宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

私は誰?

2016年05月15日 | 精神世界を語る

 

ラマナ・マハルシの教えの中で有名なのは、「私は誰?」だろう。孫弟子のガンガジの本にも、当然ながら登場する。

これを見て思い出すのは、ウスペンスキーの本に出ていた、あやしい瞑想セミナーに参加した人のエピソード。そこではなんと、「私は誰?」という自問を、何日も延々と繰り返させられたという。朝から晩まで、「私は誰、私は誰、私は誰・・・?」と、ひたすら心の中で唱え続ける修行。やってる間は「なんじゃこりゃ?」と思ったが、セミナーを出て日常生活の中に戻ったとき、すべてがまったく違って見えたという。すれ違う人々は皆、日常生活の中に埋没していた。自分だけは、いつのまにか、そこから意識が抜け出していた・・・。

「アナタが自分だと思っているものは、じつは自分ではない」というのが、インド伝統の教え。「○○は、自分ではない。××も、自分ではない。△△も、自分ではない・・・」がひたすら続くのは、仏典でもオナジミだ。

たとえば、「ボクはお金持ちだ」と思っている人がいたとする。でも、おカネなど、この世という仮の宿りでしか通用しない。「おカネは、墓までは持っていけない」のである。土地とか株とか貴金属とか、財産もみんなそう。こういうものは、本当の自分ではない。これは、すぐわかる。

「ボクは背が高くてやせた人だ」とか、「ボクは背が低くて太った人だ」とかいうのも、本当の自分ではない。肉体もまた、この世での乗り船にすぎず、いつかは消えてなくなる。その後に残るものが自分。これも考えれば、すぐにわかる。

では、そういう社会的な属性とか、肉体的な特徴とか・・・を取り除いた後に残るものは何なのか。それはやっぱり、「魂」とか、「心」ということになるだろう。

ところが、ここがカンジンなところなんだけど、それもまた、本当の自分ではないのである。ここは、スピリチュアリズムの道に入った人が、最初に誤解しやすい関門だろう。世間の一般人ならともかく、精神世界の探求者なら、「肉体は本当の自分ではない」なんてことは、当たり前のスタートラインといってよい。それは結論ではなく、話の前提でしかない。そこで止まったんじゃ、なんとも中途半端。まずは肉体や物質の実在を否定するのが当たり前で(笑)、「自分とは何か」という検討が始まるのは、それからだと思ったほうがいいみたい。

たとえば、「ボクは怒りっぽくてマジメな人だ」とか、「ボクはいつも周囲を笑いの渦に巻き込む人だ」とかいうような場合、それが本当の自分なのかどうかを再検討する必要がある。それもまた、この世で身についた単なる習慣にすぎないというか、本来の自分とは異なる仮の姿である可能性は高い。つまり、「性格」もまた、本当の自分ではない。性格だけでなく、感覚とか、知性と教養とか・・・。そういうのも「自分ではないもの」に含まれる。

こんな具合に、「自分とは何か?」という自問自答を続けて、「ボクは○○である」、「私は××である」というのが次々に思い浮かんだとき、「でも、それは自分ではない」といちいち否定していく。そして、さんざん否定しまくったあげくのハテに、それでも最後に残ったものこそが、「本当の自分」ということになる。なんとも面倒な話だけど、それが古代インドから連綿と続いてきた精神世界の探求。

話が先走ってしまった。というより、いきなり仏教っぽくなってしまった。

それはともかく、結局のところ、「これが私だ」と思っていたものは、ガンガジ流にいえば、「あなたがあなた自身に語る、あるいは、あなたの社会があなたに語ってきた、あなたは何者かという物語」にすぎなかった。

>この、もっとも基本的な、私は誰?・・・という問いこそが、最も見過ごされがちな問いです。私たちは毎日、その時間のほとんどを、自分自身に対して、あるいはほかの人に対して、自分は大事な人間であるとか、自分はつまらない人間であるとか、偉いとか偉くないとか、若いとか年寄りだとか、そう言いながら過ごします。そして、この最も根本的な仮定に本当に問いを投げかけることは決してしないのです。

