宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

発達障害人の特徴 その3 ~ 精神世界に関心を持つとは限らない

2021年09月26日 | こっくり亭日記
「2012年アセンション」が過ぎ去って久しい。早いもので、あれからもう10年近くが過ぎた。「次のターゲット」と目されていた2020年も過ぎた。今は2021年の秋分も過ぎて、冬至に向かっているところ。2021年の冬至は重要な節目になると、アチコチで言われている。

筆者は昔から「アセンション」が大好きで、この話になると、他のことがどうでも良くなってくる。発達障害人だから人生が難しいので、もっと生きやすい世界へと地球が変容することを望んでいるのではないか・・・と言われることもある。まあ確かに、そういう面もあるかもしれない。もっと順調な人生を送っていたら、また違う人生観になっていたかもしれない。こればっかりは、他の人生を送ってみないと分からないが。

でも、やっぱり、そうじゃないと思うんだよなあ。というのも、類は友を呼ぶで、学生時代の友人とか、若い頃に筆者の周囲でとくに親しかった人たちは、メンタル面になんらかの問題を抱える人が多かった。でもって、彼らに「アセンション」の話をしても(その時代にはまだアセンションという言葉が使われてなかったが、要するにそういう主旨の話をしても)、「そんなバカな」と笑い飛ばされることが多かったからだ。

メンタル・プロブレムを抱えて人生で苦労しているからといって、「地球という環境そのものの変容」を望むかっていったら、それとこれとは別問題だということを、彼らを通じてよく知っている。「地球は、いまでこそ生きるのが難しい環境だ。でも、これから大きく変わる。地球の変容は遠くない」という考えに、幼少の頃から取りつかれているのは筆者の個人的な属性であって、他の人たちはそうではなかった。

たとえば先日、昔の友人と15年ぶりに再会した。若い頃は大変な行動力の持ち主で、単身、アメリカ西海岸に渡り、そこでフリーター生活してたほどフットワークが良く元気だったが、帰国後になぜか精神を病んでしまった。もともと、メンタル面でなんらかの問題を抱えていたのだろう。だから筆者と波長が合ったのだ。久しぶりに再会して、「元気だな。年齢のわりにすごく若いな。とても自分と同じ年齢と思えない」と言われた。こちらは七転び八起きの人生を通じて発達障害をほとんど克服し、昔よりずっと元気になっている。一方、彼は精神の病気と闘う人生を通じて、さすがに老いが感じられた。でも、筆者の考えでは、そういう人もこれからの地球環境の変容により、健康を取り戻すはずなのだ。そこで「アセンション」の話をしてみたが、反応は良くなかった。「相変わらず、奇妙なことを考えているな」と一笑に付されてしまった。

そういう若い頃の友人が、他にも何人かいる。東大の学生だった友人が、大学を卒業したばかりの頃、「ボクは子どもの頃から勉強ばかりしてた。小学生のとき、中学受験予備校で成績が上から5番目だった。◯◯君が1番だった。アイツには勝てんかった」としきりに言うので、「まあ、どっちにしても昔のことだ。あんな奴に勝たんでもいい。気にするな」と筆者は励ましたが、本人はいたって真剣で、「人生は1度きりだというのに、なんとも凡庸な人生。こんな生き方してていいのか?」とますます悩みを深めていた。そこで、「いや、人生は1度きりなんかじゃない。人は何度でも生まれ変わっているんだ」という話をしたところ、彼はビックリしていた。「なにを奇妙なことを言い出すのか?」とあきれられた。彼は結局、精神を病んで早期にリタイアしてしまった。性格がマジメすぎる人ならではの辛さで、残念なことだった。筆者もマジメといえばマジメだけど、根がイイカゲンなので、こうはならない。でも、彼のような人も、今後の地球環境の変容により、元気を取り戻すはずだ。

というようなわけで、メンタルな面で問題を抱えることと、精神世界・スピリチュアルの探求に向かうこととは、筆者の経験では直接の関係がない。何も問題がない人と比べたら、探求する上でやや有利かもしれないが。でも、それとこれとは別問題。そうとしか言いようがない。

それより、地球はいよいよドン詰まりを迎えている。現状を維持するのは無理なので、変わるしかない。アセンションは避けられない。もっと、アセンションを本気で目指す人が増えないものか。筆者の関心は、なんといってもそこにある。正直なところ、自分自身の人生のことより、「地球の変容」の方がもっと気になっている(笑)


発達障害人の特徴 その2 ~ 発達障害の3大分類

2021年09月24日 | こっくり亭日記
「発達障害」という言葉もすっかり世間に定着し、広く一般に知られるようになった。でも、「発達障害」といっても種類がいくつかあり、それぞれに特徴が大きく異なる別モノだ。主なものは、「自閉症スペクトラム」、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」、「学習障害(LD)」の3つがある。

