宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

クリシュナムルティの反逆 ~ 教団解散宣言

2010年04月19日 | クリシュナムルティ
 
クリシュナムルティは、少年の頃、神智学協会のアニー・ベザント夫人によって「世界教師の器」とされ、若くして「星の教団」の教祖に祭り上げられた。

「神智学協会」というのは、小さな勢力ではなかった。19世紀にブラヴァツキー夫人によって創設され、20世紀のスピリチュアル界に絶大な影響をもたらした。現代の精神世界ジャンルで、直接・間接とを問わず、ここの影響を受けていない人はまずいないと言っていい。その意味で、この分野では並ぶもののないパワーハウスと言える。
 
1891年、ブラヴァツキー夫人は、神智学協会を創設した本当の目的を告げた。なんと、それは来るべき現代のメシア、「世界教師」が再臨するときのために、受け皿として作った団体だというのだ。

その遺志を継いだベザント夫人とリードビーター師は、巨大なオーラを放つ少年・クリシュナムルティに白羽の矢を立てた。新たに宗教団体・「星の教団」が組織され、Kがその教祖となった。この事件をキッカケとして、ドイツ神智学協会のルドルフ・シュタイナーは、イギリスの本部と対立するようになり、やがて神智学から離脱して「人智学」を打ち立てるに至る。クリシュナムルティと、シュタイナー。タイプは違うが、ともに20世紀の精神世界を代表する、2人の大物の人生が交錯した瞬間だ (結局、両者とも、神智学協会とは縁を切ってしまったわけだが・・・)。
 
世界各国に4万人もの信者を持つ、国際的宗教団体の教祖。だが、自由人のクリシュナムルティを、いつまでも宗教団体に縛り付けておくのは無理だった。1929年、Kはついに「星の教団」を解散してしまった。3000人を超える聴衆に向かって、Kは演説する。
 
>今日、これから私たちは、「星の教団」の解散について話し合いたいと思う。喜ぶ人々も多いだろうし、悲しむ人々も多いであろう。しかし、これは喜ぶとか、悲しむとかいった問題ではない。なぜなら、これは避けがたいことだからである。

信者諸氏は、さぞかしショックを受けたことだろう。信者だけではない。「若き教祖が、宗教団体を解散した」という前代未聞の事件は、世間の一般人までも驚かせた。でも、仕方がない。クリシュナムルティによれば、真理を探究するのに、組織など必要ないというのだ。必要ないだけではない。それは、真理を探究する上では、むしろ有害な存在と言える。

>「真理」は限りないものであり、無制約的なものであり、いかなる道によっても近づきえないものなのであって、したがってそれは、組織化され得ないものなのである。それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するような、いかなる組織も形成されるべきではないのである。・・・ひとたび組織化したならば、信念は血の通わない、凝り固まったものになってしまうだろう。それは他人に押しつける教義に、教派に、宗教になってしまうのだ。

新興宗教の信者諸氏にも、たまには、こういう言葉を聞かせたいものだ。もっとも、信者特有の曲がったレンズを通って、言葉が屈曲してしまうのがオチなのだが・・・(笑)。

>真理探究の目的で組織を創立するならば、組織は松葉杖となり、弱点となり、束縛となって、人をかたわにし、かの絶対かつ無制約的な「真理」を自分自身で発見するために必要な、その人の独自性の成長と確立を阻害するものになってしまうに違いない。

クリシュナムルティは、自分の率いる教団が、信者諸氏の松葉杖となっていることをヒシヒシと感じていた。だから、解散を決意したのだろう。

とはいっても、組織が松葉杖になっていることを、信者が自覚するのは難しい。以前、ネット上で某教団の信者が、「ウチの団体には、ろくな人間がいない」と愚痴っているのを見て、「だったら、某教団の信者をヤメれば?」と言ったところ、「いや、悪いのは団体の職員なのだ。OO先生の教えは、それはそれは素晴らしいものなのだ」と言ってたものだ・・・(笑)。

