宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

量子力学 その3 ~ 観測問題

2016年03月30日 | 精神世界を語る

 

昔、「侍ジャイアンツ」というマンガに、「分身魔球」ってのが出てきた。ピッチャーが投げたボールが、無数の分身に分かれて押し寄せる。バッターはどれを打っていいのか分からず、マゴマゴしてるうちにボールは通りすぎる。でも、キャッチャーミットにおさまったのを見ると、なぜかそれは1個のボール。

量子力学の二重スリット実験は、そんな魔球に近い。電子は、もともと1個の粒子。それなのに、電子銃から発射された途端、なぜか波動に変身する。2本のスリットを通り抜けて、スクリーンに押し寄せる。そして、寄せては返す海岸の波打ち際のような、美しいシマ模様を残す。

ところが、なぜか、波動になっている姿は見えない。スクリーンに残った波動の痕跡のシマ模様を見て、「あ、波だったんだ」と分かるだけ。実際に波になって動いてるところを見た人は、誰もいない。

こうなると、波の姿をなんとかして見てみたいものだ・・・と思うのが人情だろう。 

そこで科学者は、二重スリットの横に観測機を置いてみた。1粒の電子が波動に変身して2本のスリットを同時に通り抜け、また1粒の電子に戻るという、歴史的な瞬間を捕らえよう・・・というわけだ。

結果は予想外なものだった。波の姿は、やっぱり見えなかった。電子が分身に分かれるところも見えなかった。電子は、1個の粒子のまま、片方のスリットを通り抜けていった。

それだけではない。なんと、あの「波動の干渉ジマ」まで消えてしまったのだ。

波動を見れなかったのは仕方ないにしても、これは予想を超えていた。つまり、観測した途端に、電子は「波」ではなくなってしまった。     

どうりで、誰も「波」を見たことがないわけだ。動きが速すぎて見えにくいとか、そういう問題ではない。なんと、それまでは波になって動いていたのに、人間が波を見ようとした途端に、電子は態度をコロッと変えた。急に、ただの粒子に戻ってしまったのだ。

なんという、衝撃的な結果。いろんな人が実験してみたけど、誰がどうやっても結果は同じだった。電子を観測しなければ、波動の干渉ジマができる。観測すると、波動の干渉ジマが消える。いくら信じられないことでも、受け入れるしかなかった。では、この事実をどう解釈すべきなのか?

つまり、電子は、人間が見ていないときは、波動になってボワーッと広がりだす。人間が見ると、パッと粒子に戻る。まるで、先生が見てるときだけ慌てて机に戻り、急にシャキッとして勉強し始める、怠け者の生徒みたい。

それにしても、人間が観測するかしないかによって、物質が動きをガラッと変えるとは、どういうこと? これが、かの有名な「量子力学の観測問題」。

さっそく、こんな解釈が登場した。

人間が見ていないときは、物質はフワフワと波のように広がっている。まさしく、幻影のような存在だ。でも、人間が見たときだけ、急にシャキッとして堅牢な物質になる。この物質世界は、人間の意識によって存在しているのだ・・・。

でも、ユリゲラーの念力スプーン曲げじゃあるまいし、普通の人にとって、これはいくらなんでもおかしく思えた。このため、現実的な意見も出てきた。

いわく、「観測機から出ている電磁波が、電子の動きに影響を及ぼすのである」。

もっともな意見だし、今でもそういう説明をする人もいる。でも、これには意外と説得力がない。百年前に比べて、観測機器が大きく進歩してきたし、科学者もいろんな実験方法を考え出してきたけど、結果は変わらないからだ。

そんなこんなで、やっぱり、「人間が認識することによって電子の動きが変わる」というところに、だいたい落ち着いた。

では、この「波」とは、いったい何なのか。それを科学者たちが考えた結果、こんな結論になった。

いわく、電子銃から電子が発射される。その瞬間から電子は、無数の分身に分かれる。右のスリットを通り抜ける分身たちもいれば、左のスリットを通り抜ける分身たちもいる。まわりの仕切りに当たって届かないのも、横にそれてしまうのもいる。

