宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

仮想現実に近づく、お金の世界

2014年06月05日 | お金が要らない世界
          
お金というのは、それ自体に価値があるわけではない。昔は、金貨とか銀貨とか、貴金属が使われていた。でも、現代では、圧倒的に紙幣が中心。それは単に、小さく切った紙切れに印刷されたものでしかない。
 
それだけでなく、銀行のオペレーターが、「口座番号××××に、○億円」という具合に、コンピュータに数字を入力しさえすれば、そこにお金が発生する。
 
それはもはや、単なる数字の羅列でしかない。
 
実のところ、個人的に「お金」と聞いて最初に連想するイメージは、それ。
  
なんといっても、「コンピュータのシステムに入力された、数字の羅列」というのが、筆者にとっての「お金」のイメージだ。
  
ただの数字なんだけど、これを使えば、なんでも買えるし、人を雇って、どんなことでもできる。
 
それはまさしく、人生を変えるほどのパワーを持った数字だ。これのために、人を殺したり、自殺する人もいるほどの、意味がある数字だ。そこまで行かなくても、多くの人が、一生をかけて、この数字のために働き続けている。
 
この数字さえあれば、たいていの悩みは解消されるのも事実。

たとえば、職場から遠いところに住み、片道2時間かけて通勤している人も、お金があれば、もっと近くに引っ越すことができるだろう。一日24時間のうちの貴重な往復4時間を、銀行のオンライン・システムに何ケタかの数字があるだけで、節約することができるのだ。それがないばっかりに、グッタリ疲れる痛勤を、何年間もほとんど毎日、続けることになる・・・。
 
それを思うと、現代の社会は、本当に不思議な世界だとも言える。なんで、ああいう無味乾燥な数字の羅列に、そこまで重大な意味が持たされているのか。
  
でも、ただの数字にすぎないんだから、使いかた次第とも言える。もっと効率よく分配しさえすればいいだけのように思えるんだが・・・?

とはいうものの、もちろん、それは簡単なことではない。そのために、過去の100年、200年をかけて、人類は革命を起こしたり、反革命を起こしたり、戦争したりしてきたのだ。
 
でも、「簡単ではない」というのと、「不可能」というのとは、似てるけど違う。
   
昔の社会は、生産力が低くて、モノが足りなかった。少しの食料とか、少しの物資を求めて、多くの人が、それを手に入れるために競争しなければいけなかった。

でも、今はそうではない。多くの分野では、その気になれば、いくらでも生産することができる。あまりに作りすぎると、売れ残って困るから、抑えているだけだ。
 
それはやっぱり、それだけ、地球人類の技術が向上したから。
 
特に、中国の過剰生産は、ハチャメチャそのもの。そこらじゅうに製鉄所をつくって、質の悪い中国産の石炭を燃やして大気汚染するのは、世界にとって頭痛のタネになっている。でも、作ろうと思えば、もっと作れるのも事実。

こんなときは、なるべく、お金をバラまいて、誰もが買えるようにしたほうが、効率が良いと言える。

実際に、数年前の中国では、地方の農村の人たちに金券を配って、電気製品を買えるようにした。電気製品が売れたおかげで、深刻な景気後退の悪影響を、かなり食い止めることに成功した。「これぞ、究極の景気対策だ!」と、多くの人をうならせた政策だった。
 
上にも書いたように、お金とは、単なる数字でしかない。それも、コンピュータのシステムの中の数字にすぎない。
 
これを、うまく配ることさえできれば、貧困に苦しむ人はいなくなる。

もちろん、口で言うのは簡単だけど、実際には難しい。現に、アメリカの例を見ても、貧富の格差は縮まるどころか、ますます開いている。それも、ものすごいスピードで広がっているというのが現実だ。
 
でも、結論を出すのは、まだ早い。
 
世界は、ますます仮想現実みたいなものに近づいてきている。

昔は、鉱山から金銀銅をエッチラオッチラ掘り出して、それを溶かして鋳型で固めて、それでお金を作っていた。鎌倉時代や室町時代の日本では、わざわざ海を越えて中国にわたり、そこで中国の銅銭をドッサリ積んで、また持ってかえって、日本でお金として使ってた。日本だけでなく、東アジアの国々では、昔はみんなそうしていた。なんとも、ご苦労なことだった・・・。
 
でも、今では、それはコンピュータのシステムに入力された、何ケタかの数字にすぎないのだ。それを人々に配るのは、昔よりも、ずっと簡単になっている。

ましてや、これから先の未来社会では、もっと意味不明な、なにかの冗談みたいなものに変わっていくことだろう。
 
現に、最近ではインターネットの中の仮想通貨・ビットコインが、大きな社会問題を引き起こした。こういう、昔なら子供のゲームに出てきた「こども銀行」のお金みたいなものが、現代では実際にパワーを持ち始めている。

それを思えば、お金にまつわる人々の信念も、予想外に早く変わるんじゃあるまいか・・・?
 

ものすごい貧富の差

2014年06月03日 | お金が要らない世界
      
「なぜ、お金は悪魔の発明と言われるのか?」というテーマの3回目。
    
ちなみに、ここでの筆者の意図は、「お金は悪魔の発明なのだ」と主張することではない。そうではなくて、「お金は悪魔の発明だと主張する人たちは、なぜ、そう言ってるのでしょうか?・・・ひとつ、その理由を考えてみよう」というくらいのスタンス。
 
付け加えると、筆者はかつて、東大経済学部で貨幣論や金融論を学び、金融機関に勤務したこともある。
 
しかも、その後、失業してフリーターになり、家賃その他を払って生活するのに、大変な苦労をした。電気を止められて真っ暗な部屋、冷蔵庫の中の溶けた氷。ガスを止められて、シャワーから噴き出す冷たい水・・・そういうのが、お金にまつわる懐かしい(?)思い出。
 
逆に、お金をジャンジャン使って、楽しく遊んだ思い出も多い。まあ、「山あり谷あり」といったところだろう。
   
自分のこと以上に、お金のことで大変な苦労をしている人を数え切れないほど見てきたし、逆に、ものすごいお金持ちも少なからず見てきた。
 
そんなわけで、「お金」の問題を、純粋にスピリチュアル的な視点からは、ちょっと離れたところから見ている。「50%のスピリチュアリスト、あとの半分はリアリスト」っていうくらいの感じ。もっとも、この問題に限らず、たいていのことで、そのくらいのスタンスだけど・・・。
 
それはともかく、前回まで書いたように、現代の世の中で、お金というものは、おもに「金融」が生み出している。

特にアメリカやイギリスのような「金融立国」では、金融が世の中に占めるウエートが、ものすごく高くなっている。ドルを発行するアメリカのFRBや、ポンドを発行するイングランド銀行からして、もともと金融関係者が中心になって設立したものだ。そこが総元締めとなり、多くの金融機関が、「信用創造」の原理によって莫大なお金を生み出している。
 
