宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

皆既日食

2009年07月30日 | こっくり亭日記
国立天文台
 


2009年7月22日、アジア各地で皆既日食が観測された。とはいっても、残念ながら、東京は雨。まあ、予想通りと言うべきか。

国立天文台は、硫黄島の船上から撮影した美麗な画像を、多数ネット上に掲載している。

もしも、雨が降らなかったならば、東京でも、急にあたりが真っ暗になる神秘現象を見ることができただろう。

「太陽が、月の影に隠れたのである」と分かっていても、今の日本の状況ではやっぱり、「自民党長期政権のたそがれ」を示す、天の予兆と思われたかもしれない(藁)。
 
ましてや、天文学の素養がなかった古代人にとっては、まさに凶兆そのものだったであろう。
  
「見たかった」という思いは尽きない・・・。
  

人類は、目覚めつつある ~ エックハルト・トール

2009年07月30日 | エックハルト・トール
  
エックハルト・トールやクリシュナムルティを始めとするスピリチュアルな導師たちは、「目覚め」を説いてきた。いわく、「目覚め」のなんたるかは、目覚めることによってのみ、ほんとうに分かるのだという。

そうは言っても、「目覚め」というのは、つまるところ、どういうことなんでしょうか?・・・というような疑問が、当然にわいてくる。

実のところ、その意味は難しくない。それは、「幻想にとらわれていた自分に気づき、そこから離れること」を意味する。

夜中に眠って夢を見ている人は、しばしば、夢の中で真剣に生きている。追いかけられて必死で逃げていたり、なぜか自分は学生で留年寸前だったり・・・。でも、朝になって目を覚ましてみると、その「夢の中の現実」はあとかたもなく消えている。そのときになって初めて、「ああ、あれは夢だったのか・・・」と気づく。

スピリチュアルな目覚めというのも、これに似ている。端的に言って、「死んでから、あの世で人生を振り返り、何もかもが幻想であったと実感している状態」というのが、それに近いだろう。その心境を、この世で普通に生活しながら実現するのが目標だ。

とはいっても、それは、そんなに簡単なワケがない。人生で直面する状況というのは、人にもよるけど、やっぱり、シャレにならないほどシリアスだ。人類の大半が、目前の現実を凌ぐことだけに汲々としているのは、仕方がないと言える。

それでも、エックハルト・トールによれば、人類は夜明けを迎えつつあるようだ。

もともと、「いまに在る、という気づき」というような、内面的な意識改革を提唱している人なので、「地球人類の夜明け」というような言い方は、あまりしないのが特徴だった。でも、大ベストセラーになった「ニューアース」では、「人類の目覚めは近い」と言って注目されている。
 
いわく、「地球上の相当数の人々が、まもなく気づくだろうが、人類はいま、進化するか死滅するかという重大な選択を迫られている」 (ニューアース)。

そんな中で、「古いエゴのパターンの崩壊と、新たな次元の意識の芽生え」を体験している人々も、まだ多くはないけど、少しはいるらしい。そして、その数は急激に増加しつつあるという。人類の集合意識が目覚めることによって、地球環境は驚くべき変容を遂げる・・・。
 
ただし、「近い将来、人類は目覚めるであろう」というような言い方を決してしないのが、エックハルト・トールの特徴だ。なんといっても、「いまに在る」ということを最も重視する人だけに、「近い将来・・・」なんてことはあり得ないのである。いわく、


>新しい天が生まれ、新しい地が実現するということは、私たちを解放してくれる未来の出来事ではない。何ものも「将来」私たちを解放してはくれない。なぜなら、私たちを解放するのは、現在のこの瞬間だけなのだから。そこに気づくこと、それが目覚めである。 (ニューアース) 


新しい地平は、宇宙の彼方からやってくるのではない。それは、いまこの瞬間に、われわれの意識の中に出現しつつある。ありがたや。合掌・・・。
  
 
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インナーボディとつながるエクササイズ ~ エックハルト・トール

2009年07月29日 | エックハルト・トール
  
日本語訳が文庫で出ている、エックハルト・トールの「超シンプルなさとり方」は、いわば「パワー・オブ・ナウ」の実践版。効果的なエクササイズが、いくつも紹介されている。

