、ウジウジ悩んでいる人に対しては、「人生で起きることには、なんの意味もない」と、キッパリ断言する。

これによって、重い荷物を背負って坂道をトボトボと歩くような人生から解放され、気楽な明るい人生に変わることも、おおいにあり得る。それこそ、ウツ病だって、治るかもしれない。

「究極の後ろ向き思想」を身に着けると、かえって、肩の力が抜けた、明るくて楽しい人になる。これこそが、後ろ向き思想による、最大の効用なのだ・・・。
 

究極の後ろ向き思想 ・・・ その3

2014年05月30日 | 精神世界を語る
 
究極の後ろ向き思想は、究極の前向き思想に通じる。ブラックホールに吸い込まれると、その奥の奥はホワイトホールになっていて、そこからまた飛び出してくる・・・というようなものか。
 
それはやはり、同じコインの裏と表を、正反対の角度から見ているにすぎないのかもしれない・・・。
 
 
あるとき、輪廻転生の話を聞いて怒り出した人がいた。「人は生まれ変わる」という話を聞いて、「なんだ、それは。ふざけるな」と怒り出した。いわく、「人生は一度きり。だから、生きてる間は精一杯に生きるんだ」と言う。
 
そんな人の生き様を見ていると、いつも一生懸命に生きていた。「一度きりの人生を輝かせよう」と思って、今という一瞬に集中していたのだ。チャレンジ精神に満ちて、充実した人生を送っていた。まさしく、ポジティブな生き方をしていた。
 
 
筆者にとって、「輪廻転生」は、空気や水のように当たり前のものでしかない。もちろん、「ひょっとして、輪廻転生というのはウソで、人は死ねば消滅するんだとしたら、どんなもんだろうな?」と考えたことはある。でも、それは一種の「アタマの体操」みたいなものにすぎず、幼児期から今まで、本気でそう思ったことがない。
 
このため、「人生は一度きり」という信念を持っている人の心理は、正直、よく分からない。でも、見る角度を変えれば、それは真実だと言える。というのも、少なくとも、「この人生」は、一度きりだからだ。いくら、「人は生まれ変わる」と言ったって、まったく同じ、この人生を繰り返すわけではない。ニーチェの「永劫回帰」じゃあるまいし、さすがに、それは無い。そういう意味で、今回の人生に関しては、まさしく「一度きり」と言えるだろう。
 
 
古代インドのお釈迦さまは、このような問題で論争することを、固く禁止していた。それは、見る角度によって、真実というものは変わるからだ。同じコインの裏と表を見ながら、「ああでもない、こうでもない」と議論したところで、仕方がない。
 
「人には、永遠の生命がある。何度でも生まれ変わる」というような考えを、常見(じょうけん)と言う。一方、「人は、死ねば無になる。人生は一度きりだ」というような考えを、断見(だんけん)と言う。

仏教では、常見も断見も、両方とも極端な意見なのであり、どちらも信じるなと教えていた。両極端をとらず、中道をゆけ。それこそが、「不常不断の中道」。 
  
というのも、常見、つまり、「人には永遠の生命があるのだ」という考えは、仏教の目指す「自我の滅尽」という目標と、矛盾するところがある。「ボクは、長生きしたいなあ」というくらいなら、まだ人間的な願望と言えるのだが、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいなあ」というのは、あまりにも自我に執着しすぎており、許すべからざるものがあったのだ。
 
一方、断見、つまり、「人は、死んだらオシマイだ」という考えのほうも、ネガティブな人生観に通じるから、有害だとされていた。確かに、これだと、「俺たちは、どうせ死んだらゴミになるのだ。だから、せめて生きてる間くらいは、おいしいお酒を飲んで、美女とたわむれ、短い人生を楽しもうぜ」というような、刹那的な快楽主義者になる恐れがある。

・・・というわけで、常見と断見、この2つは、仏教では両方とも嫌われた。このため、「両極端をとらず、中道をゆけ」と教えられた。

ただし、この2つの考え方のうち、どちらがよりいっそう有害であるかというのは、ハッキリしていた。
 
断見、すなわち、「人は、死んだらオシマイだ」という考え方のほうが、この2つの中でも絶対的に有害であり、「それだけはヤメておけ」というぐらいに位置づけられていたのは確か。

それに比べたら、常見、すなわち、「人には永遠の生命がある」という考えのほうが、はるかにマシだった。こちらは、「別に間違ってはいないんだけど、そこはコダワルところじゃないですよ」というくらいの有害さでしかなかった。
 
要するに、この場合、本当にネガティブな考えというのは、「人は、死んだらオシマイだ」というもの。これは、人生に対して前向きか、後ろ向きかは別にしても、本質的なところでネガティブな考え方になっている。

それに比べて、「こんな地球は、もう嫌だ。とっとと離れたい」というのは、後ろ向きではあるけど、本質的なところでは、決してネガティブではない。

だから、ポジティブ教の信者諸氏も、それを見て怒り出すべきではないのである。
 
 
それより、究極の後ろ向き思想には、大きな効用がある。それは、地球での重苦しい人生を、まるっきり無意味なものにしてくれるというところ。

前回も書いた「ネトゲ廃人」の例でいうと、ネットゲームにハマッている人にとって、ゲームの中の世界は、真剣勝負そのもの。負けると、本気で怒ったり、思いっきり落ち込んだりする。勝てると、有頂天になって喜ぶ。だから良い装備やカードを集めて、強いプレーヤーになろうと努力する。何十万円も課金する人がいるのも、そのためだ。

でも、見る角度を変えれば、しょせんネットゲームでしかないのも事実。こんなところで勝とうが負けようが、ゲームの世界から一歩、外に出たら、何の影響もない。

そこに気づいたら最後、ゲームの中の世界は、まったく無意味なものと化す。そんなところで勝とうが負けようが、ちっとも気にならなくなる。そうなると、「そろそろ、潮時か・・・」ということにもなるだろう。

