波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに   「納涼祭」

2014-08-15 07:02:29 | Weblog
今年も夏祭りの季節がやってきた。7月の下旬に行われる隅田川両国の花火大会も今年は天候に恵まれて無事に終わった様で何よりだった。(昨年は雨で中止)8月に入り一斉に各地で花火大会や夏祭りが行われている。しかしこれらの祭りが個々に聞いてみると内容が少しずつねんねんかわりつつあるようだ。
ある町会で聞くと祭りに使う経費を寄付で賄うのは恒例なのだが、今年はその寄付金を
「千円以上でお願いします」と条件がついたそうである。つまり千円以下は受け付けないでそれ以上をお願いすると言うことらしい。これでは中には「貧者の一灯」をしていた人
の好意を無にすることになるし本来の寄付と言う厚意に反する気がするし中には「それではうちでは出来ません」と言うところが出ても止むを得ないことにならないだろうかと要らぬ心配をしてしまう。
そんな中で昨年も招待を受けて近所にある「特別養護施設」の職員によるその病人と家族をねぎらう「納涼祭」に出かけた。昨年と内容も工夫して経費節減してあり、今年は
手つくりの小さなやぐらの周りを全員で踊る盆踊りと手つくりの花火大会であった。
各階ごとの病人と家族そして担当の職員による小さな輪が出来て、車椅子を引きながら手をたたき、うちわを振ってうれしそうに踊っている姿、そしてその最後の打ち上げ花火を見上げて無邪気に歓声を上げて喜んでいる姿を見ているうちに目頭が熱くなるのを禁じえなかった。その中に昨年も中年の娘二人に抱きかかえられて車椅子に座っていたおばあちゃんを見つけて「昨年もお会いしましたね。今年も元気な何よりですね」と声を聞けると
うれしそうに笑っていたのが印象的だった。来年も又元気な姿でお会いすることを願いながら帰宅したのだ。
祭りと言うと華やかさ賑やかさ、景気のよさなどを潜在的に感じるものだが、今年は総じていささかその中にも地味さを感じた気がしている。これも今年の景気を無意識に敏感に反映して影響を受けているのかもしれない。
そもそも祭り自体そんなにお金をかけて大規模にするものだろうかと言うことを原点に返って考えても良いのではなかろうか。上記の寄付金の問題ではないが大事なことは
町会であれ、ホームであれその祭りに参加する人が心からその時間を楽しみそしてその楽しみを共有することにあることを大事に考えてマンネリ化した内容で終始することではないことも考え合わせることも大事であろう。そこに魂がこめられてこそである。
それがない祭りはむなしい線香花火となってしまうのだろう。