宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

クンダリニー覚醒のプロセス

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
クンダリニー・ヨーガの章についている数々の図版は、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」という本の中でも、かなりの比重を占めている。「クンダリニー覚醒のプロセス」については、とても言葉では説明できないらしく、図版が中心の説明となっている。なんだか、重要なことが図版の但し書きでさりげなく書いてあるので、ついつい読み落としそうになる。


それによると、いよいよクンダリニーが覚醒するというときには、神霊が1~3人ほどやってきて、そのうちの1人が本人の頭の上に手を置くという。その神霊というのは、導師がアストラル体やメンタル体でやってきた姿だ。そして、弟子の頭に手を置いて、封印を切る。

これを見ると、やはり、クンダリニーが飛び出すためには、最終的に封印を切るヘルパーが必要なようだ。実際にクンダリニー・ヨーガを習っている師匠の場合もあれば、スピリチュアルな存在に来てもらう場合もあるだろう。もっとも、救急車と違って、呼べば来てくれるというワケにはいかないのだが・・・。


仮死状態になると、肉体は機能を停止する。呼吸停止、心拍停止、脳波停止の状態だ。それにつれて、頭頂部のサハスラーラ・チャクラが盛り上がってくる。「お釈迦様は、サハスラーラ・チャクラが発達するあまり、頭が盛り上がっていた」という伝説もあるのは、この状態の象徴か。

ヨニ・ムドラーも、肉体でポーズを取っているうちは、まだ甘いようで、この状態からは意識だけでヨニ・ムドラーをするようになる。これは、視覚や聴覚をはじめとする、肉体的な五感が消えていくということだろう。

それから、頭頂部のサハスラーラ・チャクラと、尾てい骨のムーラダーラ・チャクラが、ぞれぞれ球状になっており、その2つをつなぐ白色コードの図がある。この状態では、サハスラーラとクンダリニーだけが光っており、下から無感覚になっていく。

つまり、五感がだんだん消えていくわけなのだが、視覚・聴覚その他が消えた後で、最後に残るのは、触覚。なぜか、触覚だけが、一時的に鋭敏になるという。


いよいよ、クンダリニーの覚醒だ。人は死ぬとき、人生のあらゆる出来事が走馬灯のように駆け巡る・・・というけど、この仮死状態においても、それが起きる。自己意識は、頭頂より突出して、透明な知覚を顕す。


ムーラダーラ・チャクラから活性化が始まり、上のチャクラへとクンダリニーが上昇していく。そして、頭頂部から、丸ごとスッポリと抜け出す。

ここから先の境地は、絵で説明することしか、できなさそうなところ。ていうか、絵で説明されたところで、本当のところは知るよしもない。やはり、実際にクンダリニーが上がってみるしかないのか・・・(笑)。
 

チャクラ全開呼吸

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
マハー・ムドラーからクンダリニー瞑想までが、クンダリニー・ヨーガの基本的テクニック。なんといっても、クンダリニー瞑想で、注意力をどれだけ持続できるかがカギになる。

「注意力を維持するための補助行」と位置づけられているのが、チャクラ全開呼吸。


「チャクラ全開」っていうだけあって、息をすっかり吐ききる。そして、意識を地の底の底と思われるところまで下ろす。なんだか、ニューエイジ系でいう「グラウンディング瞑想」と似てるけど、グラウンディング瞑想の場合は、ルート・チャクラと地球のコアを、意識のコードでつなげるのが目的。でも、チャクラ全開呼吸の場合は、意識を上下動するだけだ。

そこから入息とともに、意識をセキ髄の中心を通して引き上げてゆき、頭頂部も抜けて無限の高みまで打ち上げる。息を思い切り吸って、吸いきる。意識は、遥かな天上まで打ち上げられる。

そして、意識を吸いきった状態のまま、今度は意識を、尾てい骨まで下ろして来る。なぜか、この下がるときだけは、セキ髄の中心(スシュムナー)を通さない。普通に、身体を通って降りてくる。

その降ろした意識を、尾てい骨から世界全体に広げる。ものすごい深呼吸なだけに、呼吸が静かになるまで、しばらくかかる。その間、意識は尾てい骨にとどまっている。無理に呼吸を静めようとはせず、自然に放っておく。

それから、もういっぺん、息を思い切って吐ききりながら、意識を地の底まで降ろす。


ここまでの意識の流れは、尾てい骨 → 無限の高み → 尾てい骨 → 地の底の底。

ここから先は、マハー・ムドラーやヨニ・ムドラーと同じく、 地の底の底 → 無限の高み →スワジスターナ・チャクラ → 地の底の底 → 無限の高み → おなかのマニピュラ・チャクラ・・・という調子で、上がったり下がったりしながら、だんだん上のチャクラに移動していく。その間、意識は地の底まで降りたり、空の上まで上がったりする。

つまり、マハー・ムドラーやヨニ・ムドラーでやってた「意識の上下動」を、チャクラ全開呼吸では、地の底から天の上まで、もっと大きなスケールでやる・・・という感じ。


これは、「補助行」っていうだけあって、クンダリニー瞑想のやりすぎで注意力がにぶってきたとき、意識を鮮明にするためにやるという位置づけ。早い話が、気分転換(?)。

ただし、クンダリニー・ヨーガになじめない人でも、チャクラ全開呼吸だけを独立にやることにだって、意味はありそう。本格的な行者から見れば、まったくの気休めみたいなものかもしれないが・・・。
 