それと同じように、この地球での人生も、見る角度を変えれば、ちっとも意味がない(笑)。

地球人の苦悩の多くは、人生に対して真剣すぎるところから来ている。特に、ウツ病になる人ほど、マジメな人が多い。

ここに意味を見出せなくなってくると、かえって、人生を気楽に楽しめるようになる・・・ってこともあるだろう。

「せっかく、遠い地球に来ているのだから、なるべく、何でも見てやろう」というような、旅行者の心境ともなる。

そういう目で見る分には、地球には美しい風景が多いし、楽しめるところが少なくない・・・。
 

(続く)
 

究極の、後ろ向き思想 ・・・ その2

2014年05月26日 | 精神世界を語る
 
ポジティブ・シンキングは、どんなときでも効果があるわけではない。

ポジティブ教の信者ともなれば、どんなことでも前向きに受け止めなきゃいけないから、大変だ。

失業しても、「ボクは、失業して良かったな。これで、自由な人間になれたぞ」。病気になっても、「ボクは、病気で入院して良かったな。これは、しばらく休めという天の意思なのだ」。失恋しても、「ボクは、彼女にフラれて良かったな。おかげさまで、悪い因縁から解放されたぞ」。

・・・確かに、モノは言いようで、どんなことでも前向きに解釈しようと思えば、できないこともない。ただ、人間として、不自然なことであるのは事実だ。無理を重ねると、どこかが歪んでくる。

故・船井幸雄会長も、病気になった最初の頃は、「超健康人間の私が、初めて病気になりました。入院したおかげで、静かに人生を省みつつ、本をたくさん読んでいます。これは、しばらく休めという、天の意思なのでしょう」と言っていた。それはその通りなのかもしれないと、当時は思った。
  
でも、その後、何年たっても病気は回復せず、ますます病状が悪化していった。しまいには、「なんで、こんな目に合わなきゃいけないのか?」と思うような、キツい症状ばかりになってきた。ときどき、症状が改善するたびに、「私はすっかり回復してまいりました」と言うけど、すぐに逆戻りして、以前よりも、さらに悪くなることの連続。結局のところ、完全に回復することはなかった。 
 
船井会長は、最後には、スピリチュアルから心が離れていたようだ。それはやはり、長年のポジティブ・シンキングが報われなかったことに対する、幻滅もあったのかもしれない・・・。
 
ただし、船井会長の場合、ポジティブ・シンキングが報われなかったのは、晩年の病気の数年間だけだった。それまでのビジネスマンとしての人生が、並外れて充実していたのは間違いない。「思ったことは、たいてい実現してきました」というのも、オオゲサではないだろう。
 
だから、結局のところ、ポジティブ・シンキングには、効果が有るときもあれば、無いときもある・・・という、当たり前といえば、当たり前の結論になるしかない。
 
   
ただし、使いようによっては、逆効果になるときもある。前回も書いた、「ウツ病の人に、がんばれという言葉は禁句」というのが、それだ。

なぜ、それが禁句なのかというと、もともと、がんばれないからウツ病なんだし、元気を出せないからウツ病なのだ。がんばれと言われると、「がんばれない自分」を、余計に強く意識させられることになる。だから、ますます落ち込んでしまう。


筆者の場合、十代の頃からの友人が、何人か、残念ながら精神を病んでしまった。彼らには、地球の物質環境で生きることが、重すぎる荷物だったのだ。

障がい者年金をもらっている彼らを訪問すると、いつも、筆者の生命感(?)に感心された。「キミも、根はボクと同じようなタイプの人間だと思うんだけど、それにしては、いつまでも病気にならず元気だな。それどころか、妙に目が輝いていて、なんだかイキイキしているな?」と言う。 
  
それはやはり、人生観の違いによるものが大きいんじゃないかと思われる。

というより、人生観うんぬんという以前の問題かもしれない。

というのも、当方は、子供の頃から、この地球という環境に適応しようと、いつも一生懸命なのだ。よせばいいのに、なぜか社会性の高い、キツい職業についてみたり。でも結局のところ、本当の意味での適応は、できっこないと思い知らされることの連続だった。根本的な違和感が解消されることは、一切なかった。

だからと言って、メゲるわけでもない。いや、十分にメゲているのだが、世間の一般人がうまく行かないときに感じるような絶望感とは、傾向が大きく異なる。
 
実際のところ、地球環境に不慣れな人には、そういうタイプも決して少なくない。
 
まあ、それは、「せっかく遠いところに旅をしているのだから、この機会に何でも見てやろう」という、旅行者に似た心境とも言えるだろう。それだけでなく、「郷に入りては、郷に従えだ。この地球で生きている以上は、土着の地球人を見習って、早く慣れるべきなのだ」という、根本的なところでのチャレンジ精神でもある。
 
そういう心境と、「やっぱり、地球はもう嫌だ。あまりにも無理のある環境だ。早く離れたい」という、究極の後ろ向き思想とは、立派に両立する。この2つは表裏一体で、切っても切れない関係にあるのだ。
 
というのも、北極と南極が、両方とも寒くて似ているのと同じで、両極端というのは、似てくるものなのだ。中途半端ならともかく、究極の後ろ向き思想ともなると、かえって、究極の前向き思想と、なんだか似てくるのである(笑)。

  
例によって、話が脱線してきたが、最近は「ポジハラ」(ポジティブ・ハラスメント)という言葉も登場してきている。

それは、上に書いたような、ポジティブな考え方をムリヤリ押し付けられること。モーレツ営業会社などにいると、特にそういう傾向にある。

社員を集めて、「思考は現実化する。強く思ったことは、現実になるのだ。さあ、ボクは売上を上げて大成功したいなと、もっと強く念じなさい」と指導するというような、「ここは自己啓発セミナーか?」と思わせる会社さえ、実際に存在する。
 
それが合っている人にはいいが、そうでない人にとっては、「あ~あ、この社会では、なんで、いつもポジティブでなきゃ許されないんだ。正直、疲れるな・・・」という気持ちにさせられる。アメリカ人には、これが多いとされる。
  
   
自己啓発セミナーで思い出したけど、昔、保険の営業マンで、「自己啓発セミナーにいくと、おもしろいように保険の契約が取れる」という人がいた。

自己啓発セミナーで、「自分の欠点と長所」の話をさせられ、それから、ほかの参加者に対して「アナタの欠点と長所」の話をして、お互いにズバズバと言い合う。「そこまで言うか?」と相手が怒り出すようことを、あえて言うように仕向けられる。そうして、すべてを前向きに解釈する。すべての欠点が、オセロゲームのようにヒックリ返って、すばらしい長所に変わる。これこそ、人生観の大逆転だ。全員でポジティブ・シンキングするから、だんだん、気分が高揚してくる。
 
