宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

呼吸法 プラーナーヤーマ ~ 本山博氏 その3

2014年11月07日 | ヨーガ瞑想

 
チャクラをより活発に働かせ、物理的な次元ではなく、もっと高い次元の生命エネルギーを吸収するように目覚めさせるための準備運動が、呼吸法(プラーナーヤーマ)だ。

呼吸法を実践するときは、原則として、座禅を組んだり、ヨーガの坐法で座る。もちろん、「姿勢は自由でよい」という瞑想指導者もいるし、それぞれのやり方ってものがある。でも、本山博氏は、ヨーガ瞑想の人。ヨーガでは、「背骨を伸ばす」ということを、ことのほか重視する。だから、背骨が伸びないような座り方(たとえば、アグラをかくとか・・・)を、まずしない。

ヨーガに限らず、歴史のある伝統的なやり方には、「型」がつきものだ。

 

もっとも、「背骨を伸ばす」といっても、無理してピンとまっすぐにする・・・というわけでもない。「浅いS字型」という、人間にとって自然な形でいいみたい。
 
背骨をまっすぐに伸ばし、身体の力を抜いて、下腹部の「丹田」だけに軽く力が入るようにする。

次に、右でも左でもいいんだけど、どちらか片方の鼻の穴から、空気を吸い込む。口から吸い込んではいけない。これに限らず、ヨーガの呼吸は、鼻でするのが基本。

必ず片方の鼻の穴から、ゆっくりと、四秒くらいかけて腹いっぱいに空気を吸い込む。

ここで、「片方の鼻の穴を、指で押さえる」というのも、よくあるやり方。「かわるがわる指で押さえて、右から息を吸い込み、左から息を吐き出す」というようなのは、ヨーガをやったことがある人ならオナジミだろう。でも、この場合は、それをしない。

 

指で押さえないと、片方の鼻の穴から息を吸い込んでいるつもりでも、実際には、両方から息が入ってくる。でも、それでいいらしい。「片方の鼻から吸い込んでいる」という気持ちで呼吸することが大事なんだそうな。要するに、気持ちの問題。

この件に限らず、「・・・のつもりでやる」というイメージトレーニングが、しょっちゅう出てくる。

ここでは、空気を吸い込むといっても、気持ちの上では、そうではない。「宇宙の生命エネルギーを、いま吸い込んでいるのだ」というつもりになることが大事になる。

やはり、ブルース・モーエン氏がいうように、「想像力が大事」ということになるのか・・・。というのはそのとおりで、本山博氏が何十年も前に書いたこの本でも、「想像力が大事」としきりに強調されている。

 
ヨーガの呼吸は、鼻でする。しかも、腹式呼吸する。

つまり、普通の呼吸は、口から胸に息を吸い込む。でも、ヨーガの呼吸は、鼻から腹に息を吸い込む。

空気が腹いっぱいにたまって、限界までふくらんだら、腹をふくらませたまま、息を止める。この、息を止めておく時間は8秒くらい。


(つづく)
 


チャクラを刺激するトレーニング ~ 本山博氏 その2

2014年07月28日 | ヨーガ瞑想

 
本山博氏によると、人間は、太陽エネルギーだけで生きているわけではない。ふつうの人間は、酸素や水や食物のないところで生きていくことはできないが、修練を積んだヨガの行者なら、そんなところに1ヶ月くらいいても死なない。

もちろん、元気ハツラツ、ふつうの環境と同じように動き回るというわけにはいかない。「呼吸は止まったと思えるほどわずかで、心臓もかすかに動くくらい」という仮死状態だけど、生きていられるという。

クンダリニーヨーガでは、物質的なエネルギーのほかに、もっと次元の高い宇宙の生命エネルギーと呼ぶべきもの、「プラーナ」があると考えている。

空気や水、食物といった物質的なエネルギーを取り入れるのは、口とか鼻、皮膚。

それに対して、プラーナを取り入れる窓口は、「チャクラ」ということになる。

チャクラは、もともと「光の輪」という意味で、ここから取り入れたエネルギーが、全身、とくに内臓に送られる。その通り道は、「ナディ」と呼ばれる。酸素や栄養が、血管を通して送られるようなものだ。ナディは、言ってみれば、見えない血管みたいなもの。

おなかのマニプラチャクラには、「太陽神経叢」というのがあって、ここが第二の脳のようなコントロールセンターとなり、内臓を動かしている。そこには、プラーナを取り入れ、内臓に送るセンターもあるのだ。

普通の人は、このチャクラが目覚めていない。これでは、吸収できるプラーナが、質・量ともに限られる。それに比べて、チャクラが目覚めている人は、次元の異なるプラーナを吸収できる。不食でも生きていけるのは、そのためだ。

