宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

マヤの碑文には、本当はどう書かれているのか

2011年12月23日 | マヤ文明・アステカ文明
ナショナル・ジオグラフィック 
 
大変な1年となった2011年も、ようやく終わろうとしている。すでに、コルマン版のマヤ暦は、2011年10月28日に終了した。ただ、通常、「マヤ暦の終わり」と言えば、2012年12月21日を指している。ずいぶん先の話と思っていたが、あと一年と迫った。

もっとも、マヤ暦については、「2012年で終わっているらしい」という話が一人歩きし、それが終末論と結びついるだけだ。この話そのものは世界中に広がっているが、元ネタである古代マヤの碑文には、本当はどう書いてあるのか。それを知っている人は、実はあまりいないだろう。
 
マヤ暦について、ここで復習しておくと、
 
1.マヤ文明の「長期暦」は約5125年周期で、紀元前3114年から始まっている。2012年12月21日に周期の終わりに到達する。

2.長期暦の単位では約400年を「1バクトゥン」と数えており、12月21日に13バクトゥンが終了する。
 
・・・ということになる。ただし、ナショナル・ジオグラフィックの記事によると、マヤ暦はここで終了してしまうというより、十二支が、グルッと一巡したらまた「ネズミ年」に戻るのと同様、マヤ暦は13バクトゥンで一巡し、次のサイクルがまた始まる・・・ということらしい。いわく、
 
>メキシコ国立人類学歴史学研究所(INAH)のチアパス州担当責任者エミリアーノ・ギャラガ・ムリエタ氏によると、マヤ文明における長期暦の終わりは、新旧の周期の世代交代を表しているという。「中国の十二支と同様だ。今年が卯年で、来年が辰年、再来年はまた別の動物になる」。
 
専門家による調査・研究は、今も続いているようだ。
 
>13バクトゥンの終わりについて記述された史料はほとんど存在しない。大半のマヤ学者が根拠として挙げるのは、メキシコ、タバスコ州のトルトゥゲーロ遺跡にある「モニュメント6」の石板だ。
 
>しかし、碑文の象形文字は部分的に損傷しているため、正確な内容は不明である。研究者は何度か解読を試みてきた。最も有名なのはアメリカ、ブラウン大学のスティーブン・ヒューストン氏とテキサス大学オースティン校のデイビッド・スチュアート氏による1996年の試みだ。

>当初の解釈によると、13バクトゥンの終わりに神が降りてくる。その次に何が起きるかは不明だが、何らかの予言だった可能性があるという。「この解釈は、マヤ暦が人類滅亡を予言した証拠として、ニューエイジ思想のWebサイトやフォーラム、書籍などで盛んに取り上げられた」とスチュアート氏は説明する。
 
こうした専門家たちは、スピ系とは関係がない。アメリカの大学や、メキシコの国立研究機関などに所属する、普通の考古学者だ。彼らは、「2012年終末説」を否定している。マヤの碑文には、「2012年に世界が滅びるとは、どこにも書かれていない」ということらしい。当たり前といえば、当たり前・・・。
 
では、マヤの碑文には、本当はどう書いてあるのか。

>INAHのギャラガ氏によると、マヤ碑文の表現は回りくどい。文字どおりの直接的な読解に慣れた現代人は混乱してしまうという。モニュメント6の碑文で13バクトゥンの終わりに神が降臨すると書かれていても、世界の終末について述べているわけではないという。「マヤ人の文章は詩的センスにあふれている。2012年12月21日に、“神が降り立ち、新たな周期が始まる。古い世界は死に絶え、新たな世界に生まれ変わる…”という調子だ」。

>ボストン大学の考古学者ウィリアム・サトゥルノ氏も、「碑文で特定の日が言及されているのは確かだが、“これが世界の終末になる”、“世界が燃え尽きる”などの記述はない」と話す。

つまり、専門家の解読では、マヤ暦に記されている内容は、こういうことになるようだ。

「2012年12月21日に、神が降り立ち、新たな周期が始まる。古い世界は死に絶え、新たな世界に生まれ変わる」。
   
それが何を意味するのか。それは、古代マヤ人だけが知っている・・・(?)。 



↑「2012年」が書かれている石版、「トルトゥゲーロ遺跡のモニュメント6」 ※画像出典サイト

アステカ文明が滅んだ、本当の原因

2010年08月26日 | マヤ文明・アステカ文明
ナショナル・ジオグラフィック (動画45分) 

 
ナショナル・ジオグラフィックの動画で、「アステカ文明が滅亡した本当の原因」という特集をやっていた。これが本当なら、恐るべき真実だ!?

