宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

神の使者

2009年10月31日 | 神の使者
      
長い間、日本の精神世界ファンが待ち望んでいた(?)、「ACIM~奇跡のコース」(A Course IN Miracles)の日本語訳が、来年はいよいよ出るようだ。

もっとも、コアなマニアは、すでに原書で読んでいる。原書を読む趣味がない人は、代わりにゲイリー・レナード著・吉田利子訳、「神の使者」を読めばいい。

「神の使者」では、「奇跡のコース」を読み始めたばかりのゲイリー青年の前に、男女ペアの「使者」たちが登場する。

「ACIM~奇跡のコース」とは、アメリカ人の女性が「J」ことイエス・キリストの言葉を書き留めたとされる、世に名高い精神世界の古典。テキスト・ワークブック・マニュアルの三部から成り、自学自習用として構成されているため、「宗教は好きだが、組織は嫌い」という人にもウケがいい。あのエックハルト・トールも、かつてはこれで自学自習していたようだ。
  
「イエス・キリストの言葉」とはいっても、おなじみの聖書とは大きく異なる。それどころか、「この世界を創造したのは、神ではない」という、聖書と真っ向から対立する思想が展開される。敬虔なクリスチャンが、これを読んだら怒るだろう。もっとも、敬虔なクリスチャンは、この本を読まないかもしれないが(笑)。

ゲイリー青年の前に現れたのは、「奇跡のコース」という名の福音を地上に告げ知らせに来た、神の使者たちだ。彼らは、地球がどれほど最悪な環境なのかを、口を極めて力説する。「こんなにヒドイ世界を、神が創造するはずがない」というのだ。

実際のところ、「神の使者」によれば、世界を創造したのは神ではない。地球だけでなく、宇宙そのものが、そうなのだという。

われわれの宇宙は、正しく創造されてはいない。それは、誤って創造された。

宇宙を誤創造したのは、神ではない。全知全能の神ともあろうお方が、こんなデキ損ないの世界を創造するとは、神に対するボートクだ。では、誰が宇宙を誤創造したのか。

実のところ、それは、われわれ自身のしわざだという。

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大麻は、酒やタバコよりは安全!?

2009年10月30日 | こっくり亭日記
 
AFPニュース



イギリスで、「大麻は、酒やタバコより安全」というレポートが出された。書いたのは、「薬物乱用に関する英政府諮問委員会の委員長をつとめる大学教授」。提出した先は、「キングズ・カレッジ・ロンドンの刑事司法研究センター」というから、シャレで出せるようなものではない。相当な権威があるのは確かだ。

教授によると、身体的・社会的な危害や依存に基づく有害度ランキングは、アルコールがヘロイン、コカイン、バルビツール酸系催眠薬、メタドンに次ぐ第5位。タバコは第9位。大麻、LSD、エクスタシーは、それぞれ11位、14位、18位となっている。

というのも、イギリスでは今年に入って、大麻の危険度が引き上げられた。今までは、精神安定剤や鎮痛剤などと同じレベルの「クラスC」に位置づけられていたのに、危険度が大幅にアップした「クラスB」に引き上げられた。これにより、大麻を使用した人は、最大14 年の禁固刑に、所持が最大5年の禁固刑にそれぞれ引き上げられたという。

「クラスC」へと危険度を引き下げたのは、わずか5年前だった。ようやく、大麻が世間で認められようとしていたのに、数年で逆戻りだ。教授は、「科学的な根拠を無視するばかりか大衆を混乱させている」と、政府を批判している。

教授によると、大麻が「有害」であることには異論がないが、これを使用しても健康上の大きな問題はないらしい。喫煙による肺がんリスクと比較すると、大麻による精神疾患リスクは「比較的小さい」という。

大麻といえば、ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」シリーズで、繰り返し称賛されていたのを思い出す。「大麻を栽培しろ。大麻ほど有用な植物はない・・・」。この言葉は、今も記憶に新しい。

実際のところ、ウォルシュに限らず、精神世界関係者の間では、概して大麻の評価が高い。いわく、麻酔に役立つだけでなく、丈夫な布を作れるし、紙まで作れる。食材としても有用だ。建材にも使える。いわば、大麻ひとつで、衣食住をまかなえるのだ。その上、栽培はきわめて容易。場所を選ばず、荒地にタネをまいても、どんどん育つ。