クンダリニー瞑想

2013年05月27日 | ダンテス・ダイジ
 
マハー・ムドラーの次は、ヨニ・ムドラーだ。これは、クンダリニー瞑想に入るまでの、準備段階という感じ。

ヨニ・ムドラーは、まず座禅みたいな蓮華座を組むことから始まる。両足を組むのが原則だけど、最もキツい座り方なので、無理は禁物。そもそも、ハタ・ヨーガでおなじみの柔軟体操みたいなポーズの多くは、正しく歪みのない蓮華座を組むための、予行練習みたいなものなのだ。急にやろうとすると、ヘタすりゃ関節を痛めるから、要注意。



座禅と同じように、小さな座布に尻を乗せ、右足を下に、左足を上にして結跏趺坐する。「右足が下で、左足が上」というのが、ヨーガの正式な作法。もっとも、どの足を上にするかという順番は、たいして重要ではないらしく、ここに貼った画像のように逆になってるのもよく見かけるし、ヨーガの先生の中には、ときどき組み替えることをオススメする人までいる。

言われて気づいたことだけど、そもそもダンテス・ダイジ自身、図版の絵では足の順番を逆に描いている。「座禅とヨーガでは、足の順番が反対になる」と、わざわざ2度も繰り返してるにもかかわらず・・・(笑)。


ここまでは座禅とほぼ同じだけど、座禅と違って、無理に背筋をピンと立てなくてもいいみたい。

そして、ヨニ・ムドラーのポーズでは、両手で顔を覆うのが特徴だ。

といっても、泣いてる人みたいにガバッと顔を覆うわけではなく、一本一本の指が離れている。両ヒジをほぼ水平に針、両手の親指で耳の穴をふさぎ、人指し指は額に当て、中指で目をふさぐ。

なんのために、こんなことをするのかというと、「見ざる、言わざる、聞かざる」みたいな感じ。実際には、この程度で耳が聞こえなくなるわけじゃないんだけど、気持ちの上では、耳を押さえている。視覚と聴覚が減退していくことの象徴だ。

クンダリニー瞑想では、仮死状態になることを目標にしている。死んだ人と同じ状態っていうくらいだから、視覚や聴覚は消えていくのである。



↑ 見ざる、聞かざる、言わざる


次は、薬指で鼻をふさぎ、小指で口をふさぐ・・・と言いたいところだけど、実際には鼻で深呼吸することが大事なので、鼻をふさいでは元も子もない。だから、薬指は小鼻の脇に置き、小指は口の両端に置いておく。軽く添える感じだ。


このポーズをとった状態で、マハー・ムドラーのときと同じように、呼吸に合わせて、意識の上下作業を行う。

はじめに、息を吐ききった状態で意識を尾てい骨に置き、息を吸いながら、意識を頭頂部まで持ってくる。

意識を頭頂部に留めたまま、息を吸いきった状態で、しばらく息を止める(クンバク)。ただし、息を止めるといっても、ここでいきなり仮死状態になるわけじゃないので(笑)、無理はしない。

そして、息を吐きながら、吐く息に合わせて、意識を再び尾てい骨まで下ろす。

さらに、息を吸いながら、また意識を頭頂部へ。そこでしばらく、クンバク。また、息を吐きながら意識を下ろす番だけど、今度は尾てい骨までは下ろさない。下腹部の、スワジスターナ・チャクラまで意識を下ろしたら、そこで止める。

それから、意識をスワジスターナ・チャクラ → 頭頂部 → おなかのマニピュラ・チャクラ → 頭頂部 → 胸のハートチャクラ → 頭頂部・・・と、上がったり下がったりしながら、だんだん上のチャクラへと移っていく。

最後に、眉間のアジナー・チャクラから頭頂部に達したとき、そこでしばらくクンバクしながら、一度、両手を顔を覆う。そして、両手を顔から離して、両手を下ろしながら息を吐き、同時に意識を尾てい骨まで下ろす。

「それぞれのチャクラを、明瞭に意識する」というのが、なんといってもヨニ・ムドラーの目的。
 
 
ヨニ・ムドラーが終わったら、そのままクンダリニー瞑想に突入する。

クンダリニー瞑想は、そのままの蓮華座のポーズで、手のひらを上に向け、ひざのあたりに軽く乗せて瞑想に入る。ちょうど、上に貼った画像みたいな感じ。

意識は、尾てい骨に置く。クンダリニーといえば、やっぱり、尾てい骨のルート・チャクラを刺激するのが、まずはポイントになる。


そこから先は、いかにもインド式。集中力と注意力の瞑想だ。何一つ落とすことなく、注意深く「聞き守る」ことを続ける。聞き守る対象は、聞こえるものすべて。小鳥がピーピー鳴く声でもいいし、自動車がブーという音でもいい。いわく、

>それら全部は、決して止まることなく変化しているのであるから、全部を同時に、しかも持続的に最大限の注意力を働かせていなければならない。

>通常いわれている、いわゆる「音を聞く」ということでは全然ない。「見守る」という表現も本質的には同じなのであるが、要点そのものはといわれれば、全知覚力の発動であると言うべきでああろう。