しまいには、全員が思いっきり興奮状態になり、なんでも出来そうな気になってくる。「さあ、やるぞ!!」という、エキサイティングな精神状態。そんなときに、タイミング良く保険のセールスをすると、おもしろいように契約が取れるんだそうな。
 
それを聞いて、まさしく、「ポジティブ・シンキングは、使いようによっては効果絶大だ」と思ったものだ・・・(笑)。
 
 
(続く)
 

究極の、後ろ向き思想

2014年05月22日 | 精神世界を語る

ウツ病の人には、「がんばれ!」とか「元気を出せ!」という言葉が禁句だと、よく言われる。それはその通りで、もともと、がんばれないし、元気を出せないからウツ病なのだ。だから、ますます落ち込むことになる。

このように、ポジティブな言葉も、使い方によっては逆効果になってしまう。

精神世界は、ポジティブ・シンキングの世界だ。意識を変えることによって自己実現し、世界を変革していく。誰でも、思いのままに変えていけるし、素晴らしい自分になれる。そういう前向きな考え方が、今は主流になっている。

でも、精神世界というのは、百人いれば百通りの意見が錯綜する分野なのだ。「ポジティブ・シンキング」も例外ではなく、これが全てというわけではない。

むしろ、古代インドの昔から、この分野は、「ああ、苦しい。この地球の物質世界は、なんて悲しい世界なんだ。よし、ボクは、こんなに嫌な世界を捨てて、山ごもりして解脱することにしよう」というような、世間の一般人からすれば何ともネガティブな、究極の後ろ向き思想こそが、長きに渡って主流だった。

筆者の場合は、どちらかと言うと、そういうスタンスに近い。ここは、「地球はもう嫌だ。元いた星に帰りましょう」というブログ。だから、ポジティブ・シンキング派の人たちからはお叱りを受ける。でも、どうすることも出来ない。それが、偽らざる率直な気持ちだからだ。

だから、「生かしていただいて、ありがとうございます」というのを見ても、「こんな地球に生かされていることがアリガタイとは、この人たちは、よほど恵まれた人生を送ってるのだろうか?」・・・というのが、本ブログにおいては、正しい反応ということになる(笑)。

だが、この世的には後ろ向きな発想でも、見る角度を変えれば、極めて前向きな発想だったりもするのである。

たとえば、インターネットでゲームにハマっている人を考えてみると良いだろう。ネットのゲームでは、仲間と共に行動することが多い。当然のことながら、しょっちゅうログインして、強力な装備をそろえ、いつも仲間を献身的に助けてくれるプレーヤーは、「頼り甲斐がある」と言われ、周囲の評価が高くなる。

逆に、いつもサボっているプレーヤーは、「アイツは、使えねえヤツだな」と言われ、評判が悪くなる。

でも、見る角度を変えれば、そう言ってる人たちの方こそ、ネトゲ廃人なのであり、「使えねえヤツ」を見習って、ゲームの世界から抜け出すべきなのだ。

それと同じことが、この地球の物質世界にも言える。

「こんな世界はもう嫌だ。まあ、一人でやってることじゃないから、そう簡単に『ハイ、それではサヨウナラ』ってわけにも行かないが、寿命が尽きるのを待って、とっとと離れよう」という人もいれば、「そういう、後ろ向きな発想じゃダメだ。もっと、この人生を積極的に生きてみようよ」という人もいる。確かに、後者の方が、良いことを言ってるとは思う。でも、見る角度を変えれば、それこそ、地球の価値観にドップリ染まった、一種の「ネトゲ廃人」なのかもしれないではないか。

仏教では、この世に嫌気が差すことを、後ろ向きとは思っていない。むしろ、それは解脱への第一歩として推奨される。

人生は苦しい。たとえ、楽しそうに見えたとしても、人はいつか老いて死ぬ。最終的には、必ず苦しい。仏教では、むしろ、そういう見方を身につけなさいと教える。まずは、この世が心の底から嫌になることこそ、解脱への第一歩。

本人が意識していなくても、潜在意識は、それを知っている。実際のところ、「よし、ボクは、ここまでは一生懸命にがんばるけど、その努力がすべて水の泡となって、人生そのものにウンザリするようにしておこう」という具合に、あらかじめ人生計画を立てていることだって、考えられる。

究極の後ろ向き発想には、それくらいの意義がある。それこそ、人生を賭けて追求する価値があるのだ。

もちろん、それが全てではない。でも、古来から精神世界論というのは、そういう方向性がむしろ主流なんだってことを、忘れるべきではないだろう。

では、なぜ現代になって、ポジティブ・シンキングが精神世界の主流になってきたのかと言えば、それには、いろんな理由が考えられる。

ひとつには、今までの地球と、これからの地球は、違うからだ。今までの地球は、どっちかって言ったら、上に書いたような「究極の後ろ向き思想」を学んで身につける場だったと言っても、言いすぎではない。この地球は、それくらい厳しい環境だった。でも、これからは、そんな地球の位置づけが変わってくる。それが、まず一つ。

だが、理由はそれだけではない。それは、そもそも現代の精神世界・スピリチュアル・ニューエイジの本場が、なんといってもアメリカ、特に、陽光がさんさんと降り注ぎ、滅多に雨が降らない、開拓者精神に満ちた冒険の国、アメリカ西海岸だからだ。その点も、考慮に値する。

アメリカ合衆国と、ポジティブ・シンキングには、切っても切れない関係がある。アメリカは、ヨーロッパから渡ってきた開拓者たちが、西へ西へとフロンティアを求めて、大きくなってきた国。なによりも、チャレンジ精神が評価される。ここでは、「後ろ向きな発想」は通用しない。

