宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

すべてのことを、輪廻転生を前提として考える  その1

2015年05月28日 | 精神世界を語る
秋月龍泯師がかつて、このようなことを書いていた。

>もうだいぶ昔のこと、山田無文老師が朝日講堂で講演されたある夕ベの話である。法話の後で舞台裏の控え室に老師を訪ねた。かねて老師の熱心な信者だった老婆が先に来ていて、ふと老師に問いかけた。

「老師さん、私ら死んだらどうなりますのじゃ。」

老師は無造作に答えられた。「死んだらおしまいじゃ。身も心も何にも亡くなる。」

一瞬、老婆は淋しそうな顔をした。「何にもないんですか。魂もないのですか。」

老婆の様子を見て老師は言われた。

「そうじゃな。自分のためなら、霊魂も何もないがな。菩薩はなあ、後に残って苦しんでいる愛する者の所にもどってきて、何かをしてやらんとな。」

老婆は心からほっとした顔で、師匠の言葉に安心しきったふうだった。


・・・これは、筆者の好きなストーリーだ。いろんな面で、考えさせられるものがある。
 

「生まれ変わり」とか「死後の世界」とかをバッサリと否定する老師だけど、仏教というのは本来、こういうものだった。

というのも、修行者は、自我に執着しない。自我に執着しないから、死後の存続にも関心を持たない。

「ボクは、長生きして幸せな老後を迎えたいな」というくらいなら、まだしも人間的な願望と言える。しかし、「ボクは、死んでも永遠に生き続けたいな」というのは、もはや人間として許される域を超えた、言語道断な自我執着になってしまっている。だから、老師がそんな考えをバッサリと否定するのは当然ともいえるだろう。

しかし、だからといって、「仏教というのは、人間は死んだらオシマイだ。だから、生きてる間は精一杯に生きよう・・・というような思想なんだな」と思ったら、それは大きな誤解になってしまう。それは、20世紀の実存主義哲学の考え方。昭和の時代に、左翼の学生運動をやってたような人たちにアリガチな考え方だ。

仏教は、それとはまったく異なる。そもそも、現代の西欧人と、古代のインド人の住む世界が違いすぎた。

というのも、インドでは、「輪廻転生」は当たり前の常識。誰もが、それを当然の前提として話をしていた。古代のインド人が「ここで」と言えば、それは「この世で」を意味した・・・とさえ言われている。たとえば、「ボクは、ここで商店をやってます」といえば、それは、「この人生では、商人になりました。次の人生で何をやるかは、まだ決めていません」・・・というような意味。

今の日本や欧米で「輪廻転生」の話をしたら、「ちょっと変わったスピ系の人」って感じだけど、常識というのは、時代や地域によって変わるもの。

「輪廻転生」が当たり前の常識になっているところでは、わざわざ、「人は、死んだらオシマイだなどと思っちゃあいけません。実は、生まれ変わってるんですぜ!」などと主張するまでもない。「そんなの知ってるよ。だから何なのさ?」と言われて終了だからだ。「仏教は輪廻転生を否定している」と主張する人たちは、そこのところを根本的に見落としている。そうではなくて、仏教は、もともと輪廻転生を当たり前の前提として、すべての話をしているのである。

それはともかく、「人は、死ねば無になる」という上級者向けの深遠な哲理を説いたところ、老婆がさびしそうな表情になった。それを見た山田無文老師の、変わり身の早さが見どころだ。

なんと、「菩薩は、悩める衆生を救うため、また生まれ変わってくる」というのだ。

それを聞いた老婆は、ほっとした表情になった。こういうのが、優しさというものだろう。
  
古代インドのお釈迦様も、そうだった。在家のお爺さん・お婆さんに対しては、「善いことをすれば、善いところに生まれ変わります。悪いことをすれば、悪いところに生まれ変わります」と説く。その一方で、出家したプロの修行者に対しては、「人は、死ねば無になる」と説く。この、見事なまでの使い分け。こういうのを、「対機説法」という。

しかし、上には上がある。プロの修行者よりも、さらに上をゆく「菩薩」ともなれば、なんと、また生まれ変わってくることになるというのだ。

菩薩は、本当はもう、とっくに地球生命系での輪廻から解放されている。それなのに、悩める衆生を救うため、こんな地球に仕方なく舞い戻ってくるのである。なんとも、ご苦労なことだ。まったく、「菩薩にだけは、なりたくない」と思わせるものがある・・・。
 

