宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

【美談】サッカーの試合中にネコを助けたゴールキーパー

2009年11月30日 | こっくり亭日記
AFPニュース
 
東欧・バルカン半島の国、クロアチアから美談が届いた。
 
クロアチアといえば、人口は数百万しかいない小国だが、サッカー界ではかなりの大国だ。ユーゴスラビア分裂で独立し、98年のフランス・ワールドカップでは、初出場で3位になった。同大会では、日本代表も初出場。当時の日本代表は、静岡県出身者が多かった。クロアチアの人口は、静岡県とあまり変わらない。ある静岡県出身者が、「これは、静岡とクロアチアの戦いだ」と言っていた・・・。
 
あの三浦カズもクロアチア・リーグでプレーし、「ここでは、サッカーが文化になっている」という名言を残した。
 
そんなクロアチアの首都ザグレブで、22日に行われたクロアチア1部リーグのシベニク(Sibenik)対メジムリエ・チャコベツ(Medjimurje Cakovec)戦で、椿事が発生した。

試合前半20分。メジムリエ・チャコベツ側のゴール付近に、なんと、1匹のネコが迷い込んできた。サッカー場は、ものすごい速さでボールが飛び回り、選手が走り回っている。このままでは、ネコは踏んだり蹴ったりで、大変な目に合いかねない。
 
驚いたゴールキーパーのイワン・ボノビッチ(Ivan Banovic)選手は、ネコを拾い上げて、スコアボード付近の安全な場所へ避難させたという。
   
厳しい勝負の場で、1匹のネコを救ったゴールキーパー。残念ながら、「審判の許可無くピッチを離れた」という理由で、ただちにイエローカードを食らった。ついでに、試合にも負けてしまった・・・。まさしく、踏んだり蹴ったりだ。
 
またしても、「地球では、愛に生きる者は敗れ去る運命にある」という、冷徹な地球の原理がわれわれに示されたと言える(泣)。
 
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かつては雨が降っていた? 火星の地図

2009年11月30日 | こっくり亭日記
AFPニュース
   
米航空宇宙局(NASA)の人工衛星から得られた地形データを元に、北イリノイ大学の研究チームが、火星の詳細な地図を作成した。地図といっても、道路も鉄道もないのだから、単なる地形図なのだが・・・。

その結果、驚くべき事実が浮かび上がってきたという。
 
火星の地図をじっくりと眺めてみれば、どう見ても、かつては広大な海の底だったとしか思えない地形と、雨で削られた跡としか思えない大峡谷があるというのだ。

大峡谷といえば、地球では、北米大陸の「グランドキャニオン」を真っ先に思い浮かべる。これはコロラド川の水が、長年かけて大地を浸食してきた跡だ。してみると、火星も、かつては川が流れ、雨が降る湿潤な気候であったのか――。
   
記事によると、同大のWei Luo教授(地理学)は、「峡谷が広範囲にわたって比較的高い密度で存在することは、これらの谷が、降雨により土が流出する侵食で形成されたことを物語っている」と述べているという。
 
とは言っても、地球ほど水が多かったわけではない。降雨は、北半球の海と、その近くに限られていたと考えられている。「雨で侵食された」という南の峡谷群は、北の海から離れるにつれて浅くなり、やがて、なくなってしまう。
 
「火星に、海や川はあったか」というのは、今に始まった議論ではない。これは、1971年の「マリナー9号」による火星探査で「大峡谷」が発見されて以来、長らく議論が続いている。
  
火星では、すでに地下の巨大な氷塊などが発見されている。火星に水があるのは間違いない。火星の峡谷が、水による侵食でできたということは、多分そのとおりなのだが、問題はそれが地下水による侵食なのか、それとも雨が降っていたのか・・・ということ。
   
雨が降っていたのなら、現在とは環境が大きく異なっていたことになる。「かつて、火星には超古代文明があった」というのは、数多くのチャネリング情報で言及されている。これは、チャネリング・ファンにとっては見過ごせない問題だ!?(笑)
 