なんで、これほど有用な植物が、世界各国で違法あつかいされているのか。「大麻の栽培が広がると、困る勢力が妨害しているのだ」という声も根強い。「大麻を栽培されると困る勢力」というのは、世界経済を支配する国際資本、その他もろもろ・・・。
 
それにしても、ここ数年、イギリスでは大麻が「精神安定剤や鎮痛剤と同じレベル」と位置づけられていたということに驚いた。どうなんでしょうか・・・。
  
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捏造か!? ラトビアの巨大隕石衝突

2009年10月30日 | こっくり亭日記


WIRED VISION (動画あり)


「ラトビアで、巨大隕石が衝突した!!」というニュースが、世界を震撼させた。

ラトビアといえば、東欧の「バルト三国」の一角を占める小さな国。そんな国に、隕石が墜落。

燃え盛る炎に包まれた隕石が落ち、直径8メートルの大穴をあけた。クレーターは、火の海だ。youtubeで動画も公開され、騒然となった。

ところが、専門家によると「明らかに捏造だ」ということらしい。

そもそも、地面に落ちるときの隕石が、燃えていることなど、あり得ないんだそうな。隕石が燃えるのは、大気圏に突入するときの、ホンの数秒間。その数秒だけはものすごい高熱になり、表面が溶けて黒くなる。

肝心のクレーターも、「これは、パワーショベルで掘ったものだ」という結論が下された・・・(泣)。

英国を中心に、世界に出現するクロップ・サークルも、「人が作っている」というウワサが絶えない。「たしかに、一部は人が作ったものだ。でも、全部ではない」という見方も根強い。

最近は、中国の宇宙飛行士が船外活動している動画に、「プールの水中で撮影したものだ」という疑いが晴れず、話題になっている。たしかに、真空で活動しているはずの宇宙飛行士の口から、泡がブクブクッと立ち上っていた(笑)。
 
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クリシュナムルティの死

2009年10月30日 | クリシュナムルティ
   
「現代において、最もブッダの思想に近い人物」といえば、ジドゥ・クリシュナムルティだろう。
 
そのクリシュナムルティ(K)は、死を目前にして、このような質問を受けた。

「クリシュナムルティ自身は、死んだらどうなるのでしょうか?」。

これは、興味ぶかい質問だ。

それに対するKの答は、「それは、なくなってしまうのです。・・・あの広大なる、空(エンプティネス)を知りさえすればいいのです」というものだった。

そうか、そうだったのか。やはり、「クリシュナムルティ」という存在そのものが、なくなってしまうのか・・・(泣)。

ところが、数時間後、Kはこう語ったという。

「私が言いたかったのは、こういうことです。つまり、七十年間あの超エネルギー、いや、あの膨大なエネルギー、巨大な叡智・・・が、この肉体を使ってきたということです。いかにとてつもなく大きなエネルギーと叡智がこの肉体を通過していたか、人々はわかっていないようです。それは12気筒エンジン並だったのです。

そして七十年、相当に長い期間・・・経った今、肉体はもはや、それに耐えられないのです。何がこの肉体・・・非常に注意深く準備され、保護されつづけなければありえなかった、この肉体・・・を通過していたか、誰も理解できないのです。誰も。(中略)

インド人たちはこれについて、多くのバカげた迷信を持っています・・・肉体はなくなるが、あなた(の霊魂)は残るといったナンセンスを。何百年経った後にも、あなた方はこれと同じような別の肉体、あの至高の英知の働きの場となるような肉体を見つけることはないでしょう。二度とそのようなものに会うことはないでしょう。彼が去る時、それは去るのです。

あの意識、あの状態の後にはいかなる意識も残らないのです。それに触れることができるというふりをしたり、そんなふうに想像しようとする人がいるかもしれません。もしも彼らが教えを生きれば、それなりの可能性が開けてくるかもしれません。が、誰もそうしませんでした。誰も。以上です。」

(メアリー・ルティエンス著 『クリシュナムルティの生と死』より)

 
Kは、すでにKではなかった。20歳かそこらで、すでにいなくなっていた。代わりに、「12気筒エンジン並のパワーを持つ、巨大なエネルギー、巨大な叡智」が、Kの肉体を酷使していたのである。

Kの肉体の死とともに、それは去る。あとに残るものは、何もない。

おそらく、ゴータマ・ブッダもそうだったのだろう。 

個別存在としての、自我の終焉。残るものは、大いなるすべて・・・。 
 
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輪廻が終わった後

2009年10月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
  
「輪廻転生の終焉」の話で、気になることといえば、「輪廻転生が終わった後は、どうなるのでしょうか?」ということだろう。

どこに行くんでしょうか?