まあ、信者には信者の論理があり、信念世界がある。こればっかりは、仕方がない。

もちろん、宗教団体の存在自体が悪だとは、決め付けすぎだろう。人によっては、組織に所属することが、真理を探究する上でプラスになることもあるはずだ。かつては、人々を救済する受け皿として、宗教団体の存在意義もあったに違いない。

でも、クリシュナムルティの場合は、本当に組織を解散してしまった。フリーの宗教家になったKは、90歳で死ぬまで、世界各国を説法して回ることとなる。そういう人がいたということを、知っておくのも悪くない。
 
最近は、宗教団体が嫌われる傾向にあり、どこの団体も信者離れに苦しんでいるという。これには、インターネットの普及による影響も大きい。ありがたや・・・。合掌。
 
(引用部分は、大野純一訳『クリシュナムルティの瞑想録』より)

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反逆のススメ ~ クリシュナムルティ

2010年04月17日 | クリシュナムルティ
 
クリシュナムルティといえば、「自由への飛翔」とか、「自由への反逆」といった言葉が付いてくることが多い。Kといえば「自由」、そして「反逆」・・・。
  
「子供たちとの対話」でも、それは例外ではなかった。相手は子供だというのに、いつもと同様、「絶えず反逆する人になりなさい」と説く、クリシュナムルティ。これには、子供もビックリだろう。でも、それは仕方がない。
 
>なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。
 
もちろん、クリシュナムルティが言ってたのは、「資本主義を打倒しよう」とか、「改革に反対する者は抵抗勢力だ」とか、そういうことではなかった。今の社会体制に反逆して立ち上がり、革命を起こしたところで、形を変えた社会体制ができるだけ。Kは、それを「監獄の中での、囚人の反乱」と呼ぶ。
 
>社会を少し良くしたり、一定の改革をもたらすために社会の中で反逆するのは、監獄の壁の中での生活を改善するために、囚人が反逆するのに似ています。そのような反逆は、まったく反逆ではありません。それは、ただの反乱です。  

クリシュナムルティが説いていたのは、監獄の中で反乱を起こすことではなかった。重要なのは、監獄から外に出ること。それは、この歪んだ人類社会からの、離脱のススメ。

地球の社会では、価値観が倒錯している。こんなところで、皆と一緒に夢中で生きていたのでは、狂気の渦に巻き込まれるだけだ。正気を維持するためには、そこから一歩でもニ歩でも離れる必要がある。  
 
>理解から生まれた反逆とは、個人が社会から離れることであり、それは創造的な革命です。
 
素朴なインドの子供たちも、学校で、家庭で、その他のところで、徐々に既成の価値観を刷り込まれていく。価値観を刷り込まれた精神は、もはや自由ではない。「OOにならなければ」、「XXのような人間でありたい」・・・といった信念は、人をゆっくりと、着実に縛っていく。
   
もちろん、「社会への反逆」といっても、森の中にこもって隠遁生活を送るというのは無理がある。本当は、日常生活にわずらわされずに、精神世界の探求その他に没頭するのが理想なのだが、せちがらい現代社会でそれを実現するのは難しい。

重要なのは、あらゆる信念の刷り込みから自由になり、精神的な自由へと飛翔すること。これが、なかなか出来そうで出来ない・・・。
  
(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)


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心を静める瞑想 ~ クリシュナムルティ

2010年04月10日 | クリシュナムルティ
 
クリシュナムルティが、霊的なヴィジョンについて語ることは少なかった。あるにはあるのだが、若い頃の話が多い。その代わり、クリシュナムルティの言葉は、インドやカリフォルニアの自然に対する、鋭敏な観察に満ちている。それは、散文詩のように美しい。
 
