宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

地球環境に適応するための努力

2017年10月31日 | ある宇宙人の人生

光が強いほど、闇もまた濃くなる。誰かがそう言っていた。

実際のところ、新興宗教団体とかスピ系団体には、世間の一般人より遥かに健全で善良な人もいるのだが、作用半作用の法則というべきか、逆に普通じゃ考えられないほどネガティブな人間もしばしば見られる。異常な連中があまりにも異常だし、悪い奴らがあまりにも悪いので、ときとして、この業界が嫌になるのは仕方ない。周囲の人たちにいまひとつオススメできないのは、そこに理由がある。

でも、物事の暗い面にばかり目を向けていても仕方がない。そこから這い上がり、光の当たる明るい面に目を向けていくことが重要だ。

それはともかく、最近の筆者は、科学や哲学にますますハマっている。仕事で科学技術とかかわりあうことが多くなり、かつては別世界だった理系分野へと深く入り込んでいるせいだ。

ここで、自分の意外な面を発見している。というのも、高校生のときなどは、数学がいつも零点に近いので、しょっちゅう数学教師から職員室に呼び出されていた。あの頃はなぜか、本当に数学ができなかった。それなのに、今はむしろ、数学や物理に強いということが、ほぼ唯一の取り柄と化してきている(笑)。「数学が苦手だった」と最近の知り合いに言っても、なかなか信じてもらえない。

数学に限らず、そういうことが多い。昔は、何をやっても、本当にできなかった。

「地球での転生経験が無いか、あったとしても少ない」という、宇宙人の転生者について、しばしば書いてきたけど、これは必ずしも、スピリチュアルな信仰というわけではない。それより、自分自身の生活実感そのものなのだ。自分と他の人々とを観察してきた結果、明らかに、自分には地球環境で生活した経験が乏しい。どう見ても、スタートラインが同じではなかった。

このため、「過去の輪廻転生までも含めれば、膨大な経験値の個人差がある」と、かねてから主張してきている。「人は皆、何も書き込まれていない白紙の状態で生まれてくる」という、イギリス経験論の主張とは真っ向から反対の意見だ。

不器用さを克服しようと思って工場に入り、組立工の仕事を何か月もやって、結局は断念したこともある。だが、あれも、もっと長く何年も続けていたら、いつかは人並みにできるようになったことだろう。何事も、慣れがカンジンなのだ。

配送ドライバーもやったことがある。車の運転がヘタで、免許を取るのも9ヶ月かかったが、運転のプロに変身した。方向感覚がゼロで道順を覚えられないので、地図は書き込みだらけになった。クルマをあちこちぶつけてボコボコになったため、「弁償しろ」と怒られたこともあったが、そこは持ち前の弁舌で乗り切った。

異性との性行為も不得手だったため、風俗店に通って練習したこともある。これについては、過去に本ブログで書いたところ、マジメな読者からコメント欄でお叱りを受けた。でも、本当にそうなのだ。

筆者は、いつもテキトーに書いているように見えるかもしれないが、その背後では、このように常識では考えられないほどの努力をしてきているのである。何のための努力なのかといえば、「この世に慣れるための努力」だ。地球環境に適応するための絶大な努力である。

 だからといって、この地球環境に慣れたところで何が得られるのかと言ったら、別に何も得られない。ひとたび寿命が尽きて地球を去ってしまえば、それまでの話。そこには、なにも意味はない。

でも逆に、意味がないから面白いのである。この地球の物質世界という環境は、よくできた仮想現実の世界だ。どこから見ても、ホンモノの実在としか思えないような錯覚を起こさせる仕掛けになっている。だが、しょせん仮想現実だから、アチコチに矛盾やほころびがある。それを注意深く観察して、じっくりと考えれば、「ボクはいま、仮想現実の世界にいるんだな」という結論にならざるを得ない。

さあ、今日もこの仮想現実の世界を楽しむこととしよう。「なんで、いつも楽しそうなのですか?」と、よく質問される。それは、この仮想現実の世界が面白いからだ。ここは、ゲームの中の創られた世界。なんで、こんな世界があるのか。いったい誰が、こんな巨大で精巧な仕掛けを創ったのだろうか。

