宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

経済問題の終わり

2011年11月27日 | お金が要らない世界

   
いきなり、「おカネのない世界」を目指すというのは、無理がある。無理を通そうとすれば、必ず反作用が返ってくる。極端な例が、カンボジアのポルポト政権だ。ポルポト政権は、一気に貨幣を廃止するという、過激な社会改革を企てた。それだけが原因ではないけど、カンボジア社会は悲惨な大混乱になってしまった。カンボジア国民の2割から3割が、ポルポトによる大虐殺で死んだと言われている。大勢の自国民を殺した政治家としては、人類史上でもダントツの部類に入るのは間違いない。
 
おカネそのものは、そう簡単にはなくならないだろう。戦争が起きない世の中になっても、軍事力はまだあるのと同じだ。でも、以前と比べたら、重要性はグッと低下する。

たとえば、野球やサッカーは、デキないよりはデキた方が良い。その方が面白いからだ。でも、デキなきゃデキないで、別に困るわけではない。英語や数学も同じ。スポーツと比べれば、「嫌いなのに無理やりやらされた」という苦い記憶を持っている人が多いせいか、評判はいまひとつだけど、これも一緒で、デキないよりはデキた方が面白い。でも、たとえデキなくても、生活に支障を来すわけではない。

それと同じように、おカネも、「無いよりは有った方がいいだろうけど、無くても別に困らない」という程度の存在になればよいのである。つまり、おカネを稼ぐことに情熱を燃やしている人は、その道でガンバってくれればいい。それは、人それぞれの好みであり、自由選択だからだ(ただし、これからの時代にそれをやるのは、そうとう古い生き方になるだろう・・・)。一方、おカネに興味がない人は、なくてもOK。ないからといって、別に困るわけではない。

そういう世界になりさえすれば、特に問題なくなる。

今の世の中は、そうなっていない。おカネがないと、本当に困るようにできている。「カネの悩みなど、気の持ちようで何とでもなるさ・・・という人は、カネで苦労したことがない人だ」という格言もあるのだが、まさにそのとおり。おカネの問題ばかりは、気持ちの持ちようではどうにもならないことが多い。

これはやっぱり、世の中がそんな風にできているからだ。地球人類は、必要なものが足りなくて、全員に行き渡るのは無理という環境の中でずっと生きてきた。ここは、生き残るためには競争しなければいけない、サバイバルゲームの世界だったのだ。こうなるのは必然だし、仕方がなかったのである。

学業も、「無理やり勉強させられた」という嫌な思い出を持っている人が多いから、「知識なんか要らないんだ」と強く反発する人が出てくる。それと同じで、おカネを稼ぐのも、興味の有る無しにかかわらず、誰もが強制参加させられる競争だ。「いっそのこと、大恐慌を起こして経済そのものを潰してしまえ」という過激な反発が起きてくるのは、そのせい。

でも、それももう長くは続かないだろう。遠からず、「おカネがなくても困らない世界」が実現する。人類の大半は、最も深刻なプレッシャーから解放されて、自由になるだろう。おカネの重要性が低下すれば、経済問題で怒る人もいなくなる。

意識の進化はもちろんだけど、それだけでなく、「科学技術の進歩」も、その原動力になるだろう。新しいエネルギー源は、どんどん開発され、実用化されていく。必要なものの大半が無料で手に入る世の中も夢ではなくなる。ロボットやコンピュータが、人間の変わりにいくらでも働いてくれる。モノを無限に作り出してくれるだろう。

現在のグローバリゼーションは、モノの価格の劇的な低下をもたらしている。機械が発達して、誰でも生産できるようになったおかげで、どこでもモノが作れるようになった。かつては、テレビの生産が日本の電機メーカーの独壇場だった。アナログの時代には、画像調整その他が、日本人ならではの職人芸が生きる分野で、他の追随を許さなかったからだ。でも、デジタル時代となり、中国でも東南アジアでも、部品を組み合わせれば同じようなモノが製造できるようになってしまい、差別化が難しくなった。大画面の薄型テレビは、ほんの数年前まで車一台が買えるほど高かったのに、今ではすっかり安くなった。

100円ショップで目にする安価な商品も、「誰でも、どこでも作れるようになった時代」のおかげと言えるだろう。TPPで貿易が自由化され、関税が引き下げられれば、なんだかんだ言って食料品の価格も大幅に下がることだろう。

不動産の価格も下がっている。欧米の金融危機までは、外資の主導で都会の地価が上がってた。なんだか、それも大昔のことみたい。人口も減ってる今、もはや不動産が上がる要素は考えにくい。今後も、下がり続けるのが自然だろう。

どれも、一見、「経済が縮小していく」という過酷な現実に見える。売る側にとっては、確かにキツい。でも、特定の業界だけではなく、世の中全体がそうなのだから仕方がない。

世界は、明らかに「収入が少なくても生きていける社会」が実現する方向に向かっている。おカネがなくても困らない世の中は、もうすぐそこだ。もはや、経済問題が人類にとって最大のテーマだった時代そのものが、いよいよ終わろうとしている。

今後の人類は、別のものに目を向けていくことになるだろう。ヲタク評論家(?)の岡田斗司夫氏は、「評価型社会」を唱えているそうだ。

「評価型経社会」というのは、文字通り、仕事の価値がおカネではなく、人からの「評価」で計られる社会のこと。

言い換えれば、「趣味」を極める、マニアックな生き方。アートがいい例だろう。ネット上では、すばらしい写真やイラストを載せているサイトが多い。まったく感心してしまう。まさしく、「出来ないよりは出来る方が面白いし、人からも評価される」の世界・・・。


「資本主義」の崩壊・・・?

