それにしても、新興宗教は恐ろしいと改めて実感する。これだけの情報社会になっても、まだまだ新興宗教にハマって、精神を破壊される人が後を絶たない。
「真実を知っているのは、この私なのだ」という考えにコリ固まった人は、他人の言葉を受け付けなくなる。信者には、何を言っても仕方がない。最初のうちは、「話せば分かるだろう」と思っていた人も、すぐにムダな努力と気づいて、あきらめる。これは、身近に信者がいる人なら、誰もが経験する事実だろう。
凶悪犯罪で教祖や幹部が根こそぎ逮捕され、法廷で裁かれているオウム真理教だって、今も信じ続ける残党連中が、小規模な団体を続けている。「天声」を詐欺と認定された「法の華三法行」(ほうのはなさんぽうぎょう・・・平成生まれの人は知らないでしょうな)も、強制解散された直後に、信者たちが別の団体を作って「信仰」を継続した。まったく、「信仰」ほど根強いものはない・・・。
洗脳を解くためには、まず教祖や他の信者連中から隔離することが重要だ。すべては、そこから始まる。オセロ中島みたいに、教祖と同居して24時間を共にするなどというのは最悪のケースで、普通の人と話をしなければ洗脳は決して解けない。
不思議なのは、世の中にはこれだけ多くの宗教・宗派があるというのに、どうしてその宗派を「究極の真理」と思い込んでいるのかということ。いろんな信者と話をした結論としては(その多くは、ネット上のお付き合いなのだが)、単純に「他の宗教を知らないから」というのが、最大の理由と思われる。
信者諸氏は、タマゴからかえったばかりのヒヨコが、最初に見たものを親鳥だと思い込んで付いていくのと同じで、たまたま最初に見た新興宗教を「究極の真理」と思い込んでしまう。その点、筆者のように無数の宗派の教義を見慣れている者にとっては、「この宗派は、どの系統に属しているか?」というのが最大の関心事で、どうしても客観的にしか見れない。それが良いか悪いかは、また別問題だけど・・・。
もっとも、本ブログでは「精神世界」と「新興宗教」という2つの言葉を、気楽に使い分けてるけど、この2つに明確な違いがあるわけではなく、線引きするのは難しい。筆者の考えでは、「精神世界」とは、誰もがそれぞれの意見を展開し、相互に影響し合っている、百家争鳴の自由な思想フィールド。「新興宗教」は、特定の教祖によって思想統制された集団というのが、最大の違いだと思う。でも、この2つのジャンルに明確な境界線があるわけではなく、ゆるやかに重なり合っている。
どちらにしても、この分野は、危険な領域なのだ。どこもかしこも、伝染病の病原菌みたいなもので満ちている。はっきり言えば、タチの悪い連中が少なくない。そんなところに、免疫のない人がウカツに入り込めば、感染する恐れがある。
感染しないためには、どうするか。免疫力をつけるしかない。
免疫力とは、早い話が、精神世界や新興宗教というジャンルに「慣れる」ということ。何事も、慣れが肝心だ。「信じる」とか、「疑う」とか、そういうこと以前に、「慣れる」ことが重要なのである。慣れてしまえば、「私は、この教えと出会うために生まれてきたのだ~!!」とかなんとか、いちいちカーッとのぼせ上がらなくてもすむようになるから心配要らない(笑)。
でも、新興宗教の信者諸氏がみんな、この分野の初心者だとは限らない。中には、そうでない人もいるから事情はフクザツ。というより、長年にわたって宗派から宗派へと渡り歩いてきた、いわゆる「宗教遍歴」の持ち主もいる。こういう人は、「免疫のない初心者」どころか、海千山千のベテランだ。中には、信者のくせに教祖を「未熟な若造」(?)呼ばわりする人までいるほど。
そんな人でも、「この宗派こそ、究極の真理なのだ」と思い込んでいるという点にかけては、初心者と変わらないのが不思議なところだろう(笑)。その手の人たちに言わせれば、「私が長いこと宗教遍歴を重ねてきたのは、この真理と出会うための旅だったのだ」ということになるらしい。いやはや、なんともご苦労なことだ。こればっかりは、世間の一般人の理解を超えている。
ただし、「信じる」というのも、ひとつのパワーではある。その点は、認めなければいけない。信仰のパワーは、強い。特に、多くの人々によって共有された信仰は、何かを生み出す創造性を秘めている。というより、意識の領域で、信者たちの世界を実際に創り出している。
信者諸氏の狂信と頑迷にはウンザリするけど、あれだけの「信じる」力というのは、ある意味、たいしたものだ。その点は、認めなければいけない・・・(笑)。