ただし、分身たちは、どこでも同じように広がるわけではない。電子が通りそうなところには多く集まり、そうでないところでは少なくなる。

電子銃から発射された電子の前には、いろんな可能性が広がっている。 右のスリットを通り抜ける可能性、左のスリットを通り抜ける可能性、仕切りにぶつかってスクリーンまで届かない可能性・・・。すべての可能性が同時進行して波を起こす。観測した途端、波はパッと消えて、1粒の電子だけが残る。

なんとも奇妙な話だけど、これを前提にした数学の理論は、驚くほど実験結果にピタリと合った。だから、これが結論になった。

野球に例えてみれば、ピッチャーが投げたボールは、まっすぐ飛ぶかもしれないし、カーブするかもしれない。ワンバウンドになるかもしれない。バッターに当たって死球になるかもしれないし、暴投になって飛んで行ってしまうかもしれない。投げたボールが無数の分身に分かれて、直球や変化球・死球・暴投・・・となり、すべての可能性が一斉に同時進行する。キャッチャーミットに収まった瞬間、なぜか無数の分身たちは一瞬で消滅し、1個のボールだけが残る。そんな感じ。

(つづく)

画像元 nature PEACE

 「わかりやすい」と評判の、参考になる動画 ↓

https://www.youtube.com/watch?v=vnJre6NzlOQ


量子力学 その2 二重スリット実験

2016年03月27日 | 精神世界を語る

量子力学といえば、「二重スリット実験」。あまりにも有名な、それでいて、いつ聞いても常に新鮮な実験結果・・・(笑)。

とはいうものの、最初に実験されたのは200年以上も昔の、独立したばかりの頃のアメリカだった。もっとも、その頃は、「光は波でした」という実験だった。それが20世紀に入ると微粒子の世界になり、「電子は波でした」という実験になる。それにしたって、100年近く前の話。よく、「最先端の科学では・・・」と前置きしてから語られる量子力学だけど、実はそんなに歴史がある。

人間にとって、「光」は大昔からナジミ深いものだった。天地創造のときも、神は「光あれ」という言葉から始めた。それなのに、「光って、何なんですか?」と聞かれても、昔は答えられる人が誰もいなかった。

スポットライトの光は、まっすぐ進みながら、だんだん広がってボヤけていく。いくつもの光があると、重なり合って明るくなる。たくさんの光が重なると、ものすごく明るくなる。ライブの舞台がそうだ。では、狭いスキマを通った光はどうなるか?

 

ほんの少し開いたフスマから差し込んだ光は、部屋の中に浸み入るように広がっていく。これぞまさに、日本家屋の美。谷崎潤一郎 「陰影礼賛」の世界・・・。 

では、スキマが2つあったらどうなるか? それが、二重スリット実験。日本語なら「スキマ」でいいと思うんだけど、なぜかそう言う人はいない。必ず「スリット」になっている。「スリット」と聞いて、チャイナドレスを連想する人も多いだろう。 

それはともかく、2本のスリットから通った光を、スクリーンに映すとどうなるか? 

2本の光は、それぞれに広がっていく。広がるにつれて、重なり合っていく。光が重なり合うと、もっと明るくなる。「・・・ということは、真ん中になるほど明るくて、端にいくほどボヤけた暗い光になっていくんだろうな?」というのが、自然な予想として成り立つ。

でも、結果を見ると、そうなりませんでした。真ん中が明るいのは確かなんだけど、そこからだんだん暗く広がっている・・・というようなものではなかった。なんと、壁に映った光は、シマ模様になってました・・・というわけ。

 

 この結果から何が分かったかというと、「光は、波である」ということが分かった。なんで、これで「波」だってことが分かるのかというと、物理学者は、みんな高校で物理を一通りやっている。だから、「波動の干渉」ってのも勉強して、よく知っている。そんな彼らにとっては、考えるまでもなく明らかだった。「あ、これは波動の干渉ジマだ」。

