インド思想の研究者・宮元啓一氏によれば、釈尊が登場する以前から、「業(ごう)こそが、再生が繰り返される原動力である。業が生じる原因は、欲望にある。はてしない輪廻を終わらせるには、欲望を消滅させなければならない」というところまでは、話が進んでいた。ヤージュナヴァルキヤが唱えたこの説は、インド思想界に広がり、皆の共通理解となった。
解脱(げだつ・・・覚醒して、輪廻を終わらせること)のためなら、なんでもするのが古代インド人。いまや、「欲望を消滅させて、さっさと輪廻にオサラバしようぜ」というのが、修行者の合言葉だ。そこで、欲望を消滅させるため、大きく分けて2つの方法が編み出された。
ひとつは、瞑想をすること。もうひとつは、苦行である。
「瞑想」の道を選んだ人々は、こう考えた。欲望とは、「○○をしたい」、「××になりたい」・・・といった、思うことや、考えることから生まれる。彼らは、欲望を消滅させるためには、このような思いや考え、つまり、「思考」をなんとかしなければならないという結論に至った。
彼らの辞書に、「ほどほどに」という言葉はなかった。彼らは、徹底的に瞑想した。「これでもか」とばかりに瞑想した。
ゴータマ・ブッダ釈尊は、王家の生活を捨てて出家した。出家してはみたものの、何をやれば解脱できるのかが分からない。そこで、まずは「瞑想修行をやってみよう」と思いついた。
当時、インドの瞑想界には、「瞑想を極めた」という評判のスターがいた。アーラーラ・カーラーマ仙人と、ウッダカ・ラーマプッタ仙人である。彼らは、「思考を止める瞑想を極めた」という評判だ。ゴータマ・ブッダは、そこに行ってみることにした。
宮元氏によれば、アーラーラ・カーラーマ仙人が極めた瞑想とは、次のようなものであった。
>いくつもの伝承が共通して伝えるところによれば、アーラーラ・カーラーマ仙人が、これによって解脱にいたることができるとしたのが、無所有処(むしょうしょ)を最高の境地とする瞑想であった。(中略)
>おそらくアーラーラ・カーラーマ仙人が言うところの無所有処というのは、瞑想の果てにたどりつく、見るものも見られるものも何もないという心境のことであろう。これは、はるか後世の「ヨーガ・スートラ」における「心のはたらきの停止」という意味でのヨーガ、つまり三昧(サマーディ)に相当するものと思われる。心のはたらきが停止するとは、感情も思考も停止することである。
アーラーラ・カーラーマ仙人のもとに入門した、若き日のゴータマ・ブッダ。なんと、たちどころに奥義・「無所有処の瞑想」をマスターしてしまったという。仙人が「アララー」と驚いているヒマすらなかった。
次に、ゴータマは、もうひとりの大物、ウッダカ・ラーマプッタ仙人のところに行って入門した。ウッダカ・ラーマプッタ仙人が極めた瞑想とは、次のようなものであった。
>この仙人は、非想非非想処(ひそうひひそうじょ)こそが最高の境地で、アーラーラ・カーラーマ仙人と同じように、瞑想によって到達できると説いていた。(中略)
>文字どおりには、「識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境地」というほどの意味である。先の無所有処では、「識別作用は消えた」というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、ここでは完全に消え去る。つまり、識別する、しないがまったく意味をなさないほどまで心のはたらきが停止する、ということなのであろう。これも、感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。
またまた、奥義・「非想非非想処の瞑想」を、あっという間にマスターしてしまったゴータマ。
ゴータマ・ブッダは、瞑想によって思考も感情も停止した。心のはたらきを、何もかも停止して、至高の境地に至った。だが、ブッダは気づいてしまった。たしかに、瞑想している間は、完全なる静寂が得られる。だが、瞑想が終わって日常生活に戻ると、すぐに元に戻ってしまう。これじゃ、解脱にはホド遠い・・・。
瞑想修行の道を捨て、去ってゆくゴータマ・ブッダ。
結論 : 瞑想して思考や感情を止めただけでは、解脱できない。
(引用箇所 : 宮元啓一著『ブッダが考えたこと』より)
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大好き、コンサルさま。
どうすれば、この想いが通じるか