(注意 : ノンフィクションとはいえ、動画を楽しみたい人にとっては、以下の記述にはネタバレの恐れがあります)

16世紀、スペイン人がメキシコに上陸したとき、メキシコには「アステカ帝国」が繁栄していた。人口が2000万人近くもいたとされる、当時の地球上では、かなりの大国。湖上に浮かぶ首都・テノチティトランは、人口30万人だったとも言われる。こちらは、当時としては世界最大級の都会だった。

そんなアステカ帝国が、スペイン人の侵略者によって滅ぼされ、支配された悲劇は有名だ。でも、真の悲劇は、その後にやってきた。なんと、その後まもなく大流行した伝染病によって、アステカ人の大半が死に絶えてしまったのだ。

この、伝染病によるジェノサイド (民族撲滅) が、いかに徹底していたか。人口が2000万人近かったとされる当時のメキシコで、最初に大流行した1545年の一年だけで死んだ人が、1500万人。次に大流行した1576年には、すでに人口が激減していたが、さらに200万人が死んだとされている。合計1700万人が死に絶えたことにより、メキシコ先住民は8割も減少し、ヨーロッパからの移住者たちに取って代わられることとなった。
 
まさに、恐るべき悲劇。人類史上、最大級の疫病被害だったことは間違いない。


 
これは、古来から「スペイン人がヨーロッパから持ち込んだ病原菌が原因」とされてきた。大流行したタイミングからしても、中世ヨーロッパが伝染病の宝庫だったことからしても、状況証拠は限りなくクロに近い。どう見ても、発生源はスペイン人と思われた (筆者も最近、本ブログにそう書いたばかりだ・・・)。
 
ところが、それが覆される証拠が発見されたという。スペインの首都・マドリッドの図書館に、当時の医者が書き残した記録が保管されていたのだ。それによると、スペイン人たちも、メキシコ原住民たちが病気でバタバタ倒れていったことには、ビックリしてしまった。病名は、彼らにも分からなかった。「未知の伝染病」と、記録には残されている。経験豊富なスペイン人の医者にとって「未知の伝染病」だったということは、本国スペインには無い病気だったということ。つまりそれは、これを持ち込んだのがスペイン人ではなかったことを物語っている。

そこで、当時の気候が調べられた。大昔の気候を調べられるというのも不思議な話なのだが、それは「樹齢800年の、木の年輪」を見れば分かる。暑さや寒さ、洪水や干ばつを数え切れないほど乗り切ってきた老樹の年輪には、その跡がクッキリと残されていた。

それによると、伝染病が大流行した年の前後の数年間は、なんと、「過去500年間で最悪の干ばつ、雨がほとんど降らない超カンカン照り」の日々だったということが判明した。しかし、伝染病が大流行した年だけは、一転して、なぜか大雨。これまた、最悪の集中豪雨で、大洪水になった。ここで大量発生したネズミが、新種の伝染病を一気に広げてしまったと考えられている。
 
なんということだ。これが本当なら、原因は、スペイン人じゃなかったのだ。そうではなくて、本当の原因は、異常気象。大洪水と干ばつの、ダブルパンチにやられたということになる。なんとも恐ろしい、衝撃の真実。
 
ということは、アステカ人たちは、スペイン人のせいで滅びたわけではない。単に「運が悪かった」ということになる。まさしく、「天がアステカを滅ぼした」と言うべきか。もっとも、スペイン人による奴隷支配で、生活環境が大幅に悪化したことも、伝染病の広がりに拍車をかけたと言われる。

それにしても、大国の人口の大半が、たったの1年かそこらで死に絶えるとは。周囲の人間の大半が、肺病にかかって激しく咳き込み、ガッと血を噴きながら、次々に倒れて死んでいく。まさしく、身の毛もよだつ地獄図だ。アステカ人は、本当にツイてなかった。

でも、彼らに取って代わったスペイン人たちだって、もとはといえば、似たようなものだったのだ。中世ヨーロッパでは、「伝染病が蔓延したおかげで、一国の人口が半分に減りました」なんてことが、そこら中で起きていた。そんな血ヘドにまみれた地獄をかいくぐり、さんざん鍛えられてきたヨーロッパ人は強かった・・・。
 
今でこそ、だいぶマシになってきているとはいえ、地球というのは本来、これほど荒っぽい環境なのである。マトモに現実を直視したら、恐怖で背筋が凍りついてしまう。地球人類の生活は、常に何かで気を紛らわしていない限り、とてもやってられない。
 
ナショナル・ジオグラフィックの動画は、さらに恐ろしい話で締めくくられている。

「大洪水と干ばつのダブルパンチ」といえば、なにか思い出すものがないだろうか。そう。世界中で起きている、最近の異常気象だ・・・!!
  