中でも重要なのが、「インナーボディとつながるエクササイズ」だろう。

まずは、意識をインナーボディに向ける。それは、からだを内側から感じるということ。「慣れないうちは、目を閉じた方がやりやすい」とのことだが、慣れれば、その必要はないという。最初は、からだ全体のインナーボディを意識する。それから、手・腕・脚・足・腹・胸・・・と、からだの各部ごとにインナーボディを意識していく。

ここで重要なのは、インナーボディについて、「考えるのではない」ということ。ただ、感じることに集中する。意識を集中させればさせるほど、感覚は鮮明に、鋭敏になってくる。やがて、「インナーボディが生きている」ということを実感する。すべての細胞から、生命力があふれ出してくるほど。

筆者は、いつもの癖で(?)、イメージトレーニングに入った。ただちに体内を、金色に光るエネルギーの流れが循環し始めた。やがて、それは徐々に形を成し、純金で彫った仏像のような「インナーボディ」が姿を現してくる。輝かしい生命エネルギーが、燦々と放射され始める・・・。

だが残念なことに(?)、エックハルト・トールによれば、このような浮かんでくるイメージに、大きな意義はないらしい。それよりは、感覚に集中することの方がよほど重要だという。いわく、「イメージがどんなに美しく力強くても、形態である以上、さらに奥に入る可能性を狭めてしまう」というから、イメージ化には副作用があるようだ。瞑想に入る導入部としては、それなりに効果があるのだが、それが深まってくるにつれて、かえって邪魔になるという。
  
思うに、ここで目指しているのは、肉体という「カタチ」の縛りを超越すること。そこで肉体と同じような「カタチ」を持ったモノをイメージしたのでは、別の縛りができてしまうだけだ・・・。
 
インナーボディのさらに奥に入るためには、瞑想が効果的だ。長時間やる必要はなく、10分から15分程度で十分だという。姿勢は自由だが、「背筋は伸ばした方が良い」とのこと。

まずは、からだがリラックスしていることを確認。次に、目を閉じて深呼吸。呼吸しながら、おなかがふくらんだり、へこんだりするのを確認する。

そして、インナーボディ全体のエネルギーを意識する。なにも考えず、ただ、感じるのみ。余計な視覚的イメージは頭から追い払い、ひたすら、エネルギー場を感じることのみに専念。

するとインナーボディが、純粋なエネルギー場として感じられるようになり、からだは形を失う。自分と外界とが融け合い、境界がぼやけてくる。やがては、「インナーボディ」という感覚すら意識しなくなっていく。残るのは、万物の「在る」という感覚だけ・・・。

からだの奥へ奥へと入ることにより、からだを超越した瞬間。

この「大いなる存在」の空間にとどまり、心ゆくまで味わったら、「物質的な肉体、呼吸、からだの感覚」と順番に意識していき、それから目を開ける。目が覚めても、すぐには思考活動を再開しない。しばし、周囲を見渡しながら、インナーボディを意識し続ける。

簡単なようで、奥が深い。継続は、力なり・・・。
 
 
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インナーボディ ~ エックハルト・トール

2009年07月29日 | エックハルト・トール
  
エックハルト・トールによれば、移ろいやすい肉体の奥に、「インナーボディ」と呼ばれる、内なる体がある。われわれは、インナーボディを通して、大いなる存在と常につながっている。

肉体は病み、いつか老いて死ぬ。肉体は、「われわれは個々に切り離された存在なのだ」という、分離の幻想を強化している。だが、肉体に背を向けてはならない。真実は、その内側にしかないからだ。決して、自分の外側に真実を探してはならない・・・。

まずは、自分の内側に「インナーボディ」があるということを意識する。そして、インナーボディに意識を向けることが第一歩。

PCに向かっているときも、本を読んでいるときも、歩いているときや、人と話しているときも、意識の全部ではないが、一部を使って「インナーボディ」を感じ続ける。この、「インナーボディに意識(の一部)を向ける」というエクササイズを、一週間、二週間と続けることが効果的だという。