金融立国を支配しているのは、なんといっても金融資本。そこに反感を持つ人々が、そういう「お金を生み出すシステム」に対し、ケシカランといって怒るのは無理からぬところ。

それというのも、貧富の格差が、あまりにもひどいからだ。

もちろん、貧富の格差は、どこの国にもある。日本にだって、当然ある。でも、この日本は、国際的な観点から見れば、明らかにマシなほうだ。アメリカと中国は、本当にひどい。

アメリカでは、2011年に、「ウォール街を占領する運動」が起きた。「われわれは99%」というスローガンが有名になった。

というのも、アメリカは、1%の金持ちによって支配されているからだ。

ここ数十年で、貧富の格差は広がった。アメリカの所得階層のうち、上位10%の所得の伸びは、それ以下の層のそれよりも、ずっと大きかった。

そんな上位10%と比べても、上位1%の所得の伸びは、すばぬけて大きかった。しかも、そんな上位1%と比べても、上位0.1%の所得の伸びは、特にずばぬけて大きかった。

・・・という具合に、アメリカの所得階層は、上に行けば行くほど、ますます急速に増えている。ポール・クルーグマンは、これを「フラクタル構造」と呼んだ。グラフのどの部分を拡大してみても、「上に行くほど伸びが大きい」という、同じような形をしているからだ。こんな調子じゃ、貧富の差は広がる一方。

特に、金融の街・ニューヨークはひどい。ある調査によると、「アメリカ全体でみた所得上位1%層の所得シェアは,2007年に23.5%であったが,ニューヨーク市だけをとると,実に44.0%にも達していた」という。

つまり、1%の高額所得者が、ニューヨーク市民の所得を合計したうちの、半分近くを占めていた・・・というわけだ。ちなみに、アメリカ全体でも20%以上。

一方では、働いても食べていけない「ワーキング・プア」が多くて、フードスタンプの配給には、行列ができる。それ以前の問題として、アメリカの貧困層には、そもそも、ほとんど働かない人々も多い。「働いたら負けと思ってる」という世界の住人だ。
 
これは、どうみても深刻な状況だ。これだけの格差が現実にあって、「それでも、少しずつ差が縮まっています」というのなら、まだ救いようがある。実態は真逆で、急ピッチでさらに差が広がっているのだ。

人間、使えるお金の額には限界があるし、あまりに所得が多すぎても、意味がなくなってしまうと思うんだが・・・。

この高額所得者のうち、かなりの部分を、金融関係者が占める。

これが、前回まで書いたような、「金融がお金を生み出している」という社会システムへの反感とあいまって、ものすごい怒りを呼び起こした。

コルマン博士のように、「金融をつぶせ」という主張が出てくるのも、無理からぬところがある・・・。

(続く)
 

信用創造 ・・・ お金を生み出す仕組み

2014年06月02日 | お金が要らない世界
  
前回の「FRB創設の疑惑」に続いて、陰謀論でよく言われることの一つに、「信用創造」というものがある。
  
つまり、FRBは、お金を発行する「打ち出の小槌」みたいなところ。でも、お金というのは、「発行すれば、それで終わり」というわけではない。なんと、発行されて、世の中に出たあとで、風船みたいにドンドンふくらんでいくものなのだ。
  
その、お金をふくらませる仕組みこそが、「信用創造」ということになる。
 
信用創造の原理は、至ってシンプル。

まず、ある人が、銀行に100万ドルを預金する。銀行は、それを元手にお金を貸す。もちろん、全部のお金を貸出に回して、手持ちの資金がスッカラカンになってしまったのでは、イザというとき困ってしまう。だから、たとえば、10万ドルを手元に残して、残りの90万ドルを貸す。

銀行から90万ドルのお金を借りた人は、そのお金を使って、家や車などを買う。代金を支払うにあたっては、現金の札束を積み上げるのもいいんだけど、普通はそうしない。通常は、「○○銀行の口座番号××××に、いくら振り込んで下さい」といわれて、銀行に振り込むことになる。

こうして、借りた90万ドルを、家や車の代金として、銀行に振り込む。銀行には、90万ドルがまた入ってくることになる。

その90万ドルを元手に、銀行は、81万ドルを貸す。81万ドルを借りた人は、そのお金で、家や車を買う。その代金を、また銀行に振り込む。

またまた、銀行は、それを元手に72万ドルを貸し・・・という具合に、お金は、世の中と銀行との間を行ったり来たりしながら、ドンドン増えていく。

90万ドル増えた → 81万ドル増えた → 72万ドル増えた → ・・・というのを繰り返していくと、やがて最終的に、お金は合計で約1000万ドルになる。
 
最初に誰かが銀行に預けた100万ドルが、打ち出の小槌のように、1000万ドルというお金に化けたのだ。これが、「信用創造」と言われる原理。


早い話が、お金というのは、FRBや日本銀行が、印刷して発行するだけではない。銀行がお金を貸すことによって、もっと大きく増えるようになっている。
 
でも、いくら銀行ったって、何も無いところから、いきなり、お金を取り出してみせるわけにはいかない。やはり、元手をそれなりに持ってないと、許されることではない。

元手もないのに、お金を貸してたら、どうなるか。役人が銀行にやってきて、「アンタ、お金もないのにジャブジャブ貸しまくってるみたいだけど、預金者がお金を引き出しに来たら、どうするの?」と言われるハメになる。

預金者がお金を引き出しに来たのに、銀行にお金がなくて、払えませんでした。銀行は、そのままシャッターを下ろして、閉店してしまいました・・・というのは、最近は聞かないけど、しばしば現実に起きたこと。

そうならないためには、最初の元手になる100万ドルを見せて、「ハイ、これが元手ですよ。これがあるから、安心でしょ」と言えるようにしておかなきゃいけない。

だから、銀行は、最初の100万ドルを、準備金としてFRBに預ける。そうすると、「銀行さん、アナタはどうやら、十分な元手を持っているみたいですね。これなら、1000万ドルを貸してもいいですよ」ってな調子で、FRBから認めてもらえる。

それを見れば、「おい、ちょっと待て。銀行は100万ドルしか持ってないのに、それを元手に、1000万ドルも貸していいのかよ?」と思うところだろう。そう思われても仕方がない。

でも、それでいいのである。なぜかというと、上に書いたような、「信用創造」の原理があるからだ。どっちみち、上に書いたような理由で、100万ドル持っている銀行は、最終的に1000万ドルを貸せる計算になる。だから、いいのである。

世の中は、そういう風にできている。

こんな具合に、金融がどんどんお金をふくらませ、経済を大きくしている。

上に書いた例では、100万ドルを準備金として預けた銀行が、1000万ドルを貸せる計算だけど、実際にはそんなものではなく、もっと大きく貸せるのが普通。この比率は決められていて、日本なら、ざっくり100倍ってとこか。
    
問題は、こういうのを見て、「いやあ、世の中ってのは、うまくデキてるもんですなあ」と感心する人もいれば、そうでない人もいる・・・ということ。

「お金は、悪魔の発明だ」という人たちは、この「信用創造」をも敵視している。

たとえば、「コルマン・インデックス」で有名なコルマン博士は、「資本主義経済を潰すためには、信用創造を止めなければならない」とし、「そのためには、すべての借金を無効にすべきだ」と主張していた。