チャクラを目覚めさせることができれば、超能力は自然に身につくのだという。

そのためには、固い自我のカラをかぶって人間くさい欲望にとらわれている心を磨き、もっと高い次元に引き上げていかなければいけない。

そこで、トレーニングなのだが、本山博氏が推奨するのは、「腹筋のトレーニング」。

これによって、プラーナが集まっているところ(募穴)を刺激するんだそうな。

カンタンに言えば、座禅で半分だけ足を組んだような姿勢で、腹筋を前後左右にグルグル回すような気持ちで動かすのだ。「右に3回まわしたら、次は左に3回」というように、必ず、左右の回す回数を同じにするのがポイント。

食後すぐとか、おなかの調子が悪いときには、やってはいけない。できれば、朝起きたときとか、夜の寝る前にやるのが効果的だという。

もちろん、そんな具合に腹筋をグルグル回せる人など、世の中には滅多にいない(笑)。ここは、あくまでも、「そういうつもりになって、腹筋を動かす」ということ。左右にヒネリを加えることで、おなかのチャクラへの刺激を強化するのだ。
 

 
 
(つづく)
 


超能力ヨーガ瞑想 ~ 本山博氏

2014年07月26日 | ヨーガ瞑想

 
前回の「なんたって背骨が大事」を書いてから、もうだいぶ経ってしまったけど、本山博先生の話の二回目。

ここで取り上げた「自分でできる超能力」という本は、ほかの本山博氏の著書が通常、あまりにも分厚くて難解なのに比べて、本山ヨーガ理論の入門書として最適だ。
   

本山氏によると、超能力トレーニングとは、基本的には、「心のトレーニング」だという。

生まれてから現在まで、何十年かをかけて固めてきた心のカラを破り、心を自由にすることが本来の目的だ。それによって、眠っていた超能力が、目を覚ますのだという。 

そのために重要なのは、なんたって、背骨。

ヨーガでは、背骨をとても重視する。ヨーガのアーサナ(座法)には、背骨を伸ばしたり、曲げたり、左右にひねったり・・・というポーズが、とても多い。

これにはワケがある。というのも、背骨に沿って、「スシュムナー管」という、クンダリニーが通る通路があると考えられているからだ。だから、クンダリニーを昇らせるためには、通路が大事・・・ということになる。

とくに、背骨が「ゆがんでいる」というのは、大問題。もしも、背骨がズレてゆがんでいるようなら、これを矯正することが最初のテーマになる。

背骨がゆがんでいるかどうかは、人に指で触って診断してもらえば良い。自分でもできるけど、よほど腕が長い人でない限り、届かない範囲がある。

そこで連想するのは、「神の使者」の著者、ゲーリー・レナード氏。子供の頃から、セキツイ側わん症(背骨が曲がっている症状)に悩まされ、病院に通っていた。背骨をまっすぐにするために、いろんな手段を用いて、ものすごい努力をした。
 

本人は自覚していないが、これこそ、知らず知らずのうちに、ヨーガ行者のトレーニングをしていたようなものだ。それが超感覚的認識の開発につながり、ひいては現在の彼につながったとも考えられる。

 ちょうど筆者が、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を克服するため、集中力を強化するトレーニングに取り組んだようなものだろう。修行せざるを得ないように、人生ができているのだ。昔の野球マンガに出てきた「大リーグボール養成ギプス」と同じで、これこそ、「災い転じて福となす」というもの。


>「心のトレーニングをするのに、なぜ背骨が関係あるのだろう?」という疑問の声が聞こえてくるような気がしますが、ここではただ、「背骨にゆがみがあると超能力開発がうまくいかない。そればかりでなく、身体に悪い影響をもたらすこともありうる」とだけ覚えておいてください。

背骨をまっすぐにするためのトレーニングは、ヨーガにはたくさんある。なんたって、最も根本的なテーマだけに、そういうメニューがたくさんある。

代表的な基本ポーズには、次のようなものがある。
 






それぞれのポーズには、意味がある。たとえば、上のポーズは、「飛び出した背骨を引っ込める」というのが目的で、真ん中のポーズは、「引っ込んだ背骨を、元に戻す」、下のポーズは、「左右にゆがんだ背骨を、まっすぐにする」というのが目的。

前にも書いたけど、筆者は身体に関することがどうも苦手で、ハタ・ヨーガの難しいアーサナのポーズには苦手意識がある。というより、まずムリだ。

上に挙げた画像も、こんなに深く曲げるなど、マネしようったって、到底できるものではない。

ただし、ここまでの域に達するのはムリでも、本来は、とても簡単なポーズばかりだ。しかも、難しいことをやるより、こういう簡単なポーズを繰り返すほうが、ずっと効果が高くて有意義だという人が多い。「継続は力なり」という、典型的な例だろう。
 


YOGA.jp ポーズ辞典 

(続く)


