波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに

2012-06-05 09:31:53 | Weblog
「いわしの頭も信心から」「困ったときの神頼み」という言葉がある。これらは非科学的であって、根拠がなく返ってこれらは
科学の進歩の足を引っ張り、良いことではないという人がいる。しかし実際には信心とか、信仰というものは存在している。
それではこれらのことをどう考えればよいのだろうか。簡単に言えば信心と科学を同じレベルで考えることが矛盾しているし、間違っていることに気づかなければならないだろう。それは例えて言えば、お天気の悪い日が続いて心がくさくさして暗い気持ちになっているときに、突然明るい日差しを浴びてほっとするようなものである。その明るい日差しを浴びたときに「アー気持ちが良い。」「温かいなあ」「明るくて、気持ちが良い。」「何となくほっとして安心する」そんな気持ちになるのではないだろうか。そして全ての物事が少し冷静に見えるようになり、困っていたことや悩んでいたことでも穏やかに考えられるようになり、冷静に判断し行動できるようになる。
この無意識におきてくる「冷静に」という考えが生まれてくること。これは人生において理屈ではなく、ある意味非常に大きい意味を持っていることを考えたいのだ。
ユダヤ教では「不貞を働いた女は石を持って殺されても仕方がない」という教えがあったと言われる。ある日の朝、一人の女が不貞の現場を見つけられ広場に連れ出され多くの人に石を持って取り囲まれた。そして今にも全員の石の裁きにあわんとしたとき一人の男の声がした。「今までに一度も悪いことをしたことがないと自信のある人から石を投げなさい」というものだった。
すると、取り囲んでいた人のうち年老いたものの一人が抜け、暫くするうちに女を取り囲んでいたものが一人もいなくなっていたという話がある。
この事から人は初めから正しい者も、完全に善を行うことが出来る人はいないことを示していると思う。そして同時に自分自身の弱さや他人の弱点を見つめて、それを許す気持ちを持つことも出来るようになると言うことでもある。
もし、この世で賢く、正しく良くものの道理が分かり、心の強い人がいたとしたら、その人は様々な問題の中で事毎にぶつかり
解決できないことで大いに悩むことになるだろう。
むしろ自らが愚かで弱いものであることを弁え、知っていることの少ないことをしっかり認識していることの大事さを学ぶのである。

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