長年にわたって激論が続いているテーマなのだが、おそらく、さらに詳細な地表の調査が進めば、はっきりするだろう。
 
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霊魂は、自分なのか

2009年11月27日 | 精神世界を語る
      
「あの世はあります。人は生まれ変わります」といった、教祖のご託宣を聞いて、「私は究極の真理に目覚め、目からウロコが落ちました」と大喜びの信者を、しばしば見かけます。
 
「身体は、ほんとうの自分ではなかった」という気づき。では、身体が自分でないのなら、何が自分なのか。

それは、「心」であり、「精神」であり、ひいては「霊魂」・・・ということになるでしょう。生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する自我。それこそが、「ほんとうの自分だ」というのだ。
 
もちろん、それ自体は良いのですが、そこにとどまっていたのでは、精神世界の探求者として奥義に参入するのは難しい。
 
「身体は、ほんとうの自分ではない」というのは、精神世界ファンなら、誰もが思うこと。それは「究極の真理」などという、ゴールではありません。むしろ、「これから精神世界談義を始めましょう」という、スタートラインと言ったほうがよい。

精神世界関係者の常識は、世間にとっては非常識なのが普通です(笑)。この分野のマニアなら、「身体が自分である」と思ったことなど、「生まれてこのかた、一度もないよ~」というくらいが、むしろ普通なんじゃないでしょうか。筆者も、そう思ったことがありません。
 
身体は、ほんとうの自分ではない。では、人間から身体をとったら、何が残るのか。残るのは、霊魂だ。
 
そこまでは、いい。でも、そこからもう一歩踏み込んでこそ、真の探求者というもの。「それでは、霊魂は、ほんとうの自分なのでしょうか」というのが、次のテーマになります。というより、ここからが真のテーマと位置づけられる。
 
ここで、「いや、霊魂も、ほんとうの自分ではないのだ」という考え方が登場してきます。この考え方の代表格といえば、なんといっても、人類史上最高の聖者・ゴータマブッダ釈尊でしょう。
 
お釈迦さまが「無我」(アナートマン)を唱えたのは、よく知られています。生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個人の実体を、「アートマン」と呼ぶ。そのアートマンを否定するから、アン・アートマン。無我とは、霊魂の否定を意味します。
 
仏典を見れば、「OOは自分ではない」、「XXは自分ではない」・・・のオンパレード。その「自分ではない」というものの中には、思考・感情・意志・・・その他もろもろの精神作用がすべて含まれる。それらをひとつひとつ否定していくと、最後には何も残りません。通常、「精神」もしくは「霊魂」と呼ばれているものが、すべて消えてなくなってしまいます。
 
実際のところ、「霊魂は、存在しない」というよりも、「霊魂は、自分ではない」という方が、釈尊の教えの真意に近い。こういうのを、「無我」に対して、「非我」と言います。
  
これはちょうど、タマゴに例えられるでしょう。
 
身体というのは、タマゴでいえば「カラ」に相当します。世間の一般人が、自分だと思っているのは、これ。でも、精神世界ファンにとっては、そんなの関係ない。
 
カラをむいたら、「白身」が出てくる。ここからが、ほんとうのスタート。白身はほんとうの自分なのだろうか。そうでないとしたら、その奥にある、「黄身」こそが自分なのか。いや、黄身でさえも、だいぶ怪しくなってきたな・・・。
 
探求してみたところ、白身は、自分ではなかった。さらに探求を進めてみれば、黄身でさえも、自分ではないということが分かった。
 
つまり、残るのはカラッポ。結局のところ、「霊魂は存在しない」(無我)と言ってみても、「霊魂は自分ではない」(非我)と言ってみても、結果は変わらないのであった・・・。
  
やっぱり、我は無い。そういう結論にならざるを得ない。残るのは、大いなるすべて・・・!!
 