自閉症スペクトラムというのは、「自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー症候群」などのいろいろな名前で呼ばれていた症状を、「自閉症とその仲間たち」みたいな感じで1つにまとめたもの。極めて強いコダワリや行動パターンを持ち、「相手の反応を見ないで、一方的に話し続ける」など、対人やコミュニケーションに困難を抱えることが多いとされる。映画「レインマン」とか、アメリカのコメディー「ビッグバン☆セオリー」などでもオナジミ。これこそ発達障害のなかの発達障害と言えるだろう。単に「発達障害」と言えば、たいてい自閉症スペクトラムを意味する。

これに対して、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」は、「不注意(活動に集中できない・気が散りやすい・物をなくしやすい・順序だてて活動に取り組めないなど)」と「多動-衝動性(じっとしていられない・静かに遊べない・待つことが苦手で他人のじゃまをしてしまうなど)」というような特徴があるとされる。筆者は昔から、この傾向が強かった。でも最近は、この傾向をあまり指摘されないし、自分でも感じなくなってきたように思う。この人生を通じて自分自身の脳を刺激されてきた結果、鈍かった箇所がようやく活性化したのかもしれない(残念ながら、ちょっと遅かったが・・・)。

もう1つは「学習障害(LD)」で、これは端的に言えば、「読み書きが苦手」とか「計算が苦手」とか、何かが極端に苦手なことを意味する。それも、「ちょっと苦手なようですね」なんてものではなく、「なんで、こんなに出来ないんだろう?」と不思議になるくらい、妙に全然できない人だ。筆者はひところ学習塾で働いた。そのときに、学習障害の子どもに勉強を教えた経験が印象に残っている。発達障害の児童にアリガチな、人形みたいに可愛い子ども。ヒトケタの足し算はなんとかできるけど、フタケタになるとお手上げで、何度も教えたけど翌日には必ず忘れていた。こちらはもともと教えるのが好きなので、何度も教えるのは楽しかったが、本人は大変そうだった。もっとも、そういう人でも、成長すると普通に計算ができるようになって、「あれは一体、何だったんだろう?」ということになることもある。

他にもあるけど、主な分類はこの3つ。発達障害と一言で言っても、自閉症とADHDではかなり傾向が異なる。たとえば、自閉症の人は、「毎朝6時15分に起きて、6時30分に歯を磨いて、6時45分に朝ごはんを食べて・・・」というような、カッチリしたパターン化を好むコダワリ派が多い。逆にADHDの人は計画性が乏しく、思いつきで衝動的に行動することを好むことが多い。たとえば筆者のように、何年も更新してなかったブログを何の前触れもなく急に熱心に更新し始めるような、行動パターンが読めない人。そういう人には、ADHDの傾向がある。こんな具合に、自閉症とADHDでは、まるきり逆の特徴を示すこともあるから一概には言えない。しかも、これらの発達障害は1つではなく、混ざり合って起きることが多い。

問題は「バランスが悪い」ということだろう。たとえば、学習障害でいえば、計算能力は高いのに、何歳になっても言葉がなかなかしゃべれるようにならないとか。このように、何かの発達が人並みより早くて、何かの発達が人並みより遅いというような偏りがあってバランスが崩れると、発達障害になりやすい。思うに、車でいえば右の車輪の回転が速くて、左の車輪の回転が遅いようなものか。これだと、まっすぐ走るのが難しい。いちいち調整しないと走れなくなる。

症状はいろいろあれど、共通するのは、「これがあると人生が難しくなる」ということだろう。バランスが取れた人間のほうが、人生は生きていきやすい。でも人生は、生きやすいほうが良い人生かっていったら、そういうわけでもない。重要なのは、この地球での人生経験を通じて意識進化することだ。課題は人それぞれであり、進化の道もさまざま。スマホのゲームでも同じで、簡単なヌルゲーを周回したい人もいれば、難易度の高いゲームにあえて挑みたい人もいる。どっちが良いというわけでもない。

精神世界を探求する上では、どっちかっていったら発達障害人のほうが有利かもしれない。お釈迦さまもイエス・キリストも、ショーペンハウアーもクリシュナムルティも、明らかに発達障害人。ごく普通の人生を無難に生きているようでは、なかなか探求へと向かう強烈なエネルギーは生まれないということだろう。