2011年11月27日 | お金が要らない世界

船井会長を中心とするグループの人たちは、「資本主義の崩壊」を唱えることが多い。それを見るたびに思うのは、彼らがいう「資本主義」ってのは、何を意味しているんだろう・・・ということ。どうも、言葉だけが一人歩きしている。中身まで考えてるようには見えない。

「資本主義とは何か」なんてことを言い始めたら、人によって意見はそれぞれで、本当にキリがないけど、やっぱり、いくつかの基本的な特徴がある。

まず、「私有財産制である」というのが前提条件。つまり、「権力者が、気分次第で市民から何でも取り上げてしまう」というようなのは、資本主義ではない。

古代ローマの皇帝には、旅先のギャンブルで大負けしたおかげで、地元のお金持ちを何人か死刑にして財産を没収し、そのお金で賭けを続けた・・・というエピソードの持ち主もいる。大昔の古い社会というのは、そういうものだった。その点、資本主義の社会なら、いくら権力者でも、人の財産を勝手に取り上げるのは無理。「財産を私有するとは何事か」といって怒るのも分かるけど、地球人類の歴史を振り返ってみれば、昔より遥かにマシになっているのである。

それから、「おカネで雇われた労働者が働く」というのが基本。サラリーマンでも、フリーターでも、そこは変わらない。つまり、「権力者が、奴隷をタダ働きでコキ使う」というようなのは、資本主義ではない。

「おカネで、人間を支配するとは何事か」と言って怒るのも分かるけど、これまた地球人類の歴史を振り返ってみれば、おカネがもらえてるだけ、まだマシだ。少なくとも、大昔の奴隷よりは、ずっと好待遇になっているのは間違いない。

できた商品は、市場で売り買いされる。もっと売れるのに、作るのが少なすぎると、その分だけ儲けが減ってしまう。逆に、作りすぎると、余ってしまって大損だ。一番、儲かるのは、ちょうどよく生産して販売したとき。資本家は最大の利潤を目指す。それ以外のこと(有名になりたいとか、女にモテたいとか・・・)を目的に、余計なことまでやらかして利益を減らすようでは、真の資本主義者ではない。

儲かれば、それだけ元手が増えることになる。そこで資本家は、さらに投資を増やして生産を拡大する。こうして、経済は成長していく。

ここが、肝心なところ。つまり、せっかくおカネを儲けても、キャバクラとか、美食や旅行で遊んで使い果たしてるようじゃ、まだまだ甘い。ホンモノの資本主義者なら、むしろ節約しておカネを貯める。貯めたおカネを再投資して、もっと働くために使う。単に、ガムシャラに働くわけではない。常に、最大の利益を追いかける。儲かれば儲かるほど、さらに再投資して働く。

ここで「なんのために?」と問うようでは、真の資本主義者とは言えない。それ自体が目的なのである。

つまり、働いて、おカネを貯めて、さらに投資する目的は、もっと働いておカネを貯めるためだ。それを、さらに投資する。いつも、そればっかり考えているから、どんどん事業は拡大する。

最後は、全財産を慈善事業にポンと寄付する。なぜ寄付するのかと聞かれれば、「そんな財産を相続したら、子孫は遊び呆けてマジメに働かなくなるではないか」と答える・・・。

本当は、ここまでの域に達しないと、真の資本主義者とは言えない。

実際に、資本主義が勃興した頃の近代ヨーロッパでは、そういう人たちが続々と出現した。彼らの多くは、敬虔なキリスト教徒だった。「黙々と働き続けるのが、我等の務め」と信じて働き続けた。すべては、神の栄光のために・・・。

元はと言えば、資本主義は、こういう人たちによって引っ張られてきた。結果として、地球の文明は大きく発展した。資本主義社会には確かに欠点もあるけど、それ以前の古い社会と比べたら、いろんな面で大きく前進したのは確か。少なくとも、「悪魔が人類を奴隷支配すべく、巧妙に考え出したシステム」なんてことはない(笑)。

もっとも、日本や欧州では、だいぶ前から、そういう資本主義的な経済成長が事実上ストップしている。どうやら、地球人類の社会は、次のステップに進むときが来ているようだ。

それにしても、「資本主義の崩壊」という言葉の響きは、なんとも古めかしい。
 
この言葉を聞くと、学生時代のマルクス経済学の講義を思い出す。ちょうど、ソ連や東欧の社会主義国がバタバタ倒れて、マルクス主義者にすっかり元気がなくなった頃のこと。

当時は、「資本主義が高度に発展するにつれて、利潤率は傾向的に低下する。その結果、資本主義は行き詰まって崩壊する」というマルクスの理論を巡っての議論が、まだ続いてた。もう、すでにだいぶ下火になっていたとはいうものの・・・。