特に、車の渋滞や信号待ちなど、「待っている時間」は、集中的にインナーボディを意識するエクササイズにあてる。

エックハルト・トールによれば、インナーボディを意識し続けることによって、なんと、アンチエイジング効果もあるというからオドロキだ。

というのも、肉体は、放っておけば急速に老いて、そのうちガタガタになってしまう。でも、インナーボディは不生不滅であり、いつまでたっても変わらない。20歳でも、80歳でも、インナーボディは新鮮な生命エネルギーをもたらしてくれる。
 
インナーボディとの融合が進むにつれて、身体の中に占める意識の割合が増えて、肉体は以前よりも軽く、クリアーで、いきいきと感じられるという。ということは、エクササイズが進んだ暁には、体重計で図ってみるのも一興か(?)。

これほどまでに効果絶大な、「インナーボディを意識する」エクササイズ。この実践を通して、自分の意識がどう変容していくのか。実に楽しみだ・・・。
 
(参考図書:エックハルト・トール著、飯田史彦訳 「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」)
 
 
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ペインボディ ~ エックハルト・トール

2009年07月27日 | エックハルト・トール
       
人間には、「苦しい」とか、「悲しい」とか、そういうネガティブな感情がつきものだ。そういう感情的な苦痛(ペイン)は、それ自体がエネルギー。積もりに積もってくると、一種のエネルギー場ができてくる。エックハルト・トールは、これを「ペインボディ」と呼ぶ。
 
「ペインボディ」とは、苦痛の感情エネルギーでできた、霊的なエネルギー体。いわば、「霊体の苦痛バージョン」と言える。「過去の感情的な苦痛の記憶」が溜まりに溜まって、オーラのように我々を覆っているというイメージだろうか。人間なら、誰もがそれを抱えて生きている。
 
ペインボディは、それ自体が一種の生き物でもある。自己防衛本能もしっかり備わっていて、ズル賢い。彼らなりに、生き残ろうと必死。そのためには、栄養分を摂取し続けなければならない。

困ったことに、ペインボディは、ネガティブな思考や感情だけを消化して生きている。つまり、新たな苦痛こそが、ペインボディの栄養源。次々に恐怖を煽り、不安をかき立て、怒りや悲しみを引き起こすのは、このためだ。人間関係を悪くして、他人をも不幸に巻き込む。
  
ペインボディは、暴力を振るいたがるし、苦痛を受けたがる。SMプレイみたいなものだ。つまり、被害者にも、加害者にもなる。
 
厄介なことに、これは一個人にとどまらない。民族や国家などの集団も、それぞれに集団ペインボディを抱えている。ひいては、人類全体が、集団ペインボディを肥え太らせてきた。

特に、中東あたりは歴史が古いだけに、殺したり殺されたりを、ほかの地域よりも長くやってきた。それだけ、重いペインボディがこの地域を覆っている。はてしない闘争が続くのは、そのためなのか・・・。
 
この地上での不幸の原因、それは人類の無意識。ペインボディに思考や感情を乗っ取られ、無意識状態となっていることから生じる。まずは、そこに気づくのが第一歩。
  
ペインボディは、過去の感情的な記憶でできている。ペインボディをやせ細らせるためには、過去を忘れ、ひたすら「いまに生きる」ことに徹するのが一番。「パワー・オブ・ナウ」とは、まさしく言い得て妙だ・・・。
 
(参考図書:エックハルト・トール著 『ニューアース』)
 
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エックハルト・トールの神秘体験

2009年07月23日 | エックハルト・トール
      
29歳になって間もない頃、エックハルト・トールは、人生が行き詰まり、深く悩んでいた。ある晩、夜中にふと目を覚ましたところ、寝室は静まり返って、辺りは真っ暗闇。なんだか、世界のすべてが氷のように冷たく見えた。何よりも、自分自身がまったく無意味な存在だと感じられた。「絶望のドン底だ・・・」という思いが脳裏をよぎる。
 