なぜ、これほどまでに自然を観察するのか。それは、意識の中であらゆる思考が静まり、心の中で沈黙しているから。人は、居酒屋で不平不満をグチグチ並べるときのように、頭の中で思考や言葉を垂れ流しているのが普通だ。それが、外界に対する感受性を鈍くしている。クリシュナムルティの場合は、瞑想によって、それを静めていた。内面的に沈黙しているから、その分、外界に対して異様なまでに鋭くなる・・・。
 
過去の記憶や、知識・経験といった、長い人生の中で積もりに積もったホコリを洗い清めて、リフレッシュする。クリシュナムルティいわく、

>乾いた土地への雨はとてつもないものですね。雨は木の葉を洗い清め、大地は生き返ります。そして、木が雨に洗われるように、私たちはみんな、心を完全に洗い清めるべきだと思うのです。なぜなら、心には幾多の世紀の塵や、知識、経験と言われるものの埃(ほこり)があまりに重く積もっているからです。

記憶からは、思考が生まれる。クリシュナムルティによれば、思考と記憶は切っても切れない関係。そもそも、思考とは、「記憶との応答」だという。風に飛ばされた塵やホコリが空中に舞い上がるように、「思考」は、意識の中に降り積もった「記憶」という死の灰を掘り返してかき回し、意識の中に舞い上がらせる。思考には、新鮮さのカケラもない。それは、記憶という死の灰が、形を変えたものにすぎない。

でも、クリシュナムルティは「思考を停止せよ」とは言わない。そもそも、思考とは、止めようとしても、止められるものではないから。それは意識の中で、自然に起きてくる。それは、自然界で風が吹いたり、雨が降ったりするのと一緒・・・。

クリシュナムルティが勧めるのは、「思考を観察せよ」ということ。いくら、頭の中の言葉を止めて、心を静めたといっても、「思考」は自然に起きてくる。その「思考」の動きを観察せよと言うのだ。自然界では、風が吹いたり、雨が降ったりしている。それと同じように、意識の中では、思考が巻き起こったり、記憶が降り積もったりしている。外では自然の動きを観察し、内では思考の動きを観察する。それが、クリシュナムルティの瞑想。

Kは、子供たちにも「思考の観察」を勧める。と言っても、難しい話ではない。静かに坐って、心の中で起きてくる思考の流れを眺めるだけだ。

>君たちは自分ひとりで散歩に出かけることがありますか。一人で出かけ、木陰に坐ることはとても重要です・・・。本も持たず、友人もなく、自分一人で、です。そして、木の葉が散るのを観察し、川のさざなみや猟師の歌を聴き、鳥が飛ぶのや、心の空間で自分の思考が互いに追いかけあい、跳んでいるのを眺めるのです。一人でいて、これらのものを眺めることができるなら、そのとき、君はとてつもない富を発見するでしょう。

でも、思考を観察するのは、意外に大変な作業だ。なぜかというと、思考は次から次へとドンドン起きてきて、あまりにも早く流れていくから。慣れないうちは、ついていくのが大変。「やってみれば、大変なのが分かる」と、Kも言っていた。

>やってごらんなさい。自分の思考のあらゆる過程に気づいていることが、どんなに困難なのか、わかるでしょう。なぜなら、思考は次々と、こんなにも早く積もっていくからです。
 
「やってみれば分かる」という、思考の観察の難しさ。でも、そこをあえて、取り組んでみる。もちろん、無理はせず、できる範囲で・・・。そうすれば、思考の流れがだんだん緩やかになってくるという。

>そのとき、あなたは、思考が緩やかになり、それらを眺められることに気づくでしょう。この、思考が緩やかになることと、あらゆる思考を検討するということが、瞑想の過程です。

このような瞑想のプロセスを経ることにより、「落ち着かない思考の格闘場」と化していた心の中が、沈黙し、静まり返ってくる。すると、今までは鈍くなっていた意識が、急に生き生きと、鋭敏になってくる。鋭敏になった意識の中で、「真理」が生じてくる。

>あらゆる思考に気づいていることにより、心がとても静まって、完全に静止することに気づくでしょう。そのときは欲求も衝動も、どんな形の恐怖もありません。そして、この静けさの中に真実のものが生じてきます。
  
