波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに 

2012-06-12 10:53:15 | Weblog
「告解」という言葉をお聞きになった事があるだろうか。キリスト教において罪の赦しを得るのに必要な儀礼や告白といった行為のことを言うとある。映画やテレビでも良く見かけるシーンでそれによると、教会内の小部屋に仕切りがあり、お互いに顔を
見ることなく話せるようになっている。そこで司教(牧師)と信徒が座り、牧師は信徒から告白を聞く。その内容はどのような事であっても外部に漏れることはなく、守秘義務によって守られる。そして信徒はその告白行為によってその罪が赦されると言う事である。
この世の生活を続ける上で人は悪いことをしないで生きることは不可能とされているがその内容も厳密に分けると二種類になると思う。一つは法律によって定めれたことを破ったことで「人間の法廷」つまり裁判所で裁かれるものともう一つは法律では裁かれない内容のことである。後者については一般的には個人個人の感覚でそれを意識しないでいることが多いので、当人は悪いことをしたという意識は残っていない場合が多い。例えば自分が悪いと思いつつ言ったり、したりしたのではなくても、相手の他人を傷つけることがあるということなのだ。こういうことは人が生きている限り、避けられないことであり仕方がないことかも知れない。しかし人間というものは自分がした事は忘れても他人に傷つけられたことは執拗に覚えているものだということなのだ。私自身もこの後者の罪については若い頃から経験することが多く、今でも後悔の念を持って覚えていることがある。
それは会社においてトラブルの原因調査で担当者のある若者を強く糾弾しその責任を追及したことである。後年ある会合で
その担当者と会い、「あの時はとてもショックを受けました。ちょうど結婚して間がない頃で横で寝ていた妻に起こされて
ずいぶんうなされているけど大丈夫なのと言われました。良く考えたらその時受けた注意の叱責が原因でした。」
と言われ、そのときの当事者として注意した自分を恥じて本当に気づかなかったとはいえ、申し訳ないことだったと詫びたことでした。人は誰からも「いい人ですね」と思われたいと思っている。しかし、本当にそう思われることを考えると、とても身が持たないことが分かるはずだ。むしろ逆に「自分は良くやったと思わない」と考えていたほうが人間らしく、自然であり、
無意識に犯した罪も神の前に告白することで赦されると考えられるほうが人間らしいのではないだろうか。
エルビス・プレスリーの歌に「あなたに(神)打ち明けた罪とあなたにも隠した罪とをどうか赦してください」というフレーズがあるということを読んだことがある。