世界がある。それが最大の不思議なのだ・・・。

 


精神世界というジャンルの難しさ

2017年10月22日 | 精神世界を語る

最近、またブログを書き始めている。ひと頃のようにヒマになったわけじゃないけど、また書けるようになってきた。

それにしても、自分が書いた過去のブログを読み返してみて、いまさらながら、筆者にとって精神世界・スピリチュアル系というのは、けっこう難しくて書きづらい分野だったんだなということに気づいた。

たとえば、「コルマン・インデックス」に関する7年前の記事を見ても、昔の自分は、コルマン・インデックスに非常に興味を持って、熱心に取り上げている。

それでいて、「もうすぐ、あらゆる債務が帳消しになり、貨幣経済が消滅する」というコルマン博士の主張の骨子に関しては、「あり得ない」とバッサリ切り捨てていた(笑)。普通のアセンション論者なら、そうは言わないだろう。スピ系の人なら、「もうすぐ、おカネのない世界になる」という話を、普通は好むはずだ。

でも、筆者から見ると、それはあり得ない。というより、意味がない。貨幣をいきなり廃止したとしても、それに代わるものがすぐに再登場するだけとしか思えないからだ。コルマン博士は、経済を知らなさすぎるせいで、貨幣ってものをちょっと誤解している。いくらスピ系とはいえ賛成しかねる。かつて、東大理学部出身の坂本政道氏が、「物理的にあり得ない」という理由で「フォトン・ベルト」の話に反対していたけど、それと同じような状況。

それはともかく、さっきの話に戻ると、それでいて、「おカネを中心に回る、いまみたいな世の中がずっと続く」と思っているわけではない。

この先の未来を自分なりに予想してみると、これからは人口が減るうえに、どこにいてもコンピュータさえあれば仕事ができるというのが当たり前になる。離れていても、バーチャルリアリティで、まるで同じ職場にいるような感覚で一緒に働ける。通勤する必要がないので住居費や交通費は激減する。人間が働かなくても、ロボットがじゃんじゃんモノを作るようになり、何もかもタダみたいに安くなってくる。政府は、今でもすでにそうだけど、安心しておカネをどんどん発行できる。

・・・かくして、おカネもモノも、ジャブジャブに溢れてくる。多すぎるものには、価値がなくなる。それが、需要と供給の法則というものだ。

つまり、遠からず、生活に必要なものはタダみたいに安く手に入る世の中になるから、おカネがほとんどなくても生活できるようになる。それによって、「お金持ちである」ということの意味が薄れてくる。もちろん、お金持ちにまったく価値がなくなるわけじゃないけど、是非ともなりたいというほどでもなくなり、「無いよりは、有ったほうがいいな」という程度になるだろうと予想している。

そういう流れにもっていくことが重要なのであって、いきなり貨幣を廃止しても意味はない。物々交換は不便で仕方なくて、とてもやってられないから、すぐに貨幣に代わるモノが再登場する。ものすごい大混乱のあとで、結局もとに戻ることになる。

どっちにしたって、「おカネのいらない世界」に近づいていくのは時間の問題だと考えていることに変わりはない。だから結局のところ、結論はほぼ同じということになる。でも、見る人によっては、同じとは思えなくて、すごく違うように思えるようだ。

政治にしても宗教にしても、思想の問題というのは、まったく水と油みたいに考え方が違う人たちの間では、意外と対立が起きない。それよりも、基本スタンスが似ている人たちの間で、微妙な考え方の違いを巡ってモメることが多い。最近の日本の政党の分裂劇なんかを見れば、それがよく分かる。

というわけで、どっちにしても、筆者のスタンスは難しい。「もうすぐ、おカネのない世界になる」という話を聞いて「そんなバカな」と反応することにより、貨幣廃止論者の反感を買う。それでいて、「もうすぐ、おカネのいらない世界になる」と主張して、世間の一般人から「そんなバカな」と言われる。どちらにしても、そうなる運命にある。

