宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

中国の思想

2011年10月31日 | 東洋思想

中国の思想といえば、「儒・仏・道」の三教だ。日本でも神道と仏教が混ざりあってコンガラがっているように、中国でも、儒教・道教・仏教の三教がフクザツに混ざりあっている。

良くも悪くも、現実主義者だというのが、中国人の特徴。中国と言っても広いけど、全般的な傾向として、中国人は伝統的に「この世」しか見ていない。

インド人は輪廻転生、イスラム教徒やキリスト教徒は天国や地獄を、大昔から気にしてきた。それに比べて、中国人は、もともと「あの世」にあまり関心のない人々。これについては、「中国は気候風土に恵まれているから、砂漠や熱帯のような厳しい環境に生きる人々と違って、あの世に憧れなくてすんでいた。だから、あの世の話に興味がないのだろう」と言われている。

そんな中国人の宗教は、なんといっても「道教」だ。道教の特徴は、「不老長生」を説くこと。元気で長生きして、子孫を増やし、この世において繁栄することを目指している。仙人の修行をするのも、道教だ。不老長寿の仙丹を練ったり、気功パワーで瓦を叩き割ったりするのも、道教だ。

そんな道教と並ぶ存在なのが、「儒教」。これは、もともと「先祖供養」がメインの宗教だ。 巫者が出てきて先祖の魂を招く、「招魂」の儀式を行う。そうすると、先祖の魂はときどき、この世に戻ってこれるのである。そして自分も、子孫に供養してもらうことを期待する。こうして代々、受け継がれていく。

その後、孔子が出てきてから、儒教は学問として体系化されていった。これまた、父母に孝養し、先祖を祀るのが人間としての務め。

儒教も道教も、基本的に「この世」しか見ていない。「あの世」とか「生まれ変わり」とか、そういう話をしないのが特徴だ。

そんな中国人を大きく変えたのが、インドから伝来した仏教。この仏教は、海を渡って東南アジアから、砂漠のシルクロードを通って中央アジアから、それぞれ中国に入ってきた。これは、三国志の劉備や曹操より、ちょっと後の時代のこと。

仏教のおかげで、中国でも「輪廻転生」が知れ渡るようになった。この世のことしか考えないのが特徴だった中国人が、良いところに生まれ変わりたい、極楽往生したいと願うようになったのだから、まさしく思想革命。「来世はどこに生まれ変わるか」というような話が中国人の日常会話にも出てくるようになり、なんだかインド人みたいになってきた。

仏教が大流行して、すっかり仏教国になった中国。南も北も、お寺だらけになった。あまりにも大勢が出家して坊さん・尼さんになってしまうので、このままじゃ世の中が成り立たんわいとばかりに、皇帝が廃仏毀釈をなんども起こした。それでも、しばらく経てば元通りになった。

すっかり仏教国と化した中国。ところが、そのままでは終わらなかった。なんと、千年前の宋の時代あたりから、儒教が、だんだん巻き返してきたのである。このままじゃ、仏教にとてもかなわないと知った儒教の先生方は、思い切った巻き返しに出てきた。

なんと、儒教の先生方は、もとはといえば占いの本だった「易経」を、根本経典に据えることにした。易者が、筮竹をふるって「吉兆の卦が出ましたぞ・・・!」とかなんとか言ってる、あれだ。占いの本とはいえ、バカにできない。「陰陽五行」の世界観の元ネタが、この易経なのだ。“yin & yang”といえば、欧米人でもみんな知ってるほど有名。これこそ、中華伝来の世界観とするにふさわしいアルよ・・・と、儒教の先生方は判断した。
 
こうして、儒教は、陰陽2元の世界観をベースにして、新しい儒教に生まれ変わった。新たな東洋思想の始まりだ。やがて、それは日本や朝鮮も巻き込んで、東アジアの正統になっていった・・・。

というわけで、中国の宗教史の流れをざっくりと言えば、大体そんな感じになる。

コルマン・インデックス終了

2011年10月30日 | 精神世界を語る

2011年10月28日(日本時間では29日)、コルマン・インデックスでいう「マヤ暦・最後の日」が終了した。

筆者の感想を言えば、「コルマン博士の予測が、予想以上に的中してきたな」というのが、率直なところだ。

世界各国の金融や財政は、コルマン博士が予言していたとおり、2011年の夏から秋にかけて、急速に悪化した。もっとも、コルマン博士は、「一気に貨幣経済が終焉して、新しい経済システムに移行する」としていたわけだが、さすがにそこまでは行っていない。

ただ、個人的には、「すぐに貨幣経済が終わる」という考えに、あまりにも無理がありすぎたのであって、経済危機の予測に関しては、コルマン博士の予測が驚くほど的中したと感じている。正直、ここまで世界経済がヤバい状況になるとは思っていなかった。

もともと、「2011年秋までに貨幣経済が終焉する」という考えは、あまりにも急進的すぎた。高島康司氏のブログには「タイムラインがずれてきたようだ」と書いてあったが、タイムラインもなにも、そんなの最初から無理だ(笑)。