他にも、同様の主張をするスピリチュアリストを、何人も見た覚えがある。

この、信用創造という仕組み。

実によくデキているのだが、大きな欠点がある。それは、「貸したお金が、銀行に返ってこなかったら、どうなるか?」というところ。

全体の流れが、そこで止まってしまうことになる。

現実に、それは日本のバブル崩壊、アメリカのリーマン・ショック、ヨーロッパのギリシャ危機・・・などで繰り返されてきた。 いままた、中国のシャドーバンキング問題が、世界経済を揺るがせている。

 
(つづく)
 

なぜ、「お金は悪魔の発明」と言われるのか

2014年06月01日 | お金が要らない世界
   
精神世界関係者の口からは、「お金は悪魔の発明」という言葉が、よく聞かれる。そこまで言われるからには、もちろん、それだけの理由がある。
 
ただし、最初にアタマに入れておくべきなのは、現代の精神世界・スピリチュアルは、その他のいろんな分野と同じく、世界の最先進国・アメリカを中心にして動いている・・・ということ。「ポジティブ・シンキング」が流行しているのは、その最たる例で、これはもともと、アメリカ人の文化と言っていい。
  
この「お金は悪魔の発明だ」という話もまた、出どころはアメリカにある。ここには、アメリカ特有の事情が、かなり影響している。
   
というのも、アメリカという国は、歴史が新しい。日本でいえば「江戸時代」くらいの頃に、ヨーロッパから移住してきた人たちが作った国だ。日本みたいに、いつから存在したのか判然としないほど古い国とは、成り立ちがまったく違う。

日本でも、「708年に、日本最古のお金が作られました」とか、小学校の歴史の教科書にも書いてある。でも、縄文時代の原始人だって、アチコチで商売をしていたのは確かだ。それも計算に入れたら、この日本でお金がいつから使われ始めたのかは、誰にも分からない。
   
でも、アメリカの場合は、「ドル」というお金を、誰がどのようにして「発明」したのか。その成り立ちがよく分かっているところに特徴がある。

早い話が、その「ドル」というお金が作られたイキサツが、ちょっと不透明というかなんというか、どうにも疑念を持たれるところなのだ。

なんたって、「命の次に大切」とも、「いや、命よりも大切だ」とも言われる、お金のことだ。お金を作って持っていけば、なんでも買える。ジャンジャン刷れば、いくらでも買える。その、お金を印刷している人たちに対して、関心が集まるのも当然か。

日本の場合は、「日本銀行」が、円を発行している。上にも書いたように、日本は、いつからあるのか判然としないほど古い国で、誰もが、日本という国家が存在するのを自然だと思っている。その日本という国家の銀行である日本銀行に、疑念を持つ向きは少ない。

でも、アメリカに、「アメリカ銀行」というのは存在しない。

その代わりに何があるのかというと、連邦準備制度理事会(FRB)という、名前を聞いただけでは、何をやってるんだか、よく分からないような組織だ。そこが、世界の基軸通貨たる、ドルを発行している。
 
もともと、アメリカの歴史は、イギリスからの移民が集まって、イギリスの植民地として始まった。東部の植民地・・・ニューヨークとか、ボストンとかがあるあたりの、北東の海岸部がその中心だった。そこでは、イギリスのお金・ポンドが、そのまま使われていた。

でも、その使われ方は、地域によってバラバラだった。日本に例えれば、「大阪と京都では、お金の価値が違う」っていうくらい、バラバラだった。ましてや、大阪と東京では、まるきり異なる。だから、とても不便。

18世紀の後半、独立戦争を経てイギリスから独立したアメリカ。かの有名なハミルトン財務長官がまず目指したのは、通貨を統一することだった。

このハミルトンという人は、ワシントンとか、ジェファーソンとか、ベンジャミン・フランクリンなどと比べて、日本での知名度はちょっとマイナーだけど、そういう人たちと並ぶアメリカ建国の父で、ものすごい大物の一人。アメリカ合衆国憲法を作ったのもハミルトンだと言われているし、アメリカ建国時の外交も仕切っていたとされる。
 
そんなハミルトン財務長官は、アメリカ合衆国銀行を設立して、統一通貨の「ドル」を発行することにした。

つまり、アメリカでは、そもそも「ドルを作ったのは誰なのか?」ということがハッキリしている。それは、建国の父・ハミルトン財務長官。

それで、ここがなんともアメリカらしいところなのだが、当初から「民間活力」を導入した。

なんと、出身金の8割を、民間の金融資本が出したのだ。アメリカだけじゃ足りなくて、ヨーロッパの銀行も出資した。

要するに、銀行がお金を発行して、それを世の中にバラまいているようなものだった。だから、「なんで、お前らが、お金を独り占めしてるの?」というような反感が噴出することとなった。

特に、南部では反感が大きかった。というのも、こういう民間の金融資本というのは、ほとんどが北部の連中だったからだ。

アメリカは広い。北部と南部じゃ、気候風土もまるきり違うし、移民の人たちの出身地とか、いろんな面で大きく異なる。ほとんど、別の国と言っていい。そんな南部の人たちが、「北部はケシカラン。なんで、お前らがお金を独り占めしてるの?」と怒り出した。
  
南部出身のジャクソン大統領は、「アメリカ合衆国銀行」を閉鎖してしまった。まあ、ヨーロッパに例えれば、ギリシャやスペインといった南欧の国々が、「ドイツは、われわれの経済を支配してケシカラン」と怒り、統一通貨ユーロを潰すようなものだろう。

それから、しばらくの間、アメリカには「中央銀行」が存在しなかった。

この事実が、アメリカ人の心理に、大きな影響を及ぼしていると言われる。

つまり、日本では、「日本銀行が日本円を発行すること」が、当たり前と思われている。でも、アメリカでは、「FRBが米ドルを発行すること」を、当たり前と思ってない人が、決して少なくない。その根拠は、「ジャクソン大統領がアメリカ合衆国銀行を閉鎖した後、しばらくの間は中央銀行がなかったが、別に問題はなかったじゃないか」というところにある。

今でも「FRB不要論」が根強く残っている背景が、ここにある・・・。

19世紀の後半、日本では坂本竜馬や高杉晋作たちが大暴れしていた幕末・維新の頃、地球の裏側のアメリカでも、大モメにモメていた。なんと、アメリカが北部と南部に分かれて、南北戦争が始まったのだ。

でも、戦争するには、お金が要る。北部のリンカーン大統領は、ジャンジャンお金を発行して、南部との戦争に勝利した。中央銀行ではなく、政府がお金を発行する、「政府紙幣」というやつだ。日本で言えば、自民党や安倍首相が、円の紙幣を刷りまくって戦費に当てるようなもの。

