宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

働かない社会の実現

2013年07月25日 | こっくり亭日記

今回の参議院選挙では、ブラック企業も話題になった。

ブラック企業の代表格として、ユニクロとともに常に名前が挙がるワタミの渡部美樹社長が比例区で立候補し、見事に当選したからだ。一方、共産党の候補は、ブラック企業への批判を展開し、ワタミ候補を攻撃していた。

実際のところ、従業員に破天荒なプレッシャーをかけて、メチャクチャに働かせる会社は珍しくないし、それはユニクロとワタミに限らない。

筆者がかつて勤めてた会社も、「俺は一日3~4時間しか寝てない」とか、「一週間、忙しくて一度も昼メシを食べられなかった」というような、武勇伝を語るモーレツ社員が多かった。人によって、それを自慢げに語る人もいれば、吐き捨てるように語る人もいて、それぞれに思いはあるようだったが。

日本の社会には、もともと、労働を美徳とする倫理観がある。それが日本経済を発展させた原動力ではあるものの、それがブラック企業を生む土壌になってきたのも事実だ。こういうのは、経営者の一存でデキることじゃあない。やっぱり、社員の側にも、そういう土壌があるからデキること。

古代ギリシャではスパルタ、近代ヨーロッパではプロイセンに代表されるように、世の中のすべてが軍事を中心に回っている、真の軍事国家は戦争に強かった。スパルタでは、男も女も国民皆兵で、子供の頃から軍事教練ばかりやっていた。プロイセンでは、「軍隊とは、プロイセンのすべて。ここは、軍隊つきの国家ではない。国家つきの軍隊なのだ」と言われた。そんな国と戦争して、普通の国が勝てるはずもない。それと同じように、世の中のすべてが仕事中心にできている日本で、経済が発展したのは当たり前。

その点、フランスの労働者は、一日3時間しか働かないと言われている。あるアメリカの大手タイヤメーカーの経営者は、「フランスの会社を買収しませんか?」という話を持ちかけられて即座に断り、その理由に「フランスの労働者は、一日3時間しか働かないから」と言った。

勤務時間は一日8時間なのだが、労働者たちはその半分以上、ノンビリ昼休みだそうな。それに対して、経営者が文句を言ったところ、労働組合から「それがフランスの働き方なのだ」と言われた。それ以来、「二度とフランスの会社を買収するものか」と、経営者は固く決意したのだという。

でも、日本のモーレツ社員みたいに、一日18時間も働いたりしていれば、日常生活の中に、仕事以外の要素はほとんどなくなる。完全なる仕事人生だ。これじゃ、意識の覚醒にはホド遠い。

理想としては、やはり、仕事は一日3~4時間くらいにして、人生における仕事の比重を減らすべきだろう。もちろん、「そんなんじゃ足りない。俺はもっと仕事したいんだ」という人もいるだろうから、そういう人は仕事人生を選べばよい。そうならなければ、「選択の自由」とは言えないだろう。

スペインでは、若者の失業率が50%に達していると言われるようになって久しい。つまり、労働者の人数に比べて、仕事が半分しかないわけだ。これなら、労働時間を半分に減らしたところで、何の問題もない。

日本では、仕事こそ人生だという考え方が根強い。世の中が、生産することにばかり熱心で、消費を後回しにしているのだから、構造的なデフレ体質になるのは仕方がない。もっと余暇を増やし、政府がせっせとお金を刷って配ったほうが、これからは経済が伸びるだろう。

ただし、一日3時間しか働かない人ばかりだと、プロフェッショナルな仕事をできる人が少なくて、社会全体が劣化する恐れがある。

お金のために働く必要が本当にない社会になったら、人々は趣味に生きることになる。その結果、古代の貴族社会と同じで文化は発達するかもしれないが、社会を維持するのに必要な、地味な生産活動やサービス業では確実に人手が不足することだろう。

その場合、大半の仕事はコンピュータやロボットが代替するようになっていく。どこまで代替できるかが、この新しい社会システムの鍵を握っている。

ただ、お金のために働く必要が本当になければ、それだけで不要になる仕事は多い。というのも、世の中の仕事の多くは、広告とか営業とか、需要を喚起するための活動に向けられている。また、金融を初めとして、お金そのものを取り扱う仕事も多い。お金が必要なければ、ついでにそれも要らなくなる。

貨幣廃止論者の人たちに言わせれば、ボランティア活動が、それらに取って代わる。つまり、貨幣のない社会では、人は他者への奉仕に生きるようになり、ボランティア活動によって世の中は維持されるというのだ。

それは確かに、理想像ではある。近い将来に実現するとは思えないが、だんだん、世界はそういうボランティア社会に向かっていくだろう。

でも、ユニクロの安い服には、ずっとお世話になっている(笑)。ワタミも、確かに安くて美味しく、店員は熱心だ・・・。

世界的な崩壊傾向

2013年07月24日 | こっくり亭日記

先週は、アメリカで、デトロイト市が破産した。日本で言えば、トヨタがある豊田市に、日産やホンダも集まってるような自動車工場の街。

最近は、工場が閉鎖されて寂れる一方で、廃墟と化してきていた。殺人を初めとする犯罪が多くて、「全米で最も危険な都市」とも言われてた。銅線を大量に持ち去られて電話が広範囲にストップしたりとか、考えられない事件が起きていた。

税収も当然なくなり、市は債務を払いきれなくなって破産した。この、地方自治体の破産は、アメリカではちょくちょくあるとはいえ、今回は有名な大都市だけにショックも大きい。

デトロイトが衰退したのは、日本の自動車業界に敗れたのも大きな原因があるけど、どのみち、時間の問題だったんじゃなかろうか。アメリカでは、金融界の大手は、何年か前のリーマン・ショックがウソみたいに空前の大儲けをしてるらしいんだが、その一方で、製造業の衰退はここまできた。

イギリスがそうだけど、金融立国というのは、金融が儲かるような社会システムになっている。以前、「イギリスの銀行はあんなに収益を挙げているのに、日本の銀行は収益力が低くて情けない」と言う人に、「日本もあんなに金利が高かったら、銀行は儲かるだろうけど、その代わり製造業が衰退して、それこそイギリスみたいな国になりますよ」という話をしたことがある。

でも、イギリスや香港、シンガポールならともかく、アメリカみたいな巨大な国の経済が、金融とITで成り立ってるというのも、恐ろしい話だ。マネーと電子情報が動いてるだけなのに、「今年はいくら儲かった」というような話ばかりしている。虚業で成り立つ、「壮大な張り子の虎」っていう感じ。ますます、世の中全体がバーチャル・リアリティに近づいたっていうか。