これについては、筆者は去年から、「さすがに、それは無理がある」と率直に書いてきたし、今でも、あと10年や20年じゃ実現不能と考えている。そんな短期間じゃ、貨幣経済システムが終了するどころか、米ドルが基軸通貨でなくなることも実現は難しいだろう。
 
でも、客観的に見れば、筆者が事前に予想していた以上に、世の中はコルマン博士が予測したとおりに動いてきていると思う。この先、世の中が急速に変容していく方向性が見えてきた。日本と同じように、世界でも、人々が経済的な成長や繁栄をあきらめ、長期継続型の社会へと移行する方向だ。欧州危機と同じで、予想を上回る早さで経済社会に変化が起きる可能性は十分にある。

経済問題も大事だが、もっと重要なのは、「人類の意識進化が完成し、統合意識が出現する」の方だろう。経済のような、目に見えやすい問題とは違って、これは分かる人にしか分からない。そんな「統合意識」が本当に出現したかどうかは、世間の誰もが気にしていることではないからだ(笑)。

ただ、これについても、「本当にそうなってきたんじゃないか」と個人的には感じている。

「人類の意識進化が完成する」と言ったって、60億を超える地球人類全員が一気に目覚めて、まるで違う生物に進化したように見えてきた・・・という具合になるのかと言ったら、さすがにそれは無理がある。もともと、人類全員の意識を一斉に高めるのが無理であることは、何十年も前から言われてきている。

「意識の進化」というのは、当初はごく一部の人々によって、後にはカナリ多くの人々によって実現されると言われているのだが、残念ながら、人類全員が意識進化のビッグウェーブに乗ることはありえない。どうしても、乗り遅れる人の方が多くなるのは避けられない。それは、精神世界関係者の間では、ずっと前から出来上がっているコンセンサスだ。
 
もしも、現時点で意識を覚醒した、一定以上の人数の人々が世界にいて、この地球世界に小規模ながらも「統合意識」が出現したのなら、コルマン博士の予言は的中したと十分に言ってよい。

個人的には、いまや、この地球に「統合意識」が出現した。今は小さくても、大勢の人々が加わることによって、これから大きくなってくる・・・というのが、どうやら実現したんじゃないかという気がしている。根拠はないけど、「統合意識」が出現したことは、なんとなく感じられる。

いずれにしても、経済問題と同じく、それは今後の数年で明らかになってくることだろう。もちろん、筆者の個人的な感想にすぎないのだが・・・。
 

無我の実感

2011年10月30日 | ヴィパッサナー瞑想
 
仏教的なモノの見方を身につける(正見)・・・と言っても、それになじめない人は、もちろんいる。

秋月龍ミン師がどこかで書いていたのだが、あるとき、山田無文老師が、仏教的な「無我」の教えを説いていた。アナタがたが霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではない。錯覚の産物なのだ。我はない。ただ、全体あるのみ・・・という、無我の教え。仏教の根本教義だ。現代のスピリチュリズム風に言うならば、「究極のワンネス思想」ということになるだろう。
 
これを聞いた無学で素朴なお婆さんが、「人は死んだら、何も残らないんでしょうか。生まれ変わって、もう一度、人生を送ることはないんでしょうか」と老師に質問した。老師は、「生まれ変わることはない」と即座に断言した。仏教的には、まったく正しい回答だ。だが、それを聞いたお婆さんは、実に寂しそうな様子をしていたという。それを見た老師は、「もっとも、自分のために生まれ変わることはないのだが、世の人々を救うために、この世に再び生まれてくることはあり得る」と付け加えた。それを聞いて、お婆さんはやっと安心したという。

これについては、古代インドのお釈迦さまの説法も、実はそうだった。釈尊は、2通りの教えを相手に合わせて使い分けていたのだ。これを「対機説法」という。

つまり、本気で「意識の覚醒=解脱」を目指している、プロの求道者に対しては、「悟った人は、どこにも再生しない」という教えを説く。
 
でも、各地の村や町を巡回して、在家の素朴なお爺さん・お婆さんたちに教えを説くときは、そういう話をしなかった。その代わりに、「善いことをした人は、善いところに生まれ変わります。悪いことをした人は、悪いところに生まれ変わります」というような教えを説いていた。

これらは、初期仏典を見れば随所に出てくるので、仏典愛読者には毎度オナジミのエピソードだ。  
 
要するに、天国や地獄に生まれ変わったり、この世にまた生まれ変わったりする・・・というのは、アマチュア向けの親しみやすい教え。プロやマニアに対しては、「どこにも生まれ変わらない」という教えを説く。これが、釈尊の対機説法。
 
無我の教えを聞いて、「暗い」とか「寂しい」と思うような人には、この教えは向いていない。本人のためにならないから、別の話をすべきなのである。もっと、彼らにとってナジミやすい話をしてあげたほうが良い。「方便」というのは、そういうものだ。
 