アメリカ人もいろんな人がいて、全員が積極的なタイプじゃないから、「あ~あ、この国では、なんで、いつもポジティブでいなきゃ許されないんだ。正直、疲れるな・・・」と思ってる人もいる。まあ、かつての経済成長が盛んだった頃の日本も、常に右肩上がりの売上計画を立てていなければ、ビジネスマンとは言えない時代があったのだから、それはアメリカに限った話じゃないんだが・・・。

それにしたって、世界的に見ても、アメリカ人にそういう傾向が強いのは事実。

そんなアメリカで発達し、世界に広がった現代のスピリチュアルには、そういうアメリカ人の傾向が色濃く反映されている。物事には、そういう面もあるということを、記憶にとどめておくのもいいだろう。

もちろん、ポジティブ・シンキングも重要だし、それと「究極の後ろ向き思想」との間に、どう折り合いをつけていくかが、最大のテーマ。

それにしても、物事というのは、つくづく、見る角度によって変わってくるものだ・・・。


(続く)

川下りによる願望実現 ・・・ その2

2014年05月18日 | 精神世界を語る

「自分には、欠点がある。頑張って、自分の足りないところを補い、今の自分ではないものにならなければ・・・。それが、人生というものだ」とかなんとかいうのが、「山登り」の人生観。

一方、「もともと、今の自分には、すべてが備わっている」、「自分の内なる叡智に従えば、すべては川の流れを下るように、うまくいくのだ」という考え方もある。

牧野内大史氏の「イメージの法則」によれば、それが「川下り」の人生観。

「イメージの法則」というから、イメージ・トレーニングをするのかと思ったら、「イメージ・トレーニングではありません」と、本人が言っていた。

そうではなくて、「イメージ・ワーク」なのだという。どう違うのかというと、自分のなかに眠っている「イメージ」を探求しそれを外界で実現させようとすること、「イメージの拡張」ということらしい。

誰もが、自分の内側に、「私はこんな人なのだ」という「イメージ」を持っている。そして、人はそれを外側に実現しながら生きている。

「この内なるイメージは変えられる」というのが、牧野内氏のイメージ・ワーク。

いわく、従来の「引き寄せの法則」は、自分の外側にあるものを引き寄せようとしていた。これからは、自分の内側にある、セルフ・イメージを書き換える時代だ。変えるというより、「既に存在する何かを解放する」という要領。

この「イメージ」を書き換えるための方法は、「解放」「探索」「コミュニケーション」「選択」という4つのステップに分かれている。「体験が大切です。是非とも、ワークをやってみてください」ということだ。

1.「解放」:思い込みに気づき、手放す。

2.「探索」:夢の世界、家・お金・時間などのイメージを探求する。

3.「コミュニケーション」:相手を存在として扱う。インナーチャイルド。

4.「選択」:自分が選択していることに気づき、パワーを取り戻す。

このようなプロセスを経て、現実を変えていくというわけ。

何かを外側に付け加えるわけではない。既に持っているイメージを、ただ解き放ってやるだけ。それが「川下り」という所以。

というわけで、今までの「思考現実化」とか「引き寄せ」には、どうも違和感を抑えきれなかったのだが、これなら、どうにかナジんでいけそうだ・・・。

(とりあえず終了。いつの日か、続く)

「川下り」による願望実現

2014年05月17日 | 精神世界を語る

雲黒斎ブログで「山登りと川下り」の話を見てきた。この人は、禅僧を思わせるような解脱の教えを、現代の言葉で語っている人で、「悟り」が話の中心になっていた。

でも、この話の提唱者である牧野内大史氏は、主に「引き寄せの法則」をやってた人で、もともと「川下り」というのは、その方面から出てきた話。

つまり、ナポレオン・ヒルの成功哲学、「思考は現実化する」じゃないけど、「イメージの法則を活用して、願望を実現する」というところに、本来の主眼がある。

本人のインタビューから一部をコピペすると(後でリンク貼ります。見つからなくなった・・・)、

>(質問者) 著書「イメージの法則」で1番伝えたかったことは?
  
>「イメージの法則」は、「川下り思考」について伝えたくて書いた1冊です。僕たちは子どもの頃から「がんばって自分を変えることができれば幸せになれる」と教えられてきました。努力は大切です。けれども、「自分を変えなくてはいけない」と思えば思うほど、人は自分を見失っていきます。

>ビジネスでもダイエットでも、山頂という目標があって、そのために必要な情報や地図、綿密な計画などをすべて揃えた上で、今度は「山登り」という自分を変える努力が必要になります。このような「山登り」の心理には、多かれ少なかれ現在の自分への否定があるんです。

>一方、人生はまったく正反対の視点からも見ることができます。それは「川くだり」です。

>僕たちはすでに山頂にいて、その頂上から水源の豊富な川の流れにのって、自然と可能性の広がる海へと出ていく。これが、川がただ流れていくように、自然と人生がうまくいく秘訣です。そのために必要な力は、自分の外側にあるのではなく、すでに自分の内側に備わっています。目標達成に疲れた現代人に最も必要なのは、自分自身とつながるコミュニケーションです。


この牧野内氏という人は、もともと企業向けの心理コンサルタントとして、成功哲学のような話をしてたんだそうな。

仕事はうまく行ってたが、あるときから急におカネがなくなり、ホームレス同然の生活となった。外で夜を過ごしていたら、ホームレスのおじさんが、「にいちゃん、これ使いな」と段ボールを貸してくれた。それをフトン代わりにして寝ていたら、なんともいえない、深い心の安らぎを感じた。それが、「川下り」の原点だという。

まあ、「ホームレス同然の生活になりました」というのと、本当に「ホームレスになりました」というのは、似て非なる問題ではある。筆者の受けた印象では、おそらく、この人は「ホームレス経験をした」というわけではなく、「ホームレスの人たちと一緒に、段ボールをフトン代わりにして寝てみたことがある」という程度なんじゃなかろうか。まあ、それはそれで構わないんだが・・・。

筆者も、フリーターになったり、失業給付で生活したことはあるけど、ホームレスになったことはない。現代の日本では、よほどのことがない限り、最低限の住む場所くらいは、たいてい確保できるようになっている。公園で段ボールを敷いて寝るのは、確かに気持ちいい。でも、問題は冬の寒さや、雨の季節だろう。取り締まりも厳しい。一年を通してホームレス生活をするのは、大変なことだ。