金融といえば、中国も、「影の銀行」(シャドーバンキング)が世界的な話題になっている。中国では、国営銀行が、国営の大企業に融資するというのが基本。中小企業や個人は、ヤミ金融から借りている。ヤミ金融っていったら、ヤクザ稼業の裏街道みたいだけど、一般社会で普通にやっている。

経済成長率も落ちてきて、中国の国内や政府周辺からも悲観論が聞こえてくるようになった。「人がほとんど住んでない辺境に、巨大な高層マンションが林立して、誰も住んでない」とか、「GDPの半分近くが住宅投資関連」とか、想像を絶するハチャメチャな話ばかり。

それでも、そんな中国経済に、「まだ楽観論を唱える日本人ビジネスマンもいる」というのがネットに出ていた。それを見ると、エレベーター会社の人だった。いわく、「中国で建つのは高層ビルばかりなので、エレベーターが凄い勢いで売れている」だそうな。

日本だって、北海道の原野とか、瀬戸内海の沿岸とか、アチコチに「新興住宅地」を作って、そこに東京の港区のような高級マンション街を建設する・・・というのをやれば、今でも中国みたいな「経済大躍進」は十分に可能だ。資源のムダで環境破壊だし、後が怖いからやらないのだが(笑)。

こういうのは、いったん始めたら、途中で止めるわけにいかないのがアタマの痛いところ。止めたら、その瞬間にバブル崩壊で、全員がお手上げになる。それがイヤなら、延々と新築ビルを建て続けるしかない。でも、「そろそろ方向転換しなきゃ、マジでヤバそうだ」と、政府当局もさすがに言い始めた。

まったく、洋の東西を問わずムチャな話ばかりだ。

そんな中で「シェールガス革命」が進み、アメリカで安価なガスがどんどん出てきた。今まで、石油や天然ガスの輸出に頼ってきたロシアや中東の焦りはすごいみたいだ。今までのところ、中東で革命や内戦が起きているのは、エジプト・リビアやシリアなど、石油の中心地じゃないところが多かったけど、これからはペルシャ湾岸の代表的な産油国もヤバくなってくるのか。

世界では、異常気象もますます凄い。文字通り、「暑い夏なのに、突然、空から雪やヒョウが降ってきた」というような話も珍しくない。

日本でも、自民党が大勝したり、一応の「激変」は起きているけど、そんな日本の変化が小さく見えてしまうほど、世界は荒れている。でも、日本だって激動の東アジアに位置してるんだし、見た目ほど落ち着いているわけではない。

もっとも、日本経済が上向いているのは事実のようだ。先日のIMFの発表でも、世界各国の経済成長率の予想が軒並み下方修正される中、日本だけが上方修正され、独り勝ちの様相にすらなっていた。

今までは絶好調だった中国・インド・ブラジルなどの新興国が、いよいよ伸び悩んでいるから、日本が好調に見えてくる。

しかし、いつまでも「日本、日本」と、日本にばかりコダワッている時代でもない。

先日は、韓国のテレビでの飛行機事故ニュースで「死亡者は2人とも中国人で、私たちにとっては幸いでした」という発言が大問題になった。謝罪を要求するのには慣れていても、謝罪するのには慣れてない国だけに、「あれは中国人が死んでラッキーという意味ではなく、韓国人が死ななくてラッキーという意味だったのです」とか、ズレた弁明をして、火に油を注いでいる。

これは、自分の国のことばっかり考えていると、そんな風になってしまうという他山の石だ。

世界に目を向ければ、日本の問題が、やっぱり小さく見えてくる。今は、世界中が崩壊寸前。地球規模のアースチェンジは、やはり起きている・・・。



2013年夏・選挙結果に思う

2013年07月23日 | こっくり亭日記
   
ここ20年ほど、転変を重ねてきた日本の政治。とくに、2006年からは、毎年コロコロ首相が交代してきた。「今日は、誰が首相をやってるの?」という世界が続いた。
 
それが、衆議院に続いて、参議院でも自民党が圧勝。かつての高度成長期の「自民党一党支配」をもしのぐ勢いだ。安倍晋三首相は、歴代の日本の首相の中でも、最も安定した状態にある。
 
というのも、自民党は、「自由民主党」っていうだけあって、「自由党」と「民主党」が合併してできた二本立ての政党。これは、あとあとまで尾を引いた。主流派と非主流派、要するに党内の右派と左派が、いつも政権を争っていた。自民党の「一党支配」とは言うものの、実際には、この2つが政権交代をやっていた。
  
中国大好きで、電撃的な中国との国交回復を実現し、国内でも地方に公共事業バラマキ予算をやっていた田中角栄あたりは、今にしてみれば、左派の社会主義政権みたい。当時は「金権政治家」と呼ばれ、左翼知識人たちから嫌われてメチャクチャ批判されてたけど、「いまにしてみれば、良い政治家だった」と、彼らは逆に懐かしんでいる。その流れを汲む小沢一郎も、左翼の関係者には妙に人気が高い。
 
その点、安倍晋三とか小泉純一郎は、自民党でも右派の流れを受け継いでいる。国民の支持率は高いが、左翼からの嫌われっぷりには、異様なまでのものがある。
 
ただし、こういう自民党の構造は、ここ20年の間にすっかり崩れてしまった。このため、党内には、「次はオレだ」という順番待ちの人がいない。かつての自民党では、必ずと言っていいほど、そういう順番待ちの人がいて、いつも「アイツの内閣をいかにして早く終わらせ、自分の順番までさっさと回すか」という工作を必死になってやっていた。だから、すぐに内閣が潰れた。
 
自民党一党支配みたいな状態だと、そうやって党内の派閥争いが激化するから、かえって政権が長続きしない。

その点、いまの自民党は、何度も野党に大逆転された苦い思い出を引きずっているから、「今の自分たちがあるのは、安倍内閣の人気のおかげ」と知っているので、とりあえず派閥抗争は治まっている。

やっぱり、せっかくだから、ここで安倍首相には存分にガンバってもらいたいものだ。イギリスやドイツみたいな成熟した議会制民主主義国を目指す上で、これは絶好のチャンスと言えるだろう。

「今の日本は、野党が弱くなりすぎた。これじゃ、また昔の自民党一党支配の時代に逆戻りだ。やっぱり、日本で真の政権交代は無理なのか?」という人もいるけど、それはどうかなあ。

