宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

時間の観念 ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ

あるがままを、あるがままに見る。

物事をそのまま見ればいいんだから、本来は簡単なはず。それが、難しい。出来そうで、出来ない・・・。

なぜ、難しいのか。それは、あるがままに見ることを阻む、強力な無意識の障壁があるから。

「過去の記憶」が、そのひとつ。 

「ああだった、こうだった」という過去の記憶。それが、「ああである、こうである」という、先入観に変わる。

人は誰しも、「先入観」というメガネを通して物事を見ている。だから、あるがままに見ることができない。

このことに、自覚症状はない。曲がったメガネを通してモノを見れば、自然に曲がって見えるのと同じ。慣れてくると、それが普通に思える。

先入観の最たるモノは、カルト宗教の教義(宗教的ドグマ)でしょう。これに取り憑かれた人とは、もはや通常の会話を成り立たせることすら難しい・・・。
 
でも、クリシュナムルティによれば、あるがままに見ることを阻む障壁は、過去の記憶だけではありません。

「未来への希望」も、それに加わります。
 
「ああなりたい、こうなりたい」という、意志。「ああなってほしい、こうなってほしい」という、願望。それが混ざると、「あるがままを、あるがままに見る」ことからは遠ざかってしまう。

「覚醒」についても例外ではない。
 
「明日こそ、覚醒しよう」と思っただけでダメなんだそうだ。

「いま、この瞬間に覚醒する」でないといけないらしい。

というのも、「時間」は物質界特有の観念。この観念を持ち込んだ途端、物質界の破壊的な混沌が、精神の領域にもたらされる。それは、破壊的な作用をもたらす。

長年の地球暮らしで刷り込まれた 「時間」の観念から解放され、強烈に「今」を感じる。

過去も未来もない。

強烈な、「今」の現存。

精神にとっては、「この瞬間」 しかない。永遠に・・・。


受動的な凝視 ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ
   
クリシュナムルティは、「あるがままを見る」を強調した。

それは、一切の先入観を捨てて、ものごとを見ること。

だからいって、ぼんやりと、何も考えずに見ればいいというわけではないから厄介だ。

Kが言ってるのは、「受動的な凝視」。
 
「凝視」というからには、ボーッと眺めるわけではない。ジーッと見つめることを意味する。
 
必ずしも、自然体で実現できることじゃありません。研ぎ澄まされた観察力が要求されます。
 
自分の思考や感情を、隅々まで完全に把握する必要があるというから、簡単なことを言っているようで、実はかなり難しいことを要求されている。

しかも、「受動的」というのがポイント。

「これは良いことを言ってるな」とか、「コイツはまちがってるな」とか、そういう主体的な判断を棄てる。何も判断しない。それが「受動的」ということ。

しばしば、講義を聴いている生徒が「受け身の姿勢で聴いている」と言って非難される。これは、主体性がなくて自分では何も考えていない、「自ら求めていない」というわけなのだが、真の求道者の場合はむしろ、それでいい(笑)。
 
ルドルフ・シュタイナーも、「いかにして超感覚的認識を獲得するか」という著書で、「主観的な判断の停止」を強調していた。「主観的な判断を交えずに本を読む」という訓練をする。最初はなかなかそうもいきませんが、練習あるのみ。

徹底的な自己放棄。とことん、受け身の姿勢。それが、秘儀参入を求道する修行者の道・・・。

そこまでは、クリシュナムルティも同じ。だが、Kはそこにとどまらない。
 
Kによれば、「こうあってほしい」という願望、「このようになりたい」という意志なども、大きな障壁になるという。
 
「こんな風になりたいな」と、強烈に念じろ。そうすれば、思考が現実化するから・・・という具合に、成功哲学ではしばしば言われる。

たしかに、そういう面もあるだろう。

でもそれは、「あるがままに見ることを阻む」という、副作用を伴うから要注意(笑)。
 
 

あるがままに見よ ~ クリシュナムルティ

2008年11月30日 | クリシュナムルティ
    
クリシュナムルティの箴言
   
   
1. 「あるがままのものを,あるがままに見よ」

2. 「虚偽を虚偽と見,虚偽の中に真実を見,そして真実を真実と見よ」

3.  「“真理”は、自己の思考が完全に終焉したときに、向こうからやってくるものである」


・・・   
 
我々もクリシュナムルティを見習い、無益な宗教的ドクマを捨てて、あるがままを見るようにしましょう。

あるがままを見ると、矛盾した自分が見えてくる。 内面の葛藤や矛盾を見ることになる。 すると、嫌気が差す。 だから、よく見ない。
 
嫌気が差すと、見なくなるのが世間の一般人。 

嫌気が差すことを、非難せず、正当化せず、その感情や思考をただ、眺める。 

それだけの事で、人は劇的に変革できるという。
   
 

世界一の癒し系ロボット

2008年11月30日 | こっくり亭日記



ロボットWATCH


 「世界一の癒し系ロボット」 としてギネスブックに認定された、かの有名なアザラシ・ロボットの 「パロ」 が、北欧に本格進出だ。 

パロは、赤ちゃんアザラシ型ロボット。 頭や手足を動かして、「キュー」 と言うのが特徴だ。 「カワイイ」 と海外でも評判になり、今までにも輸出されていた。 今回は、デンマークに代理店ができて、本格的な海外進出第一号になるというから、いよいよ本物だ??  

