宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

輪廻が終わった後

2009年10月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
  
「輪廻転生の終焉」の話で、気になることといえば、「輪廻転生が終わった後は、どうなるのでしょうか?」ということだろう。

どこに行くんでしょうか?

魂そのものが、なくなっちゃうんでしょうか!?

もちろん、釈尊の生前にも、このような質問をした人はいた。これに対する釈尊の回答は、例によって、「輪廻転生が終わった人は、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、生きていると同時に死んでいるというわけでもなく、生きていないと同時に死んでいないというわけでもなく・・・」といった、独特の論理。どうにも、明確なイメージは浮かんでこない。
 
だが、実際のところ、それでいいのである。

そもそも、解脱した人は、「根本的な生存欲」をとことん滅却してしまったのだ。そんな人が、「私は、死んだ後にどうなるのでしょうか」というようなことを、気にするはずもない。
 
逆にいえば、「死後の行く末」 (あの世とか、生まれ変わりとか・・・) が気になるような人は、まだ卒業する時期ではないのかもしれない。この地球生命圏、もしくは、それと似たような環境で、もうしばらく堂々巡りのグルグル輪廻を続けてくださいな・・・ということになるだろう。
 
でも、少なくとも、「存在しなくなる」というわけではないので、安心してもらっていい(笑)。

そもそも、解脱した人は、「過去から未来に向かって時間が流れている世界」から、完全に外に出てしまったのだ。解脱した人にとって、時間は意味をなさない。時間そのものがないのに、「生まれる前」や「死んだ後」のことなど、気にする必要がないのである。「いま、ここ」だけを、気にしていればよろしい。

解脱した人は、「現在ただ今、この一瞬」にしか存在しない。でも、「この一瞬」が永遠に存在している。

「人は、死ねば肉体とともに消滅する。後には、何も残らない」などという信念にとらわれている人は、底知れない虚無へと落ち込んでいく。そんな考え方は、問題外。

かといって、「ボクは、この人生が終わった後も、永遠の輪廻転生を続けて、自分の魂を磨いていくぞ」などという、自我の信念にとらわれている人もまた、迷いから抜けるにはホド遠い。それは、覚醒に役立たない。かえって、眠りを深める。

「無我」こそが、お釈迦さまの教え。我は無い。ただ、全体あるのみ。それは、自我の終焉。そして、分離の終焉。バラバラに分かれた世界が終わり、人は、小さな自分を超えて、大いなるすべてへと回帰する。

ありがたや・・・・・合掌。 
   
 
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8 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
聖なる催眠 (ズルセプカ)
2011-05-10 19:54:50

近現代のインド思想の記事が少ないのは、コンサル星人さんの趣味ではないためかな?

(カテゴリでも、東洋思想だけ0ですね。残念。)

コンサル星人さんにはインド思想の中でも、とくにラメッシの教えについて、ぜひ書いてもらいたいです。ラメッシは堅苦しくなくて面白いですし、このブログにはピッタリの内容だとおもうけどなぁ。
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Unknown (コンサル星人)
2011-05-11 01:09:25
>近現代のインド思想の記事が少ないのは、コンサル星人さんの趣味ではないためかな?

それは、クリシュナムルティに傾倒しているおかげで、ほかのインド人導師が目に入らなかったからです。

>(カテゴリでも、東洋思想だけ0ですね。残念。)

実のところ、「東洋思想」カテゴリでは、儒教とか道教といった中国モノを取り上げるつもりですた・・・orz

>ラメッシは堅苦しくなくて面白いですし、このブログにはピッタリの内容だとおもうけどなぁ。

それは良いことを聞いた(笑)。読んでみます。
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本当に生存欲をなくすということ (ポテト)
2014-07-15 00:30:55
自分がなくならないというのは結果的にであって気持ちとしては
人は、死ねば肉体とともに消滅する。後には、何も残らない
ということを受け入れていくような気持ちでないと解脱は難しいように思います。
永遠に魂を磨くというのは問題外ですが解脱した後も自分があるから安心というような気持ちでいては解脱は程遠いように思えるのです。
完全に自分がなくなる、それを良しとする。
それ意外に根本的生存欲を無くすことはできないと思います。
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Unknown (こっくり)
2014-07-15 01:05:06
>自分がなくならないというのは結果的にであって気持ちとしては人は、死ねば肉体とともに消滅する。後には、何も残らないということを受け入れていくような気持ちでないと解脱は難しいように思います。


それは、その通りでしょう。

最終的には、「どちらとも思わない」というのが、一番のようで・・・・・。
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Unknown (こっくり)
2014-07-15 01:06:04
>ラメッシは堅苦しくなくて面白いですし、このブログにはピッタリの内容だとおもうけどなぁ。


そういえば、ラメッシ・バルセカールのことを、すっかり忘れてた・・・(笑)
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どこに向かうか (ポテト)
2014-07-15 21:01:06
どちらとも思わないということになってしまうと根本的な生存欲が輪廻の原因ではないということになってしまいそうです。
その場合無心になるとか全ての欲を無くすというような方向になり生存欲がそれを邪魔するものの一つでしかなくなりそうです。
もちろん邪魔するものの中でも最たるものだとは思いますがこうなると目指す方向性がかなり変わってきます。

自分の根っこにあることなのにこうやってあれこれ考えても確信に至れない、まさに無明ですよね。

ただ微生物から人間まで全ての意識ある存在を見てみるとやはり生存欲、まさに根っこにあるのはこれだけと思えます。
自分も本心から消えてもいいと思えた時、法悦を体験しました。
人が幸せを感じる時自然ともう死んでもいいと口にするように、楽になりたい時死にたいと口にするように、自分を消して終わらせる、これが真理で、だからこそ悟れる人間が一握りしかいないのだと思います。
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Re:どこに向かうか (こっくり)
2014-07-16 18:54:56
この話をするとき、いつも念頭に浮かぶのは、無文老師のエピソードです。

無文老師は、「人は、死ねば終了する。死後も存続するというような、未練がましい考えを捨てよ」と説いてました。

でも、あるとき、在家のお婆さんから、「人は、死ねば無くなってしまうのでしょうか?」と質問された。

「その通り。人は死ねば無になる」と即答した老師。

それを聞いたお婆さんは、なんとも寂しそうな、ガッカリした表情になったという。

それを見て、かわいそうになった老師は、「だが、世の人々を救いたいという慈悲の心があれば、また戻ってくることもある」と付け加えた。

それを聞いて、お婆さんは、ホッとした表情になったそうな。

この無文老師のエピソードのように、修行者としてのプロ意識を持っていない普通の人に対して、むやみにそういう話をするのは良くないのです(笑)
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アペイロフォビア (CHIKAKO)
2017-03-27 22:41:26
ご無沙汰しております。
ワンダラーと、アセンションの記事にコメントさせて頂いた者です。

こっくりさんは、アペイロフォビアについてどう思われますか?
私はひたすらに続く「永遠」に異常に恐怖を覚えるんです。
生まれ変わらないとしたら、意識だけが永遠に続いてしまうのでしょうか。
幼稚な考え方でしょうか。
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