ホームレスには、いろんな人がいる。英字新聞を拾って読んでいるインテリもいる。大学生のとき、新宿でホームレスの爺さんが、どこで手に入れたのか、日本酒の一升ビンを持っていたことがあった。「坊やも飲むか?」と言われたので、分けてもらったところ、おいしいお酒だった。そこには確かに、分け合い、助け合いの精神が、ごく自然に生きていた・・・。

またまた話が脱線してきたけど、この牧野内氏という人は、願望実現するイメージ法を教える人。愛読者と思われる人のブログを引用すると、

>マッキーこと牧野内さんの本のユニークな点は、
願望達成を『川下り』に例えたことだと思います。

>川下りといえば、流れにのるだけで、
目的地につくイメージですよね。

>普通の願望達成の方法は、まず叶えたい夢や願望があって(目的地)、
それに向かって、一歩一歩努力し、近づいていくイメージでしょうか。

>牧野内さんは、それを『山登り』に例えていますが
願望達成の方法論としては、(マッキーさんのものとは)明らかに真逆です。

>『川下り』というのは、何をするのかというと
イメージを探求することなんです。

>本にも書かれてありますが、イメージを使うというと
「自分の引き寄せたい現実を強くイメージする」こと(「引き寄せの法則」で有名ですよね)を、思い浮かべるのですが、

>マッキーさんのイメージの探求は、特定の目標や願望を願うのではなく、イメージを(ただ)拡げていく方法なんです。 (中略)

>顕在意識、潜在意識という言葉は
聞かれたことがありますよね。

>じつはその奥に、「純粋意識」という意識のもっとも深い部分が、あるそうです。

>イメージを探求するのは、この「純粋意識」とつながるため…

>ユングは、この意識層を「集合的意識」と呼んでいました。

>この意識まで、下りていくことが出来たら、
願い事は、まるで宇宙がサポートしてくれているように、簡単に叶うのだそうです。

>最初に、願い事ありきでイメージングをするのではないのですね。


率直に言って、これは筆者の苦手な分野だ。

苦手な理由は、いくつかある。ひとつには、筆者は、地球の物質環境や、そこでの人生を基本的に嫌っており、「人生は苦しい。地球人類はダメだ。地球はもう嫌だ」とよく言うので、このような思考実現・願望達成の教えの信奉者たちからは、「ネガティブだ」と言って非難されることが多いからだ。

もう一つの理由は、もっと単純で、かつてモーレツな営業会社で営業マンをやっていた頃に、「願望達成のイメージ・トレーニング」とやらを散々やらされたおかげで、それがトラウマになっているからだ(笑)。

「思考は現実化する」という教えは、もちろん正しい。それ自体は、否定できるものではない。

でも、やっぱり、なんか違うと思うんだな。自分や他人の人生、そして何よりも、地球人類の過去の歴史を観察してきた結果、単純な願望実現論は、地球の現実とは大きくズレているように思われる。それにしては、あまりにも地球の現実は過酷であり、人類の大半は悲惨なのだ。

ただし、だからと言って、「思考は現実化する」というのが、間違っているとは思わない。それどころか、それは、まさしく正しい。

それはつまり、程度の問題だということ。地球の物質世界は、思考や願望を反映して、現実化するように出来ている。でも、それはストレートに実現するものではなく、非常に現実化しにくいように出来ている。だが、長期的には、いずれ実現するように出来ている。

でもって、過去の地球に比べて、現在の地球は、だんだん、思ったことが現実化しやすい世界になってきている。というより、思考が現実化するのに、かつては、あまりに長い時間がかかったが、現在では、そのスピードが大幅に加速している。

・・・というのが、筆者の主観。

ますます脱線してきた。話を戻すと、要するに、この「川下りのイメージング法」には、大いに魅力があると言いたい(笑)。

というのも、従来の思考実現・願望達成の教えは、たいていの場合、「もっと強い願望を持て」と教える。

「金持ちになりたい。金持ちになりたい。なりたい。なりたい。なりたいなりたいなりたいなりたなりたなりたなりなりなりななななな・・・・・(以下略)」と、心の中で強く強く、願う。その、強烈に増幅された意識のパワーによって、意志薄弱な世間の一般人が実現できないことを、強引に引き寄せて現実にするのだ。

そういうのが、典型的な「山登り」の生き方だろう。でも、この「川下り」は、そうではない。それはむしろ逆に、もっと自然体になることから始まる。


(続く)

「山登り」と「川下り」 ・・・ その4

2014年05月17日 | 精神世界を語る

第二段階へと向かう「山登り」のベクトル(上向きの矢印)と、第三段階へと向かう「川下り」のベクトル(下向きの矢印)は、逆方向に向かっている。これを見る限りでは、山登りの道をどんなに進んでも、第三段階へは、たどりつけそうにない。

でも、山には、頂上ってものがある。

頂上を通りすぎたら、そこからは下り坂。あとは、降りていくだけ・・・という地点があるはずだ。それと同じように、雲黒斎氏によれば、第二段階へと向かって進む人には、いつか方向が逆転するときが来るという。

ただし、それは、「山登りの頂点を極めたら、その先に見えてくる」というようなものではない。

ベクトルの向きの逆転は、「自我の崩壊」がキッカケになって起きるという。「絶望」、「降参」とも言われる。「降参のススメ」だ。

「一生懸命に山登りしてきたけど、残念ながら、力が尽きた。これ以上は、登れない。もうダメだ~」という感じ。「諦めるとは、明らめるということなのです」といったところか。

>しかしながら、このピンクのベクトルの果てに、第三段階へ向かう道があったりします。

>「自我の肥大化の果て」といってもいいかも知れません。

>以前お話したとおり、「ロープ登り」は錯覚で、実は「水槽潜り」だったりするわけで、このベクトルが進めば進むほど、水槽内の「水圧」は高まっていきます。

>人は、その水圧を様々な苦しみとして経験するわけですが、その苦しみを乗り越え、さらにさらに頑張っていきますと、その苦しみはあるとき一気に逆転してしまうことがあります。