科学的に見れば、「これは、アナタの脳の特定の部位の発達度合の偏りが原因です」というようなことになる。確かにその通りとは思うのだが、背景としては霊的な要因がある。

これはいつも思うことだけど、宇宙の成り立ちとか生命の仕組みとか、そういったものを科学的・合理的に説明できるのは事実で、間違っていない。でも、その背景には霊的なものがあって、それも大きな影響を及ぼしている。

男性なのに女性みたいな(あるいはその逆も)、「性同一性障害」とかもそうだ。男性ホルモンとか女性ホルモンとか、そういう科学的なところに原因があるのも事実だけど、その背景には霊的なものがある。

重要なのは、「どっちか一方だけが原因ではない」ということ。中には、「霊的には女性の意識なのに、間違って男性の身体に生まれてしまった」というような、霊的な要素だけが原因の人もいるだろう。逆に、「霊的には何の問題もないのに、たまたま身体のホルモンバランスが化学的な要因で崩れてしまった」というような、純粋に物質的な要因でそうなったケースもあるだろう。その中間の多くのケースは、その両方が混じり合って起きたと考えられる。

物事は、物質的な要因と、霊的な要因がカラミあって起きている。あの世ならともかく、この世では両方とも無視できない。大昔の人は、何も分からなかったので、何もかも「神さまの意思」で片づけていた。つまり、物質的な要因が分からなかったので、霊的な原因を探すしかなかったのだ。現代人は逆に、科学的・合理的な理由ばかり探すようになった。「これは前世での体験に原因が・・・」なんて言おうものなら、一発で異常者あつかいだ。

でも、未来の人類は、その両方に原因があるのを前提として、すべての物事を考えるようになるだろう。筆者は、日頃からそれを実践している。科学的な説明をしてはスピリチュアル系の人たちから反対され、スピリチュアル的な説明をしては科学的合理主義者たちから反対される。これは周囲の無理解というより、両方いっぺんに語るのはそれだけ難しいのだ(笑)。それは仕方ないんだけど、いずれ、どちらか一方だけではなく、両方をいっぺんに論じるのが当たり前になるだろう。

発達障害人の特徴 その1 ~ 言語性IQと動作性IQ

2021年09月23日 | こっくり亭日記
その方面に詳しい人によると、発達障害人にアリガチな特徴として、「言語性IQと動作性IQのギャップが大きい」というのがあるらしい。どういうことかというと、どちらも名前の通りで、言語性IQというのは、主に言葉を使う能力。しゃべったり、文章を読み書きしたり。テストでいい点を取るためには、言語性IQが高いと有利だ。それに対して、動作性IQというのは、動作とか作業をする能力のこと。飛んでくるボールを捉える動体視力、それに素早く反応する動作の速さ。そういうのが典型的な例だ。これが高いと、作業系の仕事には有利になる。詳しいことは専門家に聞いてみないと分からないけど、だいたいそういうことだと思っていいみたい。

言語性IQと動作性IQが両方とも高いのは、何をやっても出来る人。そういう人は優秀だ。逆に、両方とも低いと、ちょっとスローでマイペースな人になる。でも、それはそれで生きる道がある。難しい仕事は避けた方が無難だけど、生きてく上で特に支障はない。

問題は、どちらか一方が高くて、どちらかが低い。つまり、バランスが悪い人。そういう人が「発達障害」になりやすい。高学歴で一見優秀そうなのに、何をやっても妙に作業が遅くて「やる気あるのか?」と言われるような人は、言語性IQが高くて動作性IQが低い可能性が高い。

筆者の場合は、言語性IQが高くて、動作性IQが低い。正式に調べたことはないけど、おそらくそうだろう。身体を使ってやることは、たいてい何をやっても下手だ。昔から、野球のキャッチボールもマトモにできない。ボールを投げたら真っ直ぐ飛ばないし、よほど撮りやすい球でないと、まず捕球できない。日常生活においても、驚くほどドジな人間。今はそうでもなくなってきたけど、昔は「よく、これで無事に生きてこれたな?」と感心されるくらい、いつもボーッとしていた。

その代わり、国語は極端に得意で、偏差値80の国語大王だ。高校生の頃などは、参考書も問題集もマジメにやった試しはないけど、国語のテストの成績は自然体で抜群。その辺のクラスで一番、学校で一番などという程度ではなく、全国規模でトップクラスだった。いくら世間は広くて色んな人がいると言ったって、筆者ほど国語や社会に強い人など滅多にいるものではない。そんな人が古今東西の宗教書や哲学書を手当たり次第に読みまくってきたのだから、詳しくなるのは当たり前。日本語だけでなく、英語でもたくさん読んでいる。難解な文章を読んでも、作者が何を言いたいのかがすぐに「ピン!」とくるのが特技。哲学するためには有利な特技だ。