魂そのものが、なくなっちゃうんでしょうか!?

もちろん、釈尊の生前にも、このような質問をした人はいた。これに対する釈尊の回答は、例によって、「輪廻転生が終わった人は、生きているわけでもなく、死んでいるわけでもなく、生きていると同時に死んでいるというわけでもなく、生きていないと同時に死んでいないというわけでもなく・・・」といった、独特の論理。どうにも、明確なイメージは浮かんでこない。
 
だが、実際のところ、それでいいのである。

そもそも、解脱した人は、「根本的な生存欲」をとことん滅却してしまったのだ。そんな人が、「私は、死んだ後にどうなるのでしょうか」というようなことを、気にするはずもない。
 
逆にいえば、「死後の行く末」 (あの世とか、生まれ変わりとか・・・) が気になるような人は、まだ卒業する時期ではないのかもしれない。この地球生命圏、もしくは、それと似たような環境で、もうしばらく堂々巡りのグルグル輪廻を続けてくださいな・・・ということになるだろう。
 
でも、少なくとも、「存在しなくなる」というわけではないので、安心してもらっていい(笑)。

そもそも、解脱した人は、「過去から未来に向かって時間が流れている世界」から、完全に外に出てしまったのだ。解脱した人にとって、時間は意味をなさない。時間そのものがないのに、「生まれる前」や「死んだ後」のことなど、気にする必要がないのである。「いま、ここ」だけを、気にしていればよろしい。

解脱した人は、「現在ただ今、この一瞬」にしか存在しない。でも、「この一瞬」が永遠に存在している。

「人は、死ねば肉体とともに消滅する。後には、何も残らない」などという信念にとらわれている人は、底知れない虚無へと落ち込んでいく。そんな考え方は、問題外。

かといって、「ボクは、この人生が終わった後も、永遠の輪廻転生を続けて、自分の魂を磨いていくぞ」などという、自我の信念にとらわれている人もまた、迷いから抜けるにはホド遠い。それは、覚醒に役立たない。かえって、眠りを深める。

「無我」こそが、お釈迦さまの教え。我は無い。ただ、全体あるのみ。それは、自我の終焉。そして、分離の終焉。バラバラに分かれた世界が終わり、人は、小さな自分を超えて、大いなるすべてへと回帰する。

ありがたや・・・・・合掌。 
   
 
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盲目的な意志

2009年10月30日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

人間を、輪廻という名の強制労働へと縛りつける、「根本的な生存欲」。

十九世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは、これを「盲目的な意志」と呼んだ。

ショーペンハウアーがみずから「わたくしの主著」と呼んだ「意志と表象の世界」は、体裁こそ西洋哲学だが、思想の中身はインドそのもの。

彼は、万生万物の「盲目的な、生きんとする意志」こそが、この仮象の世界を成り立たせる根源と見た。

この有為転変の世界で生きることは、苦しい。たとえ一時的には楽しくても、最終的には必ず苦しい。

芸術によって、その苦しみを癒すことはできる。だが、その効果は長続きしない・・・。

「解脱」を説いたショーペンハウアー。「生きんとする意志」の滅却こそが、最終的な解決だ。
 
西洋では「厭世主義者」のレッテルを貼られてしまったが、影響は大きかった。現代思想の開祖・ウィトゲンシュタインが、若い頃に読み込んだ哲学書は、「意志と表象の世界」だけだったという。
  