高度な福祉国家として知られる北欧諸国で、パロは高齢者施設の癒し系ロボットとして活用される。 アニマル・セラピーならぬ、ロボット・セラピー。 日本では、すでに同様な目的で盛んに活用されている。

どうやら、パロが世界に普及して、ロボット界のデファクト・スタンダードになる日は近そうだな・・・!!  
 
  

無我の境地 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
 
<1922年の夏:クリシュナジの体験>
 
  
ひとりの男が道路を修理していた。

その男は自分自身なのだ。

上げている彼のツルハシも自分自身だ。

ツルハシに砕かれた大きな石の欠片も自分自身である。
 
一枚の草の葉は自分の存在そのもので、男の後ろにたたずむ樹も自分自身だ。

自分の感性や思いは道路修理者そのものに融合し、梢を通りすぎる風を感じ、草葉の上の小さいアリを感じた。

つぼみも、ちりも、そしてあらゆる雑音も自分の一部である。

ちょうどそのとき、自動車が遠くへ走り去る。

自分は運転者、そしてエンジン、タイヤである。

自動車は遠くに去っていき、自分も自分自身から去って行く。
 
なにもかもが、自分の中にある。
 
というより、なにもかもが自分なのである。
 
生命のないもの、そして生命を吹き込む山々、虫、それから呼吸をしているすべての物たちが、自分自身なのだ。
 
 


これこそ、「無我の境地」の見本。

仏典でブッダの言葉を読んで、「無我とか、自他不二って、一体なんなの?」という疑問がわいてきたとする。

そんなときは、上の文章を読み返す・・・。
 
 

思考の観察 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
 
(クリシュナム-ティは)つまり、思考はどのような起源を持ち、どのように働き、どのような結果を生んでいるかという一つの事実を発見したのです。

(R・パウエルいわく・・・)

「クリシュナムーティが心理の領域で成し遂げたことは、物理学においてアインシュタインが行った革命に匹敵すると言ってよい」


そして、私たちの頭の中で働いている心理的な思考の動きを克明に観察することによって、私たちはその思考の全構造を知ることができる、とクリシュナムーティは言っています。

このようにして思考の全体の働きを知ることによって、心理上の思考が完全に停止し、精神が静寂になったとき、そのとき私たちに絶対の「真理」を知る可能性が生まれてくる、と彼は言うのです。

「真理」は自己の思考が完全に終焉したときに向こうからやってくるものである、とクリシュナムーティは言っています。


(クリシュナムルティ 「自我の終焉」日本語版の訳者前文より)

 
  
これは、思考停止のススメ。
 
要するに、「何も考えない」ということ。

「ああでもない、こうでもない」という、日常、我々の頭の中をグルグルと渦巻いている考え。「精神の静寂」を得るためには、まず、このグルグル渦巻いているものを止める必要があるらしい・・・。

実際のところ、インド人は昔から、これが大好き。2千年以上も前に釈尊がインドで修行していた頃も、修行者たちはみんな 、「思考」 を止めようと思って一生懸命に 「無念無想」 の瞑想行をやっていたという。

しかし、「思考」は、止めようと思って止められるものなんだろうか?

現実にはなかなか、そうもいきません。

そこで、クリシュナムルティが勧めるのは、自分の頭の中を渦巻いている思考を「止める」というより、「観察」すること。
 
「敵を知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」という格言もある。まずは、敵(思考)を知れ、というところか。
 
「思考を観察する」。それが、われわれのテーマ・・・。 
 

あるがままの全体的知覚 ~ クリシュナムルティ

2008年11月26日 | クリシュナムルティ
  
クリシュナムルティによれば、真理の知覚が可能になるのは、「あるがままの全体的知覚」が実現されたときだけだという。
 
「あるがままの全体的知覚」とは何か。
 
「あるがまま」というのは、物事を、先入観で歪めることなく、そのまま見ることを意味する。

「全体的」というのは、いろんな部分に分かれていない、分けないということ。 分析するのを止めた結果、分離がなくなった状態を意味します。 
 
人は、「ああでもない、こうでもない」と、分析する。 そして、「ああである、こうである」と、思い込む。

それらは、あるがままの全体的知覚を妨げる。

過去の哲学や宗教は、皆、思考や観念の産物。

それらは、すべて否定の炎によって浄化されなければならない・・・。
  
「あるがままの全体的知覚」とは、一切の偏見から離れた、無我の状態でのみ実現される純粋な認識。

そこには、分離がない。 偏見もない。 思考がない。 観念もない。

もっとも、これは、出来そうで出来ない・・・。
 
 