恐ろしくて、これ以上はとても書けない。どうしても先を聞きたい人は、ナショジオの動画をどうぞ。
   
 
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マヤ文明

2010年07月29日 | マヤ文明・アステカ文明

 
↑マヤとアステカ (緑色が、マヤ文明のエリア)
 
 
数千年の歴史を持つ「マヤ文明」は、メキシコ南部のユカタン半島から、グアテマラ・ベリーズあたりを中心とする文明。大きく分けて、3つの時期に区分されている。

最初は「先古典期」。どこから来たのか定かでない謎の民族・オルメカ人がメキシコ湾岸にもたらした古代文明は、紀元前からマヤ地域に広がった。いわば、真打ちが登場する前の、前座のような時期と言える。

2番目は「古典期」と呼ばれる。これは、マヤ文明が文化的な絶頂に達した、4世紀から9世紀あたりの時代。まさしく、真打ち登場だ。すばらしい文明だったのに、なぜか千年ほど前に衰退してしまった。原因は、「伝染病」、「気候変動」、「反乱」、「北米からの侵略者」など、いろいろ言われているようだ。歴史は、過去から未来へと、一直線に進歩発展していくものではない。せっかくの文明が衰退したり、消滅したりすることも、実はよくあることなのだ・・・(泣)。

最後が、「後古典期」。これは、マヤ文明が下り坂に入ってから、スペイン人に征服されて滅亡するまでの、10世紀から16世紀までの時期を指す。これはいわば、燃え尽きる前の残り火の時代。

古典期マヤ文明は、数々の偉大なる文化遺産を残した。中でも有名なのが、ご存知、「マヤン・カレンダー」。「2012年の冬至で終わっている」ということで知られる、マヤの暦だ。
 
マヤ人は、金属の使用などといった分野においては、原始人みたいなレベルだったのだが、天体観測が非常に発達し、ヤケに精密な暦を持っているのが特徴だった。マヤの暦といっても、いろいろあるのだが、大きく分けて2つある。

ひとつは「ツォルキン」と呼ばれるカレンダーで、これは一年が260日とされていた。何の役に立つのかは知らないが、宗教上の儀式などを、この暦に基づいて実施していたようだ。まあ、日本も昔は「太陰暦」を使っていた。中国人は、2月の初め頃になると、旧正月で一斉に帰国する。ツォルキン暦も、そのようなものか・・・?
 
もうひとつは、「ハアブ」と呼ばれる普通のカレンダー。こちらは、一年が365日となっている。ツォルキン暦とハアブ暦を両方とも使っていると、当然のことながら、だんだんズレてくる。暦がスタートしてから1000日が過ぎた頃には、ツォルキン暦では4年近くたっているのに、ハアブ暦では3年にも届かない。この2つの暦が同時にスタートしてから、再び年末年始を同時に迎えるのはいつか。約52年後だ。これを「カレンダー・ラウンド」という。 
   
しかし、スケールではこの2つを遥かに上回る、「長期暦」(ロング・カウント)が存在する。これは、紀元前3114年8月11日に始まり、2012年12月21日に終了するという、いわくつきのカレンダー。一般に「マヤのカレンダー」と言えば、これを指すことが多い。

もっとも、これについて語りだすと、「マヤ文明」の話より長くなってしまいそうなのだが・・・(笑)。

    
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マヤ・アステカのピラミッド

2010年07月27日 | マヤ文明・アステカ文明
 ← テオティワカンのピラミッド (メキシコ)
 
   
アステカ帝国の首都テノチティトラン(現:メキシコ・シティー)の郊外に、かの有名な「テオティワカンのピラミッド」がある。

テオティワカンには、「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」と呼ばれる、巨大な2つのピラミッドがある。さらに、もっと小さな3番目のピラミッドもあり、こちらは「ケツァルコアトルのピラミッド」と呼ばれている。