池に石を投げ込むと、ポチャッと音がして、丸い輪になって波紋が広がる。では、石を2つ投げ込むと、どうなるか。2つの波紋が広がるにつれて、重なり合い、ぶつかり合い、打ち消しあって、フクザツな模様を描きながら広がっていく。そういうのが、「波動の干渉」。

なんで「シマ模様」になるのかというと、波には、山と谷がある。2つの波が重なり合ったとき、山と山が重なり合えば、もっと高い山になる。谷と谷が重なり合えば、もっと深い谷になる。山と谷が重なり合えば、打ち消しあって消える。だから、カベに当たったとき、濃いところと薄いところがハッキリするというわけ。実験の動画を見るのが早いけど、お風呂や水槽でも自分で実験できるくらい簡単。

早い話が、2つのスリットを通った光が、2つの波になって広がり、干渉しあって複雑に重なり合った波になり、最後はカベに当たって、シマ模様になりました・・・ということ。波じゃなかったら、こんなシマ模様にはならない。だから、「光は波である」というのが、これでハッキリした。

時代は進んで、20世紀。原子とか、電子の研究が盛んになっていた。科学者たちは、光ではなく電子で、この二重スリット実験をやるようになった。光のときは懐中電灯でもよかったけど、電子ともなると電子銃が必要だ。

電子というのは、原子核のまわりを回っている小さな粒。科学者は、二重スリットに向かって、電子銃を撃ってみた。電子銃っていうくらいだから、弾丸の代わりに電子が飛ぶ。20世紀の後半ともなると、電子を1個ずつ飛ばせるほど技術が進歩した。その電子の弾道はいかに?

というわけだったが、結果としては、上の「光」のときと同じようなシマ模様ができた。波じゃなかったら、こうはならない。「光は波である」というのと同じように、「電子は波である」というのが証明された・・・。

といっても、これはちょっと変だ。たくさんの電子が、集まって波になる・・・というのなら分かる。それなら、「そういうもんなんだな」で済む話。それが、「1個の電子でも、波となって動く」というのだから、ややこしい。

たとえてみれば、野球のピッチャーが投げた球が、波となって押し寄せていく。バッターが打つときには、なぜかボールに戻っていた。また投げた次のボールが、波になって押し寄せていった。キャッチャーミットにおさまるときは、なぜかボールに戻っていた・・・という感じ。日常ではあり得ないんだけど、電子のような小さな粒の世界では、そういうことになるらしい。

一滴の水が、波となって海岸に打ち寄せ、また一滴の水に戻る。孫悟空どころではない、信じがたいほどの分身の術。まさに、事実は小説より奇なり。

1粒の電子は、電子銃から発射されるやいなや、波となって二重スリットに押し寄せる。2本のスリットを通り抜けて2つに分かれた波は、おたがいに波動の干渉をしながらスクリーンへと向かう。でも、スクリーンに当たったときは、いつのまにか1粒の電子に戻っていた。そんな電子をたくさん撃ったら、きれいなシマ模様になった。最初の1粒、2粒くらいじゃ分からないんだけど、多く撃つほど、ますますハッキリとシマ模様になっていった。電子が波じゃなかったら、こうはならない。

 

「こんなのおかしい」と言い出す人は当然いたんだけど、誰がどう実験しても結果はこうなるから、「電子ってのは、こういうもんなんだな」と思うしかなくなった。ここまででも十分に不思議で深遠なナゾに満ちている。でも、もっと信じがたいのは、その先だった。

(つづく)

  画像出典 その2 他はウィキペディアの画像


量子力学

2016年03月19日 | こっくり亭日記

量子力学は、「相対性理論」と並ぶ20世紀の物理学の二大理論。古典物理学を、すっかり書き換えてしまった。

とはいうものの、筆者にとって量子力学は「科学」というより、「精神世界・スピリチュアル関係者の間で大人気の理論」という面でずっとナジミ深い(笑)。実際のところ、これほど精神世界の考え方に合う科学理論は、他にちょっと見当たらない。だから、人気が出るのも当然だろう。