精神世界探求のメリット

2014年06月30日 | ヨーガ瞑想
 
精神世界を探求するのは、実生活においてもメリットが大きい。でも、それは知られていない。 
 
これほど世間の一般人から誤解されている分野は、他にないだろう。
 
世の中、「勉強すれば、知性と教養が向上する」ということや、「スポーツをすれば、身体能力が向上する」ということは、広く認められている。
 
それに比べて、「精神世界の探求をすれば、意識が向上する」というのは、あまり認知されていない。
  
いくら、「選民意識」がどうのこうのと言われても、やっぱり、精神世界の探求者と、そうでない世間の一般人とで、どちらの意識レベルが高いかは、ハッキリしている。
  
他の条件が同じなら、精神世界を探求したほうが、まちがいなく意識レベルが高くなるのである。
  
それは、日頃からスポーツをやっている人のほうが、カラダがよく動くのと一緒。こればっかりは、日頃の修練の有無によるものが大きい。
 
文句があるのなら、今からでも遅くはないから、精神世界を始めればいいだけだ(笑)。
 
 

 
 
とは言うものの、勉強で向上する「知性と教養」や、スポーツで向上する「身体能力」と比べて、精神世界の探求によって向上する「意識」というのは、いまひとつ分かりにくい。

でも、それは決して、目にも見えず、耳にも聞こえない・・・というようなものではない。

筆者の場合、「波動がいいですね」というのは、世間の一般人からもよく言われる。

いや、世間の一般人だけに、「波動」というようなスピ系っぽい用語は使わないのだが、要するに、そういう主旨のことをよく言われる。

だからといって、「そう言われることに、何のメリットがあるのか?」と言われたら、それまでなんだけど・・・(笑)。
 
でも、そんな波動が、周囲の環境にも影響を及ぼすのは確かだ。それだけ、自分にとっても居心地のよい環境に変わることになる。
 
それ以上に大きなポイントなのは、雑念がなくなることだろう。これは、瞑想で意識を集中することによって得られる。それは、日常生活にも大きなプラス効果をもたらす。

悩みの大半は雑念なので、雑念を排除すれば、その分だけ悩みが減ることになる。ウツ病その他で苦しんでいる人が多いことを考えれば、これだけでも大きなメリットと言えるだろう。

雑念がなくなれば、「集中しよう」とムリに努力しなくても、自然と集中力が増す。自然体で、集中していられるようになる。これは、日常生活において、いろんな面での能率の向上につながる。

とくに筆者の場合、これによって、仕事や生活の能力が劇的に向上した。

というのも、かつては、雑念が多すぎて注意欠陥のため、日常生活に支障を来たしていたからだ。
 
もっと若い頃から雑念を排除し、心を鎮めることができていたならば、回り道のない、ずっと安定した人生を送れたことだろう。それを思うと、まったく惜しいことをしたものだ。
 
もっとも、それと、回り道の多い人生の、どちらが真の意味で有意義だったか。それは分からないが・・・。
 
もちろん、「雑念を排除して、集中を高める」という効果は、瞑想でしか得られないものではない。

勉強でも、スポーツでも、ある程度、その効果は得られる。というより、どんなことでも、真剣に取り組んだならば、集中力は高まるだろう。

ただし、スポーツその他の場合、本来の目的は、それ以外のところにある。集中を高めるのは、そのための手段でしかない。
 
それに対して、「雑念を排除して、心を鎮める」ということ自体を目的にしているのが、瞑想の意義。

つまり、他のことをやらずに、それだけに専念しているから、瞑想の効果は大きい。

でも、たとえば、「弓道」なんかは、それと同じようなものなんじゃないでしょうか・・・というような疑問もありうる。
 
 

 
 
弓道は、集中力がモノをいう武道だ。いや、武道は、どれも集中力がモノをいうんだけど、弓道の場合はとくに、「心を鎮める」ということに重点がある。

マトに向かって、雑念を排除して、心を鎮める。キリリと弓をひきしぼり、無心に矢を放つ。それは、限りなく瞑想に似ている。
 
まあ確かに、弓道をやれば、瞑想をする必要はないかもしれない。

それでも、弓道だって、「雑念を排除して、心を鎮める」というのは、的に向かって弓を引きしぼる直前の、短い時間だけだ。それに対して、長時間にわたって、それだけをやるというのが瞑想。だから、やっぱり弓道も、瞑想の代わりにはならないだろう・・・。
 
 
(続く)

なんたって、背骨が大事 ~ 本山博氏

2014年01月13日 | ヨーガ瞑想
 
クンダリニー・ヨーガの指導者として日本でビッグネームと言えるのは、故・ダンテス=ダイジを別にすれば、本山博だろう。
 
本山博氏といえば、大著「チャクラの覚醒と解脱」を初めとする、ぶあついヨーガやチャクラ関連の本が、大手書店の精神世界コーナーに並んでいる。もちろん、読むのが大変な本も多い。そんな中で、読みやすい上にインパクトが強いのは、「自分でできる超能力ヨガ」(1992年)という本。
 