でも、無我の思想は、本当にそんなに暗くて寂しいのだろうか。もちろん、別にそんなことはないのである。
 
むしろ、本物の求道者にとっては、すがすがしくて気分爽快になる教えと言ってよい(笑)。これを体得すれば、この世にいても悩みがなくなる。人間にとって、最終的な、究極のプレッシャーからも解放されるからだ。
 
無我は、理屈ではない。体感するものだ。

無我を実感するには、やっぱり、ヴィパッサナー瞑想。これによって、思考の停止と、気づきの増大を実感する。

これによって、心の平静が得られるばかりでなく、意識が途方もなく鋭敏になるという一挙両得だ。
 
これこそが、お釈迦さまによって示された、覚醒への道。ありがたや。合掌・・・。
 

意識進化の日

2011年10月27日 | こっくり亭日記

いよいよ、明日がコルマン・インデックスでいう、「マヤカレンダー最後の日」こと2011年10月28日だ。とはいっても、世間の一般人の目には、何事もなく日常のひとコマとして過ぎてしまいそうだ。
 
でも、明らかに激変は進行している。各国の金融・財政危機は、先送りしてきた問題のツケが一気に噴出してきており、どこかで大きな調整が避けられそうもない流れにある。数年前の金融危機の頂点となった「2008年秋のリーマン・ショック」も、2007年春に欧州の金融機関がサブプライムローンで経営危機に陥ったことが発端となったのだ。この夏から秋にかけて欧州の金融・財政危機が再び表面化したことは、後から振り返れば、第2の危機の出発点と位置づけられる可能性が高い。
  
もはや、人々は経済成長をあきらめ、別のことに目を向けるしかない・・・というのが、コルマン博士の見立てだ。それは、世界中が日本のようになることを意味する(笑)。日本では、20年も続いたデフレのおかげで、この先の経済成長を期待する声がほとんど出てこない。もちろん、景気は常に循環している。悪くなったものは、いずれ必ず良くなる。でも、かつてのような経済の急拡大は、もはや期待できそうにない。せいぜい、右肩下がりのデフレ・スパイラルを食い止めるくらいが関の山・・・と見る人がほとんどだろう。
 
世界中の人が、こんな諦観に達すれば、経済成長の時代は終焉すると思われる。そう、諦観だ。それは物質的な繁栄に対する、アキラメから始まる。もちろん、それが良いか悪いかは、見る角度によって異なるのだが。

先日は、ある経済評論家が、「最近の日本の若者は、車は欲しくない、家も欲しくない・・・という人ばかり。外国の若者とは違って、車を買って彼女とデートに行こうとか、そういう燃えるものがない。こんな国の経済が発展するはずがない」と嘆いていた。確かに、そのとおり。もちろん個人差はあるとはいえ、全体として、これほどの諦観に達した日本人の意識。これじゃ、日本経済が発展するはずもないのは当然だ。でも、後になって振り返ってみれば、「やはり、新しい価値観への転換は、日本から始まったんだな」と位置づけられる可能性は、決して低くない。
 
ちょっと前までは、経済評論家氏の言うとおり、「こんな国の経済が発展するはずもない」と海外投資家に見切られた日本からは、投資が逃げていた。でも、今は流れが逆転している。バブル経済の繁栄を謳歌してきた欧米や中国の経済があまりにもヤバイ状況なので、相対的に日本の安定ぶりが際立ち、投資が集まって円高が進行している。巨大な財政赤字を思えば、日本経済もそのうち破綻する恐れが十分にあるのだが、こればっかりは相対的な問題だ。他の国との比較により、「一時的な避難所」と呼ばれ、投資家に重宝されている(笑)。このため、日本の金利が異常に低くてゼロに近いことなど、誰も気にしていない。変われば変わるものだ。
 
経済ばかりではない。気候も、相変わらず変だ。まだ10月だというのに、冬みたいに寒くなってきた。つい最近まで冷房をガンガンかけていたというのに、もう暖房が必要だ。日本では、春夏秋冬の四季がなくなり、夏と冬の二季しかなくなってしまった・・・と数年前から言われてきたが、それがますます定着した感がある。
 
タイの大洪水は、まだおさまりそうもない。チャオプラヤ川があふれて浸水した首都バンコクの風景が連日、報道されている。工業の集積が著しい地域だけに、世界経済への影響が甚大だ。いろんな業種で、生産計画の下方修正が起きている。これは、またまた環境破壊による「人災」と言われている。

コルマン・インデックスは、いわゆる終末論ではない。「人類の意識進化が完成し、統合意識が出現する」というのが、その主旨だ。進化した人類の意識が、地球環境の変容を引き起こすのである。「意識の進化」が焦点なのだから、気づかない人のほうが多いのは当然とも言える。でも、これだけの激変が起きているだけに、世間の一般人も、「何か変だな?」と思っている人は少なくないだろう。