クンダリニー瞑想は、マハー・ムドラーと、ヨニ・ムドラーの呼吸法が重要なポイントになる。でも、ここから先は、瞑想中の意識の問題。やっぱり、詳しくは、ダンテス・ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」をご参照・・・。
 


マハー・ムドラー

2013年05月26日 | ダンテス・ダイジ
ダンテス・ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」には、クンダリニー・ヨーガのやり方が、図版つきで解説されている。実際にやってみるためには、その絵を見ながら、マネるしかないだろう。

とりあえず、どういうことをするのかというと、まずは「マハー・ムドラー」。これは、ヨーガのアーサナ(例の柔軟体操みたいなポーズ)をやりながら、深呼吸すること。

 
まずは、水平前屈ポーズだ。座って足を伸ばし、上体を曲げて、両手でそれぞれの足の親指を握る。まさしく、柔軟体操でおなじみのポーズ。体が柔らかくないと無理なので、普通は足をまっすぐ伸ばせないだろう。多少、足が曲がるのは仕方ない。ホントは、背中を押してもらいたいところだ・・・。




↑前屈 ・・・ 普通は、こんなに曲げるのは無理 YOGA.jp ポーズ辞典 


まず、息を吐ききった状態で、意識を尾てい骨に置く。それから、息を吸いながら、スシュムナー管を通して、意識を次第にのぼらせていき、頭頂部までもってゆく。

次に、息を吐きながら、意識をスシュムナーに沿って、再び尾てい骨まで降ろす。息を吐ききった時点で、意識は尾てい骨にある。

この、「呼吸に合わせて、意識を上から下まで行ったり来たりさせる」というのが、マハー・ムドラーのポイント。つまり、「息を吸いながら、意識をクラウン・チャクラへのぼらせる」→「息を吐きながら、意識をルート・チャクラに降ろす」という繰り返し。
 

次に、ヒザ抱えポーズ。これは、小中学生の「体育座り」みたいなポーズだ。両ヒザを立てて座り、腕全体でヒザを抱える。カカトを、できるだけ尻にくっつける。でもって、「呼吸しながら意識の上下動」を、また3回繰り返す。




↑体育座りのイメージ画像・・・これより、もっと足を引き付けて、腕全体で抱え込む。背中はまっすぐ


それから、次は片足ずつのポーズになる。さっきは両脚を伸ばして前屈したけど、今度は、片足だけの前屈。右脚を開いて伸ばし、左脚を曲げて、カカトを会陰につける。



↑片足前屈・・・普通は、こんなに曲げられない 画像元

それから、片ヒザを立てて座るポーズだ。さっきの体育座りポーズを、右脚を伸ばし、左脚のヒザだけ立てて、立てた方のヒザを両腕で抱える。



↑片ヒザ立て座りのイメージ画像・・・もっと足を引き付けて、立てない方の足は曲げずに伸ばす。 画像元

今度は、右脚と左脚を入れ替えて、この片脚ポーズを繰り返す。順番は、「右脚が先」と決まってるらしい。


これで1セット終了。水平前屈ポーズと、ヒザ抱えポーズを、両足→右足→左足の順番で繰り返す。合計6ポーズで、1セットってことになる。

どれも、背筋のスシュムナーをまっすぐ伸ばすことと、チャクラやスシュムナーをできるだけハッキリ意識しながら、意識を上下動させるのがポイントだ。

これを見ると、やっぱり、呼吸が大事なんだなという印象だ。呼吸はすべて鼻で行ない、しみじみと、精一杯の深呼吸をする。
 
ここに貼った画像のうち2つは、ヨガのポーズ集だけに、そのまんまという感じ。でも、あとの2つは、直感的なイメージ画像にすぎない。詳細は、やっぱり同書の図版を見てもらうのが一番だろう・・・。
 

クンダリニー上昇 ~ ダンテス・ダイジ

2013年05月21日 | ダンテス・ダイジ

そもそも、クンダリニー・ヨーガとは、何のためにやるものなのか?

それは、死んだときの状態を体験するため。死んで肉体を抜け出し、昇天するのが目的だ。

もっとも、「死んでどーするの?」というのが、素朴な疑問だろう。 ダンテス・ダイジも、それを気にしたのか、「クンダリニー・ヨーガの効果」を列挙している。

いわく、死がないことがわかり、存在のあらゆるカラクリを知ることができる。すべてが至福であり、絶対無であり、そして、それが私自身であることに目覚める。

さらには、「超能力・諸神通の発現」、「通常の意識状態をはるかに超えた感受性、もしくは諸神通の信じられないほどの鋭敏さ」をも挙げている。


でも、究極の目的は、自我を消すことにある。

自我を消せば、一切の煩悩が消滅して、苦から解放される・・・というのが、お釈迦さまに限らず、インドの神秘思想に伝統的な考え方。この考え方になじめるかどうかで、クンダリニーヨーガに限らず、インド式の瞑想の意義は大きく変わってくるだろう。

ダンテス・ダイジはそれを、「絶対死への輝くプロセス」と呼んでいる。


続いて、クンダリニーが上がったときの体験が、例によって散文詩みたいな文章につづられている。その一部を抜粋すると、

>クリア・ヨーガ、すなわちクンダリニー・ヨーガを、我がグルより授けられてからの、その実修過程上での出来事を簡明に記すことにする。

>実修を開始し出すとともに、私は、呼吸が各チャクラを通過するごとに、異なった色彩の光を視認するようになった。

>それらの光の円の中心は、下方のチャクラに呼吸が流れている間は暗くなっているが、上方のチャクラに移行するとともに、完全な円光に変化する。

>私の感覚器官は、日々に鋭敏になり、透明な静寂が世界全体を包んでいるような心持だった。

 