もちろん、「これは科学なのだ。スピ系っぽい解釈をするな」と怒る人もいるんだけど、そういう人はたいてい、本物の専門家ではない。

そもそも、本物の専門家による量子力学の解説は、ほとんど「数学の講義」そのもので、スピ系っぽく解釈すること自体が難しい。というのも、専門の研究者は、なんといっても、「実験結果および、それとツジツマの合う数学理論」に関心がある。精神世界関係者は、そうではない。量子力学によって浮かび上がってきた、「物質という存在のあやうさ(?)」みたいなものに関心が集中している。

それはともかく、量子力学が取り扱っているのは、原子・電子・光子・・・といった、ものすごく小さな粒子の話。どのくらい小さいかというと、「原子とピンポン玉の大きさの違いは、ピンポン玉と地球くらいの違い」とよく言われる。いくらなんでも小さすぎて、日常生活における「物質」の常識がほとんど通用しない。

問題なのは、その「原子」の構造だった。われわれ人間や動物も、岩石や海水も、地球や太陽も、銀河系やアンドロメダ星雲も、すべてが原子でできているにもかかわらず、あまりにもナゾに満ちた存在だった。

最初は単なるツブと考えられていたけど、そのうち、「原子核の周りを、電子がクルクル回っている」という、理科の教科書などでオナジミの図が登場した。これはちょうど、「太陽の周りを、地球や火星その他の惑星が回っている」という太陽系の形にソックリだったから、なんともいえない説得力があった。まさしく、太陽系と原子こそは相似形で、マクロコスモスとミクロコスモスの見本みたいに思われた。

もっとも、オナジミの図といっても、実態とは大きくカケ離れている。というのも、原子の大きさと比べて、原子核の大きさが本当はあまりにも極端に小さいので、正確な図にすることなど不可能だからだ。原子核がどれくらい小さいかというと、これまたよく使われる例えに、「原子の大きさを東京ドームとすると、原子核の大きさは野球のボールくらい」というのがある。「このテーブルの大きさを原子核とすると、電子は山手線くらいの遠いところを回っている」というのも聞いたことがある。何kmも離れたテーブルの周囲を、お皿が回っているというくらいのイメージ。

誰もいないガラガラの東京ドームの真ん中の空中に、ボールが一個だけ、ぽつんと浮いている姿を想像してみよう。それでいて、全体の重さの99%以上を、その「ボール」が占めている。原子というのは、それくらい中身がカラッポ。それが、われわれ人間や宇宙を作っている、「物質」の中身なのだ。そう思うと、なんとも背筋が寒くなってくるほど空虚・・・。

その原子核の周りを、電子が回ることにより、原子ができている。その電子ときたら、原子核と比べても、さらに極端に小さくて軽い。ほとんど、物質なのかどうかも分からないくらいだけど、それでもやっぱり物質の仲間ではある。

原子核はプラスの電気を帯びていて、電子はマイナスの電気を帯びている。プラスとマイナス、陽と陰とがお互いに引き寄せあって、ペアになっている。原子核も電子も、お互いにメチャクチャ小さい。それでいて、電子は、原子核から遠く離れた軌道をいつまでも回っている。そうやって、中身がカラッポでスカスカの「原子」が作られている。なんとも、摩訶不思議な構造というしかない。

ここで科学者たちには、大きな疑問があった。それは、「なんで、電子は原子核に引っ張られて、くっついてしまわないの?」という疑問。

まあ、地球が太陽の周りをいつまでも回っていられるのは、遠心力があるおかげ。電子が原子核の周りを回っていられるのも、それと同じだろう。

・・・というのは誰もが思うところなんだけど、実験の結果なんと、この電子のエネルギーは、時間がたつにつれて、だんだん落ちてくる(はずである)ことが判明した。このままでは、電子はやがて原子核に吸い寄せられてしまうだろう。そうなったら、原子はつぶれる。原子がつぶれたら、どうなるか。物質そのものが消えてなくなってしまう。これは、物質世界の一大事。

それにしては、この物質世界は、見るからに堅牢にできている。かつて古代中国には、「空が落ちてきたら、どうしよう?」と心配して悩んだ人がいた。でも、世の中、「物質が消滅したらどうしよう?」と心配する人はさすがにいない。それはナゼなのか。