本当に「意識の進化」が実現したかどうかは、これからハッキリしてくる問題だ。その意味では、マヤカレンダーはまだ終わっていないのである(笑)。
 

八正道

2011年10月27日 | ヴィパッサナー瞑想
 
ヴィパッサナー瞑想においては、まず思考を停止することが第一条件となる。頭の中の思考や、心の中の反応を止めれば、何もない空っぽな意識状態を実現することができる。
 
ここで、ひとつの懸念が生じるかもしれない。それは、「意識を空っぽにする」ということによる弊害だ。空っぽになることで、外部からの作用を受けるのではないかという懸念。平たく言えば、「意識を空っぽにしたら、そのスキに悪霊が入り込むんじゃないの?」ということ(笑)。
 
でも、その心配は要らない。この瞑想では、思考を止めるのは前提条件にすぎず、真の目的がその先にあるからだ。それは、「観察する」ということ。全身全霊をあげて観察に集中しているから、外部からの作用が入り込むスキはない。さすがに、その辺りはよく考えられている。

というのも、ヴィパッサナー瞑想は、単なる瞑想法ではない。それは、釈迦の教えそのもの。仏典に何度も繰り返して書いてある、お釈迦さまの教えを、瞑想という形で実践するのがヴィパッサナーだ。「観察する」ということは、理論的にも教えの中核をなしている。

仏教理論と言えば、「八正道」(はっしょうどう)だろう。釈迦の教えの根幹をなす中核理論の一つだ。「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」の八正道。

このうち、最初の「正見」(しょうけん)というのが、すべての基本となる。これは、単に「正しく物事を見よ」というような、抽象的な訓示ではない。「お釈迦さまの教えをしっかり学んで、仏教的なモノの見方を身につけましょう」というのが、その主旨。
 
では、ここでいう「仏教的なモノの見方」とは、どういうことを意味するのだろうか。それこそ、本ブログでも山ほど書いてきた(笑)、お釈迦さまの教えそのものだ。「生まれるのは苦しい、老いて苦しい、病気は苦しい、死ぬのは苦しい・・・」という、ちょっと暗めな(?)人生観を身につける。

生きるのは苦しい。たとえ、一時的には楽しくても、人はいつか老いて死ぬ。最終的には必ず苦しい。

この人生だけではない。輪廻転生の全体を通して、人はつらくて苦しい。

輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦の迷走。酔っ払った人がヨタヨタと千鳥足で歩くように、グルグルとチェーン展開している、迷える者の連鎖反応だ。目を覚ませば、それは終了する。

ここで、「ちょっと待ってよ。ボクは、明るく楽しく前向きに生きているよ?」という人が登場することがよくある。「そんな暗くて小難しいことばかり言ってないで、楽しもうよ」という、明るい声だ。確かに、一理ある。でも、ここはそういう場面ではない(笑)。ここは、じっとガマンのしどころなのだ。「ボクは、おいしいものを食べて、美女とたわむれたいな?」という仏弟子には、わざわざ夜のお墓に連れていって、美女の腐乱死体を見せる。ゾッとして、背筋も凍る場面だ。でも、それが輪廻転生から卒業するための第一歩。そうやって、まずは、「この世は、本当はあんまり楽しくないところなんだな・・・」ということを教えることから始めなければならない。
 
そんな苦労を重ねつつ、「輪廻転生。それは、ハテしなく続く苦しみなのだ。目を覚せば、それは終了するのだ」というのを実感する。そして、「これがあるから、それがある。それがなければ、これがない。要するに、苦しみには原因がある。原因を元から断てば、苦しみもなくなる・・・」といったような、仏教的なモノの見方をきっちりと身につける。「正見」というのは、そういうことを意味している。

それはともかく、ここでの主役は、七番目の「正念」(しょうねん)だ。ヴィパッサナー瞑想との絡みで、これが言いたいから「八正道」の話をしているのである。

以前、この「正念」でいう「念」というのを、「念力」と解釈し、「正しく念力をかけましょう」という意味に取っている人を見かけたのだが、そうではない。これだと、釈迦の瞑想は、超能力開発の修行ということになってしまう。まさしく、オウム真理教の世界だ。

そうではなくて、どちらかと言えば、これは「ちゃんと準備ができたかどうか、念入りにチェックしましょう」というようなときの「念」に近い。つまり、入念に、観察するのである。「観察」こそが、ここでのテーマ。
 
何を念入りに観察するのかといえば、最大の観察対象は、自分自身の感覚だ。

感覚は、身体の中でいつも生じている。「イテテ・・・」とか、「気持ちイイ!!」といった、強い感覚もあれば、意識していなければ気づかない程度の、微細な感覚もある。「その微細な感覚をチェックして、気づきましょう」というのが、この瞑想の主眼と言ってよい。

こういう、気がつかないほどの小さな感覚を、ひたすらに観察する。そのことによって、意識が途方もなく鋭敏になり、研ぎ澄まされてくる。

気づきから、観察へ。観察から、洞察へ。

洞察を深めることにより、究極の真理が見えてくるというのだ・・・(!)。
  


さらに激変中の世界

2011年10月21日 | こっくり亭日記
世界では、さらにいろんなことが同時に起きている。

タイでは、「史上最悪の洪水」だ。ここ数年の異常気象つづきで、「史上最悪」とか、「過去百年間で最悪」といった言葉にすっかり慣れてしまったが、今度はタイだ。首都バンコクも浸水している。タイは「アジアのデトロイト」と呼ばれる自動車工場の集積地だけに、世界の工業生産にもたらす悪影響は、東北大地震をしのぐとさえ言われている。

