波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

思いつくままに

2010-10-06 09:40:12 | Weblog
「こんな場合、どうすればいいだろう。」そんな思いで立ち止まって考え、悩んで困った経験を誰もが一度や二度はしたことはあるだろう。私もいくつかの経験があるが、戦争で家が焼かれた時、何処へ逃げるかとなりあれこれ迷った挙句、父の指示で公園へ向かった。その滑り台の下で一夜を過ごし、助かった。この時、劇場、学校、病院などの建物の中へ逃げた人たちは殆ど焼死したと言われた。また弟が仕事の帰り、車を運転して帰ったが、その運転中のことを一切記憶せず、何処をどうして帰ったか覚えていないと言う。検査の結果脳炎を発症していた。その他にもそれぞれの人がその人生において様々な経験を持っていることだと思う。それらをある人は神による信仰で生きている。しかしその人を見てそれは単なる「神がかり」でちゃんとした自分の判断力を持っていて、主体性があればそんな事をする必要は無いとする人もいる。どちらの生き方を云々する前に果たして人間は本当の意味においてすべてを見抜く力を持ち、かつ、その意思通りに主体性を持って動けるものだろうかと言うことを考えたい。人間は生きていてすべてを自分で決められると思い、自分で判断し行動する。しかし、よく冷静に考えて人間が自分の自我によって主体性を持てると思っていることは非常に僅かな小さな部分であるか、あるいは錯覚でしかないことを知らなければならない気がする。それならどうせ人間はその程度のものなら何もかもどうでも適当でいいのか。
自分の意見などもたないで、あなた任せでいいのか、そうではない。人間のすること、見ること、考えることは蟻なみで暗いからこそ私たちは励んでその僅かな眼力を死に物狂いで
研ぎ澄ます努力をしなければならないのだと思う。
そうすれば、人は他人の意見を謙虚に聞くことが出来るし、自分の知らないこと(そんなこと知っていると言う前に正しい意見を改めて聞く思いで)を正しく知ることが出来るし、それよりも何よりも相手から喜ばれることになるだろう。それはある時は神が人を通じて知らせる神の声であるかもしれないからだ。
行楽の秋であり、読書の秋であり、食欲の秋である。そして一年を通じて実りの秋でもある。人それぞれにこの秋を満喫するとともに何かを実らせる秋としたいものである。