心の静寂こそ、覚醒への第一歩。・・・とは言っても、はたして、落ち着きがないインドの子供たちに、この瞑想が実行できたのでしょうか?(笑)。


(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)

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精神も老化する ~  クリシュナムルティ

2010年04月09日 | クリシュナムルティ
 
道具や機械も、長く使っていれば、やがて古くなってくる。見た目も古くなるが、アチコチにガタがきて、使いにくくなってくる。肉体も、これに同じだ。長く生きていれば、見た目が古くなるのはもちろん、アチコチに支障を来たすようになるのは、ご存知のとおり。
 
肉体だけではない。精神もまた、老化する。子供の頃の、生き生きした精神を、大人になっても、老人になっても維持する人は少ない。

なぜ、人間の精神は老化するのだろうか。クリシュナムルティは、子供たちに問う。

>君たちは、人々が老いるにつれて、生の喜びをすべてなくしてしまうようなのは、なぜなのかと思ったことはありますか。現在、若い君たちのほとんどは、かなり幸せです。・・・生を自然に楽に受け入れて、物事を明るく幸せに見ているのです。 

>そして、老いるにつれて、はるかなもの、より大いなる意義を持つものの、その喜ばしい暗示を失ってしまうようなのは、なぜでしょう。私たちのこんなに多くが、いわゆる成熟をとげるにつれて、なぜ喜び、美しさ、大空とすばらしい大地に対して、鈍く鈍感になったのでしょう。

クリシュナムルティ自身は、90歳で死去するまで、鈍く鈍感にはならなかった。「瞑想録」を初めとして、どの本や講演も、自然に対する鋭い観察にあふれている。特に、インドの自然を見つめたエッセイの数々は、散文詩のように美しい。

Kによれば、精神が老けこんでくるのは、「過去の記憶」のせいだという。

部屋も、掃除しないでいれば、だんだん塵や埃が積もってくる。同じように、人間の精神にもまた、長く生きるにつれて、「記憶」という塵や埃が積もってくる。

「記憶」は、すでに死んで灰になっている。もしくは、意識の中に沈殿して、腐敗し、腐臭を放っている。にもかかわらず、人は記憶に縛られ続ける。

とはいっても、子供の場合は、まだ「記憶」という死の灰が、それほど積もっていない。それがウズ高く積もっているのは、大人だろう。でも、子供だって、「記憶」がゼロではない。すでに、それは積もり始めている。
 
「記憶」が溜まりに溜まってくれば、意識はそれで一杯になってくる。だんだん、重くなって身動きとれなくなる。こうして、新鮮でハツラツとしていた子供の精神は、老化し、動きがなくなっていく・・・。それを防ぐためには、「記憶」を掃除して、キレイにしなければならない。クリシュナムルティは、それを「毎日、死ぬ」ことと表現する。死んで、すべての記憶をリセット。そして、再生する。

「過去の記憶のクリーニング」といえば、ハワイの秘法、「ホ・オポノポノ」を連想するところだろう(笑)。ホ・オポノポノの場合は、「四つの魔法の言葉」を唱えて、せっせと記憶をクリーニングする。ここは、ハワイアン・スピリチュアルの出番か!?
  
もちろん、クリシュナムルティの場合は、「過去の記憶をクリーニングする」とは言わない。「毎日、死になさい」というのが、Kの教え。これは「子供たちとの対話」だってのに、子供に向かって「毎日、死になさい」ってのも凄い話だが、そこがKのKたるゆえん・・・(笑)。 

(引用部分は、J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)
 

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子供たちとの対話 ~ クリシュナムルティ

2010年04月08日 | クリシュナムルティ
   
クリシュナムルティに、「子供たちの対話」という本がある。日本での人気は今ひとつなのだが (そもそも、K自身の認知度が、日本ではイマイチ・・・)、アメリカではKの代表作として、最も親しまれているという。

