宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

オイカイワタチ

2012年08月25日 | オイカイワタチ
   
「ワンダラー」というのは、地球に転生してきた宇宙人のこと。身体については、普通の地球人と何も変わらない。でも、魂が宇宙人。
 
「現在の地球では、ワンダラーが増えてきた」ということが、精神世界関係者の間でカナリ知れ渡ってきた。特にスコット・マンデルカー博士は、この分野の専門家。「ワンダラー現象の研究」を博士論文のテーマに取り上げて以来、この分野を専門的に研究していることで知られている。

そんなマンデルカー博士が「私にとって、バイブルのようなチャネリング文献」、「これさえあれば、他のチャネリングは要らない」と絶賛しているのは、「ラー文書」。1981年から収録が始まった、チャネリング界の古典のひとつだ。ワンダラーに関する情報は、ラー文書のおかげで飛躍的に広まった。
 
でも、ワンダラーの話が出てきたのは、ラー文書が初めてではない。もっと前から、この話は出ていた。本場アメリカだけでなく、この日本でも、実は60年代から唱えている人たちがいた。それは、渡辺大起氏の「オイカイワタチ」だ。これは、60年代に出版されている。「ラー文書」より20年も早い。
 
とはいうものの、渡辺大起氏のいう「ワンダラー」は、本ブログの主旨とはちょっと違う。この場合のワンダラーは、「地球を救う使命を帯びた、特別な宇宙人の魂」と言う感じ。どちらかと言えば、意識が覚醒した「救世主」という雰囲気だ。それに対して、意識が覚醒していない、普通の(?)宇宙人の魂のことは、「塩漬けのリンゴ」と呼ばれている。本ブログでいう「ワンダラー」というのは、主にこちらを指している。

60年代といえば、「アセンション」について、日本はもちろんアメリカでもほとんど知られていなかった。それどころか、あの「1999年7の月、恐怖の大王が降ってくる」で有名な「ノストラダムスの大予言」でさえ、まだ知られていなかった。にもかかわらず、「オイカイワタチ」には、「本当に重要な変革は、2010年代に来る」と、書かれている。2000年以降に出版されたのかと錯覚するくらい、驚くほど先駆的な内容だ。
  
そんな、オイカイワタチ。本としては絶版になった。その代わり、インターネットの電子文書となって無料で読める。もっとも、今では渡辺大起著「宇宙からの黙示録」という文庫本にまとめられている。

80年代のアメリカで流行しはじめ、日本にも広がってきたアセンション思想を、日本で、マイナーながら大幅に先取りしていた「オイカイワタチ」。なんとも、不思議な先駆者がいたものだ。
 

地球人類のエゴ

2012年08月23日 | 精神世界を語る
 
地球は、お世辞にも生きやすいところとは言えない。なんで、こんなに生きにくいのか。理由はいろいろあるけど、最大の理由はやっぱり、個々の地球人のエゴだろう。これには、強烈なものがある。幼少のころから、地球人同士がエゴをぶつけ合って生きる姿には、本当にビックリさせられた。

これでも地球人類の社会がなんとか成り立っているのだから、その意味では「奇跡の惑星」と呼ぶに値する。まあ、無数の人間たちがエゴをぶつけ合って暴発寸前とはいうものの、かろうじて利害調整が成立し、スレスレのところで踏みとどまっているということか。それにしても、無理のある世界だ。こんな奇妙な世界があるということ自体、まさしく、事実は小説よりも奇なり。

どうして、地球人はこんなにエゴが強くて、いつも混乱しているのか。いろいろ言われているけど、結局のところ、「地球人類は、まだ動物から進化して日が浅いからである」・・・というのが、筆者の意見。
 
というのも、動物たちは、いつも食うか食われるかの生存競争を繰り広げている。常に、食ったり、食われたりしている。

今は、夏の終わりの時期。セミの声も、だんだん静かになってきた。それに代わって、スズムシの季節が目の前に来ている。あちこちで、セミが地面に落ちてジタバタとモガいている姿を目にするようになった。セミの生命は短い。セミが、幼虫として地中で6~7年の歳月を過ごすことは良く知られている。晴れて成虫になり、夏の主役としてミーンミーンと声高にデビューするまでには、それだけの暗くてジメジメした日々があるというわけだ。それなのに、活躍できる時期はホンの2週間かそこらしかない。それでも、2週間の天寿を無事に過ごせれば、まだマシなほうだ。