絶望のドン底に落ちて、まったくのウツ状態と化した、若き日のトール。夜中に、頭の中でブツブツと独り言をつぶやいていた。いや、本人が気づかないだけで、口に出していたのかもしれない。ふと、「こんな自分と生きていくなんて、もうイヤだ」と思った。
 
そう思ってから、それが奇妙な考えであることに気づいたという。「こんな自分と一緒に生きていくのは嫌だ」ということは、「自分がもう一人いる」ということを意味する。トールは、「きっと、そちらの方が『ほんとうの自分』なのだ」と思った。不思議なことに、その途端、頭の中でつぶやいていた独り言がピタリと止まったという。

これは、エックハルト・トールにとって、生涯最大の発見だったと言える。延々とネガティブな思考を垂れ流す自分と、そんな自分に愛想を尽かした、もう一人の自分への気づき。その直後、彼はすさまじい神秘体験に見舞われた。

まるで竜巻のような、強烈なエネルギーの渦が巻き起こり、トールは引き寄せられた。最初はゆっくりと、そして、だんだん速く。
 
あまりのことに、恐怖にとらわれ、ガタガタと震え始めたトール。そのとき、なぜか、「抵抗してはなりません」という何者かのささやきが、トールの心から恐れを取り去った。観念してエネルギーの渦に身をゆだねた彼は、みるみるうちに吸い込まれていった・・・。

残念ながら、この後のことは記憶にないそうだ。気づいたら、朝になっていた。小鳥のさえずりが聞こえる。今までに聞いたこともないほどの、途方もなく美しい声。朝の光がカーテンを貫いて、力強く降り注いでいる。なんとも言えないほど、暖かく、まばゆい光。それは、人智を遥かに超える何かだった・・・。感動のあまり、トールの目には涙が浮かんだ。

実際のところ、小鳥の声も、朝日の光も、いつもと同じだっただろう。だが、エックハルト・トール自身が、昨夜の神秘体験を経て別人と化していた。起きて外に出てからも、何もかもがすばらしい。街にも、至るところに生命が満ち溢れている。すべてが、生まれたての赤ん坊のように新鮮だった。

その後は、どうなったか。なんと、「至福感が五ヶ月にわたって続いた」というのだ。もちろん、「五ヶ月後からはウツ状態に逆戻りした」というワケではない。おそらく、そんな至福感に慣れて、当たり前と感じられるようになったのだろうとトールは言う。

自殺寸前の精神的危機を突破したところに、予想もしなかった至福の境地があった・・・。

もっとも、至福感を得るために、必ずしも絶望的な危機に直面しなければならないというわけではない。大事なのは、気づき。ここには、誰もが至福の境地へと到達できる、最大の気づきがある。
  
(参考図書:エックハルト・トール著 『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』)

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日本初の有人宇宙施設が完成

2009年07月19日 | こっくり亭日記


JAXA
       
宇宙空間に着々と建造が進む、国際宇宙ステーション(ISS)。宇宙ステーションといえば、昔からSF映画やアニメの世界では空気や水のように当たり前の存在だったが、いよいよ現実世界に本格登場だ。
 
といっても、計画から実現までには、すでに20数年を経過している。当初は「西側諸国の結束の象徴」とされる国際プロジェクトだったのだが、実現するまでの間に、ソビエト連邦がいつのまにか滅亡してしまった。アメリカ側のたび重なる設計変更、スペースシャトルの爆発事故などに振り回されつつ、ようやくココまでこぎつけた。
 
そんな国際宇宙ステーションの中の、日本の実験棟「きぼう」が、ようやく完成。日本国の主権が及ぶ、初の有人宇宙施設だ。アーサー・C・クラークの「2010年宇宙の旅」に、「宇宙船ディスカバリー号の内部には、アメリカ合衆国の主権が及ぶ」という場面が出てきたのを思い出す・・・。もちろん、国際宇宙ステーションはアメリカ主導のプロジェクトだけに、真の意味で日本の独自施設とは言いがたいものの、なんだかんだ言いつつ、日本の宇宙開発もここまで来たのは確かだ。
 