世界各地で、一種の学派(?)を形成するに至った、シュタイナー・スクール。教育者でもあったルドルフ・シュタイナーが、独特の教育観を体現した学校として有名だ。「美味しんぼ」の雁屋哲氏は、わざわざ子供たちをオーストラリアのシュタイナー学校に留学させたという。

それに比べて、クリシュナムルティ・スクールは、世界に広がるには至らなかった。インドに数校、後はイギリスとアメリカにあるくらいだ。でも、関係者の評価は高い。こんな風に、規模を追わないところもまた、クリシュナムルティらしさと言える。

そんなインドのクリシュナムルティ・スクールでの、子供たちやPTA諸氏とのKの対話を収録した本。それが、「子供たちとの対話」。

Kの著書は一般に、難解だという人が少なくない。哲学者でもあるシュタイナーとは違って、難しい言葉が使われているわけではないのだが、Kの言いたいことが何なのかは、シュタイナーと同じくらい分かりにくい(笑)。筆者に言わせれば、難解というより、「読んでも頭に残らない」という方が当たっているように思う。もともと、頭に残すために読むようなものではないので、こればっかりは仕方がないのだが・・・。そんな中では、「子供たちとの対話」が、最も入りやすい。

子供からの質問は、ときに素朴で、ときに屈折している。屈折した質問が出たときのKは、「小さな子供が、こんなことを質問する世の中だ・・・」と、世間に批判を向けている。でも、それは仕方がないだろう。こんなに歪んだ世の中では、いくら子供でも、屈折するのは仕方がない。筆者が小学生の頃に書いていた作文なども、本ブログの文章とすでに似たような雰囲気だった(笑)。

「魂は、死後も残るのでしょうか?」といった、おなじみの形而上的な質問もあるのだが、それに対してダイレクトに回答を与えず、考えさせるように仕向けるのが、クリシュナムルティ流。相手が子供とはいえ、Kが説いている内容は、いつもと変わらない。「思考を観察せよ」というのを、子供たちにも勧めている。

>君たちは目を閉じて、とても静かに坐り、自分の思考の働きを眺めたことがありますか。自分の心が働いているのを眺めるというか、心が作動している自分を眺め、自分の思考は何か、感情は何か、どのように提案に応答し、新しい考えに反応するのかを、ただ見たことがありますか。やってみたことがありますか。やったことがなければ、君たちはとても多くのことを逃しています。
  
という具合に、さりげなく語られているとはいえ、実は大変な奥義だったりする。もっとも、聴いている子供たちには、これが奥義だということなど、知る由もなかったでしょうが・・・。
 
(J.クリシュナムルティ著「子供たちとの対話」 藤仲孝司訳 平河出版社 mind books)


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クリシュナムルティの死

2009年10月30日 | クリシュナムルティ
   
「現代において、最もブッダの思想に近い人物」といえば、ジドゥ・クリシュナムルティだろう。
 
そのクリシュナムルティ(K)は、死を目前にして、このような質問を受けた。

「クリシュナムルティ自身は、死んだらどうなるのでしょうか?」。

これは、興味ぶかい質問だ。

それに対するKの答は、「それは、なくなってしまうのです。・・・あの広大なる、空(エンプティネス)を知りさえすればいいのです」というものだった。

そうか、そうだったのか。やはり、「クリシュナムルティ」という存在そのものが、なくなってしまうのか・・・(泣)。

ところが、数時間後、Kはこう語ったという。

「私が言いたかったのは、こういうことです。つまり、七十年間あの超エネルギー、いや、あの膨大なエネルギー、巨大な叡智・・・が、この肉体を使ってきたということです。いかにとてつもなく大きなエネルギーと叡智がこの肉体を通過していたか、人々はわかっていないようです。それは12気筒エンジン並だったのです。

そして七十年、相当に長い期間・・・経った今、肉体はもはや、それに耐えられないのです。何がこの肉体・・・非常に注意深く準備され、保護されつづけなければありえなかった、この肉体・・・を通過していたか、誰も理解できないのです。誰も。(中略)