言語性と動作性のバランスがこれだけ悪いと、人生は本当に難しくなる。こうして考えてみても、「よく、これで無事に生きてこれたな?」と我ながら感心してしまう。「動作性IQ」という言葉を知ったのは数年前だけど、それが低いのは昔から分かっていた。別に悩んではいなかったが。なぜ悩まなかったかというと、この地球で過ごす人生はたったの数十年か、長くても百年程度にすぎない。悩んでいるヒマがあったら、情報収集を急ぐ必要がある。早い話が、宗教書や哲学書を読みまくるのに忙しくて、悩んでるヒマがなかった。

とはいうものの、動作性IQの低さが弱点なのは分かりきっていた。「第一印象では見るからに賢そうな人だなと思ったけど、じつは底抜けにドジなので、ギャップが凄すぎて逆に感心してしまった」、「いい悪いは別にして、とにかくユニーク」、「ある意味、貴重なキャラだ」とかなんとか、盛んに言われた。

動作性が弱点なのは明らかだ。この弱点を補強しようと、実にさまざまな努力をしてきた。小学生の時などは、スポーツばかりしていた。正直なところ、子どもの頃の筆者にとって、小学校の勉強など簡単すぎて勉強する必要なんか無かった。目標は、「ドジでノロマな亀」から卒業すること以外に無かった。いつも走り込みでヘトヘトになり、鉄棒の練習のやりすぎで手はマメだらけだった。

学校で掃除をしても、「ホウキの掃き方が、普通の人とは違って、なんだかおかしい」だの、「雑巾の絞り方がかなりおかしい」だのとよく批判されたものだ。実際にその通りなのだから、批判は甘んじて受け止めるしかない(改善できなかったが)。大人になってからも、工場作業員になって半年くらいバイト生活を送ったことがある。他に仕事がなかったわけじゃないんだけど、動作性IQを鍛えようと思って試しにやってみたら、ハマッた。不器用なので足を引っ張ることもよくあったが、「辞めます」と言ったら、「もうちょっとガンバってみようよ」と周囲の人たちから言われた。なるべく器用さと反射神経を要求されないところに置いてもらって、しばらく続けた。

さすがに限界を感じて学習塾の仕事に転じたところ、子どもに人気が出て順調に生徒が増え、「これは天職だな」と周囲の人々にも言われた。でも、あるとき、雑巾で学習塾の机を拭き掃除していたところ、小学生の女の子から「先生の雑巾の絞り方は、なんだかおかしいね」と言われた。

(続く)

宗教の次のステージへ

2021年09月22日 | 精神世界を語る
地球人類は宗教から卒業しつつある。もう宗教は必要ない時代になった。いまは現実主義者が全盛の時代。「この世は、何者かが創造したのではない。偶然にできたのだ」と、「あの世は無い。この世がすべてであり、人は死ねば終わりなのだ」というのを2大信条とする、多くの現代人が共有する信念体系が主流になっている。

アラブの国々では、ほとんどの人がイスラム教徒で、一部の例外の人たちもキリスト教とか、何か他の宗教を信仰している。世の中のほぼ全員が、「あの世はある。人は、死ねば天国か地獄に行く」と信じている社会。古代から中世を経て近世に至るまで、地球ではそれが普通だった。それに比べて、現代人は普通じゃなくなった。

どっちがいいかって言ったら、一長一短がある。「この世は偶然の積み重ねで出来たのだ」というような、いくらなんでも無理のある教えを信じているという点では、現代人は昔の人より愚かになったとも言える。でも、やっぱり、現代人の意識のほうが先に進んでいるのは事実。大昔の人は、ごく一部の覚醒者を除けば、何もわからなくて迷信深かった。知性も感性も、現代人の方がずっと鋭敏で明晰なのは間違いない。地球人類の意識は着実に進化している。

古い信仰にしがみついていたんじゃ、新しい地球文明には適応できない。やっぱり、大昔の宗教などそろそろ棄てたほうが、失うモノはあっても得られるモノがそれ以上に大きい。現代人は、サナギのようなものなのかもしれない。サナギのようにカラをかぶって、霊的世界から自分自身を切り離し、次の飛躍に備えて地力をたくわえている。もうすぐ、人類はスピリチュアルに再び目覚める。現代人の明晰さと、古代人の叡知を兼ね備えたスーパー新人類が、蝶のように羽を広げて大空に飛び立つ・・・はずだ。