こうして、インドでクンダリニー・ヨーガの修行を始めたダンテス・ダイジ。ほとんど一日中、パドマ・アサナ(座禅を組んだときの姿勢)で過ごしていたという。そして、「私とは何なのか?」を初めとする、自問自答の日々が続いた。

いくら自問自答したところで、解答は得られない。そこには、「絶対の未知」があるだけだった。数学でも、「この方程式には、解がない」というのが唯一の正解だったりするもんだけど、この場合も、そういうものか。

でも、ある日、突如として世界が崩壊するときがやってきた。ついに、クンダリニーが上がったのだ。

 

>突如、何もかもが崩壊した。

>何もかもとか、崩壊したという観念の、なんとバカげたことよ。

>それは、あまりにも透明な死の至福であった。

>透明な私は、私の肉体感覚、呼吸、心臓の鼓動、呼吸が停止したのを明確に知った。

 

呼吸停止に心拍停止、脳波も停止。まったくの仮死状態になった、ダンテス・ダイジ。尾てい骨のムーラダーラ・チャクラから順番に、七つのチャクラの中心から、次々と白色のコードが外れていく。

背骨に沿って人体をタテに貫く、白く輝くエネルギーのコード。それこそが、クンダリニーだったのだ。「ヘビのように、とぐろを巻いている」という話は、どうやら俗説だったみたい・・・。

>人体内の七つの光り輝く球形が、人間を人間たらしめ、世界を世界たらしめている七つの中心だった。

>私は、脊柱内の白く輝くエネルギーのコードだった。

>・・・それから私は、頭のてっぺんから肉体を離脱した。

 

そして、一直線に金色の光線となって、六つの次元を通過し、すべてを見たという。ここでいう「六つの次元」というのは、エーテル界・アストラル界・・・とか、それに続く高次元の世界。

それは、六つの次元を超えた第七番目の究極、つまり、中心太陽(・・・神と呼ばれることもありますな)のまっただ中へと、一気に突入していった。

ここから先は、実際にクンダリニーが上がってみなけりゃ、知るよしもない領域だ・・・。

 


クンダリニー・チャクラ ~ ダンテス ダイジ

2013年05月19日 | ダンテス・ダイジ

ダンテス ダイジによれば、人間は四つの身体からできている。それは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体。この四つが重なって、人間はできている。

このうち、肉体は物質でできている。エーテル体は、それと重なって存在している。物質ではないが、それに近い。まあ、「半物質」といったとこ。

 

上に挙げた四つの身体には、それぞれにチャクラがある。もちろん、どれも重要なんだけど、クンダリニーヨーガの話で「チャクラ」と言ったら、普通はエーテル体のチャクラを指す。

ちなみに、肉体のチャクラというのは、脳下垂体・松果体とか、太陽神経叢とか、そういうホルモン分泌器官や神経叢のこと。どれも、小さいのに決定的に重要な役割を果たしている中枢器官だ。エーテル体のチャクラは、そういう肉体のチャクラと、大いに関係がある。

 

エーテル体の7つのチャクラは、セキズイに沿って一直線に並んでいる。もともと、人間の存在のすべては神から、つまり、上の方から流れ出してきた。だから、エーテル体をタテに貫くチャクラの列は、最初は頭のてっぺんから出発して、だんだん下に降りてくる。

それにつれて、肉体のチャクラ、すなわち内分泌器官も、次々にできてくる。脳からノドへ、ノドから心臓へ。そして最後に到達するのは、一番下のルートチャクラ、尾骨神経節。

 

>尾骨神経節は、神が人体を通じて表現した最終到達点である。

>脳髄は根であり、脊髄は茎であり神経叢は枝であり、各内分泌器官は葉であり、尾骨神経節は、なんと花なのである。

>花が散って果実ができるように、この尾骨神経節の内部には、肉体クンダリニー、すなわち個生命体の根源的生命欲が宿っているのである。

 

そういえば確かに、脳は、球根の形に似てるかも(笑)。つまり、神の側から見れば、脳という球根からセキズイという茎が伸び、尾てい骨まで植物のようにスルスルと伸びていく。行き着く先は、尾骨神経節。そこに花が咲いて、果実ができる。

ちょうど、チューリップを逆さにしたような感じ。花はやがて、果実に変わる。

 

それが、人間の霊的発達のプロセスでは、方向が逆になる。つまり、今度は反対に、一番下からのスタート。

それは、一番下のムーラダーラ・チャクラ、つまり、尾骨神経節から始まる。さっきの話では、ここに花が咲いて果実ができた。今度は、その果実から新たな芽が出て、上に向かって伸びてゆく番となる。

この果実とは、根源的な生命欲。それが、生きるための原動力になる。植物でいえば、果実の中のタネから芽が出るようなものだ。人間の霊的な発達は、「根源的な生命欲」・・・つまり、「生きたい」という純粋な本能・・・というタネから芽が出て、育ち始める。

 