3年前、民主党が地すべり的な大勝利をおさめて政権交代したときも、「いくらなんでも、自民党が弱くなりすぎた。これじゃ、2大政党制にならないんじゃないか?」と言ってた人が多かった。今の選挙制度では、いつ流れが逆回転するか分からない。今の状況が10年後も20年後も続くというのは無理がある。
 
もっとも、民主党はいくらなんでもヒドすぎる。鳩山由紀夫・元首相なんかは、何を思ったか選挙直前になって、「中国にしてみれば、尖閣諸島は日本が盗んだと言われても仕方がない」とかなんとか、強烈な燃料を投下して、反・民主党感情をさらに大きく燃え上がらせてくれた。いまさらながら、こんな人が首相をやってたとは、事実はホラー小説よりも怖い。よくもまあ、あれで日本が潰れなかったものだ・・・。

筆者は、社会主義は嫌いではない。「政府が国民全員にお金を配って、誰でも生活できるようにする」という、ベーシックインカムの話なんかは大好きだ(笑)。だから左翼は別にいいのだが、反日は勘弁してもらいたい。
 
それにしても、いまどき反日左翼なんか流行らないのは、誰の目にも明らかとしか思えないんだけどなあ。社民党の福島瑞穂とか、どうして、あんな主張をいつまでも続けるんだろう。韓国の反日団体とつるんで、アメリカで「慰安婦」キャンペーンをやるとか、とてもマトモな神経と思えない。
 
中国の歴史ドラマでは、「北からモンゴル人や満州人が攻めてきて、中国の漢人が抵抗する」というストーリーが多い。日本で人気がある中国歴史モノといえば、春秋戦国とか三国志あたりの古代史が定番だけど、それよりもずっと後の時代のこと。

そんな「侵略モノ」の歴史ドラマによくあるパターンとして、馬に乗って攻め込んでくるモンゴル人や満州人の武将は、敵ながら一本気な武人で、妙にカッコいい。
 
とことん醜く描かれるのは、そんな異民族の策略に乗って、内側から中国を転覆させようとする漢人の内通者、つまりは裏切り者だ。たいてい、皇帝の側近にそういう裏切り者の高官がいて、雄々しく戦う武人の足を引っ張る。

辺境の地に異民族が押し寄せ、中国の国境がヒタヒタと侵されていく。そこでは、愛国心のカタマリみたいな中国の武将が孤軍奮闘している。一方、遠く離れた都では、自称「平和主義者」の奸臣が、世情に疎い皇帝に和平を説く。最前線で雄々しく闘う武将は、「裏切り者」の汚名を着せられて悲劇的な末路をたどる・・・というのが、おきまりのパターン。大陸国家の人々は、それがよくあることだと、経験的に知っている。幸か不幸か、日本人にはそういう歴史的な経験がほとんどない。

中国の歴史ドラマでは、そういう、国を内側から滅ぼす連中が、とにかくズルくて異常で卑怯者で、とことん悪い奴として描かれる。それは、それだけ中国の民衆から嫌われ、憎まれてきたということ。千年近くたっても、いまだに民衆から銅像に石をぶつけられる宋の宰相までいる。  

それと同じように、反日左翼が嫌われるのも、自然な国民感情というものだろう。

中国人や韓国人が反日宣伝するのは、彼らも彼らなりに必死だし、分からないでもない。でも、それに同調して国内外で工作している、変な反日左翼の日本人はいったい何なの!?
 
日本国内で、自国を批判するのなら、まだ分かる。でも、最近はわざわざ欧米まで出かけていって、アメリカ議会とかで反日宣伝する連中までいる。そうやって、自国のイメージを悪化させることに情熱を燃やしている。
 
「独裁国家で苦しんでいる自国民の窮状を訴える」とか、そういうのなら分かるんだけど、この日本で、さすがにそれはない。彼らのやってることは、単に日本のイメージを落とすためだけの、純粋な反日宣伝活動だ。

イメージが悪化するだけなら、まだいいんだが、日本に対する敵意を煽る結果になることも少なくない。実際に、「慰安婦」の問題で反日左翼が大騒ぎしたおかげで、韓国人も便乗して怒り出し、それを見て日本人も怒る・・・という連鎖反応が起こり、日韓関係はものすごく悪くなった。「平和主義」としては、逆効果もいいところ。

もっとも、左翼の知人に、この怒りと疑問をぶつけたところ、「なにが反日だ。自国の欠点を批判し、修正するのは健全な精神というものだろう」と、逆にたしなめられてしまった。まあ確かに、それにも一理あるので、いちがいに否定できないとはいうものの・・・(笑)。
  
でも、そういう理屈が通用するのは、左翼の知識人の間だけ。普通の日本人は、もっとずっと健全な感覚を持っており、自然な国民感情に正直だ。幸いなことに、選挙を重ねるたびに、その手の反日集団が消えていく傾向は歴然としている。
 
まったく、こればっかりは、何とかならないものか・・・!?
   

今年も、ますます異常な暑さの2013年・夏

2013年07月13日 | 異常気象

「山梨日日新聞」の記事によると、山梨の猛暑はすごいらしい。気温が40度近いまま、ずっと高止まりしている。

人間の体温だとしても、これじゃブッ倒れて寝込んでしまう温度だ。それが、外の気温だっていうんだから、たまらない。
 

>2013年07月12日(金)

>猛暑、勝沼 再び全国1番に

>12日も山梨県内は気温がぐんぐん上がり、最高気温は勝沼で39・1度を観測、全国1位の暑さだった。甲府は38・9度で2位だった。甲府・古関は10位。県内では韮崎など8カ所で35度を超え、6日連続の猛暑日となった。 
甲府地方気象台によると、13日も太平洋高気圧に覆われるが、前線が南下するので雲が広がりやすい天気となる見込み。日中は晴れて気温が上がるため、熱中症などに注意が必要だ。


甲府といえば、巨大な武田信玄公の像と、躑躅崎館(つつじがさきやかた)を思い出す。あと、富士山に行く途中に立ち寄ることもある。「室町時代から栽培されている」という、ブドウの名産地だ。

暑いのは仕方ないにしても、とにかく湿度の高さが半端じゃない。ブドウやワインの名産地というと、スペイン・イタリア・カリフォルニア・チリなど、乾燥気候のところばかりを連想する。この湿度の高さは、あまり良くないのかもしれない・・・。