夕日が射し込む古びた教室の窓際で聞いた、昔なつかしいマル経の「資本主義の崩壊」理論。「また、古いモノを持ち出してきたな・・・」という感じ。長年、マルクス主義を信じ込んできた人たちが諦めきれないのは分かるけど、そろそろ、新しい酒は新しい皮袋に盛らなければ・・・(笑)。
 


「すべてが無料の世界」

2011年11月24日 | お金が要らない世界

 
「お金がない世界」を実現するためには、老子の時代も今も、小さな村落で自給自足するのがベストだ。それなら、今でも実現可能だし、現に南洋諸島やアフリカでは、そういう共同生活をしている人もいるに違いない。

それだけでなく、社会主義国の共同体や、イスラエルのキブツなどで実現された前例が、過去にもある。残念ながら、これらは長く続けるのが難しく、しばらくすれば崩壊するか、もしくは貨幣経済に巻き込まれるのが通常だ。共同体の中の住民同士が、お金のやり取りをしていないのを見ると、「お金のない社会が実現された!」とつい思ってしまう。でも、実情はちょっと異なる。実際には、「キブツ見学ツアー」の観光収入とかで外部から資金を取り込み、それによって住民の生活を支えているケースが多い。それだと、本当の意味で「お金がない世界」とは言えない。

真の自給自足社会を実現する上で、それでは中途半端だ。もっと透徹した覚悟が要る。

「自給自足社会」が当面の目標だとしても、もう少し規模の大きな社会で、「誰もが生活に困らず、好きなことをして生きていける世界」を目指すというのが、人類にとって、より高い目標だと言えるだろう。

これを社会制度によって実現できるかどうかを、考えてみる必要がある。

たとえば、「生活に必要なお金を政府が全国民に提供する」というアイディアもある。

でも、現在の日本で200万世帯に達した生活保護世帯でさえ、財政を大いに圧迫している。まして、全国民を生活保護対象にするためには、いったいどれだけの財政支出が必要か。

たとえば、「国民ひとりに毎月10万円を支給」するという配給制度を作ったとする。月に必要な財政支出は、10万円×1億3千万人で、13兆円だ。年間では、157兆円も必要になる。いくらデフレ社会と言っても、政府・日銀がそれだけのお金を大量発行すれば、すぐに超インフレになって、お金の価値が暴落する。せっかく月に10万円もらったとしても、何も買えないから紙クズ同然だ。

だが、お金を配るのは無理でも、「現物支給」という手がある。つまり、生活に必要なものが、タダで手に入る世の中になれば良い。

たとえば、大工さんは、タダで飲み食いできて、服も誰かがタダでくれるので、生活に困らない。したがって、建築の仕事をする必要はないのだが、生き甲斐だけを求めて、家が欲しい人に無償奉仕で建ててあげる。まさしく、理想の利他社会だ。

でも、いくら大工さんが生き甲斐だけを求めてタダ働きしたとしても、木材を始めとする必要な材料を仕入れなければいけない。これまた、生き甲斐だけを求めてタダで木を切らせてくれる山林オーナー、タダ働きで木を切る人、タダ働きで運ぶ人・・・を、適切なタイミングで十分に確保しなければならない。

さらには、他者への奉仕だけを求めてタダ働きで木材を運ぶ人がいたとしても、そのために必要な輸送車を無料で手に入れなきゃいけない。さらに・・・という具合に、この話は無限に続く。

でも、「おカネのない世界」がたとえ実現したとしても、それで、ちゃんとスムーズに世の中が回っていくかどうかは、また別問題。

「タダ働きの大工さん」の例で言えば、それで本当に、必要な建物が必要な期限までにできるだろうか。できた建物が欠陥住宅だったり、納期が遅れたらどうするのか。

大工さんなら、まだ分からないでもないけど、脳神経外科医だったらどうか。やってもトクにはならないけど、生き甲斐だけを求めて、趣味で脳神経外科手術をやってる人。大丈夫だろうか。

また、世の中には、1人や2人でできる仕事の方が少ない。たとえば、自動車工場を立ち上げたとき、生き甲斐だけを求めてタダ働きする溶接工やプレス工やフォークリフト運転者その他・・・といった大勢の必要人員を、スムーズに集められるだろうか。

もちろん、ここに書いたことは、いきなり「すべてを無料にする」というような極論なので、現実にはもうちょっと適度なソフトランディングを目指すことになるんだろうけど・・・。
  


自給自足の社会

2011年11月23日 | お金が要らない世界

   
お金は歴史が古くて、人類との付き合いも長い。お金は、古今東西を問わずどこでも発生する。日本だろうが、中国・インドや中東だろうが、アフリカとかマヤ・アステカ・インカの文明だろうが、どこでも変わらない。貝殻とか、貴金属とか、紙切れとか・・・。何を通貨として使うかはいろいろだけど、お金はどこででも発生する。
 
2千年前の古代ローマ帝国だって、現代の資本主義国などとはホド遠い農業国で、ローテクもいいとこだったけど、それでもやっぱり、お金がないと生きていくのが大変だった。貧富の格差は、現代のアメリカや中国よりもヒドかった。民衆の大半は、貧しさで生きていくのも精一杯の、ガケっぷち人生を送ってた。その一方では、富を独占する大地主の貴族たちが、世界から集めた珍味を食べては吐き、また食べては吐き、吐いた汚物を奴隷に掃除させていた。地球は、大昔からそういうところなのだ。
 