>クンダリニーは、あらゆる個生命体の生命力である。

>クンダリニーは、あらゆる人々の根源的生命欲である。 

クンダリニーは、ムーラダーラ・チャクラから活動を始める。これこそ、生命欲そのものだ。赤ちゃんとか、小さな子どもの本能的な食欲と、肉体の活動がここに始まる。

 

次に発達するのは、ひとつ上の下腹部、スワジスターナ・チャクラ。これは、女性では卵巣がある位置。男女の性と、深い関係がある。ここまで上がると、性欲の出番になる。

本当は、このチャクラは気功でいう「気海丹田」。生命のセンターであると同時に、死のセンターでもあるという、なんとも奥の深いところなんだけど、それはちょっと先の話になる。ここではとりあえず、性欲のチャクラ。

もちろん、人間進化のプロセスは人それぞれだけど、これはあくまで一般論。まずは、生きるために食欲。順番からして、「次は性欲」と相場が決まっている。

 

それから、人間進化のプロセスは、ひとつ上に進む。おなかにある、マニピュラ・チャクラに到達だ。そこは自律神経のカタマリ、太陽神経叢があるところ。それは、自我の目覚めを意味する。

食欲・性欲という本能に続いて、自我意識の登場だ。おなかのチャクラは、自我のチャクラ。現人類はすでに、そこまでは進化している。

>したがって、この肉体・エーテル体上のマニピュラ・チャクラ、すなわち自我という束縛からいかに脱却するかということが問題になってくる。

>そして、自我を消す方法としては、冥想=絶対死以外にはないのである。

 

早い話が、クンダリニーヨーガは、自我を消す方法。なんで、わざわざ「死んだときの状態を体験」するのかと言ったら、そのためだったのだ・・・。

  

現代の人類は、おなかのチャクラのレベルまでは進化しているという。ダイジのチャクラ談義は、なぜか、ここで終わっている。

ということは、当然、「次は、胸のハートチャクラ」ということになるだろう。実際、ここには書かれてないけど、「ハートチャクラまで進化することが、人類の課題」という話は、別のところでしてたらしい。


クンダリニーの覚醒とは ~ ダンテス・ダイジ

2013年05月18日 | ダンテス・ダイジ

クンダリニー・ヨーガは、究極的には、呼吸停止・脳波停止・心拍停止の状態を目指す。これは、普通なら死亡宣告を受ける状態だ。つまり、まったくの仮死状態になってまで、死んだときの状態を体験しようとするのが、クンダリニー・ヨーガ。

これは、へミシンクでいう体外離脱とは、かなり趣きが異なる。ヘミシンクの場合は、人によって言うことはさまざまだけど、「ハートチャクラから意識がふくらんで、体の外に出て行く感じ」という人が多い。もちろん、呼吸はいつもより安らかになるだけで、止まったりしない。

それに対して、クンダリニー・ヨーガの場合は、頭頂部にある出入り口(・・・ブラフマ・ランドラと呼ばれる)を通って、エーテル体が ゴソッと肉体から抜け出す。そして、まったくの仮死状態となるのが特徴。

 

人間、生きてる間は、肉体に閉じ込められている。そこには、明らかな個別性がある。でも、肉体を離れたらどうなるか。個別性は、かなりアイマイなものになる。やがては、全体と溶け合って消えていく。

ダンテス・ダイジいわく、

>クンダリニー・ヨーガは、死ぬことによって、生と死をつかさどる多様多元の次元の一切が、自己自身であることを悟る道なのである。

>クンダリニー・ヨーガは、肉体から離脱して、究極のエクスタシーの中に突入することを目標とする。

 

ただし、「肉体から離脱する」といっても、「死後の世界を探索する」というわけではない。死後世界に対する興味関心は、ここには見られない。これも、ヘミシンクとの大きな違いだろう。

つまり、ここでは、「死後世界を探索する」ということに目的があるのではない。「死んだときの状態を体験する」ということに、最大の意義がある。

そして、その状態こそが、「一切の個別性が消滅した、究極のエクスタシー」というわけだ。


悟りの直前には、すべてのエネルギーが頭部に向かって逆流する。ダンテス・ダイジによれば、これは禅でもヨーガでも同じ。もちろん、血液も頭部に向かって逆流する。いわゆる、「アタマに血が上った」というのとは、ちょっと違うけど・・・。

>それが、禅であろうがヨーガであろうが、悟りの直前には、必ず血液もその他の各種のエネルギーも、人体頭部に向かって逆流する。いわゆる生物学的健康状態、すなわち頭寒足熱とは正反対の状態が起こらねば、霊的開眼はあり得ない。


「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」というだけあって、クンダリニー・ヨーガは、霊的に開眼するための一種のテクニック。そのためには、人格円満になる必要もないし、心身の健康とかも関係ないらしい。

禅は、せっぱつまった人間に向いている。いろんな面で追い込まれた人間が、最後に「これしかない」とばかりに、ひたすら坐る・・・というのが座禅。でも、ダイジいわく、クンダリニー・ヨーガには、それも関係ないようだ。

要するに、誰でも、テクニックを学び、修練を積みさえすればできる・・・ということか。


通常、「クンダリニーの覚醒」とは、このように理解されている。いわく、尾てい骨のムーラダーラ・チャクラには、トグロを巻く蛇のような、クンダリニーのエネルギーが眠っている。それを開発すれば、背骨に沿って存在するとされる「スシュムナー管」を通って、クンダリニーのエネルギーが、頭頂のサハスラーラ・チャクラまで、一気に駆け上がって脳天を衝く。そのとき、究極のエクスタシーが得られる・・・というもの。