かつては日本の古墳と同様、草木に包まれた丘のように見えていた。だが、それは世を忍ぶ仮の姿だった。実は、エジプトのピラミッドと同じような、巨大な四角錐の建造物だったのだ。

アステカ帝国の人たちにとっても、気が遠くなるほど太古の遺跡。いつ頃これが作られたのかといえば、諸説あるらしいのだが、シッチンによると「紀元前1400年」(今から3400年ほど昔)というのが、学界での定説になっているという。ただし、この地の遺跡そのものは、「今から六千年も前に始まった」という話もあるらしい。シッチン自身も、「この地の文明そのものは、もっと古いんじゃないか」と思っているようだ。

「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」には、メソポタミア文明のジッグラト (大神殿) のような階段がついている。かの有名なエジプト・ギザの巨大ピラミッドとは異なり、巨石を切り出して積み上げたものではなく、主に日干し煉瓦と小石や砂利で建てられている。その上、「王の間」だの、「声が共鳴する廊下」だのといった、複雑な内部構造を持っているわけでもない。高さも、半分くらいしかない。にもかかわらず、シッチンによれば、テオティワカンのピラミッドは、ギザの大ピラミッドと、驚くほどの共通点を持っているという。

 
 ← ギザの大ピラミッド (エジプト)
 
  
ギザの大ピラミッドも、2つの巨大なピラミッドと、もうひとつの小さなピラミッドからできているのだが、大きい方は、2つとも人工的な高台の上に建っている。それぞれ建物の高さは違うけど、頂点の海抜高度は、ほぼ一致するようにできているという。つまり、地面が小高い丘になっているところでは、その分、ピラミッドの高さをちょっと低くする。地面が低いところでは、その分、ピラミッドをちょっと高くする。そうやって、頂点の高さがピタッとそろうようになっているというのだから、なんとも芸が細かい。東京に例えれば、丸の内よりも新宿の方が地面の標高が高い分、丸の内に高いビルを建て、新宿に低いビルを建てることにより、「屋上の高さをそろえました」というようなものだろう。なんで、そうまでして海面からの高さ (言い換えれば、宇宙から見たときの高さ) を、そろえなきゃいけなかったのか・・・。

驚くべきことに、この頂点の高さのそろえ方は、テオティワカンにある2つの巨大ピラミッドの間にも、そっくりあてはまるという。
 
さらに、ギザとテオティワカンの両ピラミッドは、大西洋を隔てて遠く離れているにもかかわらず、建ぺい面積のサイズは、ほぼ同じ。つまり、地面と接している底辺の四角形の寸法が、ほとんど変わらないらしい。ギザは一辺754フィート、テオティワカンは一辺745フィートだというから、確かに偶然とは思えないくらい似ている。
 
シッチンによれば、テオティワカンのピラミッドは、ギザの大ピラミッドだけではなく、エジプトでピラミッドが造られ始めた初期のものとされる、「ジョセル王のピラミッド」とも数々の共通点を持っている。これは、ギザのものとは異なり、六段に分かれた段階式になっている。そして、壁面の傾斜角が「43.5度」となっており、これはなんと、テオティワカンのピラミッドの傾斜角と一致しているというのだ。
 
 
 ← ジョセル王の階段ピラミッド (エジプト)

 
しかも、これらすべてのピラミッドに共通する、もうひとつの特徴がある。それは、「地中深くへと続く、地下階段がある」ということ。やはり、両者とも、「上にある如く、下も然り」という格言の通りに造られているのだろうか!?

そんなこんなで、シッチンによれば、とても偶然とは思われないほどの共通点を持つ、エジプト文明とマヤ文明のピラミッド。ゼカリア・シッチンは、そこに、太古の昔における、中東と中米の交流を見る。現代のわれわれが想像する以上に、この両者は影響を与え合っていたというのだ。というより、「大西洋の東側と西側の両方に文明をもたらした、人類共通の指導者」の姿をそこに見ている。
   