この本の書名にも端的に表れているように、「超能力」とか「霊がかり」といったものを、少しも避けて通ろうとしないのが、この人の際立った特徴だろう。つまり、ヨーガの域にとどまらず、オカルトや宗教の領域に入っており、“IARP”(国際宗教・超心理学会)という団体も主宰している。もう90歳近い高齢・・・だと思っていたけど、数年前に亡くなったようだ。
 
お弟子さんによると、本山氏はヨーガの修行を通じて超能力を身につけたというより、もともと幼少の頃から霊能者で、「さまざまな体験を重ねてこられた」だそうな。その生まれつきの霊能力を、ヨーガによってチャクラでコントロールする技術を身につけた・・・ということらしい。

この本を読んだからといって、本気で「超能力開発」を目指す人は少数派だろうし、筆者も別に目指していないけど(笑)、本山氏の本の中では、読みやすい入門書として間違いなく有用だ。


「はじめに」から引用すると
 
>日本に超能力ブームが起こってから久しくなります。ひと頃は“科学的に”説明できないものはインチキだ、と白眼視する向きもあったようですが、科学万能が行き詰っている現代において、超能力の不思議な力は、多くの人たちによって見直され始めています。

>超能力を「信じる」「信じない」はすでに次元の低い論争で、現にアメリカやソ連をはじめ世界各国でも、宇宙時代に見直されてきた超能力に国家をあげて取り組んでいるのが現状です。(中略)

>・・・しかし、本書を開いてトレーニングを始める前に、しっかりと心に留めておいていただきたいことがあります。それは、この超能力トレーニングは基本的には心のトレーニングであり、人間の精神を、より高い次元に引き上げて進化させるのが究極の目的であるということです。


この本は、実践的なトレーニング書としての体裁を取っており、第1週から第4週に分かれている。

第1週は「超能力の世界」で、世の中にはどういう超能力があるのかを解説している。

ここで超能力として挙がっているのは、オナジミのテレパシーや、透視・千里眼。注目すべきことに、「霊視・霊聴」も、開発可能な超能力の中に挙げられている。

念力の代表者としては、ユリ・ゲラーが登場する。ユリ・ゲラーといえば、昔、テレビに出て、スプーンを折ったり曲げたり、「壊れた時計を動かしてみせる」と豪語していた人だ。本物の超能力者だったのかどうかは知らないが、本山博氏によると、「本物だということが証明されている」のだという。

それから、インドのヨギがやる「空中浮揚」。病気を治す心霊治療や、心霊手術。

さらには、透視力や念力のテストもついている。「ミディアム」や「ゴースト・ウィスパラー」といった海外ドラマの霊能者モノなどでよく見かける、当てモノのテストだ。

 
こんな超能力が、人間にあったとは。それなのに発現している人がめったにいないのは、心のカラによって閉ざされているからのようだ。第2週「超能力開発のトレーニング」の冒頭には、
 
>・・・超能力は、大昔から、人々によって語り継がれてきた人間の心の神秘な力を、解き放つことによって得られるのです。

>つまり、これから説明する超能力トレーニングは、基本的には、あなたの「心のトレーニング」なのです。生まれてから現在まで、何十年かをかけて固めてきた心ノカラを破り、心を自由にすることが本来の目的です。


いよいよ、トレーニングが始まったようだ。ここで、最も重要なポイントが示される。それは、何か?

一言で言って、それは「背骨」だということになる。


>しかし、そのトレーニングを積んでいくうえで、あなたの背骨が果たす役割が非常に大きいのです。とくに背骨が、ゆがんでいるかいないかが大問題で、もしズレてゆがんでいるようならば、なによりも先にこれを、まっすぐに治しておかなければなりません。

背骨をまっすぐに伸ばすこと。これこそ、クンダリニー・ヨーガにおける、基本中の基本といえる。

というのも、背骨、言い換えればセキ髄こそは、生命エネルギーの通る一本道だからだ。

通常、クンダリニーと呼ばれる生命エネルギーは、尾てい骨にあるムーラダーラ・チャクラに眠っていると考えられている。それを呼び覚まして、背骨の中に通っている中心管・スシュムナーを通し、頭頂のサハスラーラ・チャクラまで引き上げよう・・・というのが、クンダリニー・ヨーガをする人の目標。

そのスシュムナーをまっすぐにすることが、クンダリニーを通すための前提条件になる。「背骨をまっすぐに伸ばすこと」が、ヨーガにおいて、これでもか、これでもかと強調されるのは、根本にこれがあるからだ。

そんなスシュムナー管が実在するかどうかについては、人によって見方が分かれるところだろうけど、それを別にしても、背骨が歪んでいれば、何かと健康に良くないのは確か。ヘタをすれば、慢性の内臓の病気につながることもある。


ただし、本山氏によると、「背骨をまっすぐにする」といっても、必ずしも、一本の棒みたいな直線形にするわけではない。「自然に湾曲している、浅いS字型」のままでまっすぐにする・・・という意味。