例によって話は飛ぶけど、未来の人類は、平井和正の小説も読まないだろう。いや、逆に預言者あつかいで見直されるかもしれない。筆者は中学生の頃、平井和正のSF小説をよく読んだ。ハルマゲドン、光の天使、光のネットワーク・・・この作家が世に広めたスピリチュアル用語は数多い。もともと普通のSF作家だったのに、ある時期を境として突然、宗教がかった小説を書くようになった。天使や悪魔が出てきて地上の人間への影響力を競い合う、壮大なハルマゲドン小説を書き始めて読者をビックリさせた。

平井和正が入信したのは、「GLA総合本部」という宗教団体だった。昭和の新宗教界を代表するカリスマ教祖の1人、高橋信次が病に倒れて早世し、娘の佳子先生が跡を継いだ。平井和正は、佳子先生から「旧約聖書に出てくる預言者ハバククの生まれ変わり」と認定され、張り切ってハルマゲドン小説を書くようになった。カリスマ教祖が突然いなくなったGLA教団は大混乱。幹部たちが続々と分派を立ち上げて、GLA系諸宗派が乱立するようになった。「GLA総合本部」もそのうちのひとつ。平井和正の代表作「幻魔大戦」では、主人公の超能力者・東丈が突如として失踪し、残された救世の団体「GENKEN」では路線対立から分派が林立して大混乱になる。あれは、この事件がモデルだった。

平成初期に世間を騒がせた千乃裕子の「パナウェーブ研究所」も、そんな分派の1つだった。「人体に有害なスカラー電磁波を防ぐ」と称して全身に白装束をまとったり、多摩川に出現したアザラシのタマちゃんにエサを与えてたことが判明したり、とにかく奇行が多くて世間を騒がせた。そのうち、メンバーの殺人事件が起きたりしてヤバくなった。これもまた、日本の新宗教史で忘れがたい思い出のひとつだろう。幸福の科学も、初期はGLAの分派としてスタートした。初期の信者の多くはGLAの元信者で、当初は「あの世からの高橋信次先生の霊言」がキラーコンテンツだった。

こういう宗教団体の系譜ってのは、どこの宗派系統にもある。オウム真理教も、当初は阿含宗の分派だった。初期の信者の多くは阿含宗の元信者だったし、教義体系も阿含宗をベースに創られた。90年代のテレビニュースをにぎわせたオウム真理教事件。「あんな高学歴のインテリ信者たちが、なぜ凶悪犯罪者になったか?」と、テレビではいつも騒いでた。正確にいえは、上佑史浩や青山吉伸といった高学歴信者はみんな、後から入ってきた人たち。それに対して、早川紀代秀・新実智充・井上嘉洋といった凶悪犯たちの多くは初期からいた人たちで、たいてい阿含宗の元信者だった。

阿含宗といえば、昔のテレビCMでやっていた、大柴燈護摩供(だいさいとうごまぐ)の護摩木が燃え上がる赤い炎と、モクモク上がる煙を思い出す。教祖の桐山靖雄(きりやませいゆう)管長の著書も、高校生のときには読んでいた。おかげで、阿含宗の教義もたいていのことは知っている。阿含宗もGLAも、すべての新宗教に元ネタを提供した大本教も、みんな教義を信者なみによく知っている。こんなことに詳しくても、何の自慢にもならないのが残念だけど・・・(笑)

それはともかく、「どこかに究極の教えはないか?」と探し求めて、いくつもの宗教団体を遍歴する人たちがいる。なんとも、ご苦労なことだ。そんなもの、どこにもあるわけがない。どの宗教も、言ってることはバラバラだったり、似ていたりするけど、どれも参考意見にすぎない。精神世界の探求は、結局のところ、自分1人でやるもの。情報は集められるだけ集める。でも、最後は自分自身にかかっている。教祖も自分で、信者も自分。「劇団ひとり」ならぬ、「教団ひとり」だ!(それはちょっと言いすぎか)



宗教から卒業する時代

2021年09月22日 | 精神世界を語る
いまの地球上の状況を見渡してみると、日本や欧米では、すっかり脱宗教化が進んでいる。もちろん、欧米はキリスト教社会だし、日本にも日蓮正宗系の仏教団体を初めとして、たくさんの宗教がある。「よく、あんなに信じられるもんだなあ」と思わず感心してしまうくらい、熱心な人は本当に熱心だ。でも、地球人類の意識としては、総じて脱宗教化が進んだ。今日では、神を信じていない人が多い。

その点、イスラム教の社会は、まだまだ宗教色が濃い。もちろん、イスラム教圏にだって、いろんな人がいる。マジメな信者もいれば、コーランを見て「こんなの、とても信じられませんわ」と思うような疑り深い人だっているだろう。とはいえ、日本や欧米、とくに日本と比べたら、確実に社会全体として宗教色が濃い。先進国の人から見れば、「イスラム教の連中は、いまだにあんなものを信じているとは、遅れてるなあ」と思う。