メキシコには、マヤ文明の先住民が残した階段ピラミッドが、たくさんある。その中でも、美しい姿で名高いのは、「チチェン・イツアーのピラミッド」だろう。チチェン・イツアーの遺跡といえば、ハンドボールに似た(?)スポーツをしている姿が彫られた、レリーフでも有名だ。なんと、どちらかのチームの選手が、首を斬られている図柄も描かれている。このため、「このスポーツは真剣勝負であり、負けた方の選手は、斬首されて神に捧げるイケニエになった」と考えられている。これには、ワールドカップの代表も真っ青でしょうな・・・(怖)。
 
  
 ← チチェン・イツアーのピラミッド (メキシコ)
 
 
ちなみに、考古学界の通説では、5000年近く前のエジプトで「ジョセル王のピラミッド」のような階段型のピラミッドが造られ始め、そこで技術が蓄積された後、4500年くらい前の「エジプト古王国」の最盛期において、巨大なギザの大ピラミッドが建造されたとされている。マヤのピラミッドは、それより1000年も後にできたものだ。

でも、周知のとおり、一般にチャネリングの世界では、そうなっていません(笑)。チャネリング関係者には、「ギザの大ピラミッドは、大勢の人間がエッチラオッチラ、巨石を引っ張って運んで積み上げたものなのだ」と考えている人など、滅多にいない。「高度な文明を持つ宇宙人の関与により、なんらかの特殊な方法で造られた」というのが、チャネリング界の通説と言えるだろう。
  
シッチンも、そう考えているようだ。シッチンの考えでは、まず、いつ頃なのか分からないほどの太古の昔に、宇宙人の関与によって造られた「ギザの大ピラミッド」という理想的なお手本があった。それを見て憧れた地球人たちが、「ジョセル王のピラミッド」や、「テオティワカンの太陽と月のピラミッド」といった、もっと原始的なピラミッドを、見よう見マネで造った・・・といったところが真相であるらしい。
   
   
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オルメカ文明の謎

2010年07月26日 | マヤ文明・アステカ文明
 
数千年の歴史を持つマヤ文明は、多くの素晴らしい都市を建設した。しかし、熱帯の地であるだけに、都市民が移住して衰退するたびに、都市遺跡が密林に埋没して消えていった。そんな都市遺跡の中で有名なのは、コパン、パレンケ、チチェン・イツアーなど。

気になるのは、「数千年前に、中米の地で最初に文明を築いたのは誰だったか?」ということ。これについては、「オルメカ人」と呼ばれる、古代の先住民族だったと考えられている。

オルメカ人は、今から3千年以上もの昔に、どこからかやってきてメキシコ湾岸に住み着いた、海の民だ。何もなかった中米に、突如として文化の花を咲かせた。ユカタン半島を中心とするマヤ地方とはエリアが微妙に異なるので、「マヤ文明」とは言われないのだが、その先駆者なのは確か。

 
 

↑ オルメカ文明の地域 (隣に突き出ているのがユカタン半島)
 

熱帯の海岸の低湿地だけに、ゾッとするほど高温多湿な「緑の地獄」と呼ばれるジャングルの中。ウカツに入ろうものなら、無数の蚊やヒルに喰いつかれて、あっという間に血まみれだ。こんなところに、よく、人が住めたものだ・・・。

面白いことに、ゼカリア・シッチンは、この古代民族オルメカ人を、「アフリカ大陸から大西洋を渡って来た、西アフリカの黒人だった」と断言している。アフリカ大陸の黒人たちは、地続きのエジプトやメソポタミアから、シュメール文明に始まる高度な文化を受け継ぎ、大西洋を越えてメキシコ湾岸に渡来したというのだ。著書の中で、これは一度や二度ではなく、何度も強調されている。

面白い説なのは確かだが、そこまで自信たっぷりに断言する根拠が、「オルメカ人が残した古代の石像の顔は、どう見ても黒人にしか見えない」というのだから、まさしくシッチン節が全開だ(笑)。ご丁寧にも、オルメカ人の石像の顔の横に、「ナイジェリアのリーダー、バナキダ将軍の顔」の写真を添え、「このように、オルメカ人の顔は、現代の西アフリカ人の顔とあまりにも似ている」という注釈が付いていた。「ナイジェリアのバナキダ将軍」も、思わぬところで「証拠写真」に使われ、さぞ度肝を抜かれたことだろう・・・。(もっとも、オルメカ人の石像がアフリカの黒人に似ているということ自体は、シッチンひとりの思い付きではなく、昔からそう言われている)。
 


 
↑オルメカ文明の巨大人頭像 (高さ3m!!)
 