>苦しみの極限を超えて「陰極まって陽になる」という状態。

>そのとき何が起こるかと言いますと、肥大化した自我(潜りすぎたピンポン球)が、その水圧に耐えられず(もしくは思いがけない衝撃によって)、水中で破裂してしまうんです。


つまり、「もっと上の自分になろう」と思って、がんばってきた人は、だんだん自我が肥大してきている。ふくらみきった風船が、いつかは「パン!」と割れるのと同じで、そんな肥大した自我も、いつかは崩壊するときが来る。

それには、キッカケが必要だ。そのために必要なものは、「絶望」だという。絶望は、しようと思ってするものではない。人生が、ときにもたらす苦い果実だ。ただし、見る角度によっては、それは、なんとも有難いものなのだ。なんたって、「大悟」のキッカケになるんだから。

雲黒斎流に言えば、それは「ヒャッホー」(小悟)を超える、「ヒャッハー」(大悟)をもたらす。

>沢山苦しんで、必死で頑張って、やるだけやったにも関わらず、どうにも出口を失った、最終最後の「絶望」を知った者に訪れる究極のギフトです。

>でもやっぱり、人はそうそう絶望なんてできないんですよね。

>もちろん「絶望的」な人がいっぱいいることは知っています。でも、残念ながら「的」なんですよね。

>まだ、なにか救いの道があるような気がする。

>まだまだ努力できそうな気がする。

>困難だからこそ、誰かに頼らず自分で何とかしなきゃって思う。

>私がだめでも、誰かがなんとかしてくれる。

>ミラクルが起きるかも。

>どこかに、そういう未来があるような気がしているうちは、「絶望」ではありません。


・・・当たり前だけど、まだ希望が残っているうちは、「絶望」ではない。自殺者といえども、「死ねば、なんとかなる」と思ってるうちは、完全な絶望ではない。

もはや、あらゆる希望がなくなり、どうにもならなくなったときには、白旗をあげることができる。

見る角度を変えれば、これを目的にして生きている人だって、結構いるだろう。もちろん、表面意識ではなく、潜在意識が望んでいる、隠れた目的なのだが。

ひょっとすると、「よし、ボクはここで、ウツ病で自殺寸前の人になって、自我を崩壊させることにしよう」というような、一種の「人生計画」を組んで、この世に生まれてきたのかもしれない・・・。

>そうやって、「陰」が極まったとき、自我は崩壊して「陽」に転じます。

>とても変に聞こえるかもしれませんが、実は「絶望」は、みんなが腹の底で望んでいる状態なんです。

>だって、「一切の望みがない」んですから。

>・・・でもまぁ、僕たちはわざわざ好き好んで絶望したいわけじゃないし、かつてのお釈迦様みたいに、思いつく限りの努力を徹底的にやり尽くすなんてこともなかなかできないわけで。

>やっぱりどこかの段階で、ブルーのベクトルを知るに至ることがほとんどなんだと思います。

>「絶望(降参)」に一番近い意識変容の入り口が、「力尽きる」という状態です。

>「絶望」との大きな違いは、「個」の意識(自我)がまだあり、未来に対する期待も存続していること。

>具体的な例を一つあげるなら、大きな失態や損失を通して、それまで築いてきた人生が一気に崩れ、地位や肩書きなど、長らく自分のアイデンティティとして大きな役割をになっていた要素が自分から剥がれ落ちるような出来事。

>それを通して、どっぷり自己同一化していた「夢(自分像)」から覚めるような感じです。

>社会的地位を失うことで、役割や肩書きに付随していた利益(プラス要素)を喪失するとともに、重圧や責任などといったストレス元(マイナス要素)もそぎ落とされます。

>この失態や損失といった出来事が、「苦悩の原因」となるか、「変容(ヒャッハー!)のきっかけ」となるかは、事後の「プライド」の有無にかかってきます。

>プライドは、言ってみればロープにしがみつこうとする力ですから、一度ロープから手を放しても、水面に行き着く前に、再度「水槽(社会システム)」の中に留まってしまうんです。

>なので、変な話ですが、プライドもろとも崩れ去ってしまったほうが、苦悩から解放される道につながったりします。

>「個」を失うことなく、ロープから半強制的に切り離されるのですから、第三意識段階に対する事前知識がない場合、その変容の最中に、ある種の恐怖や痛み、悔しさなどを多く感じながらの「ヒャッハー!」を迎えることになります。

>スピリチュアリティに関心の無かった人に訪れる変容としては、このカタチがもっとも多いのではないかと、僕は思っています。

「山登り」と「川下り」 ・・・ その3

2014年05月15日 | 精神世界を語る

「山登り」と「川下り」の話をするためには、まず、阿部氏や雲黒斎氏のいう「第一段階~第三段階」の話を、見ておかなきゃいけない。

雲黒斎ブログからコピペすると、

>◎第一段階(社会)意識
「『わたし』とは、この肉体のことである」という理解の段階
→自分は肉体だから、肉体が滅ぶとともに命は消失する(前世も来世もない)
→環境・状況が整うことで、幸せが訪れる

◎第二段階(スピリチュアル)意識
「『わたし』とは、肉体を超えた霊的存在のことである」という理解の段階
→自分の本質は、肉体の中にある霊(魂)だから、肉体が消失しても命は継続する(前世も来世もある)
→自分が幸せであれば、それに伴う環境が引き寄せられる

◎第三段階(啓発)意識
「そもそも『わたし』と呼べるような、霊や魂など“個”として存在するものはない」という理解の段階
→個として存在しているものはなにもない。全てはつながり、たった一つの大いなる意識だけが存在している(前世も来世もない)
→幸せ(ポジティブ)と不幸(ネガティブ)は、本質的には同じもの。幸不幸(陰陽)を超えた至福に触れている



・・・つまり、第一段階というのは、スピリチュアルと無縁な人生を送っている、世間の一般人がいるところということになる。スピリチュアルに関心を持った時点で、この段階は卒業する。