そういう疑問を解決するために登場したのが、量子力学だった。

量子力学といえば、かの有名な「二重スリット実験」から話は始まる。

(つづく)


クオリア その5 ~ スピリチュアルの領域

2016年03月05日 | こっくり亭日記

茂木健一郎氏のおかげで、クオリアは「脳科学の問題」として取り上げられることが多くなった。でも本当は、その辺りは微妙かもしれない。どっちかっていったら、「宇宙にハテはあるのでしょうか?」に代表される、「こればっかりは、どんなに科学が進歩しても永久に分からないんじゃあるまいか?」というタイプの問題かもしれない。

なんで科学で解明できないのかといえば、「他人のクオリアは分からないから」というのが、その理由。「ボクに見えているリンゴの赤い色と、ペットの犬に見えているリンゴの色は、同じでしょうか?」・・・というような、究極に主観的な問題ともなると、実験して分かるものでもない。これじゃ、科学者が取り扱う対象になりにくい。分からないというより、調べようがないのである。

そもそも、他人の意識というのは、本人になってみないと分からないところがある。

「ボクには意識があるけど、他の人たちはどうなんだろう?」というのは、子供がよく抱く疑問。「ひょっとしたら、意識があるのは自分だけで、他の人たちは機械みたいに動いてるだけなんじゃないのかな?」というのは、子供らしい空想で、「ボクも昔、そう思ったことがある」という人は多い。

ところが、これは哲学では「独我論」と呼ばれ、昔からある、かなり強力な考え方のひとつだったりする。というのも、「疑える限界まで疑ってみる」というのが、西洋哲学の伝統。「他人にも、自分と同じような意識があるのかどうか」なんてのは、どうにも確信がもてないものの筆頭に挙げられるくらいなんだから、真っ先にさんざん疑われてきた。

でも、やっぱり、「意識があるのは自分だけ」と本気で思っている人は、まずいない。明らかに、ほとんどの人は、他人にも意識があるのを当たり前と考えている。ナゼかというと、それは、他人の心の中までは分からなくても、反応や行動を見れば、だいたいのことは分かるからだろう。

たとえば、他人の目の前に、ミカンとテニスボールを置いてみる。普通は、ミカンの皮をむいて食べるだろう。ここで、テニスボールの皮をむいて食べようとする人は、まずいない。このように、他人の反応や行動を見ていれば、「どうやら、他の人たちにも、自分と同じものが見えているみたいだな」ということが分かって安心する。

そういう人生経験を重ねることを通じて、「他人にも、自分と同じような意識があり、感覚がある」というのが確信へと変わり、ついでに、「この世は実在する」という確信も深まる。他の人たちも「ある」って言ってるんだから、やっぱり実在するんだろう。他人との交流を通じて、そういう信念が強くなる。

子ネコに鏡を見せると、鏡に映った自分の像にビックリして、後ろをのぞきこんだりする。それを見れば、「ネコにとっても、鏡に映るのは不思議なんだな?」ということが分かる。でも、そんな好奇心旺盛な子ネコが、大人になると、鏡をメンドくさそうにチラッと見るだけになったりするのだが・・・。

このように、いくら「意識とか感覚とかは、人それぞれの内面のことだから分からない」と言ったって、実際には、反応や行動を観察することによって、かなりのことが分かるのである。たとえば、「利き酒テスト」をやってみれば、人それぞれの味覚の個人差も、かなりのところまでは客観的に分析できる。

人間の感覚の中で、昔から実体が疑わしいものの代表格とされている「色覚」だって、絵を見たときの反応などを観察すれば、他人にどう見えているのかは、だいたい分かる。色覚検査をすれば、さらによく分かる。もっとも、「本当の色」など誰も知らないのだから、色覚「異常」も何もあったものじゃないんだが・・・。

それはともかく、他人の意識や感覚のことは、こういう観察と分析を通じて、かなりのところまでは分かる。IT革命のおかげで、その方法は飛躍的に進歩した。おかげで、ますます多くのことが科学者には分かるようになった。