でも、ダンテス・ダイジによれば、それは「方便としての説明」にすぎない。


>クンダリニーとは、ムラダーラ・チャクラ内部のエネルギーだというのが、方便としての説明にすぎないことを私は知った。

>クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーのことなのだ。

>クンダリニーとは、サハスララ・チャクラからムラダーラ・チャクラまでに直結している、スシュムナーそれ自身なのである。

>それから私は、頭のてっぺんから肉体を離脱した。

 

つまり、クンダリニーは、「尾てい骨にトグロを巻いて眠っている」というわけではなく、もともと頭頂から尾てい骨まで、背骨に沿って一直線になっている。

「スシュムナー管」と言われているものは、実際にはクンダリニーが通過する管などではなく、クンダリニーそのものだったのだ。クンダリニーが覚醒するとは、それが頭のてっぺんから、まるごとゴッソリと抜け出すことを意味する。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ 


クンダリニーヨーガ ~ ダンテス ダイジ

2013年05月18日 | ダンテス・ダイジ

 

ダンテス ダイジの「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」の第3章「クンダリニーヨーガ」は、この本の半分以上を占めるボリューム感がある。とはいっても、全体が小さくて薄い本ではあるのだが。

本場インドで修得したババジ直系、門外不出の秘法を特別公開するというのだから、他にはちょっとない貴重な本だ。オウム真理教の麻原彰晃が、これを読んでタネ本にしていたと言われるのも、うなずける。

とはいえ、前書きで編集者が「独習するのは危険」と警告しているという、奇妙な独習書。

 

どうして、クンダリニーヨーガは危険だと言われるのか。

最大の理由は、クンダリニーヨーガを行じると、死ぬからだ。もちろん、後で生き返るから安心、とも言えるけど。それでも、クンダリニーヨーガが成就した状態は、呼吸停止・心拍停止・脳波停止・・・と、文字通りの仮死状態だとされる。

それによって、肉体から離脱して、究極のエクスタシーの中に突入することを目標とする。

 

クンダリニーヨーガの行者にとって、「肉体から抜け出す」とは、まさしく上記のような仮死状態になることを意味する。その意味だと、ヘミシンクその他で言われる「体外離脱」は、本当の体外離脱とは言えない。「スヤスヤと安らかな寝息を立ててるような状態で、ドコが体外離脱なの?」といったところだろう。

もっとも、ヘミシンクの側も、その点を考えていないわけではない。「ここでいう体外離脱とは、『肉体の領域を超えて、知覚が拡大すること』と受け取ってもらって構わない」というような説明がなされることもある。つまり、知覚が拡大したから、死後の領域のことも分かるのだ・・・というわけだ。

 

それはともかく、ダイジいわく、

>クンダリニーヨーガにおけるニルヴァーナは、肉体の機能停止から始まる。続いて、根源的な意識は、頭部から肉体の外へ離脱してゆく。これは、心霊学で言われている幽体離脱などという子供だましとは、まったく違ったことである。

>クンダリニーヨーガにおいて、サハスラーラ・チャクラに集結した人体内のあらゆるレベルのエネルギーは、ブラフマ・ランドラを通って、肉体の外に出るわけだから、肉体は、呼吸停止、心拍停止、脳波停止を起こす。つまり、肉体は事実上、死ぬのである。

 

普通、こんな呼吸停止を見たら、「うわ、死んでる!」と思い、ゾッとするのが人情というものだろう。実際、クンダリニーヨーガへの入門を志したものの、恐れをなして逃げ帰る・・・というケースは、よくあることらしい。

とはいえ、ダイジによると、頭頂から抜け出て根源的な意識そのままの姿になって、初めて見えてくるものがある、ということだ。そりゃそうだろうな、ホントに死んだも同然の状態なんだから。丹波哲郎風に言えば、「死んだら驚いた!」といったところか。

 


自殺について ~ ダンテス ダイジの死に思う

2013年05月04日 | ダンテス・ダイジ

ダンテス•ダイジに関するネット上の評判を見ていたら、「自殺した」ということに対するワダカマリが目についた。

「理由はどうあれ、いただいた命を自ら捨てるのは、いかがなものかと思います」という調子。

これに関して、まず確認しておくべきなのは、「仏教には、『自殺は悪いことだ』という発想がない」ということだ。上のような、「神様からいただいた生命を、勝手に放棄するのは罪だ」というのは、もともとキリスト教の教義。近現代のスピリチュアリズムでも、大なり小なり、「自殺したヒトは、死後ロクなところに逝かない」ということになってるが、それもキリスト教の影響だ。

仏教には、そういう考え方がない。そもそも、開祖のお釈迦さま自身、菩提樹下で解脱してスッカリ満足し、「もう、ここにいる理由はなくなった」とばかりに、食べるのをヤメてさっさと餓死しようとしていたが、それを見た梵天があわてて飛んできた。「まあまあ、そうおっしゃらずに。世の悩める衆生に、法を説いてやってくださいよ」と頼み込んだところ、「そう言うけど、世俗にまみれたヒトたちには、どうせ分かんないよ」と最初は渋っていたが、何度も頼まれるもんだから、ようやくOKしました…っていう世界。