こんなことが許されるなら、なんでもできて、万能の政府だ。リンカーンが暗殺されたのも、これに怒った人たちのシワザだったのではないか・・・と、根強くささやかれている。

その後、20世紀に入って、連邦準備制度理事会(FRB)が創設された。

モルガン財閥、ロックフェラー財閥といった、世界陰謀論ではオナジミの面々が集まって、「そろそろ、アメリカでも、こんなの作ってみませんか?」と政府に申し出た。ウィルソン大統領は、それを承認した。

日本政府が出資する日本銀行とは異なり、FRBは、モルガンやロックフェラーたちが出資して創設された。

ここが、上に書いた、「アメリカ特有の事情」ってところ。

つまり、アメリカでは、お金を発行する機関を、そういう世界陰謀論でオナジミの面々がお金を出し合って、作ってしまったのだ。

おカネなだけに、発行しさえすれば、なんでも買える。人を雇って、どんなことでもできる。おカネが足りなくなったら、紙幣を印刷すればいいだけだ。
 
だから、「アイツらは、地球を支配する悪魔だ、レプティリアンだ」という人たちが、FRBやドルを敵視するのは、当然といえば当然なのである。
 
 
(つづく)
 

地球の文明の進化

2014年05月01日 | お金が要らない世界

「誰もが、お金のために働く必要はなくなり、好きなことをして生きていける。それでいて、必要なものは誰かがボランティアで提供してくれるので、足りないものは何もない」という世界こそが理想。それこそ、「お金のない世界」だ。

でも、「貨幣という制度を廃止すれば、そういう世界になる」というのは、むしろ逆ではないかと思う。つまり、「そういう世界が実現したら、貨幣を廃止することができる」のであって、順番が逆になるとは思えない。

例えてみれば、飛行機や自動車では、ときどき事故が起きる。最近は、某国で船がひっくり返る事故もあった。

これを見て、「交通機関を廃止して、原始人の生活に戻るべきだ」と考える人もいるだろう。でも、それが理想かと言ったら、それは違うんじゃなかろうか。

理想は、事故が起きないくらい、交通機関が進化することだろう。現に、飛行機は進歩して墜落しにくくなっているし、自動車も、人工知能が進歩して、運転をまかせられる日が近づいている。

交通機関があれば、人間の活動範囲はグッと広がり、それだけ自由な世界になる。それに比べて、原始人の世界は、移動できる範囲がとても狭くて、誰もが、生まれた場所に縛りつけられることになる。

でも、原始人だって、放っておけば、すぐに船くらい発明する。海に魚を取りにいって、そこで遭難するようになる。馬に乗ったって、落馬事故は起きる。

究極の解決方法は、地球人類が超能力を開発して、空を飛んだり、テレポーテーションできるようになることだろう。それこそ「どこでもドア」みたいに、どこにでも瞬間移動できるようになれば、交通機関など必要なくなるから、交通事故の問題は最終的に解決する。

だけど、それは、「車や飛行機をなくせば、実現する」というような問題ではない。それ以前に、人類の進化というか、地球の物質世界そのものの大変化が必要だ。そうなれば、あらゆる交通機関を廃止することができる。決して、その逆ではない。

筆者が見たところでは、「貨幣を廃止すれば、理想社会が実現する」という話も、この論法に近い。つまり、人類が進化し、地球の物質世界そのものが大変化すれば、そこで初めて貨幣を廃止できるんであって、順番は決して逆にはならない。

それよりも、上に書いたような、「飛行機や自動車が進化して、もはや事故が起きるようなレベルではなくなる」というほうが、ずっと手の届く範囲にある。

お金の問題もそれと同じで、経済をもっともっと進化させれば、お金に困って餓死者やホームレスが出るような社会ではなくなる。そのほうが、遥かに実現に近い。

このように、地球が抱えている問題の多くは、まだ科学や経済が未熟だから起きていることだ。地球人類は、原始人から文明人に進化して、まだ日が浅い。だから、仕方がない。

飛行機がときどき墜落するのは、まだ地球人類の飛行技術が、完成の域に達していないからだ。もっと進化して、究極の飛行機ができれば、事故なんか起きない。

それと同じように、おカネが足りなくて苦しむ人が多いのは、地球人類の経済社会が、まだまだ未完成で発展途上だからだ。おカネやモノを配分するシステムがもっと進歩し、洗練されてくれば、おカネやモノが社会の隅々まで行き渡り、誰も苦しまなくなる。

現実に、今の世界を、50年前や100年前と比べて、どうだろうか。飢えで苦しむ人や、ホームレスで凍える人は、格段に減っている。500年前や1000年前と比べたら、その差は、さらに歴然としている。

日本では人口が減っている。人口が減れば、それだけ、空き家が多くなっていく。家がさらに余るようになれば、ますます、ホームレスになりにくい社会になるのは確実だ。人口が減れば、食糧も余る一方。これは、人口増加と、それによる現代社会の巨大化に悩まされてきた人類にとって、大きな福音だ。

人間は、なんたって衣食住が基本。この、生活の基盤となるところで、何も心配する必要がなくなれば、それだけで経済問題の多くが解消される。

衣食住だけではない。バーチャル・リアリティが発達して、旅行しなくても行った気になれるし、遊園地に行かなくても、ジェットコースターに乗った気になれる時代だ。多額の費用をかけて移動する必要は、ますます無くなった。引きこもりのニートでも、世界旅行者になれる時代なのだ。

そうやって、一つ一つ、経済問題は解決に向かっていく。解決まで、意外と手の届く範囲にある問題が多い。

・・・とは言うものの、それでは納得できないという人も、当然いるだろう。地球人類の文明が進化するのを、待っていられない。一日も早く「お金の要らない世界」を実現したいと、先を急いでいる人たちもいる。その気持ちは、よく分かる。

まだ理想にはホド遠いとは言うものの、地球の文明は大変な速さで進化している上に、ますます進化が速くなっている。意外に早く、経済問題が次々に解決されるだろう。

実際のところ、あと数年くらいでも、かなり大きく変わるだろう。

お金のいらない国 ~ 長島龍人氏

2014年04月30日 | お金が要らない世界

「お金のいらない国」という本の著者、長島龍人氏は、それからもずっと、「お金のいらない国」というテーマを掲げて活動している。筆者も、ずっと前に、スピ系の友人に「是非、読んでくれ」と言われて読んだ。

これは、まさに理想の社会だ。


>呆然と少し歩き、ふと見ると一軒のレストランがあった。
こぢんまりとした、入りやすい感じの店だった。

>私は急に空腹を覚えた。
ま、とりあえず飯でも食って、それからまた考えるとするか。
私は店のドアを開け、中に入った。
人気のある店らしく、結構混んでいた。

>私はウェイトレスに案内されてテーブルにつき、受け取ったメニューを広げた。
家庭料理風の、うまそうな料理の写真がたくさん並んでいた。
私はつい、ウキウキと迷っていたが、あることに気付いてはっとした。
値段が書いてないのだ。