「お金がない世界」というのは、自給自足の世界ということになる。自給自足とまではいかなくても、モノとモノとを直に交換する、物々交換までしかやらない。
 
真っ先に思い浮かぶのは、南の島の人たちだ。食生活としては、ヤシの実を取って食べるか、自分で育てたイモを食べる程度。ときどき、他の島から船に乗った商人がやってきて、イモと魚を交換するとか、そういう物々交換をする。これなら確かに、お金はいらない。
 
でも、老子に出てくる「小国寡民」の社会は、そんな隣の村との物々交換すら、ほとんどやらない。徹底した自給自足の小さな村落だ。2千数百年も昔の春秋戦国時代の聖賢が思い描いたのは、そんな理想社会だった。
   
というのも、隣の村との物々交換をしただけでも、「イモ3本とライチー5個なら、交換OKあるよ」とかなんとか、交換レートが自然にできてくる。それはやっぱり、商売の始まり。だから、「お金がない世界」を維持するためには、そんな物々交換すらやらない方がよい。

実際には、物々交換には限界があって、すぐに行き詰ってしまう。
  
例えば、経済学者の家で、水道管が破裂したとする。交換に出すものといったら、経済学の講義とか、経済の本くらいしかない。これと水道管工事を交換してくれる相手を、どうやって見つけるのだろうか。また、建築業者と八百屋さんが物々交換するとしたら、ビル一軒と、ニンジン何本を交換すればよいのか。これは、頭が痛くなる問題だ。そんなこんなで、文明が進歩するにつれて、物々交換はすぐに行き詰まる。

でも、自給自足だって、本当は難しい。というのも、足りないモノが多いからだ。たとえば、寒いところではパイナップルが取れないし、鉄鉱石や石炭が出ないところでは鉄が作れない。
    
出口王仁三郎が、「外国には足りないものが多いから、天産自給は無理なのじゃ。その点、日本にはなんでもそろっておるから、天産自給できるのであるぞ」と言ってたのは、そのあたりの事情を指している。

ここで肝心なのは、自給自足できないものがあっても、あきらめることだ。たとえば、砂糖が自給できない村なら、「甘いモノなんか食べなくていいよ」と割り切る。老子が、「隣の村とも交流しない」にこだわったのは、そのあたりにも理由がある。自分の村にないものが隣の村にあれば、欲しくなる。そうすると、「売ってくれ」ということにならざるを得なくなり、必ずや貨幣経済の発生につながる。欲しくなるのを避けるためには、他の村を見ない方がよい。

このように、「お金のない世界」を本気で実現するのなら、そのために必要な条件は、かなり極端なものになる。出口王仁三郎も、「王仁は、都市(の人口)は十万になると言うとるのやで」と言ってたそうなのだが、十万都市なんかじゃとても無理だ。もっと、ずっと規模が小さく、それこそ老子が言うようなレベルで、自給自足の小さな村落にならないと。
    


ついにイランとイスラエルが衝突か?

2011年11月23日 | こっくり亭日記

浅川:それでは改めて、今年起きるかもしれない戦争についてお聞きしたいと思います。

ホボット:イランとイスラエルの間のトラブルが年末頃に本格化する可能性があります。それは衝突か政治的圧力の形となるでしょう。もしそうなったら、本格的な争いは2013年に起きることになるでしょう。

(中略)

ホボット:私が光の生命体たちに言われたのは、2010年の秋に、もしロシアがイランにロケットを渡したなら、イランとイスラエルの間に何か起きるということです。そのときに大きな戦争が始まるわけではありませんが、何かが起きる。


・・・この、2010年に行われた対談によると、「光の生命体」たちは、「(ロシアから供与されるロケット技術を巡って)イランとイスラエルの間に何かが起きる」というのを最も懸念していたという。ロシアがイランにロケット技術を渡さないよう、宇宙人もロシア政府に警告してたんだそうな。

時期はともかく、どうも、それが現実になってきたように思われる。

朝日新聞の報道によると、今月(2011年11月)に入って、イランの軍事施設で謎の爆発が起きた。イスラエルの諜報機関の関与が取り沙汰されている。

爆発は12日に、テヘラン郊外の軍事施設で起きた。

「ミサイルシステムの開発を担った准将を含む17人が死亡したとされるが、死者はもっと多いとの情報もある」というから、もしイスラエルの仕業とすれば、明らかにミサイル技術を標的にしている。

爆発は、40キロ離れたテヘランでも聞こえたため、「ついに攻撃が始まったか」と身構える市民もいたという。40キロと言えば、東京都心と横浜より離れている。そんなところまで聞こえるとは、半端でない大爆発だ。

軍事施設は、荒涼とした土漠の中の岩山(いかにもイランらしい風景だ・・・)のかげで、フェンスと有刺鉄線が張り巡らされ、厳重に監視されている。単なる事故でないとすれば、何者のシワザなのか?