現代の日本人には、なんだかんだ言いつつ、キリスト教の考え方がそれなりに浸透している。「自殺は罪だ」という考え方は、その実例のひとつだろう。

上に挙げたような解脱者の死は、ある意味、この世にまったく関心がないことから来る、一種の自然消滅みたいなものだろう。でも、普通に自殺する人の多くは、そうではない。彼らの多くは、マジメすぎて物事をテキトーにやり過ごすことができず、ウツ病になってしまった人たちだ。病気なんだから、仕方がない。責めるのは酷というものだ。そうなる前に、早く瞑想して内分泌系や神経系を刺激し、気分が明るくなるホルモンを活性化するべきだった。それと似たような働きをする薬品もあるんだから、薬物治療するのも一つの手だろう。

それはともかく、「自殺するのは悪いことだ」という強固な信念は、人生を重苦しくする。会社だって、そうだろう。「ボクは、絶対にこの会社をヤメられない。他には、生きる場所がないんだ」というほどに思っていれば、プレッシャーは強烈なものになる。こんな考え方をしてたんじゃ、精神的に追い込まれるのも仕方ない。もっとも、その方が火事場の馬鹿力でガムシャラに働き、優良サラリーマンになれるかもしれないが…。

それに比べて、「こんな会社、いつヤメてもいいや」と思ってる方が、プレッシャーがなくて気楽なのは確かだろう。それと同じように、「こんな人生、いつでもヤメられる」という方が、気楽な人生なのは間違いない。気楽だから深刻に悩まなくなるし、そのためウツ病その他になりにくいから、かえって自殺にまで追い込まれない。

そもそも、仏教では、「人生は苦しい。もう生きていきたくない」と思うのは、解脱への第一歩。というより、「もう二度と、どこにも生まれ変わらない」というのが仏教修行者の目標なのだから、その前段階として、「まず、この人生を生きていきたくない」と思うのは当たり前(笑)。

もっとも、日常生活に埋没して生きている普通の人に、そういう透徹した認識を持てと言っても無理がある。だから、まずは「人生は苦しい。輪廻転生はもっと苦しい。解脱すれば、もう生まれ変わらなくてすむ」という仏教の教理を学ぶことから始める。「そんなことないよ。そりゃ人生、つらいこともあるけど、楽しいことだって一杯あるよ」という人には、「今はそうかもしれないが、人はいつか老いて死ぬ。最終的には、必ず苦しい」と教える。

それでも足りなきゃ、美味しそうな食べ物が腐っていくのを見せたり、墓場に連れていって美女が腐乱死体になっていくのを見せたり、瞑想でもそういうイメージトレーニングをやらせたり…。そうやって、「人生は、実は楽しくないんだ。なんだか楽しそうに見えるのは、錯覚なんだ。さあ、君もこんな世界からの離脱を目指そうよ」というのが、お釈迦さまの教え。

昔の地球では、そうやって、個人のアセンションを目指していたのだ。人類全体のアセンションなんて、あまりにも遠い未来の話。とりあえず、自分だけでも、ここから離脱するしかなかったのだ。

でも、今の時代はちょっと違う。今は逆に、人類全体の流れに乗って、自然にアセンションする時代…。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ  


ダンテス・ダイジの少年時代

2013年04月28日 | ダンテス・ダイジ
  
少年時代のダンテス・ダイジは、なぜか絶望しきっていた。
 
>春も深まり、すごしやすい季節になったが、当時17歳の私は、身も心も闇そのものといった感じだった。とにかく、全身心が重苦しく、倦怠と不安のかたまりだった。満たされない欲望と孤独感は、私から一切のものに対する関心と気力を奪っていた。
 
ダイジは、小学生の頃からまったく学校に適応できず、何度も自殺を図っていた。
 
>私はよく自殺を考えた。自殺についての思いは、小学校のものごころついた頃からあった。小学校の頃、私の唯一の願いは眠っている間に死んでしまうことだった。
 

学校をサボっては、座禅ばかり組んでいたダイジ。やがて、高校を中退してしまった。もはや、自殺する気力もなくなり、まるっきり堕落した無気力生活に入る。今でいう、「ニート」というやつだ。
 
先日、失業して求職中の友人が、「俺は、ニート生活を送っているよ」と言ってたが、筆者はそれを言下に否定した。「もしも就職先やバイト先を探しているのなら、それはニートとは言えない。『資格を目指して勉強』とか、そういうことをやっているのなら、それもニートとは言えない。要するに、仕事をしようとか、勉強しようとか、そういう意欲があるうちはニートではない」という話をしたところ、友人は絶句したが、「そうか、俺はニートじゃないんだな」と妙に納得していた。

またまた話は脱線したけど、少年時代のダンテス・ダイジは、そういう完全ニート生活を送ってた。一日中ゴロゴロしてテレビばかり見ていたが、テレビの内容を見る気力はないので、しまいにはチャンネルをガチャガチャ回すだけになった。

ダンテス・ダイジは、よほど集団生活にナジメなかったのだろう。こういう人を見ると、「よほど学校生活がつらくて苦しいんだろうな?」と思う人が多いんだけど、必ずしも、そうとは限らない。特別に嫌なことがあるわけでもないのに、ナチュラルに人生に嫌気が差している人というのは、いるものなのだ。しかも、それでいて、暗くて陰気なヒトかって言ったら、これまた、そうでもなかったり。生前のダンテス•ダイジも、さぞかし愉快なヒトだっただろうことが、いろんなエピソードから伝わってくる。普通の健全な感覚の人には、ちょっと理解を超える話かもしれないが・・・。