先日も、クモの巣に引っかかったセミが、ミーンミーンと大騒ぎしていた。そこにクモが近づいてきたため、セミの騒ぎ声はいっそう大きく、耳をつんざくような響きになった。やがて、急に声が止まって静かになった。クモにトドメを刺されたようだ。せっかく、短い夏を精一杯に生きていたというのに、ああ無情。もちろん、セミの代わりなど、いくらでもいる。それでも、セミの悲痛な声(?)は耳に焼き付いて離れない。

動物たちも、魚たちも、その他の多くの生き物たちも、大なり小なり、食うか食われるかの競争を繰り広げている。見た目はジッとして動かない植物たちでさえ、水面下では激しい陣取り合戦を繰り広げ、根を下ろすのに有利な場所を奪い合っている。生存競争に敗れたものは、いつのまにか地上から消えていく。
  
結局のところ、人類の激しい闘争も、こういう生物の生存競争の延長上にある。
 
もっとも、「いや、争いが絶えないのは人類だけだ。動物や植物たちは、大調和の中で共存共栄しているのだ」という声も、よく聞かれる。
 
つまり、動物や植物たちは、ミクロの視点で見れば血みどろの食い合いを続けているのだが、マクロな視点から見れば、自然界が全体として大調和している。お互いを殺して食い合い、栄養源にして生き延びるというのは、よくできた食物連鎖のシステム。その中で、皆が共存共栄しているというのだ。ああ、地球を創造した神様の、なんと広く深い、愛と慈悲であることか。それに比べて、創造主のお心も知らず、はてしない争いを繰り広げているのは人類だけなのだという。

確かに一理あるんだけど、それを言ったら、人間の社会も同じことなんじゃないか(笑)。地球人類の社会は、どこを見ても争いばかり。でも全体としては、とにもかくにも商品を売ったり買ったり、いろんなサービスを提供しあったり、分業で社会が成り立っているのも事実。ヒトは、一人では生きられない。動物や植物の自然界と同様、見方によっては全体が共存共栄しているとも言える。

ただし、「共存して社会が成り立っている」というのは、うわべだけでしかない。地球人類の社会は、どこもかしこも、バラバラに分裂して崩壊寸前だ。それは今に始まったことではなく、大昔から、ずっと続いている。しかも、崩壊寸前で踏みとどまっているのならいいんだけど、それはいつまでも続かない。実際に、しょっちゅう崩壊して大混乱になってきた。人類の社会は、たとえ表面上は安定しているように見えたとしても、そのうち必ずバラバラに分裂して、収拾不能のカオスになる。でも、心配ない。世の中は、たとえ崩壊しても、やがて再建されるからだ。戦乱・飢餓・疫病・・・その他で何もかもブッ壊れ、メチャクチャになった土地に、別の人たちが流れ込んできて、また国家や都市が再建される。有史以来、人類はずっとそれを繰り返してきた。常に、崩壊したり、再建したり・・・の繰り返し。それが、地球人類の歴史だった。
 
これまた、自然界の動物や植物たちも一緒。ある者が食い尽くされてポッカリ空いた場所に、別の者が進出してきて穴を埋める。常に、その繰り返し。そうやって、地球環境そのものは終わることなく続いてきた。でも、そこで生きる者にとっては、あまりにもキツい。

残念ながら、地球人類の意識の進化段階は、まだ動物から進化して日が浅いレベルにある。大半の地球人類は、まだまだ自然界の生存競争を引きずっており、動物の本能に近い意識で生きているというのが実情。よく怒ったり暴れたり、攻撃的なのは、そのせいだ。

これは、筆者だけの意見ではない。かの高名なる「20世紀最高の聖者」ことJ・クリシュナムルティも、「人類の凶暴さは、野生動物の意識を引きずっていることに原因がある」とたびたび指摘していた。トラやオオカミたちは、草食動物を追いかけては、鋭い爪と牙で引き裂いて真っ赤な肉塊に変えてしまう。その姿は、戦争や犯罪にしばしば見られる人類の凶暴さと、どれほどよく似ていることか。

「地球の人類は、神様のお心を忘れてエゴにおぼれ、堕落してしまいました」というのも一理あるとは思うけど、現実を観察する限りでは、そうは見えない。つまり、地球人類が、「昔に比べて堕落した」とは思えない。どちらかといえばむしろ、「以前と比べたらマシになってはきてるけど、まだまだ、このレベルまでしか来ていない」と見るのが当たっているように思う。

だが、それも永遠に続くわけではない。いまや、地球人類の意識は急速に進化している。大半の人類の、相変わらずな生き方を見る限りでは、「ホントかよ・・・?」と思えるかもしれない。でも、あえて「本当だ」と言わせてもらいたい(笑)。
 