リビアでは、「アラブの狂犬」ことカダフィ大佐が、ついに死亡を伝えられた。筆者が小学生の頃にはすでに「カダフィは、なんでいつまで経っても大佐なの?」という素朴な疑問が語られていたほど古い独裁者だが、ついに倒れた。最後は、血まみれで足蹴にされる映像が世界に流れ、悲惨な末路となった。

これで、チュニジア・エジプトに続き、倒れた独裁者は3人目。5千年の歴史を持つ地域だが、「2011年」は間違いなく特別な年となった。ヨーロッパ史に例えれば、各国で革命運動が起こり長期政権がバタバタ潰れた19世紀の「1848年」にも匹敵するであろう、歴史に刻まれる年号だ。

しかし、先進国の耳目は経済危機に集中している。働かず、経済感覚が欠如した国民性に定評のある「怠け者国家」ことギリシャの危機が、現在の焦点。

なんとか支援策がまとまりそうな流れで、当面の破綻は避けられるみたいなのだが、問題を先送りすればするほど、歪みは大きくなる。いつかどこかで調整しなければならなくなるのが、経済の常だ・・・。

どんどん変化が早くなり、あまりにも多くのことが同時に起きるので、認識が追い付かなくなってくる。少くとも、その点に関してはコルマン博士の言う通りになってきた・・・。

新しい社会形態

2011年10月21日 | こっくり亭日記

老子といえば、2千数百年も前の人(実在の人物なら、という話だが・・・)。古代中国の春秋戦国時代の思想家だ。昔も昔、大昔の思想家だ。そんな老子が「理想の社会」としていた社会像は、21世紀のスピリチュアリストたちが唱える「アセンション後の社会」と、とてもよく似ている。

それは、一言で言えば「小規模な村落」だ。誰もが顔見知りの、小さな社会。高度な教養を持った文人や、戦に強みを発揮する武人などはおらず、素朴な農民しかいない。しかも、ほかの村落との交流は、ほとんどない。遠くにあるわけではなく、むしろ逆で、犬や鶏の鳴く声が聞こえるほど近くにあるのだが、それでも隣の村を訪れることは滅多にない。そこでは、皆が共同で、自給自足の質素な生活を送っている・・・。

スピリチュアリストなら、「まさしく、それが理想の社会だ」と言うかもしれない。でも、それは口で言うほど簡単なことではない。当時の中国は、現代の日本とは比べ物にならないほど単純で素朴な世界だったが、それでも、「こんな社会があったら、理想だな」としてワザワザ取り上げられるほど、これは実現が難しい。 

自給自足は、古代でも難しかった。典型的な例が、「塩」だ。人間の生活に必要不可欠な塩は、海水が存分に取れる海辺か、もしくは岩塩の産地くらいでしか得られない。他の地域は、産地から輸入するしかなかった。後には、「鉄」がそれに加わった。もっとも、鉄がまだ使われてなかった時代だって、産地が限られているのは他の金属も一緒。そんなこんなで、お互いに融通し合わないと、生活を維持するのは難しい。

グローバリズムは、現代の専売特許ではない。古代中国でも、商人が全国規模で活動していた。商人は、戦乱の世になると活動がやりにくくなる。安心して商業活動を行うためには、政治が安定することが望ましかった。広大な領土を持つ王朝も、結局のところ、そういう経済上のニーズにこたえて出現してきたようなものだ。現代の基軸通貨国である、アメリカとやってることは変わらない。というより、そういう強力なパワーの出現で世の中が安定し、取引が便利になることを求める、社会的な要請があった。
 
春秋戦国時代よりも、さらにずっと昔、3千年以上も前の商王朝(殷)の時代だって、商人は広大な大陸に商業ネットワークを広げていた。そもそも、商王朝の都だった「商」が、後の「商人」の語源となったのだ。それくらい、中国の都市は当時でも、まったくの商業都市だった。こうした都市をつないで、全国的な商業ネットワークができていた。

「封神演義」は、そんな3千年前の中国を舞台にした、仙人や妖魔が大活躍する伝奇ストーリー。主人公の姜子牙(きょうしが)は、仙人の修行場だった崑崙山から下界に下りて、商の都・朝歌にやってきた。そこで知人からの紹介を受けて結婚した妻は、大の商売熱心だった。優秀な仙人の姜子牙は、たちまち占い師として評判になり、大もうけして妻はホクホク。妻があまりにも金銭に貪欲なので、有名な爆笑シーンの連続だ。

これは、旧約聖書のソロモン王が活躍していたのと同じ時代で、ユダヤ人が世界に散らばるより前の話。民衆は、日本でいえば縄文時代みたいなタテ穴式住居に済み、土器や石器を使ってた。まあ、早い話が、原始人も同然の社会だ。「現代人の拝金主義は、ユダヤ国際資本によって刷り込まれた信念なのだ」というようなことを言ってる人が多いのだが、それはイカガなものか。古代中国の商の都が、「ユダヤ」などとは何の関係もないにもかかわらず、とっくに拝金主義のグローバル商業センターだったのを思うと、説得力が薄れざるをえない(笑)。