東京も、尋常でない湿気だ。外を歩いていても、スチームサウナの中にいるみたい。青空なのに、雨が降ってくる。水滴がポタポタ落ちてくるような、なんとも暑苦しい雨だ。

この異常気象は世界的な傾向で、国連の世界気象機関(WMO)も、「2001─10年は前例のない異常気象に見舞われた10年間だった」と発表した。

新聞記事によると、

>報告書は異常気象の事例として、2005年に米国を襲ったハリケーン・カトリーナや、10年のパキスタン洪水、アマゾン川流域の干ばつなどを挙げた。これら異常気象による死者は37万人に上り、1991─2000年に比べて20%増加した。

・・・だという。

今年も、ヨーロッパの大洪水は、日本はともかく海外のメディアで大騒ぎになっている。でも、さらにすごいのはインド。

気象庁の発表によると、

>雨季入りは記録的に早く、平年より約1か月早かった。
6月のインドの降水量(25 日現在)は広い範囲で平年より多くなっている。

特に平年と比べて降水量が多かったインド北西部のデラドゥーン(ウッタラカンド州)では、6月
10日頃から雨が降り始め、6月10日~17日の8日間降水量が640mm以上となった。

>この大雨により、6月24日までに、ウッタラカンド州で9万人以上が避難し、洪水等によ
り560人が死亡した。また、インド全体で658人の死亡が確認された(インド政府)。
 

ここんとこ毎年、「異常気象だ」という騒ぎになるので、もう慣れっこになった感もあるけど、やっぱり笑えない。年々、さらに異常になっていく一方だからだ・・・。
 

問題なのは、「知識」ではなく、「思考」

2013年07月07日 | 精神世界を語る
  
精神世界を探求する上で、多くの精神世界本を読んだり、大勢の精神世界関係者の話を聴いたりする必要はないけど、できる範囲で、そうした方が良いと思われる。

「現代人は、知識がつきすぎることによって、悟りがかえって遠のいているのだ」という人もいる。まあ確かに、そういう面もあるんだろうけど、それが根本的な問題とは思えない。知識など、なくても別に困らないけど、あっても別にジャマにはならないからだ。それは、人それぞれの興味関心、つまりは趣味の問題でしかない。 
 
法の華三法行という宗教(・・・教祖と幹部が、詐欺でタイホされた)では、「頭を捨てろ」、「頭をもぎ取れ」と、信者に説いていた。これじゃ、「ダマされやすい人になれ」と言ってるようなもの。それでも、信者さんたちは一生懸命、バカになろうと努力していた。

でも、バカになる必要はなかったのだ。思考を止めればいいだけ。むしろ、もっと勉強して利発になっていたら、変な新興宗教にハマらなくてもすんだだろう。ハマってもいいんだけど、抜け出せたことだろう。
  
 
「ジャマなのは、知識ではなくて、思考なのだ」というのが、なんといっても重要なポイント。
 
思考といっても、哲学者が静かな散歩道を逍遥しつつ巡らすような、高度な思考ではない。誰にでもある、止まらない雑念のこと。
  
知識などあろうとなかろうと、余計な思考の垂れ流し状態が続いていれば、意識の流れはドロドロしてくる。思考がストップしてさえいれば、意識がクリアーになってくる。

 
最近は、「思考を止める瞑想」のおかげで、なんだか、ふしぎな活力がわいてきている。精神世界系ブログでは、「ワクワク感が起きてきました」とよく書いてあるけど、確かに、原因不明のワクワク感が起きてきた(笑)。

原因不明というか、本当は原因がわかっている。「思考を止める瞑想」のおかげだ。

今までにも、ホントは、ワクワクするエネルギーが、意識の奥から沸きあがってきていたのだろう。でも、表面意識で四六時中、グルグル渦巻いている思考が、それをブロックしていたのだ。


「思考を止める」といっても、別に難しいことではない。単に、雑念を止めて、クリアーな意識状態を、しばらく続ければいいだけ。

でも、それが意外と難しい。つまさき立ちのポーズとかと同じで、一時的には簡単でも、長く続けるのは難しい。

古代インドの瞑想者たちも、それがどれほど難しいことかを、よく知っていた。だから、いろんな瞑想のテクニックが開発されている。それをうまずたゆまず、実践するのが望ましい。


ただし、お手本は、世の中にたくさんいる。赤ちゃんや、犬とか猫、小鳥その他が、そのお手本だ。

そういうのを観察していると、「思考が止まっている」という状態がどういうものかが、実感として分かってくる。もちろん、人間の大人と違って、もともと思考するという機能が発達してないから当たり前とはいうものの、これに関して理想的な見本なのはまちがいない。

走り回る犬や、枝に止まって鳴く小鳥からは、地球の物質世界という薄暗くて重苦しい環境にあっても、純粋な「生きる喜び」が伝わってくる。本当は、「生きる」ということには、喜びが満ちているのか・・・!? 
  
 
イエス・キリストは、幼な子の頭の上に手を置いて、「この者のようにならなければ、天国の門は開かれない」と言った。
 
でも、赤ちゃんは確かに、純粋でエゴがなくて、無尽蔵の生命エネルギーを発揮するお手本だけど、その代わり、自力じゃ何もできないし、トイレにも行けないようじゃ、ホンモノの理想像とは言えない(笑)。
 
人間の大人ならではの思考力を持ちながら、赤ちゃんや動物のような思考停止を実現できたら、それこそが、赤ちゃんをも上回る理想状態だろう。
 
「その気になれば、酒をジャンジャン飲めるけど、あえて飲まずに禁酒する」というのと似ている。
  
(続く)  
 

「アタマを空っぽにする瞑想」の意義

2013年07月05日 | 精神世界を語る
 
最近は、本当にアタマの中から雑念が消えてきた。意識の中心がハートチャクラのあたりまで降りてきて、そこで定着している。脳と違って、ここは、感性や感情のエリア。考えるのには、あまり適していない。だから、思考が止まる。

「なんでも知ってるけど、頭がカラッポな人」というのが、筆者の目標とする人物像なのだ。

矛盾してるようだけど、実際に、思考を止めることに取り組みつつも、一方では知識をせっせと集めてきた。特に、精神世界については、「日常生活の役に立たないことをコレだけやってれば、リアルの人生にかける時間とエネルギーが、その分だけワリを食うのも仕方ないよなあ」としみじみ思うほどに、やってきた。