組織を捨てた、クリシュナムルティ

2008年11月25日 | クリシュナムルティ
 

「20世紀最高の聖者」として名高い、ジドゥ・クリシュナムルティ。現代において、最も釈尊の思想に近い人物としても知られる。

そんなクリシュナムルティは、1895年5月12日、南インド・タミルナドゥ州マドラスの近くでバラモンの家系に生まれた。

当時のクリシュナムルティは、ぼーっとした子供であったという。英語も数学も、非常に苦手だった。特に、記憶力が致命的に悪かったとされる。

14歳のとき、転機が訪れた。南インドの道端でぼーっと座っていたクリシュナムルティ (K) 少年に、、イギリス人の神智学協会の幹部・リードビーター師が目を留めた。K少年が放つ巨大なオーラに圧倒されたリードビーター師は、神智学協会で引き取って育てることを決める (稀代の美少年だったK少年を、美少年好きのリードビーターが見染めたとも言われる)。

その後、ヨ-ロッパの神智学協会に連れて行かれたKは、救世主マイトレーヤが降臨するための 「乗り物」とされ、英才教育を受けることとなる。 マイトレーヤ (弥勒菩薩) の化身たるKを覚醒させるべく、何度もイニシエーションが実施されたという。

1911年、神智学協会の会長であったアニー・ベザントは、クリシュナムルティを長とする宗教団体、「東方の星の教団」を設立した。ついに教祖となったK。

ドイツ神智学協会の大物・シュタイナーは、これを見て怒り、去っていってしまった (正確には、イギリス本部と対立したため、除名された)。 タイプは違うが、20世紀の精神世界を代表する2人の大物の人生が交差した瞬間だ。
 
Kも、最初のうちは教祖の役割を忠実に演じていた。だが、やがて反抗するようになる。よほど、宗教団体が嫌いだったのだろう。

そして、1929年、 クリシュナムルティは 「真理は道なき道であり、いかなる組織体とも無縁である」と宣言して、教団を解散した。当時、神智学の教団には3千人あまりの信者がいたという。現役の教祖が教団を捨てたのは、当時としても宗教界を揺るがす衝撃的な事件だった・・・。

フリーの宗教家になったクリシュナムルティは、世界各地を回って講演した。講演は各地で評判を呼び、Kは有名になった。ハリウッドでは映画スターへの道も開けたが、それをも捨てて講演活動に邁進した。それは、90歳に至るまで半世紀以上にも及んだ・・・。    
 
 

独立に向かうグリーンランド

2008年11月25日 | こっくり亭日記


EURONEWS (英文)

年々、氷が薄くなる北極圏。シロクマの生息地も急減している。そんな中で、政治的にも激震が走る(?)

ドイツの北にある、中欧の小国・デンマーク。そんなデンマーク王国だが、領土面積だけは、欧州諸国の中でも突出してデカい。それは、北極の巨大島・グリーンランドを領有しているから。

しかし、この人口57,000人の島国は、デンマークからの独立に向かって、大きな一歩を踏み出した。地方自治を拡大する住民投票を実施する。内容は、「グリーンランド語を公用語にする」とかなんとか・・・。

もっとも、この島には、これといった産業がない。強いて言えば、観光と漁業くらいのものだ。 だが、将来は有望だ。イギリス経済を潤わせてきた北海油田の延長かどうかは知らないが、石油がかなりあるらしい。

デンマーク王国政府は、「どうしても独立したいというのなら、仕方がない」という姿勢のようだ。 デンマークの領土は数十分の一に縮小することになるが、人口はそれほど減らない。

はたして、300年に及ぶデンマークの支配に、終止符が打たれるか。

それもいいけど、温暖化と環境破壊が進む、北極圏をまずなんとかしてくれ・・・・・。    
 
 

長崎で、江戸時代の殉教者を列福

2008年11月25日 | こっくり亭日記
 

長崎新聞の記事

  
  
長崎の原爆記念公園で、江戸時代初期に殉教したキリシタン188人の列福式が、厳かに挙行された。ローマ法王の代理で、枢機卿が来日。国内外から、3万人が参列した。今回の福者 (聖人に継ぐ名誉称号) には、世界を渡り歩いたペトロ岐部や、天正遣欧使節の中浦ジュリアンが含まれている。
 
今回、列福されるのは1603年から1633年までの間に殉教した人々なのだが、キリシタン迫害はその後も続いた。弾圧は江戸時代の250年間に及び、明治維新を迎えるまで続いた。それまでに殉教した人数は、数万人から数十万人まで諸説ある。

明治維新で迫害は終わったということになっているが、実際には、明治新政府も当初はキリシタン弾圧をやっていた。欧米諸国からのたび重なる猛抗議を受けたが、それでも明治新政府は粘り、弾圧を何年か続けた。

江戸時代のキリシタン弾圧は、処刑方法が凄惨を極めたことで知られる。はりつけ・火あぶり・逆さ吊り・ノコギリ引きは当たり前。こうした処刑は、わざとゆっくり行われたという。

今回の列福では、雲仙岳でも供養が行われた。硫黄の煮えたぎる熱湯を浴び、もうもうと噴煙を上げる噴火口に投げ込まれた、キリシタンの霊を慰めるためだ。
 
これもまた、血塗られた地球の歴史の一幕。

黙祷・・・・・。