「きぼう」は、今回が3度目の宇宙飛行となり、いまやロボットアーム操作の第一人者となった若田光一宇宙飛行士の活躍により完成。若田飛行士は、「尿をリサイクルした飲料水」の試飲もやっていた。あまり飲みたくはないものだが、長期滞在型の有人宇宙施設では、かねてから不可欠とされていた技術の実用化。専門家の間では、「画期的なこと」だという。かつては、宇宙船のトイレから放出された尿が、寒い宇宙空間で瞬時に凍りつき、太陽光を乱反射して七色に輝く「ダイヤモンド・ダスト」となって、それはそれは美しい眺めだったという。いまや、尿もリサイクルする時代。世の中は、変わったものだ・・・。
 
日本政府の宇宙開発戦略本部は、今後も着々と計画を練っている。2030年頃には、月への有人飛行を実現する計画だ。2020年には、その先陣を切ってロボット飛行士が月に行くという。ロボット君の活躍に期待したい。
 
 

干上がって、砂に埋もれるアラル海

2009年07月19日 | こっくり亭日記
European Space Agency
 
 
ヨーロッパ宇宙機関が、衝撃の画像を発表した。なんと、世界でも最大級の内陸湖だった中央アジアのアラル海が、いよいよ干上がって、砂に埋もれる寸前だというのだ。
 
もっとも、アラル海の水位が年々低下しているということは、旧ソ連時代から知られていた。ソビエト連邦による無謀な灌漑農業、「自然改造計画」が原因で、アラル海に流れ込む内陸河川・アムダリア(アム川)の流れが細る一方だったのだ。

せっかく、ソ連がなくなったというのに、後をついだカザフスタン政府は、まだ開発をやっていた。なんと、2009年までの3年間で、アラル海の面積は8割も縮小。まさに、社会主義、恐るべし・・・。

アラル海と、そこに流れ込むアムダリア・シルダリアの2大河川が囲む地域は、ソグディアナと呼ばれ、古代から東西交易の十字路となっていた。かつて、サマルカンドやブハラは、世界屈指の大都会。遠い中国から、はるばるとシルクロードを越えてやってきた隊商は、この地に憩い、目的地のインドやペルシャへと、それぞれの道に向かったものだ。もちろん、商業だけでなく、河川流域での農業も盛んだった。
 
この地域は、イスラム文明の一大中心地でもあった。11世紀のブハラには、かの高名なイブン=シーナーが登場して、その頂点に達する。人類の精神史に偉人は多いが、イブン=シーナーは別格ともいえる巨人のひとりだ。ヨーロッパでは「アヴィケンナ」と呼ばれ、著書「医学典範」がヨーロッパで何百年も医学の教科書として使われたほど有名。医学と同様、哲学でもその名は不朽で、カトリック神学の大成者・トマス=アクィナスも、何かと言えば「アヴィケンナによれば・・・」と盛んに引用している。当時、「世界一の蔵書数を誇った」と言われるブハラの大図書館があったからこそ、こんな大知識人が生まれた。

そんな偉大なる文明の母・アラル海が消滅するのは、まことに嘆かわしい。人類の損失と言える。

10年ほど前から、アラル海はいくつもの小さな湖に分かれ、細々と存続していた。ここ数年のカザフスタン政府の工事は、北側に残った湖の水位回復に力を入れた結果、皮肉にも南側の湖が極端に弱体化してしまったのだという。

いまや、かつての湖は、「アラル・カラクーム砂漠」と呼ばれる、広大な砂漠地帯と化した。

もっとも、同様な危機は、世界各地で進行している。

身近なところでは、中国北部を流れる黄河だ。中国4千年の文明を育んできた黄河は、水量が細る一方で、海まで届かない内陸河川と化して久しい。

もっとも、黄河の衰退は、ここ最近の出来事とは言い切れない。過去2千年ほどの中華の歴史を眺めると、北部の黄河文明が徐々に衰退して、南部の長江文明へと、文明の中心が移ってきた様子がよく分かる。それだけ、黄河の土地は長年の農耕に疲れ切ってヤセ細り、長期的に衰退してきたのだ。
 
「未来を遠隔透視する」というので有名な、「元FBIの超能力捜査官ジョー・マクモニーグル氏」(←いったい、何者だ・・・?)は、「未来の中国をリモートビューイングしたところ、北部にはほとんど人が住んでいなかった」と語っていた。黄河もまた、消滅に向かっているのだろうか・・・。
 

石田純一 結婚の影に美人占い師!?