先日、久しぶりに目白のカトリック大聖堂に行って、荘厳なパイプオルガンに耳を傾けて感動した。そこで思い出したのだが、そういえば筆者は、学生時代にカトリック教会に通って、高名な外国人神父の勉強会でカトリック要理を学び、信者なみの素養を身につけたのだった。そのことを、オルガンを聴くまで、すっかり忘れてた。

「信者なみ」というより、聖トマス・アクィナスの「神学大全」とかを読みふけっていて神父からも感心されたし、「修道院体験プログラム」とかにも参加してたくらいだから、並の信者以上の取り組みだったと言ってもおかしくない。

イスラム教のコーランにも、同じように慣れ親しんでいる。どちらかと言えば、聖書よりコーランの方が好きだ。世界的に有名な巨匠・井筒俊彦の名訳があるけど、文字で読むより、読誦を聴く方がさらにすばらしい。中世のイスラム思想にもハマった。あれは、神秘思想の最高峰だろう。

東洋思想についても、仏教や老荘思想だけではない。儒教のことも、たまにチョロッと書くけど、これまた、論語・大学・中庸・孟子、易経や詩経といった四書五経に慣れ親しんでいる。朱子学や陽明学の古典も読んできた。

このため、学生のときは、酒を飲んで酔っ払うと、漢文を引用し始めることが、よくあった。たとえば、金持ちのボンボンの友人から「今夜の飲み代はオゴってくれや」と言われ、「子のたまわく、我これを聞く。君子は、急を救うて富めるに継がずと・・・」(※)とかなんとか、論語をひとくさり引用し始める。まるで、江戸時代の生きる化石みたいだった。

シュメール神話のエンリル神の話も、「アンタも好きねえ」とコメントされるくらい、よく書くテーマだけど、これだって、池袋のサンシャイン・シティにある「古代オリエント美術館」に通って、古代シュメールの粘土版を何度もジックリと観察してきた成果だ。

シュメール神話に限らず、ギリシャ神話にも、中国神話やインド神話その他にも、長らく慣れ親しんでいる。

もちろん、日本の神話は、その中でも別格。小学生の頃から、日本神話が大好きで、歴代天皇の名前(神武・綏靖・安寧・懿徳・・・明治・大正・昭和)をすべて暗誦し、「日本は神の国」と唱える皇国史観少年だった。
 
ついでに、西洋哲学も手広くやっている。ジョン・ロックや、モンテーニュ・デカルト・パスカル・ベルクソン、スピノザ・ライプニッツ・カント・ヘーゲル・ショーペンハウアー・ニーチェ・ヴィトゲンシュタイン・・・といった、主だった西洋哲学の古典を一通り学んだ。

一方、新興宗教の各宗派についても、「なんで、ウチの宗派のことを、そんなに知ってるの!?」と信者さんからビックリされることが少なくない。実際に、信者なみに教義を知っている新興宗教が、ひとつやふたつでなく、いくつもある。ネットの掲示板で某教団の教義を批判していたところ、「アナタの教義批判のおかげで、教義の背景が深く理解できました。立場は違うけど、どうもアリガトウ」と、逆に感謝されたことすらある。

チャネリングについても、「バシャール」を20数年前に読んで以来、常に最新流行を取り入れてきた。ラー文書やハトホル書など、主だったチャネリング文献の多くをブログで取り上げてこれたのは、そのおかげ。

さらに、精神世界でよく出てくる関連の話題についても、経済とか金融はもともと専門分野だし、学習塾で理科の先生をやってたこともあるほど、科学にも詳しい。
 

ブログでは、ニューエイジ系の精神世界論とか、仏教と老荘思想の話になることが多いけど、その背景はこれだけ深くて厚い。

普通にやってたんじゃ、こうはならない。要は、ものごころついた頃から、こんなことばかりやっている。かつて、失業して何ヶ月か失業保険をもらってたときも、就職活動は二の次で、そんなことばかりやっていた。上記のようにメニューが多彩だから、それでも忙しいのなんの。睡眠時間や食事時間を削って、本は、和書も洋書もすべて速読。「はい、次いこ、次」っていう感じ(笑)。
 

そういう人が、チャネリングのメッセージをコピペして、「やはり、アセンションは進行中なのだ」と説くのだから、これは、いやが上にも発言に重みが増すというものじゃないか!?

一部の人たちからは、「なんだ、このコピペは。説得力がまるで無いぞ」というご批判を頂戴することもあるとは言うものの・・・(笑)。


何年か前に、船井会長の講演をアチコチでよく聴いていた時期があった。そこで船井会長は、「私は、精神世界については世界一くわしいんじゃないかとも言われています」とか、「私は、精神世界については、日本一くわしい人の一人とされてます」と自信満々に語っていた。

それでいて、船井会長は、「私は、聖書も仏典も読んだことがありません」とも言っていた。もちろん、聖書や仏典を読まなくたって、精神世界を探求する上では、とくに差し支えない。必要はないけど、それだと、「世界一くわしい」というようなタイプの人になるのは無理。

確かに、「30代から、忙しいビジネスマンとしての日常のかたわら、精神世界の勉強をやってきました」ということだし、それで、あれだけの人になったことには感心する。でも、2~3年前に出た、「私の長年の霊界研究の集大成です」という本を書店で見たところ、なんと、某教祖の教えそのまんま。さすがに、後書きでは、「某教祖の著書を参考にしました」とは書いてあったが・・・。新興宗教に対する免疫がなさすぎて、ちょっと危なっかしく見えた。


またまた脱線したけど、それはともかく、そんな自分が、いまや「アタマを空っぽにする瞑想」に取り組み、ちゃくちゃくと成果が上がってきているということに、人生の皮肉を感じている。

でも、それが事実なのだ・・・。「アタマを空っぽにする瞑想」には、とても高い効果がある。

(続く)
 
 
(※君子は、困ってる人を助けることはあっても、金持ちにワイロを贈ることはありません・・・という意味)
 

チャクラに意識を集中する

2013年07月05日 | チャクラ



瞑想で意識覚醒を目指すなら、ひとつひとつのチャクラをしっかりと意識することが大事になる。

そのためには、まず、チャクラの位置を正確に把握しなくちゃいけない。チャクラの場所が分からないのに、意識しようったって無理がある。中には、自力でチャクラを発見できる人もいるだろうけど、そんな人は、そもそも修行する必要ないし(笑)。

通常は、眉間のチャクラを初めとする、身体の表面のツボをチャクラとして意識するわけだけど、クンダリニー瞑想では、背骨に沿って存在するとされる「スシュムナー管」が重要なので、各チャクラは、みんなスシュムナー管の中。つまり、身体の奥の方にある。