それでも、分からないことは残る。どれだけ技術が進歩しても、「反応や行動を、外から観察する」ということに変わりはなく、心の内側にはナゾが残るからだ。

たとえば、イヌの脳をよく調べれば、「どうやら、イヌにとっては、リンゴは黒っぽいコゲ茶色に見えてるみたいだな」とか、そういうことは分かってくるだろう。でも、本当にどう見えているのかは、イヌにしか分からない。

それと同じように、他人の感覚についても、最終的には本人の意識になってみるしかない。

実は、ここが重要なポイント。というのも、「本人の意識になってみる」というのは、「意識を統合して、自他一体になる」ということ。ここまでくると、完全にスピリチュアルの領域に入ってしまう。

「人間の認識の限界」を明らかにした18世紀の大哲学者・カントに対して、19世紀の大哲学者・ヘーゲルは、それを「意識の進化によって乗り越えられる」と唱えた。ヘーゲルによれば、「人間の認識には限界がある。本当のことは分からない」とカントは言うけど、そんなことはない。それは、あくまでも、「現時点では」という話。人間の意識は成長している。人類の精神も進化している。今は無理でも、いつかはすべてを知ることができるようになるのだ。

・・・この話を聞いて、「やっぱり、ヘーゲル大先生は偉いなあ」と感動する人もいれば、「人間が全知全能の神様みたいになれるとは、なんだか、神がかった偉そうな思想だな?」と反感を持つ人もいた。後に第二次世界大戦を起こしたヒトラー総統は、「人間は、生成途上の神である」という超人思想を唱えた。「元ネタはヘーゲルだ」と批判されている。

でも実際のところ、ヘーゲルが言ってたのは、「人間は、進化すれば神になる」というような話ではなかった。それよりも、「自他一体の境地になれば、完全なる理解に到達できます」という、ワンネス思想に近い話だった。このあたり、精神世界マニアにとっては難解どころか、逆にピンと来やすいところ。やっぱり、昔の人の思想に共感するためには、哲学の知識だけでは無理。ここは、精神世界の素養が要る(笑)。

例によって話が脱線しまくりだけど、「クオリア」というのは、要するにそんなところ。人類にとっては、神秘の彼岸にある永遠のナゾのひとつだろう。

もっとも、先日も取り上げた未来学者のレイ・カーツワイル氏によると、「将来はITの進歩により、自分の意識をインターネットにUPして、視聴者がその意識をダウンロードして楽しむのが流行する」という話だった。たとえば、サーフィンをやっている最中の爽快な感覚を、本人の意識になりきって楽しめるらしい。脳神経とコンピュータが直接つながっているから、リアルな感覚が脳へとダイレクトに送り込まれる。これほどハマる娯楽は、他にないだろう・・・だそうな(笑)。


クオリア その4 ~ 世界の実在をどこまで疑えるか?

2016年03月01日 | こっくり亭日記

人間は、それぞれの意識が作りあげた、一種の仮想現実の世界に生きている。検討を重ねた結果、カントを初めとする近代ヨーロッパの哲学者たちには、「どうやら、そうらしい」ということが分かってきた。

だからといって、「物質世界など実在しない」というのは、さすがに極端な意見。

インド哲学と違って、西洋哲学は、「この世は幻影(マーヤー)である。解脱しましょう」というような思想ではない。中にはそういう人もいたけど(ショーペンハウアー)、主流とは言えない。

この世の物質世界は、やっぱり現実に存在している。それを否定するのは、ちょっと極端。でも、ボクやアナタに見えている世界は、どうも、なんだか違うみたいだ。脳内現象を抜きにしては、人間は何も分からないようにできている。本当はどうなってるのか、誰にも分からない。

そう思うと、目の前にある「現実」が、どんどん疑わしくなってくる。「ボクの目には、赤くて丸いリンゴが見えているけど、本当は違うんじゃないか?」なんて疑いだしたら、キリがない。