インド人たちはこれについて、多くのバカげた迷信を持っています・・・肉体はなくなるが、あなた(の霊魂)は残るといったナンセンスを。何百年経った後にも、あなた方はこれと同じような別の肉体、あの至高の英知の働きの場となるような肉体を見つけることはないでしょう。二度とそのようなものに会うことはないでしょう。彼が去る時、それは去るのです。

あの意識、あの状態の後にはいかなる意識も残らないのです。それに触れることができるというふりをしたり、そんなふうに想像しようとする人がいるかもしれません。もしも彼らが教えを生きれば、それなりの可能性が開けてくるかもしれません。が、誰もそうしませんでした。誰も。以上です。」

(メアリー・ルティエンス著 『クリシュナムルティの生と死』より)

 
Kは、すでにKではなかった。20歳かそこらで、すでにいなくなっていた。代わりに、「12気筒エンジン並のパワーを持つ、巨大なエネルギー、巨大な叡智」が、Kの肉体を酷使していたのである。

Kの肉体の死とともに、それは去る。あとに残るものは、何もない。

おそらく、ゴータマ・ブッダもそうだったのだろう。 

個別存在としての、自我の終焉。残るものは、大いなるすべて・・・。 
 
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過去を断ち切れ ~ クリシュナムルティ

2009年01月24日 | クリシュナムルティ
クリシュナムルティは、いつも「思考」を槍玉に上げていた。「思考を終わらせよ」というのだ。

ということは、何も考えなければいいのか。どうやら、そういうわけでもないらしい。

「ああでもない、こうでもない・・・」と、頭の中をいつも渦巻いている考えを止めて、頭をカラッポにする。しばらく何も考えないでいると、頭がボーっとしてくる。とりあえず、ボーッとしているとはいえ、思考を停止することには成功だ。

でも、クリシュナムルティはこの状態を「ぼんやりした無為」と呼び、これでもダメだと言うから厄介だ。

ならば、どうせよと言うのか??

この点についての質疑応答で、Kはこう語っている。
 
いわく、

>質問者 : 思考を終わらせるということによって、あなたが本当は何を意味しているのか、よく分からないのですが。・・・これに対して、あなたはそのどちらも(註:思考も、ぼんやりした無為も)超えなさいとおっしゃっている。これはどういう意味なのですか?

>K : ごく簡単に言えば、思考は記憶の応答であり、過去なのです。思考が働くとき、記憶、経験、知識、機械として働いているのはこの過去なのです。思考が機能しているとき、それは過去であり、それゆえ少しも刻々の新しい生はないのです。

・・・すべての連続性は思考です。そして連続性があるときは、何ら新しいものはないのです。それがいかに重要かおわかりでしょうか?それは実は死活問題なのです。あなたは過去に生きるか、またはまったく違った生き方をするかのどちらかなのです。それが要点のすべてです。

・・・後にKは、「思考は腐敗する」および「思考は腐敗物である」とまで言うようになった。

(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)