背骨が左右に傾いているのも良くない。もっとも、セキツイ湾曲症、つまり、もともと病気で背骨が曲がっている人なら、仕方がないと思えるのだが。「神との使者」を書いたゲイリー・レナードも、少年の頃はセキツイ湾曲症に悩まされ、ずいぶん病院に通ったらしく、それが少年時の苦難の思い出となっている。

自分の背骨が歪んでいるかどうかを知る方法としては、自分でチェックしても、大体わかる。ただし、本山氏によれば、

>自分の背骨がゆがんでいるかどうかを知る方法ですが、これは自分で自分の背骨をさわっても、大体のところは分かります。しかし、ここでは正確に知って、それを治していかなければなりませんので、どうしても自分以外の誰かに背骨をさわってもらい、どこが歪んでいるかを教えてもらわなければなりません。

>本当は、そうした専門家に見てもらうと一番良いのですが、そうでなくても、あなたが足を前に投げ出して座り、後ろから背骨を指先でずっと触ってもらうと、スーッとなめらかな部分と、ポコンと飛び出している部分、あるいは異常に引っ込んでいる部分が、指先の感じで分かります。


超能力者・霊能力者といわれるような人なら、「指先でさわることもなく、手のひらを20センチくらい近づけただけで、どこが悪いのか分かる」のだという。ちなみに、本山博氏自身はどうなのかと言うと、

>私は4歳の頃からこのトレーニングに励み、もうかなりの超能力を身につけることができています。私の場合、他人の背中に手のひらを近づけると、健康な部分は、適当に快いぬくもりが伝わってきて良い気持ちなのですが、悪くなりかけている部分は暑く、もう慢性化しているところは逆に冷たく感じて、その違いですぐ分かります。

・・・だという。

その後、実際に背骨を伸ばす体操の実例が絵つきで出ているのだが、これは相当にキツい(笑)。

(つづく)
 

詰まったパイプのお掃除 ~ クンダリニーヨーガの要点

2013年06月01日 | ヨーガ瞑想

クンダリニーヨーガの要点は、いくつかにまとめられるだろう。

まず、蓮華座にしても、マハームドラーの柔軟体操ポーズにしても、「尾てい骨を刺激する」のと、「背筋を伸ばす」という、2つのポイントに集中している。

まずは尾てい骨のムーラダーラ・チャクラを伸ばす柔軟体操をしてから、蓮華座に入る。もともと蓮華座は、尾てい骨で身体全体を支える、究極のチャクラ刺激ポーズだ。

そして、数々の柔軟体操はまた、背筋をまっすぐに伸ばして、コリをほぐし、セキズイの歪みを矯正するようにできている。セキズイに沿って存在するとされる、スシュムナー管を通りやすくするだめだ。

つまり、一見、単なるヨガのポーズに見えて、実は、ムーラダーラ・チャクラを刺激し、そこからクンダリニーのエネルギーが、スシュムナー管を通りやすくする。ポーズのすべてが、この目標に向けられている。


その上で、セキズイに沿った意識の上下動を、何度も何度も繰り返す。意識を通しやすくするための、予行演習をひたすら続ける。

意識を上げるだけでなく、下げる練習も繰り返すのがポイントだろう。本当に、まるで詰まったパイプを、通すときの作業そのものだ。

クンダリニーヨーガのアーサナが何のためにあるのかは、それを見れば明らか。

早い話が、詰まったスシュムナー管を通しやすくした上で、尾てい骨のムーラダーラ・チャクラを強く刺激する。この一点に尽きると言っていいだろう。

目的がハッキリしてる以上、必ずしも本に書かれた通りのやり方でなくても、この目的に合うやり方はいくらでもありそうだ。


そして、重要なのは呼吸法。最終的には、やっぱり呼吸がカギを握る。

クンダリニーヨーガでは、原則として、すべての呼吸を鼻で行う。息を吐くのと、意識を下に降ろすのとは、いつもセットになっている。同じように、息を吸うのと、意識を上に揚げるのは、切っても切れない。

「深く、しみじみと呼吸する」というのがポイントだという。

クンバカ(息を止めること)はするけど、それ自体が目的ではなく、上下動する意識をしばらく止めるため。


そして、最も強調されるのは、「チャクラをハッキリと意識する」ということ。

ヨーガの話は、チャクラに始まり、チャクラに終わる。ヨーガ理論とは、そのまま、「チャクラ理論」みたいなものだ。7つのチャクラの位置をしっかりと特定し、呼吸と連動させつつ、できる限り明瞭に意識する。


