「エゴ」 (自我) といえば、我が強い、 自分勝手、 ワガママ・・・。 いろんなイメージが思い浮かぶ。 「エゴを捨てよ」 とは、よく聞く言葉だ。
エックハルト・トールは、かの有名なデカルトの言葉 「われ思う。 ゆえに、われ在り」 をしばしば引き合いに出す。
近代西洋哲学の開祖・デカルトは、 戦乱の世をヨソに、 暖炉でじっくりと 瞑想にふけっていた。 よほど、 暇を持て余していたのだろう。 デカルトは、 「この世界は、 実は存在しないのではないか?」 と疑ってみた。
ものごとは、疑いだしたらキリがない。 もちろん、「百聞は一見に如かず」という言葉のとおり、人から聞いた話など、疑えば何ひとつ信じられないのは当然なのだが、 デカルトの場合は、 目の前にハッキリと見えている家とか家具とか人々とか、さらには世界全体の実在さえも疑うのだから、尋常ではない。 いわく、「ひょっとしたら、 自分は夢を見ているのかもしれないし、 悪魔に幻覚を見せられているのかもしれないではないか」 というのだ。
でも、ひとつだけ、確実に実在すると断言できるものがある。 それが、「自分」。 なんたって、今ここで 「ああでもない、 こうでもない」 と考えを巡らせているくらいなんだから、「自分」 が存在していることだけは、 どう考えても疑う余地がないと考えた。
少なくとも、PCの画面に向かってキーボードを叩いている自分は、 確かに存在している。 でなきゃ、キーボードを叩いていられるわけがない。 ただし、 PCやキーボードが実在するとは限らない。 ひょっとしたら、 自分は狐に化かされていて、 本当はキーボードではなく、木の葉を叩いているのかもしれないからだ。 でも、 少なくとも、 ここでこうしている 「自分」 がいることだけは、 まちがいないではないか。
少なくとも、 自分はまちがいなく実在する。 ・・・ということは、 その自分がいま叩いている、 キーボードもやっぱり実在すると判断できる。 キーボードが実在するということは、 PCも実在する。 PCが実在するということは、 この部屋も実在する。 ひいては、この世界も実在する・・・という具合に、 今度は 「自分」 を基準にして考えるのである。
デカルトは、近代西洋思想の開祖。 この考え方は、西洋思想の強力なバックボーンとなって脈々と生き続けた。
ところが、20世紀になって、これに異を唱える人が現れた。かの高名な「最後の大哲学者」こと、ハイデッガーである。
「人はいつか死ぬ。 だが当分の間、 自分の番ではない」 というのが、 ハイデッガーの名言。
いわく、 「自分は、確実に存在する」 などと言えるのは、 しょせん、 生きてる間だけのことである。 死んでしまった後で、 どうして「われ在り」などと言えるのか。 人は皆、 自分がいつか死ぬということを知っている。 それなのに平気で生きていられるのは、 「まだ当分の間、自分の番ではない」と思っているからだという。
デカルトの時代とは違って、もはや 「霊魂の不滅」 など信じられなくなった現代人。 「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精いっぱい生きよう」 という人生観の登場だ。 もっとも、現代人の大半は、 そこまで深く考えているわけではない。 「自分は、まだ当分の間、死なない」ということを暗黙の前提として、その日その日をとりあえず生きているというのが現状だ・・・。
「自我」とは、これほどまでに、西洋思想家たちの関心の中心であり続けてきた。
エックハルト・トールも、 ハイデッガーとは違う観点から、 デカルトに異を唱えている。 トールいわく、「われ思う、 ゆえにわれ在り」 というデカルトは、究極の真理を発見する代わりに、 「エゴの根源」 を発見したのだという。 エゴの根源とは、 「思考」。 どうやらデカルトは、「思考」 を自分自身だと勘違いしてしまったようだ。
人の意識は、過去の記憶の積み重ねと、日々の思考で出来ている。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という言葉のように、 人の意識でも、常に思考が流れている。大半の人は、それこそが自分の意識であり、ひいては自分そのものだと思い込んでいるのだが、 実のところ、それは垂れ流されている 「思考」 にすぎない・・・。 これが、いわば「偽我」の正体。
クリシュナムルティによれば、これは死後も存続するということだ。いわく、人の死後に残るものは、「思考と記憶の束」。それは、死者の残存想念のようなものにすぎず、「自分」ではない。 輪廻転生とか霊界といった、 「死後の存続」 について語る人の多くは、この「思考と記憶の束」を、「自分」 だと勘違いしているという。
つまり、自分ではないものを、自分だと誤認することが、すべての間違いの始まり。 多くの人が 「自分」 だと勘違いしているのは、 ほんとうの自分ではなくて、 「思考と記憶の束」だということになる。
では、どうすれば、そこから抜け出せるのか。 まずは、「思考している自分」 に気づくことが、 気づきの第一歩だという。 思考は、常にめまぐるしく変わる。 腹減った、今日は暑いな、さあ何をしよう・・・とかなんとか。 それを、「思考がめまぐるしく変わっているな」 と、どこか距離を置いたところから、冷静かつ客観的に見ているのが「ほんとうの自分」 。
トールいわく、 最初にこれに気づいたのは、 ハイデッガーの同時代人、 ジャン・ポール・サルトルだそうな。 「われ思う」 と、 思考している自分を客観的に見ているのは、 いつもの自分じゃなくて、 もうひとりの自分。 こちらがほんとうの自分なのだ・・・ということに、サルトルが気づいたのだという。
発見者がサルトルかどうかはともかく、これは精神世界における一大発見だ。まずは、「思考を客観的に観察すること」。ここから、悟りへのプロセスが始まる・・・。
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