またまた話が脱線してしまったが、要するに、自給自足の社会というのは、実現がきわめて難しい。毛皮を着て棍棒を持った原始人の社会でさえ、必ず自然発生的に貿易が始まった。ましてや、フクザツな現代社会では、なおさら難しいのは言うまでもない。
 
でも、「日月神示」では、このような自給自足の社会が、近い将来に実現するとされている。日月神示を降ろした岡本天明の師匠である、大本教の教祖・出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)も、近い将来に実現すると断言していた。

外国では、天産自給は難しい。それは、外国には気候風土その他の制約により、現地で手に入らないものが多いからだ。でも、神の国である日本には、なんでもそろっているから天産自給は可能なのだという。

確かに、古代中国では、気候風土に恵まれた豊かな地域を「魚米の郷」と言ってたが、日本ほど魚や米が取れるところは他にない。しかも、上に書いた「塩」のような、手に入らない生活必需品は特に見当たらない。そういう意味では、もともと日本ほど豊かなところはないと言っていいだろう。 

そこでネックになるのは、大都市の規模だ。言うまでもなく、東京や大阪で「天産自給」はありえない。この巨大な都市人口を、どうするのか。これに対する出口王仁三郎のご託宣は、明快だ。「王仁は、都市は十万になると言うとるのやで」。・・・つまり、現代のような巨大都市はなくなり、小さな都市になってしまうというのだ。どうやって、こんなに人口を減らすのか。それについては、天変地異や大戦争で、人口が「3分どころか、2分も残らん」くらいになるのだという。

もちろん、そんな人口激減など起きてもらっては困るのだが(笑)、それが近い将来か、遠い将来かは別にして、方向性として考えておくのも悪くないと思われる。
 

涅槃に役立たない

2011年10月20日 | 精神世界を語る
まずは、思考や反応を止める。そのためには、ヴィパッサナー瞑想を学ぶ必要があると思われる。他にも瞑想の手法はいろいろあるし、現代では強力な瞑想ツールも開発されているのだが、他の目的はともかく、思考を止めるためには、やっぱり昔も今もこれに限る。

日頃は空気や水のことなど特に意識しないが、なくなってみて初めてその存在を意識するように、思考もまた、止めてみて初めて存在に気づくものだ。日頃は、ほとんど自覚できない。

思考や反応を止めてみると、自分という存在が、本当に空っぽになったように感じられる。身体には、眠っていても形がある。精神には、それがない。いつものグルグルと渦巻いている思考や、絶え間なく続いている反応が消失してしまうと、本当に何も残らないという感じ。

「自分とは、本質的に何なのか」というテーマは、ここで初めて観察するに値するものとなる。それまでは、どれだけ考えてみても、あまり変化がない。地球の裏側まで「自分探しの旅」をしてみても、地球に対する理解は格段に深まるだろうけど、「自分」はまた別問題だ。

古代インドの釈尊は、「霊魂というのは、錯覚の産物だ」と、口を酸っぱくして説いていた。それは、霊魂の実在を信じている人々の大半が、こうした思考や反応その他を「霊魂」と錯覚しているにすぎないからだ。

思考や、反応・感情・識別・記憶・・・その他は、自分ではない。そういう「自分でないもの」を、ひとつひとつ取り除いていく。

そうすると、残るものは何もない。それが「自分」という存在の本質なのである。

要するに、「何もない」というのが、自分という存在の本質。何もないのだから、もちろん、霊魂もない。

・・・なんてことを書くと、またぞろ、新興宗教の信者諸氏からお叱りを受けることになりそうだ(笑)。彼らに言わせれば、「OO先生によれば、お釈迦さまは霊魂の不滅を説いたということになってます。ですから、アナタの言ってることは間違いです」ということになるらしい。

まあ、それは例えてみれば、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」を書いたようなものだ。本の中では、古代ペルシャの聖者ツァラトゥストラ(ゾロアスター)が語っているのだが、語る中身は100%、ニーチェの思想。信者諸氏の言う「OO先生の釈迦」もそれと同じで、中身はOO先生の思想なのである。

話はさらに脱線するのだが、船井会長が最近、「人間の本質は霊魂であり、この世とあの世を往ったり来たりしている存在なのだ」という主旨の本を出した。それが、「30代から精神世界の探究を始めて、長らく取り組んできた成果としての結論」であるらしい。

もちろん、それを間違っているとは言わないし、否定できるようなものでもない。でも、それを最終結論にして、はたして満足できるのだろうか。

物事は、見る角度によって、見えかたが変わってくるものだ。船井会長が言ってることも、ある角度から見た場合には、もちろん正しい。でも、それは「長年にわたって探求してきた人の最終結論」としては、かなり寂しいものがある。むしろ、失礼ながら、それはこの分野の初心者に向いた教えなんじゃなかろうか。初心の人に、精神世界に対して興味を持ってもらうには良い話材と思うのだが、それ以上に追求してみても、あんまり意味がない。