これがゴルゴ13の漫画なら、「これだけのことを為し遂げるヤツは、世界にだってゴロゴロしてないだろうな・・・」とかなんとか言われて終了、となるところなのだが、現実はそれではすまない。波紋が広がっている。

米タイム誌は翌日、欧米情報筋の話として、爆発はイスラエルの諜報機関モサドの仕業との見立てを報じた。情報筋は、開発阻止のためイスラエルがさらなる破壊活動を計画していると話したという。

イスラエル政府は、事件へのかかわりについて肯定も否定もしていないが、国防相はイスラエル軍放送で、「もっと爆発が起きればいいのに」と物騒な発言をしている。

イスラエルは、過去にもレバノン・シリア・イラクと、アチコチに空軍を送って軍事施設を爆撃し、破壊してきた「実績」がある。それだけに、イランをいつ爆撃しても不思議はないと見られている。米軍と共同歩調を取るとも限らない。北朝鮮も、隣国が日本でなくイスラエルだったなら、とっくにミサイル施設を爆撃されてることだろう。

イラン政府は、コンピュータシステムにもサイバー攻撃をされているという。中国や北朝鮮のサイバー攻撃にヤラレっ放しの日本にとっても他人事ではない。

中東の激動は続き、イスラエルの隣国のシリアでは、デモ弾圧で大勢の市民が死んでいる。軍の一部反乱も伝えられており、プチ内戦状態だ。

いよいよ、中東情勢も大詰め。なんとかシリアやイランを民主化させて、ソフトランディングしたいところなのだが・・・。

ファナー

2011年11月23日 | 東洋思想

仏教の修行者が涅槃(ニルヴァーナ)を目指すのと同じように、スーフィーにも目標とする境地がある。それは、「ファナー」と呼ばれる。

ファナーは、神と一体化して己れが無になっている、没我の状態だ。

仏教の「無我」とは異なり、スーフィズムでは「バカー」と呼ばれる真我のようなものがあって、それが神と合一する。バカーは、神の中で生き続ける永遠の生命。

ファナーは、熱狂的な信仰の極みだ。この世の人にとっては情熱と陶酔の夢幻境だが、ファナーを体験した人にとっては、それこそが真実在なのであり、むしろ、この世が夢マボロシだ。

コリン・ウィルソンいわく、

>われわれはスーフィーのファナーを、仏教の涅槃(ニルヴァーナ)と無条件に同一視することはできない。両語とも、個我性の消滅を意味するが、涅槃がまったく否定的であるのに対して、ファナーは神の中での永続的生命を意味する「バカー」を伴っている。スーフィーが神の美的観照の陶酔に我を忘れたときの歓喜は、仏教のアラハト(阿羅漢)の非情熱的、知的明澄性と完全に対照的である。

(コリン・ウィルソン著『イスラムの神秘主義』平凡社ライブラリー)
 
 
つまり、スーフィズムのファナーは、仏教のニルヴァーナと同じ忘我と至福の境地で、一見よく似てるけど、実は大きな違いがある。

「アッラーの他に神なし」という言葉を、一心不乱に魂に刻みつける。信仰を極限まで強めることにより、昇天して神と一体になる・・・というのが、スーフィズム。
 
一方、「汝もまた、信仰を捨て去れ」というのが、仏教の世界。凝り固まった信念からの解放を、何よりも優先する。もちろん、神への信仰もまた、捨て去るべき古い信念体系のひとつだ。信念を捨てることで、修行者は完全なる自由を手に入れる。
 
信仰の極致を目指す、スーフィズム。信念からの脱却を目指す、仏教。それぞれ目指すところは、実はほとんど正反対。

熱狂と陶酔のファナー。平安と静寂のニルヴァーナ。こんなに似てるのに、実は正反対なものも珍しい。

ただし、仏教にもいろんな宗派がある。浄土真宗の人たちは、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・・」と、アミダ様の名を百万遍も繰り返して、法悦の三昧境に入っていたのだから、スーフィズムに似ている。というより、スーフィズムの行を、一般向けにカンタンにしたような感じ。まあ、浄土真宗の場合は、キリスト教とあまりにも似てるので西洋人がビックリしたくらいなのだから、もともとアチラの方の宗教的なノリに近いのだろう。

ファナーに到達したスーフィーは、まさしく至福の極み。これぞ、宗教の醍醐味だ。

脚の水腫が悪化していたスーフィーが、脚の切断手術を断固拒否していた。医者は、スーフィーがファナー状態になっているときに、切断手術を行った。麻酔もしてなかったにも関わらず、スーフィーは手術されていることにすら気づかなかったという。

このようなファナーに関するエピソードが、スーフィーの歴史には数多い。スーフィーの中でも過激な人たちが、異端で宗教裁判にかけられ死刑になるのはよくあることだったが、ファナーのおかげで死刑になっても平気だった。

どうやら、スーフィーには、ひと足お先にアセンションしてしまった人が少なくなかったようだ・・・。
 

ズィクル

2011年11月21日 | 東洋思想
 


スーフィーは、数珠を持って「アッラー、アッラー」と、神の名をひたすらに唱える。日本の仏教で、念仏や題目を唱えるのと似ている。
 
この、神の名を唱える行は、「ズィクル」と呼ばれる。このズィクルこそ、スーフィズムで忘我の境地になるためのカギを握る、最も重要な行だ。
 
日本でいえば「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と同じく、ズィクルにも、唱えるための決まり文句がある。「アッラー」とか、「ラ・イラーハ・イッラッラー」(アッラーの他に神なし)といった、イスラム教の決まり文句を、ひたすらに唱え続ける。
 