こういう問題があるから、ブログを書いた後で、反感を買わないように書き直すことがよくあった。反感を買わないようにというか、誤解を招かないようにというか、自分で読み返して「この文章は意味不明だな?」と思ったというか、理由はそのときどきで違うけど、とにかく、ブログを書き直すことがよくあった。

しかし、こればっかりは、精神世界関係者なら大なり小なり、誰でもそうだろう。こればっかりは、百人いれば百通りの考えがあると言ってよい。他人と考え方が細部に至るまで100%一致するなんてことは、まず現実にあり得ない。

自分の考えをしっかりと持って、それを貫いていくことも大事だし、他人の考えを柔軟に取り入れていくことも大事。

といっても、率直にいって筆者から見ると、スピリチュアル業界の人には、「この人、ちょっとどころか、かなりアタマがおかしいな?」と思える人が少なくない。普通の精神世界ファンはいいんだけど、この業界でメシを食っている業界人に、かなり危ない人が多い。もちろん、そうでない人も少なからずいて、その比率は半々といったところか。

とはいうものの、そういう「アタマがおかしい人」の中には、霊感が鋭い人もいるし、瞑想などの高度なノウハウを持っている人もいる。そういう人から教えてもらって知ったことも多い。だから、一目置かざるを得ないのも事実。

まあ、自分も客観的に見れば似たようなものだろうから、文句は言いにくいのだが(笑)。

人類の歴史を振り返ってみれば、いつも、クレージーな人が新しい時代を創ってきた。普通の人は、後からついてきた・・・。


新たな世界周期の始まり

2017年10月17日 | アセンション ~ 地球の次元上昇

 

いまさらだけど、古代のマヤ暦には、このように書かれていた。

「2012年12月21日に、神が降り立ち、新たな周期が始まる。古い世界は死に絶え、新たな世界に生まれ変わる」。

あれから5年。世界の変化は、急加速している。

思えば、アセンション・ブームの真っ盛りだった頃、スピリチュアル業界は、一種のバブル状態であった。いつも、「2012年に何が起きるのか」という話でもちきりだった。

いわく、「地球全体がフォトンに包まれて電子レンジのようになり、一切の電子機器が使えなくなる」とか、「貨幣が消滅して物々交換の世界になる」とか。「人類に羽根が生えて、空を飛べるようになる」というのもあった。それと、いまじゃ下火になったけど、当時は多かったのが、「アメリカ合衆国が滅亡する」という話。

どれも、マヤ暦とはかけ離れた話ばかりだった。でもって、予言はひとつも的中せず、アセンション・ブームは過ぎ去った。マヤ暦は、いまやすっかり、「外れた予言」あつかいされている。

でも、ここで思い出そう。マヤ暦には、こう書かれている。

「2012年12月21日に、神が降り立ち、新たな周期が始まる。古い世界は死に絶え、新たな世界に生まれ変わる」。

これが、太古の昔のマヤ人の言葉。ここには、「地球が電子レンジ状態になります」とは書かれていない。ここに示されているのは、5千年という長いスパンでの方向性。あらゆる冗長な語句を省いた、詩的で象徴的な表現があるだけだ。

今は、2017年。地球の古い世界が終わり、新たな周期が始まってから、5年が過ぎようとしている。5千年の周期なのだから、まだ千分の一でしかない。まだまだ、これからなのだ。でも、すでに世界は激動の時代。地球は、急速に変わろうとしている。

・・・という具合に、アセンション・ブームが過ぎて久しい今でも、忘れられたマヤ暦のことを思い出して書けるのは、自分が6年前に書いたブログ記事のおかげ。ブログのだいご味は、人に読ませることではない。自分自身が、忘れた頃に読み返すことにある(笑)。

それはともかく、やはり、アセンションは現在も進行中。

われわれは、地球の歴史上でも、最高にエキサイティングな時代を生きている。

(つづく)

 


人間の意識が、世界を編集している

2017年10月16日 | こっくり亭日記

以前、「クオリア」のところで書いたけど、この世界というのは、結局のところ、自分が作り出している。正確にいえば、この物質世界の元になる舞台装置があって、それを元ネタにして自分が作り出している。