とはいっても、上の図にあるような小さな点として、ピンポイントで意識するのは、なかなか無理がある。ここは、だいたいの見当をつけてかかるしかない。

それぞれのチャクラの位置が分かったら、次は、チャクラに意識を集中する。このときの、集中力の鋭さと強さが鍵を握る。

「意識は脳にある」というのは、20世紀の人間の古い信念でしかない。実際には、意識は、脳だけでなく、からだ全体に広がっている。その、漠然と広がってる意識を、ひとつのチャクラにググッと凝縮する。

意識は、スシュムナー管に沿って、上に行ったり、下に行ったりする。最終的には、スシュムナー管そのものが一本の棒みたいになり、頭のテッペンからゴソッと丸ごと抜け出すらしいんだが、残念ながら、そこまでは意識できてない・・・。

何はともあれ、修練あるのみ。スポーツとか、武芸とか、楽器の演奏とかなら、修練がモノを言うのは誰でも知っている。精神世界も、例外ではない。

なぜか、精神世界だけは、「信じるか、信じないか」という信念の問題だと、世間の一般人に思われているのは残念だ。それは、入り口の段階では確かにそうだろうけど、そんなの何だって一緒。空手の修行をするのだって、「これをやれば強くなる」という信念がなきゃ、長続きするはずもない(笑)。

瞑想で意識を集中するのは、日常生活にも、確実に役に立つ。瞑想で鍛えた集中力や観察力は、とても便利だ。スポーツで鍛えた筋力や持久力が、生活に役立つのと変わらない。

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「いま、ここ」に意識を集中する

2013年07月03日 | 精神世界を語る
    
 
アメリカでは、何十年も前から精神世界の定番中の定番といえる、「ビー・ヒア・ナウ」。これがいまや、「いま、ここ」として、日本にもすっかり定着した感がある。
 
「いま、ここ」に意識を集中するというのは、元はといえば、インドの瞑想哲学。これは、時間と空間を超越するための秘法なのだ。
 
 
「いま、ここ」に生きるためには、どうすればいいのか。それは、過去の後悔とか、未来の不安とか、そういうものを忘れればいい。過去や未来という時間だけでなく、東西南北、四方八方の空間のことも忘れる。

そのためには、何も考えず、アタマを空っぽにするのが一番だ。もちろん、「そう言われなくても、ボクはもともとアタマが空っぽで、何も考えてないよ!?」という人もいることだろう。そういう人は、「いま、ここ」の生き方に、もともと近いと言える。

赤ちゃんは、オモチャに夢中になると、他のことを全部忘れてしまう。でも、ティッシュペーパーを丸めたり引っ張ったりするのに夢中になると、オモチャなど振り返ることもしない。お菓子に夢中になると、今度はティッシュペーパーを放り出してしまう。まさに、「いま、ここ」の生き方が完璧にできている、理想的なお手本だ。
 
赤ちゃんだけでなく、犬や猫とか、小鳥とかも同じだろう。小鳥をカゴから出すと、大喜びで家の中を飛び回る。カゴに戻そうとすると嫌がるけど、いったん戻してしまえば、それはそれで、別に不満そうではない。カゴの中で、ノンビリとくつろいでいる。小鳥にとっては、現在がすべてなのだ。
 
どうして、人間の大人だけが、「いま、ここ」のみに生きられず、常に、過去や未来の幻影に悩まされていなきゃいけないのか。それは、アタマが発達したからだ。つまり、知的に進化した代償として、そうなってしまった。
 
「だったら、永遠に子供でいればいいじゃないの?」ということになるかもしれない。というより、「鳥や獣から進化しなければいいんじゃないの?」ということにもなりかねない。
  
でも、やはり、そういうワケにはいかない。というのも、「愛と知」こそが、精神世界の二大価値だからだ。「愛は知に勝る」とはいうものの、知もまた、愛に次ぐ大きな価値であることに変わりはない。知的な進化も、しないよりは、したほうがいい。

つまり、何も考えていない子供や動物が「いま、ここ」に生きられるのは、言ってみれば、当たり前のこと。人間の大人でありながら、しかも「いま、ここ」に生きられるというのが、それを上回る理想像と言える。

「本当は酒が飲めるのに、飲めないフリをするのが一番」と言ったのは兼好法師だった。つまり、酒はなるべく飲むべきじゃないというのが建前なのだが、本当に飲めないよりは、実は飲めたほうがいい。思考もそれに同じで、「本当は考えられるのに、とりあえず、何も考えていない」というのが一番いい。


といっても、それは簡単なことではない。洞窟の中で静かに暮らしているのならともかく、普通に生きていれば、どうしても現実に振り回される。いや、洞窟にこもってたって、何もせず静かにしていると、かえって昔のことばかり走馬灯のように想起されるものだ。ムカつく奴のことを思い出して、「いまさら仕方ないけど、改めて、アノヤロ~!!」ということにもなりかねない。

「いま、ここ」に生きるというのは、一時的には難しくない。過去のことを思い出したり、未来のことを考えたりしなければいいだけだからだ。でも、持続するのは難しい。

一番いいのは、瞑想でそれを強化することだろう。瞑想で、集中力と観察力を強化する。凸レンズで太陽の光を一点に集めるように、意識を「現在の一瞬」にググーッと集中させる。そういう訓練を積むことによって、意識にもっと本質的な変化が起きてくる。

「わざわざ訓練しなくても、自然に、いまここを意識していればいいんじゃないの」という意見もあるだろう。確かに、それも一理ある。

でも、「いまここに目覚めて、私は変わりました」と言うのは簡単だけど、それが一時的な気分の変化でないという保証はない(笑)。やっぱり、そこに「瞑想による訓練」ってものがないと、確固たる意識改革には至らないんじゃなかろうか。スポーツや芸術その他と同じで、なにごとも修練が大事なのだ。精神世界だけが例外ということはない。
 
筆者は、「集中力と注意力を強化する瞑想トレーニング」というようなのが大好きで、盛んにやっている。

最近は、アタマの中が空っぽになってきて、明らかに集中力が違ってきている。同時に、意識の中心が、いままでは頭部に貼り付いていたのが、胸部のハートチャクラあたりまで降りてきたという感じだ。アタマで考えることが、以前よりもずっと少なくなっている。

意識が頭部に偏っていることが、集中力と注意力を低下させる大きな原因なんじゃないかと、今では感じている。要するに、「アタマの中に雑念がありすぎる」というのが、注意欠陥の元凶ということ(笑)。