いい例が、古代インドのお釈迦さまだろう。王家の跡継ぎで、美男で、秀才で、お城で何不自由ない生活を送っていたにもかかわらず(•••ただし、ちょっと病弱だったんじゃないかとは言われている)、城の外で人が死んでいたり、病気の人が苦しんでいたり、老人がヨボヨボとつらそうに歩いていたり、赤ちゃんが大声で泣いているのを見てるうちに、この世で生きていくのがマジで嫌になってしまった。そういう人もいる。イマ風な言い方をすれば、自分の人生がどうのという以前に、この地球の物質環境そのものに嫌気が差したのだ。

それはともかく、無気力にゴロゴロして、チャンネルをガチャガチャ回していたダイジ少年に、転機が訪れた。テレビで、つまらない洋画の番組をやっていた。それは、ローマ時代のキリスト教徒の殉教をテーマにしたものだった。とはいっても、重厚で深遠な内容の作品だったわけではなく、むしろ軽薄なドラマだったという。それでも、ダイジ少年に、落雷のようなショックを与える場面はやってきた。

>やがて、場面はあるキリスト者の殉教のところへ来た。そのキリスト者は殉教される直前にこう言う。

>「それでも、私は神を愛する」と。
 
>その映画もその演技もその筋書きも、何もかも見え透いていて、つまらないものだった。しかし、その場面で語られた「愛」という言葉が、異様なほど、私の中に響いてきたのだった。

>その「愛」という言葉が、私の心に入ってくると同時に、「人間は絶対的に救われない、人間のみではない、一切万物は絶対的に救われないのだ」という想念が、私の中に浮かび上がってきた。

>それは、胸が突き破れるような悲しみだった。

こうして、究極の絶望に到達したダイジ少年。しかし、そこに突然、突破口が開けた。絶望の果てに、突如として歓喜がやってきたという。

>私と世界を含む万物万象は、決定的に絶望しきっている。その時、万物万象を包む愛が開かれた。

>それは、信じられぬ愛であり歓喜であった。


絶望こそが、この地球で生きるものの宿命。そこからは逃れられない。一部の人はその絶望を直視しているが、その他の人々は目を背け、何か他のことで気を紛らわしているだけなのだ。そこに気づけば、吹っ切れる。もう恐れるものは何もない。

そんな絶望的な生を送る万象万物に、神の愛は太陽のごとく、惜しみなく降り注いでいる・・・。

意外なことをキッカケにして、神の愛に目覚めたダンテス・ダイジ。絶望が転じて歓喜となり、至福の境地に到達した。それは「一ヶ月くらい続いて、やがて薄れていったが、以前と違う感じは残った」という。

これを見て連想したのは、「現代のスピリチュアル・リーダー」こと、エックハルト・トールだ。エックハルト・トールも、20代の頃に、絶望しきって家でゴロゴロ寝ていたところ、神秘体験が起きて、絶望が転じて歓喜となり、至福の境地に到達したという。それは「何ヶ月か続いて、やがて薄れていったが、以前と違う感じは残った」というようなことをトールも書いていた。

それから、ダンテス・ダイジの求道の旅は始まった。

まずは老子道体現者である伊福部隆彦先生の、「無為隆彦詩集」を愛読することから始まったらしい。この「伊福部無為隆彦老古仏」は、禅の指導を受けた木村虎山老師や、インドでクンダリニー・ヨーガを授けてくれたババジ大師とともに、ダイジの「3大師匠」に挙げられている。日本の禅、中国の老荘、インドのヨーガとくれば、まさに「東洋思想の三冠王」といったところか。

それにしても、「無為隆彦」。ダイジが詩をたくさん書き残しているのは、どうもこの人の影響みたい。伊福部隆彦の「永遠」という詩が、まるごと引用されている。

>永遠

>永遠とは、時間ではない

>時間を超越した時である

>そこにはもう空間もない

>物もない

>すべてが「如」だけになって

>それが私たちに永遠を語りかける

>この「如」の甚深微妙

>古人はその横顔を見て

>これを神と言った


ダイジは、この詩を何度も音読し、深く影響を受けたという。この伊福部隆彦という人は、老子の思想をベースにして、自由に詩を書いている。そういえば、エックハルト・トールも、「老子」を影響を受けた思想のひとつに挙げていた。トランスパーソナル心理学のケン•ウィルバーも、老子を読んで人生観が激変した。

筆者にとっても、老子は長年の愛読書のひとつで、もともと老荘思想についても、もっと語るつもりでいた。欧米に発するスピリチュアリズムの流れと、アジアに発する東洋思想の流れは、両方とも日本が終着駅。「精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ」には、両方とも存分に流れ込んでいる。こう見えても、本当は、深遠かつ気宇壮大なブログだったのだ•••(笑)。

それはともかく、禅とクンダリニー•ヨーガを極めたダンテス•ダイジでさえ、その求道の出発点が老荘思想だったということに、ちょっとビックリ。老古仏•伊福部無為隆彦←この人に要注目だ!?

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