>しまった。もしかしたらこの店、すごく高いのかもしれない。
そういえば、このテーブルやイスもさりげなくいいものを使ってるみたいだし。
困ったなあ、あんまり持ち合わせがないんだ。
今から出るわけにもいかないしなあ。足りるかなあ。
まあ、いいか。

>そう言えば、この国で日本円が使えるとも思えないし。
最悪、店の人に頼んで待ってもらって、あの紳士にお金を貸してもらおう。
私は恐る恐るあまり高そうでないものを選んでウェイトレスに注文した。

>ウェイトレスはにっこり笑って奥へ引っ込み、間もなく料理を運んできた。
目の前に料理が置かれるやいなや、私は値段のことも忘れて夢中で食べた。

>腹も減ってはいたが、とにかくすごくうまいのだ。
きっと、相当がつがつ食べていたのだろう。

>食べ終わってから、隣のテーブルの白人と黒人の学生風の女の子二人連れが
くすくす笑っているのに気付いた。 
照れくさかったので私はそそくさと席を立った。

>さあ、いよいよ問題の一瞬がやって来る。
果たして、いくら請求されるんだろうか。

>私は店の出口の方へ向かい、レジを探した。
しかし、レジは見当たらない。
仕方がないのでもう一度、中へ戻り、ウェイトレスを呼び止めた。

>「あの…」
「はい、何でしょうか」

>東洋系の、愛嬌のある顔をしたウェイトレスは、愛想良く日本語で答えた。

>「レジはどこですか」
ウェイトレスは、きょとんとしている。
店は結構話し声がしているので、よく聞こえなかったのかなと思い
私はもう一度ゆっくりと繰り返して聞いた。
「レジは、どこですか」

>彼女は困ったような顔をして小声で言った。
「あの、すいません。ここにはそういう物、置いてないんですけど」

>私は呆れた。こいつまで私をからかうつもりなのか。
一体、この国のやつらは何を考えているんだ。
よそ者をからかって、そんなにおもしろいのか。

>私は黙ってウェイトレスをにらみつけた。

>彼女はすまなそうに、うつむいてしまった。
私はちょっとかわいそうな気がして、なるべく優しい口調で聞いてみた。

>「私が食べた料理の値段を知りたいんです。お金を払いますから。
教えてくれないとこのまま帰ってしまいますけど、いいですか」

>ウェイトレスは顔を上げ、不思議そうに言った。

>「あのう、お食事がお済みでしたら
お帰りになっていただいてかまわないのですけれど。
もっと何かお召し上がりになるのでしたら、ご注文くださればお出ししますが…」

>ウェイトレスの表情は真剣だった。とてもふざけているとは思えない。
私の頭は混乱した。ひょっとしたら本当にタダなのだろうか。
ここは、何かボランティアでもやってる店なのか。

>でも、来てる客はそんな、生活に困っているふうにはとても見えない。
全く訳がわからなかったが、私はとりあえずウェイトレスに
にっこり笑って右手をちょっと上げて挨拶し、店を出てみた。

>彼女もにっこり笑って見送ってくれた。後は追って来ない。

>私は狐につままれたような気持ちで、また町を歩き出した。
ほんとにタダだった。
だとすると、あの紳士と飲んだコーヒーも、やはりタダだったのかもしれない。

>なぜだ。なぜ、タダでやっていけるんだ。
その時、私の脳裏に無謀な仮説が浮かんだ。
(ひょっとしたら、この国のものはみんなタダなのかもしれない)

>我ながらとっても無謀な考えだと思った。
後でそのシステムを理論づけることなど
自分にはできっこないという妙な自信まで持ってしまった。

>そんな馬鹿なこと、すべてタダで世の中が成り立つはずはないんだ。


・・・というわけで、この国では、何をやっても、お金がかからない。すべてが、無料で提供されている。

料理店にしても、料理を作るのが好きな人が、ボランティアでやっている。食べた人が喜び、感謝されることが、店主の生き甲斐なのだ。そのために、お店をやっている。

お金は一切、受け取らない。ていうか、もともと、「お金」という概念が、この国には無い。

スピ系の友人いわく、「ある経済学部出身の知り合いに、この本を見せたところ、これは原始共産制の社会だなと言われた」と言う。

「君はどう思う?」と言われたから、筆者は、「いやいや、原始共産制でも、ここまでは行かない。一言で言って、これは、あの世だ。霊界だ」と答えた。

原始共産制というのは、マルクスが唱えた説で、原始人の社会には、貧富の格差がなかった。みんなで海に行って魚を釣ったり、山でウサギやイノシシを狩ったり、森で木の実を拾い集めたりして、何もかも分け合って食べていた。

縄文時代の遺跡を見ても、原始人は、大きなツボを火にかけて、ドングリの実とかをグツグツ煮て食べていた。肉や魚もあったので、かなり良いものを食べていたことが分かる。人口は少なく、自然は豊かなので、なんでも取り放題だ。

それは小さなムラ社会で、村人たちが家族も同然に生きている世界。もちろん、料理店などという高度なサービス業は存在しない。だから、この「お金のいらない国」は、原始共産制とは言えない。

「現代のような都市の文明を捨てて、原始人みたいな小さなムラ社会にすれば、それは可能になる。現在の地球の人口では多すぎるので、かなり減らさなければいけない」というような話をした。

すると、スピ系の友人は、「この鍵を握るものの一つは、ヘンプ(大麻)の活用だろう」と言う。

現在では、大麻は「麻薬であり、危険だから」という理由で、禁止されている。ただし、ヨーロッパの一部の国や、アメリカの一部の州では、禁止されていない。

この大麻は、雑草みたいによく育ち、麻の服も作れるし、食用にも薬品にもなるし、住宅用の建材にもなる・・・という、便利な万能植物だ。これをうまく活用すれば、衣食住が不足するという問題は、大幅に解消される。

確かに、人類が現代の文明を捨てて、自然に回帰していけば、麻の服を着る人が増えるだろう。

いずれにしても、未来の世界では、お金はいらなくなるだろう。どういうプロセスを通って、そうなるかについては、いろいろと考えている。

筆者も、かつては経済学部で貨幣論を学んだこともあるくらいなので、もともと、このテーマに関して、スピ系とは別の角度からの見方をしている。もちろん、話が脱線しすぎるから、ここでそれを展開するつもりは無いけど・・・。

それはともかく、「貨幣こそ諸悪の根源であり、これを無くせば幸せになる」というような、スピ系の過激な意見には、「貨幣」ってものに対する誤解がかなり含まれていると思うし、そのまま賛成は致しかねるんだけど、だからと言って、反対するかって言ったら、そういうわけでもない。そこが、微妙なところ。

実際のところ、「お金のいらない世界など実現不可能だ」とは、まったく考えていない。それどころか、未来の地球は、そういう方向に向かって進んでいくのが自然だと考えている。

(続く)

政府がおカネを配る社会

2014年04月25日 | お金が要らない世界

精神世界には、おカネをトコトン毛嫌いしている人もよくいる。貨幣制度そのものが、「悪魔の発明」みたいに言われているのも、よく見かける。確かに、その気持ちも分かるんだけど、ちょっと極端すぎるかもしれない。