 
不思議なのは、それだけではない。というのも、オルメカ時代に描かれた絵には、長いアゴひげを伸ばした偉そうな人物もよく登場する。そして、この長いアゴひげの人物に、「黒人」がかしずいているような絵柄も、数多く残されているのだ。この、長いアゴひげの人物の顔は、「黒人」とは明らかに異なる。中南米の先住民・インディオにも似ていない。そもそも、中南米のインディオは、遺伝的にはわれわれ東アジア人と近縁の人種であり、こんなに見事な長いアゴひげが生える人など、滅多にいない。どちらかと言えば、それこそシュメールの粘土板や、ペルシア帝国の石碑にでも出てきそうな、あちらの人の風貌なのだ。不思議といえば、確かに不思議なのである。




↑こちらは、「白人に見える」という評判の「アンクル・サム」

  
シッチンは、オルメカ人が残した記念石柱にも注目する。なんと、そこにはシュメール文明の粘土板でおなじみの、「翼のある神様」が描かれていたのだ。さらに、マヤの神話と、シュメール神話やエジプト神話との「共通点」を、これでもかとばかりに列挙しては力説する。これは偶然なのか。それとも、シュメール人とオルメカ人は、同じ神々を崇拝していたのか。その答は、神様とゼカリア・シッチンだけが知っている・・・(笑)。

それはともかく、中米の地に最初の文明を築いたオルメカ人の時代は、やがて終焉した。彼らが放棄した都市は、徐々に熱帯の木々に覆われ、緑深い密林の枝葉の茂みに埋もれていった。

その後、「マヤ文明」が全盛期を迎える。マヤの文化が頂点に達したのは、紀元8世紀から9世紀頃とされる。日本で言えば奈良時代あたりの前後に、地球の裏側ではマヤ文明が空前の繁栄を遂げていた。しかし、その後、マヤ文明はなぜか衰退してしまう。最後に滅んだアステカ人たちの時代は、本来のマヤ文明が衰退してから、すでにだいぶ経っていたのである。


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アステカ帝国の謎

2010年07月25日 | マヤ文明・アステカ文明
 
アステカ族は、メキシコ中央高原に栄えた、高地の文明人。ユカタン半島を中心とするマヤ地方とはエリアが微妙に異なるので、「マヤ文明」とは言われないのだが、その後継者だったのは確か。




↑アステカ帝国の領域 (隣に突き出ているのがユカタン半島)
 

アステカ帝国の首都テノチティトランは、数十万の人口を擁する、当時の地球では最大級の都会だった。でも、彼らの文明が世界の最先端を行っていたかといえば、必ずしもそうではない。むしろ、いくつかの点で、奇妙なほど不釣り合いな遅れが見られた。

帝国全土から集まった商人たちで賑わう市場は、世界でも屈指の規模を誇っていたのだが、そこではなんと、物々交換が行われていた。つまり、アステカ帝国では、お金が使われていなかったのだ。

さすがは、現代人も及ばないほどの高い精神性に到達していた、神秘のアステカ文明。何百年も前に、「お金のない世界」を実現していたのか!!・・・と、思わず感心してしまいそうになるのだが、そういうワケではない。単に、「貨幣」という概念を知らなかっただけだ。

その上、アステカ人は、金属を道具として使うことを知らなかった。彼らの道具のレベルは、石器時代の原始人と変わらない。鉄器はもちろん、青銅器すら使われていなかったのだ。青銅の合金は、鉄ほど高温で加熱しなくても溶かして加工できるので、大昔の人類から、洋の東西を問わず愛用されていた。それすら使えなかったのだから、逆にビックリするほどの重症。少なくとも金属に関しては、世界の大勢から五千年くらい遅れていたと言ってよい。

当時は、16世紀。すでに世界では、オスマン・トルコの鉄砲隊が、無敵のイラン騎兵隊を潰走させていた時代。織田信長の鉄砲隊が武田騎馬軍団を壊滅させるのは、その数十年後のことになる。そんな時代に石ヤリで戦ってるようじゃ、無敵艦隊・スペインを相手に、最初から勝ち目はなかったと言えるだろう。

ただし、石器時代と言っても、さすがに、ただの石コロを使っていたワケではない。黒いガラスの破片みたいな黒耀石が、鋭利な刃物として使われていた。

黒耀石の刃物は、神殿でも必要不可欠だった。というのも、彼らが神に捧げていたイケニエは、囚人から切り取った心臓だったのだ。切り取られたばかりの新鮮な心臓は、祭壇でまだドクンドクンと脈を打っていたという・・・。