師匠から弟子に伝授される秘儀だけに、それぞれにやり方も異なる。弟子は、師匠から教えられた通りに実践しなければならない。もちろん、師匠もいないのに自己流で実践するのは、魔境に入るモトなので、厳禁されている。だから、筆者もやってみたことはない(笑)。

井筒俊彦著「イスラム哲学の原像」によれば、ズィクルは、単に唱えるだけではない。たとえば、「ラ・イラーハ・イッラッラー」の場合は、最後の「アッラー」と言う言葉を、心臓に打ち込むように意識して唱えるのがコツだという。「ラ・イラーハ・イッ」まで、気の流れのように言葉が体内をめぐる。最後に、「アッラー」という神の名が、心臓に打ち込まれるのである。こうして、神との一体化を図っていく。

みんなで踊るように体を動かしながら、歌うようなフシをつけて唱えるので、まるで宴会みたいで、なんだか楽しそう(動画)。でも、だんだんテンポが速くなるにつれて、ちょっと怖くなる・・・。最後には、言葉というより、息を鋭く吐いているだけになって、極度にボルテージが高まる。

これを見て連想したのは、トランスパーソナル心理学者のスタニスラフ・グロフが考案した「ホロトロピック・ブレスワーク」だ。これは、深くて鋭い呼吸を、猛スピードで繰り返す呼吸法。これを実行すると、たちまち意識がモウロウとしてきて、強烈な変性意識状態になる。おかげで、退行催眠で出生時や過去世を思い出す人が続出したとか。グロフは、「ネイティブ・アメリカンの儀式から、これを思い付いた」と言っている。

おそらくズィクルにも、それと同じような効果があるのだろう。「アッラー、アッラー」が、テンポが早くなるにつれて、しまいには「アッ」とか「ラッ」という鋭い発声だけになる。この速く鋭い呼吸を続けることによって、変性意識状態になる。それだけでなく、声の波長が同通して、意識の振動数が上がる。
  
ズィクルを行ずる人々は、陶酔しきった表情をしている。ものすごい法悦の真っ只中で、忘我の境地になり、強烈な神との一体感を味わう。

昔、あるスーフィーの弟子がズィクルをやっていた。「アッラー、アッラー・・・」と、朝から晩まで唱えていた。しまいには、眠っているときにまでズィクルするようになった。そんなある日、ズィクルに夢中になっていたところ、頭の上に材木が落ちてきた。弟子は夢中なので気づかず、頭に当たって出血した。その滴り落ちる血の中にまで、「アッラー」という文字が見えたという。
 
これこそ、宗教の醍醐味だ・・・(!)
  

セマー

2011年11月21日 | 東洋思想

 
↑回旋舞踊の光景(画像はwikipedia 「メヴレヴィー教団」より)   
 
スーフィズムの修行は、師匠から弟子に授けられる。修行にはいろいろあって、やる順番も決まっている。スーフィーの師弟には秘密が多く、部外者が教えてもらうのは無理。秘教だし、正統派イスラム教から見れば異端で、トルコのように禁止した国もある。でも、情報化社会だけに、その神秘の実態はかなり知られるようになってきた。
 
日本では知名度の低いスーフィズムとは言うものの、唯一、世間の一般人にも知られている有名な行がある。まあ、有名と言ったって、「知る人ぞ知る」という程度の有名さなのだが・・・。

それは、セマー(回旋舞踊)(動画)だ。白いスカートをクルクル回転させる、スーフィズム教団の踊り。いまや、すっかり「トルコ観光の名物」となった。まるで、ベリーダンスみたい。でも、ベリーダンスとは違って、まったくセクシーではない。しかも、踊ってるのは男だけ。

なぜクルクル回るのかというと、トランス状態になって神と一体化するためだ。
 
というのも、回る速度が非常に速い。まるで高速回転のお立ち台に立ってるみたいなのだが、自分の足で回っている。しかも、かなりの長時間にわたって回り続ける。よほど練習しなきゃ無理な動きだが、もしできたとしても、すぐに目が回ってしまうだろう。

踊っている人たちは、慣れているから、目が回ってフラついたりはしない。でも、普通と違う状態なのは確かなので、だんだん変性意識状態になってくる。それが、この踊りの行をする目的だ。


クルクル回って変性意識状態になった踊り手は、忘我の中で神と一体化する。

単に変性意識になるだけではない。銀河系・太陽系・地球・・・と、宇宙のすべては回転している。原子やクォークも回転している。回転することによって、自分もまた、その一部となるのだという。

これは、スーフィズムの修行の中で突出して有名になったので、スーフィズムとは言えばコレだと思う人も多いのだが、やってるのは、トルコのメヴレヴィー教団というスーフィズムの宗派のひとつ。史上最高のスーフィーの一人、ジャラールッディーン・ルーミーが創始した宗派だ。
 
 