(つづく)

「哲学的な疑問」について

2015年05月20日 | 精神世界を語る

  

世の中には、「哲学的な人と、そうでない人がいる」と、哲学の専門家たちはよく言う。しかも、世の中の大部分の人は後者であり、「哲学的な人」など、滅多にいないらしい。確かに、その通りなのだろう。

有名な哲学者の中島義道氏によると、

>読者諸賢のなかで、「未来が『ある』とはどういうことだろうか?」とか「私が『いる』という意味がどうしてもわからない」とか「今日の私は昨日の私と『同一』だろうか?」とか「なぜ『ない』という言葉は『ある』のだろうか?」というような疑問が湧き、いや湧くだけではなく、どうしてもこうした問いが気になって仕方ない人は、哲学をするしかありません。

>会社に入ってみると、同僚が皆これらの問いに関して何の疑いも抱いていないことに愕然とする。としても、哲学でメシを食うつもりはない。こんな人が哲学塾に向いていますし、事実、哲学塾でカントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ、と必死になって難解な原典に取り組んでいますが、じつはこうした単純な問いに挑んでいるだけです。

ということなのだが、まさしく、こういうのが本当の「哲学的な疑問」。ホンモノの哲学者は、一生をかけて、こういう疑問と真正面から格闘する。そして、答が出ないままに死んでいく。だが、それでいい。「やがて自分は、これらの疑問に答が出ないまま、むなしく死んでいくであろう」ということなど、彼らには、もともと十分すぎるほど分かっている。むしろ、そのむなしさこそが、哲学的な思考への原動力になっているのだ。

「過去は、実在するのだろうか。たとえば、自分も、かつては十代だった。でも、十代の頃の自分は、どこに行ったのか。昔は確かにいたような覚えがあるんだが、今はどこにもいない。今でも、どこか別の世界にいるのか、それとも消えちゃったのか。一事が万事で、『過去』がどこにあるかと探してみても、どこにも見つからない。・・・ということは、要するに、『過去はない』ってことなんじゃないか? もしも、『過去はある』のだとすれば、それはどこへ行ったのか?」・・・というような「疑問」に取りつかれ、ああでもない、こうでもない・・・と考え始めて、泥沼にハマる。

でも、こういうことを考えるのは、自分だけではない。それこそ、カントだ、ヘーゲルだ、ニーチェだ、サルトルだ・・・と、偉大な先輩たちがもっと深く考えてきた。まずは、そういうものを学ぶべし。

カントやヘーゲルを深く読み、しかも自己流でなく、正統派の読み方を謙虚に学んだならば、自分ひとりで考えているよりは、ずっと高度な思考に到達することができる。もちろん、疑問の性質からいって、どちらにしても最終的な解答が得られるようなものじゃないんだが、それにしたって、それなりに高度な思考に到達する。

でも、それだって、決定的な結論が出るわけではない。かつて筆者が愛読していたハイデッガーの「哲学入門講義」でも、「なぜ、存在者はあるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」という、古代ギリシャの大哲学者たちに由来する「根本的な大疑問」を繰り返すばかりで、どんなに読んでも答は無い。

それはつまり、この世界には、地球がある。そこには、人間とか、鳥とか獣たちが住んでいる。どうせ死ぬのに、なぜか精一杯に生きている。これを見て、「なぜ、こんな世界が存在するんだろう?」という疑問が起きてくる。地球のような惑星がなくたって、別に不思議はない。ていうか、地球が存在することのほうが、ずっと不思議だ。地球が存在する代わりに、「何も無い」というほうが、自然なことなんじゃなかろうか。

それ以上にナゾの存在なのは、「自分」だ。なぜか、この世界には、「自分」がいる。意識があって、思考や感情があって、どうせ死ぬのに、なぜか生きている。もしも「自分」がいなかったならば、こんな世界があることなど、分からなかったに違いない。せっかく、宇宙とか地球とかがあるのに、誰も知らないんだったら、ないのと変わらない。そうなると、この世界は存在しないも同然。つまり、「存在するのではなく、その代わりに、無がある」ということになる。

そんな「自分」が存在するのは、なんとも不思議だ。いないほうが、自然なんじゃないか。・・・どうして、私はあるのでしょうか?