大哲学者たちも、みんな、ブッダの思想に魅了されてきた。東洋の叡智が、西洋に流れ込んだ近代。人類覚醒のプロセスは、この頃から、ゆっくりと始まっていたのだろう。

ありがたや・・・・・合掌。
 
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現代人の解脱

2009年10月29日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
    
解脱。つまり、覚醒して輪廻から離脱すること。そのためには、まず、人生や世界に対して無関心になる必要がある。それも、「究極の無関心」が必要だ。
  
この世界は幻想であり、夢である。目を覚ませば、夢からも覚める・・・。
 
まずは、「自分は今、夢を見ている」と自覚することから始める。でも、それは難しい。夜中に見ている夢の中でも、われわれはよく、誰かに追いかけられたりして、追い詰められることがある。それはそれで、実にシリアスな状況だ。でも、目を覚ませば、その状況は消滅する。「あ・・・、あれは夢だったのか・・・」という感じ。
 
もちろん、それだけでは足りない。トータルな意識レベルを高めることも重要だろう。
  
ゴータマ・ブッダ釈尊は、「思考を止める瞑想」と、「欲望を抑える苦行」によって、至高の意識レベルに到達した。結局のところ、この2つが、ブッダを史上最高の聖者へと押し上げたのである。

とはいっても、現代のわれわれが、それを真似するわけにもいかない。それに、真似するべきでもない。

現代は、多くの人が覚醒しなければいけない時代。覚醒するために、これほど困難な道を通らなければならないのでは、それが達成されないではないか。

現代人の意識は、古代人のそれに比べて、大幅に高まっている。この、地球人類の意識進化の流れに乗ることによって、われわれは、ブッダよりもずっと容易に、覚醒へと至ることができる・・・はずだ(笑)

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生存欲の克服

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

輪廻の究極原因は、「根本的な生存欲」であった。だが、それはあまりにも意識の奥にあり、誰にも自覚できない。これこそ、「無明」(何も分からないこと)の本質。

「ならば、根本的な生存欲を克服しようじゃないか」というのが自然な流れなのだが、これは人間としての自然な感情と、あまりにも鋭く対立する。

「もう、生きていきたくない」という時点で、十分に人情に反するのだが、この問題はそこにとどまらない。

というのも、ここでいう「生存欲」とは、「現世への執着」だけを意味するわけではない。死後に、天国や地獄で再生することを含む。

つまり、「根本的な生存欲を克服する」というのは、単に「ボクはもう生きていきたくない」というような、生易しいものではないということだ。それは、「もう二度と再生したくない」ということ。「ボクやアナタ」というような、「個我」としての終焉を意味する。

世間一般の価値観からすれば、これは極めて後ろ向きな発想だ。それどころか、ありとあらゆる前向きな発想と、真っ向から対立する。いわば、純度100%の、純粋に後ろ向きな発想なのだ。

例えば、今の世の中では、「自殺者が多い」というのが大問題になっている。しかし、上記の考え方に立てば、「もう生きていきたくない」と思うのは、解脱への第一歩(笑)。自殺することには、特に問題ない。

ただし、自殺したところで、問題は解決されないのも事実である。というのも、多くの場合、ウツ病になって自殺するのは、「もっと良い人生を送りたい」という気持ちの裏返しだからだ。それが満たされないから、反動で絶望するのである。「根本的な生存欲の克服」には、まったくホド遠い。死後はどこか別の世界に再生し、その後、また同じような環境に戻されるのがオチだろう。(それにしたって、自殺は良くないことだという考え方が、仏教にはまったく見られないことに変わりはない)。

もちろん、「ポジティブ・シンキングで、アナタの人生はどんどん良くなります」というような、現世の人生に対して前向きな考え方とは、まったく相容れない。

それだけでなく、「ボクは永遠の輪廻転生で魂修行して、意識を進化させていくぞ」というような、スピリチュアルに前向きな考え方も、「根本的な生存欲の克服」には、非常にジャマになる。釈尊がそういう言葉を一切、口に出さなかったのは、そのためだ。「今までの転生は、良い経験になりましたね」とすら言わない。「輪廻を否定している」と言われる所以である。

単なる「厭世観」とも、また違う。というのも、「こんな世の中はもう嫌だ」というのは、多くの場合、「もっと良い世の中で生きていきたい」という気持ちの裏返し。「生き残りたい」という本能の克服には、ホド遠い。