これは、科学にとっても深刻な問題だった。たとえば、金属片に火をつけてみたところ、オレンジ色の炎を上げて燃えました。そこで、「ボクの目には、オレンジ色の炎が見えている。でも、このオレンジ色の炎は、ホンモノの炎なのだろうか?」なんてことをやってたら、とても実験どころではない。何もかもが、根本的に疑わしくなってしまう。

 そこで颯爽と登場した大哲学者が、「現象学」のフッサール。

 現象学の研究者・竹田青嗣氏によると、この「認識」の問題がヨーロッパの哲学者たちにとって、これほどの大問題になった背景には、血で血を洗う宗教戦争があった。カトリックとプロテスタントに分かれて、欧州各地で大戦争。とくに、17世紀に起きた「三十年戦争」では、「ドイツの人口が3分の2に減った」と言われるほどの、すさまじい被害があった。

 「人間は、同じ世界に住んでいるのに、どうしてこれほど考え方が対立して、殺し合いにまでなってしまうのか?」というのが、なんといっても最大の問題だった。「人はそれぞれ、同じ世界に生きているようでいて、実は違うモノを見ているんじゃないのかな?」という深刻な疑問が出てきた背景には、それがある。

 筆者も先日、左翼の知人が「中国は過去に一度も他国を侵略したことがない平和な国なのに、日本の安倍政権が戦争を起こそうとしている」と言っているのを聞いて、その感を深くした。「それは、地球の現実とは正反対だな。今は、中国が海軍を大増強して、ラバウルとかガダルカナルにまで海洋進出している時代。日本とアメリカ、そして東南アジアやオーストラリアまでが連帯して、その脅威に対抗しているのだ」と反論したところ、「それは、どこの惑星の話だ?」と言われてしまった。

 このような例を見ても、同じ地球環境に生きていると言ったって、人それぞれの意識世界は異なっているのであり、一種のパラレルワールドに住んでいるんだってことがよく分かる・・・。

 それはともかく、底なしに疑わしくなってきた物質世界への疑問に、フッサールは歯止めをかけることに成功した。

 そのためには、まず、すべての先入観を捨てることから始める。特に、「この世は実在する」という、地球人類にとって最も強固な信念、思い込みを停止することから始める。これを、「エポケー(判断停止)」という。

 この世をエポケーしたら、次に、自分にとって見えるもの、聞こえるもの、あるがままの姿だけを直観する。それは、純粋な直観。結局のところ、最終的には直観しかない。

 そこで、テーブルの上のリンゴを見る。そこに見えるのは、「赤くて丸いリンゴ」だ。これを、「白くて細長い大根」だと思おうったって、それは無理というもの。「本当は、これはリンゴじゃないのだ。一見リンゴに見えるけど、実は大根なのである」と、いくら自分に言い聞かせたところで、大根には決して見えない。それはやっぱり、丸くて赤いリンゴ。目と脳は、自分の意思にかかわらず、勝手にそう認識する。胃腸が、自分の意思にかかわらず、勝手に動いて消化するのと一緒。こればっかりは止められない。

どう頑張ってみても、赤いものが青くは見えない。丸いものが四角く見えることもない。「本当は青いんじゃないの?」と疑うことはできるけど、それによって赤いのが青に変わるわけでもないんだし、意味がない。

 「それなら、もう、それは認めてしまってもいいんじゃないか?」というのが、フッサールの考えだった。認めるというより、それ以上は疑っても意味がない。「疑うことの限界」が、ここにある。ここにきて、ついに、人間が物質世界の実在を疑える限界が確定されたのだ (まあ、もちろん、これだけで終わるような話じゃないんだけど・・・)。

 ・・・とまあ、そんなこんなで、哲学者たちは「認識問題」に延々と取り組んできたわけなのだが、最終的には、これは「クオリア」の問題に尽きる。われわれが感覚する、花の色とか、水の冷たさとか、草むらの匂い・・・とかは、なんで、こんなに鮮やかで生々しく、現実感に満ちているのか。これは、人類にとって最大の難問と言えるテーマ。今では、哲学の問題じゃなくなった。現代において、これは脳科学の問題。21世紀になって、急速に進歩している。

 (つづく・・・)