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恐怖は、時間の産物

2009年11月26日 | 精神世界を語る
    
愛の反対は、恐怖。

恐怖は、神と人とを無限に遠ざけてきた。人と人との距離も広げてきた。戦争や革命も、恐怖から起きる。恐怖こそ、地球における諸悪の根源・・・。
 
そうなると、「では、恐怖を克服しましょう」となるのが自然な流れでしょうが、そう簡単にいくはずもありません。壊れやすくて再生困難な肉体を持ち、生活のために衣食住を常に必要とし続けるのが、地球人。快楽と苦痛の落差は、極端もいいとこ。これじゃ「恐怖を持つな」と言っても無理。なんらかの理由で恐怖心が完全にマヒした人は別にして、通常は避けられないでしょう。

でも、クリシュナムルティによれば、恐怖から逃れることは、十分に可能だという。

いわく、恐怖は、未来に対して起きる。未来のことさえ気にしなければ、恐怖は起きない。
 
確かに、恐怖や不安は、「OOやXXというようなことが、起きちゃったらどうしよう」といった、将来の出来事に対するものが、ほとんど。「現在の、この一瞬に不安を感じる」という人は滅多にいません。
 
たとえば、「空から隕石が落ちてきて、頭に当たったらどうしよう」と、心配でいても立ってもいられなくなった人がいるとします。でも、現在の一瞬においては、まだ隕石が落ちてきているわけではない。それどころか、見上げれば、雲ひとつない澄んだ青空。隕石のカケラも見当たらなかったりする。結局のところ、それは単なる取り越し苦労。将来のことを気にするから、不安になるのです。現在の一瞬に集中してさえいれば、そんなことを気にしなくてもすむ。もっとも、次の瞬間には、ほんとうに隕石が落ちてきて、ガツンとやられるかもしれませんが・・・。
 
人は、過去から未来へと流れる時間の中で、さまざまな苦い経験を重ねてきています。そういう過去の記憶が、未来への不吉な予感へとつながり、恐怖や不安を引き起こす。
 
未来について考えず、現在に集中すれば、何も心配することはない。犬や猫は、「将来、エサがなくなったらどうしよう」と心配して、くよくよ悩んだりはしません。現時点で食べるものがなかったら、はじめてワンワン、ニャーニャーと大騒ぎする。将来のエサのことなど、少しも気にしていません。明日は明日の風が吹くという、割り切りが感じられる。いつも幸せそうなのは、そのためでしょう。

 
 
恐怖や不安は、「時間」の観念がもたらしたものだと、クリシュナムルティは断言する。
 
恐怖は、諸悪の根源。その恐怖の元凶は、時間。つまり、時間は諸悪の根源の、そのまた根源・・・。

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思考や感情は、自分ではない

2009年11月26日 | 精神世界を語る

愛の反対は、恐怖。

もっとも、「日ごろ、恐怖におののきながら生きている」というような人は、周囲にもあまり見かけません。世間の一般人の精神生活を覆っているのは、「恐怖」とまではいかないけど、「漠然とした不安」というようなものか。
 
不安の中でも、最大の不安は、「死」に対する不安でしょう。生活も仕事も、いろんな喜怒哀楽も、しょせん、生きてる間だけのこと。死んでしまえば、それは終了する。しかも、死を避けて通るのは無理。誰にでも、いつかは必ず訪れる。

まるで、そのうち必ず燃料切れで墜落すると分かっている、小さな飛行機で飛んでいるようなものだ。墜落してしまえば、何もかもオシマイ。それ以前に、墜落すること自体が怖い。地面に激突して、大変な目に合いそうだ。でも、いずれ100%の確率で、確実に墜落する。
 
将来にこれほどの不安要素を抱えているにもかかわらず、なぜ、世間の一般人は、平気な顔をして生きていられるのでしょうか。かの高名なる「20世紀最大の哲学者」・ハイデッガーによれば、「人はいつか死ぬ。だが当分の間、自分の番ではない」という信念が、それを支えているという。要するに、「自分はまだ死なないと思って、とりあえず生きている」ということ。
   
「17世紀最大の哲学者」・デカルトの格言といえば、「われ思う、ゆえにわれ在り」。夜中に、暗くて静かな部屋で、ああでもない、こうでもないと考える。自分の周囲には、何も見えないし、聞こえない。世界そのものが空虚に思えてくる。しょせん、すべては仮の姿。この世は、仮の宿り・・・。でも、ここでアレコレ考えている自分だけは、まちがいなく実在すると言えるんじゃないか。「やっぱり、自分は実在するんだな!!」と確信する瞬間だ。
 