おカネというのは、別に、地球人類を陥れるために悪魔が発明したわけではない。どこの社会でも、だんだん交換が発達してくれば、必ず自然に発生する。

原始人の社会でも、交換されるモノが「イモと魚だけ」とか、そのくらい単純なうちは、「それでは、イモ5本と魚3匹を交換しましょう」という具合に、物々交換でやっていける。

でも、しばらくすると、それじゃ不便になる。交換されるモノが「イモと魚とコメと肉・・・」と、だんだん増えてくると、「何本のイモと何グラムの肉を交換するんですか?」、「魚は要りません。誰か、肉を持ってる人はいませんか?」・・・という具合に、カナリややこしくなる。そこで、貝殻とかコメとか石コロとか、なんでもいいんだけど、何かが交換手段として使われるようになる。「イモは貝殻3個。魚は貝殻5個・・・」という具合に決めておくと、とても取引しやすい。

インターネットの世界では、これをシミジミと実感できる。

2~3年前には、モバゲーやGREEなどのソーシャルゲームが大流行していた(・・・今でも流行ってるのかもしれないが)。ほとんどがカードゲームで、プレイヤー同士が何枚かずつのカードを持ち、強いカードをたくさん持っているほうが勝利する・・・という内容だった。

手持ちのカードで勝負が決まるので、マニアなら、もっと強いカードが欲しくなる。そうなると、マニア同士で「カードを交換しましょうよ」ということになる。でも、カードとカードを直接交換するのは、よほど双方のニーズがマッチしない限り、難しい。相手がたまたま自分の欲しいカードを持っていて、逆に自分も、相手が欲しいカードをたまたま持ってなきゃいけない。これだと、交換取引が成立しにくい。

そこで、ゲームで使われるアイテム、「回復ツール」とか「メダル」とか、そういうのがゲーム内の通貨として使われるようになる。「このカードがメダル120枚とは、高いな。もうちょっと値下げしてくれ」とか、「このカードをメダル70枚で買えるとは、安くてオトクだな。よし、これを買って、90枚で転売しよう」・・・という具合に、日々の取引が行われる。

そんな中で、「このカードは、メダル150枚くらい」とか、「そのカードは、メダル30枚くらい」というような相場が、自然にできてくる。もっと強いカードが新たに出てくれば、古いカードの相場は下がる。メダル120枚くらいが相場のカードを、200枚で売ろうとしても、まず買い手はつかない。そういうときは、値下げするか、もしくは、相場を知らない初心者を騙して売りつけるしかない(笑)。

これは、どんなゲームでも、自然発生的に必ずそうなる。誰が決めるわけでもなく、自然にそうなっていくところが興味深い。

結局のところ、世の中に「おカネ」なんてものが、なぜ存在するのかといえば、ないと不便だからだ。要するに、おカネとは、「便利な道具」だということ。道具である以上、うまく活用すれば、世の中を変えることができる。

それなのに、どうして、おカネがこれほど罪悪視されるのか。なぜ、「諸悪の根源」とまで言われるのか。

それは、世の中に、おカネがなくて困っている人が多いからだ。ものすごく困って、そのために死ぬ人まで出てくるから、問題がある。

その一方では、おカネが余って余って仕方がない人というのも、確実に存在する。しかも、そういう人のところに、おカネがさらに集まってくる傾向がある。これは、シャレにならない問題だ。

筆者の知人にも、毎月、月末が近づくと、どんなに疲れていても銀座のクラブに行く人がいた。というのも、年間所得が何千万円、億単位というような人は、高額の所得税に悩まされている。税金対策のためには、年に1千万円とか、交際費を必ず使わなければいけない。それも、「毎月100万円」とか、決まった額をコンスタントに使っていなければ、税務署は認めてくれない。

でも、忙しい人にとって、交際費を月100万も使うのは大変なことだ。毎晩、パーティーをして過ごすわけにもいかない。だから、月末が近づくと、予算を消化するため、銀座のクラブに行くことになる。「座っただけでウン万円」の高級クラブに行くのだが、仕事で疲れているから、そこで寝る。グーグー眠って、予算を消化する。実際に、そういう人がいた。

オバマ大統領と安倍首相が、銀座の高級すし屋に行って話題になった。ここは、十席ほどのカウンター席があって、メニューは1人3万円~のおまかせコースのみ。しかも、20~30分で食べ終わって すぐに出て行かなきゃいけない。客は、出されたスシを黙々と食べて、会計で3万円を支払って出て行くだけ。1杯300円の牛丼屋と違うのは、「高級だ」ってことくらいだ。

そんな店が、VIPや海外セレブの御用達として有名で、予約がずっと先まで満杯だという。これというのも、上に書いたような、「忙しいけど、交際費の予算を消化しなきゃいけない人」がいるからだ。そんな人にとっては、「打ってつけのファーストフード」なんだそうな。

「おカネは、有るところには有るものだ」とは、よく言われることだけど、まさしく、その通り。

おカネというのは、カチコチに固まっているものではなく、水のように世界を循環している。水みたいなものだから、そこらじゅうで川のように流れている。どこかに池や湖のように溜まっていることもある。世界全体には、膨大な海の水のように存在している。その中から、ホンの少しを引っ張ってきただけで、「お金持ち」といわれるようになる。

おカネは、そのくらい柔軟なものなのだ。だから、柔軟な発想でこれに接すれば、まったく違って見えてくる。

前の記事に書いたような、「政府が、国民におカネを配る社会」というのも、柔軟な発想の一つだろう(笑)。

戦時中は、食糧が不足して、皆がお腹をすかせていた。そういうときは、政府が国民に、食糧を配給する。このように、モノが足りないときは、モノを配る。

でも、今はそうではない。モノが余っている。特に工業製品は、大量に過剰生産されている。作りすぎると売れ残って困るからホドホドに抑えてるだけで、その気になれば、もっともっと、いくらでも作れる。「これ以上は、もう要らないよ」というところまで、作ろうと思えば作れる。問題は、それを買う側に、おカネがない・・・ってことだけ。こういうときは、おカネを配ったほうが効率がいい。

要は、「おカネがなくて困る」という、地球人類の苦悩の原因を取り除けば良いのである。そのためには、「おカネをなくす」のではなく、むしろ逆に、「おカネをバラまく」ことが、解決への近道になるだろう。

世の中は、しょせん「需要と供給の法則」だ。大量にバラまかれたものは、だんだん価値が落ちてくる。おカネのありがたみは、次第に薄れてくるだろう。最終的に「おカネが要らない社会」を目指すためには、このプロセスを通らなければいけない。