確かに、彼らは遅れている。先進国の人間の方が、意識が進んでいる。地球人類にとって、宗教が必要だった時期もあった。でも今は、宗教から卒業して、次のステージに入る時代。いつまでも、古い信仰にしがみついている場合ではない。

といっても、宗教の効果はもちろんある。意識覚醒への道は、1つではないのだ。神への信仰を限りなく強めて、神と一体化する境地を目指すという道もある。阿弥陀如来をとことん信じて、一心不乱に念仏を唱える。一心不乱に極楽往生を念じ、ひたすら唱え続ける。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」とひたすら繰り返す。そうすると、だんだんトランス状態になってくる。もうテンションが上がりすぎて、極楽に往生できるかどうかすら、どうでもよくなってしまう。念仏に限らず、「南無妙法蓮華経・・・」の題目を上げても同じ。仏教に限らずイスラム教でも、「ラーイラーハ・イッラッラー、ラーイラーハ・イッラッラー・・・」(アッラーの他に神はいない)とハテしなく唱え続けるズィクルの行により、同様な効果が得られる。

今まで、多くの宗教を体験してきた(どれも、本ブログを始める前、かなり昔の話ばかりだけど)。やっぱり、何事もやってみないとわからないからだ。念仏を唱えるとはどういうことなのか。それは、唱えてみないとわからない。もちろん、ちょっとカジったくらいでは、わからないことも当然ある。でも、まったくやらないのと比べたら、確実に理解は深まる。宗教の道も極めればすごいんだってことが、よくわかる。

というわけで、宗教についても決して否定するわけではないんだけど、それでもやっぱり、地球人類が脱宗教化へと進むのは正しい方向だと思う。世の中にはいろんな人がいるのに、皆が同じ宗教を信じているのは不自然だ。信仰は、強制されてやるものではない。やりたい人がやればいい。「信じる」というのも1種のパワーであり、人によって向き不向きがある。信仰の道が合っている人は、その道を進んだ方が早いだろう。でも、全員がそうだというわけではない。

現代人の多くは、「この世には、神も仏もいやしない」と考えている。「人生は1度きりだ。人は死ねば無になる」と信じている人は多い。これはこれで、また別の種類の信仰だ。といっても、本人たちは、それを信仰だとは思っていない。「昔の人たちのような信仰から脱却して、現実に目覚めたのだ」と考えている。でも、そんなのはお互いさまだ。「天国や地獄はある」と信じるのも、「天国も地獄もない」と信じるのも、信仰の対象が異なるだけで、何かを信じていることに変わりはない。「人は生まれ変わる」と信じるのも、「人生は1度きり」と信じるのも、以下同文。現代人は、昔の信仰から、別の信仰へと移ったにすぎない。

仏教には、「不常不断の中道」というものがある。「人は、死んでも魂が永遠に続く」というような考え方を「常見」という。一方、「人は死ねば終わりになる」というような考え方を「断見」という。イスラム教徒は常見で、先進国の現代人は断見だ。お釈迦さまは、この両方とも極論であるとし、2つの両極端から離れよと説いた。

「人は死んでも、魂が永遠に続く」という常見のどこが良くないのかというと、人が通常、「これが自分だ」と思っているものは、本当の自分ではない。仏教ではそれを「偽我」と考える。偽我が永遠に続いてしまったら困る。「ボクは健康に留意して、この世で長生きしたいなあ」というくらいならまだしも、「ボクは、死んでからも永遠に生き続けたいなあ」というのは、偽我への執着をますます強める。だから良くない。

一方、「人は死ねば終わりだ」という断見、これがいいのかっていったら、そういうわけでもない。常見も断見も、どちらも離れるべき両極端なのだ。

でも、「どちらも離れるべき」といったって、両方とも同じくらい悪いわけではない。どちらがより悪いのかは、ハッキリしている。常見より、断見の方がもっとタチが悪い。「この世がすべてだ。人は死んだら終わりだ」というのは、修行者がとるべき見方ではない。それに比べたら、常見の方がずっとマシなのは明らかだ。

というわけだけど、それでもやはり、誰もが宗教を信じていた昔の人々より、脱宗教化が進んだ現代人の方が、意識の進化段階としては次のステージに進んでいる。地球人類の意識は、ボンヤリした状態から離れて、よりクリアになってきた。それが意識の進化というものだ。ただ、それは通過点にすぎず、進化の最終形態ではないというだけ。次のステージは、さらにその先にある。

(続く)