この、「私は誰?」という自問の作業をずっと続けただけでも、意識の覚醒に到達できるという話だから、やってみて損はないだろう・・・(?)。

意識の覚醒をさまたげているものは、自分自身だったということに気づく。というのも、人は、「私はこういう人間だ」という物語を、いつも自分自身に聞かせているようなもの。「私はサラリーマンである」という具合に、「自分とは何者であるか」という定義づけをしょっちゅうやっている。でなきゃ、とてもやってられない。この世で生きていくためには、それが必要。

>夜、夢を見るとき、夢には始まりがあり、展開があり、そして終わりがあります。夢を見ているときは、それは本当のことに思えますが、目が覚めれば明らかに夢であったことがわかります。

>それと同じように、あなたはあなたの人生という夢の途中で目を覚ますことができます。どんな物語もいずれは終わりますが、あなたの物語が終わる前に目を覚ますのです。話の中にいながら目を覚ますことは「明晰夢」と呼ばれます。

これは、眠っているときに見るオナジミの夢で考えれば、よくわかる。

たとえば、夢の中では、何者かに追いかけられて必死で逃げていたが、目が覚めてみたら自分は布団の中で寝てるだけだった。「明日は大事な試験だ。このままじゃ留年する」と思って必死で勉強していたが、目が覚めてみたら、自分は学生ではなくオジサンだってことを思い出した・・・。

このように、夢の中では必死だったけど、目が覚めてみたら、なんにも意味がなかった。

こういうアリガチなことが、人生にも当てはまる。この人生における自分は、本当の自分ではなく、この世で見ている夢であり、仮の姿に過ぎない。死んでからなら気づくのは簡単だけど、それをなんとか、生きている間に目を覚まして「明晰夢」に変えたい。これこそが、精神世界の探求者の目標。

それが、「意識の覚醒っていうけど、それは要するにどういうことなんですか?」という、よくある質問に対する答になるだろう。この世とか人生というのは、本当の自分が眠っている間に見ている夢にすぎない。普通の人は、「すべてが夢の中の出来事だ」ってことに気づかず、妙に必死で取り組んでいる。でも、目を覚ませば全部、なんの意味もない。現実に起きていることは、何ひとつない。

生きてるうちに目を覚まして、これを「明晰夢」に変える。それが、「意識の覚醒」というもの。

 

(つづく)

 


ガンガジ 「ポケットの中のダイヤモンド」

2016年05月05日 | 精神世界を語る

 

インドの聖者たちの教えの中でも、親しみやすい名著として評判なのは、ガンガジの「ポケットの中のダイヤモンド」。他の本みたいに分厚くないし、語り口も易しい。このジャンルの本を何冊も読むより、これ一冊を何度も読み返したほうがいいかもしれない (・・・という気がした。まあ、他の本を読む前から決め付けるワケにもいかんけど)。

序文を、あのエックハルト・トールが書いている。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」だ。そういう人が、ガンガジから影響を受けたことを公言している。それを見ても分かるとおり、インドを出て巡業生活に入ってからというもの、欧米の精神世界に大きな影響をおよぼしてきた人。

ガンガジはアメリカ人の女性だけど、縁あってインドに赴き、かの高名なるプンジャジ(パパジ)に弟子入りした。英語で言えば“Poonja”(プーンジャ)だし、本文では「パパジ」となってるけど、筆者は「プンジャジ」という呼び方に慣れ親しんでいるので、この名前でいきたい。

ガンガジは、精神世界を探求すべく、わざわざ遠くて暑いインドにまで赴いた。とはいっても、別にアメリカでの生活が苦しくて、そこから逃れたかったわけではない。むしろ、どちらかといえば何不自由ない生活を送っていた。それでも、何かが決定的に欠けていた。