鉄も青銅も使えなかった、アステカ人。不思議なのは、それでいて、金細工だけは発達していたというところだ。ヨーロッパ人もビックリの、高度で精巧な金細工。われらがゼカリア・シッチンは、そこに注目する。「誰が、彼らに金の扱い方を教えたか?」、それ以前に、そもそも「なぜ彼らは、他の金属には目もくれず、金だけをアリガタがっていたのか?」というナゾだ。その答は、誰も知らない・・・(笑)。

一方、圧倒的なまでにすばらしかったのは、神殿だ。そこには、神々や女神たちの大きな彫像や、まるく刻まれた大きな厚い石の円盤が並んでいた。

中でも目立つのは、重さが約25トンもあるという、巨大なカレンダーの石碑。それは、52年周期で正確に刻まれた、驚くほど精密な暦だった。かつて、これほど「暦」を神聖視した人々がいただろうか。




↑床の間に飾りたい、豪華なカレンダー


他のことでは原始人のレベルなのに、建築と彫刻、そして、天文と暦だけは、妙に進んでた。う~ん、ナゾは深まるばかり・・・。

ゼカリア・シッチンは、こう問いかける。

>一方では、原始的な粘土や木製の品物、そしてグロテスクな彫像があり、他方では、巨大な石の彫刻や記念すべき壮大な聖域があるという、この2つの対照にはまったく驚かされる。このことは、アステカ族がメキシコにいた4世紀たらずの短い期間では、説明がつかない。このような文明の二面性をどう説明したらよいのか?


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マヤ・アステカ・インカ 神々の起源と宇宙人

2010年07月23日 | マヤ文明・アステカ文明
  
最近の精神世界では、中南米のフィールドワークがブームのようだ。

中南米の探索者として世界的に有名なのは、ドランヴァロ・メルキゼデク氏あたりだろうか。いまや、精神世界関係者が何人か集まると、たいてい話題に出る人物だ。日本では、「地球巡礼者」のエハン・デラヴィ氏、「2012年 最後の真実」の浅川嘉富氏などが、精力的に中南米を探査しているみたい。

何が、これらの人々を中南米に惹きつけるのか。それは、滅び去った神秘の文明、宇宙的なスケールを誇るナスカの地上絵やマチュピチュの遺跡、そしてご存知、「2012年の冬至で終わっている」というマヤのカレンダーだろう。

筆者が個人的に注目するのは、徳間書店の5次元文庫から出ている、ゼカリア・シッチン著「マヤ・アステカ・インカ 神々の起源と宇宙人」という本。「古代シュメール文明を創ったのは、宇宙人アヌンナキだ」という説で知られる人だけに、本書でも、「中南米の古代文明を創ったのも、やっぱり宇宙人アヌンナキなのだ」という大胆な仮説を展開する。シュメール文明の古代ロマンは、なんと、大西洋を渡って新大陸にまで広がっていた。真偽はさておき、まさしく、第一級の精神世界エンターテインメントとして楽しめる内容だ(笑)。
 
「古代シュメール語で書かれた粘土板を読める、数少ない学者」とまで言われる人が書いただけあって、参照している文献の豊富さと、緻密な現地調査は、他の追随を許さない。惜しむらくは、せっかく集めた客観的な事実と、作者本人の自由奔放な想像とを区別せず、渾然一体に記述する傾向があるところか。できれば、その両者の区別がしやすければ、より一層ありがたかった。まあ、時代の先駆者とは、えてして、そういうものなのかもしれないが・・・(笑)。
 
それはともかく、ヨーロッパ人と、メソアメリカ(中米)の文明との出会いは、悲劇的な「アステカ帝国の滅亡」で幕を開けた。

日本でいえば室町時代から戦国時代初期くらいにかけての時代に、現在でいうメキシコの中央高原で栄えたのが、かの有名なアステカ帝国。この地の歴史上、おそらく最も繁栄した大帝国だったのだが、16世紀にやってきた、コルテス率いるわずか500人のスペイン人によって、アッサリと滅ぼされた。結果だけを見れば、まるで無力だったように思えるのだが、実際のアステカ帝国は、一千万人を超える人口を擁する、当時の世界の基準からすれば相当な大国だった。