問題は、次の第二段階と、第三段階だろう。「山登り」とは、第二段階。「川下り」とは、第三段階に向かうコース・・・ということになる。

でも、上の図の通り、この2つは逆の方向に向かっている。つまり、第二段階への道をどれほど登ったとしても、その先に第三段階が見えてくることはない・・・。

第三段階に向かうためには、どこかで、矢印の向きを反転させる必要がある。それこそが、「気づき」ということになるだろう。


>だから、第一段階から第二段階へのシフトと、同じやり方で辿り着くことができません。

>第三段階へのシフトには、この気づきが必要なんです。

>意識の第一段階を抜け、いわゆる「スピリチュアル」というものに関心を寄せたとしても、その後のベクトルは二通りあります。

>「霊性を向上させよう」というベクトル(ピンク)と、「無為(あるがままにして作為しない)」というベクトル(ブルー)です。

>長らく第一段階を経験してきた意識には、このブルーのベクトルがどうしても理解できません。

>言ってみれば、「向上心」や「成長」といった概念が邪魔をしてしまうんです。(そこに嵌ると、第二段階に留まることとなり、第三段階へのシフトからは遠ざかることになります。)

>その状態で「無為(あるがまま)」というその言葉を知ったとしても、「無為(を通して霊性を向上させよう)」という風に、これまで慣れ親しんだベクトルへと自動変換されてしまうんです。

>精神世界という“学び”を通して、「手放す(損す)」ということを、情報として得て(益して)しまう。

>その情報を得てしまったがゆえに、「あるがままを試みる」という“作為”を通して「無為」から離れてしまうんです(TωT)

>精神世界と自身との関係の中で、いかに「学び」という感覚から離れることができるか。


・・・つまり、「向上心」を持ってるうちは、第三段階への道は見えてこない。

「無為の精神」とかを身につけようと努力しても、ムダなのだ。

それこそ、「『リラックスしよう』と頑張る」というようなことになる。「『思考を止めよう』と考える」というのにも似ている。

まあ、精神世界の探求には、もともと、そういう面があるのも事実だろう。「何も考えていない人を目指して、一生懸命に勉強する」とか、「完全にリラックスした人を目指して、必死で修行する」というような矛盾が、この世界につきまとうのは否定できない(笑)。

それにしたって、これは、アリガチな落とし穴。つまり、この「第三段階」の話を聞いて、「なるほど」と思い、「よしボクは、これからは川下りで行くぞ!」という気になったとしても、しらずしらずのうちに、「山登り」の発想になってしまう。

つまり、「川下りを通じて意識を向上し、第三段階の意識レベルに到達しよう」というような、陥りやすい錯覚だ。矛盾してるんだけど、その矛盾には、なかなか気づかない。

「人間には、向上心が大切だ」とか、「もっと立派な人間になろうという気持ちを失ったら、人はダメになる」といった価値観は、それほど深く刷り込まれている。

「もっと意識レベルの高い人間になるために、向上心を捨てよう」というのは、それ自体が、なんとも立派な向上心だ。

矛盾してるんだけど、かといって、向上心を持たないような人間が、「第三段階の意識レベルを目指そう」という気になるとも思えない。この矛盾を、どうすればいいのか。

実のところ、それは、目指そうと思って目指すものではない。何かのキッカケが、その鍵を握っている。


(続く)


「山登り」と「川下り」 ・・・ その2

2014年05月10日 | 精神世界を語る

精神世界の、「山登り」と「川下り」。

「山登り」は、意識のレベルアップを目指して、せっせと精神世界・哲学・宗教の勉強や、瞑想による修養に取り組む道。本ブログでは、どちかと言えば、この方面の話が中心になっている。こう見えても、コンサル星人(こっくり)は求道者で、ここは、スピ系にしてはハードな内容なのだ(笑)。

「川下り」は、そういうことをやらない。いまの自分を肯定して、すべてを受け入れ、そのまま無我へと至る道。「いまここブログ」を初めとして、こちらの道を推奨するのが、最近のトレンドと言えるだろう。

はたして、この2つの道の、どちらが正しい方向なのだろうか?

結論からすれば、どちらも正しい。両方とも、大いに意義がある。

それは、例えて言えば、「トレーニングして体を鍛えるのと、リラックスして体を休めるのと、どちらが健康に良いのでしょうか?」と質問するようなものだ。「両方とも、健康に良いですよ」というのが、唯一の模範回答だろう。これは、もともと、「どちらが正しいのか?」というような問題じゃないのである。

理想は、どちらか一方ではなく、その両方を組み合わせることだろう。つまり、トレーニングして体を鍛えたり、リラックスして体を休めたりを、うまく組み合わせて、交互に繰り返す。それが、健康には一番良い。「そんなの、当たり前じゃんか」と言われるかもしれないが、身体においては当たり前とされていることが、意識に関しては、なかなか当たり前とは思ってもらえないのが世間の実情というもの。

精神世界の探求も、それと同じで、「山登り」と「川下り」を、両方ともやるのが一番。この2つを、適宜、組み合わせて実践するのが、どちらか一方だけよりも、確実に効果が高い。

理想としては、そうなんだけど、それでは、「どうしても、どちらか一方だけを選ぶなら、どちらを取るべきか?」という、究極の選択を迫られたなら、どうだろう。

この場合も、答えは決まっている。どうしても、どちらか一方を取るのなら、迷わす、後者の「リラックスして、休養を取る」を選ぶことになる。選ぶも何も、両方が無理なら、その一択しかない。

これまた、身体の健康を考えてみれば、よく分かる。トレーニングも、やりすぎると、かえって過労で体を壊すこともある。それこそ、「健康のためなら、死んでもいい」という領域だ。休まないと、大変なことになる。

一方、「リラックスして休養を取る」の方は、いくらやっても、これが原因で病気になったりはしない。もちろん、あまりに運動不足だと、だんだんカラダがなまってくる。それが原因で、長期的には健康にマイナスになることもあるだろう。

でも、どちらにしたって、人間、いつかは老いて、死ぬのである。百歳を超えてもトレーニングを欠かさない人など、中国の時代劇に出てくる、仙人みたいな武芸者の爺さんくらいのものだ。

若い頃はとことん鍛えても、だんだん、鍛えることより休むことの方が、健康維持の秘訣として、より重要になってくる。

精神世界の探求もこれと同じで、最終的には、「川下り」になるのが自然の流れというものだ。

でも、まだ「山登り」もしていないのに、最初から「川下り」を目指すというのは、甘すぎる。それで意識の覚醒ができるくらいなら、今ごろは、人類の多くが、すでに覚醒していたであろう。