来るべき変容 ~ ペトル・ホボット氏

2011年11月18日 | 注目のスピリチュアリスト

ペトル・ホボット氏によれば、これまで一部のシャーマンに独占されていたスピリチュアルな変容が、これから人類全体に広がるという。ホボット氏は、それを「トランスフォーム」と呼ぶ。
 
そこで、浅川嘉富氏は持論を繰り出した。ご存知、「アセンション」だ。もうすぐ、三次元の地球が次元上昇して、五次元に移行するというもの。
 
それに対して、ホボット氏は「そのようなことは、近い将来には起きません」と断言した。驚いた浅川氏は、血相を変えて詰め寄った。対談本にも、その詰め寄った様子は表れているのだが、実際にはもっと激しく問い詰めたらしい。ついには、ホボット氏から「アセンションに関する肯定的な見解」を引き出すことに成功した。

このやり取りは、精神世界関係者の間でちょっとした評判になってしまったが、実際には、ホボット氏は近い将来の変容を否定しているわけではない。むしろ、全編にわたって、それを主張していると言ってもよい。ホボット氏が否定したのは、「五次元世界に移行する」ということ。それは、地球人類にはまだまだ無理で、「あと3000年で実現すれば上出来」らしい。ホボット氏が言う「五次元世界」というのは、半霊半物質どころか、完全な非物質界そのもの。いくらなんでも、そんなとこまで一足飛びには行けないよ・・・という話なのに、ここは浅川氏が、ちょっと焦りすぎたようだ。

それから、ホボット氏は、「人は外部の力で変わるわけではなく、自分自身の力で進化しなければならない」と強調している。さらには、「地球の次元上昇に乗り遅れた魂は、別の惑星に移される」という考えを好まないようだ。そのあたりが、浅川氏の持論に違和感を覚えた原因と思われる。

とはいうものの、ホボット氏は、「近いうちに波動的な移動が行われます」と明言しているのだから、別に血相を変えて詰め寄るような場面ではなかった(笑)。ただし、大きな変化が起きるのは確実だが、その変化がどのようなものになるかは、決まっていないという。今は、分岐点にいる状況だ。

まず、銀河系コアからの波動が変わり、それが太陽の波動を変えて、さらに地球をも変える。このようにして、物質的な宇宙の変化も進んでいる。

でも、やっぱり、誰もが気づくほどの劇的な変化ではないらしい。少なくとも当初は、世間の一般人の多くが無関係なものとなりそう。

ただし、「波動の上昇に備えて準備のできている人たち」にとっては、劇的な変化が訪れる。なんと、「3次元に存在すると同時に、アストラル界(4次元)にも存在することができるまでに波動が上がります」ということだ。

それはつまり、自分の体を非物質化させたり、再び物質化させたりして、好きなときにアストラル界に出入りできるようになることを意味する。ちなみに、ホボット氏はすでにそれを3回経験しているという。いわく、

>非物質化のプロセスでは、まるで自分の肉体が溶けてしまうような感覚に襲われ、しばらくすると透明になり消えてしまいました。その状態でアストラル界に行ったのです。

「なお、非物質化したときには自分の体の形を意識で自由に変え、老人や若者になることもできます」というから、アンチエイジングは必要なくなる。松田聖子もビックリだろう。

そんなこんなで、ごく近い将来に起きる巨大な変化は、やはり少数の人々から始まることになる・・・ということに、ホボット氏の話の要点はあるようだ。

そこで、浅川氏は「わたしが聞いている情報に、こういうものがあります」と切り出した。それは、「来るべきアース・チェンジについて、宇宙にも2通りの考えがあり、穏健派と急進派に分かれている。急進派は、天変地異を起こして人口を激減させてでも、一気に地球を変えてしまうべきだと考えているが、穏健派はもうちょっと時間をかけて、ゆっくり変えていこうとしている」というもの。ご存知、坂本政道氏がヘミシンク・ワークによって得たアセンション情報だ。
 
それを聞いたホボット氏は、ビックリしていた。「その通りです。浅川さんが、それほどの情報を持っていることに驚いています」だという。

さらには、浅川氏は「このように2つの考えが分かれている原因は、『銀河系コアから流れ込む生命エネルギーが、いつまで続くか分からない』というところにある。急進派は、長く続かないのではないかと懸念している」と続けた。これまた、ホボット氏は驚くやら感心するやらで、「その通りです。浅川さんは、非常に質の良い情報を持っていますね」とコメントした。

筆者も、ヘミシンクをやってないにもかかわらず(笑)、この話に非常に興味をひきつけられて坂本政道氏の本を盛んに取り上げていたのだが、ホボット氏にとっても、これは宇宙の最高機密であるらしい。

「死後世界の信念体系領域が、高次の存在によって急速に浄化されている」という話といい、両者の間には符合する情報がとても多いことに、浅川氏もナットクしていた。
 

多次元世界の構造 ~ ペトル・ホボット×浅川嘉富

2011年11月18日 | 注目のスピリチュアリスト
  
「パラレル・ワールド」は、ペトル・ホボット氏が語る世界観のキーワード。これには、大きく分けて2つがある。ひとつは、物質世界よりも高次元な世界としての、非物質界。もうひとつは、同じ物質界だけど、似て非なる別の世界。