西洋哲学に不滅の金字塔を打ち立てた格言に、ハイデッガーは異論を唱えてみることにした。そのココロは、「われ思う」などと言えるのも、しょせん、生きてる間だけの話じゃないの。死んでしまった後で、どうして「われ在り」などと言えるのか・・・ということ。
 
実に鋭いツッコミだ。言われてみれば、確かにそのとおり。グウの音も出ない。「霊魂の不滅」を前提とした西洋哲学の輝かしい伝統は、ついに最後のトドメを刺されたか・・・。

しかし、21世紀に入って、意外なところから別の異論が登場した。現代における精神世界のオピニオン・リーダー、エックハルト・トールの登場だ。

いわく、「われ思う」というのは、ほんとうの自分が思っているのではない。そもそも、「思い」や「考え」といった、自分ではないものを、自分だと誤認するのが間違いのもとなのだ。

デカルト大先生は、あまりにも深く考えすぎたせいか、「思考」を自分だと錯覚してしまった。まったく、人間、意外なところに落とし穴が隠れているものだ・・・。

それにしても、思考や感情が「自分ではない」とは、どういうことなのか。

「身体は、ほんとうの自分ではない」。これは、精神世界ファンなら、誰もが思うことでしょう。

身体が自分でないのなら、何が自分なのか。それは、心であり、意識であり、精神、霊、魂・・・などであるとされる。

でも、そこでもう一歩踏み込むのが、真の探求者というものだ。身体が自分ではないのと同様、「思考」や「感情」もまた、「自分ではない」ということに気づくのは、簡単なようで難しい。

身体がタンパク質やカルシウム・鉄分その他・・・で出来ているのと同様、「心」とか「精神」と呼ばれるものは、思考や感情で出来ています。これらが、「自分ではない」という度合いにおいて、物質や身体と五十歩百歩だというのだ。これは意外・・・!!
 
でも、よく考えれば、意外ではありません。「心」が、いかに真の自分にはホド遠いか。それを知るには、まずは自分自身が日頃、思うことや考えることを、じっくり観察するに限る。どれほど、物質界特有の破壊的な渾沌に、思考や感情が支配されているか。必ずや、身につまされるであろう・・・(笑)。
 
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ワンダラーは、覚醒の起爆剤となる

2009年11月23日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々

            
ワンダラー(他の惑星から、地球に転生してきた人)は、一見、普通の地球人と変わらないのだが、魂は宇宙人そのものだ。ワンダラーの地球生活は、たいていの場合、大きな困難を伴う。制約が多くて過酷な地球環境で生きていくのは、地球生活に慣れた土着の魂を持つ人々にとっても、容易なことではありません。まして、「異邦人」ではなおさら・・・。
 
でも、なんのためにワンダラーが地球に大勢いるのかといえば、「覚醒の起爆剤になるため」というのが、最大の目的と言えるだろう。

人類の多くは、相変わらず、日常生活に埋没した日々を送っている。特に、現在のように世の中が不景気だと、さらに日常生活に汲々として、他のことに目を向ける余裕もなくなってくる。

もちろん、それ自体は悪いことではない。変な新興宗教にハマッたりするよりは、よほど健康的だろう(笑)。 でも、「これから良い世界になっていく」というような期待感がしぼみ、冷めたムードが蔓延するのは残念なことだ。
 
こんなときこそ、ワンダラーの出番。地球人類が急速に覚醒する時期を迎えた今、「最初に覚醒する人々」が必要だ。覚醒した人々の精神的な影響力は大きく、加速度的に広がっていく。「覚醒の起爆剤になる」というのは、そういうこと。いわば、呼び水になることを意味する。地球的でない意識を持つ人々が、ここに大勢やってきているのは、そのためだろう。
   
でも、ワンダラーの人生は、かなりの困難を伴うのが普通だ。あまりにも地球的でない精神生活と、あまりにも地球的な日常生活とを両立させることは、非常に難しいと言わざるを得ない。多くのワンダラーは、慣れない地球環境で生き抜くことに必死。心の病を抱えて、沈んでいる人々も少なくない。そんな現実の中、いかにして、ライトワーカーに変身するか。 
  