精神世界の探求とは、「ポケットの中のダイヤモンド」を探し求める、壮大なる旅なのだ。本当は、探し求めているダイヤモンドは、アナタのポケットの中に入っている。でも、それを見つけるために、わざわざ遠回りをしなきゃいけない。「なんとかならないものか」とは思うけど、この世界はそういう風にできてるんだから仕方ないか・・・。

それはともかく、幸運にも、世界最高の師にめぐり合ったガンガジ。師のプンジャジは、目がキラキラした人だった。「何が欲しいのか言ってごらん」と言われたガンガジは、「自由」と答えた。

師は、「正しい場所に来たね」と言い、「何もしないでいなさい」というアドバイスをくれた。

プンジャジいわく、アナタの問題のすべては、行動し続けることにある。すべての行為をストップしなさい。動いてはいけない。何かに向かって動くことも、何かから遠ざかることもしてはいけない。この瞬間に、じっとしていなさい・・・。

「行為」といっても、立ち上がって歩いたりとか、そういうことを言ってるわけではなかった。というのも、それを聞いているガンガジは、もともと座ってジッとしていたからだ。ここで師が言ってるのは「精神的な行為」すなわち、「思考」をストップせよ・・・ということを意味していた。

このことに気づいたとき、「私」という存在の物語から、「物語の奥底にいつもあった存在の終わりのない深み」へと、驚くべきフォーカスの転換が起こった。なんという平安、なんという休息! その瞬間、もはや、「私という物語」に縛られていなかった。

ガンガジは、もともとアメリカでも精神世界の探求者だったので、それまでにも宇宙との一体感や崇高な至福感を感じた瞬間が何度もあった。でも、このときにインドで感じた恍惚感は、まったく性質が違っていたという。

思考が停止したガンガジ。師は、いくつか質問をして、本当に思考が停止したことを確認した。次に師が言ったことは、「一軒一軒たずねて、その経験を人々に語れ」・・・ということだった。

それから、ガンガジのスピリチュアル伝道の旅が始まった。世界中で講演会をひらき、あらゆる階層、職業の人々と話をするようになった。そんな対話を積み重ねた結果として生まれたのが、「ポケットの中のダイヤモンド」という本。

こうして、師との出会いにより、「私という物語」から解き放たれたガンガジ。それにしても、その「私という物語」とは、いったい何なのだろうか。

(つづく)

  


インドの聖者 その2

2016年05月05日 | 精神世界を語る

  

インドは、歴史の国ではない。本当は、インドにも、三国志や戦国時代に勝るとも劣らない群雄割拠の歴史がある。でも、当のインド人が歴史に関心なかったのと、暑い国では昔の記録が残りにくいのもあって、ほとんどの出来事が忘れられてしまった。もしも記録が豊富に残されていたら、さぞかし歴史小説のネタに困らなかっただろう。

インド人に限らず、もともと昔の人にとって「時間」というのは、過去から未来に向かって一直線に流れていくものではなかった。太陽が、朝は昇って、夕方には沈む。次の朝には、また昇る。春が過ぎれば夏が来て、冬が過ぎれば、また春が来る。文明の進歩はゆっくりしていて、たいした変化はなかった。そうやって、グルグルと円環のように回っていくのが時間だったのだ。現代人なら、それは地球の自転と公転が、われわれ人間に見せている視覚効果だと知っている。でも、昔の人はそんな舞台装置の仕掛けのことなど知る由もない。

古代ギリシャ人にとっても、時間はグルグル回るものだった。ギリシャ哲学を深く研究したフリードリヒ・ニーチェは、「同じものの永遠なる回帰」という説を打ち出した。それは、近代ヨーロッパ人に大きなショックをもたらした。キリスト教徒であるヨーロッパ人にとって、時間とは、天地創造から最後の審判に向かって一直線に流れるものだったのだ。

そんなこんなで、古代人にとって、時間とか歴史には、あんまり意味がなかった。歴史教の信者なのは、中国人くらいのものだった。もっとも、中国人でも、「歴史は繰り返す」という思想は徹底していた。