首都のテノチティトランは、人口が30万人に達していたという。江戸やロンドンが大発展して百万都市となるのは、まだまだ先の話。当時としては、テノチティトランが世界最大級の都市だったのは確かだろう。
 
荒涼たるイベリア半島から、大西洋の波濤をはるばる越えてやってきた野蛮なスペイン人たち。熱帯の密林を抜けると、天空に近い高地の湖上に浮かぶ島の上に、目にもあやなる桃源郷・テノチティトランはあった。。長くて広いメインストリートを通って街に入ると、整然と区画された街路を無数の人々が歩き、張り巡らされた運河を多数のカヌーが行き交い、市場は商人たちで活気づいていた。そして、金銀財宝が満ち溢れる宮殿。
 
地上に、こんな誰も知らない都市があったとは。しかも、スペインの首都・マドリードなんか、目じゃないほどの大都会ではないか。まさしく、異空間の幻想世界に迷い込んだほどの衝撃だったろう。

だが、シッチンによれば、最大の驚きは大神殿にあった。そこには、「羽毛の生えた蛇の神」こと、ケツァルコアトル神が祀られていたのだ。

>しかし、この都市と王国の中心は、なんと言っても大きな宗教センターだった。百万平方フィート以上もありそうな大きな長方形の区域で、くねくね動く蛇の形に似せてつくられた壁で囲まれていた。この聖域の中には、多数の大きな建物が建っていた。中でも、最も目立っていたのは、2つの塔と神ケツァルコアトルを祭っている、一部が円形の寺院のある「大神殿」だった。(同書より)

そんな素晴らしい花の都・テノチティトランは、残虐な侵略者・コルテス隊によって滅ぼされてしまった。建物はすべて取り壊され、大半の住民は死に絶えた。まるで、ジンギスカンのモンゴル騎馬軍みたい。彼らが通った後には、ペンペン草も生えなかった。

アステカ帝国が滅亡したあとも、悲劇は続いた。特に、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の被害は大きく、免疫のないメキシコ先住民は壊滅的な打撃を受けた。長きにわたる暗黒の中世において、いつも戦乱と疫病の連続だったヨーロッパ人は、やはり鍛えられ方が違っていた。逆境は、人を強くする。中世ヨーロッパ人こそ、その見本だったのだ。
  
今に語り継がれる、アステカ帝国の滅亡。

だが、テノチティトランの歴史が、それで終わったわけではなかった。その後、湖は埋め立てられ、かつての湖上に新生メキシコの首都が再建された。「メキシコ・シティー」と呼ばれる、その都市は、いまや人口2千万人の巨大都市圏となっている。姿かたちは変わっても、世界屈指の巨大都市であり続ける。やはり、選ばれたる王城の地にみなぎる王者の気は、時を経ても失われるものではないのだろう。
 
アステカ帝国が滅びた後のメキシコには、「マヤ文明」をはじめとする、メソアメリカ諸文明の遺跡が残されていた。20世紀になって、ゼカリア・シッチン氏が遺跡を調査したところ、驚くべき事実が浮かび上がってきた・・・!?


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地下世界への入り口 ~ マヤ文明の洞窟神殿

2009年08月25日 | マヤ文明・アステカ文明

 
↑ ユカタン半島の地下墳墓

  
ユカタン半島の地下でマヤ文明への入り口が見つかる? ~ Gigazine

Portal to Maya Underworld Found in Mexico? ~ National Geographic
 
  
中南米に栄え、忽然と消えたマヤ文明。メキシコの南東部からベリーズにまたがるユカタン半島で、地下へと続く洞窟の発掘調査が進んでいる。 
 
ユカタン半島で調査を行っている考古学者が、地下に続く14の洞窟で石造りの神殿やピラミッドを発見したという。最近発見された洞窟の中でも、コンクリートの道が円柱に沿って水たまりまで90mにわたって続いているのが確認された。洞窟内では石碑や大きな石柱、司祭の彫刻などのほか、陶器や人間の遺体も発見された。
 
マヤ人たちが地下世界に抱いていた関心は、半端ではなかった。彼らは森林に洞窟を深く掘り、地下水の中に神殿や墓を造った。
  
それは、地下世界の入り口。この世と、あの世の境界。ジャングルの奥の、深い洞窟の中に、古代マヤ人たちは眠る・・・。
    
 
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