難しい状況なのは確かだけど、とりあえず、今までどおり、これからも意識の覚醒に向かって、精神世界を探求していくしかないでしょうな・・・(笑)。
 
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急速に進化する、サイボーグ技術

2009年11月22日 | こっくり亭日記

          
WIRED VISION
 
サイボーグ技術が、急速に進歩している。アメリカでは、すでに「サイボーグ昆虫」が登場している。これは、生きたカブトムシや蛾に電極を埋め込み、電気的な刺激を与えることによって、思い通りに操縦するという驚くべき技術だ。動画を見ると、まさに驚異。あまりにも凄すぎて、事情を知らない人には、昆虫がジタバタ飛び回って暴れているようにしか見えない・・・。アメリカ国防総省が、「小さな偵察要員」として本気で育成しているという。これは、怖い!!
 
もはや科学技術は、脳と機械との間で、直接に電気信号をやり取りする時代に入っているのだ。
 
実用化が最も著しいのは、人工内耳だろう。耳が聞こえない人の内耳に機械を埋め込み、鼓膜の振動をダイレクトに脳へと伝える。幼児期に埋め込んだ方が、大人になってからも効果が高いという。電子眼の技術も、急速に進歩しているという。この技術が普及した暁には、手術さえすれば、誰でも目が見えるようになる・・・。

「脳からの電気信号で、ロボット義腕を動かす」といった技術も、急速に進歩してきた。サルが、ロボット義腕でエサを食べるという動画も、驚天動地。一見、機械の中に閉じ込められたサルが、エサをむりやり口の中に押し込まれているように見えるのだが、実はそうではない。サルは、脳波から指令を発することにより、自分の意思でロボット義腕を動かしているのである。
 
この調子で技術が進歩していけば、人類は肉体的な障害を克服できるだろう。手足はもちろん、耳や眼も人工の器官につけかえて、いつまでも健康で生きていくことができる。SFには、肉体の器官の大半をつけかえてしまったサイボーグ人間が、よく登場する。いよいよ、それも夢ではなくなってきた。もっとも、すべては、本人の寿命が尽きるまでの話だが・・・。

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2009年 今年の冬は寒くなりそうだ

2009年11月22日 | 異常気象
     
ここ数日、首都圏は急に寒くなり、一気に冬景色モードへと突入した。テレビのニュースでも、「真冬なみの寒さとなりました・・・」という言葉が飛び交っている。
 
そういえば、今年の夏は妙に涼しかった。ビールがさっぱり売れず、不景気を助長してしまった。いつも天気が悪くて、気温が上がらない。

根本的な原因は、どうやら、太陽の活動低下にありそうだ。太陽の活動が活発かどうかをはかるバロメーターは、なんといっても、黒点。勢いよく燃え盛っているときの太陽は、数多くの黒いボツボツができるので、すぐ分かる。逆に、勢いがないときは、黒点の数が減り、太陽の表面はノッペラボウみたいになる。

現在、黒点の数は、通常なら増える周期に当たっているのだが、なぜかここ2~3年、記録的なまでに黒点が少ないという。先日は「久々に黒点が出た」というのがニュースになり、本ブログでも取り上げたものでした。
 
いまや、地球温暖化を心配するはずが、むしろ寒冷化を懸念する声が出てきた。このままでは、「二酸化炭素の排出量を増やし、温室効果で氷河期の到来を遅らせよう」という議論が出てきかねない情勢となってきた(笑)。
   
もっとも専門家の調査によると、今後、太陽活動が再び活発化する可能性は、決して小さくないという。「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉もあるけど、地球の暑さや寒さは、やっぱり、お日さま次第。ここはひとつ、太陽にがんばってもらわなければ・・・。
 