2009年07月18日 | 芸能人の霊能事件簿
日刊サイゾー


あの「芸能界きってのプレイボーイ」こと石田純一が、またまた結婚するらしい。相手は、女子プロゴルファーの東尾理子。55歳と33歳のカップルには、「さすがは石田純一」とうならせるものがある。
 
父はかつて「頭脳派ピッチャー」として鳴らした東尾修で、石田純一とは以前から顔見知りだったため、「ウチの娘には手を出すなよ」とクギを刺されていたらしい。このため、先日、面談したときには思わず「すみません」と謝ってしまったという。

なぜ、そうまでして東尾理子なのか・・・という疑問については、「背後に、美人占い師のご託宣があった」と言う説が出ている。記事によると、


>石田と東尾は今年に入ってから交際を開始したとされるが、「モテ男の石田だけに、まだ昨年末あたりまでは3人ほどのガールフレンドがいたそうです。しかし、彼が東尾を選んだのは、この女性占師が東尾と結婚する事が一番の幸せを掴むと告げたからだそうですよ」(芸能事情通)


この占い師は、「星ひとみ」といって、芸能人御用達の占い師として、隠然たる影響力を振るっているようだ。あの「黒船に撃沈された」リア・ディゾンも、星ひとみのご託宣で結婚を決めたという。グラビアアイドルとして写真集も出しているから、「美人占い師」の名に恥じない。もともと、タレントとしてテレビに出ていたのだが、「霊感がある」という評判が、クチコミで広がった。

 
>星さんに"7月から運気が最高に上がる"と言われたそうです。東尾さんのゴルフシーズンが落ち着く今年11月末あたりに結婚発表するんじゃないかって言われてますね (某スタイリスト)

 
う~ん、美人占い師、恐るべし。芸能人が霊能者や占い師を好むのは、今に始まったことではないが、ビジュアル的には細木和子大先生を大幅に上回っているだけに、大物の予感を漂わせている・・・・・。

 ←参考までに、オフィシャルブログ・・・
 
 

自我とは何か ~ 番外編

2009年07月14日 | エックハルト・トール
    
「エゴ」 (自我) といえば、我が強い、 自分勝手、 ワガママ・・・。 いろんなイメージが思い浮かぶ。 「エゴを捨てよ」 とは、よく聞く言葉だ。
  
エックハルト・トールは、かの有名なデカルトの言葉 「われ思う。 ゆえに、われ在り」 をしばしば引き合いに出す。

近代西洋哲学の開祖・デカルトは、 戦乱の世をヨソに、 暖炉でじっくりと 瞑想にふけっていた。 よほど、 暇を持て余していたのだろう。 デカルトは、 「この世界は、 実は存在しないのではないか?」 と疑ってみた。

ものごとは、疑いだしたらキリがない。 もちろん、「百聞は一見に如かず」という言葉のとおり、人から聞いた話など、疑えば何ひとつ信じられないのは当然なのだが、 デカルトの場合は、 目の前にハッキリと見えている家とか家具とか人々とか、さらには世界全体の実在さえも疑うのだから、尋常ではない。 いわく、「ひょっとしたら、 自分は夢を見ているのかもしれないし、 悪魔に幻覚を見せられているのかもしれないではないか」 というのだ。

でも、ひとつだけ、確実に実在すると断言できるものがある。 それが、「自分」。 なんたって、今ここで 「ああでもない、 こうでもない」 と考えを巡らせているくらいなんだから、「自分」 が存在していることだけは、 どう考えても疑う余地がないと考えた。
 
少なくとも、PCの画面に向かってキーボードを叩いている自分は、 確かに存在している。 でなきゃ、キーボードを叩いていられるわけがない。 ただし、 PCやキーボードが実在するとは限らない。 ひょっとしたら、 自分は狐に化かされていて、 本当はキーボードではなく、木の葉を叩いているのかもしれないからだ。 でも、 少なくとも、 ここでこうしている 「自分」 がいることだけは、 まちがいないではないか。
 