 

改めて、思う

2012年08月05日 | こっくり亭日記
   
お久しぶりです。またしても更新が止まってました。しかも、たまたま芸能人ネタのとこで止まってたおかげで、なんだか別のジャンルのサイトみたいになってるし(笑)。
  
早いもので、もう2012年も後半に入っている。あいかわらず、暑い夏。とくに九州の猛暑がひどいみたい。九州は、大雨でも大変なことになっていた。
 
こうしている間にも、地球人類の意識進化は急加速している。バイブレーションが上がる一方なのが、ヒシヒシと感じられる。

とはいえ、多くの人々は、まだ昔ながらの価値観を引きずっている。地球がなかなか良い環境にならないのは、そのせいか?

それにしても、地球で生きていくのは大変だ。よく、「神様、私を生かしていただいて、ありがとうございます」という風に言ってる人たちがいるけど、それを見るたびに違和感をおぼえる。こんな地球で「生かされている」ことに、よく感謝する気になれるものだ。信者諸氏は、よほど恵まれた人生を送っているのだろうか?
 
もしかすると、すでに地球は「ネガティブ地球」と「ポジティブ地球」に分離しているのかもしれない。そして、自分が今いるところこそ、「ネガティブ地球」なのかもな?
 
もうすでに、自分の乗った地球列車は、ネガとポジの分岐点をすぎて、ネガティブ・ワールドの奥地に向かって疾走中なのかもしれない。「地球列車にご乗車の皆さま、オツトメご苦労さまです。次の停車駅はネガティブ一丁目、ネガティブ一丁目でございます・・・」といったところか。

でも実際には、たぶん、そうではない。というのも、今の地球は、これでも過去の地球と比べれば、かなりマシな世界になってきているからだ。

過去の地球のどの時期を見ても、「この時代の地球に生まれてみたいものだな」と思えるような時代や地域は見当たらない。タイムマシンがあったら、ちょっと見に行ってみたいとは思うけど、自分自身がそこに生まれて生きていくなど真っ平だ。

地球人類はいつも野蛮で、こん棒で殴りあったり、槍で突き刺しあったり、銃で打ち合ったり・・・。そんなことばかりやってきた。地球人の肉体でそんなことをするのは、あまりにも痛くて苦しいのだが、多くの地球人は「勇敢」というか、なんというか・・・。まったく、「よくやるよ」と舌を巻くしかない。

もちろん、表面的には平和に見える時代もあった。でも、そんな時代だって、一部を除いて、大半の人々は悲惨な暮らしで苦しんでいたのだ。それに加えて、人類同士の殺し合い以上に、地球環境そのものが荒っぽい。日照りや暴風雨、地震や火山の噴火・・・。平和な時代には人口が増えるので、天災による飢餓や疫病の脅威はますます大きくなる。
 
それに比べて、現代のわれわれは、日本を始めとする多くの国々で、かなりマシな世界に生きているのは確かだろう。
  
その代わり、熾烈な経済競争が続いている。これはまさしく、サバイバル合戦。日本では年に何万人もの人々がウツ病になって自殺しているが、原因の大半は、失業や倒産など、おカネさえあれば気にしなくてすむような問題ばかりだ。地球で生きていくためには、おカネがないと困る。おカネがないと、とても困るように出来ている。
 
それ以前の問題として、古代インドでお釈迦さまが言っていた「四苦」、つまり、「生・老・病・死」の苦は、まったく解消されていない。確かに平均寿命は長くなったけど、昔だって長生きする人はいた。今だって、早死にする人はいる。平均的に長くなっただけで、人が死ななくなったわけではない。

余命が長くなった分、老化や病気の脅威は、むしろ長引いている。地球の人生では、若い時期など極めて短い。花に例えれば、開花の時期がとても短くて、枯れてきてからが非常に長いので、バランスがあまりにも悪い。余命が長いのは、どちらかといえば深刻な脅威だ。「高齢化社会」の問題がいつも騒がしいけど、「人口の2人に1人が年金生活者」というような社会は、たしかに無理がある。「移民の受け入れ」なんかじゃ、問題の先送りに過ぎない。本当に根本的な解決と言えるのは、「老化を遅らせる」こと以外にないだろう。

早くも脱線しまくりだけど、要するに、地球で生きていくのはキツい。それでも、人類の意識進化は加速している。地球は、急速に変容しつつある。ワクワクする時代の到来だ。芸能人ネタで止まっている場合ではない・・・(笑)。
  
(つづく)