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「愛」の反対は「恐怖」

2009年11月20日 | 精神世界を語る
 
通常、「愛」の反対としては、「憎しみ」とか「嫌悪」とかをイメージするものでしょう。
 
でも、精神世界ジャンルにおいては、「愛の反対は、恐怖である」という認識が定着してきています。これには、やはり「ACIM ~ 奇跡のコース」の影響が大きい。近年では、さらに、ニール・D・ウォルシュのベストセラー「神との対話」で、この認識が広がりました。
 
それにしても、なぜ、「愛」の反対が「恐怖」なのか。「アナタを愛してます」の反対は、「アナタが怖いです」というより、「アナタなんか嫌いです」という方が、よほどシックリ来るような気がするのだが・・・。そもそも、「愛憎」とか「好き嫌い」という一対の熟語はあるけど、「愛恐」とか「好き怖い」という言葉はないし・・・。
  
それでもやっぱり、「愛」の反対は、「恐怖」で決まりでしょう。というのも、精神世界で問題にしているのは、「統合と分離」という、両極のエネルギー。平たく言えば、「くっつくか、離れるか」という問題だから。
 
「愛」には、神と人とを近づけ、人と人とを近づける効果がある。一方、「恐怖」には、神と人とを遠ざけ、人と人とを遠ざける効果があります。
 
怖いとき、人は逃げようとする。怖いヒトが向こうから歩いてきたら、避けるのが普通でしょう。壁の中に閉じこもって、隠れるかもしれません。
 
「でも、嫌いなヒトや、憎たらしいヒトが向こうから歩いてきたって、やっぱり避けるでしょうよ」という意見もあるでしょうが、そうとは限らない(笑)。
 
たとえば、かつてプロ野球が「国民的娯楽」と言われていた頃、世間は「巨人ファン」と「アンチ巨人」に二極化してました。アンチ巨人は、とにかく巨人が嫌いで、巨人が負けると大喜び。そのため、いつもテレビで巨人戦を見ては、相手チームを応援するという人々。でも結果的に、いつも巨人戦ばかり見ていて、巨人のことなら実によく知っている。そのため、「アンチ巨人も、広い意味では一種の巨人ファンである」と言われていたものだ。
 
ネット上でも、2chの東アジア板などを見れば、嫌韓派の人たちが、いつも韓国のウワサ話で盛り上がっています。いい悪いは別にして、あれだけ熱烈な関心を持っている人たちがいるのだから、隣国との精神的距離は縮まっていると言えなくもない(?)。
 
こういう実例を見れば、「嫌い」だからといって、相手から遠ざかるとは限らないということが分かります。
 
しかし、「怖い」という気持ちは、とにかく早く相手から遠ざかろうという衝動しか生みません。三十六計、逃げるが勝ち。さっさと逃げよう。その一点に尽きます。鎧や兜で身を守るのも、恐怖心の表れ。あるいは、「怖いから消してしまおう」とばかりに、先制攻撃へとつながることもある。「攻撃は最大の防御」といったところか。戦争も、相手国やテロリストへの恐怖から起きています。
  
もっとも、キリスト教圏の精神世界論が、ことさらに「怖れ」を問題にするのは、必ずしも人間や国家などに対する怖れだけを問題にしているわけではありません。やはり、あらゆる怖れの中でも最大の怖れである、「神に対する怖れ」を抜きにしては考えられないでしょう。
 
旧約聖書の神様は、なにかといえば、怒って人々を皆殺しにしてしまう。被造物たる人間を生かすも殺すも、創造主たる神の自由なのだから、これは当然のことと言える。でも、ある意味で、キリスト教の神様はそれ以上に怖ろしい。死後に魂を救済することも、魂を消滅させることも、神が自由に決める。人間の意志では、どうにもならない・・・。あまりにも絶対的で、途方もなく怖い存在です。
 
「全治全能の神に罰せられる」という恐怖は、人間の心の深いところに巣食っています。これが、神と人との距離を遠ざけている。
   
キリスト教圏やイスラム教圏の精神世界探求者たちは、「神との一体化」を目指して探求しています。神に近づき、一体化することこそ、人間として望みうるベストであり、至福の境地とされてきた。
 
そのために最大の障害となるのは、神に対する怖れ。「私は宗教が嫌いです」という人は多いけど、「私は神が嫌いです」とか、「神が憎くてたまりません」というような人は、あんまりいない。でも、「神が怖い」という意識は、口に出さないまでも、人の心の深いところを縛っています。
  