最終的には、スシュムナーが丸ごとゴソッと身体から抜けていく。

このとき、スシュムナーと身体を連結している、7つのリンクが、次々に外れていくという。

その連結機(?)こそ、7つのチャクラ。

やっぱり、くくりつけられてるものをスムーズに外すには、連結ポイントをひとつひとつ、カチッ、カチッと外していかなきゃいけない。

どれかひとつでも引っかかっていれば、うまく外れない。つまり、クンダリニーは上がらない・・・。

クンバカ ~ ヨーガ瞑想

2013年04月07日 | ヨーガ瞑想

ヨガの呼吸法のうち、「代表格」とされるのは、「呼吸をしないこと」、つまり止息。これは、逆転の発想かも。ダンサーに例えれば、「ボクは、最高の踊り方をマスターしました。それは、踊らずにジッとしていることなんです」というようなものだ。

でも、何時間も動かずにジッとしているのは、逆に難しくて、実は上級者むけのパフォーマンスだったりする。それと同じく、息を止めている「クンバカ」(止息法)も、実は難易度ウルトラC級の呼吸法なのだ。

というのも、インド人の修行者の、息の止め方が半端じゃない。顔が真っ赤になるなど序の口で、しまいには痙攣(けいれん)を起こし、泡を吹いてブッ倒れかねない。この「呼吸法」に恐れをなして、入門者が逃げ帰るほど。

お釈迦さまも、六年間の苦行時代には、このクンバカを猛烈に行じたことが知られている。あるときは、呼吸を止めすぎて、そのまま心臓も停止してしまい、神霊たちに「ゴータマは死んだ」と言われた•••。

もちろん、現代人は通常、そこまでやらない。ひとつには、古代インド人は、「酸素」を知らなかったこともあるだろう。「空気中には酸素があり、これがモノを燃やしたり、身体を動かす原動力なのだ」というのは、現代人にとっては科学常識だけど、これは意外と難しいことで、近代ヨーロッパ人がこれを発見するまでは、散々な試行錯誤が必要だった。古代人には、知るよしもない。だから、「呼吸」というものを、過剰に神秘化しちゃった面はあるだろう。

でも、それを現代の日本でもやる人はいる。個人的には、クンバカというと、どうしてもオウム真理教の「水中クンバカ」を連想してしまう。オウム真理教では、プールみたいなデッカい特設水槽に、人が入って、中で手すりにつかまってジッとしていた。今でも、ネットで動画を見ることができる。麻原彰晃に「お前が入れ!」と言われた井上嘉浩が、特設水槽に潜って手すりにつかまってはみたものの、すぐにギブアップして出てくる。「この、クン馬鹿ヤローッ!!」と尊師に怒鳴られた井上嘉浩は、「心臓が止まっちゃいました•••」と、文字どおり苦しい言い訳。

かつては、この水中クンバカがテレビに出て、「さすがは、オウム真理教。ムチャクチャやっとるな~」と、世間の一般人はアキレていたのだが、これはインドにもそういう伝統があるのは事実で、インド人はガンジス川に潜って息を止める。もちろん、ガンジス川とは限らず、どこの川や池でもいいんだけど、やっぱり聖なるガンジスに潜るのがベストだろう(笑)。だからと言って、それを現代の日本でやるというのも無理があるのだが•••。

そういう極端な例はさて置いて、通常のクンバカは、呼吸の合間にしばらく息を止めるだけの、無理のないものだ。

「なぜ、息を止めるのか」という疑問に対する答は、「息を、生命エネルギーそのものと見て神聖視していたインド人が、生命エネルギーを体内にたくわえようとしたから」というのは、もちろんなんだけど、それだけではない。それ以上に、「息を止めること」と、「精神を集中すること」とは、切っても切れない関係にある。

もともと、精神集中するときに息を止めるのは、日常生活でもアリガチなことだろう。スポーツでも、そういうことは、しょっちゅうだ。弓道みたいに、一瞬の緊張が極点に達する種目では、なおさらのこと。人は、集中すると、無意識に息を止めてしまう。呼吸をいかにコントロールするかに大きく左右されるのは、ヨガもスポーツも変わらない。

瞑想も同じだろう。筆者は、「雑念を排除して、集中力を強化する瞑想」(・・・こういうのを、サマタ瞑想と言います)が大好き。これをやっていると、気がついたら、息がしばらく止まってることがよくある。苦しくなって、初めて気づく。

もし、気づかなかったら、どうなるのか。そのまま、一足お先に昇天かなあ•••(怖)。

上に書いたような極端な例はともかく、通常のクンバカは、たとえば「右の鼻からゆっくりと息を吸い、そこで数秒間だけ呼吸を止める。そして、左の鼻からゆっくりと息を吐き出します」とか、「お腹をふくらませながら、ゆっくりと息を吸い込み、そこで数秒間だけ息を止める。そして、お腹を引っ込めながら、ゆっくりと息を吐き出します」とか、そういう感じ。呼気と吸気の間、しばらく息を止める程度なんで、ちっとも危険じゃありません。このブログ記事が誤解を招いたら申し訳ないので、付け加えておきます・・・。
 