宗教が必要だった時代もあった

2021年09月21日 | 精神世界を語る
現代では、宗教の評判が良くない。創価学会が折伏(しゃくぶく)をやりすぎたせいかもしれない。身内に不幸があったり、悩みがある人には宗教の勧誘がすぐ来る。まあ、創価に限らず新興宗教はたいていそんなものだが。昔の筆者は、悩んでもいないのに宗教の勧誘がよく来た。まあ、それは宗教好きなマニアだから、引き寄せの法則で引き寄せていたのだろう。創価学会の折伏を受けて、何回か集会に顔を出したこともある。信者諸氏と一緒に方便品や自我偈を唱え、南無妙法蓮華経のお題目を上げていた。家に御本尊を持ち込まれたり、聖教新聞が配達されてきたときは、周囲の人々はビックリした(御本尊は丁重にお返ししたが)。まさか、筆者が創価学会と関わりがあるとは思わなかったのだろう。筆者が「じつはオウム真理教の信者でした」とでもいうのなら、周囲の人々にも「う~ん、危ないとは思ってたけど、やっぱり・・・」と納得されてしまうかもしれないが(笑)

手かざし教団にも、熱心な信者に何度も集会に連れていかれたことがある。手かざし教団といえば、「世界真光文明教団」から「崇教真光(すうきょうまひかり)」が分離独立し、その後も多数の分派が乱立したことで有名だ。「ここはどこの系統なんですか?」と質問したところ、信者は「ウチはどこの系統にも属していない。教祖が気功バワーを極めて創始したのだ」と言っていた。「ヒーリングパワーは分かるけど、どうして大勢でやる必要があるのか?」と聞いたところ、「大勢でやることで、パワーが増幅されるのだ」と言っていた。う~ん、確かに。そういう面はあるかもしれない、

そんなこんなで、宗教界のことはたいてい知っている。もちろん、全部ではない。金光教と大本教は知ってるけど天理教は知らないとか、メジャーな宗派でもカバーできてないところは当然ある。でも、もう十分に情報収集したので満腹だ。地球での人生はたった数十年か、長くても百年くらいしかないんだし、すべてを知り尽くすことなど不可能なのは当たり前。もともと、地球はそういう具合にできている。

それはともかく、信者諸氏の一途な信仰をリスペクトする思いはもちろんある。でも、「他にも宗教はたくさんあるのに、なぜ、この人たちはこの宗派を選んだのだろう?」という素朴な疑問が抜けない。信じるというのも、1つのパワーであり才能だ。「信じる力」にかけては、信者にとてもかなわない。脱帽だ。でも、1人1人の個人がどうのというより、地球人類の意識の進化段階として、もうそういう時代じゃないんじゃないかなあ?

昔の人には、宗教が必要だった。古代人や中世人の野蛮さは、現代の日本人の想像を越えている。昔の地球は、今よりももっとストレートに、血で血を洗うサバイバルゲームの戦場だった。地球で長生きするのは本当に難しかった。人生は、まさに生存競争そのものだったのだ。そんな中で、人々に世界観や倫理観をもたらしてきたのが宗教だった。

世界の文明が多くの宗教に分かれるなか、ほぼ宗教統一に成功したのは、千数百年前のイスラム教だった。無学文盲のムハンマドが預言者になり、アッラーの言葉を人々に述べ伝え始めた。文字が読めない預言者の口から、なぜか至高の詩情をたたえた宗教的な詩句が流れてくる。コーランは宗教というだけでなく、文学であり音楽でもあった。その教えは、「アッラーを信じる者は天国に往き、信じない者は地獄に堕ちる」というシンプルなものだった。

当時の世界では、シリアやエジプトはキリスト教の国で、粗衣をまとった修道士たちが修行していた。中央アジアには仏教が広がっていて、僧侶たちが修行していた。そこに登場したイスラム教は、驚くべき速さで広がり、宗教界をほぼ統一した。ヨーロッパはキリスト教だったけど、当時のヨーロッパは今とは違って、遅れた地域だった。中国とインドを別にすれば、宗教界はイスラム教によってほぼ統一された。

現代でいえば、どこかに新興宗教の教祖が現れて、その教えがたちまちヨーロッパ・アメリカ・日本に広がり、圧倒的な多数派になったようなものだ。地球人類の歴史上、これほどの奇跡は他に見当たらない。それほどの魅力がイスラム教にはあった。

美しいコーランの朗誦
https://youtu.be/eaJq5yyYlB4

コーランの響きには不思議な魅力があり、何度でも聞きたくなってしまう。これが宗教の魅力だ。この世での生き残り闘争に明け暮れていた中世の人々も、天国に憧れ、この世ならざるものに目を向けるようになった。

地球人類の意識進化のなかで、宗教は必要だった。昔の人々は、宗教を必要としていた。

(続く)