恐怖にとりつかれた人間は、心を鎧のようなもので覆われている。これが、神に対する直接認識をさまたげているという。
 
神を愛せ。怖れるな。天使が人間の前に姿を現すときも、決まって口にするのは、「怖れるな」という言葉でした。
 
汝、怖れるなかれ。ありがたや・・・・・。合掌。
 
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地球環境に慣れる

2009年11月18日 | ワンダラー ~ 宇宙人の魂を持つ人々

  
人間にとって非常に重要であるにもかかわらず、日頃はまず話題にならないことがある。それは、「地球環境に慣れる」ということ。

人は、引越しをしたら、新しい生活環境に適応しようとするものだ。海外に移住でもしようものなら、なおさらだろう。転職したら、新しい職場環境に慣れようとする。飲み会に初参加したら、早く飲み仲間と打ち解けようとするものだ。それが、人間として当たり前の姿勢と言えるだろう。

しかし、最も重要な視点が欠落している。それは、「そもそも、地球には適応できてるんですか?」という視点。これは、「大阪の水に慣れよう」とか、「アフリカの気候になじもう」とか、その程度の問題ではない。もっと根本的な問題だ。
 
赤ちゃんの時はみんな白紙状態。ゼロからのスタートで、人生経験を積んでいく・・・というのが、通常の考え方だろう。近代イギリスの大思想家、ジョン・ロックが「人間知性論」で強く唱えて以来、この説はデファクト・スタンダードと化した観がある。

でも現実問題として、地球生命圏のシステムは、そうなっていない。何百回も地球で輪廻転生してきたベテランは、最初から何の違和感もなく人生をスタートできる。そういう人は、5歳や10歳くらいでも、明らかに人生そのものに慣れている。一方では、「しまった、地球を甘く見すぎていたか。なんとかなると思ったのが誤りだった・・・」と、深層意識で悔やんでいる人もいる。他の惑星からの転生者(ワンダラー)が、それに該当する。一度の人生で、この経験の差を埋めるのは難しい。50歳や100歳になっても、追いつくのは無理・・・。
 
実際のところ、地球という環境そのものに、なかなかなじめない人がいる。いつまでたっても方向感覚がなく、しょっちゅう道に迷ったり、エイヤッと電車に飛び乗れば、たいてい逆方向だったり・・・(泣)、というようなタイプ。時間の感覚が、世間の一般人とは何時間もズレている人。っていうか、何年もズレている人・・・。
 
そんな人は、意外と多い。地球は、過去から未来へと一定の早さで時間が流れ、空間もガッチリと固まっている世界。これは、第三密度の特徴だ。この環境に慣れるのは、簡単なことではない。ホンの何十年かの人生でなじめるほど、容易な問題ではない。

このような、地球特有のガチガチな時間と空間も実に厄介なものだけど、それ以上に難物なのは、あまりにもエゴが強い、地球人そのものだろう。地球で長く輪廻転生してきた人々は、この環境に深く適応している。エゴをぶつけあって生きていくのに慣れているので、戸惑いがない。
 
「なぜ、エゴが強い人の人生がうまくいって、善良な人がバカを見るのか」というのは、よく言われることだけど、「地球での生活における熟練度」という視点が、そこには欠落していることが多い。っていうか、そういう視点を持っている人を、そもそも見たことがない・・・。

でも、現実問題として、何事も練習あるのみ。地球生活も、それと同じだろう。地球でうまく生きられるかどうかは、ゴルフやカラオケなどと同様、技術的な面によるものが大きい。ローマは、一日にしてならず。やっぱり、地球(もしくは、地球と似たような第三密度の環境)で地道に人生経験を積み重ね、スキルアップを図るしかない。
 
どうしても地球になじめず、心の病を抱えたワンダラーも少なくない。人生修行の必要性を、痛感する。
 
もっとも、「地球での人生経験は、地球でしか役に立たない可能性が高い」ということを、付け加えておきたいと思う(笑)。
 
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