 
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プラーナ ~ ヨーガ瞑想

2013年04月06日 | ヨーガ瞑想

ヨーガ瞑想で、アーサナの次に重要なのは、プラーナーヤーマ(調息法)だろう。

プラーナは、「息」。吸ったり吐いたりする息だけど、インド哲学では生命エネルギーそのものと考えられていた。その大事なプラーナを調整するのが、プラーナーヤーマ。

一言でプラーナーヤーマと言っても、いろんな呼吸法がある。それだけを専門にしている人もいる。呼吸法は、瞑想の核心部分だけに、流派もいろいろ、指導者もいろいろ。気功ではさらに重視されるところで、どの師につくかで道が分かれる。

プラーナーヤーマの場合は、呼吸の仕方が問題になる。この点、ヴィパッサナー瞑想で出てきた「アーナーパーナー•サティ」とは、そもそもの目的が異なっている。

アーナーパーナー•サティの場合は、呼吸に意識を集中して、呼吸を観察する瞑想法だった。つまり、主眼はあくまでも「意識を集中」することにあり、呼吸はひとつの題材でしかない。「さあ今日は、呼吸に意識を集中してみましょう」といったところ。呼吸自体に決まったやり方がある訳ではなく、強いて言えば「いつもより、ゆっくりと呼吸しましょう」という程度だった。

それに対して、 プラーナーヤーマでは、呼吸そのものが問題になる。同じインド式の瞑想でも、そこが違う。ヨーガならでは。

「ヨーガ瞑想の呼吸法」と聞いて、真っ先に連想するのは、「片鼻呼吸」。手で片方の鼻穴をふさぎ、もう片方の鼻穴で息を吸い込む。しばらく、息を止める。そして、もう片方の鼻穴から息を吐く。右の鼻から息を吸い、左の鼻から息を吐く。これを、ゆっくりと繰り返す。最初のうちはいいけど、だんだん苦しくなってくる•••。

それから、腹式呼吸も強調される。息を吸いながらお腹をふくらませ、しばらく息を止めて、息を吐きながらお腹を引っ込める。この引っ込め方がカナリ強烈で、締め付ける感じだ。どの先生も、「満腹のときは、決してやってはいけません」と必ず付け加える。

アーサナと同じで、原理はとても簡単なんだけど、本格的にやったら驚くほどキツいのも、ヨガの特徴だ。もちろん、ヨガ教室に通って、本気で取り組むのもいいだろう。でも、ヨガそのもののマニアならともかく、瞑想に取り入れるだけなら、やっぱり、基本中の基本だけを知ってれば十分。

アーサナとプラーナーヤーマの基本をかじっただけでも、効果は決して小さくない。それだけで、瞑想が深まることは請け合いだ。もちろん、一度や二度、やってみたって意味がない。飽きずに繰り返すのが一番だ•••。


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アーサナ ~ ヨーガ瞑想

2013年04月05日 | ヨーガ瞑想

ヨガといえば、アーサナだ。柔軟体操の一種で、決まると実に美しい。代表的なアーサナには、下の画像のようなものがある。

  

YOGA.jp ポーズ辞典 より


筆者がこの域に達することは、一生ないだろう。でも、心配ない。こういうのは、どちらかといえば、美容と健康のためにやるもので、瞑想して意識を高める上では、基本的なポーズだけをやれば十分だからだ。

基本的なポーズというのは、背筋を伸ばしたり、曲げたり、ひねったり。この3つが、なんといっても基本中の基本。

とはいえ、無理なポーズを取る必要はない。昔、小中学校の体力テストに「伏臥上体そらし」(ふくがじょうたいそらし)というのがあった。うつぶせに寝た上体から、背中を思いっきり後ろに反らして頭を上げ、床からの高さを測るという内容だった。体の柔らかさを測るテストで、女子の平均が男子を上回る数少ない項目のひとつだ。

筆者にとって「体力テスト」は、ほとんどの項目でいつも最低点を取っていた悲しい思い出。この「上体そらし」も例外ではなかった。でも、これはヨーガのアーサナであって、体力テストではない。身体を柔らかくすることが目的なのであって、現時点でのレベルが問われるわけではない(笑)。

それはともかく、この「伏臥上体そらし」を、そのままやったんじゃキツすぎる。でも、両手を床について、支えながら背中を反らせばカンタンだ。とはいっても、ポーズ辞典を見ると、ほぼ直角にまで反っているので、筆者がやっているのとは別モノに見えてしまう(笑)。なかなか、こうはいかない。うまずたゆまず続ければ、そのうち体が柔らかくなってくる。何年かかるかは人にもよるだろうけど•••。



次は、背中を曲げる屈曲ポーズだ。これまた、部活とか体育の授業での、柔軟体操でオナジミの人がほとんどだろう。仰向けに寝た上体から、上半身を起こして、できるだけ曲げる。体が硬い人は、足の筋肉が伸ばされて痛くなる。これまた、ポーズ辞典で見ると、あまりに深く曲がっているので、まるで別のポーズみたい。体育なら、後ろから背中を押してもらうところなのだが、ヨガの場合は自力でできる範囲で良い。