精神世界の勉強をしたり、瞑想で精神修養するというのは、通常、やっぱり欠かせないプロセスと言える。

普通に日常生活を生きてきた人が、ある日突然、精神世界ブログを読んで意識覚醒する。なんだかドラマチックだけど、現実として、それは難しい。他人の話を聞いて、目からウロコが落ちたような気になるのは、よくあるけど、それは「意識の覚醒」ではなく、「気分の変化」にすぎないことが、ほとんどだ。つまり、その時だけ、意識が飛躍的に向上したような気分になり、「ボクは悟ったな!?」と思うけど、時間がたてば元に戻ってしまう。

着実に意識レベルを向上していくためには、やっぱり、反復かつ継続した取り組みが、是非とも必要になってくる。

でも、必ずしも、そうとばかりは限らない。そこが、この「精神世界」というジャンルならではの、フクザツで微妙なところ(笑)。

古代インドのお釈迦さまも、「解脱したかったら、修行しろ」とうるさく言っては、弟子たちをビシビシ鍛えていた。厳しい戒律を課し、お経を何度も読んで暗記させ、ひたすら座禅をやらせてた。その甲斐あって、「お釈迦さまのおかげで、私も解脱しました。もう二度と、生まれ変わることはありません」と、喜びを語る比丘や比丘尼が続出した。

これを見ると、「ああ、やっぱり、解脱したかったら、修行するしか無いんだな?」ということが分かる。

でも、その一方で、仏典には、「無学で、見るからに何も考えてなさそうなボーッとした人が、お釈迦さまが言葉を発した途端、それを聞いた瞬間に解脱しました」というような例がしきりに語られ、強調される。

「なんじゃそりゃ。矛盾してるじゃないの」と思うところだけど、それは、そういうものなんだから仕方がない。

仏教では、「コリ固まった信念から離れる」というのが、何よりも重要視される。仏教の修行をした結果、なんらかの信念にとらわれるようじゃ、逆効果もいいとこ。

「厳しい修行に取り組まなければ、意識覚醒できない」というのもまた、修行者が離れるべき信念のひとつなのだ・・・。


「山登り」と、「川下り」

2014年05月08日 | 精神世界を語る
   
雲黒斎氏の「もっとあの世に聞いた、この世のしくみ」ブログも、コピペ中毒者の影響もあって、すっかりオナジミとなった。これまた、精神世界系では有名ブログのひとつだけに、参考になるのは確かだろう。だからと言って、毎日欠かさず早朝から深夜までコピペ作業を続けるようになっては、人間として壊れすぎだが・・・(苦笑)
 
それはともかく、この人は阿部敏郎氏の仲間で、よくコンビでトークショーをやってるし、共著も出している。つまり、「いまここ」主義のグループだ。

ちなみに、阿部敏郎氏についても、話の内容は良いと思うんだけど、信者諸氏のノリが思いっきり新興宗教っぽいところが、どうしても気になる(笑)。

それはともかく、「気づきとは何か、その9」という記事に、ベースとなる考え方がシンプルにまとまっている。

いわく、



>もしもあなたが、「いいひと」を目指しているならば。

>自身や生活全般に「向上」や「成長」、「進化」や「発展」などを望んでいるとするならば。

>その意識のベクトルは、少なからずピンクの方向(第一段階・第二段階)へと向かっています。


>もしもあなたが、「良い」「悪い」といったジャッジから離れ、人生そのものを「味わう」ということに意識を向けているのならば。

>その意識ベクトルは、ブルーの方向(第三段階)を選択していることになります。
 
 
つまり、精神世界の探求者には、2種類あるということになる。

一つは、悟りを目指して、意識を向上しようと、ガンバっている人。

もう一つは、個人としての向上を目指すのをヤメて、自己放棄に向かっている人だ。

この2つは、逆の方向を目指している。その最大の違いは、「時間感覚」なのだという。いわく、

>意識の第一段階・第二段階のベクトルは、「未来」に向けられています。

>一方、第三段階の意識では、その「未来」が欠落してしまい、「いま」だけが残ります。

・・・要するに、「いま」に生きている人は、いましか見ていない。「未来」を見ていないから、未来に向かって努力することもない。

前者は、いまの自分よりも霊性の高い、さらに優秀な精神世界マニアになろうと思って、せっせと精神世界の勉強をしたり、座禅を組んで修養したり、いろいろと努力している。

後者は、そういうことをやらない。そもそも、「未来」という時間の感覚がなくて、いま現在しかないから、いまよりも霊性を高めるべきだとすら思っていない。

この、目指す方向の違いは、「山登り」と「川下り」にも例えられる。

>牧野内大史さん(※)は、ピンクのベクトルを「山登り」、ブルーのベクトルを「川下り」と表現しています。

>以前お話したとおり、「水の中(社会)」の中に身(意識)を置くという生き方は、どうしても何らかの競争の中にあるため、「山登り」の思考が必要となります。

>また、僕たちは大抵の場合、幼少時から、その「社会の中で生き抜くすべ」を教育されてきているので、そのベクトルが「当たり前」の価値観として深く根付いています。(中略)


>リラックスすることに奮闘する。

>分離意識(自我)を抱えたまま統合(ワンネス)を理解しようとする。

>・・・そんな、山登りの思考のまま、川下りしようとするそこに、「頭ではわかるけど、体感として理解できない」といったジレンマが生まれます。


>山登りのキーワード

緊張
分離
頑張る
〇〇しようとする
〇〇になろうとする
価値判断をする
計画と達成
手段としてある対処

>川下りのキーワード

リラックス
統合
ゆだねる
ただ〇〇する
ただ〇〇である
許す
タイミング
源泉としてある意図


川下りは、だんだん楽になっていく道だ。「流れにまかせていればいい」・・・その一言につきる。

「川下り」には、なんの学びも修行も必要ない。いまの自分に、何かを足すことも、何かを引くことも必要ないからだ。

イイも悪いもひっくるめた、 「いまの自分」のままでいい・・・。


(続く)