「バシャール」でも、「これからの地球は、多くのパラレル・ワールドに分かれる」としているのだが、ホボット氏によれば、もともと分かれている。多くの「別の地球」の中には、人類がまだ発生しておらず、鳥や獣だけの世界もあるらしい。いまだに恐竜が闊歩している地球もあるということだ。パワースポットは、そんなパラレルワールドへの出入口。南米のシャーマンたちは、そこを通って自由に出入りしてきたのだという。特に、古代においては、現代ほど世界が固まっていなかったので、もっと自由に出入りすることができた。

太陽系の惑星にも、いくつかの層があり、各層には別の世界が広がっている。地球と同じ次元における金星や木星は、とても人間が住めるような環境ではないのだが、別の層には生命体がいるという。実は、いくつかの天体は、そこへ地球人が生まれ変わるための目的で準備されているらしい。これから地球の波動が急上昇するのに伴って、高い波動を嫌った魂が生まれ変わるのも、そうした別の天体になりそうだ。木星の衛星が、そのための有力な受け皿の候補だという。

ここで、浅川嘉富氏は、「アセンション~最後の真実」の本に書いた、死後世界の構造について語った。主にモンロー研究所の「フォーカス」理論をベースにした、ロバート・モンローや坂本政道氏のファンにとってはオナジミの構造だ。筆者も、数ある死後世界観の中で、これが現在の実情に一番近いのではないかと感じている。
 
ホボット氏も、独自の死後世界観を語った。それは、おおむねモンロー研究所の世界観と一致していた。それによると、アストラル界(4次元世界)は3つの段階に分かれているという。

第1の段階は、死んだ人がまず行く領域であり、そこがどういう世界であるかは、その人の考え方による。「それはある意味で夢に似ており、人は自分で作り出す環境に囲まれる」のだという。だから、人それぞれに、天国のようにもなれば、地獄のようにもなる。基本的にはみな、生きていたときの姿にこだわっている。モンロー研でいう、フォーカス27より下の「信念体系領域」によく似た世界だ。

宗教団体の人たちなどは、集団で、その宗教の世界観に合った世界を作り出している。キリスト教なら、キリスト教の祭壇があって、みんなで礼拝しているということだ。当然のことながら、信者にとっては、自分の信念と合致した、とても居心地のよい世界で、誰もが天国だと思い込んでいる。死後生活者が、この集団的な信念体系領域に入ると、長期滞在になりやすいので危険。

でも、いまや地球は、トランスフォーミング(変容)の真っ只中にある。死後世界も例外ではない。ホボット氏によると、アストラル界は変わってきており、10年前とはずいぶん違う世界になってきているらしい。上の階層から来た光の生命体たちが、信念体系領域を破壊しており、囚われた人々を救出しているという。まったく、頼もしい限りだ。

アストラル界の第2段階に入ると、そこには重要な学びの場が待っている。上の次元から多くのアシスタントがきていて、死後生活者を指導してくれる。魂は、映画を見るようにして自分の人生を再体験したり、自分と関わった他人や動物の立場で再体験したりするのだという。魂は、ここで自分の人生を客観的に見直し、前の人生で何を学んだかを理解する。

アストラル界の第3段階は、さらに大きな学びの場だ。ここでは、魂はもはや、前の人生での姿にこだわっていない。ここには、学校のようなホールに画面がたくさんあり、魂は3D映像でさまざまな人生を見ることができる。とても広い図書館もあって、「地球の過去についての情報」がふんだんにあるという。筆者がアストラル界の第3段階に行ったら、この図書館に入り浸りになって、地球の歴史について何もかも知り尽くすまでは出てこなくなるだろう・・・。
 
この3つの段階を終えた魂は、また生まれ変わる準備に入る。ホボット氏によれば、3段階を数日で通過する人もいれば、どこかにハマッて何百年もかかる人もいるらしい。

ホボット氏は、「アストラル空間は、3次元の地球よりも断然広い領域」だという。出口王仁三郎が言っていた、「富士山を、お座敷の掛け軸の絵に写した、うつし絵の世界。それが、『うつし世』なのだ」というようなものだろう。そもそも、物質界のような空間の制約がないのだから、広く見えるのは当たり前か・・・。

昔は、生まれ変わるのには時間がかかっていたが、最近は地球の人口が増えたのに伴い、地球人の多くは「平均して15年から20年」のサイクルで生まれ変わっているらしい。ずいぶん、早いサイクルになったものだ。
  
そんなアストラル界(4次元世界)の遥か上方には、「魂の故郷」がある。12次元にいる存在である「源」が、魂を作っている。とはいっても、いきなり個々に分かれた魂を作っているわけではない。最初は、巨大なカタマリとして創造される。そんなカタマリの中で、完全に分かれる前の個々の魂が、とても速いスピードでコミュニケーションしているという。その巨大なカタマリが、分割されてクラスターとなり、そこには数千の魂が含まれている。各クラスターは、無数のパラレルワールドのどこかに送り込まれ、そこで個々の魂は、輪廻転生するかどうかを選択するらしい。

選択肢は、無数にある。あるとき、ホボット氏は、「どれくらいの数の宇宙が存在するのですか?」と、光の生命体に聞いてみた。「地球上に存在する酸素分子の数ほどに、たくさんの宇宙がある」というのが、その答だった。ほとんど無限大に近い・・・。