この問題が気になるのには、ワケがある。というのも、船井会長の周囲の取り巻きには、左翼崩れの人も多いけど、新興宗教の関係者も少なくないからだ。個人的に、船井会長が数年前に講演で「私は、精神世界については世界一詳しいんじゃないかと言われている」と豪語していたのが印象に残っているのだが、他のことならともかく、知識の深さ広さに限って言えば、多忙なビジネスマンの傍ら30代までこの分野と無縁だったという人が、そこから「世界一詳しく」なることなんかあり得ないでしょうと、正直あきれてしまった。そんな船井会長が、新興宗教界の諸事情までご存知ないのは仕方ないのだが、よほど気を付けないと、いつの間にか宣伝マンになってしまう恐れがあると言わざるを得ない・・・。

それはともかく、この釈迦の話の主旨は、「アナタがたが不滅の霊魂だと思い込んでいるものは、実は霊魂などではなく、錯覚の産物にすぎない」というところにある。死後の世界はあるとか、ないとか、そういうことを言っているわけではない。ここが、信者諸氏には極めて難解で、説明するのが困難なところだ。

釈迦は、弟子たちに言っていた。

「霊魂は不滅だとか、霊界は実在するとか、しないとか・・・。そういう教えは、役に立たない」と。

ここで注意すべきことには、釈迦は、別にそれらを「間違っている」と言ってるわけではない。そうではなくて、「役に立たない」と言っているのである。

何の役に立たないのかというと、「意識の覚醒」に役立たない。

ひいては、「輪廻転生からの卒業」に役立たない。

要するに、涅槃(ねはん)に役立たない・・・。

世界は激変中

2011年10月18日 | こっくり亭日記
 
コルマン・インデックスで言う、人類の意識進化が完成する日。それは、「2011年10月28日」。早いもので、あと10日くらいに迫ってきた。
 
いくら激変の時代とはいえ、あと10日で世の中がコロッとひっくり返るというのは難しいだろう(笑)。でも、だからといって、コルマン博士の予測がはずれたのかといえば、それは微妙なところだ。
 
「世界の金融システムの全面的な崩壊による、人類の価値観の激変」は、本当に起きてもおかしくないんじゃないか?・・・というところまで、事態は切迫してきている。ヨーロッパの経済危機は、誰の目にも明らかとなってきた。
 
とはいえ、破綻の瀬戸際にあったギリシャへの支援策は、どうにかまとまりそうではある。「ヨーロッパ経済が潰れるのは時間の問題だ」と唱えている人は、経済関係者にも、精神世界関係者にも多いが、本当にそうなるとは限らない。8月に「アメリカ国債のデフォルト危機」がぎりぎりのところで回避されたのと同様、なんとか危機をしのいでいける可能性は残されている。日本もそうだが、欧米先進国はこうした危機の経験が豊富なのであり、バラバラに見えても、最後はなんとか意見をまとめて破局を回避することが多い。楽観は禁物だが、過度な悲観もイカガなものかと思う。
 
「もうすぐ資本主義が崩壊して、すばらしい世の中になります」というのは、100年前の社会主義者も言ってたことだ。実際に、1929年の世界恐慌で、世界経済は一度は潰れたが、彼らの予言が的中したと言う人は誰もいない。なぜかと言えば、「資本主義の崩壊」までは的中したが、その後に、「すばらしい世の中」が来なかったからだ(笑)。逆に、膨大な数の倒産と失業が発生し、無数の自殺者が出て、混乱の中からヒトラーが台頭し、未曾有の世界大戦になった。最後には、原爆が落ちて何万人も死んだ。まさしく、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。
  
つまり、世界経済の崩壊は、「人類の共生」につながるどころか、逆に最悪のサバイバル競争を引き起こしてしまった。安易に経済崩壊を唱えている人たちは、それがどれほど恐ろしいことなのかを、歴史に学ぶべきと思われる。
  
最近出た「日月神示」の本には、「世界各地の経済がブロック化される。日本も、天産自給の世となるのじゃ」という神示の一説が取り上げられ、著者が「ブロック経済」を賞賛していた。これには、あきれてモノも言えなかった。それこそ、「いつか来た道」以外のなにものでもない。もう一度、世界大戦を起こしたいのだろうか?
 