もう、宗教は要らない時代になった

2021年09月20日 | 精神世界を語る
今さらながら、やっぱり、もう宗教に入るような時代ではない。精神世界の探求は、自分でやるのが一番だ。古今東西の良書は山ほどあるし、スピリチュアルYouTuberだっている。スピリチュアルYouTuberに関しては、「新手の教祖」と見る向きもあるだろうし、「芸能人みたい」と思う向きもあるだろうけど、悪いとは思えない。十分に見て楽しめる。

筆者は長年の精神世界マニアで、スピリチュアル・ニューエイジだけでなく、宗教や哲学にもさんざん関わってきた。子どもの頃は禅寺に通って座禅を組み、お坊さんからお経を習ってた。般若心経や観音経を暗誦していた。小学生のときはお経の意味がよく分からなかったが、中学生くらいになると段々わかってきて、高校生くらいになると「般若心経にはどういうことが書いてあるか」をヒトに解説できるほどになった。こういう、子どものときに意味もわからず身につけたものは、大人になってからも潜在意識に深く浸透して思想的な背骨みたいなものになる。フロイト先生の精神分析学によると、そうらしい。大学生のときは教会に通ってカトリック要理を学び、キリスト教に入信する一歩手前まで行ったこともある。本音をいえばカトリックに限らず、どこの宗教にも入る気はなかったのだが、女性に釣られて入りかけていた。アリガチなパターンだ。教会というのは四谷の上智大学のとこにある聖イグナチオ教会で、カトリックの総本山みたいなところだ。神父さんはドイツ人でバリバリの神学者だった。筆者は聖トマス・アクィナスの「神学大全」や聖アウグスティヌスの「神の国」その他を愛読していた。神父さんにも、「うーん、聖トマス。いいですね」と言われた。

でも、それ以上に印象に残っているのは、昭和の終わりから平成にかけての「第3次宗教ブーム」だ。オウム真理教・幸福の科学・法の華三法行その他の強力な新宗教団体が一斉に乱立した、あの時代。思想マニアなので、もちろん関心を持っていた。「最高ですか?」の法の華には教義らしい教義がほとんど無かったが、オウム真理教と幸福の科学については、信者なみに教義をよく知っていた。というより、信者よりよく知っていた。 どちらも、出てきた当初はマジで本物っぽく見えた。「なんだか、凄いのが出てきたな?」と思ったものだ。でも、なぜか悪い予感がした。今は良さそうに見えるけど、これからだんだん悪くなりそうな予感がしたのだ。予感は的中したというか何というか、どちらも想像を遥かに超えて最悪の団体になってしまったが(笑)
(追記・・・いや、さすがにオウム真理教みたいな凶悪犯罪者と並べるのは幸福の科学さんに失礼でした)

統一教会(原理研)やエホバの証人、創価学会の勧誘も本当にしつこかった。人には、大きく分けて2つのタイプがある。新興宗教の勧誘を受けやすいタイプと、勧誘されにくいタイプだ。筆者は言うまでもなく前者、つまり勧誘されやすいタイプだった。大学のキャンパスを歩いていると、いつも原理研から声をかけられるので、「またか。いつも声をかけられるので勘弁してもらいたい」と文句を言ったところ、「それはご先祖さまの功徳が呼び寄せているんですよ」と勧誘員の人に言われた。もっとも、勧誘を受けて話を聞きに行って見ると、当方は信者諸氏を質問攻めにするので、ウンザリして信者はたいてい離れていったが。ちなみに、統一教会の教義については、信者は「仏教とキリスト教を統一したのだ」というけど、当方には「儒教」にしか見えなかった。日ごろ愛読していた「論語・大学・中庸」といった儒学の経典からの影響が強くて、日本の新宗教とは明らかにテイストが違ってた。「さすがは韓国。骨の髄まで儒教の国なんだな」と感心したものだ・・・。

それはともかく、もう宗教に入るような時代ではないと、つくづく思う。大昔の伝統宗教にも、20世紀の新宗教にも、それが必要とされる時代背景はあった。でも、宗教団体は大変だ。信者さんたちには、大変な努力と苦労をしている人が多い。それが修行だった時期もあった。でも、もうその必要はなくなっている。

今は、スピリチュアルYouTuberの動画があるから、宗教は必要ない(笑)。個人的にはやっぱり、女性のスピリチュアリストがいいと思う。並木良和氏や吉濱ツトム氏は男性だけど、なんだか女性的というか、中性っぽい感じのする人たちだ。なんといっても、霊的な感性がモノをいう。スピリチュアルというのは、もともとそういう世界なんだし。