「アタマの中を空っぽにする」というのは、気功でも基本中の基本とされている。首から上は、背骨のテッペンに、ダラーンと乗っかってる感じにする。ボーっとした、恍惚の境地。そうすると、気のエネルギーが自然と湧き出してくる。老子風にいえば、「恍たり惚たり、その中に精あり」。

ボーっとしてるんだけど、それでいて、精神を鋭く集中している。単にリラックスしているワケではないのだ。ここがポイント。
 
歩きながらだったら、右足、左足・・・と足にひたすら注意を集中する。ヴィパッサナー瞑想の「ラベリング」だと、実際に「右足、左足・・・」と心の中で唱えて、気持ちがそれるのを防ぐ。
  
アーナーパーナ・サティの場合は、鼻から出たり入ったりする息に、意識を集中する。これが一番、無味乾燥なので、純粋な集中力の強化につながる。要するに、空気が出たり入ったりしてるだけで、まったく何の意味もないから、雑念も起きてこない。

筆者の場合は、頭部のチャクラに意識が偏るのを修正するのが個人的課題なので、鼻に意識が向かうような手法は避けている。今は、胸部のハートチャクラあたりに意識の中心が据わるよう、コントロールしている最中だ。つまり、同じ呼吸を題材にしているとはいうものの、鼻ではなく、肺に意識を集中する(笑)。
   

古いエネルギーの終わりを知る10項目

2013年07月02日 | アセンション ~ 地球の次元上昇
 
前回、「スターエルダー」のチャネリングを貼ったところ、同じサイトにあったジェニファー・ホフマンの、「一つの道を終わることを知る10の方法」というチャネリングの方が、実はさらに注目すべき内容だと気づいた。いわく、
 
 
>以下の項目は、限界に達したエネルギーの道を知る10項目です。人生のエネルギーがもう役に立たす、終わりになり、新しい道に踏み出すことが分かります。
 
>1. 今の生活がこれ以上好きになれない。もう限界のように感じ、小さく思え、もっと実現するものが何かあると思います。でも、まだそれが何かわかりません。
 
>2. 今していることが好きでない。短期的な仕事やキャリア、経済状況、人間関係、あるいは住んでいる場所など。そういうことで消耗する感じがします。
 
>3. それまで幸せを感じられた物事に、もう楽しみがわかず、感じられない。幸せがどんな感じなのか思い出せないほどになっているかもしれません。

>4. 周りの人たちとの繋がりが感じられず、またこれ以上好きになれない(誰であるかは問題ではなく、それは家族も含めすべての人間関係に当てはまります)。また相手もあなたを少し敬遠したり、離れていたり、一緒にいる時の会話が息が詰まり、話をすることが辛い。

>5. 行き詰まりを感じ、どっちの方向へも動こうとしても動けないように思え、動けたとしても悪い方向に行ってしまいそうに思える。でも、どこでもいいから進みたいという意欲がある。あるいは、今は混乱していて何か別のことをしようと考えることすら出来ない。

>6. やる気がなくクリエイティブな力が湧いてこない。もっと素晴らしいことをやろうという気がない。単純なことやよく知っていることでも、まるで泥の中を歩いているような感じがする。

>7. ぼーっとしており、頭の中や心の中が定まらず、考えることが漠然としている。小さなことにも集中することが難しい。物事を終わらせるのに長い時間がかかってしまうように思える。

>8. この人生以外のどこかにいたい、と夢想(白昼夢)することがよくある。
 
>9. 逃げ出したい、知らない所に行きたい、この人生を抜け出して幸せになれるようなことが何か知りたいという強い衝動が起こる。
 
>10. 住んでいるところをきれいにし、もういらないと思うものをどかして捨てたいという強い衝動に駆られる。こんなものを持っているんだと驚いて、捨てたくなる。
  
    
確かに、それは言えている。
   
今までの生き方や日常生活に限界を感じ、新たなモノを探している。  古い生き方を終わらせなければ、新しい生き方は見えてこない。

「行き詰まりを感じ、やる気がなくてボーっとしている」というところは、「ウツ病の初期症状か!?」と思わせる面もあるけど、ウツ病ではない。むしろ、逆だ。「何か違うことがやりたくて仕方ない」という、今までにないほどのポジティブな気持ちが起きてくる。
 
「住んでいるところをきれいにし、もういらないと思うものをどかして捨てたい」というのは、ズバリと当てはまる。4月頃に、急に大掃除がしたくなり、必要最低限のものを残して、大量にゴミを出した。おかげでリサイクル料金が大幅にかかってしまったが、部屋の中が殺風景なまでにスッキリした。
 
もっとも、この人生に嫌気が差しているのは、今に始まったことではなく、筆者にとっては通常の状態なので、改めてそうなるまでもない(笑)。でも、今までは面白かったのに、最近になって終わってしまった趣味が、いくつかある。読書の傾向も急に変わってきた。方向転換のときなのかもしれない。
 

しかし、いくら「人生を変えたい」からといって、急にガンバリ始めるのは危険だ。それは、自分自身にプレッシャーをかけることになり、大きなストレスをもたらす。よく言われることだけど、ウツ病の人も、ウツで引きこもっている間は平然と生きていられるのだが、「ガンバって、こんな自分から抜け出そう」と、前向きな気持ちが燃え上がってきたときが一番危険なんだそうだ。
 
ものごとは、急に変えようとしても、無理がある。ここは老子に習って、無理に改革しようとはせず、成り行きにまかせて「自然治癒」を目指すことだろう。

無理に変えようとしないとはいうものの、やっぱり、このチェックリストを見ても分かる通り、大きな意識の変化が起きている・・・。
  

今の日本に大切なのは、デフレ対策

2013年07月02日 | こっくり亭日記


(↑画像はウィキペディアより。プラスだと物価は上がっている。マイナスだと、物価が下がっている。90年代の終わり頃からずっとマイナス続き)

 
2012年のGDPデフレーター・ランキング」というのを見たけど、ものすごいインフレの国が多い。
 
GDPデフレーターというのは、要するに物価の水準のこと。100%なら、物価が変わってない。120%なら、基準の年に比べて、物価が2割上昇。200%なら、物価が2倍。ランキングを見ると、物価が2倍以上になってる国も、数十カ国ある。

1位のタジキスタン(中央アジアの国)は、2万パーセント近い物価上昇率だ。ということは、タジキスタンの物価は、200倍ってこと?