もちろん、日本の神様が、日本を「天産自給の国」と呼ぶのはアリガタイことなのだが、それとこれとは別問題だ。日本がどれだけ「天産自給の国」になったとしても、貿易が止まることなど有り得ない。もっとも、どちらにしても、それは経済の問題であって、アセンションと直接の関係はないのだが・・・。
 
とはいえ、「もはや、経済成長などあり得ない世界になる。人々の関心は、経済的に豊かになることから離れて、別のことに向かう」というコルマン博士の予言が、なんだか本当になりそうに見えてきているのも事実だ。

そして、人類の意識が統合される。というより、巨大な「統合意識」が、この地球に出現する。人類の意識は、「いま、ここ」に集中するようになり、喜びが心の奥から湧き上がって、自然に満ち溢れてくるという。
  
「意識の進化」にこそ、コルマン・インデックスにおける最大のポイントがある。2011年10月28日までに、人類の意識が急速に進化する。それが、その後の世界の変容を引き起こす・・・ということだ。

注目すべきなのは、「人類の意識の進化」が実現するかどうか。問題は、そこにある。
 

瞑想の目的

2011年10月18日 | ヴィパッサナー瞑想
 
最近は、ますますヴィパッサナー瞑想だ(笑)。もちろん本当は、独習はよくない。ベテランの指導者のもとで基本を身につけるべきなので、そのうち時間を作って取り組みたいと思う。

ただ、筆者は瞑想の実践こそしていなかったが、釈迦やクリシュナムルティの思想に長いこと慣れ親しんできている。ヴィパッサナー瞑想は、まさしく彼らの思想の応用編、というか実践編であるにすぎない。このため、指導DVDを最初に見たときから、「初めて見るのに、なつかしい」という感じだった。
 
つまり、あのインドの宗教哲人や導師たちが口々に説く、「たった今、この瞬間のみに生きよ」、「思考を止めよ」、「おのれを無にせよ」、「観察せよ」・・・と言った数々の教え。これらは一見、雲をつかむような、抽象的な観念に思える。でも、そうではない。それは、こういった意識の状態を実現するための、具体的な方法論があるからだ。ヴィパッサナー瞑想こそが、まさしくそれに当たる。それは、テキストをひと目、見た瞬間に分かった。
 
精神を統一して、「思考を止める」というのが、最大の目的だ。思考とは、心の中をグルグルと渦巻いている、過去の記憶との応答。ああでもない、こうでもない・・・。それは、反射的に出てくるものだ。自分の意思でコントロールできるものではない。「思考」というより、「反応」と言ったほうがいいかもしれない。冷えたビールを見た瞬間、「飲みたいな」と反応する。ものすごいスピードだ。
 
またまた新興宗教の信者さんたちからお叱りを受けるかもしれないが(笑)、日本には、「反省せよというのが、お釈迦さまの教えです」とか、「感謝せよというのが、お釈迦さまの教えです」・・・とかなんとか、いろんなことを言ってる人たちがいるけど、それらはピントがずれている。もちろん、反省や感謝は、古き良き日本人の美徳であり、おおいに結構なことなのだが、ここはそういう場面ではない。

ここは、まず思考を止めるべき場面。過去の良いことや、悪いことを思い出して感動しているヒマはないのだ。むしろ、ここでは、それは余計な思考だと言える。

でも、思考を止めることだけが目的ではない。重要なのは、「観察」だ。思考を止めた上で、とことん「観察」を研ぎ澄ませていく。観察力がどこまでも強化される。

意識の覚醒は、この延長上にある。つまり、思考が止まって、観察が研ぎ澄まされることこそ、覚醒に直結する道だ。意識の覚醒が目標ならば、「この道を、まっすぐに進んでいこう」といったところだろう。究極の観察力に到達すれば、お釈迦さまのように、何でも見抜ける人にまでなれるのだ。それが、「観自在力」だと言える。

いかにして思考を止めるかと言えば、たとえば、歩いている最中に、歩くことに意識を集中する。単に漠然と集中するだけでなく、差し出す右足・左足、ツマ先が着地したり、カカトが離れたり・・・といったことに、いちいち集中する。「ツマ先が着地した、カカトが離れた・・・」と、アタマの中で実況中継する。なぜ実況中継するかと言えば、そうしなければ、すぐに雑念に心が飛んでしまうからだ。こればっかりは、誰が何度やってみても、しばらく時間がたてば確実にそうなる。それを防ぐには、これしかない。まさしく、瞑想の本場・古代インドが生んだ人類の知恵と言える。

釈迦が瞑想するときは、「鼻孔」に意識を集中していた。鼻から、空気が出たり入ったりする。そこに、意識を集中する。おなかが膨らんだり、凹んだり・・・に意識を集中するのも良いのだが、それよりも狭く深い分、意識が集中しやすい。というより、おなかという自分の身体の一部より、鼻から出たり入ったりしている空気のほうが、まったく無味乾燥で、なんの意味もない分、「なんだか、おなかが痛くなってきたな?」というような雑念とも無縁でいられる。

これには、思考を止めて意識を集中するだけでなく、同時に「観察」を鍛えられるという、一石二鳥の効果がある。上のような「歩く瞑想」をやっていると、不思議なことに、足に意識を集中しているにもかかわらず、周囲の景色が鮮明になってくる。思考が止まっている分、いつもは見落としているものが、イヤでも目に入ってくる。これに比べれば、ふだんの自分が見ていた景色は、ピンボケ動画のようなものだった。
 
いまや、心が静まり返ってきている。なんだか、以前はこだわっていたことが、どうでも良くなってく一方だ。何を聞いても、「ああ、そうですか」という感じ。変われば変わるものだ・・・。