インドは、歴史の国ではない。では、何の国なのかというと、なんといっても哲学と宗教の国で、これこそは、まさしく本場。欧米でも、精神世界関係者はみんなインドに憧れる。「ガンガジ」も、元はといえばアメリカ人だけど、インドに行って聖者の仲間入りした。ガンガジというのは、もちろんインドでついた名前で、本名ではない。

でも、インドの思想を語るには、やっぱり一応、インド思想の歴史をさらっと知っておいたほうが良いと思われる。チマタにはびこる新興宗教を見るにつけ、そう思う。・・・というのも新興宗教では、教祖の教えが、「神から降りてきた思想」として語られることが多い (まあ、宗教なんだから当たり前か)。でも、筆者のように「思想の歴史」に妙にくわしい人から見れば、どれもこれも、話の出ドコロが割れているものがほとんど。

釈迦やキリストの教えでさえも、「突然、天界から降ってきた」というのは、ちょっと誤解がある。それ以前のインド哲学の流れを知っていれば、お釈迦様の教えもその流れの中にあるのが明らかで、そりゃ天界からのインスピレーションもあっただろうけど、たいていの話は、それ以前のインド哲学者たちも言ってたことが多い。もちろん、そんな古代インド思想家の中でもお釈迦様が突出して有名なのは、それだけの理由があり、それまでのインド思想を集大成して大きく飛躍させ、最終結論を出したからなんだけど。

お釈迦さまの教えは、やがて「シャンカラ」に受け継がれた。シャンカラは、日本ではマニアしか知らないけど、インドではビッグネーム。クリシュナムルティの講話にも、「釈迦とかシャンカラの本をいくら読んでも、それだけじゃ意識の覚醒はできません」という具合に、しょっちゅう並んで登場する。

それはラマナ・マハルシや、ニサルガダッタ・マハラジといった現代の偉大な聖者たちも同じで、彼らの説く教えは、シャンカラから脈々と受け継がれてきたインドの伝統思想。

そして、ラマナ・マハルシの弟子のプンジャジの、そのまた弟子のガンガジが、エックハルト・トールに大きな影響をもたらした。エックハルト・トールといえば、「現代のスピリチュアル・リーダー」。こうして、欧米の精神世界にも、この教えが大きく深く浸透している。

というわけで、筆者は、釈迦とかシャンカラはよく読んだし、エックハルト・トールやクリシュナムルティもよく読んだけど、「ラマナ・マハルシ」とかは名前と「私は誰?」くらいしか知らなかった。読むべき本のすべてを満遍なく押さえるなんてことは、いくらヒマ人でもかなり困難だったのだ。でも、これから読んでも遅すぎるなんてことはない。

そもそも、代表的な聖者の一人である「プンジャジ」だって、31歳でラマナ・マハルシの弟子になるまでは、いたって普通の人だった。弟子になったといっても、一緒に南インドのアルナーチャラ山にいたのは短い期間で、残りの人生の大半を遠く離れたパキスタンで過ごした。しかも、独立してプロの聖者になったのは、55歳のとき。それでも出家はせず、在家を通した。

「覚醒の巨人」ことニサルガダッタ・マハラジも、34歳で高名な聖者の弟子になるまでは、ごく普通の人生を送ってた。しかも、聖者の話を聞いただけで、修行はとくにしなかったという。有名になったのは、54歳のとき。マハラジも、出家せず在家を通した。

インドには、古代からそういう伝統がある。つまり、若いときは働いて社会貢献し、年をとって隠居してから、教えの道のプロになる。そういう考え方が大昔からしっかりと社会に根付いてた。

この世で精神世界を探求するのに、遅すぎるなんてことはない。さすがに、死んでからじゃ遅すぎるかもしれないが、その前にどこかの時点でやればいいのだ。

日本人も、そんな生き方を学ぶときかもしれない。高齢化社会なんだし、これからは精神世界の探求で余生を送るのが主流になる可能性が高い・・・。

(つづく)