というのも、たとえば、赤いリンゴを見たとする。普通は、そこにもともと赤いリンゴがあって、それを自分が認識しているとしか思えない。でも、これをジックリと考えてみれば、重大な疑問に行き当たる。

それは、「ボクには赤く見えるけど、それはそんな風に見えるというだけで、本当は違うんじゃなかろうか?」という疑問。

そんな疑問を持つ人は、俗世間には滅多にいないかもしれない。でも、たまにいる。これは単純なようでいて、世界観を根底から引っくり返すあやうさを秘めた疑問。

光がリンゴに当たって、リンゴの表面で反射する。その反射した光が、空気中を通って人間の目に入る。目は、「こんな光が飛び込んできました」という情報を、視神経を通して脳に送る。その情報を受け取った脳は、「これは、赤いリンゴだな?」と認識する。

このような、一連の流れになっている。

問題は、この中で、「赤」という色が発生するのが、いつの時点なのか・・・ということだろう。

それは、実は、情報が脳の中に入ったときなのである。

太陽の光とか、部屋の照明の光には、とくに色はない (しいて言えば、白っぽい)。

その光をリンゴが反射するわけだけど、その反射された光が「赤い」かっていったら、そんなことはない。それは、単なる光。やっぱり、色はない。

というのも、光は波でできている。波には、波長の長い波もあれば、波長の短い波もある。でもって、人間の脳は、波長の長い光をキャッチすると「赤い」と感じ、波長の短い光をキャッチすると「青い」と感じるようにできている。われわれの脳は、そういう反応をするようにできている。

リンゴの表面というのは、波長の長い光を反射して、それ以外の光を吸収している。そのリンゴが反射した波長の長い光が、目を通って脳に入ると、そこで脳の中に「赤」という色がパッと浮かぶ。

ただ、それだけなんであって、リンゴが本当に赤いのかどうか、それは誰にもわからない。人間にとって赤く見える光だけを反射、つまりハネ返して、それ以外の光を吸収しているのだから、むしろ本当は「赤」とは逆の色なのかもしれない。

リンゴに限らず、この物質世界にあるものは、ガラス細工と同じで、光を反射してキラキラと、人間にいろんな色を見せるような仕掛けになっている。万華鏡みたいなもんだ。それ自体には、何の色もない。白黒ですらない。それをカラフルに彩色しているのは、人間の脳、つまり自分自身。

音も同じで、救急車が近づいてくると、ピーポーピーポーと高い音がする。通り過ぎて遠ざかっていくと、パーポーパーポーと低い音になる。でも、これまた、やっぱり、音が鳴っているのは自分の脳の中の世界。救急車のサイレンは、クルクル回転して空気を振動させているだけだ。人間の脳は、振幅の長い空気振動を受け取ると、「低い音だ」と感じ、振幅の短い空気振動を受け取ると、「高い音だ」と感じるようにできている。

よくテレビで、「人間は、自然を必要としている。でも、自然は人間を必要としない」と言ってるけど、本当は、その辺は微妙なのである。緑の大森林も、青い大海原も、人間が見るから、そんな風に見えるんであって、それ自体は原子や分子が集まってできた、単なる集合体でしかない。

波長の長い光を受け取ると、「赤い」と思う。波長の短い光を受け取ると、「青い」と思う。これは、われわれの脳がそんな風に設定されているからそう思えるんであって、逆でもおかしくない。つまり、波長の長い光が「青」で、波長の短い光が「赤」だったらどうなるか。昼間の空や海は、われわれの目には赤く見える。夕焼けは、青く見える・・・ということになる。これは単なる脳の設定の問題だから、それでもおかしくない。

そんなこんなで、この物質世界にあるものはすべて、人間が、「そこにそういうモノがある」と思うような仕掛けになっているだけで、本当は色もなく、音もなく、匂いもなにもない。そういうのは、人間の意識が作り出している。

・・・というようなことに、古代ギリシャの哲学者、デモクリトスは気が付いた。もちろん、光が波であることも、脳がどのような仕組みで認識するかも、地球人類はわりとつい最近まで知らなかった。もちろん、古代ギリシャ人は知らなかった。でも、ジックリと考えれば、そんな昔の人でも気づくことだったのだ。