もうひとつの基本は、背筋を横にヒネるポーズだ。これまた、手で支えながら、できる範囲でやれば十分。足の組み方よりも、重要なのは背筋をヒネること。これは、背骨が歪んでいる人の矯正に最適なポーズだ。



この3つの基本ポーズに共通するのは、「背骨」が中心テーマだということ。背骨をそらしたり、曲げたり、ヒネったりして、脊椎のゆがみを取り除き、柔らかく真っ直ぐにする。
 
なぜかヨーガ瞑想では、背骨、っていうか、脊椎(せきつい)がとても重視される。そういえば、「尾てい骨のムーラダーラ•チャクラから、クンダリニーの蛇が駆け上がって、脳天を貫いて昇天する」って話もあったっけ。そのとき、「クンダリニーの通り道」とされるのが、背骨に沿って存在するとされる「スシュムナー管」。 その話が本当かどうかは別にしても、7つのチャクラはすべて、その通り道に位置している。だから、瞑想するのに先立って、せっせと背骨の調整に励むというわけだ。体が硬くても、決して諦めず、ひたすら続けるしかない。これが体育の授業だったら、努力賞モノだ•・・。
 

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座禅のポーズ ~ ヨーガ瞑想

2013年04月05日 | ヨーガ瞑想

 
 
 
インドのヨガは、中国の気功と並んで、「東洋の神秘」の2大巨頭だろう。
 
ヨガの関係者に言わせれば、「お釈迦さまもヨガの行者」ということになる。それはどうかと思うけど、確かにヨガを知らないと、お釈迦さまの話が全部は分からないようにも思える。(それと同じように、気功の関係者に言わせれば、老子の教えも、気功を知らなきゃ分からない)。
 
ずいぶん前になるけど、筆者も、ヨガ教室の講座を受けたことがある。

ヨガの先生に言わせれば、「ヨーガは、基本ポーズに始まって基本ポーズに終わります。プロがやるような、アクロバティックなポーズをキメる必要なんかありません」ということだった。だから、安心して、それだけをやっている(笑)。

ヨガと言えば、誰もが連想するのは、アーサナ。例の、柔軟体操みたいなポーズのことだ。体が硬いと、座禅もやりにくくて、瞑想どころではなくなってしまう。また、「背骨に沿って存在する」とされる「スシュムナー管」に、エネルギーを通しやすくするためにも、体の柔らかさと背骨の矯正は重要だ。

とはいっても、アーサナがすべて柔軟体操なわけではなく、日本で言えば「座禅」とほぼ同じ瞑想ポーズや、単にダラ~ッと寝転がっているだけのポーズもある。

実際のところ、ヨガを、美容や健康のための柔軟体操と思っている人も少なくないし、一方では、難しいアーサナを極めようと努力している修行者もいる。

本ブログの場合は、なんといっても「瞑想」がテーマ。ヨガそのものを探求することが目的ではなく、あくまでも、瞑想のためのヨガでいい。そのためには、基本的な瞑想ポーズを習得して、それだけをやればいいということになる。それをやってる分には、危険も何もない。
 
ヨガの基本は、座禅と同じで「結跏趺坐」(けっかふざ)の座り方。例の、右足を組み、その上に左足を組む、ガンジガラメな足の組み方だ。これは、体が硬いとできない。

座禅は、ヨガのアーサナの中から、この結跏趺坐という基本中の基本ポーズだけを取り出して、それのみをひたすら続けるものだ。効率重視には、もってこいだろう(笑)。ただし、ヨガと座禅では、なぜか、右足と左足の組み方の上下関係が逆になる。でも、それは気にするほどの違いではないように思う。人によって、やりやすい方で良いのではないか。

でも、日ごろから柔軟体操でもしてない限り、結跏趺坐はあまりにもキツい座り方だ。そこで、座禅と同様、片足だけを組んで、もう片方は添えるだけの「半跏趺坐」(はんかふざ)もある。禅寺でも、「足が組めませ~ん」と言えば、禅僧は慣れた口調で、「では、半跏趺坐でいいですよ」と言ってくれる。ちなみに筆者も、結跏趺坐が大の苦手で、半跏趺坐しかやらない(笑)。



座禅とは、手の組み方もちょっと違う。座禅の場合は、手を中央に置くことに決まっている。でも、ヨガの場合は、いろいろある。上の画像のように、両ヒザの上に手を置いて、指で輪っかを作ると、なんだかインドっぽくて気分が出てくる。


 
もちろん、ヨガの座法は他にもあって、半跏趺坐より、さらに足を深く組まない座り方も有名だ。でも、なんといっても基本はコレだろう。座禅の伝統のある日本人にとっては、特になじみやすい。結局は、座禅に始まり、座禅に終わるのだ・・・。
  

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