つまり、人生や世界に対して、嫌いになったり、ひっくり返したいと思うようじゃ、まだ甘いのである。

そうではなくて、人生や世界に対して、無関心にならなければならない。

徹底的な、無関心。どうやら、これが解脱へのカギだと言えそうだ。

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根本的な生存欲

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
苦行に励んでいたゴータマ・ブッダが、スジャータの乳粥を飲み干して「苦楽中道」の真理に目覚めた、というのは、あまりにも有名なエピソードだ。故郷カピラヴァーストでの、楽しい王家の生活。インドの山奥での、苦しい修行の日々。「真実は、その中間にある」というわけだ。
 
実際のところ、苦行には高い効果がある。欲望を抑えるために、これほど有効なものは他にない。

ある意味では、ブッダは、後々までも弟子に一種の苦行をやらせていたと言える。お椀を持ち、乞食をして回る托鉢(タクハツ)行も、一種の苦行ではある。これは今でも、お坊さんがやっているのをよく見かける。他にも、わざわざ墓場に行って美女の死体を見せたりとか。弟子の多くは、普通の人間だ。「がんばって修行するぞ」とは思っているものの、本当はおいしいものを食べ、美女とたわむれて人生を楽しみたいというのが本音。そういう人には、まず、「人生は楽しくないのだ」ということから教えなきゃいけない(笑)。

もっとも、修行期間中のブッダがやっていた苦行は、それとは趣旨が異なる。これは、「苦」を徹底的に体験すること、それ自体を目的とした苦行だ。ブッダは、これによって解脱することを、目指したのだが、それでは果たせなかった。それは、何が理由だったのだろうか。
 
それは、「苦行によって欲望を抑えることはできても、欲望をなくすことまではできない」というのが理由だったようだ。例えて言えば、よくカゼをひく人が、そのたびにカゼ薬を飲むような対症療法。カゼをひかないようにするためには、それでは足りない。体質そのものを変えていく、長期的な滋養強壮の取り組みが不可欠だ。結局、「欲望は、元から絶たなきゃダメ」ということなのだろう。
 
当時、インドの修行界を席巻していた「思考を止める瞑想」と「欲望を抑える苦行」を、2つとも極限まで極めた、ゴータマブッダ釈尊。結局、2つとも、欲望を一時的になくすことや、欲望を抑えることはできても、欲望そのものをなくすまでには至らない。ゴータマは、そういう結論に達した。

この2つによって、意識を高めることはできる。人間としては、最高のレベルまで行ける。だが、人間の域を超えるには、何かが足りない・・・。
  
ここで釈尊が選んだ道は、瞑想しつつ、自分自身の心、というより、自分という存在そのものを徹底的に観察することだった。単に、思考を止めて精神集中するだけではない。徹底的な、観察の瞑想だ。ここでついに、輪廻思想史上に残る、空前の大発見が得られた。
 
「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある」

・・・というのが、天才・ヤージュニャヴァルキヤによって確立された、輪廻転生の定式。だが、なんと、さらにその奥があった。つまり、欲望が根本的な原因ではない。その欲望には、さらに原因があるというのだ。

それは、「根本的な生存欲」である。
 
地球は、サバイバルゲームの世界だ。人間はもちろん、動物や植物も、生き残るために必死。激しい食い合いをしている肉食動物は分かりやすい例だが、平和に見える植物だって、実は厳しい陣取り合戦を続けているのだ。そんな地球環境で、無数の輪廻転生を経てきた人間には、「生き残りたい」という根本的な本能が刷り込まれている。それは、あまりにも意識の深いところにあるため、だれも自覚していない。
 
食欲や性欲も、「生き残りたい」、「子孫を残したい」・・・という、「根本的な生存欲」が原因となって生じる。

ついに、ゴータマ・ブッダは見抜いた。

「輪廻転生の原因は、業にある。業の原因は、欲望にある。欲望の原因は、根本的な生存欲にある」。

これが新たなる、輪廻転生の定式。輪廻転生における、原因と結果の法則だ。

2千数百年も昔、古代のインドでひっそりと発見された、輪廻の秘密。奇しくも、現代のアメリカを中心とするスピリチュアル界で「輪廻転生からの卒業」がクローズアップされる中、今こそ学ぶべき東洋の知恵と言える。この2つを結び付けられるポジションにいるのは、日本の精神世界ファンしかいない(笑)
  
そうなると、「では、根本的な生存欲をなくしましょう」ということになるのが、自然な流れだろう。だが、これは、世間の価値観とは真っ向から対立する。というより、人間としての自然な気持ちと、これほど対立する考えは他にない・・・。
 