ここで、Kは、「思考」とは「過去の記憶の応答」であり、「過去からの連続物」であると、明快に定義している。

過去の記憶こそ、あらゆる思考の源泉。

思考するとき、人は過去の記憶にしばられている。それはすでに、古くなって腐敗しているというのに・・・。

つまり、「思考を終わらせる」とは、過去の記憶との応答を止めること。過去との連続性を断ち切ることだったのだ・・・。


未来を断ち切れ ~ クリシュナムルティ

2009年01月24日 | クリシュナムルティ
宗教、麻薬、戦争、殺人・・・。地上は、ネガティブな要素にあふれている。

何が、こういったものを生み出しているのだろうか。

クリシュナムルティによれば、それらを生み出しているのは、「恐怖」だ。

人は恐怖から逃れるために、宗教や麻薬にすがる。恐怖にかられて、戦争や殺人を起こす。

恐怖こそ、あらゆるネガティブなものの源泉。

では、何が恐怖を引き起こしているのか。

いわく、


>Kはその年のザーネン集会での彼の講話の一つを、彼のいわゆる非常にマジメな事柄 ~心理的恐怖からの全面的自由はありうるだろうか?~ にあてた。

「もし人が恐怖から自由になりたいのなら」、彼は指摘した。

「人は時間から自由にならねばなりません。もし時間がなかったら、人は何の恐怖も抱かないでしょう。それがお分かりでしょうか? もしも明日がなく、今だけしかなかったら、思考の運動としての恐怖は終わるのです」。

恐怖は安定願望から起こる。

「もしも完全な心理的安定があれば、恐怖はありません」。

(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)


人間たるもの、一寸先は闇だ。

明日は、どうなるか分からない。だから、怖くなる。

たいていの場合、それは漠然とした不安。

もしも、「今」しかなかったら・・・怖れるものなど、何もないだろう。

恐怖から解放されたかったら、未来との連続性を断ち切るしかない。

明日は、明日の風が吹く・・・。


死にながら、生きていけ ~ クリシュナムルティ

2009年01月24日 | クリシュナムルティ
    
クリシュナムルティは、講演で「死とともに生きる」という話をよくしていた。

つまり、「死にながら、生きていけ」というのだ。

いわく、

>「日々死ぬこと、あらゆるものに対して毎分ごとに死ぬこと、数多くの昨日に大して、そしてたった今過ぎ去った瞬間に対して死ぬことがいかに必要であることか!

死なしにはいかなる更新もなく、死なしにはいかなる創造もない。過去の主にはそれ自体の連続性を生じさせ、そして昨日の心配事は今日の心配事に新たな活力を与える」

(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)


つまり、「毎日死ね」というのが、Kの教え。

いや、毎日どころではない。「毎分ごとに死ね」というのが、Kの教えだった。

裏を返せば、「毎日、生まれ変われ。いや、毎分ごとに生まれ変われ」ということ。

過去の記憶をすべて消去し、未来への不安をすべて終了してシャットダウン。

そして、再起動。

古い建物を壊して、更地に新しい建物を建てるようなものだ。
常に、徹底したリニューアル。

これを実行すれば、悩みのない人間になる。

ありがたや・・・。合掌。
 

「思考」が神をつくりだした ~ クリシュナムルティ

2009年01月24日 | クリシュナムルティ
  
「神」とは、いったい何者なのだろうか。そもそも、神は存在するのか、しないのか。
 
これは、人類にとって根源的な問いのひとつと言えるでしょう。

一見、答が出そうにない問題に、クリシュナムルティは明確な回答を与えている。

いわく、


>「私たちが想像力で神を作り出したのです。思考が神を考え出したのです。すなわち、私たちが、不幸、絶望、孤独、心配から、神と呼ばれているものをでっち上げたのです。神が自分そっくりに私たちを作ったのではありません。

・・・個人的には、私は何も信じておりません。話し手はただ物ごとにあるがままに、事実にそのまま直面し、あらゆる事実、あらゆる思考、すべての反応の性質に気づくようにしているだけです。

・・・彼はそういったすべてにひたすら気づくようにしているだけなのです。もしもあなたが恐怖や悲嘆から自由であれば、神の必要はないのです」

この講演の後、Kが起立したとき、拍手しないで欲しいという彼の嘆願にもかかわらず、拍手喝采があった。

(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)


もちろん、神を信じるのも自由だ。それは、人それぞれと言えるだろう。

だが、それは思考の産物。人間が作り出したものだということを忘れてはいけない。

まだ目覚めていない人は、そのような観念を必要としている。それなしには生きていけない人々もいるのだから、仕方がない。

だが、目覚めた人には、もはや必要ありません。

「神」という観念に、縛られることなかれ。

汝もまた、信仰を捨て去れ・・・。

合掌。