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改めて、お金が要らない世界

2014年04月23日 | お金が要らない世界

ずっと前に書いた、「ベーシックインカム」に関する記事に、なんと感想のメールが届いた。ありがとうございます。

ベーシックインカムとは、政府が国民全員に、一定額のおカネを配るという制度。現在は一部の人に偏っている年金や生活保護の制度を、すべての国民に広げるという感じ。

一見すると無理な制度みたいだけど、決して不可能ではない。今でも日本の社会保障費は膨大なものだ。おカネの配り方を変えれば、薄く広く、対象を広げることは十分に可能となる。

これをやると、「人は働かなくなる」とよく言われるんだけど、そんなに多額のおカネにはならないから、心配しなくてOK(笑)。

まあ、それを現実に実行するかどうかはともかく、「おカネがなくても困らない社会」を、そろそろ真剣に考えてみてもいいんじゃなかろうか。

もちろん、世の中には過激な人もいて、一足飛びに「貨幣制度を全廃せよ」と唱える人もいる。でも、いきなり最終目標まで跳躍するのは、さすがに無理というものだ。

まずは、「おカネがなくても、必要最低限の生活は維持できる社会」が目標だろう。デフレが長く続いたおかげで、今でも、低価格なモノが世の中にあふれている。その気になれば、相当に低いコストで生活することが、日本でも可能になってきている。もう、あと一歩という感じだ。

アメリカでは、フードスタンプの配給に行列ができている。農業が盛んなアメリカは、余った食糧をさばくためにも、貧乏な人にフードスタンプを配って、食べるのには困らないようにした。失業者だけでなく、働いているのに食べていけない「ワーキング・プア」も多い。でも、これがあれば、スーパーの売れ残りの食品とかと交換できる。
  

日本でも、わざと夜遅くにスーパーへ行き、賞味期限が切れる寸前で値引きしたお惣菜を狙う人がよくいるけど、それに似ている。「おっ、店員が来て、30%値引きのシールをペタペタ貼ってるな。もうちょっと待てば、半額になるんじゃないか?」という感じ(笑)。
 
こういうのも、デフレだから出来ることだ。

日本では、アベノミクスが実施されて一年余りになる。金融緩和こそ、アベノミクスの肝だ。要するに、通貨を発行する日本銀行が、ジャンジャンとおカネを発行して、世の中に流すということ。

もちろん、インフレの時代にそれをやれば、おカネの価値がますます下がり、物価が上がって大変なことになる。それは、真夏の暑いときに暖房をつけるようなものだ。

でも、今の日本のようなデフレの時代には、きわめて有効な手段になる。真冬の、凍りつくような寒さのときに、暖房をつけるようなものなのだ。そんなときに、冷房をきかせる人はいない。それと同じこと。

でもって、日本銀行が、国債をバンバン買い取る。百兆円でも、二百兆円でも、ドンドン買う。国債は、政府の借金だけど、日本銀行は、なんたって「円」の出ドコロだ。ここに政府の借金を引き受けてもらえば、政府は実質的に、返す必要もなければ、利息を払う必要もなくなってしまう。つまり、その分だけ借金が無くなったも同然。

インフレのときに、これをやったら、とても危険なことになる。それでなくても、やりすぎると信用をなくす。でも、デフレのときには有効だ。

あとの問題は、そのおカネをどうやって国民に配るかということだけ(笑)。

かつて中国では、内陸部の貧しい農民に金券を配り、電化製品を買わせるという手法で、景気が悪くなるのを防いだ。

「世界の工場」と化した中国では、大量の商品が過剰生産されている。アメリカのフードスタンプと同じで、なんとか、余ったモノを国民に買わせたい。でも、貧乏な人が多すぎて、買えない。そこで、おカネを配るのだ。そうすれば、電化製品が売れて景気が良くなる。

これを見て、「さすがは、中国。人口が多いという利点を生かした、斬新な景気刺激策だな!」と感心した人は多かった。

「政府が、国民におカネを配る」というアイデアは、決して突飛なものではない。豊かな暮らしをしたい人は、もっと働いて稼げばいい。そこは、選択の自由というもの。

どの国の例を見ても、「モノが余っている」というのが、この話の前提だ。モノ不足でみんなが困っているような、生産力の低い社会では無理。つまり、生産力が高い、21世紀の世界だから出来ること。ここまで来れば、「おカネが要らない世界」が、地平線の向こうから姿を現してくる・・・。

(続く)

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ベーシックインカムが実現したら、どうなるか

2013年05月30日 | お金が要らない世界

「政府が、国民全員に、一人アタマいくらで一律に現金を支給する」という、ベーシックインカム。

一見すると、夢の制度みたいだけど、今でも日本の社会保障費は巨大なので、それをこの制度に入れ替えることを考えれば、それほどムチャな話ではない。

でも、専門家がベーシックインカムの話をすると、「財源をどうするの?」という話より、「そんなことをすれば、人は働かなくなるんじゃないか?」という反応の方が多いらしい。さすがは、世界に冠たる勤勉の国、日本だ。

実際には、ベーシックインカムだけでは満足できず、働いて、もっと稼ぎたい人が多数派になるだろう。たとえ高額所得者になっても、給付を打ち切られないのが、生活保護や失業保険と違うところ。

それでも、「ベーシックインカムによる最低限の生活でいいや」という人も出てくるだろう。それはそれで、人それぞれの生き方だという割り切りが必要だ。

「働くことは働くけど、今までほどには働かない」という人だって、出てくるはずだ。それは余暇の増大につながる。

日本はまだ、そこまでヒドくないけど、スペインでは若年層の半分くらいが失業している。失業をなくすためには、一人一人が、仕事量を今までの半分に減らす必要になる計算だ。もちろん、一人で二人分も働くような人は、その分だけ失業を増やすことになる。

「勤勉は、個人にとっては美徳だが、社会にとっては、そうではない」と言われるのは、そのためだ。


おカネにならない仕事に打ち込む人は、確実に出てくるだろう。何も、いわゆる「ボランティア活動」だけではない。もっと重要なのは、家事とか育児、家庭内の教育だ。

おカネに換算した生産性は、さすがに下がるだろう。その分、経済はマイナス成長することになるけど、それがすべてではない。日曜大工とか、工芸品を作る人だっているだろうし。アマチュア・アーティストのレベルは、格段に上がるだろう。それだって、一種の生産活動だ。


よく言われるのは、「低賃金で、キツイ、汚い、危険」な仕事を引き受ける人がいなくなるんじゃないか、ということ。でも、世の中は需要と供給の関係だ。働き手が確保できなければ、賃金が引き上げられることになる。

ただし、現実には恐らく、低賃金労働はますます外国人労働者が中心になると思われる。支給対象を「日本国籍がある人」とすれば、外国籍の人には不利だ。社会的な緊張感は、確実に高まることだろう。世の中、いいことばかりではない。「究極的には、人類全員にベーシックインカムを」というような、理想論に走りやすいところだけど、なかなかそうもいくまい。

アメリカでは、「イラクで戦うアメリカ兵には外国籍の人が多くて、ここを耐え抜けばアメリカ国籍を取得できる」というような制度になってるそうだけど、もし日本でベーシックインカムが実現したら、日本もそういう風になる?