それに対して、答はない。疑問を提起するだけしておいて、答は出さないのが、ハイデッガーの特徴。といっても、もちろん、それはハイデッガーが悪いんじゃなくて、もともと答が出るはずのない疑問なのが悪いんだが。

優秀な哲学者諸氏に言わせれば、本ブログのような「精神世界の探求」は、こういう哲学的な疑問との真の格闘を避けて、脇道にそれたように見えることだろう。でも、こちらの立場から見れば、そういう人たちの方こそ、哲学よりもさらに深遠な思想 (釈迦とか、クリシュナムルティとか・・・) にたどりつく一歩手前のところを深く掘っている、残念な人たちに見える。

もちろん、全員がそうなのではない。19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーだって、インド思想に傾倒して、まるで釈迦の弟子みたいな思想内容になってた。でも、それは、哲学者として正統派の生き方とは言えない。あくまでも、西洋的な論理によるアプローチに徹する。「時間とは何なのか、人間は、それをどこまで認識できるのか」とかなんとか、そういうのをジックリと吟味する。それでこそ哲学者だ。

もちろん、哲学者を批判しているわけではなく、本当は、その知的な格闘の生き方をすばらしいと思っているのである。ただし、短い人生でどうせ学ぶなら、やっぱり、釈迦とかクリシュナムルティとかのほうが、より根源的な思想のように思えるんだが・・・。

もちろん、筆者には、東大文学部の哲学科を出た学者と議論できるような、西洋哲学の専門知識があるわけではない。でも、総合力では負けていない。ヒマな時期が多かった人生のおかげで、西洋哲学に限らず、いろんなものを幅広く大量に読み込んでいるのが当方の強み。それ以前に、少なくとも高校生の頃の英語や国語の学力は、彼らの大半よりも筆者のほうが確実に上だった。つまり、素の読解力では、もともと上回っていたのだ。こういうのが、いくつになっても、いつまでも自信の根拠になっているというのも、アリガチなパターンであるとはいうものの・・・(笑)。

それはともかく、上の引用文にもあるように、職場で出会うような人たちは、まず、こういった疑問について何も考えていないのが普通だ。かつて、筆者も試しに、職場仲間に上のような話をしてみたところ、失笑されただけに終った。

しかし、こういった疑問にはハテがない。

古来から最大の疑問のひとつである、「人は、死んだらどうなるの?」が、その最たる例のひとつだろう。

上に挙げた中島義道氏も、幼少の頃からその疑問に取りつかれて、哲学を志したという。もっとも、中島義道氏の場合は、「死んだらどうなるの?」というより、「人は、どうせ死ぬのに、なぜ生きているの?」といったところか。そういう疑問に取りつかれ、ムダだと分かっていても考えずにいられない人から見れば、世間の一般人は、なんで、この疑問を気にせずに平然と生きていられるのか、そこが不思議なのだ。

それに対しては、「20世紀最大の哲学者」ことハイデッガーの有名な言葉がある。いわく、「人は、いつか死ぬ。だが、当分の間、自分の番ではない」というのが、世間の一般人の信念。これがあるから、人は平然として生きていられる・・・。

哲学では答が出ない疑問にも、スピリチュアルなら、実にあっさりと答が出る(笑)。いわく、「生きてるうちは分からないかもしれませんが、死ねば分かりますよ。死後世界が、アナタを待っています」ということになる。

だが、死んだからって、最終解答が出るってものでもない。

死後世界にたどりついた人は、空も飛べるし、心の中で想起したものが目前に現れる世界に直面して、「これが死後世界だったのか」と思う。「人は、死んだらどうなるの?」という、とても答が出そうになかった疑問は、これで解決した。しかし、上記のような「哲学的な人」なら、ただちに、次の疑問が起きることだろう。

「なぜ、死後世界があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」・・・。

そして、考えに考え抜いた結果、「死後世界もまた、真の実在ではない」という結論に到達する。では、真の実在とは何なのか。こればっかりは、死んでも結論が出そうに無い。

・・・とまあ、そういうわけで、早い話が、これらの疑問には答がない。 どこかで、折り合いをつける、つまり、妥協して生きるしかない。

哲学的な人は、世間の一般人とは確かに精神構造が違うけど、結果は同じなのである。違うのは、途中のプロセスだけ。結果は、変わらない。そもそも、どうせ死ぬんだから、考えたところでムダというもの。

結局のところ、考えること自体をやめるのが、唯一の解答かもしれない。「汝の思考を停止せよ」。それが、ファイナルアンサーになる・・・かもしれない。

(つづく)