 
(参考文献 : 宮元啓一著「ブッダが考えたこと」)
  
 
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ブッダの苦行

2009年10月28日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業

瞑想修行で、信じがたい才能を存分に見せつけたゴータマ・ブッダ。たちまち、「一切の思考や感情をストップする瞑想」をマスターし、至高なる無の境地に到達した。だが、それで満足するゴータマではなかった。高名なる師匠たちからの、「ボクと一緒に弟子たちを率いていこうよ」という申し出を断り、さらなる求道へと旅立ってしまった。

いったい、ゴータマは何が不満だったのか。

実のところ、「思考を止める瞑想」に対する不満とは、「効果が長続きしない」というところにあった。たしかに、瞑想している間は、無念無想となる。その間は、欲望が起きてこない。したがって、業(ごう、カルマ)も生じることがない。

でも、瞑想が終わって日常生活に戻ったら、無念無想の状態を続けるわけにいかない。それでは、生活に支障を来たすことになる。そうすると、どうしても欲望は起きてくる。これでは、根本原因を断ち切ったことにならないじゃないか・・・と、ゴータマ・ブッダは考えたらしい。

もちろん、だからといって「思考を止める瞑想」に意義がないわけではない。少なくとも瞑想している間は、たしかに過去の記憶や、未来の不安から解放され、現在の一瞬に集中できる。至高の境地に至るためには、これが欠かせない。あくまでも、「それだけでは、(解脱するには)足りない」というだけ。

「思考を止める」というのは、古代の流行にとどまらず、現代に至るまでインドの精神世界の伝統となってきた。インド人の導師の話では、必ずといっていいほど言及される。ブッダもそうだし、クリシュナムルティもそうだ。
 
さて、ゴータマが瞑想修行の次に目をつけたのは、苦行(くぎょう)である。なんといっても、瞑想と苦行が、当時の二大流行だ。2つとも、「欲望の克服」を目的としているという点では同じなのだが、その手段がおおいに異なる。

「苦行」の道を選んだ人々は、徹底した禁欲がポリシー。食欲・性欲・睡眠欲・・・。自らの肉体をイジメぬき、極端な禁欲で心を鍛え、じっとガマンの日々を送る。これによって、欲望をシャットアウトしようというのだ。いわば、力ずくで欲望を押さえ込む道である。

彼らの辞書に、「ほどほどに」という言葉はなかった。彼らは、徹底的に苦行した。「ここまでやるか」とばかりに苦行した。何年間も立ちっ放しですごしたり、針の寝床に寝たり、ゴロゴロ転がって移動したり・・・。
 
五人の修行仲間(五比丘)とともに、ゴータマ・ブッダは苦行に打ち込んだ。とくに熱心に行ったのは、断食行と止息行だという。
 
モーレツな断食で、肉は落ち、骨と皮ばかりにやせ細ったゴータマ。顔は、すさまじい形相だ。
 
あるとき、ずっと息を止めていたゴータマは、仮死状態に陥った。神々からは、「ゴータマは死んだ」と言われた・・・(泣)。

六年間、徹底的に取り組んだ苦行。これによって、ゴータマ・ブッダの心身はこの上なく清澄になり、大半の欲望を抑え込めるようになった。もはや、どこから見ても、堂々たる聖者。うっすらと後光が差している。
 
だが、ゴータマ・ブッダは気づいてしまった。たしかに、苦行によって、欲望を押さえ込めるようになった。だが、欲望がなくなったわけではない。次々に起きてくる欲望を、次々に抑え込む。これじゃ、モグラ叩きと一緒。欲望を、元から断ち切るにはホド遠い・・・。

そんなある日、村娘スジャータが布施した乳粥を、受け取ったゴータマ。これを飲み干すのは、苦行の道から降りることを意味する。修行仲間からは、「ゴータマは堕落した」と言われるだろう。

ゴータマ・ブッダは、乳粥をググッと飲み干した。長い苦行の日々は終わった。これからは、「苦楽中道」でいくことにしたのである。
  
結論 : 苦行して欲望を抑え込んだだけでは、解脱できない。

 
(参考文献 : 宮元啓一著『ブッダが考えたこと』) 

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