ベーシックインカムの財源は、今の制度を改編しただけでも、手が届く範囲にある。でも、この制度をさらに拡大し、安定的に継続していくためには、さらなる財源が欲しいところ。

そのためによく言われるのは、「期間限定通貨」だ。

つまり、政府がおカネを発行して、みんなに配るわけだけど、じゃんじゃん刷ってたんじゃ、いつかはインフレになる。それを防ぐために、一定期間を経過したらノックアウトされるようにする。

「急いでおカネを使うから、消費の振興にもなって一石二鳥」と言われる策だけど、受け取り拒否されるのが心配だ。それ以前に、金券ショップで交換されるようになるのは確実だろう。使用期限の終わりが近づくにつれて、交換レートは下がることになる。


いずれにしても、「生きてるだけで、最低限の収入は保障される」という、この制度。これが定着して当たり前になれば、追い込まれて生きるのが当たり前だった地球人類の、人生観に革命を起こすのは確実だ。

世界における人間の役割は、生産することから、消費することに重点が移る。

経済問題をなんとかしない限り、このサバイバル世界は変わらない。これは、意識進化とはまた別の問題だ。根本解決が、もっと考えられてもいいところだろう。


ベーシックインカムの財源 ~ 意外と、手が届く範囲

2013年05月29日 | お金が要らない世界
 
それにしても、財源をどうするかは別にして、「政府が国民全員におカネを配る」というアイデアは、なんとも魅力的だ。

最近は風向きが変わりつつあるけど、世の中は、ずっと景気が悪かった。モノが売れなくて、みんな困ってた。一方、おカネがなくて困っている人は、もっとずっと多い。

数年前、筆者が都心のオフィスでサラリーマンをやってた頃、同僚がやってきて、「悪い。千円ほど貸してくれないか」と言われたことがあった。聞けば、離婚してからというもの、月々の支払いが大変で、給料日前には非常に苦しくなるらしい。電車賃がなくて、このままじゃ埼玉の自宅まで歩いて帰らなきゃいけないというので、聞くほうも焦った。

そんな話は、いまどき珍しくもない。世の中、おカネに困っている人は、見た目以上に多いのだ。この問題をなんとかしないことには、ユートピアの実現はあり得ない。

「いっそのこと、政府がおカネをじゃんじゃん刷って、みんなに配ったらどうなのよ?」という考えは、誰のアタマにも浮かぶんじゃなかろうか。実際、おカネが足りない人が多いんだから、政府からもらったおカネは、あっという間に使ってしまうことだろう。消費は、確実に伸びることになる。

でも、いくら日本が構造的なデフレ社会とはいえ、あまりにムチャをすれば、さすがにインフレになるだろうし。その辺りの配分をどうするかが、問題だ。


気になるのは、財源だろう。たとえば、1億3千万人に平均で月々10万円を支給するとすれば、合計で月13兆円になる。年間で、156兆円という途方もない支出になる。

でも、ウィキペディアの「ベーシックインカム」によれば、いまだって、増税しなくても、月5万円程度の給付は可能になるらしい。


>山崎元の試算によれば年金・生活保護・雇用保険・児童手当や各種控除をベーシックインカムに置き換えることで、1円も増税することなく日本国民全員に毎月に4万6000円のベーシックインカムを支給することが可能であるとする。

>小沢修司も月額5万円程度のベーシックインカム支給ならば増税せずに現行の税制のままで可能と試算している。



「今までの社会保障費をベーシックインカムに置き換える」というのがポイントだ。それは、国の年金とか、生活保護や失業保険の給付がなくなり、その代わりにベーシックインカムを導入するということ。つまり、今までの社会保障で、もっと多くもらっている人にとっては、収入が減ることになる。それをどうするかは、また別の問題。

それにしたって、いまでも、その気になれば国民全員に一律5万円を配ることが可能だとは、日本の社会保障費の巨大さに、いまさらながら驚いてしまう。


日本の社会保障は、一年に、医療で30兆円、介護・生活保護・年金・雇用の合計で70兆円、合計100兆円くらいの支給をしている。年間100兆円ということは、経済成長しなくなって久しい日本のGDP500兆円と比べて、約5分の1に達する。

社会保障予算の大きさは、日本の経済規模の5分の1。なんだか覚えやすくて、話のタネに良さそうだ。

この100兆円は、税金でまかなわれているわけではない。

このうちの60兆円くらいが、個人や企業からの社会保険料でまかなわれている。サラリーマンなら、給与天引でいつも引き落とされているものだ。

残りが、税金から補填されている部分。これは、国の一般会計から30兆円、地方税から10兆円くらい出ている。



上にも書いたように、計算をカンタンにするため、「大人も子供も区別せず、全員一律に月10万円ずつ支給する」とすれば、年間で156兆円になる。今の社会保障費が、医療を除いて70兆円だということを考えると、2倍ちょっとということか。

でも、「全員一律に月10万」というのは、人によっては、意外にも大きな収入になる。というのも、ここが肝心なトコなんだけど、「世帯ではなく、個人に支給される」というのが、ベーシックインカムの特徴だ。

つまり、結婚して(・・・ていうか、結婚する必要もない。同居人で十分)、2人暮らしなら、合計で月収20万円になる。両親に子供3人の5人家族なら、なにもしなくても月収50万円だ。これはさすがに、払いすぎかもしれない。

これを半分の月5万円に減らせば、5人家族の月収が25万円。独身者も、無理やり結婚して夫婦で月10万円もらってれば、ギリギリの貧乏ライフならできそうだ(笑)。

ここで、「ボクは、月5万円なんかじゃ暮らせないよ」というのは、早計だ。ここが肝心なトコだけど、「対象者を選ばず全員一律」というのが、ベーシックインカムの、もうひとつの特徴。つまり、生活保護とか失業保険とは異なり、収入ができたからといって、支給が打ち切られるワケではない。

これは、バイトで月10万も稼げば、ベーシックインカムの5万円と合わせて、月収15万円になるということ。家賃次第だけど、独身者なら、ゼイタクしなきゃ十分に生活できるだろう。


以前から、本ブログでも、ベーシックインカムについてのコメントがときどきあった。筆者は、「そんな、年間50兆だの100兆だの、逆さにして振っても出てこないでしょうが」という感じで、実現はあり得ないと考えてた。

でも、日本の社会保障費は、今でも十分に大きい。こうして見ると、意外と手の届く範囲にあるということが分かる。その気になれば、今でも、月5万円程度のベーシックインカムは十分に可能。ここから、話をスタートする必要がある。


追記・・・ただし、「今のままでも」という前提が、すでに苦しい。というのも、今でも、日本の社会保障特別会計はトテツもない大赤字で、税金から合計40兆円を補填している状況だからだ。これは、財政赤字のかなりの部分を占めている。

それから、今までみたいな、「毎月の給料から社会保険料が天引きされる」という制度はなくなるので(医療を除く)、その代わりに税金を徴収することになる。どういう形で税金を取るかは、また別の問題・・・。