近代に入って、ジョン・ロックやカントといった大哲学者たちが、この考えをおおいに発展させていった。「この物質世界というのは、粒子が集まってできたモノが感覚を刺激することにより、人間の意識が作り出しているのである」というところまでは、これらの人々によって明らかにされてきた。

つまり、この世は、物質世界という舞台装置と、人間の脳という認識装置があって、この両方の共同作業でできている。どっちか一方だけじゃ、こうはならない。

ましてや、現代人には、前回も書いたような「量子力学」がある。人間の感覚を刺激して世界があるように思わせているという、この舞台装置そのものだって、本当の意味で実在するのかどうか、かなり怪しくなってきた。

物質というのは、原子や分子といった粒子が集まってできている。でも、この粒子というのも、「人間が見るから、そこに粒子があるように見えるだけなのである」という可能性が非常に濃厚っていうか、そういう結論にならざるを得なくなってきた。

本当は、それは「波動」でしかない。それがなぜか、人間が見ると、「粒子」に見えるようにできている。そんな「粒子」が集まって、この世界はできている。

・・・というわけで、この物質世界というのは、本当は実在しないという可能性が高くなってきた。人間が見るから、そこに物質世界があるように見えるだけ。そういう仕掛けになっている。

3D映画は、3D専用のメガネをかけると、なぜか画面が飛び出してきて、立体に見える。どっちか一方だけでは、そうはならない。映像とメガネの共同作業で、立体映像はできている。

しょせん、この世は、そんな立体映像。バーチャル・リアリティでしかない。

でも、前回も書いたけど、それが分かってくるにつれて、逆にこの世がおもしろく見えてくるから不思議なものだ。まるで、ゲームの中のコンピュータ・グラフィックの世界に迷い込んだような気になってくる。

どうして、こんな世界が存在するのか。

世界がある。それが不思議なのだ・・・。


物質的ヴァイブレーション

2017年10月10日 | こっくり亭日記

故・葦原瑞穂氏の「黎明」(もはや、日本の精神世界の古典ですな・・・)には、独特の言い回しが多かった。ああいうのが苦手な人にとっては、あの分厚い本を読了する上で、高い壁になってるんじゃないかと思われる。

そのひとつが、「物質的ヴァイブレーション」という言葉。

その「物質的ヴァイブレーション」とは、何を意味しているのか。何年か前に自分が書いたブログ記事に、「黎明」の本文からアチコチ抜粋されていた。我ながら、読み返してみて、実に参考になった(笑)。

>このように粒子という概念は、自然界に表現されている物質レヴェルの波動を、ある時間軸にそった瞬間の断面で参照していった時に観測される状態を、心の中に理解できるような形で投影した映像のひとつなのですが、人間がより高いエネルギーの領域に意識を向けるにつれて、その領域を表現するために、さらに「細かく精妙な粒子」という解釈が造られ続けてきたという事情があります。

>光は波としての側面と、粒子としての側面をあわせて持っていると書きましたが、物質を構成するあらゆる粒子もまた、粒子としての表現の他に、波としての表現という、2つの側面を持っています。

>本来、自然界の現象面には、無限に続く波動領域が重なって表現されているだけで、境界のようなものが存在しているわけではないのですが、これまでの科学で取り扱ってきたような、人間の五官を通して知覚している世界の範囲を、便宜上、「物質的ヴァイブレーション」と呼ぶことにします。

>私たちの多くは物質というと、何か恒久的な存在とか、確かな実体があるものというイメージを思い浮かべがちですが、これまで何度も述べてきましたように、これらのイメージは心の中で作り上げた固定観念に過ぎないことを、よくよく理解していただくことが重要です。

>私たち人間の多くは、自然界の膨大な表現領域の中から、物質的ヴァイブレーションというごく限られた側面を、五官の小さな窓を通して見ているにすぎない・・・(以下略)。
  

早い話が、「物質的ヴァイブレーション」というのは、ひらたく言えば、「この世」つまり、地球の物質世界のこと。

では、なんで「この世」と言わず、わざわざ「物質的ヴァイブレーション」と言うのかといえば、それは、この世の存在がすべて「波動」だということ、しかも、波動の中でも、ある一定の決まった波長の領域だからということになる。