百円のモノが、ほんの2~3年で2万円に値上がりする世界。これは、キツい。「ホントかよ?」って感じ。

猛烈な市民のデモが起きているトルコは、約1200%だから、物価が12倍。そりゃ、暴動も起きるわな。ブラジルも、400%近い。熱狂的なサッカー大国なのに、「ワールドカップどころじゃねえだろ!?」という騒ぎになるのも、うなずける。それなら、いっそのこと、日本で開催したらどうかな?・・・もちろん、変な共催国は抜きで(笑)。

それに比べて、デフレの国がいくつかある。デフレというのは、物価が下がること。デフレは、経済が成熟して安定している先進国で起きやすい。それでも、ドイツやイギリスは、基準年に比べて6~7%も物価が上がっている。


断トツのデフレ国なのは、わが日本だ。なんと、マイナス9%。186カ国中、186番目の超デフレ。基準の年(5年ごとに見直す。今は2010年が基準年)に比べ、1割近くも物価が下落したことになる。ほかには、台湾もデフレになってるけど、日本ほどではない。

こういうのを見ると、「日本のデフレは特異な現象」と言われるのも、うなずける。「人口が減ってるから、デフレなのだ」と主張する人は多いけど、ほかにも人口が減っている国や、減り気味の国は多い。特に、ヨーロッパの先進国はたいていそうだ。そんな中で、デフレになってるのは日本だけなので、この「人口減少説」にはまったく説得力がない。

とはいっても、世界には、インフレで苦しんでいる国が多い。日本も、長らくインフレ気味な時代が続いた。デフレになったのは、90年代から。特に、97年、銀行や証券会社がバタバタ潰れた危機の時代から、はっきり物価がマイナス傾向になった。
 
ただし、日本は、もともとインフレになりにくい国。第二次大戦の直後には、さすがに物価が急上昇したけど、それでもGDPデフレーターは4~500%くらい、つまり、物価が5倍か6倍になった程度と言われている。

「日本は、アルゼンチンみたいなハイパーインフレになる」と煽る人は多いのだが、米軍の空襲で日本中の工場が丸焼けになり、道路も鉄道もぶっ壊されて流通がマヒして、日本にしては極端なモノ不足になったときでさえ、アルゼンチンほど悲惨なインフレになったことはない。

他にも、1974年には、「狂乱物価」といわれるインフレが起きて、田中角栄内閣が退陣に追い込まれた。これは、オイル・ショックにニクソン・ショックと、強烈なダブルパンチを食らったおかげ。でも、このときだって、物価は前年比20%くらいしか上がっていない。トイレットペーパーの買占め事件を初めとする大変な騒ぎになったけど、それでも、諸外国の猛インフレと比べれば穏健そのものだ。

ドイツでは、第一次世界大戦の直後に、1兆倍のインフレが起きたことがある。100円で買えた日用品が、いきなり100兆円になる計算だ。これだと、リヤカーに札束を積んで、えっちらおっちら運ばなきゃいけない。イギリスやフランスに「戦争の反省」を要求され、天文学的な額の賠償金を払わされたのが原因だった。このときのトラウマが強烈なので、今でもドイツ人はインフレ恐怖症。財政赤字その他に、ものすごく厳しい。

日本では、そんなことが起きた試しはない。
 
 
要するに、何が言いたいかというと、「アタマの切り替えが大事」ということ。

新聞や書店を見ると、アベノミクスへの批判が多い。「こんなことをしたら、ハイパーインフレになる」という人が多いのだが、それは時代錯誤のインフレ恐怖症ってものなんであって、実際には、今の日本をインフレにするほうが、よほど難しい。たとえインフレになったとしても、デフレに戻すほうが簡単だ。

日本は、デフレが長いこと続いて、経済がすっかり冷え込んでいる。「なんとか、デフレを止めなきゃ」という時代状況なのに、いつまでたっても、インフレの話ばかりしている人が多い。

何事も、バランスが重要だ。ものごとには、ちょうどよい水準ってものがある。暑い夏には、冷房をつける。寒い冬には、暖房をつける。スピード出しすぎのときは、ブレーキを踏む。スピードが遅すぎるときは、アクセルを踏む。

それと同じように、インフレのときは、お金が世の中に多すぎるわけだから、当局はせっせとお金を吸い上げて回収する。デフレのときは、逆にお金を大量に発行して、世の中にバラまく。これは、経済法則という以前に、自然の摂理に近い。

共産党支持者の知人が、アベノミクスを批判する本を読んでいた。中身を見ると、「アベノミクスの金融緩和や財政支出は、モルヒネ注射のように、日本経済をぬるま湯につけている。本当は、痛みを伴う構造改革や、財政再建のほうがずっと重要なのに、本当に重要なことが先送りになっている」と書いてあった。

これには、思わず笑ってしまった。「おいおい、左翼のくせに、いつから小泉・竹中路線の、構造改革至上主義者になったんだよ?」とツッコまずにはいられず、左翼の知人は憮然としていた。

あの朝日新聞にさえ、「安倍政権は、痛みを伴う構造改革を先送りにして、金融緩和に逃げている」と社説で批判していた。まったく、「日本の左派は、いつから新自由主義に宗旨変えしたんだ?」とビックリしてしまう。


精神世界系でも、船井幸雄ドットコムを見たら、「今度こそ、ハイパーインフレが起きる。安倍政権は、日本を壊す。老境に入った私は、日本の行く末を案じています」とかなんとか、また書いてあった。船井会長も、いつから「インフレになる、インフレになる」と言い続けてるのか知らないが、少なくとも3年前には、「今度こそ、インフレになる。来年から確実にインフレが始まり、二度とデフレは起きない」と断言していた。

これじゃ、「私は未来予測を外したことがありません」という看板も、だいぶん色あせてくる(笑)。
 

金融緩和のインフレ政策というのは、日銀がお金をじゃんじゃん刷って、日本円を世の中にもっと出回らせること。それを続けていれば、お金のありがたみは、嫌でも下がってくる。

インフレの社会では、お金のありがたみがドンドン落ちてくる。お金を持っていると、「こんなものは、早く手放さなければ」という気持ちになってくる。

逆に、デフレの社会では、お金の価値がだんだん上がってくる。それが長く続くと、お金をありがたがって、タンス預金するのが流行るようになる。
 
デフレは、お金に対する執着を強くするから良くない。もっと日銀やFRBに、お金をたくさん発行してもらって、お金のありがたみを下げていくべきだ・・・。