少なくとも、 自分はまちがいなく実在する。 ・・・ということは、 その自分がいま叩いている、 キーボードもやっぱり実在すると判断できる。 キーボードが実在するということは、 PCも実在する。 PCが実在するということは、 この部屋も実在する。 ひいては、この世界も実在する・・・という具合に、 今度は 「自分」 を基準にして考えるのである。

デカルトは、近代西洋思想の開祖。 この考え方は、西洋思想の強力なバックボーンとなって脈々と生き続けた。
 
ところが、20世紀になって、これに異を唱える人が現れた。かの高名な「最後の大哲学者」こと、ハイデッガーである。

「人はいつか死ぬ。 だが当分の間、 自分の番ではない」 というのが、 ハイデッガーの名言。
 
いわく、 「自分は、確実に存在する」 などと言えるのは、 しょせん、 生きてる間だけのことである。 死んでしまった後で、 どうして「われ在り」などと言えるのか。 人は皆、 自分がいつか死ぬということを知っている。 それなのに平気で生きていられるのは、 「まだ当分の間、自分の番ではない」と思っているからだという。

デカルトの時代とは違って、もはや 「霊魂の不滅」 など信じられなくなった現代人。 「人は、死ねば無になる。だから、生きてる間は精いっぱい生きよう」 という人生観の登場だ。 もっとも、現代人の大半は、 そこまで深く考えているわけではない。 「自分は、まだ当分の間、死なない」ということを暗黙の前提として、その日その日をとりあえず生きているというのが現状だ・・・。 
 
「自我」とは、これほどまでに、西洋思想家たちの関心の中心であり続けてきた。 
 
エックハルト・トールも、 ハイデッガーとは違う観点から、 デカルトに異を唱えている。 トールいわく、「われ思う、 ゆえにわれ在り」 というデカルトは、究極の真理を発見する代わりに、 「エゴの根源」 を発見したのだという。 エゴの根源とは、 「思考」。 どうやらデカルトは、「思考」 を自分自身だと勘違いしてしまったようだ。
 
人の意識は、過去の記憶の積み重ねと、日々の思考で出来ている。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という言葉のように、 人の意識でも、常に思考が流れている。大半の人は、それこそが自分の意識であり、ひいては自分そのものだと思い込んでいるのだが、 実のところ、それは垂れ流されている 「思考」 にすぎない・・・。 これが、いわば「偽我」の正体。
  
クリシュナムルティによれば、これは死後も存続するということだ。いわく、人の死後に残るものは、「思考と記憶の束」。それは、死者の残存想念のようなものにすぎず、「自分」ではない。 輪廻転生とか霊界といった、 「死後の存続」 について語る人の多くは、この「思考と記憶の束」を、「自分」 だと勘違いしているという。 

つまり、自分ではないものを、自分だと誤認することが、すべての間違いの始まり。 多くの人が 「自分」 だと勘違いしているのは、 ほんとうの自分ではなくて、 「思考と記憶の束」だということになる。 

では、どうすれば、そこから抜け出せるのか。 まずは、「思考している自分」 に気づくことが、 気づきの第一歩だという。  思考は、常にめまぐるしく変わる。 腹減った、今日は暑いな、さあ何をしよう・・・とかなんとか。 それを、「思考がめまぐるしく変わっているな」 と、どこか距離を置いたところから、冷静かつ客観的に見ているのが「ほんとうの自分」 。
  
トールいわく、 最初にこれに気づいたのは、 ハイデッガーの同時代人、 ジャン・ポール・サルトルだそうな。 「われ思う」 と、 思考している自分を客観的に見ているのは、 いつもの自分じゃなくて、 もうひとりの自分。 こちらがほんとうの自分なのだ・・・ということに、サルトルが気づいたのだという。 
 
発見者がサルトルかどうかはともかく、これは精神世界における一大発見だ。まずは、「思考を客観的に観察すること」。ここから、悟りへのプロセスが始まる・・・。
   
 
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