以前、量子力学の二重スリット実験の話を書いたけど、物質には「粒子」と「波動」という2つの性質がある。電子などの微粒子は、人間が観測していないときは、フワフワした「波動」になる。人間が観測すると、急にシャキッとして「粒子」になる・・・という摩訶不思議な現象が、百年前から実験で確認されてきた。

物理学者が、観測機械を使って電子を観察すると、それは粒子でしかない。でも、放っておくと、それは波動としての振る舞いをしていることに気づいた。

ここでいう「波動としての振る舞い」ってのがどういうことかというと、海でも湖でも、水面には波が立つ。波が立つと、シマ模様ができる。逆にいえば、そんなシマ模様ができたら、それは波だと分かる。でもって、科学者が電子銃で電子を一粒ずつ撃ってスクリーンにぶつけてみたら、その痕跡は波のようなシマ模様を描いてました・・・というわけ。

そこで、波動になってるときの電子を観測したいと、大勢の物理学者が必死になって実験した。でも、不思議なことに、人間が観測しているときの電子は、いつも粒子だった。目を離すと、また電子は波動になって、きれいなシマ模様を描きだす。そういうことが、何十年も前から確認されてきた。

電子などの微粒子は、人間が観測していないときは、波動としてボワーッと広がっている。原子の中の電子は、ふだんは「雲」となって広がり、原子核を包んでいる。原子の大部分は、この電子の雲でできている。そして、その原子が集まって、鉄とかコンクリートとか、人間とかができている。これがないと、物質もない。

・・・というわけで、結局のところ、物質というのは、ほんとは波動だってことがわかった。なぜか、それが人間が見ると、硬いモノや柔らかいモノ、いろんなモノに見えてくる。そういう風にできている。

といっても、どんな波動でもいいというわけではない。波動にもいろいろあって、短い波長から長い波長まで、無限の広がりがあるんだけど、その中でもある一定の決まった波長の領域になったときだけ、それが人間にとって意味のある「物質」に変わる。それ以外の波動に対しては、人間にはセンサーがないので反応しない。

人間は、テレビの受像機みたいなものだ。テレビ局のアンテナから、電波が飛んでくる。その電波をキャッチしたテレビは、赤とか青とか黄色とか、いろんな色を映し出し、高い音や低い音、いろんな音も鳴らしだす。

それが、人間にとっては、この世の物質世界。ここで生きている分には、じつにリアルな厳しい世界に思えるけど、はたから見れば、ホログラムの3D映像みたいなものでしかない。

しょせん、この世は物質的ヴァイブレーション。いろんなヴァイブレーションがある中に、物質的なヴァイブレーションってのがあって、それがこの世の正体。われわれ人間には、それが永遠不変に存在する、堅固な実在の世界に見えるようにできている。

「物質世界がある」というのは、人間が心の中で作り上げた、強固な信念でしかない。

ラマナ・マハルシは、「私」に意識を集中せよと説いた。自分の外に広がる物質世界から、心を離す。自分の中にある、「私」という存在に意識を集中する。そうやって、「物質世界がある」という強固な信念から離れる。

とはいうものの、目の前に広がる物質世界の堅牢さには、圧倒的なリアル感がある。これを、「ほんとは無いんだ」と思おうったって、そう簡単にはいかない。これには、よほどの発想の転換を必要とする。

でも、いったん発想を転換してしまえば、この世のすべて、なにもかもがバーチャル・リアリティに見えてくる。なんていうか、ゲームの中の世界に迷い込んだ感じで、逆に、この世がなんとも興味深く、面白い世界に思えてくるから不思議なものだ。赤ちゃんが、なんにでも好奇心を示して夢中になるような感じ。こんなに奇妙な世界を、いったい誰が作ったのか。

ここが、われわれの集合意識によって創られたゲームの中の世界だったとは。なんで、こんな世界があるのか。「世界がある」ということが最大の不思議なのだ。事実は、小説よりも奇なり珍なり、摩訶不思議なり・・・。